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(内容を「 '''香淳皇后'''(こうじゅんこうごう、1903年明治36年)3月6日 - 2000年平成12年)6月16日) 昭和天皇の皇后...」で置換)
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{{基礎情報 皇后
 
|名= 香淳皇后
 
|立后根拠 = 第124代昭和天皇后
 
|画像= Empress Nagako.jpg
 
|画像サイズ= 250px
 
|画像説明= [[1928年|1928年(昭和3年)]]<br />[[即位の礼]]にて
 
|在位期間 = 1926年12月25日 - 1989年1月7日
 
|和暦在位期間 = 昭和元年12月25日 - 昭和64年1月7日
 
|立后 = 1926年(大正15年)12月25日
 
|出生日= [[1903年|1903年(明治36年)]]<br>[[3月6日]]
 
|生地= {{JPN}}・[[東京府]][[麻布区]] 麻布鳥居坂町 久邇宮邸(現・[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[六本木]])
 
|死亡日= {{死亡年月日と没年齢|1903|3|6|2000|6|16}}
 
|没地= {{JPN}}・[[東京都]][[千代田区]]<br />[[吹上御苑]] [[大宮御所]]
 
|入内 =
 
|結婚 = [[1924年|1924年(大正13年)]][[1月26日]]
 
|皇后 = [[1926年|1926年(大正15年)]][[12月25日]]
 
|皇太后 = [[1989年|1989年(昭和64年)]][[1月7日]]
 
|太皇太后 =
 
|大喪儀 = [[2000年|2000年(平成12年)]][[7月25日]]
 
|埋葬日= [[2000年|2000年(平成12年)]][[7月25日]]
 
|陵所= {{JPN}}・[[東京都]][[八王子市]][[長房町]]<br />[[武蔵陵墓地#武蔵野東陵|武蔵野東陵]]
 
|身位= [[女王]]→[[皇太子妃]]→[[皇后]]→[[皇太后]]
 
|地位 =
 
|敬称= [[殿下]]→[[陛下]]
 
|諱 = 良子(ながこ)
 
|命名年月日 =
 
|氏族 = [[久邇宮]]家([[皇族]])
 
|旧名 = 良子女王
 
|追号 = 香淳皇后
 
|異称 =
 
|戒名 =
 
|幼称 =
 
|お印= [[モモ|桃]]
 
|父親= [[久邇宮邦彦王]]
 
|母親= [[邦彦王妃俔子]]
 
|配偶者1= [[昭和天皇]]
 
|子女 = [[東久邇成子|照宮成子内親王]]<br />[[久宮祐子内親王]]<br />[[鷹司和子|孝宮和子内親王]]<br />[[池田厚子|順宮厚子内親王]]<br />[[明仁|継宮明仁親王]]<br />[[常陸宮正仁親王|義宮正仁親王]]<br />[[島津貴子|清宮貴子内親王]]
 
|養子女 =
 
|皇居 = [[東宮御所|青山東宮御所]]→[[宮城]]→[[大宮御所|吹上大宮御所]]
 
|空欄表題1 =
 
|空欄記載1 =
 
|栄典 =
 
|役職 =
 
|親署 =
 
|脚注 =
 
}}
 
'''香淳皇后'''(こうじゅんこうごう、[[1903年]]([[明治]]36年)[[3月6日]] - [[2000年]]([[平成]]12年)[[6月16日]])は、第124代[[天皇]]・[[昭和天皇]]の[[皇后]]。[[明仁|今上天皇]]の[[生母]]。
 
  
[[諱]]は'''良子'''(ながこ)。[[久邇宮家]]出身で、皇后となる以前の身位は[[女王 (皇族)|女王]]。歴代皇后中で最長の在位(62年と14日間)であり、[[日本神話|神話時代]]を除き最長寿(満97歳没)である。
+
'''香淳皇后'''(こうじゅんこうごう、[[1903年]]([[明治]]36年)[[3月6日]] - [[2000年]][[平成]]12年)[[6月16日]]
  
== 家系 ==
+
昭和天皇の皇后。久邇宮(くにのみや)邦彦王(くによしおう)の第一女子。母は鹿児島・島津家の出身。名は良子(ながこ)。1918年(大正7)学習院女学部中等科3年のとき、皇太子裕仁(ひろひと)の妃に内定。その後、元老山県有朋(やまがたありとも)が内定取りやめを求めた宮中某重大事件が起こる。しかし1922年9月婚約、1924年1月26日結婚。1926年12月裕仁の践祚(せんそ)により皇后となる。その誕生日3月6日は地久節(ちきゅうせつ)として1945年(昭和20)第二次世界大戦終戦まで祭日であった。明仁(あきひと)(1933年生まれ。現、天皇)、正仁(まさひと)(1935年生まれ。常陸宮(ひたちのみや)家を創立)の2男、成子(しげこ)(1925年生まれ。東久邇宮盛厚(ひがしくにのみやもりひろ)と結婚。1961年死去)、祐子(さちこ)(1927年生まれ、翌年死去)、和子(かずこ)(1929年生まれ。鷹司平通(たかつかさとしみち)と結婚。1989年死去)、厚子(あつこ)(1931年生まれ。池田隆政と結婚)、貴子(たかこ)(1939年生まれ。島津久永(ひさなが)と結婚)の5女をもうけた。「桃苑」の雅号をもち、書道、歌道などのほか、前田青邨(せいそん)に学んだ日本画を趣味とする。1963年、還暦記念として皇居内に音楽堂(桃華楽堂)が建設された。1989年(平成1)1月、皇太后となる。平成12年6月16日死去。同年7月香淳皇后と追号された。
[[久邇宮邦彦王]]の第一女子。母は12代[[薩摩藩]]主[[公爵]][[島津忠義]]の七女[[邦彦王妃俔子|俔子]](ちかこ)。
 
