「阿片戦争」の版間の差分

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{{Infobox Military Conflict
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[[ファイル:1841年広東沖でイギリス軍艦(右奥)から砲撃を受ける清の船団.jpg|サムネイル|1841年広東沖でイギリス軍艦(右奥)から砲撃を受ける清の船団]]
|conflict = 阿片戦争
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'''阿片戦争'''(アヘンせんそう、{{lang-zh-short|第一次鴉片戰爭}}、{{lang-en-short|First Opium War}}
|image = [[File:Destroying Chinese war junks, by E. Duncan (1843).jpg|centre|300px]]
 
|caption = イギリス海軍軍艦に吹き飛ばされる清軍の[[ジャンク (船)|ジャンク船]]を描いた絵
 
|date = [[1840年]][[6月28日]] - [[1842年]][[8月29日]]
 
|place = [[清]](現在の[[中華人民共和国]])沿岸地域
 
|result = {{GBR3}}の勝利。[[南京条約]]締結。
 
|combatant1 = {{GBR3}}
 
*[[File:Flag of the British East India Company (1801).svg|border|25px]] [[イギリス東インド会社]]
 
|combatant2 = [[ファイル:Flag of the Qing Dynasty (1862-1889).svg|25px]] [[清|大清帝国]]
 
|commander1 = [[File:Royal Standard of the United Kingdom.svg|border|25px]] [[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]]([[イギリスの君主|女王]])<br />{{Flagicon|UK}}  [[ウィリアム・ラム (第2代メルバーン子爵)|メルバーン子爵]]([[イギリスの首相|首相]])<br />{{Flagicon|UK}} [[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|パーマストン子爵]]([[外務・英連邦大臣|外相]])<br />{{Flagicon|UK}} [[チャールズ・エリオット (海軍士官)|チャールズ・エリオット]]([[外交官]])<br />[[File:Naval ensign of the United Kingdom.svg|border|25px]] {{仮リンク|ジョージ・エリオット (1784-1863)|label=ジョージ・エリオット|en|George Elliot (1784–1863)}}(海軍軍人)<br />[[File:Naval ensign of the United Kingdom.svg|border|25px]] {{仮リンク|ジェームズ・ブレーマー|en|James Bremer}}(海軍軍人)<br />[[File:Flag of the British Army.svg|border|25px]] [[ヒュー・ゴフ (初代ゴフ子爵)|ヒュー・ゴフ]](陸軍軍人)
 
|commander2=[[ファイル:Flag of the Qing Dynasty (1862-1889).svg|25px]] [[道光帝]](皇帝)<br />[[ファイル:Flag of the Qing Dynasty (1862-1889).svg|25px]] [[林則徐]](欽差大臣)<br />[[ファイル:Flag of the Qing Dynasty (1862-1889).svg|25px]] [[キシャン]](琦善、欽差大臣)<br />[[ファイル:Flag of the Qing Dynasty (1862-1889).svg|25px]] [[関天培]](武将){{KIA}}<br /><br />[[ファイル:Flag of the Qing Dynasty (1862-1889).svg|25px]] [[:zh:陳化成|陳化成]](武将){{KIA}}
 
|strength1=19,000人<ref name="martin">[[Robert Montgomery Martin|Martin, Robert Montgomery]] (1847). ''China: Political, Commercial, and Social; In an Official Report to Her Majesty's Government''. Volume 2. James Madden. pp. 81–82.</ref>
 
*[[イギリス陸軍]]5000人
 
*{{仮リンク|イギリス東インド会社陸軍|label=インド陸軍|en|Presidency armies}}7000人
 
*[[イギリス海軍|王立海軍]]7069人
 
|strength2=200,000人
 
|casualties1=69人戦死<ref name="martin" /><br />451人負傷<ref name="martin" />
 
|casualties2=18,000人から20,000人死傷<ref name="martin" />
 
}}
 
'''阿片戦争'''(アヘンせんそう、{{lang-zh-short|第一次鴉片戰爭}}、{{lang-en-short|First Opium War}})は、[[19世紀]]前半に[[清]]への[[アヘン]]密輸販売で巨利を得ていた[[イギリス帝国|イギリス]]と、アヘンを禁止していた清の間で[[1840年]]から2年間にわたり行われた[[戦争]]である。
 
