農学

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テンプレート:農業 農学(のうがく、: agriculture)とは、農業林業水産業畜産業などに関わる、応用的な学問農産物栽培育種生産技術の向上、生産物の加工技術などや、生産に関わる社会的な原理、環境の保全など、第一次産業に関わる幅広い事柄を研究し、産業の改良と発展を目指す。広義の自然科学に属し、化学生物学地学などを基礎とするが、社会科学も基盤の一部を成す。

農学の分野一覧

日本農学会の資料を基に分類した[1]

歴史

前近代の農学については農書も参照。 学校は農学校も参照。

国家財政に影響が大きい林学封建時代帝王学官学の一部として体系化が進んでいたのに対し、農耕地を対象とする農学は一般民衆の学問として発達し、近代科学の一分野としての農学が確立する以前にも、口頭伝承により農耕狩猟の技術やノウハウが知識体系を形作っていた。記録に残る最古のものは紀元前19世紀メソポタミアで発見された粘土板で、灌漑ネズミ対処に関するアドバイスが記されている。古代エジプトでも、ナイル川の洪水での作物に対する影響を小さく抑える方法などが書かれた書物が見つかっている。また、主食である作物などの栽培技術と別に、育種学、蔬菜栽培技術などの園芸学、発酵技術などはカトリック教会、日本の寺院など、封建時代聖職者によって洗練されていた。

古代中国では、春秋時代に税制が広まるにつれて収穫をいかに上げるかという問題が関心を集め始め、後漢は実用的な農業研究と研究成果の宣布を推進した。北魏の賈思勰(かしきょう)編纂の『斉民要術』(せいみんようじゅつ、535年前後)は完全な形で現存する最古の農業書である。

日本では、江戸時代農業全書が出版された。

近代学問としての農学の確立は1840年代ドイツイギリスフランスを中心に始まったと言われる。この頃からヨーロッパ各地に農業の専門学校が現れ始め、まず、農耕地生産に関わる諸分野が統合され、その後、林学や水産学などの生物生産に関連する分野を統合しつつ現代の農学の姿が形成されていった。

日本の農学史

日本では、1870年明治3年)9月、民部省に勧農局が置かれ、その三カ月後名を開墾局と改められ、民部省が農学校を設立すること、外国人を雇うこと、度器具や種苗を米国から購入することなど半年の間に太政官に上申し、米人一名は上申の翌月雇い入れられた。ところが農学校設立上申は太政官に認められるが、実現はしなかった。

1871年明治4年)4月、開墾局ほ勧業局と名を変えてさらに陣容を整えたが、その夏には民部省が廃止され、大蔵省に移されて勧業寮、それも13日目に変更され勧農寮という名に落着いた。わずか2カ月の問に5つの名を持ったわけであるが、さらに翌年には勧業寮を廃止、その事務は租税寮勧農課で担当することになった。 大蔵省は農事の改良を担当した明治4年のうちに、駒場に牧畜試験場を開き、米国から輸入した器具を用いて霞ヶ関で西洋の穀類や野菜の栽培を始めている。 その後大蔵省勧業寮の仕事はすべてその年11月に設置された内務省の勧業寮に引きつがれた。内務卿は帰国後ただちに西郷隆盛らの征韓論をつぶしたばかりの大久保利通である。後に内藤新宿試験場(現在の新宿御苑)となる土地、江戸時代以来の内藤家(当主頼直)の邸地九万八千坪を九千五百円、千駄ヶ谷、新宿地内の土地八万坪を二万一千円、合計17万8千坪(59ヘクタール弱)で購入、内藤家の土地よりも農地や民家のあった敷地の方が高値だったという。

一方、1871年(明治4年)開拓使次官黒田清隆がアメリカ合衆国よりホーレス・ケプロン外3名のお雇い外国人を連れ帰国、ケプロン等の進言を受け高等農業教育の動きが始まる。翌年の1872年(明治5年)には東京・に開拓使仮学校が開設される。開拓使仮学校は1875年(明治8年)に札幌へ移転、1876年(明治9年)に札幌農学校に改称した。

