騎手

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騎手(きしゅ)とは、馬に跨り、馬上から馬を操縦する人のことである。

競馬制度は国家・地域によって異なり、それぞれに独自の競馬文化と歴史を有し、開催運営や人材育成のシステムが築かれている。その中において「騎手」という意味の言葉が、競馬競走への参加に必要な資格ないし公的なライセンスとしての資格称号を指すこともある。

解説

競馬の場合、平地競走障害競走では競走馬の背に騎乗するが、ばんえい競走繋駕速歩競走ではそりや馬車に搭乗して操縦する。また騎手は自分の体重を含め指定された重量(斤量)で騎乗することが求められる。

英語で騎手を表すジョッキー (jockey) は、ジャックやジョンの蔑称であるジョックに由来する。ジョックは後にジョッキーと訛り、単に競馬好きや馬好きを表すようになった。かつてイギリスの競馬施行体であったジョッキークラブも元々は競馬愛好家の集まりである。現在の意味を持つようになったのは、騎手や調教師、馬主が分業されるようになった19世紀以降で、古い英語が残るオセアニア諸国などではライダーと呼ばれることが多い。繋駕速歩競走ではドライバーと呼ぶ。また日本では俗称として乗り役とも言う[1]。そのほか「JK」や「J」との略称も使用されている。

競走中における騎手の仕事は、競走馬を正しく操縦して決勝線に到達するまで可能な限り全能力を発揮させることであると言えよう。騎手が落馬しても落馬した地点に戻って再騎乗しなければ、規則上、決勝線に到達しても正規の到達とはみなされない。従って、馬が落馬した地点にとどまっていなければ競走中止扱いとなる。

日本における免許制度

競馬法に基づき、農林水産大臣の認可を受けた日本中央競馬会(JRA)と地方競馬全国協会(NAR)がそれぞれ試験を実施、免許を交付している。JRAの競馬学校、NARの地方競馬教養センターの騎手課程を経て、受験資格を得るのが一般的である。国家資格である。

受験資格は受験日時点で16歳以上の者であるが、さらに以下に記載した事項に該当するものは受験できない[2][3][4]

など(詳細については出典を参照のこと)。

中央競馬、地方競馬ともに有効期限は1年で、続けて騎乗する場合には試験を受け、免許を更新する必要がある。現行の制度では調教師免許などと同時に取得することはできない。中央競馬では平地競走障害競走で、地方競馬では平地競走とばんえい競走でそれぞれ免許を交付している。

免許更新は中央が3月1日付、地方は所属する場により2015年以降年3回に分けられ、4月1日(南関東)、8月1日(金沢、笠松、名古屋、兵庫)、12月1日(ばんえい、北海道、岩手、高知、佐賀)付となる[6][3][4]。また不合格になった者は翌年の同じ回より前の試験は受験できない[6][3][4]

中央競馬の騎手免許では、2009年までは競馬学校出身者、地方競馬全国協会の騎手免許を受けている者であって『本会の定めた基準』に該当する者、それ以外で分けられていたが、2010年以降は競馬学校出身者、地方競馬全国協会の騎手免許を受けている者、それ以外の3種類に変更された[注 1]

短期騎手免許

指定競走・交流競走・特別指定交流競走で騎手免許がない競走に騎乗する場合には、試験なく「その競走に限定した騎手免許」が交付される。日本国外の競馬で騎乗している騎手に対しては、日本国内の調教師・馬主を引受人として臨時に行われる試験に合格した上で、1ヶ月単位の短期免許を1年の間に3ヶ月間まで交付する。詳しくは短期免許の項目に譲る。

ダブル免許制と安藤勝己

2003年2月までJRA・NARの免許を両方持つ騎手は存在しなかったが、2003年2月に当時笠松競馬場所属であった安藤勝己がJRAの免許試験に合格し、同時にNARの騎手免許の取消願を提出した。

この時、NARはダブル免許を容認し、中央競馬の免許の取得による免許の取消には応じなかったため、2003年3月1日から安藤はJRAとNARの両方の免許を所有することとなった。この時点でJRAは、地方競馬の免許で騎乗した場合には中央競馬の免許を取り消すとしていた。さらに、安藤がNARの交流競走に騎乗した時には、地方競馬全国協会はすでに免許があるとして、短期免許は交付しなかった。したがってJRAは特例として認めざるを得ない状況になり、特例を適用した。