  
イギリスは、[[インド]]で栽培し製造したアヘンを、清に密輸して広く組織的に販売し収益を得ていたため、アヘンの流通販売や摂取を禁止していた清との間で戦争となり、イギリスの勝利に終わり、[[1842年]]に[[南京条約]]が締結され、イギリスへの[[香港島|香港]]の割譲他、清にとって[[不平等条約]]となった。
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アヘン禁輸を発端とする中国の清朝とイギリスとの戦争 (1840~42) 。[[イギリス東インド会社]]は中国との片貿易を是正するため,インド産アヘンを中国へ密輸し,その結果中国のアヘン輸入は激増し,巨額の銀流出など経済上,財政上,衛生上,重大な弊害がもたらされた。道光 19 (39) 年,アヘン厳禁論者の[[林則徐]]が,欽差大臣として広東に赴任,イギリス商人のアヘンを没収,廃棄した。当時すでに東インド会社の貿易独占権を廃止していたイギリスは,中国側の「[[公行]]」による貿易独占を打破し,中国市場を開放しようとしていたので,同 20年パーマストン内閣は開戦を決定した。ブーリーマー,G.エリオット指揮のイギリス陸海軍は舟山諸島を占領,沿海を封鎖したので,清朝は林を解任,[[琦善]]に和議交渉を命じた。しかし交渉は結局妥結せず戦争再開となり,同 21年にイギリス軍はアモイ,舟山,寧波を占領し,翌年上海,鎮江を陥れて南京に迫った。そこで清朝もついに屈し,同年7月 (太陽暦8月) [[耆英]] (きえい) [[伊里布]] (いりふ) をしてイギリス全権 H.ポッティンジャーとの間に[[南京条約]]を結ばせ,ここに戦争は終った。
 
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なお、[[アロー戦争]]を第二次とみなして'''第一次アヘン戦争'''とも呼ばれる。
 
 
 
==戦争に至った経緯==
 
もともと[[清]]は[[1757年]]以来[[広東]]港でのみ[[ヨーロッパ]]諸国と交易を行い、{{仮リンク|公行|zh|公行}}という[[北京]]政府の特許を得た商人にしかヨーロッパ商人との交易を認めてこなかった([[広東貿易]]制度){{sfn|横井勝彦|2004|p=70-72}}。
 
 
 
一方ヨーロッパ側で中国貿易の大半を握っているのは[[イギリス東インド会社]]であり、同社は現地に「管貨人委員会」(Select Commitee of Supercargoes)という代表機関を設置していた{{sfn|横井勝彦|2004|p=72}}。しかし北京政府はヨーロッパとの交易を一貫して「[[朝貢]]」と認識していたため、直接の貿易交渉には応じようとしなかった。そのため管貨人委員会さえも公行を通じて「稟」という請願書を広東地方当局に提出できるだけであった{{sfn|横井勝彦|2004|p=72}}。
 
 
 
このような広東貿易制度は中国市場開拓を目指すイギリスにとっては満足のいくものではなかった。広東貿易制度の廃止、すなわち北京政府による貿易や居住の制限や北京政府の朝貢意識を是正することによって英中自由貿易を確立することが課題になっていった{{sfn|横井勝彦|2004|p=73-74}}。
 
 
 
イギリス東インド会社は[[1773年]]にベンガル阿片の専売権を獲得しており、ついで[[1797年]]にはその製造権も獲得しており、これ以降同社は中国への組織的な阿片売り込みを開始していた。北京政府は阿片貿易を禁止していたが、地方の[[中国人]]アヘン商人が官憲を買収して取り締まりを免れつつ密貿易に応じたため、阿片貿易は拡大していく一方だった。[[1823年]]には阿片がインド綿花に代わって中国向け輸出の最大の商品となっている。広東貿易の枠外に広がりゆく阿片貿易は広東貿易制度を崩壊させるきっかけとなっていく{{sfn|横井勝彦|2004|p=74}}。
 
 
 
===アヘン貿易===
 
{{see also|三角貿易#英国、インド、清国の三角貿易}}
 
当時のイギリスは、[[茶]]、[[陶磁器]]、[[絹]]を大量に清から輸入していた。一方、イギリスから清へ輸出されるものは[[時計]]や[[望遠鏡]]のような富裕層向けの物品はあったものの、大量に輸出可能な製品が存在しなかったうえ<ref>『近代の誕生 第III巻』p.113イギリスの主要輸出品だった[[綿織物]]への需要はほとんど無かった。</ref>、イギリスの大幅な輸入超過<ref>『近代の誕生 第III巻』p.113 清国は1810年 - 1820年には2600万ドルの貿易黒字を計上している。</ref>であった。イギリスは[[産業革命]]による[[資本]]蓄積や[[アメリカ独立戦争]]の戦費確保のため、[[銀]]の国外流出を抑制する政策をとった。そのためイギリスは[[植民地]]の[[インド]]で栽培した麻薬であるアヘンを清に密輸出する事で超過分を相殺し、[[三角貿易]]を整えることとなった。
 
