阪神間モダニズム

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ファイル:Hankyu Umeda Osaka Japan June 2005 A.jpg
旧阪急梅田駅コンコース ※現存せず

阪神間モダニズム(はんしんかんモダニズム)とは、明治時代に形成された帝塚山をモデルに開発された地区である。1900年代から1930年代日本において、六甲山系と海に囲まれた理想的な地形を有する阪神間兵庫県神戸市中央区灘区東灘区芦屋市西宮市宝塚市伊丹市尼崎市三田市川西市)を中心とする地域に育まれた、近代的な芸術文化・生活様式とその時代状況を指す。スプロール(都市拡大)による郊外化に伴い、神戸市須磨区垂水区辺りや大阪府下の大阪市北中部、北摂地域までその文化圏は拡大した。

語義

阪急沿線都市研究会編「ライフスタイルと都市文化:阪神間モダニズムの光と影」(1994年)や「阪神間モダニズム」展(1997年兵庫県立近代美術館西宮市大谷記念美術館芦屋市立美術博物館芦屋市谷崎潤一郎記念館の同時開催)などを機に使われるようになった地域文化史の概念である。

明治維新から第二次世界大戦終結までの77年間に、近代化戦前)過程で起こった、黎明期の文化現象が対象となる。通常、戦後復興期高度経済成長バブル景気など(戦後)は除外される。

経緯

当時の大阪は、東京を上回る日本最大の経済都市であった[1]。また、神戸も東洋最大の港湾都市へと発展した。しかし、この両都市の産業拡大により、既成市街地の住環境は悪化することになる。

一方、当時の近畿地方では、アメリカ合衆国の例にならったインターアーバン(都市間電車)路線の建設があいつぐ。阪神電気鉄道本線1905年開業)を嚆矢とし、続く箕面有馬電気軌道(後の阪急宝塚本線1910年開業)、阪神急行電鉄神戸本線1920年開業)といった各線の開通によって、未開拓な後背地であった神戸近郊・北摂近郊の農村地帯が注目される。こうして、風光明媚な六甲山南斜面の鉄道沿線である阪神間で、快適な住環境創造を目的に、郊外住宅地の開発が進められた。したがって、この地区の都市的、文化的な発展と私鉄資本は、不可分の関係にあったといえる。

まず明治期に、阪神の豪商の豪壮な邸宅が、住吉村(現神戸市東灘区)地域に陸続と建築されていく。この開発が契機となり、大正期には、実業家のほか当時の新興階級であった大卒のインテリサラリーマン層、すなわち無産中流階級の住宅地として発展した。文化的、経済的な環境が整ったことから芸術家文化人などが多く移り住む。それに伴い、別荘地であった六甲山上および緑豊かな市街地となった山麓に、ブルジョワと呼ばれる富裕層を対象に、様々な文化・教育・社交場としてのホテル・娯楽施設が造られ、大リゾート地が形成された。こうして、西洋文化の影響を受けた生活を楽しむ独自の生活様式が育まれたのである。それらは、現在にいたる日本の芸術や文化、教育、娯楽、生活に多大な影響を与えている。なお、これらの地域は、現代でも高級住宅地やブランド住宅地として、全国屈指のエリアとなっている。

また、関東地方においても、近現代に建設された軽井沢などの洋風リゾート施設・高級別荘地や、田園調布などの東京近郊住宅地に、阪神間モダニズムの影響を見ることができる。

当時建設された主な施設・邸宅等

阪神間の主な居住者

阪神間では、当地に居を移した阪神の富裕層を中心に、多くの芸術家が誕生した。1923年関東大震災を逃れた東京の芸術家らが移住したこともあり、活況を呈することになった。

芸術家

財界人

芸能人

その他

参考文献

関連項目

外部リンク

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