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{{橋
 
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|名称 = 錦帯橋
 
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|地図名 = Japan Yamaguchi
 
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'''錦帯橋'''(きんたいきょう)は、[[山口県]][[岩国市]]の[[錦川]]に[[架橋]]された木造の[[アーチ橋]]である。
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'''錦帯橋'''(きんたいきょう)
  
== 概要 ==
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山口県岩国市の錦川 (岩国川) にかかる橋。山梨県の[[猿橋]],木曾の桟橋 (現存しない) とともに日本三奇橋の一つとして知られる。5つのアーチ橋を連ねた木橋で,長さは直線で 196m,橋面に沿って 210m。4個の橋台は水面から 5m。木曾のひのき材を使用し,1本の釘も使っていない。延宝1 (1673) 年,岩国藩主吉川広嘉によって完成され,20年ごとにかけ替えられてきたが,1950年のキジア台風の洪水で流失。 53年復元。付近に城山や吉香公園があって,観光客も多い。
[[File:錦帯橋01.jpg|thumb|錦帯橋の全景(2005年5月)]]
 
[[日本三名橋]]や[[日本三大奇橋]]に数えられており、[[名勝]]に指定されている。[[藩]]政史料には「大橋」と表記されることが多く、また「凌雲橋(りょううんばし)」、「五竜橋(ごりゅうばし)」、「帯雲橋(たいうんばし)」、「算盤橋(そろばんばし)」などとも呼ばれていた<ref>{{Cite web  |url = http://kintaikyo.iwakuni-city.net/history/named.html |title = 錦帯橋 名前の由来 |publisher = [[岩国市]] |accessdate = 2018-02-25 }}</ref>。「錦帯橋」という美名は完成後に定着した説が有力とされている。文書による初出は[[宇都宮遯庵]]の記述した文書内である。
 
 
 
5連のアーチからなるこの橋は、全長193.3メートル{{sfn|浅井建爾|2001|p=218}}、幅員5.0メートルで、主要構造部は継手や仕口といった組木の技術によって釘は1本も使わずに造られている{{sfn|浅井建爾|2001|p=218}}。石積の橋脚に5連の太鼓橋がアーチ状に組まれた構造で、世界的に見ても珍しい木造アーチ橋として知られる{{sfn|浅井建爾|2001|p=218}}。また美しいアーチ形状は、木だけでなく、鉄(鋼)の有効活用がなされて初めて実現したものである。[[杭州市|杭州]]の[[西湖 (杭州市)|西湖]]にある堤に架かる連なった橋からヒントを得て[[1673年]]に創建された。西湖の錦帯橋とは[[2004年]]に姉妹橋となっている。現在そのほとりには[http://www.028028.com/kk/sekihi.html 錦帯橋友好の石碑]が建立されている。
 
 
 
1950年(昭和25年)の台風で全て流失したため、現在の橋は1953年(昭和28年)に建造当時のまま復元されたものである{{sfn|浅井建爾|2001|p=218}}。
 
 
 
[[サクラ|桜]]の名所として、[[吉香公園]]と共に[[日本さくら名所100選]]に選定されている。
 
 
 
== 歴史 ==
 
=== 創建時 ===
 
[[ファイル:Unusual Views of Celebrated Bridges in the Provinces-Suou No Kuni Kintai Hashi.jpg|thumb|[[葛飾北斎]]の錦帯橋]]
 
[[ファイル:Kintai bridge.jpg|thumb|岩国城と錦帯橋(2009年3月)]]<!-- 位置関係として -->
 
錦帯橋は[[1673年]]([[延宝]]元年)に、岩国藩主[[吉川広嘉]]によって建造されたものである{{sfn|浅井建爾|2001|p=218}}。
 
 
 
初代[[岩国領]]主[[吉川広家]]が[[岩国城]]を築城して以来、岩国城と[[城下町]]をつなぐ橋は、数回架けられているが、錦川の洪水により、たびたび流失していた。
 
 
 
3代領主の広嘉は、洪水に耐えられる橋を造ることに着手する。橋脚を無くすことで流失を避けられるとのアイディアのもと、[[大工]]の[[児玉九郎右衛門]]を[[甲斐国|甲州]]に派遣し、橋脚がない[[跳ね橋|跳ね橋(刎橋)]]である[[猿橋]]の調査を命じた。しかし、川幅30メートルの所に架けられている猿橋に対し、錦川の川幅は200メートルもあるため、同様の[[刎橋]](はねばし)とするのは困難であった。
 
