「隠れキリシタン」の版間の差分

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[[File:Maria Kannon.jpg|thumb|[[マリア観音]](主に[[中国]]製の[[観音菩薩|慈母観音]]像を、[[聖母マリア]]に見立てて信仰の対象としていたもの)]]
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かくれキリシタン
'''隠れキリシタン'''(かくれキリシタン)は、日本の[[江戸時代]]に[[江戸幕府]]が[[禁教令]]を布告して[[キリスト教]]を弾圧した後も、密かに信仰を続けた信者である。以下の2つに分けられるが、一般に両者を区別せずに呼ぶ。
 
# [[強制改宗]]により[[仏教]]を信仰していると見せかけ、キリスト教([[カトリック教会|カトリック]])を[[偽装棄教]]した信者。
 
# [[1873年]]([[明治]]6年)に禁教令が解かれ潜伏する必要がなくなっても、江戸時代の秘教形態を守り、[[カトリック教会]]に戻らない信者。
 
  
敢えて両者を区別する場合、1は「'''潜伏キリシタン'''」、2は「'''カクレキリシタン'''」(すべて[[片仮名]]で表記)と呼ぶ。
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江戸幕府の厳しい[[キリスト教禁制]]を避けて,教会も宣教師ももたず隠れて信仰し続けてきた[[キリシタン]]の秘匿的宗教形式を,禁制のなくなった 1873年以降も継承し続けている人々と,その組織。長崎県西彼杵半島南部の[[外海]],[[平戸島]],生月島 ([[生月]] ) ,[[五島列島]]などを中心に推定2万人の信者がいるといわれている。お帳役または帳方と呼ばれる役目の人を中心に,お水役,聞役などの組織があり,オラショという祈祷文を伝承し,赤子の洗礼などもする。家々には神棚や仏壇を設けているが,ひそかに聖画像 ([[イコン]] ) をまつり,葬式もいったん仏式で行なったのち,お経くずしの儀式をする。信仰行事もカトリックそのままではなく,土地の習俗や神仏信仰の影響を受けているが,いまも神道や仏教に改宗せず,また教会にも帰属しない。
  
== 潜伏キリシタン ==
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*[[キリシタン]]
[[画像:Ibaraki Municipal Christian Relics Depository - Wooden Statue of Jesus Christ Crucified - Height 21.2cm, span of arms 19.7cm - On loan from Mr. Tôji Higashi.jpg|thumb|220px|キリスト磔刑木像([[茨木市立キリシタン遺物史料館]])]]
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*[[民俗学]]
[[画像:Ibaraki Municipal Christian Relics Depository - Container for Statue of Jesus Crucified - 6.8cm in diameter, 13.3cm in height - On loan from Mr. Tôji Higashi.jpg|thumb|140px|キリスト磔刑木像の筒]]
 
日本では、[[1549年]]に[[フランシスコ・ザビエル]]が来日して以降、[[キリスト教]]の布教がおこなわれて次第に改宗する者([[キリシタン]])が増えていった。しかし、江戸時代には、[[1614年]]に[[徳川家康]]による[[禁教令]]によってキリスト教信仰は禁止され、さらに[[1637年]]に起きた[[島原の乱]]の前後からは幕府による徹底したキリスト教禁止、キリシタン取り締まりが行われた。{{see also|邪教#江戸時代|日本のキリスト教史#江戸時代}}
 
 
 
 
 
 
 
当時のカトリック信徒(キリシタン)やその子孫は、表向きは仏教徒として振る舞うことを余儀なくされ、また[[1644年]]以降は国内にカトリックの[[司祭]]が一人もいない状況ながらも、密かにキリスト教の信仰を捨てずに代々伝えていった。これを「'''潜伏キリシタン'''」と呼ぶ<ref>片岡『かくれキリシタン - 歴史と民俗』、13頁</ref><ref>宮崎『カクレキリシタン』、21頁</ref>。
 
 
 