その後、2003年6月16日に地方競馬全国協会は、安藤のNARにおける騎手免許を取り消したため、この特例は解消された。

調騎分離

現在、中央競馬及び地方競馬では騎手免許と調教師免許を同時に持つことはできない。つまり、調教師が自分の管理する競走馬に乗ってレースに出走することは現行の規定では不可能である。

1930年代以前は「調教師兼騎手」は珍しい存在ではなかった。一例を挙げると大久保房松などは、管理馬に騎乗して日本ダービー制覇を達成している(1933年、カブトヤマ)。調教師と騎手の業務が分離されるようになったのは、1937年日本競馬会競馬施行規定が規定されてからである。ただしこの規定は、日本競馬会発足以前に免許を受けていた調教師(騎手)に対しては、1942年12月31日までは猶予期間とされたため、猶予期間中は引き続き調教師が騎手としても騎乗することができた。

なお、戦後の一時期も調教師が騎手を兼務することが可能であったが、1948年より調騎分離が厳格に適用されることになり、調教師と騎手の兼務が不可能となり、現在に至っている。

ばんえい競馬においては平地競馬よりもかなり遅く、1978年度より完全実施されている。

外国人と騎手免許

日本国籍を持たない騎手に対する免許制度としては、1994年より短期騎手免許制度が設けられているが、前述のとおり短期免許では騎乗期間が年間で最大3か月間に限られる。これに対し、外国人騎手からは「年間を通じて騎乗できる免許を発行できるようにして欲しい」との要望が以前からあり、これを受けてJRAでは2014年度の騎手免許試験より外国人騎手に対する通年免許の発行を認めることになった[8](試験の詳細については後述)。なお外国人騎手が中央競馬の通年免許の発行を受けた場合、当該騎手は「年間を通じて中央競馬で騎乗すること」が必須要件となる。

2013年10月に行われた1次試験ではミルコ・デムーロ(イタリア)が試験を受験、外国人騎手によるJRAの騎手試験受験第1号となった[9]が、この年は不合格となった。

2015年にミルコ・デムーロとクリストフ・ルメール(フランス)が騎手免許試験に合格[10]。外国人騎手として初めてJRAの通年免許を取得した[11]

その後、ダリオ・バルジュー(イタリア)が2015年と2016年の2回、JRA騎手免許試験の1次試験を受験した[12]が、2年連続で不合格となった。

母国と日本の騎手免許併用の可否については、国により差異があり、併用ができないフランスの騎手免許を取得していたルメールはJRA通年免許の取得にあわせてフランスの騎手免許を返上している[13]

騎手の養成

平地競走の騎手は着衣や馬具を含めて50数キロ(日本の場合、最も軽いケースで48キロ)での騎乗が求められることから、特に体重に関しては並の職業の比ではない厳しい自己管理の技術を必要とし、なおかつ馬に乗り操縦し競走を行うための専門的な騎乗技術が必要である。また、競馬関連法規や騎手としての競走の公正確保のために必要な知識や情報を学習することも必要である。

従って、一般の素人がある日いきなり騎手になるということは極めて困難であり、よって専門的な養成が必要なスポーツである。そのため、競馬を開催している国や地域毎に騎手業のライセンス制度が整備されており、日本も含めて競馬が開催される国の大半には騎手養成のための教育機関や養成所が設置されている。他方、養成機関を経由せず、競馬場や厩舎、あるいは競馬関連産業で競走馬の扱い方を身に付けた人物が、技能試験を受けて騎手となれるシステムが整備されている国・地域も多い。

ばんえい競走の騎手重量は77キロで統一しており、比較的重めに設定していることから過度に減量を行う者は少ない。

養成機関

日本の場合、中央競馬では1982年、騎手養成機関として千葉県に競馬学校が設立され、騎手課程が設けられた。養成期間は3年間。かつて騎手養成機関は馬事公苑に設置されており、騎手候補生が騎手講習会(長期講習と短期講習とがあった)を受けた後、騎手免許試験を受験する制度が採用されていた。

競馬学校の受験資格は、年齢は義務教育卒業から20歳まで。このため騎手課程の場合は現役の大学生や短大卒・大卒は受験が困難か不可能である。体重は育ち盛りの年頃であるため、入所時に44キロ以下。

