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[[画像:Yoshiwara circa 1872.JPG|240px|thumb|right|明治5年([[1872年]])頃の東京の[[吉原遊郭]]]]
 
[[画像:Yoshiwara circa 1872.JPG|240px|thumb|right|明治5年([[1872年]])頃の東京の[[吉原遊郭]]]]
'''遊廓'''(ゆうかく)は、公許の[[遊女]]屋を集め、周囲を塀や堀などで囲った区画のこと。
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'''遊廓'''(ゆうかく)
  
== 概要 ==
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 公娼(こうしょう)を政治的意図により集団定住させておく区画。遊廓の周囲を堀で囲んだりして特殊区域であることを明示したのを、城郭に見立てて廓(くるわ)と俗称した。遊廓を一般都市社会から隔離するのは、治安・風俗の取締りおよび私娼対策を便利にする目的に基づく。日本では、中世末期に都市の発達に伴って小規模な集娼地区が形成され始めたが、政策的な遊廓の設置は豊臣(とよとみ)秀吉が大坂と京都に相次いで認めたのを起源とし、徳川幕府がこれを継承して整備した。幕府は全国に約20か所の遊廓を指定するとともに、増設を規制し、遊女・遊女屋を取り締まる規則を定めた。指定された遊廓のおもなものは、江戸吉原、駿府(すんぷ)(静岡)弥勒(みろく)町、佐渡鮎川(あゆかわ)、大津柴屋(しばや)町、敦賀(つるが)六軒町、京都島原、伏見撞木(ふしみしゅもく)町、奈良木辻(きつじ)、大坂新町、兵庫磯(いその)町、備後鞆(びんごとも)、下関稲荷(しものせきいなり)町、博多(はかた)柳町、長崎丸山などであった。指定地は、年代や伝承によって若干の変動はあるが、主要なものは前代からの存在を追認しながら、市中での場所を移転させて承認したものが多い。また、前記の地名からも、大都市や交通の要地にとって遊廓が必要な存在であったことをうかがうことができる。この必要性は、宿駅における飯盛女(めしもりおんな)を準公認の遊女として認めたり、諸大名領知下の地方都市に茶屋町などの名称で集娼地区が設けられたことにつながり、さらに江戸深川、京都祇園(ぎおん)、大坂島之内などの三都における私娼街をも黙認させる結果となった。もちろん、これらは公式な遊廓ではないが、規模の大きなものは遊廓と同一視されていた。そこに、幕府の売春対策の不徹底さが露呈しているとともに、需要には抗しきれなかった実態を示すものといえよう。幕末開港後の横浜や函館(はこだて)に外国人を対象とする遊廓が開設されたのも、類似の現象である。
古来の女性は、兵役に堪えないと捉えられた。他にも様々な面で男性が労働力として貴重がられ、このため人口抑制の観点により家内労働力としてあぶれた女性が自活する道は、自らの能力を商品化するしかなかった。また一方で女性であることを求められる職業も存在し、両者が結びついて土地に縛られない遊女と化した。しかし時代が下ると治安の面から遊女を一ヶ所に集めて統制する必要性が生まれた。
 
