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|国名    = 遠江国
 
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'''遠江国'''(とおとうみのくに/とほたふみのくに)
 
'''遠江国'''(とおとうみのくに/とほたふみのくに)
  
[[日本]]の地方行政区分である[[令制国]]の一つ。[[東海道]]に属する。
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現在の静岡県の西部。[[東海道]]の一国。上国。国名は,京に近い[[琵琶湖]]が近淡海(ちかつあはうみ)であるのに対して[[浜名湖]]が遠淡海(とほつあはうみ)であることによるという。『[[旧事本紀]]』には遠淡海国造,久努国造(くぬのくにのみやつこ),素賀国造(そがのくにのみやつこ)がみえる。遠淡海国造は浜名郡,久努国造は山名郡,素賀国造は佐野郡をそれぞれ中心とする地方にあったとみられる。国府,国分寺は磐田市[[見付]]に置かれた([[遠江国分寺跡]])。『[[延喜式]]』には浜名,敷智(ふち),引佐(いなさ),麁玉(あらたま),長上,長下,磐田,山香,周智(すち),山名,佐野(さや),城飼(きかふ),蓁原(はいはら)の 13郡があり,『和名抄』には郷 94,田 1万3661町が記されている。鎌倉時代,治承4(1180)年以来守護であった[[安田義定]]が建久5(1194)年幕府に誅せられて以後,北条氏(大仏氏)が守護となった。南北朝時代には[[足利直義]]が領有したが,後醍醐天皇の皇子[[宗良親王]]が湖北の井伊谷城によってこれに対抗したこともあった。その後今川氏,仁木氏,千葉氏が守護となったが,正平7=文和1(1352)年以降今川氏が守護として戦国時代に及び,今川氏親,[[今川義元]]父子は駿河,遠江,三河を領して勢力をふるった。義元が永禄3(1560)年[[桶狭間の戦い]][[織田信長]]に敗れたのちは[[徳川家康]]に支配された。さらに家康が江戸に入府すると代わって山内氏,堀尾氏が入国した。江戸時代には横須賀に西尾氏,浜松に井上氏,掛川に太田氏,のちに相良に田沼氏が封じられた。明治1(1868)年[[徳川家達]]が駿河,遠江 70万石を与えられたために諸藩は移封されたが,同 4年堀江県から浜松県となり,1876年静岡県に編入。
 
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== 沿革 ==
 
=== 律令時代 ===
 
[[7世紀]]に、地方[[豪族]]であった[[遠淡海国造]]・[[久努国造]][[素賀国造]]の領域を合併して遠江国が設置された。
 
 
 
[[国府]]所在地は、中世に「[[見付]]」と呼ばれたところで、現在の[[磐田市]]にあった。国府は磐田郡にあり。
 
 
 
東隣の[[駿河国]]との境は[[大井川]]であった。[[奈良時代]]には、[[大井川]]の流路が現在より北を流れていたため、今の[[栃山川]]以南が遠江国に含まれていた。具体的には[[島田市]]の南部・[[藤枝市]]の南部、および[[焼津市]]の南部で合併前の[[大井川町]]である<ref>『静岡県史』通史編
 
1(原始・古代篇)481-484頁。</ref>。大井川町の全域は、明治初期まで遠江国[[榛原郡]]であった。
 
 
 
=== 中世後期から近世 ===
 
[[室町時代]]には[[斯波氏]][[今川氏]]が守護に補任される。斯波氏の遠江支配は弱く、戦国時代に元来強固な地盤をもつ東の[[駿河国]][[今川氏]]に併呑され領国化した。今川氏は[[甲斐国]][[武田氏]]による[[駿河侵攻]]で滅亡し、遠江の今川領国は武田氏と[[三河国]][[徳川家康]]により分割された。武田氏はさらに遠江・三河方面への侵攻を志向する[[西上作戦]]を行い、家康は[[浜松城]]を築いて居城を移し武田氏と対峙した。武田軍と徳川軍が交戦した遠江国の地としては、[[二俣城]]・[[高天神城]]・[[三方ヶ原]]が有名である。武田軍が[[南信地方|伊那地方]]から遠江国に入る際には、[[兵越峠]]経由の連絡線が整備された。
 