地方競馬では栃木県地方競馬教養センターがある。ここの騎手養成は2年間の長期課程である。かつては短期養成課程が存在したが、これは主に競馬場での厩務員調教助手などの経歴者、並びに日本国外の騎手免許を取得しレースに出走した騎手を対象としたものであったが、岡田祥嗣のように経歴がなくても短期養成課程出身と言う例外もある(幼少期より馬に跨り、かつ岡田の父が厩務員をしていたこともある理由から)。

地方競馬のうちばんえい競馬については、騎手を養成する専門機関は存在しない(地方競馬教養センターに養成部門がない)。ばんえい競馬の騎手を目指す者は、ばんえい競馬の各厩舎において基礎技術を習得し、ばんえい競馬が独自の内容で開催している騎手免許試験を受験する。詳細はばんえい競走#騎手を参照。

どちらの機関でも、卒業前に騎手免許試験を受験して合格し、騎手免許を取得した上で、晴れて騎手となる。試験である以上、不合格となり騎手免許が取得できない事態、試験前の負傷・疾病で受験ができないという事態も起き、この場合に騎手になるためには、次の機会を待ち再度受験する必要がある。騎手免許の取得は中央競馬では3月1日、地方競馬は4月1日を基点(平地の場合。ばんえいは1月1日が基点)としているが、年に複数回の騎手免許試験が実施される地方競馬では年度途中の騎手デビューも珍しくない(平地の場合。ばんえいは年1回)。

日本以外の国での場合、日本と同様に専門の養成機関を主体とした騎手養成を行う地域、厩舎で徒弟修業を行い実践で騎乗技術を身に付けるという制度の地域、民間による騎手養成所が各地に設置されている地域など、地域毎に騎手養成方式は様々である。また、そのライセンス取得に至るまでの育成も、日本の様に少数精鋭主義を取り、最初の養成機関の入学試験から卒業までの時点でふるいを掛け続けて、徹底的に絞り込む「狭き門」であるところから、豪州のように、騎手養成所のカリキュラムを修了し、騎乗技術と公正確保に支障のない人物なら、騎手ライセンスを比較的容易に取得できる[注 2] ところまで様々である。

「一発試験」

騎手免許を統括するJRA・NARのいずれも、騎手免許試験については上記の養成機関への在籍経験を持たない人物でも、必要条件を満たせば受験自体は可能としている。

このため、上記の養成機関を経ずに、あるいは上記の養成機関に入ることができなくとも、あるいは中退を余儀なくされても、騎手として必要な乗馬技術を持っていれば、俗に「一発試験」などと呼ばれる形で騎手免許試験を受験することそれ自体は可能であり、合格すれば騎手免許を手にすることができる。ただ、これについては今までの実態として建前論的な一面があることは事実で、特に実地科目では一般的な乗馬技術だけでの合格点到達は現実的に見て不可能であり、何の準備もなしに一般的な乗馬や馬術の経験者が受験したところで合格の可能性は低い状況である。そのため、日本国外で競馬の世界に入り見習騎手等の形で騎乗経験を積むなどの手順を踏む必要がある。現在までにこのような手順で「一発試験」を突破し騎手免許を取得した者には、中央競馬では横山賀一、地方競馬では中村尚平笹田知宏の例があるが、非常に少ない。また、中村と笹田は帰国後に地方競馬の厩舎に入り調教厩務員を経験している。

また、特に地方競馬では、最初はまず厩務員として厩舎に入り調教騎乗などの実務の実践経験を現場で習得して調教担当厩務員などとなる、つまりは厩舎・競馬場での実践で受験に必要な技術を身に付け、その上で「一発試験」で受験→合格という手順を踏んで騎手となる方法がある。この厩舎で実務経験を積んで「一発試験」を受け騎手になったという経歴を持つ人物は数多いが、中にはJRA・地方競馬の騎手養成課程で中途断念を余儀なくされた人物が、再び騎手を志して厩舎に入り、「一発試験」を乗り越えて晴れて騎手免許を手にするケースも見られる。このような「再起」の経緯を持つ騎手としては石崎駿安藤洋一などの例がある。なお、これは一見すれば大きな遠回りをしている様に見えるが、JRA競馬学校騎手課程を中途退学後に地方競馬の厩務員を経て「一発試験」で騎手免許を取得した石崎駿のケースでは、結果的に同時に競馬学校に入学した競馬学校騎手課程第18期生よりも半年以上早く騎手デビューを果たすことになった。