 
 
広嘉は、[[明]]の帰化僧である[[独立性易]](どくりゅうしょうえき)から、杭州の西湖には、島づたいに架けられた6連のアーチ橋があることを知る。これをもとに、連続したアーチ橋という基本構想に至った。アーチ間の橋台を[[石垣]]で強固にすることで、洪水に耐えられるというのである。
 
 
 
児玉九郎右衛門の設計により、[[1673年]]([[延宝]]元年)に5連のアーチ橋の'''錦帯橋'''が完成した。しかし、翌年の[[1674年]](延宝2年)、洪水によって流失してしまった。同年、橋台の敷石を強化して再建したところ、この改良が功を奏し、その後は[[昭和]]期まで250年以上流失することなく定期的に架け替え工事が行われ、その姿を保った。
 
 
 
なお、橋は藩が管理し、藩内では掛け替え・補修の費用のために[[武士]]・農民など身分階級を問わず「橋出米」という税が徴収されていた。ただし当時、橋を渡れるのは武士や一部の商人だけで、一般の人が渡れるようになるのは[[明治]]に入ってからであった。
 
 
 
=== 近代以降 ===
 
[[ファイル:Kintaikyou 2004.jpg|thumb|修理工事中の錦帯橋(2004年2月)]]
 
明治時代になり橋を管理していた岩国藩が消滅すると、[[1895年]]に地元有志による「錦帯橋保存会」が設立され、掛け替え資金の募集を行うようになる。
 
 
 
[[1922年]]3月、[[史蹟名勝天然紀念物保存法]]により[[名勝]]の指定を受ける。
 
 
 
[[1950年]]([[昭和]]25年)[[9月14日]]、折からの[[キジア台風]]により第四橋の橋脚から崩壊し、錦帯橋はほぼ完全に流失してしまう。276年間流されなかった錦帯橋が流失した原因としては、それまでの戦時体制下で橋の補修がおろそかになっていたことや、前年に[[米軍]]が[[岩国飛行場|岩国基地]]滑走路を拡張した際に錦帯橋付近から大量のバラス([[砂利]])を採取したことで河床の落差が急に大きくなっていたことなどが指摘されてもいる。
 
 
 
翌[[1951年]]から復旧工事が始まり、[[1953年]](昭和28年)に再建が完了。
 
 
 
[[1998年]](平成10年)[[5月6日]]、この橋を軽トラックで渡った3人の男が逮捕された。橋についた傷を修復するのに約220万円の費用がかかった。
 
 
 
[[2001年]](平成13年)より[[2004年]](平成16年)に26億円をかけて、約50年ぶりに橋体部分の架け替え工事が行われた。工事は各年の晩秋から早春の、錦川の水量が減る時期に施工された。
 
 
 
[[2005年]](平成17年)[[9月6日]]から翌[[9月7日|7日]]にかけて[[九州]]北部・[[山陰地方|山陰]]沖を通過した[[平成17年台風第14号|台風14号]]により、第一橋の橋脚2基が流失した。後に約4000万円かけて復旧工事が行われ今に至る。
 
<!--2010年2月27日に、『[[美の巨人たち]]』に採り上げられた。『美の巨人たち』では錦帯橋のアーチ形状が[[カテナリー曲線|カテナリー]]であることが紹介された。--><!-- #構造にカテナリー曲線の研究は触れられており橋脚の歴史に書くまででもないと考え、コメント化 -->
 
 
 
== 特徴 ==
 
=== 構造 ===
 
[[ファイル:The Under Side of Kintai Bridge.jpg|thumb|錦帯橋の裏側]]
 
川幅約200メートルの河川内に4つの橋脚を持つ5連の木造橋で、中央3連がアーチ橋、両端が桁橋構造を持つ反橋となっている。長さはアーチ橋が35.1メートル{{sfn|浅井建爾|2001|p=218}}、桁橋は34.8メートル。
 
 
 
アーチ橋の構造は、左右の橋脚を起点に橋桁の1番桁から11番桁まで順次勾配をゆるめながら先に突き出るように重ねていき、9番桁鼻間に大棟木(おおむなぎ)、10番桁鼻間に小棟木を入れる。
 
