高千穂ひづる

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高千穂 ひづる(たかちほ ひづる、本名;大瀬 郁恵、旧姓;二出川<にでがわ>、1932年10月10日 - 2016年2月27日)は、日本の女優兵庫県出身。愛称は「イクちゃん」。

人物・来歴

プロ野球審判員二出川延明を父に出生。

西宮市立大社小学校を経て、1947年神戸女学院中学部卒業後に宝塚音楽学校入学。1948年宝塚歌劇団35期生として宝塚歌劇団入団。同期生に男役トップスターとして活躍した寿美花代水代玉藻らがいる。宝塚入団時の成績は46人中3位[1]雪組[1]に所属し、娘役[1]として活動した。最終出演公演の演目は雪組公演『シャンソン・ド・パリ[1]』である。

タカラヅカを1952年8月31日[1]で退団後、松竹に所属。

翌年より東映へ移籍し、1957年まで所属。

時代劇でのお姫様役で人気を得て、それは宝塚在籍時以上だった。

松竹に復帰後は『ゼロの焦点』『背徳のメス』(この2作でブルーリボン賞助演女優賞を受賞)や現代劇のメロドラマなどで大人の女性を演じた。

1956年(昭和31年)3月7日イタリアローマで同3月12日から18日まで開催された日本映画見本市に出席のため、青山京子らと共に東京国際空港からスカンジナビア航空機で出発。同3月23日、帰国。日本出発時の飛行機のタラップ(屋根なし)での写真が現存する。当時はまだ海外渡航自由化の遥か前で、大変貴重なヨーロッパ訪問となった。

1964年に『月光仮面』の祝十郎役で知られる俳優の大瀬康一と結婚。しかし、このころ球界に距離をおき起業し、事業に専念していた二出川たっての懇願で大瀬と共に芸能界を完全引退。二出川存命中は彼を補佐する形で、二出川逝去後は二人が主力となり社業を守り今に至る。

一時は全く公の場に出ていなかったが、2000年代以降は、過去の出演映画を題材としたトークショーに時折出演している。2010年8月7日には、東京・池袋の新文芸座で開催された『映画監督内田吐夢没後40年回顧 「命一コマ」 巨匠・内田吐夢の全貌』のトークショーに出演した。

2017年6月、既に亡くなっていることが明らかになった[2]

人物・エピソード

本人によると出演映画は二百本に上り、うち百本ほどが時代劇といい、「いつの間にかお姫さん女優にされていた」という。「お姫さん役といっても、割合意地っ張りだったり、わがままな個性を出すようにしました」と語っている。

昭和28年から30年にかけての東映時代劇では、高千穂と千原しのぶ田代百合子の三人がほとんどの時代劇にぐるぐると出ていて、「その時期はすごく充実し、自分ながら燃えていた」そうで、夜行列車で京都と東京を往復したり、半徹夜で一週間近く過ごしたこともあったという。無理がたたって目を傷め、涙が止まらない病気になったこともあった。

昭和30年の『織田信長』(河野寿一監督)で、中村錦之助と共演、例によって夜行列車で京都のセットに飛び込んだが、疲れと夏の暑さでセリフの半分も覚えておらず、すべて準備万端のなか高千穂だけが神経をピリピリ、イライラさせている、という極限状態で、監督が「NGを出すとフィルムがないんだ、頼むよ!」と一声。「崩れそうだった気持ちがピーンと立ち直ることができました」と述懐している。共演の錦之助については、「やはりこの人は本物だなあ」と感心したと語っている。

東千代之介とは、昭和29年の千代之助のデビュー作『雪之丞変化』(河野寿一監督)から共演。「嬉しい思い出」として、映画初出演の千代之介がラブシーンでコチコチになり、そのうえお腹が出っ張っていてうまくいかず、大笑いしたことを挙げている[3]

主な出演作

映画

テレビドラマ

バラエティー番組

著書

  • 『胡蝶奮戦 スターたちと過ごした日々』(高千穂ひづる・著、藤井秀男・編 エコール・セザム 2008年12月)ISBN 978-4902431049

関連書籍

  • 「君美わしく 戦後日本映画女優讃」(川本三郎著。文藝春秋。川本による高千穂を含む女優達のインタビュー集)

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 『宝塚歌劇100年史 虹の橋 渡り続けて(人物編)』P44。監修:小林公一阪急コミュニケーションズ2014年4月1日)ISBN 9784484146010
  2. 報告 日本映画映像文化振興センター Twitter 2017年6月5日閲覧
  3. 『週刊サンケイ臨時増刊 大殺陣 チャンバラ映画特集』「私とチャンバラ “ピーンとなった”こと」高千穂ひづる(サンケイ出版)

関連項目

外部リンク