「潜伏キリシタン」は、ごく小さな集落単位で秘密組織を作ってひそかに祈祷文「[[オラショ]]」を唱えて祈りを続け、[[観音菩薩|慈母観音]]像を[[聖母マリア]]に見立てたり(今日、それらの観音像は「[[マリア観音]]」と呼ばれる)、聖像聖画や[[メダイ]]、[[ロザリオ]]、クルス([[十字架]])などの聖具を秘蔵して「納戸神」として祀ったり、キリスト教伝来当時にならったやり方で生まれた子に[[洗礼]]を授けるなどして信仰を守りつづけた(これらの信仰の形式は地方によって異なる<ref group="※">たとえば[[外海町|外海]]・[[五島列島|五島]]では[[マリア観音]]が特に重要な信仰対象となっていた例が多いが、[[生月島]]ではマリア観音は見られず、聖画を掛け軸に仕立てて納戸に秘蔵していた例が多い。(宮崎『カクレキリシタン』、132-134頁</ref>)。
 
 
 
「潜伏キリシタン」は、当初は国内広く潜伏していたとされるが、多くの土地ではすぐに途絶えていったとみられる。しかし、[[長崎県]]をはじめ[[熊本県]]の[[天草諸島|天草]]など九州の一部では、キリスト教伝来当時から継続的に宣教師の指導を受けた信仰が広く浸透していたことから、幕末まで多くの信仰組織が存続していた。
 
 
 
幕末の開国後の[[1865年]]([[慶応]]元年)、[[長崎市|長崎]]の[[大浦天主堂]]を浦上(現・長崎市浦上)在住の信者が訪ねてきたこと(「信徒発見」と呼ばれる)から、潜伏キリシタンの存在が国内外で知られるようになった。{{main|大浦天主堂#信徒の発見と大浦天主堂|ベルナール・プティジャン#信徒発見}}
 
[[File:Oura_Tenshudo_Temple.jpg|250px]]
 
 
 
その後、浦上の他にも長崎県の[[外海町|外海]]や[[五島列島|五島]]などでも信仰を表明する者が多数あらわれた。しかしキリスト教はいまだ禁教であったため、信仰を表明した信者は投獄や拷問によって棄教を迫られ、あるいは全国に配流されるなどの大規模な弾圧にあった。{{main|浦上四番崩れ#流配|崩れ#江戸時代末期から明治時代初期}}{{see also|五島列島#五島のキリスト教史}}
 
 
 
明治政府によるキリスト教弾圧は諸外国の非難・批判を招くことになり、[[1873年]](明治6年)に、江戸幕府以来の「キリシタン禁教令」が解かれて信仰の自由が認められた。それ以降はキリスト教信者ということだけで重罪に処されることが無くなり、再宣教のために来日した[[パリ外国宣教会]]などによって、一部を除く多くのキリシタンたちがキリスト教信仰を表明し、[[カトリック教会]]の信仰に復帰した。{{main|日本のキリスト教史#カトリック教会の復興とキリスト教解禁|禁教令#明治政府による禁教令と政教分離}}{{see also|浦上四番崩れ#帰郷|邪教#明治時代}}
 
 
 
現在では[[日本国憲法第19条]]および[[日本国憲法第20条]]により法的にも[[信教の自由]]が保証されているため、定義上潜伏キリシタンは現存しない。
 
 
 
== カクレキリシタン ==
 
[[江戸時代]]潜伏していたキリシタンたちは、200年以上もの間[[司祭]]などの指導を受けることなく自分たちだけで信仰を伝えていったため、長い年月の中でキリスト教の教義などの信仰理解が失われていき、[[仏教]]や[[神道]]、民俗信仰などとも結びついたり、あるいは地元の殉教者に対する尊崇を精神的な拠り所としつつ、キリシタン信仰当時の聖具からなる御神体や、殉教者が没した聖地などを主要な信仰対象とするもの<ref>[http://www.ikitsuki.com/yakata/kiricult/index8.htm 平戸市生月町博物館 島の館 (生月島のかくれキリシタン信仰)]</ref>に変化していった。
 
 
 