 
 
[[安土桃山時代]]になると、武田氏滅亡跡に武田領国を確保した家康は[[関八州|関東八カ国]]に移転し、代わって遠江国には豊臣系大名が配置され、浜松城に[[堀尾吉晴]]が、[[掛川城]]に[[山内一豊]]が転入する。
 
 
 
[[江戸時代]]になると、吉晴は[[松江城]]に、一豊は[[高知城]]に移転する。代わって、遠江国には[[浜松藩]]と[[掛川藩]]が設置され、[[譜代大名]]が入れ替わりで入った。また、江戸時代には、[[伊那盆地]]や[[水窪町|水窪]]の[[木材]]が、[[天竜川]]の舟運を利用して遠江国平野部に運搬された。
 
 
 
=== 明治維新以後 ===
 
[[明治維新]]を迎えると、[[廃藩置県]]で遠江国は[[浜松県]]となった。しかし、[[1876年]]([[明治]]9年)[[8月21日]]の県合併で、浜松県は静岡県([[駿河国]])や[[足柄県]]の一部([[伊豆国]])と合併した。この決定に怒った遠江地方民は、何度か遠江国の分離を明治政府に懇願したが、いずれも却下されて終わった。
 
 
 
また、廃藩置県によって[[武士]]たちが失業すると、[[牧之原台地]]の開拓が実施され、[[緑茶]]畑が造成された。これ以後、[[小笠山]]周辺には、緑茶畑が多く見られる。
 
 
 
[[1889年]](明治22年)に[[東海道本線]]が開通すると、江戸時代の天竜川の舟運とも重なって、[[浜松市|浜松]]には[[綿織物]]工場や楽器工場が多く立地するようになった。
 
 
 
第二次大戦後になると、[[東海道新幹線]]や[[東名高速道路]]が建設され、遠江地方は、東海地方における農業と工業の要衝となっている。
 
 
 
=== 近代以降の沿革 ===
 
* 「旧高旧領取調帳」に記載されている[[明治]]初年時点での国内の支配は以下の通り(372,388石余)。'''太字'''は当該郡内に藩庁が所在。国名のあるものは[[飛地]]領。
 
** [[榛原郡]](50,198石余) - [[天領|幕府領]]、[[地方知行|旗本領]]、[[掛川藩]]、'''[[相良藩]]'''、[[三河国|三河]][[挙母藩]]、三河[[西尾藩]]、[[伊勢国|伊勢]][[長島藩]]、[[丹波国|丹波]][[篠山藩]]
 
** [[佐野郡]](29,406石余) - 幕府領、旗本領、[[浜松藩]]、'''掛川藩'''、[[横須賀藩]]
 
** [[城東郡]](68,905石余) - 幕府領、旗本領、浜松藩、掛川藩、'''横須賀藩'''、相良藩、[[三河吉田藩]]、三河西尾藩、丹波篠山藩
 
** [[周智郡]](25,086石余) - 幕府領、旗本領、掛川藩、横須賀藩、三河挙母藩
 
** [[豊田郡 (静岡県)|豊田郡]](55,992石余) - 幕府領、旗本領、浜松藩、掛川藩、[[堀江藩]]、[[陸奥国|陸奥]][[白河藩]]
 
** [[山名郡]](39,958石余) - 幕府領、旗本領、掛川藩、横須賀藩、堀江藩、陸奥白河藩
 
** [[磐田郡]](1,041石余) - 幕府領
 
** [[長上郡]](30,569石余) - 幕府領、旗本領、浜松藩
 
** [[敷知郡]](49,827石余) - 幕府領、旗本領、'''浜松藩'''、'''堀江藩'''、三河吉田藩
 
** [[浜名郡]](1,240石余) - 幕府領
 
** [[引佐郡]](17,927石余) - 幕府領、旗本領、陸奥白河藩
 
** [[麁玉郡]](2,233石余) - 幕府領、旗本領、陸奥白河藩
 
* [[1866年]]([[慶応]]2年)[[6月19日 (旧暦)|6月19日]] - 白河藩が[[陸奥国|陸奥]]'''[[棚倉藩]]'''に[[転封]]。
 
* [[1868年]](慶応4年)
 