 
 
祖父の[[久邇宮朝彦親王|朝彦親王]]は男子9人を儲けており、[[内閣総理大臣|首相]]経験を持つ[[東久邇宮稔彦王]]は叔父の一人である。
 
 
 
また、五女・[[島津貴子]]の夫[[島津久永]]は母方の[[いとこ|従弟]]に当たる。
 
 
 
== 生涯 ==
 
=== 少女時代 ===
 
[[ファイル:Princess_Nagako_1.jpg|180px|thumb|left|少女時代の良子女王(当時7歳)]]
 
[[ファイル:Kuni-no-miya sisters 1912.jpg|180px|サムネイル|[[1912年]](明治45年)、左から智子女王・信子女王・良子女王。]]
 
[[File:Crown Princess Nagako 1924.jpg|thumb|left|180px|1924年(大正14年)、婚礼に際し撮影]]
 
 
 
[[1903年]]([[明治]]36年)[[3月6日]]、久邇宮邦彦王の第一女子として誕生<ref>歴代皇后125代総覧417頁</ref>。
 
 
 
[[1907年]](明治40年)[[9月2日]]、[[学習院]]女学部[[幼稚園]]に入園。幼稚園では[[皇族]]は別室で昼食を取るが、そのとき妹・信子女王の他、迪宮裕仁親王(後の昭和天皇)・[[秩父宮雍仁親王|淳宮雍仁親王]](後の[[秩父宮]])と一緒であった。優しい一方しっかりとした性格で、2人の妹が彼女の行動をすべて真似ることもあったという。
 
 
 
学習院女学部小学科を経て([[1909年]]入学)、[[1915年]]([[大正]]4年)には学習院女学部中学科進学。在学中の[[1918年]](大正7年)[[1月14日]]に[[皇太子]]裕仁親王の[[妃]]に内定。内定の理由には、彼女の性格や素質以外にも、[[明治天皇]]が久邇宮家を気にかけていたことなどが挙げられる。内定に伴い学習院を退学し、同年[[4月13日]]以降久邇宮邸内に設けられた学問所で[[皇太子妃]]としての教育を受ける。学問所は“お花御殿”と呼ばれ、妹たちのほか、親しい学友が学習院の授業を終えた後に通い、共に学んだ。
 
 
 
なお、お妃教育のために作られたお花御殿の建物はその後に[[東京市]][[麻布区|麻布区日ヶ窪]](現・[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[麻布十番]])にあった[[東京都立駒場高等学校|東京府立第三高等女学校]](府立三女)に下賜された<ref name="Komaba-High School">[http://www.komaba-h.metro.tokyo.jp/cms/html/entry/8/3.html 施設の概要] 東京都立駒場高等学校公式サイト</ref>。[[第二次世界大戦後]]の学制改革などにより府立三女が現在の東京都立駒場高等学校と名を改め、校舎を現在の[[目黒区]][[大橋 (目黒区)|大橋]]に移転した後、お花御殿の建物も現校地へ移築し、現在も保存されている<ref name="Komaba-High School"/>。
 
 
 
[[1920年]](大正9年)[[5月7日]]に裕仁親王が[[元服|元服礼]]を行ったことをうけて、同年[[6月10日]]に正式に婚約が内定する。しかし、[[1921年]](大正10年)に入って母系[[島津家]]に[[色覚異常|色盲]]の[[遺伝]]があり、皇太子妃として不適当として[[元老]][[山縣有朋]]が久邇宮家に婚約辞退を迫った、いわゆる"[[宮中某重大事件]]"が起こる。<ref>歴代皇后125代総覧418頁</ref>事件の内容は極秘扱いされたが、世上さまざまな憶測が流れ、中でも宮中に影響力を保持しようとする山縣の策略とする見解が強かったため良子女王に同情が集まり、[[原敬]][[内閣総理大臣|首相]]らの反山縣勢力が山縣追い落としにこの事件を利用したこともあって、最終的には翌年[[2月10日]]に[[宮内省]]から「良子女王殿下東宮妃内定の事に関し、世上の様々の噂あるやに聞くも、右御決定は何等変更なし。」の発表が行われて事件は決着した(翌日付で新聞記事解禁)。最終的な決め手のひとつが、[[生物学者]]でもあった裕仁親王の「良子でよい」という意向であったと言われている。
 
 
 
学問所での教育は2・3年前後の予定であったが、[[宮中某重大事件]]、さらに[[関東大震災]]の影響により婚儀は延期され続けた。
 
 
 
=== 皇太子妃時代 ===
 
[[ファイル:Emperor Hirohito and empress Kojun of japan.JPG|thumb|180px|1924年(大正14年)、成婚直後の[[昭和天皇|皇太子裕仁親王]]と同妃良子女王]]
 
[[ファイル:Crown Prince Hirohito & Princess Nagako & Princess Shigeko 3.jpg|thumb|180px|成子内親王を見守る皇太子裕仁親王と同妃良子女王]]
 
[[1922年]](大正11年)[[6月20日]]、結婚について[[大正天皇]]の[[勅許]]が下り、[[9月18日]]に[[納采の儀]]。同日付で勲一等[[宝冠章]]を受章する。翌[[1923年]](大正12年)の内にも婚儀の予定であったが、[[関東大震災]]の惨状を目の当たりにした裕仁親王が自ら延期した。<ref>歴代皇后125代総覧419頁</ref>
 
