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{{出典の明記|date=2017-08-12}}
 
'''郷'''(ごう、きょう、さと)とは[[田舎]]または[[里]]を意味し、地方行政の単位(村の集合体)である。
 
  
== 日本における郷 ==
+
''''''(ごう、きょう、さと)
{| border="1" cellspacing="0" cellpadding="4" align="right"
 
|+'''山城国葛野郡の例'''
 
|- align="center"
 
|国
 
|郡
 
|郷
 
|-
 
|rowspan="14"|山城国
 
|rowspan="12"|葛野郡
 
|橋頭郷
 
|-
 
|大岡郷
 
|-
 
|山田郷
 
|-
 
|川辺郷
 
|-
 
|葛野郷
 
|-
 
|川島郷
 
|-
 
|上林郷
 
|-
 
|櫟原郷
 
|-
 
|高田郷
 
|-
 
|下林郷
 
|-
 
|緜代郷
 
|-
 
|田邑郷
 
|- align="center"
 
|他7郡
 
|―
 
|}
 
  
=== 律令制の郷 ===
+
令制で[[郡]]の下におかれた行政区画。郡の下には古く[[里]]があったが霊亀1 (715) 年郷に代った。その後,郷 (さと) の下に里 (こさと) 2~3里がおかれた時期もあった。郷の数は奈良時代の『古律書残編』には 4012郷,平安時代初期の『倭名類聚抄』 20巻本 (高山寺本) には 3715郷とある。
{{See also|国郡里制#郷里・郷長・里長|郷長}}
 
[[日本]]では[[奈良時代]]、[[律令制]]における地方行政の最下位の単位として、[[郡]]の下に'''[[里]]'''(り、さと)が設置された。里は50戸を一つの単位とし、里ごとに里長を置いた。
 
715年に里を'''郷'''(ごう、さと)に改称し、郷の下に新しく設定した2~3の里を置く'''郷里制'''に改めた。しかし里がすぐに廃止されて郷のみとなったため、郷が地方行政最下位の単位として残ることになった。
 
  
つまり、郷は戸という家族集団の集まりであるから、「人」の支配のために設けられた制度である。
+
50戸を1郷とし,それに満たない場合は[[余戸]] (あまりべ) と称した。郷には[[郷長]]がおかれた。律令の崩壊によって郷は次第に崩れ,荘園制に移ってくると,荘,村,[[保]]が末端組織として現れた。しかし,郷の名称は,中世の郷村制や近世の[[郷士]],[[郷倉]]などとして,後代までも根強く残った。
 +
  
[[平安時代]]中期の辞書である『[[和名類聚抄|和名抄]]』は、律令制の国・郡・郷の名称を網羅しており、例えば[[平安京]]が置かれた[[山城国]][[葛野郡]]には12郷が存在していたことがわかる(右表参照)。
+
{{テンプレート:20180815sk}}
 
 
=== 郷の変質 ===
 
[[律令政治]]の弛緩は地方政治にも大きな影響を与え、従来は郡の下部組織であった郷の位置づけも変化して、有力な郷([[郷倉]]が置かれた郷など)が郡から分離したり、郡そのものを分割したりすることで名称は依然として「郷」でありながら実質は郡と同じ役割を果たすものが登場した。その結果、[[中世]]に入る頃には郷は郡とほぼ同格の位置づけとなった。そのような状況において、旧来の[[郡司]]の指揮下で郷の行政を行っていた[[郷長]]は姿を消し、それに代わって郡司とほぼ同様の役目を担う郷の責任者として[[郷司]]が登場する。時期は[[11世紀]]とみられている。
 
 
 
中世・[[近世]]と郷の下には更に小さな単位である[[村]]([[惣村]])が発生して[[郷村制]]が形成されていった。これに伴い律令制の郷に限らず一定のまとまりをもつ数村を合わせて「○○郷」と呼ぶことがある。[[合掌造り]]で知られる[[白川郷]]などはその例である。
 
 
 
=== 鹿児島県、宮崎県 ===
 
近世[[薩摩藩]]領(現在の[[鹿児島県]]本土、[[宮崎県]]南西部)においては[[外城制|外城]]のことを指して郷と称した。
 
 
 
明治時代の[[町村制]]施行に伴い設置された町村は郷の区域を継承した町村が多く、同時に一部の大規模な郷については、上・中・下(伊集院郷)、上・下(東郷など)、東西(市来郷、南方郷など)に分割された。
 
 
 
=== 長崎県 ===
 
[[大村藩]]領(現在の[[長崎県]][[彼杵郡|彼杵地方]])や[[福江藩]]領(現在の長崎県[[五島列島]])においては<ref>吉田茂樹著『同義的類似地名の分布』(1978年)31-32頁</ref>、'''市町村下の行政区画である[[字]](あざ)の単位'''として「○○郷」が用いられ、現在も[[西彼杵郡]]・[[東彼杵郡]]の各町、[[南松浦郡]][[新上五島町]]、[[北松浦郡]][[小値賀町]]、[[西海市]]の大部分<ref>旧[[大瀬戸町]]については郷の名称に旧村名(いわゆる[[大字]])を冠し「大瀬戸町△△○○郷」(旧村名+郷の名称)となる。〔例:大瀬戸町瀬戸樫浦郷(「瀬戸」が旧村名、「樫浦郷」が郷の名称)〕<br/>なお、旧[[大島町_(長崎県)|大島町]]、旧[[崎戸町]]の[[江島 (長崎県)|江島]]・[[平島 (長崎県)|平島]]は郷を設置していない。</ref>で「○○郷」が使われ続けている。[[長崎市]]域、[[佐世保市]][[宮 (佐世保市)|宮]]地区および[[宇久町|宇久]]地区<ref>佐世保市のうち「郷」を使用していた地域はごく一部で、大半の地域が旧[[平戸藩]]領に属していたため、異なる単位を使用していた。[[免#長崎県]]も参照。</ref>、[[大村市]]域、[[諫早市]][[多良見町]][[伊木力村|伊木力]]地区、[[五島市]]では、前近代的イメージを持つ「郷」を都会的イメージを持つ「町」に置き換えたり、「郷」の文字を削除するなどの所在名称変更を実施している。<br/>なお、公的な文書等で「郷」の区域を「[[大字]]」と記載している場合があるが、これは便宜上の区域であり、実際には大字と[[小字]]の中間の区域<ref>岩手県など東北地方北部の地名に見られる「第○地割」の区分に相当。</ref>にあたるため、大字ではない事に留意されたい。
 