 
 
中国の[[明]]代末期からアヘン吸引の習慣が広まり、清代の[[1796年]]([[嘉慶 (中国)|嘉慶]]元年)にアヘン輸入禁止となる。以降19世紀に入ってからも何度となく禁止令が発せられたが、アヘンの密輸入は止まず、国内産アヘンの取り締まりも効果がなかったので、清国内にアヘン吸引の悪弊が広まっていき、健康を害する者が多くなり、風紀も退廃していった。また、人口が18世紀以降急増したことに伴い、民度が低下し、自暴自棄の下層民が増えたこともそれを助長させた<ref>[[加藤徹]]『貝と羊の中国人』p.92。</ref>。アヘンの代金は銀で決済したことから、アヘンの輸入量増加により貿易収支が逆転<ref>『近代の誕生 第III巻』p.114 清国の貿易収支は[[1828年]] - [[1836年]]に3800万ドルの輸入超過になっている。</ref>、清国内の銀保有量が激減し後述のとおり[[銀]]の高騰を招いた。
 
 
 
=== 清のアヘン取締 ===
 
{{multiple image|image1=清 佚名 《清宣宗道光皇帝朝服像》.jpg|image2=Portrait of Lin Zexu.jpeg|width1=120|width2=145|footer=道光帝(左)と林則徐(右)。}}
 
清では、この事態に至って、官僚の[[許乃済]]から『許太常奏議』といわれる'''「弛禁論」'''が出た。概要は「アヘンを取り締まる事は無理だから輸入を認めて関税を徴収したほうが良い」というものである。この論はほとんどの人間から反対を受け一蹴された。その後、アヘンを吸引した者は[[死刑]]に処すべきだと言う[[黄爵滋]]らの意見が出て、[[道光帝]]は[[1838年]]に[[林則徐]]を[[欽差大臣]](特命全権大臣のこと)に任命し[[広東省|広東]]に派遣、アヘン密輸の取り締まりに当たらせた。
 
 
 
林則徐はアヘンを扱う商人からの[[賄賂罪|贈賄]]にも応じず、非常に厳しいアヘン密輸に対する取り締まりを行った。[[1839年]]([[道光]]十九年)には、アヘン商人たちに「今後、一切アヘンを清国国内に持ち込まない。」という旨の誓約書の提出を要求し、「持ち込んだら死刑」と通告した。さらにイギリス商人が持っていたアヘンを没収、夷館も閉鎖した。同年[[6月6日]]には没収したアヘンをまとめて処分した。焼却処分では燃え残りが出るため、阿片塊を[[海水]]に浸した上で[[塩]]と[[石灰]]を投入し、化学反応によって無毒化させた。この時に処分したアヘンの総量は1,400トンを超えた。その後も誓約書を出さないアヘン商人たちを港から退去させた。
 
{{-}}
 
 
 
=== 英国の対応===
 
{{multiple image|image1=Lord Palmerston 1855.jpg|image2=Charles Elliot.png|width1=150|width2=145|footer=[[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|パーマストン子爵]](左)と[[チャールズ・エリオット (海軍士官)|チャールズ・エリオット]](右)。}}
 
北京の清政府内で阿片禁止論が強まっていた[[1836年]]、[[外務・英連邦大臣|英国外相]][[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|パーマストン子爵]]は現地[[イギリス人]]の保護のため、植民地勤務経験が豊富な[[外交官]][[チャールズ・エリオット (海軍士官)|チャールズ・エリオット]]を清国貿易[[監察官]]として広東に派遣した<ref name="横井(1988)55">[[#横井(1988)|横井(1988)]] p.55</ref>。またパーマストン子爵は海軍省を通じて東インド艦隊に対し、清に対する軍事行動の規制を大幅に緩めるのでエリオットに協力するよう通達した<ref name="横井(1988)55" />。ただし、いまだ阿片取り締まりが始まっていないこの段階ではパーマストン子爵も直接の武力圧力をかけることは禁じている<ref name="横井(1988)55" />
 
 
 