このため、明治時代以降にキリスト教の信仰が解禁されて再びカトリックの宣教がなされても、地域によっては半数以上のキリシタンは改宗に応じなかった<ref>米村(1980)、28頁。</ref><ref group="※">しかし、明治初期にはカトリックの宣教を全く受け入れなかったわけではないようで、その頃長崎県のカクレキリシタンは多くの地域でカトリックの宣教師と接触していたと思われ、カトリックに復帰せずカクレキリシタンに留まった地区・組織でも、明治期に宣教師からもたらされた十字架や[[ロザリオ]]などをいまも信仰の対象として大切に保管している例が、生月島や五島列島などで見られる。(宮崎『カクレキリシタン』、140頁、210頁)</ref>。その後も独自の信仰様式を継承している人たちが、[[長崎県]]の一部地域に現在でも存在する。現地では「古ギリシタン」「旧キリシタン」「元帳」などと呼んでいるが<ref>宮崎『カクレキリシタン』、22頁</ref>、学術的には、これを「'''カクレキリシタン'''」(全て[[片仮名]]表記<ref group="※">[[文化財保護法]]による[[選択無形民俗文化財]]としての隠れキリシタンは「'''かくれキリシタン'''」と表記。{{文化遺産オンライン|161271|長崎「かくれキリシタン」習俗}}</ref>)と呼ぶ<ref group="※">以前は「'''離れキリシタン'''」と呼ぶこともあったが、この言葉は、正統なカトリックから離れてしまったという認識でカクレキリシタンを[[異端]]と見る差別的なものであり、用いるべきでないとされている。(宮崎『カクレキリシタン』、22頁)</ref>。カクレキリシタンの研究者である[[宮崎賢太郎]]([[長崎純心大学]]教授)は、次のように定義している。
 
 
 
{{Quotation|「カクレキリシタン」とは、キリシタン時代にキリスト教に改宗した者の子孫であり、[[1873年]]に禁教令が解かれて信仰の自由が認められた後もカトリックとは一線を画し、潜伏時代より伝承されてきた信仰形態を組織下にあって維持し続けている人々を指す。オラショや儀礼などに多分にキリシタン的要素を留めているが、長年月にわたる指導者不在のもと、日本の民俗信仰と深く結びつき、重層信仰、祖先崇拝、現世利益、儀礼主義的傾向を強く示すものである。|宮崎賢太郎|『カクレキリシタン』 21頁、ISBN 4931493408}}
 
 
 
これまでの研究・調査によると、大正から昭和30年代の頃には約2万人~3万人弱の「カクレキリシタン」の信徒がいたと推計されているが、近年、過疎や高齢化による後継者不足、生活様式の世俗化などによってその数は急激に減少している<ref name="Kakurekirisitan 44-48">宮崎『カクレキリシタン』、44-48頁</ref>。少数ながら、昭和以降にカトリックに復帰した集落があったり、結婚などを機に個人・家族単位でカトリックになった人もいるが、それよりも多くの人がキリシタンの信仰をやめて仏教や神道だけになっている。地域によっては、明治以降カトリックに復帰せず教会との接触を嫌ったことや近年の世俗化によってさらなる信仰の希薄化や変容が進んで元々のキリスト教から程遠いものになってしまった例もあり、集落の信仰伝承が途絶える原因の一つになっているとも考えられている。最近まで伝承が継続されている地域としては、長崎県の[[長崎市]]外海地区(旧[[西彼杵郡]][[外海町]])や[[五島列島]]、さらに[[平戸市]]の[[平戸島]]や[[生月島]](旧[[北松浦郡]][[生月町]])などの地域が挙げられ、[[世界遺産|世界文化遺産]]「[[長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産]]」の構成資産も、これらの地域に集中している<ref name="Kakurekirisitan 44-48"/>。
 
 
 
