雪村いづみ

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雪村 いづみ(ゆきむら いづみ、1937年昭和12年〉3月20日 - )は、日本歌手女優画家。一般社団法人日本歌手協会相談役。本名は朝比奈 知子(あさひな ともこ)。愛称は本名から「トン子」「トンちゃん」。

来歴

歌手デビュー

1937年昭和12年)3月20日東京府東京市目黒区大岡山(現在の東京都目黒区大岡山)に商社員の朝比奈愛三とその妻千恵子の長女として生まれる。

父・愛三は事業の傍らハワイアンバンド「カルア・カマアイナス」に参加する熱心な音楽家でもあり、幼少期のいづみは戦時下においてもモダンな音楽に日常的に接して育った。1946年(昭和21年)、いづみが9歳の時、当時通信社に勤務していた父・愛三が自殺。1952年(昭和27年)には母・千恵子が経営していた東興映画が倒産し、生活が困窮する。いづみは高校に合格していたが、学費などが支払えなかったため入学を断念。家計を助けるために中学卒業後まもなくして歌手を志し、新橋のダンスホール「フロリダ」で無給ながら歌手活動を開始した。日劇の地下で進駐軍相手に歌うアルバイトもしていた[1]

同年5月には日劇ミュージックホールのレビュー『サンマー・スキャンダル』の煙草売りの少女役に合格、7月には初舞台を踏みプロ歌手としてデビューした。8月下旬には当時最大の芸能プロダクションだった木倉音楽事務所の社長・木倉博恭に見出されて同プロ入り。同年秋には日劇『秋のおどり』に出演する。進駐軍クラブにも出演し、いづみのパフォーマンスは好評だったという。

「三人娘」

1953年(昭和28年)4月、テレサ・ブリュワーのカバー曲『想い出のワルツ』(原題:Till I Waltz Again with You)でビクターからレコードデビュー。発売直後から話題となり、20万枚の大ヒットを記録した。戦後最短でスターとなったことから「世紀に一人のシンデレラ」とも呼ばれた。その後も『青いカナリヤ』(作詞・作曲:V.C. Fiorino、訳詞:井田誠一)、『オウ・マイ・パパ』、『はるかなる山の呼び声』、『マンボ・イタリアノ』、『チャチャチャは素晴らしい』などの曲をヒットさせて不動の人気を確立。同年代の人気少女歌手である江利チエミ美空ひばりと共に「三人娘」の一人として称されるようになる。この3人が主演した1955年(昭和30年)公開の東宝映画『ジャンケン娘』は空前の大ヒットを記録。以後、『ロマンス娘』、『大当り三色娘』、少し期間を置いて『三人よれば』が製作された。

映画初出演作は1953年12月公開の松竹系映画『青春三羽烏』であった。1954年(昭和29年)には新東宝と専属契約し、井上梅次監督の歌謡映画4作品に立て続けに主演。同年12月には東宝へ移籍し、1964年(昭和39年)までに約60本の映画に出演する。いわゆる歌手の顔見せ出演に留まらず、石坂洋次郎原作の『山と川のある町』や『青い山脈』などのドラマ性の高い作品で主演を務める一方、当時の人気喜劇映画シリーズだった「社長シリーズ」や「三等重役シリーズ」には準レギュラーとして出演したほか、『嵐』『四十八歳の抵抗』といった文芸大作でも重要な役どころを演じており、女優としても高く評価される。

可憐な容姿や初々しさ、ポージングの的確さなどをイラストレーター中原淳一に見出され、ファッションモデルとしても活躍。中原や森英恵デザインのファッションショーにも出演した。中原編集の少女雑誌『ジュニアそれいゆ』を中心に『装苑』などのファッション誌をはじめ、数多くの雑誌の表紙やグラビアを飾る。1959年(昭和34年)頃には「ロカビリー3人男」の一人として一世を風靡したミッキー・カーチスとの熱愛が話題を呼び、婚約にまで至ったが後に解消している。またこの年にはいづみの母親が作った借財が8500万円に及ぶことが発覚し、以後約20年に渡って借金返済に苦しむことになる。