** [[2月1日 (旧暦)|2月1日]] - 棚倉藩が陸奥'''白河藩'''に転封。ただし実行されず、藩庁は引き続き棚倉に置かれた。
 
** [[5月24日 (旧暦)|5月24日]] - [[徳川将軍家|徳川宗家]]が[[駿府藩|駿河府中藩]]に転封。それにともない遠江・駿河・伊豆国内で領地替えが行われ、吉田藩領が[[上総国]][[望陀郡]]、挙母藩領が[[美作国]][[勝北郡]]、西尾藩領が[[安房国]][[平郡]]、長島藩領が上総国[[周淮郡]]、篠山藩領が丹波国[[天田郡]]・[[何鹿郡]]・[[桑田郡]]・[[船井郡]]および[[但馬国]][[朝来郡]]に転封、幕府領・旗本領が消滅。
 
** [[9月5日 (旧暦)|9月5日]] - 浜松藩が上総[[鶴舞藩]]、相良藩が上総[[小久保藩]]、横須賀藩が安房[[花房藩]]に転封。
 
* 1968年([[明治]]元年)
 
** [[11月7日 (旧暦)|11月7日]] - 掛川藩が上総[[柴山藩]]に転封。
 
** [[12月15日 (旧暦)|12月15日]] - 白河藩が[[戊辰戦争]]後の処分により[[減封]]。郡内の領地が消滅。
 
** 以上の変更により、堀江藩領を除く全域が府中藩の管轄となる。
 
* [[1869年]](明治2年)[[8月7日 (旧暦)|8月7日]] - 府中藩が'''[[静岡藩]]'''に改称。
 
* [[1871年]](明治4年)
 
** [[7月14日 (旧暦)|7月14日]] - [[廃藩置県]]により'''[[静岡県]]'''、'''[[堀江県]]'''の管轄となる。
 
** [[11月14日 (旧暦)|11月14日]] - 第1次府県統合により全域が'''静岡県'''の管轄となる。
 
** [[11月15日 (旧暦)|11月15日]] - 第1次府県統合により'''[[浜松県]]'''の管轄となる。
 
* [[1876年]](明治9年)[[8月21日]] - 第2次府県統合により'''静岡県'''の管轄となる。
 
 
 
== 脚注 ==
 
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遠江国(とおとうみのくに/とほたふみのくに)

現在の静岡県の西部。東海道の一国。上国。国名は,京に近い琵琶湖が近淡海(ちかつあはうみ)であるのに対して浜名湖が遠淡海(とほつあはうみ)であることによるという。『旧事本紀』には遠淡海国造,久努国造(くぬのくにのみやつこ),素賀国造(そがのくにのみやつこ)がみえる。遠淡海国造は浜名郡,久努国造は山名郡,素賀国造は佐野郡をそれぞれ中心とする地方にあったとみられる。国府,国分寺は磐田市見付に置かれた(遠江国分寺跡)。『延喜式』には浜名,敷智(ふち),引佐(いなさ),麁玉(あらたま),長上,長下,磐田,山香,周智(すち),山名,佐野(さや),城飼(きかふ),蓁原(はいはら)の 13郡があり,『和名抄』には郷 94,田 1万3661町が記されている。鎌倉時代,治承4(1180)年以来守護であった安田義定が建久5(1194)年幕府に誅せられて以後,北条氏(大仏氏)が守護となった。南北朝時代には足利直義が領有したが,後醍醐天皇の皇子宗良親王が湖北の井伊谷城によってこれに対抗したこともあった。その後今川氏,仁木氏,千葉氏が守護となったが,正平7=文和1(1352)年以降今川氏が守護として戦国時代に及び,今川氏親,今川義元父子は駿河,遠江,三河を領して勢力をふるった。義元が永禄3(1560)年桶狭間の戦い織田信長に敗れたのちは徳川家康に支配された。さらに家康が江戸に入府すると代わって山内氏,堀尾氏が入国した。江戸時代には横須賀に西尾氏,浜松に井上氏,掛川に太田氏,のちに相良に田沼氏が封じられた。明治1(1868)年徳川家達が駿河,遠江 70万石を与えられたために諸藩は移封されたが,同 4年堀江県から浜松県となり,1876年静岡県に編入。





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