1839年3月に広東に着任した林則徐による一連の阿片取り締まりがはじまると、エリオットはイギリス商人の所持する阿片の引き渡しの要求には応じたが、誓約書の提出は拒否し、5月24日には広東在住の全英国人を連れて[[マカオ]]に退去した<ref>[[#横井(1988)|横井(1988)]] p.56-57</ref>。急速な事態の進展に東インド艦隊も事態を掴んでおらず、軍艦を派遣してこなかったため、エリオットの元には武力がなかった。これを絶好のチャンスと見た林則徐は[[九竜半島]]でのイギリス船員による現地民殺害を口実に8月15日にマカオを武力封鎖して市内の食料を断ち、さらに[[井戸]]に毒を撒いてイギリス人を毒殺しようと企んだ<ref name="横井(1988)57">[[#横井(1988)|横井(1988)]] p.57</ref>。
 
 
 
これによりエリオットたちは8月26日にマカオも放棄して船上へ避難することになった。しかしここでようやく東インド艦隊の[[フリゲート]]艦(「ボレージ」「ヒヤシンス」)が2隻だけ到着した(エリオットと清国の揉め事を察知したわけではなく、パーマストン子爵の方針にしたがってたまたま来ただけであり、しかも[[6等艦]]という[[イギリス海軍]]の序列では最下等の軍艦であった)。エリオットはこの2隻を使って早速に反撃に打って出た<ref name="横井(1988)58">[[#横井(1988)|横井(1988)]] p.58</ref>。
 
{{-}}
 
 
 
==戦争勃発==
 
[[ファイル:18th Royal Irish at Amoy.jpg|thumb|270px|1841年8月26日、[[アモイ]]で清軍を蹴散らす第18近衛アイルランド連隊。]]
 
エリオットは1839年9月4日に九竜沖砲撃戦、11月3日に川鼻海戦に及んで清国船団を壊滅させた。
 
 
 
<!--[[1840年]]、清のアヘン貿易取締りに反発した[[イギリス政府]] ([[19世紀]]に清との貿易で貿易赤字に苦しんだイギリスは、アヘン輸出によって、貿易黒字に転じた) は清に宣戦布告([[アヘン戦争]])<ref name="inoki3to5">猪木正道『軍国日本の興亡: 日清戦争から日中戦争へ』中央公論社、1995年、pp.3-5.</ref>。--->
 
 
 
一方イギリス本国も外相パーマストン子爵の主導で対清開戦に傾いており、1839年10月1日に[[ウィリアム・ラム (第2代メルバーン子爵)|メルバーン子爵]][[内閣 (イギリス)|内閣]]の[[閣議]]において遠征軍派遣が決定した<ref name="横井(1988)58">[[#横井(1988)|横井(1988)]] p.58</ref>。「阿片の密輸」という開戦理由に対しては、[[ピューリタン|清教徒]]的な考え方を持つ人々からの反発が強く、イギリス本国の[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]でも、[[野党]][[保守党 (イギリス)|保守党]]の[[ウィリアム・グラッドストン]](後に[[自由党 (イギリス)|自由党]]首相)らを中心に「不義の戦争」とする批判があったが{{#tag:ref|[[ウィリアム・グラッドストン|グラッドストン]]は[[イギリスの議会|議会]]で「確かに中国人には愚かしい大言壮語と高慢の習癖があり、それも度を越すほどである。しかし、正義は異教徒にして半文明な野蛮人たる中国人側にある」と演説して阿片戦争に反対した<ref>{{cite news|title=世界史の遺風(91)ディズレーリ 「帝国主義者」の社会改革|url=http://sankei.jp.msn.com/life/news/140109/art14010908300001-n1.htm|accessdate=2014-08-21|newspaper=[[産経新聞]]|date=2014-01-09}}</ref>。他方グラッドストンは「中国人は井戸に毒を撒いてもよい」という過激発言も行い、答弁に立ったパーマストン子爵はこの失言を見逃さず、「グラッドストン議員は野蛮な戦闘方法を支持する者である」と逆に追及して彼をやり込めた<ref name="尾鍋(1984)72-73">[[#尾鍋(1984)|尾鍋(1984)]] p.72-73</ref>。|group=注釈}}、清に対する出兵に関する予算案は賛成271票、反対262票の僅差で承認され、この議決を受けたイギリス海軍は、イギリス東洋艦隊を編成して派遣した。
 
 
 