 
 
こうした構造形式は世界的にも珍しく、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]に登録されている橋梁の中にも、類似の構造をもった木造橋は見られない。
 
 
 
[[平成17年台風第14号|2005年の台風]]被害の際は、桁橋の橋脚の一部が流失したにもかかわらず橋体には被害がなかった。橋脚に衝撃を受けた場合、接続部のホゾ構造が橋本体に損傷を与えずに抜ける構造になっていたためである。
 
 
 
なお、近年、錦帯橋のアーチ形状は、[[カテナリー曲線]](懸垂線)である可能性を複数の研究者が指摘している<ref>{{Cite journal |和書
 
|author = 松塚展門
 
|title = 錦帯橋のアーチ形状に関する基礎的研究(立体骨組構造の施工ほか 構造i)
 
|date = 2001-07-31
 
|publisher = 社団法人[[日本建築学会]]
 
|journal = 学術講演梗概集. B-1, 構造I, 荷重・信頼性,応用力学・構造解析,基礎構造,シェル・立体構造・膜構造
 
|naid = 110006565680
 
|pages = 865-866
 
|ref = harv}}</ref>。
 
 
 
=== 材質 ===
 
現在の橋体に使われている木材は[[アカマツ]]、[[ヒノキ]]、[[ケヤキ]]、[[クリ]]、[[カシ]]、[[ヒバ]]で、木材の特性により使い分けられている。平成の架け替えの際は全国から約7年かけて木材が集められ、100%国産材で造られた。なお、桁橋の橋杭には本来のマツに代え、腐りにくい青森産のヒバが初めて使われた。
 
 
 
一方、橋脚の石垣や河床の石畳は創建後に造り替えられた記録はなく、昭和の再建の際も崩壊した石材を集めて造り直された。このため、錦帯橋で唯一、創建時の部材が残っている箇所と言われている。ただし石垣の内部には、昭和の再建の際にコンクリートが打ち込まれている。
 
 
 
=== 技術の継承 ===
 
錦帯橋は、創建時から現代までの修復記録が、藩政の史料などでほぼ完全に残り、歴代の大工[[棟梁]]の人物名もすべて分かっている。
 
 
 
記録によると、江戸期にはアーチ橋(第二、第三、第四橋)は約20年ごと、桁橋(第一、第五橋)は約40年ごとに架け替えられ、橋板や[[高欄]]は約15年ごとに取り替えられてきた。現代までに行われた架け替え工事の回数は、第一橋10回、第二橋14回、第三橋14回、第四橋16回、第五橋9回である。橋自体は50年以上持つにもかかわらずこうした手法がとられたのは、大工技術の継承の意味合いが大きかったと推測されている。
 
 
 
現存する絵図面は、2回目の架け替えとなる[[1699年]]([[元禄]]12年)のものが最古。そのほかにも12枚が残る。これらの架け替え記録から、架け替えのたびに改良が加えられ、[[1796年]](寛政8年)の改良で現在の形状が定まったことがわかっている。以後210年間、形状や意匠の変更はされていない。
 
 
 
平成の架け替えの際は、こうした古図をもとに当時の技術の再現をめざすため、設計や測量はすべて[[尺貫法]]で行われた。釘も[[ステンレス]]製などは一切使わず、手打ちした[[たたら製鉄|たたら鉄]]の和釘が使われた。
 
 
 
江戸後期には架け替えに必要な用材を確保するため、計画的な[[植林]]がされていた記録が残っている。現代においても、岩国市は将来にわたって架け替え材の自給をめざす「錦帯橋用材備蓄林200年構想」を打ち出して<ref>[http://kintaikyo.iwakuni-city.net/future/miraikeikaku.pdf 『錦帯橋みらい計画 - 基本方針』(平成24年3月、岩国市) p13]</ref>植林活動を実施している。
 
 
 
== 入橋料 ==
 
1966年以降は、観光客から「入橋料」を徴収し、掛け替え・管理の財源に充てられるようになった。「通行料」ではなく、往復同額である。
 
 
 
料金所の営業時間は8時から17時まで(夏期は19時まで)で、それ以外の時間帯では、夜間料金箱に料金を入れて渡るようになっている。
 
 
 
渡橋自体は、24時間可能である(夜間ライトアップは22時まで)
 