渡米

1959年に初渡米。ダイナ・ショアの人気番組『The Dinah Shore Chevy Show』(NBCテレビ)に出演してシャーリー・マクレーンなどと共演、芸能各紙から絶賛される。1960年(昭和35年)には全米縦断公演「ホリデイ・イン・ジャパン」出演のため再渡米し、ニューヨークのラテンクオーター劇場を皮切りに全米12都市を1年に渡り公演する。初演直後から評判を呼び、翌1961年4月には『LIFE』誌にも紹介され、日本人の芸能人として初めて表紙を飾った。

1961年(昭和36年)、アメリカ公演時に知り合ったテンプル大学の学生ジャック・セラーを日本へ連れ帰り電撃結婚。長女・朝比奈マリアをもうけるが、1966年(昭和41年)に離婚している。この年、三度目の渡米を果たす。翌1967年(昭和42年)にはアメリカでバリトンサックス奏者の原田忠幸と再婚するも、後に離婚。1970年代には劇団四季飯野おさみとの同棲も話題を呼んだが、これも後に破局し、以後は独身を貫いている。

帰国後

1970年(昭和45年)に帰国し、同年、『』で合歓ポピュラーフェスティバル(日本歌謡祭)'70でグランプリと第1回東京国際歌謡音楽祭(世界歌謡祭)で歌唱グランプリを受賞。1972年(昭和47年)には『私は泣かない』で第1回東京音楽祭でグランプリを受賞する。この受賞時のエピソードはなかにし礼の小説『世界は俺が回してる』で詳しく描かれている。

1998年平成10年)に紫綬褒章2004年にはレコード大賞「功労賞」を受賞。2007年(平成19年)には旭日小綬章を受章。デビューから60年以上を経てもなお意欲的に芸能活動を行っており、2006年(平成18年)には映画『そうかも知れない』で32年ぶりに映画に主演し、認知症の女性を演じた。2010年(平成22年)7月1日付けで一般社団法人日本歌手協会の相談役に就任した。

人物・エピソード

  • 「雪村」の芸名は、築地にあった料亭「雪村」の常連客であった東宝社長・小林一三の縁に由来する。
  • 1964年(昭和39年)の帰国後、当時の日本では導入されていなかった歌手自身がショーの進行を進める「ワンマンスタイル」をいち早く取り入れたパイオニアである。
  • 1964年1月に大阪労音リサイタルで披露した「約束」(藤田敏雄作詞、前田憲男作曲)は大きな反響な呼び、久々の大ヒットとなった。この曲は6分40秒余の大作で、当時のシングル盤で使用していた技術では収録できず、そのため新たな技術を導入しての発売となった。この痛烈なる反戦歌は、丸山明宏(現:美輪明宏)の「ヨイトマケの唄」と共に日本のメッセージソングの元祖と呼ばれている。
  • プロテストソングフーテナニーを初めて日本で歌った、いわゆるフォークシンガーの先駆けでもある。ピート・シーガーの作品でピーター・ポール&マリーPPM)が歌った「花はどこへいったの」「天使のハンマー」を日本で初めて歌った歌手である(「花はどこへいったの」はレコード発売早々に話題となったが、著作権問題が発覚し、ヒットし始めた2か月余で放送・販売が中止された)。
  • 1974年(昭和49年)、日本を代表する作曲家・服部良一の作品を、服部克久キャラメル・ママとのコラボレーションで歌ったアルバム『スーパー・ジェネレイション』を発表。このアルバムは当時大きな話題を呼び、発表以来現在まで廃盤になることなく発売され続けているロングセラー作品である。
  • NHK紅白歌合戦には、1954年(昭和29年)の第5回から1989年(平成元年)の第40回まで、通算10回出場している。1956年(昭和31年)の第7回NHK紅白歌合戦にも出演予定だったが、当日胃痙攣で倒れてしまい、出場することができなかった。そのため、「三人娘」の親友である江利チエミがいづみの代役として、出場者の印であった赤い花を2つ胸に付けて歌った。
  • 荒井由実(現:松任谷由実)の代表曲「ひこうき雲」は、元々はいづみのために書き下ろされた曲である。レコーディングもしたが、諸般の事情で発売されず、荒井自身の歌唱によって世に出た。いづみはこの曲を好んで渋谷ジャンジャンなどのステージで歌っていた。このいづみの未発表音源は1990年(平成2年)発売のアルバム『COME ON BACK』で初めて陽の目を見た。
  • 絵画を手がける芸能人の先駆けでもあり、1982年(昭和57年)以来、二科展には連続18回入選する腕前を持つ。娘の朝比奈マリアも絵画に取り組んでおり、親子展を開催したこともある。
  • 1961年(昭和36年)5月には「LIFE」誌国際版の表紙を飾っている。「LIFE」誌の表紙を飾った数少ない日本人である。
  • 「三人娘」の江利チエミ・美空ひばりとは公私共に仲が良かった。チエミが45歳、ひばりが52歳と共に若くして逝去したが、いづみは二人の最期に立ち会うことが出来ず、「チーちゃん(チエミ)は北海道、お嬢(ひばり)は神戸で……」と号泣した。チエミとひばりの亡き後、いづみは積極的に二人の持ち歌を歌い継ぐ形で披露しており、テレビでは自身の持ち歌を歌うことよりも二人のヒット曲を歌う機会が多くなる。謙遜的な意味合いから「自分にはヒット曲がない」と発言することもある。
  • 創価学会員である。