[[1840年]]8月までに[[軍艦]]16隻、[[輸送船]]27隻、[[イギリス東インド会社|東インド会社]]所有の武装[[汽船]]4隻、陸軍兵士4,000人が中国に到着した<ref name="横井(1988)64">[[#横井(1988)|横井(1988)]] p.64</ref>。英国艦隊は林則徐が大量の兵力を集めていた[[広州市|広州]]ではなく、兵力が手薄な北方の沿岸地域を占領しながら北上し、大沽砲台を陥落させて[[首都]][[北京市|北京]]に近い[[天津市|天津]]沖へ入った<ref name="横井(1988)66">[[#横井(1988)|横井(1988)]] p.66</ref>。
 
 
 
天津に軍艦が現れたことに驚いた道光帝は、強硬派の林則徐を開戦の責を負わせて[[新疆]][[イリ地方|イリ]]へ左遷し、和平派の[[キシャン]]を後任に任じてイギリスに交渉を求めた。[[イギリス軍]]側も[[モンスーン]]の接近を警戒しており、また[[舟山諸島]]占領軍の間に病が流行していたため、これに応じて9月に一時撤収した<ref>[[#横井(1988)|横井(1988)]] p.64-67</ref>。
 
 
 
1841年1月20日にはキシャンとエリオットの間で川鼻条約(広東貿易早期再開、香港割譲、賠償金600万ドル支払い、公行廃止、両国官憲の対等交渉。後の[[南京条約]]と比べると比較的清に好意的だった)が締結された。ところがイギリス軍が撤収するや清政府内で強硬派が盛り返し、道光帝はキシャンを罷免して川鼻条約の正式な締結も拒否した<ref name="横井(1988)69">[[#横井(1988)|横井(1988)]] p.69</ref>。
 
 
 
締結拒否を知ったイギリス軍はその報復として軍事行動を再開した。英国艦隊は[[廈門市|廈門]]、[[舟山諸島]]、[[寧波市|寧波]]など[[揚子江]]以南の沿岸地域を次々と制圧していった<ref>[[#横井(1988)|横井(1988)]] p.74-75</ref>。[[三元里事件]]での現地民間人の奮戦や、虎門の戦いでの[[関天培]]らが奮戦もあったが、完全に制海権を握り、火力にも優るイギリス側が自由に上陸地点を選択できる状況下、戦争は複数の拠点を防御しなければならない清側正規軍に対する、一方的な各個撃破の様相を呈した。とくに「ネメシス」号をはじめとした東インド会社汽走砲艦の活躍は目覚ましく、水深の浅い内陸水路に容易に侵入し、清軍の[[ジャンク (船)|ジャンク船]]を次々と沈めて、後続の艦隊の進入の成功に導いた<ref name="横井(1988)70">[[#横井(1988)|横井(1988)]] p.70</ref>。
 
 
 
英国艦隊は[[モンスーン]]に備えて1841年から1842年にかけての冬の間は停止したが、1842年春にインドの[[セポイ]]6,700人、本国からの援軍2,000人、新たな汽走砲艦などの増強を受けて北航を再開した。5月に清が誇る満洲[[八旗]]軍が駐屯する[[乍浦鎮|乍浦]]を陥落させると[[揚子江]]へ進入を開始し(ここでも汽走砲艦が活躍)、7月には[[鎮江]]を陥落させた<ref name="横井(1988)77">[[#横井(1988)|横井(1988)]] p.77</ref>。イギリス軍が鎮江を抑えたことにより[[京杭大運河]]は止められ、[[北京]]は補給を断たれた<ref name="横井(1988)77" />。
 
 
 
この破滅的状況を前に道光帝ら北京政府の戦意は完全に失われた<ref name="横井(1988)77" />。
 
{{Gallery
 
|ファイル: 鸦片战争.png|イギリス海軍の進撃ルート
 
|File:British troops capture Chin-Keang-Foo.jpg|イギリス軍の[[鎮江]]攻略
 
|File:Attack on war junks.jpg|清軍[[ジャンク ()|ジャンク船]]を沈めていくイギリス軍艦
 
}}
 
{{-}}
 
 
 
==終戦後の推移==
 
[[File:The Signing of the Treaty of Nanking.jpg|thumb|300px|イギリス軍艦「[[コーンウォリス (戦列艦)|HMSコーンウォリス]]」号内で締結された南京条約。]]
 
[[1842年]][[8月29日]]、両国は[[南京条約]]に調印し、阿片戦争(第一次阿片戦争)は終結した。
 
 
 