 
 
== アクセス ==
 
* [[岩国駅]]からいわくにバス「錦帯橋」(錦帯橋バスセンター)方面行きのバス([[岩国市交通局#一般路線|系統番号]]:12、13、21、31、32、42など)、[[防長交通]]バス「[[徳山駅]]」「高森」行きにて、乗車時間約15分-20分。下車場所から見える(下車後、徒歩100m程度)。
 
* [[西岩国駅]]からは、いわくにバス([[岩国市交通局#一般路線|系統番号]]:13)にて「錦帯橋バスセンター」に連絡。
 
* [[川西駅 (山口県)|川西駅]]からも移動可能(岩徳線・錦川清流線経由)。列車下車後、徒歩約20分。川西駅から連絡するいわくにバス([[岩国市交通局#一般路線|系統番号]]:42、65、66)もあり。
 
* [[新岩国駅]]からいわくにバス(岩国駅行き)で約12分。
 
 
 
== ギャラリー ==
 
[[File:Kintaikyou bridge.JPG|thumb|center|600px|錦川と錦帯橋]]
 
<gallery>
 
File:IwakuniKintaikyo.jpg|錦帯橋と桜
 
File:Illuminated Kintai Bridge.jpg|夜の錦帯橋
 
</gallery>
 
<!-- ファイル:Iwakuni-Kintaikyo Night.jpg|夜の錦帯橋 -->
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* {{Cite book |和書 |author=浅井建爾 |edition= 初版|date=2001-11-10 |title=道と路がわかる辞典 |publisher=[[日本実業出版社]] |isbn=4-534-03315-X |ref=harv}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[日本三大一覧]]
 
* [[かずら橋]]
 
* [[猿橋]]
 
* [[木橋]]
 
* [[依田照彦]]
 
* [[山口県の観光地]]
 
* [[中国防長新聞]](錦帯橋を題字の字模様にあしらっていた)
 
* [[岩国飛行場]](岩国錦帯橋空港)
 
* [[アサヒスーパードライ]] [[2015年]]冬季の[[コマーシャルメッセージ|CM]]に錦帯橋が登場した。出演者は[[福山雅治]]。
 
 
 
== 外部リンク ==
 
{{commonscat|Kintaikyo}}
 
* [http://www.city.iwakuni.yamaguchi.jp/ 岩国市]
 
* [http://kintaikyo.iwakuni-city.net/ 錦帯橋公式ホームページ]
 
* [http://www.028028.com/kintaisai.htm  錦帯橋再発見]
 
* [http://kintaikyo.com/ kintaikyo.com]
 
* [http://www.iwakuni-kanko.jp/ 岩国市観光協会]
 
* [http://www.ukai-iwakuni.com/ (財)錦川鵜飼振興会]
 
* {{国指定文化財等データベース|401|2363|錦帯橋}}
 
{{日本さくら名所100選}}
 
{{Normdaten}}
 
  
 +
{{テンプレート:20180815sk}}
 
{{デフォルトソート:きんたいきよう}}
 
{{デフォルトソート:きんたいきよう}}
 
[[Category:日本の木橋]]
 
[[Category:日本の木橋]]

2018/10/10/ (水) 04:32時点における最新版

錦帯橋.jpg
錦帯橋
基本情報
日本
所在地 山口県岩国市
交差物件 錦川
建設 1673年(初代落成)(うち過去に復旧工事有り)
座標 東経132度10分41.43秒北緯34.1677389度 東経132.178175度34.1677389; 132.178175
構造諸元
形式 5径間木造アーチ橋
全長 193.3 m
5.0 m
地図
錦帯橋の位置
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錦帯橋(きんたいきょう)

山口県岩国市の錦川 (岩国川) にかかる橋。山梨県の猿橋,木曾の桟橋 (現存しない) とともに日本三奇橋の一つとして知られる。5つのアーチ橋を連ねた木橋で,長さは直線で 196m,橋面に沿って 210m。4個の橋台は水面から 5m。木曾のひのき材を使用し,1本の釘も使っていない。延宝1 (1673) 年,岩国藩主吉川広嘉によって完成され,20年ごとにかけ替えられてきたが,1950年のキジア台風の洪水で流失。 53年復元。付近に城山や吉香公園があって,観光客も多い。



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