 
 
== 中国における郷 ==
 
{{PRC divisions levels}}
 
[[中国]]において郷([[簡体字]]:{{lang|zh|乡}},[[繁体字]]:{{lang|zh|鄉}})は[[秦]]・[[漢]]の時代から存在しており(→[[郷里制]]、[[漢代の地方制度]]を参照)、現在も行政区画として存続している。それは[[省級行政区|省級]]・[[県級行政区|県級]]・[[郷級行政区|郷級]]からなる「[[三級行政区画制度]]」の3番目の区分に属し、そして省級・[[地級行政区|地区級]]([[行政督察区]])・県級・郷級の「[[四級行政区画制度]]」では4番目の区分に属す。郷は[[県]]を構成する行政区画の主要な形式の一つである。
 
 
 
中国の「郷」は[[県級行政区]]の行政区画の主要な形式の一つとなっており、郷と同レベルの行政分区を「[[郷級行政区]]」と呼ぶ。それには下位区分が存在し、[[政府]]([[役場]])がある。郷の行政分区は主に[[村 (中国)|村]]([[民族村]]を含む)で稀に他のタイプの行政区画がある。郷級区画は何度も改革を受けた。参照項目:[[撤区並郷]]
 
{| border="1"
 
|-
 
!align="center"|年次
 
!align="center"|合計
 
!align="center"|うち[[民族郷]]
 
|-
 
|[[1951年]]
 
|align="right"|218006
 
|align="center"|-
 
|-
 
|[[1952年]]
 
|align="right"|275200
 
|align="center"|-
 
|-
 
|[[1983年]]
 
|align="right"|85200
 
|align="center"|?
 
|-
 
|[[1986年]]
 
|align="right"|61415
 
|align="right"|2936
 
|-
 
|[[1988年]]
 
|align="right"|46766
 
|align="right"|1571
 
|-
 
|[[1990年]]
 
|align="right"|44397
 
|align="right"|1980
 
|-
 
|[[1992年]]
 
|align="right"|33827
 
|align="center"|?
 
|-
 
|[[1994年]]
 
|align="right"|31463
 
|align="center"|?
 
|-
 
|[[1995年]]
 
|align="right"|29502
 
|align="center"|?
 
|-
 
|[[2000年]]
 
|align="right"|24555
 
|align="right"|1356
 
|-
 
|[[2001年]]
 
|align="right"|20012
 
|align="right"|1165
 
|-
 
|[[2002年]]
 
|align="right"|18356
 
|align="right"|1160
 
|-
 
|[[2003年]]
 
|align="right"|17783
 
|align="right"|1147
 
|-
 
|[[2004年]]
 
|align="right"|17256
 
|align="right"|1126
 
|}
 
 
 
== 台湾における郷 ==
 
台湾における'''郷'''は地方行政制度の中の下部組織とし、[[県轄市]]、[[鎮]]に準じるものと規定されている。
 
 
 
[[1999年]]1月25日に公布された[[中華民国地方制度法]]の第3条規定を根拠に設置されている。現在台湾の地方制度中での'''郷'''の明確な設置基準は定められておらず、現状は日本統治時代の「支庁」や、清代の「巡検」、鄭氏政権での「屯田」など、歴史的な区分に基づき設置されているが、合併などで新たな法的設置基準が求められている。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* [[瀬野精一郎]]著『長崎県の歴史』(山川出版社、1972年)
 
 
 
== 関連項目 ==
 
*[[古代日本の地方官制]]
 
*[[令制国]]
 
*[[里]]
 
*[[荘]]([[庄]])
 
*[[郡]]
 
*[[住所#日本の住所表記|日本の住所表記]]
 
 
 
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{{DEFAULTSORT:こう}}
 
{{DEFAULTSORT:こう}}
 
[[Category:郷| ]]
 
[[Category:郷| ]]

2018/10/18/ (木) 23:10時点における版

(ごう、きょう、さと)

令制での下におかれた行政区画。郡の下には古くがあったが霊亀1 (715) 年郷に代った。その後,郷 (さと) の下に里 (こさと) 2~3里がおかれた時期もあった。郷の数は奈良時代の『古律書残編』には 4012郷,平安時代初期の『倭名類聚抄』 20巻本 (高山寺本) には 3715郷とある。

50戸を1郷とし,それに満たない場合は余戸 (あまりべ) と称した。郷には郷長がおかれた。律令の崩壊によって郷は次第に崩れ,荘園制に移ってくると,荘,村,が末端組織として現れた。しかし,郷の名称は,中世の郷村制や近世の郷士郷倉などとして,後代までも根強く残った。




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