家族

父親の朝比奈愛三(1911-1946)は大連生まれの満州育ちで、大連中学卒業後慶応大学経済学部を経て商社の千代田組に勤務[2]。1939年に軽井沢で知り合った朝吹英一(朝吹常吉の長男)からハワイアン楽器を習い、朝吹と原田敬策(男爵原田熊雄の長男)、芝小路豊和(男爵芝小路豊俊の長男)とハワイアンバンド「カルア・カマアイナス」を結成し翌1940年より演奏活動を開始、愛三はマネージャーも兼任した。翌年には東郷安正(貴族院男爵議員東郷安の長男)も加わり日比谷公会堂での定期公演やレコード発売など本格的に活動し人気を集めたが、2名の出兵が決まり、愛三も1943年に独立して軍需向けの鉄工所を始めることになり退団、バンドは解散した[2]。鉄工場は施設の建設途中で敗戦となったため中止となり、得意の英語を生かして終戦直後に『シカゴトリビューン』誌の特約記者(通訳)となったが翌年自死した[3]。死後、妻の千恵子が映画製作会社「東興映画」を興したが[4]、うまくいかなかった。

歌手で作家の朝比奈愛子は実妹、著書に『愛を謳う青いカナリヤ』(婦人画報社1987年)。弟の朝比奈雍三も歌手・俳優(芸名・有光洋二)。タレント朝比奈マリアは実娘。

受賞一覧

代表曲

  • 想い出のワルツ(1953年)
  • 星を見つめないで(1953年)
  • はるかなる山の呼び声(1953年)
  • オウ・マイ・パパ(1954年)
  • 青いカナリヤ(1954年)
  • マンボ・イタリアノ(1955年)
  • ジャンケン娘(1955年)
  • チャチャチャは素晴らしい(1955年)
  • 慕情(1956年)
  • エデンの東(1956年)
  • いとしのシンディ(1957年)
  • ビバップ・ルーラ(1957年)
  • ピリカ・ピリカ(1958年)
  • 娘サンドイッチマン(1958年)
  • フジヤマ・ママ(1958年)
  • 火の玉ロック(1958年)
  • ロスアンゼルスの日本街(1959年)
  • 恋の片道切符(1960年)
  • 花はどこへいったの(1964年)
  • 約束(1964年)
  • 涙(1971年)
  • 私は泣かない(1972年)
  • 虹〜Singer〜(1992年)