  
成立は、[[安土桃山時代]]にさかのぼる。別称として'''廓'''(くるわ)、'''傾城町'''(けいせいまち)ともいう。広義には、芸妓を含んだ'''[[花街]]'''(はなまち、かがい)や、'''色里'''(いろさと)、'''遊里'''(ゆうり)、'''色町'''(いろまち)など私娼街も含めた通称である。「廓」は、「[[城郭]]」と同じで囲われた区画を意味する語である。一区画にまとめられたのは、人の行き来を制限して治安を守り風紀を統制することが目的だった。[[吉原遊廓|江戸吉原]]の「お歯黒どぶ」が有名である。近代の遊郭は、必ずしも大きな物理的障壁で囲まれていたわけではなく目印程度の境界であることもあった。
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 遊廓の規模・構成は一様でなく、各地の地理的、経済的、風俗的条件に左右された。しかし幕府公認の遊廓には共通の要件があった。遊廓の多くは市街の外周部に置かれ、島原や吉原のように周囲に溝を掘り、通行は大門(おおもん)の一方口とするのを典型とした。これによって外部との境界を明確にし、不法な遊客の出入りや遊女の廓外への外出・逃亡を監視する手段とし、大門のわきには番小屋を置いた。廓内には、遊女屋、揚屋(または引手茶屋)、茶屋、芸者屋(芸妓(げいぎ)置屋)などの主要構成員のほか、飲食店や日用雑貨屋などが居住していた。遊女屋には上級から下級まで何種類もあり、区画を分けて同級の店をまとめて配置するのが普通で、遊興費の差が上下で数十倍もあるため、遊客や遊興の内容には大差があった。遊廓のうちでも三都(京都、江戸、大坂)の遊廓は規模も大きく格式も高かったが、これに長崎を加えて「京の女郎に江戸の張りをもたせ、長崎の衣装を着せて大坂の揚屋で遊ぶ」ことが最高の遊びの目標であった。これは各遊廓の長所、特色を取り上げて理想郷を述べたものである。同時にこれらの代表的遊廓における揚屋遊びには、売春における情緒的要素が濃厚で、そこに一種の社交場的性格が醸し出されていたことを指摘することができる.
  
その他、[[江戸時代]]に公許の遊廓以外で遊女の集まる場所に[[宿場|宿場町]]の飯盛旅籠(めしもり はたご)([[飯盛女]]を参照)や[[門前町]]などの[[岡場所]](おかばしょ)があった。
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 揚屋の客は、初期には上流の武士や経済力を背景とした新興の町人が主流であり、優れた芸人・幇間(ほうかん)を集め、招かれる遊女も教養豊かな太夫(たゆう)たちであった。その社交場的性格によって、遊廓は多くの知識人を集め、そこから文学、演芸、音楽、美術をはじめ一般生活・風俗に至る広い分野に新鮮な影響を与えて遊廓の存在価値を高めた。粋(すい)や「いき」という江戸時代の美学の形成にも深くかかわっており、歌舞伎(かぶき)芝居と並ぶ二大娯楽機関としての地位を得ていた。しかし、江戸末期には高踏的な格式や高額な遊興費などの遊廓自身の欠陥と、安価で自由な私娼街の進出によって、しだいに有力な客層を失い、文化的色彩は衰えた。
  
明治期においては、1900年に[[遊女|娼妓]]の居住地と貸座敷(遊女屋)の営業地が同一地区に指定され、この指定された公娼街を俗に遊郭と呼んだ<ref>[{{NDLDC|1265588/281}} 遊郭]『大百科事典. 第25巻』 (平凡社, 1939) </ref>。
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 1872年(明治5)の娼妓解放令後は、遊女屋が貸座敷と名をかえたのにしたがって貸座敷営業指定地として集娼制が継続した。その際、従来は黙認だった私娼街が新たに遊廓として公認されたものが多く、集娼制は明治以後に整備強化されたといえる。その結果、1929年(昭和4)末には全国の遊廓数546か所、娼妓数4万9377人に達した。これには、明治時代以後における資本主義の発展による一般経済力の上昇が基本的背景となっているほか、性病対策や、当時の軍隊の存在と関連するところが大きかった。ただし明治以後の遊廓は、江戸時代における社交場的機能を失っていた。
  
== 前史 ==
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 第二次世界大戦後の公娼制廃止とともに、特殊飲食店街(いわゆる赤線地帯)に移行して営業を続けたが、1958年(昭和33)4月、売春防止法の実施によって終止符を打った。
古代から女性による接客は存在した。{{要出典範囲|date=2015年12月8日 (火) 19:27 (UTC)|神社の[[巫女]]による官人の接待がその起源という説がある。}}
 
  
遠方から神社仏閣に参詣する観光客向けに宿場町が形成され、そこに客を接待する遊女が置かれたと考えられる。平安時代には大阪湾、淀川流域の江口、神崎のように港や宿場で遊女が多く集まる地域があった。また、この時期の遊女は、自由業であり遊郭などの決まった場所で営業することもなく、自分で客を取る形態の遊女もあった。しかし次第に遊女を取り締まる動きが起こる。[[室町時代]]には、[[足利将軍家]]が京都の傾城屋から税金を徴収していた。1528年、傾城局が設置され、遊女は、制度のもとに営業するようになった。
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{{テンプレート:20180815sk}}
 