「学士騎手」

騎手免許試験の受験資格には年齢の上限[注 3]が設けられておらず、かつての騎手養成機関の短期課程も騎乗技術を持つ事実上は競馬サークル内部の人間を対象としたもので、年齢制限が緩かったことから、「一発試験」やかつて存在した騎手養成の短期課程を経て騎手となった人物の中には、大学卒業後に縁あって厩舎に入り下乗りを経て騎手になるという経歴を辿った、俗に「学士騎手」などと呼ばれる人物がごく少人数ではあるが存在する。

いずれも元騎手であるが、JRAでは太宰義人山内研二、地方競馬では森誉船橋)・橋口弘次郎佐賀)・早川順一(足利)などの例がある。なお、他にもJRAの大久保正陽川合達彦、地方競馬では達城龍次が大学卒の学士騎手の範疇であるが、この3人は、騎手業と学業を両立させた上で大学を卒業したというさらに稀有な人物である[注 4][注 5][注 6]

外国人騎手・元騎手に対する試験

元々、何らかの事情で一度引退した騎手が「一発試験」で騎手免許を再取得し復帰するケースはしばしば存在した[注 7][注 8]。ただこの場合の受験資格は従来明文化されていなかった。これに対し2014年度のJRA騎手免許試験からは、外国人騎手の受験と同時に元騎手が復帰する場合の受験資格も明文化され、「過去にJRAの騎手で、騎手から直接JRAの調教助手または厩務員に転身したもの」以外は原則として試験の一部免除を行わないことになった[8]

2014年度の試験より、原則として元JRA騎手や外国人騎手については、一次試験のうち騎乗技術の実技試験が省略されるほか(外国人騎手の場合は体力測定も省略)、筆記試験も通常の騎手試験と内容が異なり、元JRA騎手については「競馬関係法規」のみ、外国人騎手の場合は「競馬関係法規及び中央競馬の騎手として必要な競馬に関する知識」のみとなる[8]。また一次試験を日本語ではなく英語で受けることも可能になった[8]。二次試験も外国人騎手については実技試験が省略され、代わりに技術に関する口頭試験が行われる[8](実質的には一次・二次とも地方競馬の騎手と同等の試験内容となっている)。ただし二次試験は全て日本語で行われるため、実際に試験を受験したミルコ・デムーロは一時騎乗を自粛してまで日本語の勉強を優先させ試験に備えた[14]

騎手の収入

騎手の収入は主に以下の2つに分けられる。

  • 競走に騎乗することで得られる収入
  • 所属厩舎での業務をすることによって得られる収入

競走に騎乗した際には、主に以下の2つが騎手の収入となる。

  • 賞金を得た場合には、その賞金の数%(日本の平地では5%、障害は7%)
  • 騎乗手当

従って、高賞金の競走に勝利するほど収入は多くなる。

厩舎の業務とは、調教時の騎乗がメインであるが、厩舎に所属している場合には厩舎の一員として、その他の厩舎の雑務一般も行う(競走馬の餌付け・寝藁の交換など)。厩舎の一員として仕事をする以上、厩務員などと同様、毎月厩舎より給料をもらう。なお競馬学校に在籍する騎手候補生は必ずどこかの厩舎所属になることが義務付けられており、騎手としてデビューする際も厩舎所属からのデビューとなる。

騎乗依頼

騎手は競走に騎乗しなければ始まらない。調教中心の騎手もいるが、騎手の最も大きな収入源は賞金からの進上金である。

騎乗依頼は主に以下のように決められることが多い。

  • 馬主と騎手の関係
  • 調教師と騎手の関係
    • 所属している騎手は当然として、同じ厩舎で働いたという関係で兄弟子、弟弟子などのつながりがある。
  • 負担重量(斤量)と騎手の関係
  • 成績上位の騎手
  • 当日、空いている騎手

この様な要素が複雑に絡みあって競走への騎乗が決まる。中でも同じ騎手に何度か続けて騎乗してもらう場合、主戦騎手と呼ぶ。中央競馬においてはエージェントを介在した騎乗依頼も行われており、騎手・エージェント・馬主の三者間の関係も重要である。