 
 
[[1924年]](大正13年)[[1月26日]]に結婚。[[皇太子妃]]となり、[[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]の[[東宮御所]]に住居を移す。裕仁親王との夫婦関係はこの頃より円満で、当時も手をつないで散歩をするなどしていたという。[[1925年]](大正14年)[[12月6日]]には第一子(第1女子)・[[東久邇成子|照宮成子内親王]]が誕生する。良子妃は[[乳母|乳人]]こそ置いたが、可能な限り自らの母乳で育てた。子女を幼少時は手元で育てたことも、非常に画期的な出来事であった。
 
 
 
=== 皇后時代 ===
 
[[ファイル:Empress Kojun and Prince Akihito.jpg|180px|サムネイル|左|1934年(昭和9年)、[[明仁|継宮明仁親王]]を抱く香淳皇后]]
 
[[1926年]](大正15年)[[12月25日]]、夫・皇太子裕仁親王の[[践祚]]に伴い立后。[[1927年]]([[昭和]]2年)、第二[[皇女]]:[[久宮祐子内親王]]が誕生するも、翌[[1928年]](昭和3年)に[[敗血症]]のため{{読み仮名|[[夭折]]|ようせつ}}。香淳皇后は自ら死化粧を施し、昭和天皇も禁を破り通夜に出席した。同年[[11月10日]]、[[即位の礼|即位の大礼]]が[[京都御所]]で盛大に執り行われた。
 
 
 
[[1929年]](昭和4年)、{{読み仮名|宮城|きゅうじょう|[[皇居]]の当時の呼称}}に住居を移す。さらに2人の皇女(第三皇女子[[鷹司和子|孝宮和子内親王]]・第四皇女子[[池田厚子|順宮厚子内親王]])が誕生するが、なかなか男児(「お世継ぎ」となる[[皇位継承|皇位継承者]])を得られず、[[華族]]たちから「皇后さまは女腹」と言われ非難され、[[側室]]制度の復活が本格的に検討された。彼女も心労とプレッシャーに苦しむが、この案は夫の昭和天皇が自ら「人倫に反する事はできない」として、これを拒否した。[[1933年]](昭和8年)[[12月23日]]、第五子・第一皇男子の[[明仁|継宮明仁親王]]が誕生。天皇・皇后の五人目の子にして待望の皇子誕生とあり、宮城前の万歳三唱・旗行列・{{読み仮名|提灯|ちょうちん}}行列・花電車・奉祝会など日本全体から盛大に祝賀される。<ref>歴代皇后125代総覧420頁</ref>
 
 
 
一方この頃より、皇女たちは学習院前期(小学校)入学とともに天皇・皇后の手元を離れ[[呉竹寮]]で養育される。これは天皇の元では養育係が仕えづらく、その結果我がままに育ったという批判に加え、将来的に降嫁することに備えるためである。[[1935年]](昭和10年)[[11月28日]]、第六子・第二皇男子の[[常陸宮正仁親王|義宮正仁親王]](現:[[常陸宮]])誕生。また、天皇家の神格化が推進され、[[皇太子]][[明仁|明仁親王]]に至っては[[1937年]](昭和12年)より東宮仮御所にて養育され、親子でありながら土日以外には会うことさえできなくなった。皇后は明仁親王のために好物の豆腐料理を手ずから用意していたが、親王が皇后の手料理を口にすることはなかった。[[1939年]](昭和14年)[[3月2日]]、第七子・第五皇女子の[[島津貴子|清宮貴子内親王]]誕生。
 
 
 
[[第二次世界大戦]]中は昭和天皇とともに夫婦で[[東京]]にとどまり、心労の多かった夫を支えたと言われる。またこの頃には、「皇后は天皇の仕人」とされたため天皇の車に同乗できなくなったともいう。戦中の食糧難の折には、国民と同じように皇室への[[配給 (物資)|食糧配給]]も厳しくなる中、天皇と[[夕食]]を共にする際、二人で相談して、必ず料理の一皿か二皿を残し、[[侍従]]や[[女官]]に下げたという。戦争末期には、皇后自ら吹上御苑で[[野菜]]を作り[[養鶏]]も行った。[[日本の降伏|敗戦]]後は[[引揚者]]のための[[布団]]や[[着物]]作りを行った。
 
[[1945年]](昭和20年)3月、東久邇成子は長男を出産した。香淳皇后の初孫となった。
 
 
 
[[皇室]]の在り方が一変して後は、皇后同伴の公務が一般的になったこともあり、積極的に[[国民]]と親しもうとする夫・昭和天皇の意向を汲んで各種の活動を活発に行った。[[1947年]](昭和22年)の[[日本赤十字社]][[総裁|名誉総裁]]就任をはじめとして、[[1952年]](昭和27年)以降の[[全国戦没者追悼式]]、[[1964年]](昭和39年)の[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]開会式、[[1970年]](昭和45年)の[[日本万国博覧会]]開会式、[[1972年]](昭和47年)の[[札幌オリンピック]]開会式および[[沖縄返還|沖縄復帰]]記念式典などへの出席はその例である。[[靖国神社]]・[[護国神社]]への天皇親拝にもたびたび同行している。
 
 
 