 
== 遊廓の成立 ==
 
権力の統制と保護を受け、遊廓として1箇所に集められるのは、近世以降のことである。[[豊臣秀吉]]の治世に、遊廓を設けるため京の原三郎左衛門と[[林又一郎]]が願い出を秀吉にしており許可を得ている。今の大阪の[[道頓堀川]]北岸にも遊廓がつくられた。その5年後の[[天正]]17年(1589年)には、京都、二条柳町に遊廓が作られた。[[1589年]](天正17)に秀吉によって開かれた京都の柳原遊郭をもって遊郭の始まりとする説もある<ref>[{{NDLDC|971690/15}} 『娯楽業者の群 : 社会研究』権田保之助著 大正12]</ref>。大阪と京都の遊廓は17世紀前半に、それぞれ新町([[新町遊廓]])と朱雀野([[嶋原|島原遊廓]])に移転した。
 
 
 
=== 各地の遊廓 ===
 
[[ファイル:82b Yoshiwara Girls.jpg|サムネイル|客待ちをする吉原遊郭の遊女]]
 
[[ファイル:Toei Uzumasa--2.jpg|thumb|屋内から見た遊女の後姿([[東映太秦映画村]])]]
 
 
 
江戸に遊廓が誕生したのは[[慶長]]17年(1612年)である。[[駿府]](今の[[静岡市]])の[[二丁町遊郭]]から遊女屋を移して[[日本橋人形町]]付近に遊廓がつくられ、これを[[吉原遊廓]]と呼んだ。吉原遊廓は[[明暦の大火]]で焼失。その後[[浅草]]山谷付近に仮移転の後、すぐに浅草日本堤付近に移転した。人形町付近にあった当時のものを「元吉原」、日本堤付近に新設されたものを「新吉原」とも言う。
 
 
 
大坂の新町遊廓、京都の島原遊廓、江戸の吉原遊廓は、'''三大遊廓'''と呼ばれて大いに栄えた。これに伊勢古市(幕府非公認)、長崎丸山を加えたものが五大遊郭になる。新町の[[夕霧太夫]]、島原の[[吉野太夫]]、吉原の[[高尾太夫]]などは名妓と言われ、有名である。この他にも江戸時代には、全国20数箇所に公許の遊廓が存在した。最大の遊廓は江戸の吉原で、新吉原ができた頃には300軒近い遊女屋があったと言われている。
 
 
 
[[鎖国]]の時代になると、[[寛永]]16年(1639年)ごろには西洋との唯一の窓口として栄えた[[長崎市|長崎]]に[[丸山 (長崎市)|丸山遊廓]]が誕生した。[[井原西鶴]]は『[[日本永代蔵]]』に「長崎に丸山という処なくば、上方銀無事に帰宅すべし、爰通ひの商い、海上の気遣いの外、いつ時を知らぬ恋風恐ろし」と記した。この丸山を三大遊廓に数える書もあるほどで、[[南蛮貿易]]で潤った当時の華やかさがうかがえる。
 
 
 
[[藤本箕山]]が著した『[[色道大鏡]]』(1678年序、全18巻)は、当時の遊廓25か所を列挙している<ref>藤本、p.341-432.</ref>。
 
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*京島原([[嶋原]])
 
*伏見夷町([[撞木町]])
 
*伏見柳町([[中書島]])
 
*大津馬場町([[馬場町 (大津市)|馬場町]]、現在の[[大津市]]長等)
 
*駿河府中弥勒町([[府中宿 (東海道)|府中宿]]、現在の[[静岡市]][[葵区]]駒形通5丁目)
 
*江戸三谷([[吉原遊郭]])
 
*敦賀六軒町(現在の[[敦賀市]]栄新町)
 
*三国松下(松ヶ下、現在の[[坂井市]]三国町)
 