長崎市外海地区、および隣接する旧三重村の樫山(現・長崎市樫山町)などは、江戸時代から多くの潜伏キリシタン組織が継承されてきた地域で、その後カトリックに復帰した者も多かったが、いまも旧外海町の[[黒崎村 (長崎県)|黒崎]]、[[小田平集落|出津]]にはカクレキリシタンの組織が残っている。このうち黒崎には、カクレキリシタンの神社「枯松神社」があり、「サン・ジワンさま<ref group="※">語源は[[ポルトガル語]]の“São João”(サン・ジョアン=聖ヨハネ)と思われ、長崎で布教した[[司祭]]を指すとも、[[洗礼者ヨハネ]]を指すともいう。</ref>」を祀っている。黒崎の潜伏キリシタンは、明治になってカトリックに復帰した者、カクレキリシタンをかくまった[[天福寺_(長崎市)|天福寺]](長崎市樫山町、仏教[[曹洞宗]])の[[檀家制度|檀家]]に留まった者、カクレキリシタンとして先祖の信仰を維持した者とに分かれ、三者の間で互いにわだかまりが残っていた。[[1998年]](平成10年)にこの地のカトリック黒崎教会に主任[[司祭]]として赴任した野下千年[[神父]]はこれを憂慮し、三者が心を寄せ合う場として枯松神社で共に集い、信仰を守り抜いた先祖を慰霊する祭を実施するよう呼びかけ、[[2000年]]に三者の協力による「枯松神社祭」が行われ、現在も毎年行われている<ref>[http://www.nagasaki-np.co.jp/press/sekaiisan/kikaku4/04.html 『世界遺産への道』4、外海の文化的景観 独特の精神世界連綿と] [[2008年]]7月26日[[長崎新聞]]掲載</ref><ref>[http://lindenstein.blog58.fc2.com/blog-entry-795.html リンデンの長崎ケルン 第10回枯松神社祭(「沈黙」の原点)]</ref>。{{see also|小田平集落#歴史}}
 
 
 
{{要出典範囲|五島列島[[奈留島]]([[五島市]][[奈留町]])の火葬場の裏には現在も[[聖母マリア]]の姿をした[[墓]]がいくつも置かれている|date=2012年6月}}。五島列島ではカクレキリシタンの組織は大半が既に解散してしまい、信仰の道具の一部が[[福江島]]の[[堂崎天主堂#堂崎天主堂キリシタン資料館|堂崎天主堂キリシタン資料館]]に収蔵されているが、いまも[[福江島]]や奈留島、および[[中通島]](旧[[南松浦郡]][[若松町]])にわずかに組織が残っていて信仰が受け継がれている<ref>[http://www.nagasaki-np.co.jp/press/sekaiisan/kikaku3/04.html 『祈りの軌跡 堂崎教会献堂百周年』4、資料館の収蔵物(下)] 2008年4月25日 [[長崎新聞]]</ref>。
 
 
 
平戸島では、カクレキリシタンの集落単位の信仰組織はすべて解散・消滅してしまったが、地元の殉教者・殉教地はいまも大切に崇められていて、カトリック教会と合同で慰霊祭が継続して行われている地区もある。また、代々信仰の対象となってきた聖画・聖具などの一部が[[平戸市切支丹資料館]]に収蔵されているほか、いまも各家庭で聖画等を保管して個人的に信仰を受け継ぐ信者もいる<ref>[http://www.nagasaki-np.co.jp/press/sekaiisan/kikaku4/02.html 『世界遺産への道』2、生月・平戸の文化的景観と中江ノ島] 2008年5月24日 [[長崎新聞]]</ref>。
 
 
 
そして生月島では、現在最も多くカクレキリシタンの組織が残っており、独自の信仰行事がいまも伝承されている<ref>[http://www.ikitsuki.com/yakata/kiricult/index9.htm 平戸市生月町博物館 島の館 (生月島のかくれキリシタン信仰 - 組織)]</ref>。平戸市生月町博物館「島の館」には、生月島のカクレキリシタンが信仰の対象としてきた「納戸神」の一部が展示されているほか、カクレキリシタンの人たちによるオラショがCDに収録されて出版もされている。
 
 
 
=== カトリックに戻らない理由 ===
 
カクレキリシタンが未だカトリックに復帰しない理由については、さまざまな要因が考えられているが、主なものとしては、
 
#先祖からの伝統形態を守り続けることが正しいとする考え方。
 
#仏教、神道を隠れ蓑として来たが、長い年月のうちに精神と生活に定着し、神仏を祀るのに矛盾を感じなくなり、カトリックへ復活することによって神仏や先祖の位牌を捨てることへの抵抗感。
 
#先祖から受け継いだ習慣を放棄すると、罰を受けるのではないかという恐れ。
 
<!--また、プチジャン神父が信徒発見以降、各々キリシタンの土地を回った際に、伝えられてきたキリシタンの教理、定められている暦、典礼が有効か無効か判断したことも大きな原因となっている。無効だった場合、代々の先祖の魂は救われず地獄に行くということになるので、隠れキリシタンはカトリックに改宗する際大きな勇気が必要であった。-->
 