また皇女たちの結婚にあたり、長女・[[東久邇成子|成子内親王]]の例から、娘たちの意思を尊重するための[[お見合い]]や[[デート]]を勧めた。その一方で、皇太子[[明仁]]親王(当時)と民間出身である[[皇后美智子|正田美智子]](当時)との婚約が決定された([[貴賤結婚]])際には[[雍仁親王妃勢津子|秩父宮妃勢津子]]の母親で[[貞明皇后]]の御用係として長年宮中に仕えた[[松平信子]]らとともに「平民からとはけしからん」などと強い不快感を示している。『[[入江相政日記]]』においては、松平が[[宮崎白蓮]]などとともに、正田家に婚姻辞退を迫るべく[[右翼団体]]を動かして圧力をかけようとしたと記されている。香淳皇后自身は、成婚以後は表立って美智子妃に反感を示すことはなかったが、[[1975年]](昭和50年)の訪米に際して空港で挨拶する美智子妃を無視する映像が残されており、後々まで尾を引いた。
 
 
 
[[1960年]](昭和35年)11月、長女の[[東久邇成子]]が病に倒れた。すでに末期癌が進み、翌年4月からは[[宮内庁病院]]に入院。皇后はほぼ毎日、私事のため人目を避けながら見舞いに訪れたが、7月に成子は死去した。天皇ともども、愛娘の死に大きな衝撃と悲しみを受けた。皇太子明仁親王・同妃美智子の第一子・長男で、自身の内孫である[[皇太子徳仁親王|浩宮徳仁親王]]の存在が慰めになり、たいへん可愛がったという。
 
 
 
昭和40年代([[1965年]]~[[1974年]])前半から半ばの『[[入江相政日記]]』<ref group="注釈">『日記』は[[朝日新聞社]]全6巻、朝日文庫全12巻で刊行。</ref>によれば、皇后が絶大な信頼を置いた[[今城誼子]]の問題が頻出している。[[新宗教|新興宗教]]に深く関わり、粗暴な言動で周囲の{{読み仮名|顰蹙|ひんしゅく}}を買っていたことから今城は『入江日記』で「魔女」と名づけられ登場する(宮中魔女事件)。今城は、皇后を通して当時簡略化が進められていた[[宮中祭祀]]に口を挟む、天皇皇后の欧州歴訪において自身の同行を求めるなど、[[入江相政]][[侍従長]]等の側近たちはこの問題に頭を痛めることになり、天皇の同意を取り付けて、[[1971年]](昭和46年)に今城を[[宮内庁]]から事実上追放した。皇后は解任を最後まで惜しんでいる。
 
 
 
[[ファイル:Ford and Emperor1975.jpg|250px|thumb|1975年(昭和50年)訪米時の、<br>昭和天皇、香淳皇后と[[ジェラルド・R・フォード|フォード]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]、[[ベティ・フォード|ベティ]][[アメリカ合衆国のファーストレディ|同夫人]]夫妻]]
 
[[1971年]](昭和46年)には天皇と共に訪欧。皇后にとっては、これが初めての外国訪問となった。[[1973年]]東久邇 信彦は、長男を儲け 香淳皇后の初ひ孫となった。[[1974年]](昭和49年)には[[金婚式]]を迎え、記者団の「楽しかった思い出は何か」という問いに、天皇・皇后ともに「先の欧州訪問」を挙げた。翌年の訪米にも行幸啓で共にした。
 
 
 
[[1976年]](昭和51年)には[[日本国政府|政府]]主催の「天皇陛下御在位五十年記念式典」に出席し祝賀を受けるものの、この前後から心身に老いの兆候が目立つようになる。翌年の夏に[[那須御用邸]]内で転倒した際に[[腰椎]]を[[骨折]]。側近はこのことを伏せ、適切な治療が遅れたため完全な回復は不可能な状態となる。骨折について皇后は大変なショックを受けたとされ、この事故を境に老いの兆候は顕著になった。歩行に際しても[[杖]]を用いることが多くなり、散歩の際に天皇が手を引く姿も見られた。式典・行事に際しても[[北白川祥子]]女官長らが介添えしていた。
 
 
 
可能な限り式典などの公務に出席を続けていたが、[[1986年]](昭和61年)[[1月2日]]の[[新年|新年祝賀]]・[[4月29日]]の[[天皇誕生日|天皇誕生日祝賀]]を最後に出席できなくなり、同年に[[日本国政府|政府]]主催で開催された「天皇陛下御在位六十年記念式典」を欠席し、同年[[9月30日]]以降は日課にしていた[[散歩]]も取り止めるようになった。やがて[[車椅子]]を頻繁に利用するようになる。また、[[1987年]](昭和62年)[[12月11日]]、新年用の写真撮影後に軽い[[心臓発作]]を起こし、翌年以降は一般参賀にも欠席するようになった。
 
 
 
=== 皇太后時代 ===
 
[[1989年]](昭和64年)[[1月7日]]、夫・[[昭和天皇]][[崩御]]を受けた長男・[[皇太子]][[明仁|明仁親王]]の[[践祚]]および[[皇太子妃]][[皇后美智子|美智子]]の[[皇后#日本の皇后位|立后]]に伴い、[[皇太后]]となる。同年([[平成]]元年)[[2月24日]]に、[[内閣 (日本)|内閣]]の主催で行われた昭和天皇の[[大喪の礼]](委員会委員長・[[竹下登]][[内閣総理大臣]])には欠席し、名代を[[常陸宮]][[正仁親王妃華子]]が務めた。この年には昭和天皇の他に、第三皇女・[[鷹司和子]]、実妹の[[大谷智子]]が死去し、肉親との別れが続いた。これ以降、その動静が伝えられることがまれになり、[[メディア (媒体)|メディア]]等への露出も少なくなった。
 