阿片戦争以前、清国は[[広東省|広東]]([[広州市|広州]])、[[福建省|福建]]([[厦門市|厦門]])、[[浙江省|浙江]]([[寧波市|寧波]])に海関を置き、外国との海上貿易の拠点として管理貿易(公行制度)を実施していた。南京条約では公行制度(一部の貿易商による独占貿易)を廃止し[[自由貿易]]制に改め、従来の3港に[[福州市|福州]]、[[上海市|上海]]を加えた5港を自由貿易港と定めた。加えて本条約では英国への多額の[[戦争賠償|賠償金]]の支払と[[香港]]の割譲が定められた。また、翌年の[[虎門寨追加条約]]では[[治外法権]]、[[関税自主権]]放棄、[[最恵国待遇]]条項承認などが定められた。
 
 
 
この英国と清国との[[不平等条約]]の他に、[[アメリカ合衆国]]との[[望厦条約]]、[[フランス]]との[[黄埔条約]]などが結ばれている。
 
 
 
この戦争を英国が引き起こした目的は大きく言って2つある。それは、[[東アジア]]で支配的存在であった中国を中心とする[[朝貢]]体制の打破と、厳しい貿易制限を撤廃して自国の商品をもっと中国側に買わせることである。しかし、結果として中英間における外交体制に大きな風穴を開けることには成功したものの、もう一つの経済的目的は達成されなかった。中国製の綿製品が英国製品の輸入を阻害したからである。これを良しとしなかった英国は次の機会をうかがうようになり、これが第二次阿片戦争とも言われる[[アロー戦争]]へとつながっていくことになった。
 
{{-}}
 
 
 
==戦争の余波==
 
=== 清・中華人民共和国への影響 ===
 
[[ファイル:The Eastern Hemisphere map of Haiguotuzhi.jpg|サムネイル|海国図志の第3巻に描かれた東半球の地図]]
 
阿片戦争は清側の敗戦であったが、これについて深刻な衝撃を受けた人々は限られていた。[[北京市|北京]]から遠く離れた[[広東省|広東]]が主戦場であったことや、中華が[[四夷|夷狄]](いてき:[[中国の異民族|異民族]])に敗れることはまま歴史上に見られたことがその原因である。そもそも、清という国自体が、[[漢民族]]から見れば夷狄の[[満州族]]が支配する帝国である。
 
[[広東システム]]に基づく管理貿易は廃止させられたものの、清は、依然として華夷秩序は捨てておらず、イギリスをその後も「英夷」と呼び続けた。
 
 
 
しかし、一部の人々は、[[イギリス]]がそれまでの中国の歴史上に度々登場した夷狄とは異なる存在であることを見抜いていた。たとえば林則徐のブレーンであった[[魏源]]は、林則徐が収集していたイギリスやアメリカ合衆国の情報を委託され、それを元に'''『{{仮リンク|海国図志|zh|海国图志}}』'''を著した。「夷の長技を師とし以て夷を制す」という一節は、これ以後の中国近代史がたどった西欧諸国の技術・思想を受容して改革を図るというスタイルを端的に言い表したことばである。この書は東アジアにおける初めての本格的な世界紹介書であった。それまでにも地誌はあったが、[[西ヨーロッパ|西欧]]諸国については極めて粗略で誤解に満ちたものであったため、詳しい情報を記した魏源の『海国図志』は画期的であったといえよう。ただし、この試みはあくまでも魏源による個人的な作業であって、政府機関主導による体系的な事業(例えば[[日本]]の[[江戸幕府]]が長崎を拠点に行ったようなそれ)ではなかったので、魏源による折角の努力も後継者不在の為発展せず、中国社会全体には大して影響を及ぼさなかった。
 
 
 
その後、[[太平天国の乱]]などが起きる一方、[[1860年代]]から[[洋務運動]]による近代化が図られた{{sfn|和田民子|2007|pp=287-290}}。
 
 
 
阿片戦争の影響は、清が存在した[[中国大陸]]を現在支配している[[中華人民共和国]]にも及んでいるという指摘もある。同国では1kg以上の阿片を密輸、販売、運搬、製造すると、薬物密輸販売運搬製造罪([[中華人民共和国刑法|刑法]]第347条)となり、15年以上の[[懲役]]、[[無期懲役|無期徒刑]]又は[[中華人民共和国における死刑|死刑]]に処された上、[[財産]]を没収される。これについて、[[大韓民国|韓国]]の[[中央日報]]は「阿片戦争のトラウマによるもの」と指摘している<ref>{{Cite news|title=【社説】韓国人の死刑執行6日後に通知した中国の欠礼|url=http://japanese.joins.com/article/980/194980.html|publisher=中央日報|date=2015-01-07|accessdate=2017-05-01}}</ref>。
 
 
 