<!--↑出典を示してください。『カトリック教会情報ハンドブック2014』p33(キリシタン史跡をめぐる_九州編①)では、プティジャン師によって洗礼が無効と判断された地区の潜伏キリシタンは、無効だったからこそ改めて洗礼を受けてカトリック教会に戻ったという考察が紹介されています。-->
 
 
 
などが挙げられている<ref>[http://www.hira-shin.jp/record/index.cgi?page=6&field=33 平戸地方のかくれキリシタン「9.復活しない訳」] [[平戸市切支丹資料館]]</ref>。カムフラージュであったはずの仏教や神道の信仰が強くなってキリスト教の信仰理解が失われてしまい、カクレキリシタンにとって大切なのは、先祖が伝えてきたキリスト教起源の祈りや行事を、本来のキリスト教の意味は理解できなくなってしまっても、それを絶やすことなく継承していくことであって、それが先祖に対する子孫としての務めと考えられている<ref>宮崎『カクレキリシタン』、283頁</ref>。また、明治初期のカトリック教会による宣教の際には、前述の[[浦上四番崩れ]]など直前にあった激しい迫害や差別を恐れたり、当時のカトリックの教義が厳格であったため容易に戻って行けなかったこと<ref group="※">[[長崎ウエスレヤン大学]]講師の加藤久雄は「当時(明治初期の禁教令廃止の頃)の[[カトリック教会|カトリック]]の教義が厳格であったこと、そして信仰するにあたって様々な負担もあって、なかなかカトリックには入って行けなかった。しかし、1960年代の[[第2バチカン公会議]]以降、日本語[[ミサ]]や地域への順応など教義が寛容になった。もし、明治初頭の禁教令廃止の際に今のような寛容な教義だったら、潜伏キリシタンは皆カトリックになっていたと思います。」と述べている。({{Cite news|title=隠れキリシタン紀行:最後の晩餐は質問攻め|url=http://www.asahi.com/travel/hikyou/TKY201102240373.html|newspaper=asahi.com|date=2011-02-24}})</ref><ref group="※">平戸市生月町博物館「島の館」学芸員の中園成生は「生月でも明治初期にカトリック教会から復帰の働きかけがあったが、神棚や仏壇の存在、とりわけ仏壇を廃棄するか否かという問題があった。それは仏様の壇というより、ご先祖様を祀る祭壇として意識されていたもので、ご先祖様こそ、死の危険を感じながら信仰を受け継いできた人たちであり、それを祀らずに捨てるということは考えられないばかりか、場合によっては不吉なことが起こるかもしれないという危惧を持ったようです。当時のフランス人宣教師は、先祖の祭壇としての意味を十分に理解できなかったようで、もし、そのような祖先祭祀のスタイルを上手く組み込むことが出来ていたら、カクレキリシタンは今日存在していなかったかも知れません。」と述べている。([http://tabinaga.jp/column/view.php?category=1&hid=20140226193945&offset=3 “旅する長崎学” たびながコラム「島の館」学芸員 中園成生さんインタビュー(1)] 長崎県文化振興課)</ref>なども、理由として考えられている。
 
 
 
そして現代においては、カトリックとカクレキリシタンの間での認識の違いも生じていて、カトリック教会・信者の側はカクレキリシタンもカトリックと同じ信仰だとみなしているが、カクレキリシタンの人たちは「カトリックとは違う」と意識している例が見られる<ref>{{Cite news|title=五島列島 カクレキリシタンとカトリックの胸の内|url=http://www.asahi.com/travel/hikyou/TKY201102150432.html|newspaper=asahi.com|date=2011-02-18}}</ref>。あるいは、現代日本において仏教や神道でも見られるように、強い信仰心が失われて単なる伝統として宗教を受け継いでいるに過ぎず、カクレキリシタンもまたその例外ではなく、それゆえにあえてカトリックに復帰する必要性を感じないというケースも見られる。ただ、前述の外海地区のように、同じ地域や集落の中で同じ信仰を受け継いでいてもカトリックに復帰した者とカクレに留まった者が混在している例は多く<ref group="※">五島列島でも、カトリックとカクレキリシタンが混在している集落が複数ある他、現在カクレキリシタンが最も多い生月島でも、カクレと比べれば少数ながらカトリック信者が共存している。(宮崎『カクレキリシタン』より)</ref>、また、そもそも信仰心は個人の内面の問題であって当然ながら他人からは伺い知れないものであり、一概に明確な理由を見出すことは困難である。
 