 
 
[[1996年]](平成8年)[[3月6日]]に満93歳となり、[[後冷泉天皇]]の[[皇后]]・[[藤原寛子 (藤原頼通女)|藤原寛子]]の数え年92歳を抜いて歴代最長寿となった。晩年には[[認知症]]の症状があったとされ、マスメディアでは「老人特有の症状」と報道されていた<ref group="注釈">[[1990年]][[1月7日]] [[朝日新聞]]「皇太后さまは権殿で拝礼へ 昭和天皇崩御から1年」などに"老人特有の症状"との表現が見られる。</ref>。
 
 
 
[[2000年]](平成12年)[[6月16日]]、[[老衰]]による[[呼吸不全]]のため[[皇居]][[大宮御所|吹上大宮御所]]で[[崩御]]した<ref group="注釈">皇太后が亡くなれば「[[崩御]]」と呼ばれるのが通例であるが、大半のマスメディアが「ご逝去」と報じた。</ref>。{{没年齢|1903|3|6|2000|6|16}}。歴代の皇后中最長の在位(62年と14日間)であり、[[日本神話|神話]]時代を除き最長寿(97歳と102日)でもあった。
 
 
 
[[7月10日]]に「'''香淳皇后'''」と追号された。'''香淳'''とは[[上代]]の[[漢詩]]集『[[懐風藻]]』で、[[お印]]と号にちなんだ「桃」から「花舒桃苑'''香'''、草秀蘭筵新」(安倍広庭「春日侍宴」)、および「四海既無為、九域正清'''淳'''」(山前王「侍宴」)に拠る。「和書」を典拠にする[[諡|諡号]]はこれが初めてであった。
 
 
 
[[7月25日]]に[[東京都]][[文京区]]の[[豊島岡墓地]]で[[斂葬の儀]]が行われた。[[陵墓]]は東京都[[八王子市]][[長房町]]の[[武蔵陵墓地|武蔵野東陵]]である。
 
 
 
== 皇子女 ==
 
[[ファイル:Showa-family1941 12 7.jpg|thumb|250px|1941年(昭和16年)12月7日、[[真珠湾攻撃]](日米開戦)前日の[[昭和天皇]]一家]]
 
 
 
[[昭和天皇]]との間に7人の皇子女を儲ける。
 
 
 
{| class="wikitable" style="font-size:95%"
 
![[諱]]
 
!読み
 
!生年
 
!没年
 
![[御称号]]
 
![[続柄]]
 
!備考
 
|-
 
|[[東久邇成子|成子]]
 
|しげこ
 
| style="text-align:right" |[[1925年]]〈大正14年〉<br />[[12月6日]]
 
|style="text-align:right" |[[1961年]]〈昭和36年〉<br />[[7月23日]](満35歳没)
 
|<sub>てるのみや</sub><br />照宮
 
|第一皇女
 
|[[東久邇盛厚|盛厚王(東久邇宮家)]]と結婚<br />戦後[[皇籍離脱]]
 
|-
 
|[[久宮祐子内親王|祐子]]
 
|さちこ
 
|style="text-align:right" |[[1927年]]〈昭和2年〉<br />[[9月10日]]
 
|style="text-align:right" |[[1928年]]〈昭和3年〉<br />[[3月8日]](満0歳没)
 
|<sub>ひさのみや</sub><br />久宮
 
|第二皇女
 
|
 
|-
 
|[[鷹司和子|和子]]
 
|かずこ
 
|style="text-align:right" |[[1929年]]〈昭和4年〉<br />[[9月30日]]
 
|style="text-align:right" |[[1989年]]〈平成元年〉<br />[[5月26日]](満59歳没)
 
|<sub>たかのみや</sub><br />孝宮
 
|第三皇女
 
|[[鷹司平通]]と結婚<br />皇籍離脱
 
|-
 
|[[池田厚子|厚子]]
 
|あつこ
 
|style="text-align:right" |[[1931年]]〈昭和6年〉<br />[[3月7日]]({{年数|1931|3|7}}歳)
 
!
 
|<sub>よりのみや</sub><br />順宮
 
|第四皇女
 
|[[池田隆政]]と結婚<br />皇籍離脱
 
|-
 
|[[明仁]]
 
|あきひと
 
|style="text-align:right" |[[1933年]]〈昭和8年〉<br />[[12月23日]]({{年数|1933|12|23}}歳)
 
!
 
|<sub>つぐのみや</sub><br />継宮
 
|第一[[皇子]]
 
|style="text-align:center;background-color:#e6b422"|[[今上天皇|'''第125代天皇''']]
 
|-
 
|[[常陸宮正仁親王|正仁]]
 
|まさひと
 
|style="text-align:right" |[[1935年]]〈昭和10年〉<br />[[11月28日]]({{年数|1935|11|28}}歳)
 
!
 
|<sub>よしのみや</sub><br />義宮
 
|第二皇子
 
|[[常陸宮]]当主
 
|-
 
|[[島津貴子|貴子]]
 
|たかこ
 
|style="text-align:right" |[[1939年]]〈昭和14年〉<br />[[3月2日]]({{年数|1939|3|2}}歳)
 
!
 
|<sub>すがのみや</sub><br />清宮
 
|第五皇女
 
|[[島津久永]]と結婚<br />皇籍離脱
 
|}
 
 
 