*奈良鴨川木辻(現在の[[奈良市]]東木辻町・鳴川町)
 
*大和小網新屋敷(現在の[[橿原市]]小綱町)
 
*堺北高洲町(現在の[[堺市]][[堺区]]北旅籠町東)
 
*堺南津守(現在の堺市堺区南旅籠町)
 
*大坂瓢箪町([[新町遊廓]])
 
*兵庫磯町(現在の[[神戸市]][[兵庫区]]磯之町)
 
*五町街([[中村遊郭]])
 
*佐渡鮎川(現在の[[新潟県]][[佐渡市]]相川会津町)
 
*石見温泉(現在の[[島根県]][[大田市]]温泉津町温泉津稲荷町)
 
*播磨室小野町(現在の兵庫県[[たつの市]][[室津|御津町室津]])
 
*備後鞆有磯町(現在の[[広島県]][[福山市]]鞆町鞆)
 
*広島多々海(現在の広島県[[竹原市]]忠海町)
 
*宮島新町(現在の広島県[[廿日市市]][[厳島|宮島町]]新町)
 
*下関稲荷町(現在の[[山口県]][[下関市]]赤間町)
 
*博多柳町(現在の[[福岡市]][[博多区]]下呉服町)
 
*二本木(現在の[[熊本市]][[二本木 (熊本市)|二本木]])
 
*長崎丸山町寄合町([[丸山 (長崎市)|丸山]]、現在の[[長崎市]]丸山町・寄合町)
 
*肥前[[樺島]](現在の長崎市野母崎樺島町)
 
*薩摩山鹿野田町([[山ヶ野金山]]、現在の[[霧島市]]横川町上ノ山ケ野)
 
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名古屋の遊廓は1610年に許可されたがまもなく廃止、1731年(享保16年)藩主徳川宗春の時代に再度許可され、翌年から西小路遊廓、富士見原遊廓、葛町遊廓などが造られたが、1736年(元文元年)に西小路遊廓から出火して付近遊興地に延焼したため、これを機に各遊廓は廃止され、1850年代に復活するまで禁止された([[中村遊郭#中村遊廓成立以前の名古屋の遊廓]]参照)<ref>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=3880&query=&class=&d=all&page=2 中北薬品(株)『中北薬品二百五十年史』(1977.11)]渋沢社史データベース</ref>。
 
 
 
[[琉球]]時代の[[沖縄]]には、[[辻 (那覇市)]]と呼ばれる地域に尾類(ジュリ)と呼ばれる遊女を置いた遊郭があり、明治時代に沖縄県になって以降も続いた<ref name=uehara>[https://books.google.co.jp/books?id=0tFaxO2pbzIC&printsec=frontcover 新篇辻の華]上原栄子、時事通信出版局, 2010</ref><ref> [{{NDLDC|1442213}} 『沖縄の歓楽郷辻の今昔』]来和雀 (久志助善, 1934)</ref>。[[尚真王]]時代の[[1526年]]に始まったといわれ、数百とあった妓楼のすべてが女性のみの手によって運営されていたという特色を持つ(明治末頃からは遊郭の集会所の事務方として男性が雇われた)<ref name=uehara/>。[[伊波普猷]]によると、[[寛文]]12年([[1672年]])に、市中の至るところにいた尾類を風紀上よろしくないという理由から集めて辻と仲島の2遊郭に収容したのが始まりで、その後、渡地にも遊郭ができたという<ref>[{{NDLDC|1870223/68}} 尾類の歴史]『沖縄女性史』伊波普猷、小沢書店、1919年</ref>。
 
 
 
=== 遊郭の構造 ===
 
[[滝川政次郎]]によれば、江戸時代の遊郭の構造は[[唐]]の[[長安]]にあった妓館の集合地である「平康里」に倣ったものだと言う{{sfn|永井|2008|pp=11-37}}。大門に通ずる胴町と直角に交わる三筋の横町という構造は、京の柳馬場、六条三筋町、島原に共通して見られ、その後の江戸の吉原、新吉原など名だたる遊郭にも同様の構造がみられるという。
 
 
 