===銀の高騰===
 
アヘンの輸入量は1800〜01年の約4,500箱(一箱約60kg)から1830〜31年には2万箱、阿片戦争前夜の1838〜39年には約4万箱に達した。このため1830年代末にはアヘンの代価として清朝国家歳入の80%に相当する[[銀]]が国外に流出し、国内の銀流通量を著しく減少させて銀貨の高騰をもたらした。当時の清は[[銀本位制]]であり、[[銀貨]]と[[銅貨|銅銭]]が併用され、その交換比率は相場と連動していた。[[乾隆帝|乾隆]]時代には銀1[[両]](約37g)は銅銭700〜800[[文 (通貨単位)|文]]と交換されていたが、1830年には1,200文となり30年代末には最大で2,000文に達した。
 
 
 
地丁銀の税額は銀何両という形で指定されるが、農民が実際に手にするのは銅銭であり、納税の際には銅銭を銀に換算しなければならなかった。つまり、銀貨が倍に高騰することは納税額が倍に増えることを意味した。
 
 
 
=== 日本への影響 ===
 
清朝の敗戦は長崎に入港する[[オランダ]]や清の商人を通じて[[幕末]]の[[日本]]にも伝えられた。西洋諸国の軍事力が東洋に比して圧倒的に優勢であることがいよいよ明白になったため、大きな衝撃をもって迎えられた<ref name="sekai">『[[世界大百科事典]]』平凡社、1988年、阿片戦争の項目.</ref>。かつて強国であったはずの清の敗北は、さらにその先の東アジアへ進出するための西洋の旗印となる危機的な懸念があり、速やかな国体の変革が急務であることを日本に募らせた。中国国内では重要視されなかった魏源の『海国図志』<ref>[http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ru01/ru01_03176/index.html] 海国図志. 巻首,1-100 / 魏源 撰 </ref>もすぐに日本に伝えられ、[[吉田松陰]]や[[佐久間象山]]ら[[幕末]]における改革の機運を盛り上げる一翼を担った。林則徐の抱いた西洋列強への危惧は、中国ではなく日本において活かされることになったのである。天保14年([[1843年]])には[[昌平坂学問所]]にいた[[斎藤竹堂]]が『鴉片始末』<ref>[http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko08/bunko08_c0202/index.html] 鴉片始末 / 斉藤馨 稿 ; 斎藤正謙 批 </ref>という小冊子を書き、清国の備えのなさと西洋諸国の兵力の恐るべきことを憂えている。
 
 
 
それまで異国の船は見つけ次第[[砲撃]]するという[[異国船打払令]]を出すなど強硬な態度を採っていた江戸幕府もこの戦争結果に驚愕した。同時期に、[[日本人]]漂流民を送り届けてくれた船を追い返すという[[モリソン号事件]]が発生したこともあり、[[天保]]13年(1842年)には、方針を転換して、異国船に薪や水の便宜を図る[[薪水給与令]]を新たに打ち出すなど欧米列強への態度を軟化させる<ref name="sekai" />。この幕府の対外軟化がやがて[[開国]]の大きな要因となり、[[黒船来航|ペリー来航]]、[[明治維新]]を経て、日本の近代化へとつながることになった<ref name="inoki3to5">猪木正道『軍国日本の興亡: 日清戦争から日中戦争へ』中央公論社、1995年、pp.3-5.</ref>。
 
 
 
== 阿片戦争を扱った作品 ==
 
=== 小説 ===
 
*『阿片戦争』[[陳舜臣]]著 ISBN 4061311883・ISBN 4061311891・ISBN 4061311905
 
 
 
=== 映画 ===
 
*『[[万世流芳]]』([[1942年]]中華民国[[汪兆銘政権]]・[[満州国]]、監督:[[卜万蒼]]、[[朱石麟]]、[[馬徐維邦]]、[[張善琨]]、[[楊小仲]])
 
*『[[阿片戦争 (1943年の映画)|阿片戦争]]』([[1943年]]日本、監督:[[マキノ正博]])
 
*『[[阿片戦争 (1959年の映画)|阿片戦争]]』([[1959年]]中華人民共和国、監督:[[鄭君里]]、[[岑範]])
 
*『鴉片戦争』([[1963年]]台湾、監督:[[李泉渓]])
 
*『[[阿片戦争 (1997年の映画)|阿片戦争]][[:zh:%E9%B8%A6%E7%89%87%E6%88%98%E4%BA%89_(%E7%94%B5%E5%BD%B1)|[:zh]]]』([[1997年]]中華人民共和国、監督:[[謝晋]][シェ・チン])
 