== 人となり・逸話 ==
 
[[ファイル:Empress Kojun at a cocoonery 1955-6.jpg|thumb|[[1955年]](昭和30年)[[6月]]、[[皇居]]内で[[養蚕]]する香淳皇后]]
 
* 「おおらかでおっとりとした円満な性格の持主である」と言われ、昭和天皇との夫婦仲は「まことに良かった」と伝えられる。昭和天皇は香淳皇后のことを「'''良宮'''(ながみや)」と呼び、皇后は天皇のことを「'''お上'''(おかみ)」と呼んだ。いわゆる従順に「夫を立てる」タイプの古風な女性で、それだけに天皇も、よく皇后のことを気遣ったらしい。
 
* 天皇との間に夫婦喧嘩は一度も無かった、と近しい人は繰り返し証言しているが、[[河原敏明]]は『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』([[1979年]](昭和54年)2月号)に「天皇陛下の『夫婦喧嘩』」という随筆を載せ、側近がたった一度目撃したという夫婦喧嘩の光景を紹介している。
 
* 天皇と皇后の晩年の楽しみは、皇居や御用邸内を2人で散歩することで、[[植物]]の好きな天皇がよく皇后に説明をしながら歩いたという。また分かれ道に来ると、しばしば天皇が「良宮、どちらにしようか」と問い、皇后が「お上のお好きなほうへ」と答えたというエピソードがある。
 
* [[朝食]]のひとときに[[日本放送協会|NHK]]の[[連続テレビ小説]]を視聴するのが好きだった天皇に付き合って、この番組をよく見ていた。一方、皇后本人は[[奈良漬け]]を好んでいたことから、朝食をはじめ日常の食事では奈良漬けがしばしば添えられたという(夫・昭和天皇は特に[[漬物]]の好みは強くなかった)。
 
* 活発で開明的な姑[[貞明皇后]]とは性格の違い・出自の違い(貞明皇后が[[華族]]の[[側室]]の子であるのに対し、香淳皇后は嫡出の皇族であった)もあってうまくゆかず、特に結婚した当初は関係に悩んだとも言われる。
 
** 宮中で仕える女官長や[[女官]]が実際にその衝突を目撃したのは、[[大正天皇]]崩御の数か月前、夫・皇太子裕仁親王(昭和天皇)と共に夫妻で療養先である[[葉山御用邸]]に見舞った際である。香淳皇后が姑である貞明皇后の前で緊張のあまり、熱冷ましの[[手拭|手ぬぐい]]を素手ではなく、[[手袋]](今も昔も女性皇族は外出の際は手袋を着用する)を付けたまま絞って手袋を濡らしてしまい、「(お前は何をやらせても)相も変わらず、不細工なことだね」と言われ、何も言い返せずただ黙っているしかなかった。頭脳明敏で気丈な性格の貞明皇后ではあったが、目下の者にも決して直接叱責することはなく、この一件を目の前にした女官たちに、二人は嫁姑として全くうまくいっていないと知らしめる結果になってしまった。
 
* [[書]]、[[刺繍]]、[[日本画]]、[[謡]]([[観世流]])、[[バラ]]の栽培、[[ピアノ]]など多趣味であった。
 
* 特に日本画は玄人はだしで、結婚以前には高取稚成から[[大和絵]]を学び、その後、[[川合玉堂]]、[[前田青邨]]に師事、[[1956年]](昭和31年)以降はよく宮内庁職員美術展に出品した。号を「桃苑」といい、[[皇居東御苑]]にある桃華楽堂はこの号に由来する。画集は『桃苑画集』(37点を収む、[[1967年]](昭和42年)、[[便利堂]])、『錦芳集』(54点を収む、[[1969年]](昭和44年)、[[朝日新聞社]])がある。
 
** 『錦芳集 増補新訂版』([[宮内庁]][[皇太后]]宮職編、[[1989年]](平成元年)、[[朝日新聞社]])
 
** 『香淳皇后の御絵と画伯たち』(図録、[[2007年]](平成19年)に、[[三の丸尚蔵館]]で催され、[[菊葉文化協会]]で刊行)
 
* バラは皇后自ら鋏を取り、枝の剪定などを行っていた。皇居の庭は天皇の意向により、[[武蔵野台地|武蔵野]]の面影を残し、自然の生育に任せて、[[雑草]]の類もむやみに除くことを禁じたが、唯一の例外は皇后のバラ園で、ここだけは天皇も口を挟むことはなかった。
 
* [[1971年]](昭和46年)秋に、[[郵政省]]発行の「天皇皇后陛下御訪欧記念切手」で、所縁の図案として、皇后画「海の彼方」が用いられた。
 
* 晩年の動静は、[[皇太后宮職]][[侍従]]も務めた[[卜部亮吾]]が遺した『[[卜部亮吾侍従日記]]』(全5巻、[[朝日新聞出版]])に詳しい。卜部は「斂葬の儀」の祭官長を務め、[[2002年]](平成14年)に没した。
 
 
 
== 崩御に際して ==
 
[[2000年]](平成12年)[[6月16日]]の[[崩御]]した日が金曜日であったこともあり、各方面では哀悼の意を表明しつつも、比較的現実的な対応がなされた。
 
 
 
例えば、崩御の当日と翌日([[6月17日]]土曜日)は、[[中央競馬]]は哀悼の意を表するため、17日の[[競馬]]の全レースを中止し19日に振り替え、18日、19日の出走ファンファーレを自粛して開催された(なお、公営競技では、[[尼崎競艇場|尼崎競艇]]が当日中止となっている。
 