CMソング

アルバム

オリジナル・アルバム

  • シャンソン・ダムール (1958年) ※10インチ
  • 娘サンドイッチマン(1959年) ※10インチ
  • 雪村いづみのヒットキット集(1965年) ※10インチ
  • 雪村いづみニュー・ヒット・キット(1964年)
  • 約束/雪村いづみ 愛を唄う(1971年)
  • スーパー・ジェネレイション(1974年)
  • 雪村いづみとポピュラー・ジャズの世界(1975年)
  • セピア・メモリー(1978年)
  • ジャズ・シンガー(1989年)
  • COME ON BACK(1990年4月25日)
  • ブルー・カナリー(1992年)
  • 世紀の歌こころの唄(1992年)
  • ミュゼットを唄う(1994年) ※40周年記念リサイタルのライブアルバム
  • I’m a Singer(1994年) ※男性作詞家・作曲家の書き下ろし作品集だが、中島みゆきが女性として唯一参加している。当初はEPICソニーからの発売を計画してたが、諸事情により東芝EMIから発売された。
  • Nothing But the Truth 〜さだまさしを唄う〜(1997年)
  • 三人娘を唄う(1998年)
  • 思い出のワルツ tribute 三人娘(2013年10月19日)
  • トーキョー・シック(2014年2月12日) ※佐野元春とのコラボレーション・アルバム。CD+DVD

ライブ・アルバム

  • ファッショナブル・コンサート IZUMI IN HARAJYUKU(1979年)2LP
  • STANDARDS 雪村いづみライヴ(1985年)

ベスト・アルバム

  • ベストヒットアルバム(GX30)
  • 歌は永遠に 雪村いづみのすべて(SJV20014)
  • フジヤマ・ママ 雪村いづみ スーパーアンソロジー 1953-1962(2002年3月21日)3CD
  • GOLDEN☆BEST 雪村いづみ '70s&'80s(2004年3月24日)2CD
  • GOLDEN☆BEST 雪村いづみ〜歩き続けた うたの道(2008年4月16日)2CD
  • GOLDEN☆BEST 雪村いづみ EMI YEARS(2013年3月20日)
  • スーパー・シック 雪村いづみ オールタイム・ベストアルバム(2014年)2CD+DVD
  • GOLDEN☆BEST 雪村いづみ アーリー・デイズ(2015年)

主な出演作品

映画

舞台・ミュージカル

  • 第一回東宝ミュージカルス 泣きべそ天女(1956年、東京宝塚劇場) - ビンガ姫 役
ファイル:Izumi Yukimura 1957 Scan10002.jpg
東宝歌舞伎『忠臣蔵』での大星力弥(1957年12月)

ラジオ番組

テレビドラマ

紅白歌合戦出場歴

年度/放送回 曲目 出演順 対戦相手 備考
1954年(昭和29年)/第5回 オー・マイ・パパ 06/15 高英男
1956年(昭和31年)/第7回 - (マンボ・バカン) (-/25) (小坂一也) 胃痙攣のため当日出場辞退
1957年(昭和32年)/第8回 2 ビー・バップ・ア・ルーラ 20/25 ジェームズ繁田
1958年(昭和33年)/第9回 3 ヤンティ・ヤック 04/25 小坂一也
1959年(昭和34年)/第10回 4 スワニー 02/25 旗照夫
1961年(昭和36年)/第12回 5 マック・ザ・ナイフ 05/25 アイ・ジョージ
1963年(昭和38年)/第14回 6 思い出のサンフランシスコ 04/25 アイ・ジョージ(2)
1964年(昭和39年)/第15回 7 ショウほどすてきな商売はない 22/25 ダーク・ダックス
1965年(昭和40年)/第16回 8 スワニー(2回目) 04/25 坂本九
1971年(昭和46年)/第22回 9 14/25 ヒデとロザンナ
1989年(平成元年)/第40回 10 愛燦燦 第1部に出演 (対戦相手なし) 美空ひばり追悼

(注意点)

  • 対戦相手の歌手名の( )内の数字はその歌手との対戦回数、備考のトリ等の次にある( )はトリ等を務めた回数を表す。
  • 曲名の後の(○回目)は紅白で披露された回数を表す。
  • 出演順は「(出演順)/(出場者数)」で表す。

ビデオ

演じた女優

脚注

  1. 『驕るなかれ: 鳥羽水族館・夢とロマンの半世紀』中村幸昭、中部経済新聞社, 2005, p50
  2. 2.0 2.1 昭和戦中期の軽音楽に関する一考察―カルア・カマアイナスについて古川隆久、研究紀要 / 日本大学文理学部人文科学研究所、2007
  3. 『「戦後」・美空ひばりとその時代』本田靖春、講談社, 1987、p301
  4. 朝比奈千恵子日本映画データベース

外部リンク


脚注