『[[守貞謾稿]]』によれば、吉原遊郭では出入り口となる門は西側に一か所あるのみであり、門の脇に作られた[[番屋]]によって通行する人々を監視していた。その後、時代を経るごとに門の数が増え、150年後には7か所の門が市街地と連絡していた。
 
全国の多くの遊里は自然発生的な配置となっており、街から隔離された位置に娼家を集め、障壁や掘割で囲んだ郭構造を持つ遊郭は少数であり、特殊な例と言える{{sfn|永井|2008|pp=11-37}}。
 
 
 
=== 遊廓の文化 ===
 
江戸時代の遊廓は代表的な娯楽の場であり、文化の発信地でもあった。上級の[[遊女]](芸娼)は[[太夫 (遊女)|太夫]]<!--(たゆう)-->や[[花魁]]<!--(おいらん)-->などと呼ばれ、富裕な町人や、[[武家]]・[[公家]]を客とした。このため上級の遊女は、芸事に秀で、文学などの教養が必要とされた。
 
 
 
江戸中期以降は度々の取締りを受けながらも、遊廓以外の岡場所が盛んになった。また、遊廓自体もの大衆化が進み、一般庶民が主な客層となっていった。<!---??---->
 
 
 
== 近代以降の遊郭 ==
 
[[ファイル:TAISHO-ROU 大正楼、阿部定が最後に勤めた遊郭、P9200158.JPG|thumb|240px|right|阿部定が遊女人生の最後を過ごした大正楼が現存する京口新地([[篠山市]])]]
 
[[File:Izaki Yukaku-Fukuchiyama,Kyoto 京都府福知山市 猪崎遊郭跡 DSCF8280.JPG|thumb|240px|right|[[1877年]]([[明治]]10年)から[[1958年]]まで約80年間続いた遊郭の面影を残す[[猪崎]]([[京都府]][[福知山市]])]]
 
 
 
日本の近代化、火災による消失、第2次大戦の空襲、その後の都市開発により遊郭は、姿を消していった。
 
 
 
明治5年(1872年)、[[明治政府]]によって[[芸娼妓解放令]]が発令されたが実態はほとんど変わらなかった。<!---これにより遊女屋は、変質し始めた。--->遊女屋は、貸座敷と名称を変え、貸座敷のある区域は「遊郭」として存続した。ただし都市化の進展と共に遊廓の存在が問題になり郊外などへ移転させられる事例もあった。[[東京大学|東大]]の近くにあった[[根津遊廓]]が深川の[[洲崎 (東京都) |洲崎]]に移転した(明治19年)のは、その例である。
 
 
 
明治33年(1900年)、遊郭に反対する廃娼運動が起きる中、内務省令[[娼妓取締規則]]が制定され、警視庁・各府県警は、貸座敷に関する取締規則を制定した。しかし内容は、従来の取締り方針の追認で貸座敷営業の許される地域を指定し、娼妓の居住地は、貸座敷の許される地域に限るというものであった。<!---娼妓はこの指定地外に居住することができなくなった。この指定された公娼街をかつては「遊廓」と呼んだ。--->
 
 
 
新聞記者出身の[[細民]]研究家・[[草間八十雄]]によれば、明治33年に[[内務大臣 (日本)|内務大臣]]の命により[[警保局]]長が遊郭新設に関する標準内規を定め、地方長官に通牒した。これにより、次の条件を満たさなければ貸座敷免許地の新設は検討されないこととなった。
 
#その土地市街を形成して戸数2000戸以上、人口1万以上を有する。ただし兵営所在地、船着場、その他特別の事情のあるものはこの限りでない。
 
#貸座敷営業者が無いために密売淫の弊に堪えない。
 
#付近に貸座敷免許地が無いために新設の必要がある。
 
#その他地方民情に背馳しない。
 
#貸座敷免許地に適当な場所がある。
 
ただしこうした内規があっても実査には、世論を考慮して、遊郭の新設は、もとより拡張すら許可されなかったという。
 
 
 