 
 
当日の[[阪神甲子園球場|甲子園]]の[[阪神タイガース|阪神]] - [[読売ジャイアンツ|巨人]]戦は午前中に中止を決定しているが、これは皇太后崩御とは関係がなく悪天候のためであり、翌日は開催している)。
 
 
 
また、[[大阪府]][[大阪市]][[中央区 (大阪市)|中央区]]・[[道頓堀]]では[[江崎グリコ|グリコ]]のネオンサインが崩御当日のライトアップを自粛し、翌日は「[[くいだおれ|くいだおれ太郎]]」も黒一色の衣装を纏っていた。
 
 
 
[[斂葬の儀]]は同年[[7月25日]]に行われたが、この日に予定されていたプロ野球のオールスターゲーム(長崎県営野球場で開催)が翌日に順延となった。
 
 
 
=== 内閣総理大臣謹話 ===
 
崩御を受け、[[森喜朗]][[内閣総理大臣]](当時)は以下の内閣総理大臣[[謹話]]を発表した。
 
 
 
{{Quotation|
 
 本日、皇太后陛下の崩御の報に接し、哀痛の念を禁じ得ません。天皇皇后両陛下、皇族各殿下、御近親の方々のお悲しみはいかばかりかと拝察申し上げます。
 
 
 
 皇太后陛下におかせられては、その御生涯の大半を昭和天皇の后として正に激動の時代をお過ごしになりました。社会が大きく変化していく中で、困難な時期にありましても、皇太后陛下には、昭和天皇の良き御伴侶として、公私にわたり、常に、誠心誠意お尽くしになりました。私ども国民は深く心打たれると同時に、大きな励みとなったところであります。
 
 
 
 また、その御生涯を通じ、国際親善や芸術、文化、医療、福祉など幅広い分野にわたり、昭和天皇をお助けして、お務めになりました。殊に、そのお優しいお人柄からにじみ出るほほえみを湛えられたお姿に心から敬愛の念を抱いたのであります。
 
 
 
 昭和天皇が崩御せられた後は、在りし日の昭和天皇をお偲びになりつつ、慎ましくお過ごしになっていらっしゃいました。
 
 
 
 皇太后陛下が崩御せられたことは誠に哀惜に堪えず、ここに、国民と共に謹んで哀悼の意を表します。
 
 
 
|[[森喜朗]]内閣総理大臣、[[2000年]](平成12年)[[6月16日]]<ref>[https://www.kantei.go.jp/jp/morisouri/mori_speech/2000/0616kinwa.html 首相官邸 内閣総理大臣謹話 平成十二年六月十六日] - 2018年7月28日閲覧。</ref>。
 
}}
 
 
 
=== 御誄 ===
 
崩御を受け、[[明仁|今上天皇]]は以下の[[御誄]](おんるい:追悼の辞)を述べた。
 
 
 
{{Quotation|「明仁」謹んで御母皇太后の御霊に申し上げます。<br />
 
在りし日のお姿や明るいお声は今もよみがえって日夜心を離れず、思い出は尽きることがありません。哀慕の情はいよいよ胸にせまるものがあります。<br />
 
ここに、霊柩を殯宮にお遷しして、心からお祭り申し上げます。
 
|今上天皇、2000年(平成12年)[[6月29日]]。殯宮移御後一日祭の儀において
 
}}
 
 
 
{{Quotation|「明仁」謹んで御母香淳皇后の御霊に申し上げます。<br />昭和天皇の崩御あそばされてより十一年、吹上大宮御所にお過ごしの日々が穏やかにして一日も長からんことを願い、お側近く過ごしてまいりましたが、この夏の始め、むなしく幽明界を異にするにいたりました。<br />在りしの日のお姿を偲びつつ、{{lang|ko|櫬}}殿に、また[[殯宮]]におまつり申し上げること四十日、ここに斂葬(れんそう)の日を迎え、葬列をととのえ、昭和天皇のお側にお送り申し上げます。お慈しみの下にあった去りし日々を思い、寂寥は深く、追慕の念は止まるところを知りません。誠に悲しみの極みであります。
 
|今上天皇、2000年(平成12年)[[7月25日]]。斂葬の儀 葬場殿の儀において
 
}}
 
 
 
== 栄典 ==
 
=== 日本 ===
 
* [[宝冠章|宝冠大綬章]](勲一等宝冠章)- [[File:JPN Hokan-sho 1Class BAR.svg|55px]]
 
* [[瑞宝章|瑞宝大綬章]](勲一等瑞宝章) - [[File:JPN Zuiho-sho (WW2) 1Class BAR.svg|55px]]
 
 
 
=== 日本以外 ===
 
* {{Flag|Belgium}} : レオポールド勲章 - [[File:Grand Crest Ordre de Leopold.png|55px]]
 
* {{Flag|Germany}} : [[ドイツ連邦共和国功労勲章]] - [[File:GER Bundesverdienstkreuz 9 Sond des Grosskreuzes.svg|55px]]
 
* {{Flag|Sweden}} : セラフィム勲章- [[File:Order of the Seraphim - Ribbon bar.svg|55px]]
 
* {{Flag|Greece}} : 救い主勲章- [[File:GRE Order Redeemer 1Class.png|55px]]
 
* {{Flag|Denmark}} : 像勲章 - [[File:Orderelefant ribbon.png|55px]]
 
* {{Flag|Spain}} : イザベラ・カトリック勲章 - [[File:Order of Isabella the Catholic - Sash of Collar.svg|55px]]
 