 
 
== 教義の変容 ==
 
一部の隠れキリシタンの[[神話]]では、[[アダムとイヴ]]が[[禁断の果実]]を食べた後神に赦しを請うと神はこれを聞き届けてしまう、というものがある。[[旧約聖書]]の義の神とは明らかに異質なものとなり、西方キリスト教(ラテン教会)の中核ともいうべき[[原罪]]の観念が消滅している<ref>[[河合隼雄]]「隠れキリシタン神話の変容過程」(『物語と人間の科学』[[岩波書店]])1993年所収</ref>。
 
 
 
== 海外からの視点 ==
 
=== バチカンの対応 ===
 
[[2014年]]1月15日の一般謁見演説で[[フランシスコ (ローマ教皇)|フランシスコ]][[教皇]]は、「日本のキリスト教共同体は17世紀の初めに聖職者は追放され一人の[[司祭]]も残らず、共同体は非合法状態へと退き、密かに信仰と祈りを守りました。約250年後に宣教師が日本に戻り、数万人のキリスト信者が公の場に出て、教会は再び栄えることができました。このことは偉大です。日本のキリスト教共同体は、隠れていたにもかかわらず、強い共同体的精神を保ちました。彼らは孤立し、隠れていましたが、つねに神の民の一員でした。わたしたちはこの歴史から多くのことを学ぶことができるのです」と公式コメントを声明<ref>[http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/francis/msg0081.htm 教皇フランシスコの2014年1月15日の一般謁見演説] [[カトリック中央協議会]]</ref>、これをうけ[[バチカン]]の[[ローマ教皇庁]]は隠れキリシタンを「古いキリスト教徒であり、キリスト教徒とみなさない理由はない」とし(朝日新聞2014年3月26日)、[[信教の自由]]・[[文化的自由]]を認め、キリスト教の裾野の広さ、[[寛容]]さや[[多様性]]を示そうとした。
 
 
 
=== 英語表記 ===
 
隠れキリシタン(潜伏キリシタン・カクレキリシタンいずれも)の一般的な英訳は「Hidden Christians」になる<ref group="※">[[英語版Wikipedia]]には「[[:en:Kakure Kirishitan|Kakure Kirishitan]]」と[[ローマ字]]読み表記の項目がある</ref>。これは明治期の[[来日]][[宣教師]]が本国やバチカンへ送った書簡に見られるもので<ref group="※">各宣教師の母国語やバチカン宛の[[ラテン語]]によるものの英語対訳</ref>、[[長崎の教会群とキリスト教関連遺産]]として[[世界遺産]]を目指す活動の中で[[ユネスコ]][[世界遺産センター]]へ提出した推薦書や関係史跡での英語解説にも用いられている。「hide」には「隠れる・潜伏する」「秘めた」「人知れず」といった意味があり、自らの意思による積極性と、追い詰められやむなくの消極的な意味合い双方に解釈でき、微妙なニュアンスが伝わりにくいともされる。
 
 
 
== その他 ==
 
* [[福岡県]][[三井郡]][[大刀洗町]]には国の重要文化財の[[今村天主堂]]があるが、この教会堂が建つ今村地区は、[[1867年]]([[慶応]]3年)に隠れキリシタンが発見された場所である。
 
* [[大阪府]][[茨木市]]北部(千提寺地区)の[[高山右近]]旧領に[[大正|大正時代]]まで発見されなかった隠れキリシタンの家々があり、ある旧家は信仰の品々を入れた「あけずの櫃」を長男にのみ伝承して誰にも見せなかった。こうした中から、現在[[神戸市立博物館]]蔵の[[重要文化財]]「聖[[フランシスコ・ザビエル]]像」もこの地の旧家で発見されている。現在[[茨木市立キリシタン遺物史料館]]で「あけずの櫃」や絵画、彫刻等の資料が公開されている。
 
[[File:Daihoji temple (Shiojiri, Nagano) Maria jizo.jpg|thumb|180px|マリア地蔵<br />(大宝寺、長野県塩尻市)]]
 