しかし、大阪の[[今里新地]]や市岡新地(港新地)のように、芸妓として営業する花街として設立許可を得たものの営業内容は、貸座敷と変わらず、実質は新設遊廓に等しい所や、遊廓ではなく{{要出典範囲|date=2013年11月|私娼窟として県や議会が設立を許可した}}[[鳥取県]]の倉吉新地など、警察や行政の区割りでは遊廓ではないものの地元の人には「遊廓」として認識されている所もある。もちろん、これらは貸座敷指定地ではないので行政や警察の資料には遊廓としてカウントされていない。
 
 
 
草間によれば、昭和4年12月末日における統計は以下の通り。
 
 
 
*貸座敷指定地は全国で541箇所。うち30箇所は貸座敷営業者は存在しない、いわば有名無実のもので、したがって実際に貸座敷の存在する遊郭は511箇所。
 
*貸座敷指定地の最も多いのは北海道(45箇所、うち3箇所が有名無実)で、ついで山口(41箇所、うち15箇所が有名無実)、三重(30箇所)、山形(26箇所)、福島(25箇所)、長崎(23箇所)、栃木(21箇所)、新潟および静岡(20箇所)、広島(19箇所)、京都(17箇所)。
 
*少ないのは鹿児島および沖縄(1箇所)、鳥取、徳島および山梨(2箇所)、奈良、和歌山および愛媛(3箇所)。
 
*廃娼が実行されたのは群馬および埼玉。
 
*100戸以上の貸座敷で公娼街をなす遊廓の個数は19箇所で、大阪市南区五花街499戸、京都市東山区祇園町449戸、宮川町418戸、東京市浅草区新吉原295戸、深川区洲崎286戸、大阪市西区松島257戸、京都市下京区七条新地237戸、沖縄県那覇市辻町土之蔵町234戸、京都市東山区祇園町(乙部)227戸、大阪市西区新町212戸、京都市中京区先斗町194戸、大阪市西区堀江156戸、京都市上京区北新地151戸、下京区島原146戸、名古屋市西区旭139戸、岡山市東西中島町120戸、堺市龍神107戸、京都市伏見区中書島104戸、大阪市住吉区飛田 100 戸。以上は確実であるが総数不詳。
 
*娼妓1000人以上を有する遊廓は大阪市西区松島遊廓3657人、東京市浅草区新吉原2557人、深川区洲崎2329人、名古屋市西区旭遊廓1562人、京都市東山区宮川町1340人、神戸市福原遊廓1329人。
 
*1遊郭に娼妓1人を置き、かつてのなごりをとどめるものは、北海道厚岸郡浜中村遊廓、岩手県紫波郡日詰町遊廓、石川県鳳至郡宇出津町遊郭、珠洲郡小木町遊廓、山口県熊毛郡曾根村遊郭の5箇所。
 
*1箇年間の遊客が100万人以上の遊郭は、大阪の松島遊郭209万440人、東京の新吉原167万8305人、大阪の飛田153万7576人、東京の洲崎137万2535人の4箇所。
 
*全国511箇所の遊廓において貸座敷を営業する者は1万1154人、娼妓は5万56人、遊客の総数は1箇年に2278万4790人、その揚代は7223万5400円。
 
 
 
昭和6年末で遊廓の個数は減少しないが、貸座敷営業者は9799人となり、娼妓は5万2064人、遊客は2239万3000人と、昭和4年と大差は無い。
 
 
 
「公娼私娼の存在は[[文明国]]たる日本の恥辱」という議論もなされていた<ref name="tokyo-daraku">[http://www.aozora.gr.jp/cards/000096/files/939_21954.html 東京人の堕落時代] 夢野久作 1925年</ref>。大正12年(1923年)の[[関東大震災]]を機に当局によって「私娼撲滅」が試みられ、当局が浅草の[[千束]]町の私娼窟を潰したために、浅草全域が私娼窟のようになったとされる<ref name="tokyo-daraku"/>。そのため、[[私娼公娼の絶滅論]]は、風俗の改善が達成されなければ意味がないと夢野久作が指摘している<ref name="tokyo-daraku"/>。
 
 
 