他方、幾ら騎手が小柄な人物の専売特許の様な商売とはいえ、減量しても体重と装備の合計重量が指定の斤量を上回る場合にはその馬に騎乗できない。そのため、特にハンデキャップ競走では極端な軽斤量となった馬でそもそも騎乗可能な騎手が限られ、主戦騎手が極限の減量をしても騎乗不可能という事態も多分に発生する。この場合「当日その競馬場で騎乗予定で軽斤量で乗れるから」という理由で、軽量の騎手に対してそれまで全く縁のない厩舎から突然に騎乗依頼が来ることもある。

日本国外では事実上の馬主専属騎手が存在するなど、多種多様の騎乗依頼方法が行われている。

競走当日に落馬負傷などの何らかの要因により乗り代わりを行う際に、日本では当日別のレースに騎乗予定があり、当該レースに騎乗しない騎手に依頼する。日本国外では当日全く騎乗がなく、競馬場のスタンドで観戦している騎手に依頼することがある。フランスにおいて武豊が落馬により左手骨折の重傷を負った際、競馬場のスタンドで見学していた池添謙一に乗り代わりの依頼があったが、道具を持ってきていなかったため武豊とオリビエ・ペリエから借りてレースに臨んだ。なお、池添はこれがフランスデビュー戦となった。

騎手に対する制裁

レース前あるいはレース中の騎乗に際し、騎乗した馬を制御できなかった(御法不良:みのりふりょう)ためにレースに支障を来したり、他の競走馬の進路を妨害するなどした場合、あるいは負担重量がレース前後の検量で発表していた斤量と大きく異なっていた場合、その他スポーツマンシップに欠ける騎乗や言動(無断欠勤、競馬施設内外での暴力行為なども含まれる)を行った場合などは、競馬法施行規定第126条・第1項の規定で制裁を受けることがある。

制裁はその内容によって過怠金(いわゆる罰金)が科せられる。審議により降着以上になるような悪質な場合には一定期間の騎乗停止(中央競馬の場合、基本的には馬の癖による斜行の場合は1日〜2日間、その他明らかに騎手の判断ミスなどによる場合は一般的には4日〜6日間までだが、悪質な場合それ以上の期間に延長される場合あり)を受けることになる(降着処分にならなくても騎乗停止処分を受けることはある。また当該の競走馬に対しても再調教をして調教検査に合格するまで出走停止の措置が執られる場合がある)。

またこれらの制裁はポイントにも置き換えられ、30点をオーバーすると競馬学校やトレーニングセンターで騎乗技術などの再教育を受けることが義務付けられている。具体的には

  • パトロールビデオを活用した技術指導
  • 競馬施行規程に関するテスト
  • 精神訓話
  • 基本乗馬技術の再教育
  • 性格テストの結果による精神面の指導
  • 特別講義

といった内容のカリキュラムが、制裁事由・制裁歴・技術の程度・年齢・通算騎乗数などを勘案した上で実施される。

騎乗停止の制裁は、中央競馬・地方競馬相互間および日本国外との競馬相互間でも適用される、騎手交流競走などで騎乗停止処分を受けた場合、それに準じて騎手の所属競馬団体でも騎乗停止の処分を受けることになる。

騎手の引退・殉職

騎手の仕事は肉体労働であり、加齢によって筋力や反応速度などが低下し、また基礎代謝の低下により体重・体力を維持し続けることが困難になることなどから、騎手としての責務を果たすことが難しくなっていく。また優勝劣敗の厳しい世界であり、成績と収入の両面で伸び悩んだ騎手はもとより、リーディング上位の常連として一時代を築いた騎手であっても全盛期を過ぎ騎乗数・勝利数・入着率、そして獲得総賞金額が減ってくれば収入は下がって行く。

従って一生にわたって騎手の仕事を続けることは難しく、本人が限界を感じたときなどに騎手としての免許・ライセンスを返上して引退し、何らかの形で第二の人生を歩むこととなる。例えば騎乗依頼が減り、収入が減ってくると年齢にかかわらず引退することもある。自分が所属していた厩舎の調教師が数年後に定年を迎えるなどの事情がある場合、その厩舎を引き継ぐ目的で調教師への転身を図ろうとする、すなわち調教師免許試験を受験する者もいる。リーディング上位の騎手であっても、支えてくれていた調教師や有力馬主の死去・撤退など、後ろ盾となる人間関係がなくなり成績・獲得賞金額が低下したことをきっかけに、騎手からの引退を検討する者は少なくない。