* [[長野県]]の[[木曾谷|木曽谷]]を通る旧[[中山道]]沿いの各所には隠れキリシタン信仰の名残が散在している。[[塩尻市]][[奈良井宿|奈良井]]の大宝寺には子育て地蔵として隠し奉っていたのだが、首を落とされてしまったというマリア像があり、[[木曽町]]日義には折畳みマリア像、[[大桑村]]の妙覚寺には千手観音に姿を借りたマリア観音像、天長院には子育地蔵と呼ばれているマリア地蔵がある。
 
* [[岩手県]][[一関市]]の大籠地区は、隠れキリシタンの里である。[[1640年]]([[寛永]]17年)には約3万人の信者がいた。現在は、[[大籠キリシタン殉教公園]]として整備され、資料館などの施設が建てられている。また、周辺にはいくつかの処刑場の跡が残されている。
 
* [[兵庫県]][[加西市]]の大日寺で、[[1972年]]([[昭和]]47年)に背面に十字を刻んだ石仏([[背面十字架地蔵]])が発見される<ref>「[http://www.city.kasai.hyogo.jp/02kank/09bunk/sitei/shi/shi21.htm 大日寺石仏群]」(市指定文化財)</ref>。また加西市は[[羅漢寺 (加西市)|羅漢寺]]の北条石仏([[五百羅漢]])<ref>「[http://kanko-kasai.com/spot/gohyakurakan/ 五百羅漢石仏]」(加西市観光まちづくり協会)</ref>など多数の石仏で知られるが、うち150体ばかりについて隠れキリシタンとの関連を指摘する意見がある<ref>{{Cite news|title=加西の異形石仏群|url=http://www.asahi.com/kansai/travel/kansaiisan/OSK200811060033.html|newspaper=asahi.com|date=2008-11-06|accessdate=2011年3月19日}}</ref>。
 
* [[大分県]][[竹田市]]竹田には、隠れキリシタンが礼拝を行うために溶結凝灰岩を刳り貫いて造った全国でも例を見ない「キリシタン洞窟礼拝堂」(県指定史跡)と、それに隣接してブルドリノ、ナバロを含む5名の南蛮人宣教師を匿った「キリシタン神父の住居趾」がある。これらはいずれも藩の家老であった古田家の私邸敷地内であった(現在は私邸敷地内ではない)。また、キリシタンの遺物と言われる1612年に製造された「[[サンチャゴの鐘]]」が、歴代の[[岡藩]]主を祀る中川神社に奉納されている。
 
* [[島根県]][[津和野町]]には、明治時代初期に長崎から連行されてきた隠れキリシタンの殉教地跡に建てられた「[[乙女峠マリア聖堂]]」があり、毎年5月3日には殉教者を偲ぶ乙女峠祭が行われている。
 
* [[鹿児島県]]の[[甑島列島|甑島]]には、「クロ宗」([[クロ教]])と呼ばれる隠れキリシタンが現存していると言われている<ref>宮崎『カクレキリシタン』、42頁</ref>。
 
* [[愛知県]][[名古屋市]]には処刑されたキリシタンを弔うために建立された[[栄国寺]]があり、境内にはマリア観音など関連資料を展示する「切支丹遺跡博物館」が置かれている。
 
* [[熊本県]][[天草市]]には民間キリシタン資料館の[[サンタマリア館]]がある。
 
* [[宮崎県]][[延岡市]]松山町にはキリシタン塚と呼ばれる場所があり、現在は墓地となっている{{要出典|date=2018/02/20}}。
 
 
 
== 隠れキリシタンを題材とした作品 ==
 
=== 音楽 ===
 
==== 合唱曲 ====
 
* [[大島ミチル]]:交響曲『御誦』、男声合唱曲『御誦』
 
* [[柴田南雄]]:『宇宙について』
 
* [[千原英喜]]:『おらしょ』、『どちりなきりしたん』、『きりしたん 天地始之事』
 
* [[荻久保和明]]:ミサ曲第二番『オラショ』、『ぱらいぞ/オラショ』
 
* [[木下牧子]]:『邪宗門秘曲』
 
* [[岩河三郎]]:『十字架(クルス)の島』
 
* [[藤原義久]]:『マリア観音』
 
 
 