[[第二次世界大戦]]後の[[昭和]]21年(1946年)には[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の指令により[[公娼制度]]が廃止されるが、[[カフェー (風俗営業)|カフェー]]や[[料亭]]などと看板を変えて、遊廓はほぼそのまま「[[赤線]]」の通称で呼ばれる地域として存続した。<!--公娼地域として営業は続いていた。--->昭和32年(1957年)、[[売春防止法]]が成立し、昭和33年4月1日の同法の施行と共に公娼地域としての遊廓の歴史は完全に幕を閉じることになった。
 
 
 
現在{{いつ|date=2015年1月}}公認の娼婦街はないが、表向き料理旅館に転向しつつも客と仲居との個室内での交渉を「自由恋愛」の名目にかつてと変わらない営業を継続している地域もいくつかある。大阪の[[飛田遊廓|飛田遊廓(飛田新地)]]などがそれである。
 
 
 
また東京の吉原のように、かつての公娼街がその後も[[ソープランド]]や風俗営業の多く集まる地域となり、公娼地域同然の状態が継続している地域も少なくない。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist}}
 
 
 
==参考文献==
 
*『吉原と島原』、[[小野武雄]]、[[講談社学術文庫]] ISBN 4061595598
 
* 『[[色道大鏡]]』、[[藤本箕山]]、1678年 - 1688年 / 復刻版 [[八木書店]]、2006年7月 ISBN 484069639X
 
* {{Cite book ja-jp|和書 |author = [[永井良和]] |title = 性欲の文化史 |volume = 1 |year = 2008 |chapter = 遊郭の形成と近代日本:「囲い込み」と取締り |series = 講談社選書メチエ |publisher = 講談社 |editor = [[井上章一]] |isbn = 9784062584258 |ref = harv }}
 
==関連書==
 
*『「悪所」の民俗誌―色町・芝居町のトポロジー』[[沖浦和光]]、文藝春秋 (2006/03)
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Commonscat|Yukaku}}
 
* [[売春]]
 
* [[飯盛女]]
 
* [[岡場所]]
 
* [[ちょんの間]]
 
* [[吉原大火]]
 
* [[三丁町]]
 
* [[風俗街]]
 
* [[花街]]
 
*[[青線]]
 
*[[赤線]]
 
<!--* [[廃娼運動]]-->
 
* [[渡鹿野島]]
 
* [[飛田遊郭]]
 
* [[港崎遊郭]]
 
* [[中村遊廓]]
 
* [[田町 (八王子市)]]
 
* [[二本木 (熊本市)]]
 
 
 
{{Normdaten}}
 
 
{{DEFAULTSORT:ゆうかく}}
 
{{DEFAULTSORT:ゆうかく}}
 
[[Category:遊廓|*]]
 
[[Category:遊廓|*]]
 
[[Category:江戸時代の遊廓文化|*]]
 
[[Category:江戸時代の遊廓文化|*]]

2018/10/27/ (土) 16:39時点における最新版

明治5年(1872年)頃の東京の吉原遊郭

遊廓(ゆうかく)

 公娼(こうしょう)を政治的意図により集団定住させておく区画。遊廓の周囲を堀で囲んだりして特殊区域であることを明示したのを、城郭に見立てて廓(くるわ)と俗称した。遊廓を一般都市社会から隔離するのは、治安・風俗の取締りおよび私娼対策を便利にする目的に基づく。日本では、中世末期に都市の発達に伴って小規模な集娼地区が形成され始めたが、政策的な遊廓の設置は豊臣(とよとみ)秀吉が大坂と京都に相次いで認めたのを起源とし、徳川幕府がこれを継承して整備した。幕府は全国に約20か所の遊廓を指定するとともに、増設を規制し、遊女・遊女屋を取り締まる規則を定めた。指定された遊廓のおもなものは、江戸吉原、駿府(すんぷ)(静岡)弥勒(みろく)町、佐渡鮎川(あゆかわ)、大津柴屋(しばや)町、敦賀(つるが)六軒町、京都島原、伏見撞木(ふしみしゅもく)町、奈良木辻(きつじ)、大坂新町、兵庫磯(いその)町、備後鞆(びんごとも)、下関稲荷(しものせきいなり)町、博多(はかた)柳町、長崎丸山などであった。指定地は、年代や伝承によって若干の変動はあるが、主要なものは前代からの存在を追認しながら、市中での場所を移転させて承認したものが多い。また、前記の地名からも、大都市や交通の要地にとって遊廓が必要な存在であったことをうかがうことができる。この必要性は、宿駅における飯盛女(めしもりおんな)を準公認の遊女として認めたり、諸大名領知下の地方都市に茶屋町などの名称で集娼地区が設けられたことにつながり、さらに江戸深川、京都祇園(ぎおん)、大坂島之内などの三都における私娼街をも黙認させる結果となった。もちろん、これらは公式な遊廓ではないが、規模の大きなものは遊廓と同一視されていた。そこに、幕府の売春対策の不徹底さが露呈しているとともに、需要には抗しきれなかった実態を示すものといえよう。幕末開港後の横浜や函館(はこだて)に外国人を対象とする遊廓が開設されたのも、類似の現象である。