* {{Flag|Thailand}} : [[大チャクリー勲章]] - [[File:Order of the Royal House of Chakri (Thailand) ribbon.png|55px]]
 
* {{Flag|Nepal}} : オジャウィ・リャーニャ勲章 - [[File:Ord.Rajanya.Nepal-Ribbon.gif|55px]]
 
 
 
== 系譜 ==
 
<!--*緑背景は男系の系譜を示し、赤背景は女性皇族を示す-->
 
{| class="wikitable" style="width:80%"
 
|-
 
| rowspan="8" align="center" style="background-color:#fdd;width:25%"| '''香淳皇后'''
 
| rowspan="4" align="center" style="background-color:#dfd;width:25%"| '''父:'''<br />[[久邇宮邦彦王|邦彦王]]([[久邇宮]])
 
| rowspan="2" align="center" style="background-color:#dfd;width:25%"| '''祖父:'''<br />[[久邇宮朝彦親王|朝彦親王]]([[久邇宮]])
 
| rowspan="1" align="center" style="background-color:#dfd;width:25%"| '''曾祖父:'''<br />[[伏見宮邦家親王|邦家親王]]([[伏見宮]])
 
|-
 
| rowspan="1" align="center"| '''曾祖母:'''<br />鳥居小路信子
 
|-
 
| rowspan="2" align="center"| '''祖母:'''<br />[[泉萬喜子]]
 
| rowspan="1" align="center"| '''曾祖父:'''<br />-
 
|-
 
| rowspan="1" align="center"| '''曾祖母:'''<br />-
 
|-
 
| rowspan="4" align="center"| '''母:'''<br />[[邦彦王妃俔子|俔子]]
 
| rowspan="2" align="center"| '''祖父:'''<br />[[島津忠義]]
 
| rowspan="1" align="center"| '''曾祖父:'''<br />[[島津久光]]
 
|-
 
| rowspan="1" align="center"| '''曾祖母:'''<br />島津千百子
 
|-
 
| rowspan="2" align="center"| '''祖母:'''<br />山崎寿満子
 
| rowspan="1" align="center"| '''曾祖父:'''<br />-
 
|-
 
| rowspan="1" align="center"| '''曾祖母:'''<br />-
 
|}
 
{{明仁の系譜}}
 
 
 
== 香淳皇后の登場する作品 ==
 
* [[1982年]](昭和57年)に[[TBSテレビ|TBS]]系で放送されたドラマ『[[いつもお陽さま家族]]』で、女優・[[高峰三枝子]]が香淳皇后の役を演じている。香淳皇后を俳優が演じたのはこれが初めてと言われている。
 
* [[2005年]](平成17年)に製作された(日本公開は[[2006年]]〈平成18年〉)映画『[[太陽 (映画)|太陽]]』では、[[桃井かおり]]が香淳皇后を演じた。
 
* [[2015年]](平成27年)に公開された映画『[[日本のいちばん長い日]]』では、[[池坊由紀]]が香淳皇后を演じた。
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Commonscat|Empress Kōjun}}
 
* [[昭和天皇記念館]]
 
* [[皇太后宮職]]
 
* [[大宮御所]]
 
 
 
== 出典 ==
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 注釈 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist|group=注釈}}
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://www.kunaicho.go.jp/about/history/history11.html 昭和天皇・香淳皇后] [[宮内庁]]による紹介
 
 
 
{{歴代皇后一覧}}
 
{{歴代日本の皇太后一覧}}
 
 
 
{{Normdaten}}
 
  
 +
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{{デフォルトソート:こうしゆんこうこう}}
 
{{デフォルトソート:こうしゆんこうこう}}
 
[[Category:日本の皇后]]
 
[[Category:日本の皇后]]

2019/5/2/ (木) 01:05時点における最新版

香淳皇后(こうじゅんこうごう、1903年明治36年)3月6日 - 2000年平成12年)6月16日

昭和天皇の皇后。久邇宮(くにのみや)邦彦王(くによしおう)の第一女子。母は鹿児島・島津家の出身。名は良子(ながこ)。1918年(大正7)学習院女学部中等科3年のとき、皇太子裕仁(ひろひと)の妃に内定。その後、元老山県有朋(やまがたありとも)が内定取りやめを求めた宮中某重大事件が起こる。しかし1922年9月婚約、1924年1月26日結婚。1926年12月裕仁の践祚(せんそ)により皇后となる。その誕生日3月6日は地久節(ちきゅうせつ)として1945年(昭和20)第二次世界大戦終戦まで祭日であった。明仁(あきひと)(1933年生まれ。現、天皇)、正仁(まさひと)(1935年生まれ。常陸宮(ひたちのみや)家を創立)の2男、成子(しげこ)(1925年生まれ。東久邇宮盛厚(ひがしくにのみやもりひろ)と結婚。1961年死去)、祐子(さちこ)(1927年生まれ、翌年死去)、和子(かずこ)(1929年生まれ。鷹司平通(たかつかさとしみち)と結婚。1989年死去)、厚子(あつこ)(1931年生まれ。池田隆政と結婚)、貴子(たかこ)(1939年生まれ。島津久永(ひさなが)と結婚)の5女をもうけた。「桃苑」の雅号をもち、書道、歌道などのほか、前田青邨(せいそん)に学んだ日本画を趣味とする。1963年、還暦記念として皇居内に音楽堂(桃華楽堂)が建設された。1989年(平成1)1月、皇太后となる。平成12年6月16日死去。同年7月香淳皇后と追号された。



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