他方、騎手デビュー以降に予定外に身体の成長が続き、その結果として身長・体重が増加し若くして体重管理に苦しみ、負担重量などの問題から減量が自己管理の限界を超えて引退を余儀なくされる騎手も少なからず見られる。その中には、20代前半の若さであっても体重の問題で騎手業の継続が事実上不可能となり引退する者も少なくない。その中にはデビュー当初から優れた実績を挙げ才能を期待されていた人物も見られる。日本では中央・地方いずれにしても体重の下限が53kgを超えると、装備品などの重量の都合もあって下級条件戦や2歳戦での騎乗が困難になることが多い。JRAの場合は57kg程度で体重増加が止まれば、障害競走限定の免許を保持する騎手として活動を継続することが可能な場合もあるが、騎乗機会は大幅に限定される。さらに過酷なのは障害競走がない地方競馬で、体重と斤量の問題がそのまま騎乗困難に直結し若くしてやむを得ず引退を決断する者が少なからず見られる。さらには、過酷な減量を余儀なくされ、その連続の末に心身に変調を来たす騎手や、脳梗塞など重篤な疾病を発症して倒れ引退を余儀なくされるケースや、腎臓結石などの減量を著しく困難にする疾病を発症して長期的な健康面の観点から引退するケースも見られる。

騎手免許を返上した人物の第二の人生としては調教師調教助手厩務員などまず厩舎関係が第一に挙げられる。その他では後進の騎手の育成に携わる者、牧場での競走馬の生産・育成や競馬解説者・競馬予想家・馬運車・競走馬用飼料販売などの競馬周辺の産業に携わる者、さらにはまったく異なる職業に転身する者などさまざまである。特に中央競馬においては、負傷や不祥事以外で騎手を引退した者が引退と同時にJRAの組織から籍を抜き、競馬とは全く無関係の職業に転職するというケースは珍しく、まず縁のあった調教師を頼りその厩舎に一旦籍を置き調教助手になるという形で、その後厩舎スタッフとしての適性を見極めながら、改めてJRAの中でホースマンとして活動を続けるか、あるいはJRAの枠から飛び出して新天地を求めるかなど、身の振り方を考えるというスタイルが一般的である。前述の通り、騎手免許を返上した者でも騎手免許試験を受験することは可能であり、一度は調教助手に転業した柴田未崎のように騎手に復帰した事例もあるが、このような事例は世界的に見ても非常に少ない。調教師の仕事は騎手の仕事とは本質的に異なるため、佐々木竹見(NAR)や岡部幸雄(JRA)などは調教師への転身の道を選ぶことなく引退したが、この両名にしてもその後は統括団体に関与する形でホースマンとしての活動を続けている様に、騎手引退後に騎手時代の蓄えでそのまま悠々自適の余生に入るというケースはほとんどないに等しい。

他のスポーツの選手に比べれば純粋に身体的な能力を要求される要素は低く、勝ち星と収入を安定して確保し続けられる騎手は年齢を問わず第一線に留まることができる。また、日本の場合、騎手には定年制度がないため、視力低下や体重増加の問題が小さく騎手免許の更新に支障がない人物の場合、騎手としての能力を発揮できる限界年齢は比較的高く、歴代のリーディング上位騎手の中にも50代まで騎手業を続けた者は少なからず見られる。金沢競馬場などに所属した山中利夫は62歳まで騎乗を続けた(2012年7月引退)。2000年には中央競馬の調教師であった内藤繁春(調教師以前は騎手を勤めていた)が翌2001年2月で中央競馬での調教師の定年を迎えることを期に、69歳で騎手免許試験を受験したことがある(結果は不合格[注 9])。

他方で、競馬の競走では競走馬のスピードは時速約60km以上にも達し、それだけのスピードを出した競走馬から落馬したり走行中の馬に接触すれば重度の障害が残ることや、重傷・死亡に至る、場合によっては即死する危険がある。事実、競走中に発生した事故によって松若勲(JRA)のように即死、あるいは岡潤一郎(JRA)や佐藤隆船橋)のように事故後加療の末に死亡した例、福永洋一(JRA)や坂本敏美(名古屋)の例のように重篤な後遺症が残り再起できなかった騎手もいる。一方で、石山繁常石勝義高嶋活士(いずれもJRA)の例のように、重度の障害を負って引退を余儀なくされた後に、障害者スポーツへの転向をする騎手もいる(石山・常石・高嶋はいずれも脳挫傷を負い、障碍者馬術に転向)。大型動物のサラブレッドを扱う職業であるだけに、レース中以外でも調教中の落馬の他、馬に蹴られる・踏まれるなどの事故も少なからず付きまとう。