 遊廓の規模・構成は一様でなく、各地の地理的、経済的、風俗的条件に左右された。しかし幕府公認の遊廓には共通の要件があった。遊廓の多くは市街の外周部に置かれ、島原や吉原のように周囲に溝を掘り、通行は大門(おおもん)の一方口とするのを典型とした。これによって外部との境界を明確にし、不法な遊客の出入りや遊女の廓外への外出・逃亡を監視する手段とし、大門のわきには番小屋を置いた。廓内には、遊女屋、揚屋(または引手茶屋)、茶屋、芸者屋(芸妓(げいぎ)置屋)などの主要構成員のほか、飲食店や日用雑貨屋などが居住していた。遊女屋には上級から下級まで何種類もあり、区画を分けて同級の店をまとめて配置するのが普通で、遊興費の差が上下で数十倍もあるため、遊客や遊興の内容には大差があった。遊廓のうちでも三都(京都、江戸、大坂)の遊廓は規模も大きく格式も高かったが、これに長崎を加えて「京の女郎に江戸の張りをもたせ、長崎の衣装を着せて大坂の揚屋で遊ぶ」ことが最高の遊びの目標であった。これは各遊廓の長所、特色を取り上げて理想郷を述べたものである。同時にこれらの代表的遊廓における揚屋遊びには、売春における情緒的要素が濃厚で、そこに一種の社交場的性格が醸し出されていたことを指摘することができる.

 揚屋の客は、初期には上流の武士や経済力を背景とした新興の町人が主流であり、優れた芸人・幇間(ほうかん)を集め、招かれる遊女も教養豊かな太夫(たゆう)たちであった。その社交場的性格によって、遊廓は多くの知識人を集め、そこから文学、演芸、音楽、美術をはじめ一般生活・風俗に至る広い分野に新鮮な影響を与えて遊廓の存在価値を高めた。粋(すい)や「いき」という江戸時代の美学の形成にも深くかかわっており、歌舞伎(かぶき)芝居と並ぶ二大娯楽機関としての地位を得ていた。しかし、江戸末期には高踏的な格式や高額な遊興費などの遊廓自身の欠陥と、安価で自由な私娼街の進出によって、しだいに有力な客層を失い、文化的色彩は衰えた。

 1872年(明治5)の娼妓解放令後は、遊女屋が貸座敷と名をかえたのにしたがって貸座敷営業指定地として集娼制が継続した。その際、従来は黙認だった私娼街が新たに遊廓として公認されたものが多く、集娼制は明治以後に整備強化されたといえる。その結果、1929年(昭和4)末には全国の遊廓数546か所、娼妓数4万9377人に達した。これには、明治時代以後における資本主義の発展による一般経済力の上昇が基本的背景となっているほか、性病対策や、当時の軍隊の存在と関連するところが大きかった。ただし明治以後の遊廓は、江戸時代における社交場的機能を失っていた。

 第二次世界大戦後の公娼制廃止とともに、特殊飲食店街(いわゆる赤線地帯)に移行して営業を続けたが、1958年(昭和33)4月、売春防止法の実施によって終止符を打った。



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