==== 吹奏楽曲 ====
 
* [[伊藤康英]]:交響詩『[[ぐるりよざ]]』
 
* [[藤田玄播]]:『切支丹の時代』
 
 
 
==== CD・DVD ====
 
* 『洋楽渡来考』4枚組 ([[皆川達夫]] 日本伝統文化振興財団)
 
 
 
=== 小説 ===
 
* [[沈黙 (遠藤周作)|沈黙]]([[遠藤周作]])
 
*女の一生(遠藤周作)
 
*青い空―幕末キリシタン類族伝([[海老沢泰久]])
 
*奇談(行川渉、諸星大二郎)
 
*守教([[帚木蓬生]])
 
 
 
=== 詩 ===
 
*十字路(中村恵美)
 
 
 
=== 漫画 ===
 
* [[生命の木]]([[諸星大二郎]])
 
* [[さよなら絶望先生]]([[久米田康治]]) - 原作の最終回の舞台が長崎の離島と思われる描写があり、隠れキリシタンが物語の真相を明らかにするテーマとなっている。
 
 
 
=== ゲーム ===
 
* [[Fate/stay night]] ([[TYPE-MOON]]) - ヒロインの一人、遠坂凛が隠れキリシタンの末裔であることが示唆されている。
 
 
 
=== 芝居 ===
 
*[[大衆演劇]]などで、隠れキリシタンの[[奉行]]の人生を劇化した、「[[マリア観音]]」を演じることもある。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
; 注釈
 
{{Reflist|group="※"}}
 
; 出典
 
{{Reflist|2}}
 
 
 
== 参考資料 ==
 
<!-- * [[皆川達夫]]『洋楽渡来考』日本キリスト教出版局 -->
 
* {{Cite journal|和書|author=米村昭二|year=1980|title=キリシタン村落の家族分封と儀礼的親族関係 : 長崎県南松浦郡奈留町矢神・南越、若松町古里の事例分析|journal=北海道大學文學部紀要|volume=28|issue=1|page=|pages=3-130|publisher=北海道大學文學部}}
 
*[[片岡弥吉]]『かくれキリシタン - 歴史と民俗』、日本放送出版協会、1967、ISBN 4140010568
 
*宮崎賢太郎『カクレキリシタン オラショー魂の通奏低音』、長崎新聞社、2003、ISBN 4931493408
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[ドチリナ・キリシタン]]
 
* [[転びキリシタン]]
 
* [[オラショ]]
 
* [[隠れ切支丹鏡]]
 
* [[マリア観音]]
 
** [[さんた丸や]]
 
** [[マリア地蔵 (幸手市)]]
 
* [[宗門改め]]
 
** [[踏み絵]]
 
** [[南蛮誓詞]]
 
{{キリスト教 横}}
 
{{日本キリスト教史}}
 
 
 
{{DEFAULTSORT:かくれきりしたん}}
 
[[Category:キリシタン|!かくれ]]
 
[[Category:隠れキリシタン|*]]
 
[[Category:宗教的な差別]]
 
[[Category:江戸時代のキリスト教]]
 
[[Category:九州地方の歴史]]
 
[[Category:日本のカトリック教会]]
 
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{{christ-stub}}
 
 
 
[[de:Christentum in Japan#Kakure Kirishitan]]
 
[[es:Historia del catolicismo en Japón#Kakure Kirishitan]]
 

2018/7/31/ (火) 17:59時点における版

かくれキリシタン

江戸幕府の厳しいキリスト教禁制を避けて,教会も宣教師ももたず隠れて信仰し続けてきたキリシタンの秘匿的宗教形式を,禁制のなくなった 1873年以降も継承し続けている人々と,その組織。長崎県西彼杵半島南部の外海平戸島,生月島 (生月 ) ,五島列島などを中心に推定2万人の信者がいるといわれている。お帳役または帳方と呼ばれる役目の人を中心に,お水役,聞役などの組織があり,オラショという祈祷文を伝承し,赤子の洗礼などもする。家々には神棚や仏壇を設けているが,ひそかに聖画像 (イコン ) をまつり,葬式もいったん仏式で行なったのち,お経くずしの儀式をする。信仰行事もカトリックそのままではなく,土地の習俗や神仏信仰の影響を受けているが,いまも神道や仏教に改宗せず,また教会にも帰属しない。