騎手をサポートする仕事

騎手は個人事業主であり、本来は騎手の仕事を1人で全てこなさなければならないが、騎手にはしなければならない仕事が増加してきており、1人でこなすのは困難となりつつある。そこで騎手の仕事を一部分担する仕事が登場してきている。

バレット

バレット(valet)とは、レース開催時において騎乗時に使用する道具の準備・斤量の調節など、いわゆる補佐として騎手のために雑務をこなす存在である。バレットは競馬場内では青いビブスを身に付けている。

このバレット制度は世界各国では一般的な制度である。アメリカ合衆国ではジョッキールームに騎手が腰かけた途端にバレットが担当騎手のブーツを即座に脱がしたり道具の整理および清掃などを行ったりすることもある。

日本では武豊が国外に遠征した際にバレットの存在を目にし、導入の必要性を感じたため、武は日本騎手クラブを通してJRAに要請し、その結果、1997年に当初は試験導入としてではあるが、公式に日本の中央競馬でもバレット制度が導入された(バレットを最初に雇用した騎手は的場均である[15][16])。その後21世紀に突入した2005年より正式にバレット制度が認められるようになった(2017年現在で31人のバレットがJRAに登録されている)[15][16]

その中央競馬においては、バレットは法的には騎手個人に雇用されるという形態をとっており、JRAはバレットの適性試験や裁決委員が行う面接以外はほとんど関与していない。そのため、バレットには適性試験や面接に合格さえすれば、基本的には性別、経歴、年齢を問わず無資格でなることができる。バレットはその騎手の身内(兄弟姉妹や親子など)や友人・知人など、信頼可能で親しい間柄にある者を雇用している場合が多い。また女性の比率も多い。

なおバレット制度が導入される以前にも競馬学校の騎手候補生が現役騎手に手伝いの形でバレットと同じような雑務を行うこともあった。

地方競馬に於いても、比較的賞金が高い南関東ではバレット制度が存在している。

バレットはファンエリアに出入り可能な代わりに、就労中に得た情報の漏洩や勝馬投票券の購入の他、また検量室とジョッキールーム以外の関係者エリアへの立入りも禁止されている[15][16]

日本では安藤勝己は実子が、福永祐一池添謙一は実妹がバレットを務めていたことがあったほか、後藤浩輝がバレットを一般から募集していたこともある[注 10]。なお、福永は現在チームグリップのスタッフがバレットを努めている[17]。また田辺裕信が調教師・小西一男の実子(娘)の小西由紀がバレットを務め、武豊は元お笑いタレントチング」の吉井慎一がバレットを務めていたこともあった[18]

各国の共通の事項だが、バレットは1人の騎手に複数付くこともある反面、1人のバレットが複数の騎手を担当することもある。

エージェント

騎手のエージェント(代理人)は主に、調教師や馬主と交渉し、騎乗馬を確保する役割である。中央競馬ではエージェントの呼称を騎乗依頼仲介者としている。詳しくは同項目を参照。