 
 
=== ドラマ ===
 
*『[[年忘れ必殺スペシャル 仕事人アヘン戦争へ行く 翔べ!熱気球よ香港へ]]』(1983年)
 
 
 
==参考文献==
 
*『実録アヘン戦争』[[陳舜臣]]著 中公文庫 ISBN 4122012074
 
*『支那外交史とイギリス〈その1〉アヘン戦争と香港』[[矢野仁一]] 著 ISBN 4122016894
 
*『林則徐―清末の官僚とアヘン戦争』堀川哲男 著 ISBN 412202837X
 
*『清代アヘン政策史の研究』井上裕正 著 ISBN 4876985200
 
*『林則徐』井上裕正 著 ISBN 4891742291
 
*『茶の世界史―緑茶の文化と紅茶の社会』[[角山栄]] 著 ISBN 4121005961
 
*『近代の誕生 第III巻 民衆の時代へ』ポール・ジョンソン 著 [[別宮貞徳]] 訳 共同通信社 ISBN 4764103427
 
*{{Cite book|和書|author=[[横井勝彦]]|year=1988|title=アジアの海の大英帝国|publisher=[[同文館 (出版社)|同文館]]|isbn=9784495852719|ref=横井(1988)}}
 
**{{Cite book|和書|author=[[横井勝彦]]|year=2004|title=アジアの海の大英帝国 19世紀海洋支配の構図|series=講談社学術文庫|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4061596412|ref=harv}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[尾鍋輝彦]]|year=1984|title=最高の議会人 グラッドストン|series=[[清水新書]]016|publisher=[[清水書院]]|isbn=978-4389440169|ref=尾鍋(1984)}}
 
* {{Cite journal|和書 |author=和田民子 |year=2007 |title=19世紀末中国の伝統的経済・社会の特質と発展的可能性 |journal=日本大学大学院総合社会情報研究科紀要 |issue=8 |pages=285-294 |publisher=日本大学大学院総合社会情報研究科 |issn=13461656 |url=http://atlantic2.gssc.nihon-u.ac.jp/kiyou/pdf08/8-285-294-wada.pdf |format=PDF |accessdate=2014-02-06 |ref=harv }}
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
=== 注釈 ===
 
{{Reflist|group=注釈|1}}
 
=== 出典 ===
 
{{Reflist|2}}
 
 
 
==関連項目==
 
{{Commonscat|First Opium War}}
 
{{ウィキポータルリンク|歴史|[[画像:P history.svg|34px|Portal:歴史]]}}
 
*[[アヘン]]
 
*[[中体西用]]
 
*[[イギリス帝国]]
 
*[[イギリス東インド会社]]
 
*[[ジャーディン・マセソン]]
 
*[[香港上海銀行]]
 
*[[アロー戦争]]
 
*[[南京条約]]
 
*[[三元里事件]]
 
*[[:en:Ying_Wa_College|英華書院]]
 
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2018/12/24/ (月) 16:24時点における最新版

1841年広東沖でイギリス軍艦(右奥)から砲撃を受ける清の船団

阿片戦争(アヘンせんそう、: 第一次鴉片戰爭: First Opium War

アヘン禁輸を発端とする中国の清朝とイギリスとの戦争 (1840~42) 。イギリス東インド会社は中国との片貿易を是正するため,インド産アヘンを中国へ密輸し,その結果中国のアヘン輸入は激増し,巨額の銀流出など経済上,財政上,衛生上,重大な弊害がもたらされた。道光 19 (39) 年,アヘン厳禁論者の林則徐が,欽差大臣として広東に赴任,イギリス商人のアヘンを没収,廃棄した。当時すでに東インド会社の貿易独占権を廃止していたイギリスは,中国側の「公行」による貿易独占を打破し,中国市場を開放しようとしていたので,同 20年パーマストン内閣は開戦を決定した。ブーリーマー,G.エリオット指揮のイギリス陸海軍は舟山諸島を占領,沿海を封鎖したので,清朝は林を解任,琦善に和議交渉を命じた。しかし交渉は結局妥結せず戦争再開となり,同 21年にイギリス軍はアモイ,舟山,寧波を占領し,翌年上海,鎮江を陥れて南京に迫った。そこで清朝もついに屈し,同年7月 (太陽暦8月) ,耆英 (きえい) ,伊里布 (いりふ) をしてイギリス全権 H.ポッティンジャーとの間に南京条約を結ばせ,ここに戦争は終った。




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