出典・脚注

出典

  1. 藤田伸二 『競馬番長のぶっちゃけ話』 宝島社、2009年。ISBN 9784796672368。
  2. 平成28年度 調教師及び騎手免許試験要領 (PDF)”. 日本中央競馬会 (2015年8月5日). . 2015閲覧.
  3. 3.0 3.1 3.2 調教師・騎手免許試験関係公示 平成27年度第1回調教師・騎手免許試験 (PDF)”. 地方競馬全国協会 (2015年7月21日). . 2015閲覧.
  4. 4.0 4.1 4.2 調教師・騎手免許試験関係公示 平成27年度第2回調教師・騎手免許試験 (PDF)”. 地方競馬全国協会 (2015年7月21日). . 2015閲覧.
  5. 沖縄の復帰に伴う農林水産省令の適用の特別措置等に関する省令第19条により、沖縄の法令の規定により禁錮以上の刑に処せられた者も対象。刑法第34条の2により、刑期満了後に罰金以上の刑に処せられないで10年を経過した時は、欠格事由の対象外となる。
  6. 6.0 6.1 “御神本、異例の免許失効 大井トップジョッキーが更新試験で不合格”. スポーツニッポン. (2015年3月18日). http://www.sponichi.co.jp/gamble/news/2015/03/18/kiji/K20150318010001790.html . 2015閲覧. 
  7. 平成22年度 調教師及び騎手免許試験要領 (PDF)”. 日本中央競馬会 (2009年8月5日). . 2015閲覧.
  8. 8.0 8.1 8.2 8.3 8.4 平成26年度 調教師及び騎手免許試験要領 - JRA・2013年8月7日
  9. デムーロがJRA騎手免許1次試験を受験 - 日刊スポーツ・2013年10月2日
  10. 2015年度 調教師・騎手免許試験合格者 - 日本中央競馬会・2015年2月5日
  11. M・デムーロ、ルメールが合格 外国人初、JRA騎手免許試験 - スポニチアネックス・2015年2月5日
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  13. JRA所属初の外国人騎手誕生 ルメール、猛勉強実り一発合格! - スポニチアネックス・2015年2月6日
  14. Mデムーロ、騎手免許試験へ日本語猛勉強 - 日刊スポーツ・2013年9月6日
  15. 15.0 15.1 15.2 日刊ゲンダイ 2017年5月28日号(同年5月27日発行分)10面、31面
  16. 16.0 16.1 16.2 ハレの舞台を支えるバレット - 日刊ゲンダイDIGITAL 2017年5月27日発信(2017年5月28日閲覧)
  17. 同社HPより
  18. 週刊ギャロップ隔週連載「吉井慎一の武豊バレット日記」(連載終了)

脚注

  1. [7]による。ただし、2009年までは「過去5年間に中央競馬において年間20勝以上の成績を2回以上収めた地方競馬所属騎手」については異なる内容の試験が行われていたが、2010年以降は「申請年を含む3年間に中央競馬において年間20勝以上の成績を2回以上収めた地方競馬所属騎手」について、実地の騎乗技術試験を省略するのみとなった。
  2. ただし、裏を返せば実戦の場でより厳しい生存競争が待つということであり、例えば豪州の場合、騎手には日本のJRAのような副業禁止規定がないことから、騎手としての収入だけで生活できない者は牧場勤務や店員など様々な副業を行う。
  3. 日本における免許制度で記載したように下限は16歳である。
  4. 大久保の場合は、大学に通っていたのは1950年代後半で、現在のような騎手の調整ルームでの前日集合という規則はまだなく、さらにJRAの場合、トレーニングセンター開設以前の競馬関係者の本拠地は市街地の競馬場であり、若い競馬関係者が夜学に通うことは可能であった。
  5. 川合の場合は、騎手デビューの1年後に所属厩舎の許可を得て滋賀県内の夜学(定時制の高校)に通っていたが、当時の規則上競馬の仕事と学業との両立が難しく、出席日数不足で高校を自主退学した。その後フリーの騎手となり、1999年8月3日より6日まで実施された旧・大学入学資格検定を受検して一発合格した後に、立命館大学を受験して合格し、2000年4月より2004年の3月まで現役騎手を続けながら同大学に通っていた。大久保は同大学の先輩に当たり、また、川合は競馬学校世代の騎手で唯一の大学卒業者でもある。
  6. 龍城は早稲田大学に入学し、現役騎手を続けながら卒業している。ただしJRAの大久保や川合などとは異なり、龍城は通信教育部への入学であったため、それゆえに大学に通学する日数は少なくて済むことから、競馬開催および騎乗数への影響は少なかった。龍城は学士騎手となったのみならず、騎手になる前には俳優で活躍しており、競馬関係者では珍しく学歴・職歴の両面で異色の経歴を有している。
  7. 代表例として、JRAの蛯沢誠治西田雄一郎は不祥事により一時的に騎手免許を返上、数年後に再取得している。
  8. 地方競馬の例として兵庫県競馬組合では、他の競馬場から転入する際には、騎手免許を一時的に返上させられ、厩務員として6か月から1年の間従事し、騎手免許を再取得する内規があり、有馬澄男北野真弘中越豊光といった実績のあった騎手も例外がなかった。
  9. 仮に合格していたら、内藤が最高齢騎手(ただし、前述の通り過去に騎手経験があるため、厳密には騎手復帰)ということになっていた
  10. 後藤は2011年のバレットの募集の際は自身のTwitter(2011年10月28日に閉鎖)で行っていた。

関連項目