農学分野の高等教育機関として明治の学制改革初期に登場するのは、この札幌農学校(1876年(明治9年)開設)と、駒場農学校(明治11年開設)があげられる。

  • 札幌農学校は、先にあるとおり北海道開拓使顧問となったケプロン(Capron、アメリカ農務長官)の提言に基づき、開拓事業を進めるための基本的機関の一つとして設けられるが、アメリカ西部開拓に範を求めて、マサチューセッツ (Massacbusetts) 農科大学学長のクラーク博士 (Clark) を教頭(事実上の校長職)にして発足した。札幌農学校は予備科3年本科4年で構成され、農学の他に化学、数学、物理学などまで、自然科学の基礎を幅広く授けている。本科4年は学士の学位を授与する課程であり、学士授与機関としては日本初とされる。
  • 駒場農学校1874年(明治7年)の議決を受けて翌年の1875年(明治8年)、内藤新宿試験場が大久保利通の下に置かれて1877年(明治10年)、試験場内に「農学修学場」が設けられることに端を発する。

近代農業への政府の意欲は、もう一つの試験場に現れている。1871年(明治4年)に設置された開拓使青山試験場で、三園に分れ、現在の青山学院大学のあたり二号地が園芸試験地、青山通りを隔てた二号地は穀物など、日赤病院付近の一三号地が畜産のために充てられた。

この試験場は、1882年(明治15年)頃までに北海道に移るが、早くから米人教師が指導に当っていたという。

内務省勧業寮では1874年(明治7年)1月、牧場樹芸の二組がおかれ、3月、農事修学場を設置することとなり、4月には前の二掛に加えて製茶、農兵、農学の諸掛が置かれた。また前述の東京内藤新宿に勧業寮新宿支庁が置かれ、事業はさらに拡がりをみせる。支庁の目的は、「広く内外の植物を集めて、その効用、栽培の良否適否、害虫駆除の方法などを研究し、良種子を輸入し一冬府県に分って試験させ、民間にも希望があれば分ける」と言うような趣旨であった。さらにこの勧業寮新宿支庁内に設置していた内務省勧業寮内藤新宿出張所に蚕業試験掛と農事修学場を設立し修学場に獣医学、農学、農芸化学と農学予科、農学試業科等の教師を海外より招くことを議決した。

同年10月、新宿試験場内には農業博物館が完成。建物の詳細は不明であるが、種子や材木の見本、肥料などの外に骨格標本、鉱物土壌などもあったらしく、農業や動植物などの書籍や辞書に混じって青菜園まであったらしい。博物館のできた翌年にはその周囲に植物分類園が計画されていたようであるが、そのころ試験場内の植物は2163種もあったということなので、ある程度の分類見本園も造ることは可能であった。のちには整備が進み見学者も多くなったようで、縦覧規則が1875年(明治8年)5月に定められる。当時、試験場の畑は、水田、穀類畑、成業園など七園に分れていたが、さらに畑、茶園などが加わり、1877年(明治10年)には3150種の植物があった。

多くの植物は種子を欧米から買入れたほか、もっと前の旅行者が買ってきていたもの、ウィーン万国博覧会から博覧会事務局に持ち帰ったもの、清国まで出張して探してきたものなどさまざまで、疏菜の各種の種子や果樹苗などのほかに、ヒマラヤシダーラクウショウアメリカキササゲなど造園樹木の種子もあり、現在も残る大木の中にはこの頃の種子に由来するらしい。1875年(明治8年)には外国果樹の実るものもあり、試作繁殖した苗は、リンゴ青森県へ、オリーブ小豆島に送られたほか110平方メートルはどの西洋式温室も完成する。これは開拓使青山試験場の温室とともに日本の挫什式温室の先駆けをなすものである。

この間農学修学場は本格的な農学の専門教育機関「農学校」として設立することが決まり、修学場農学係は第六課と改められて課長には田中芳男をすえ、富田禎次郎が副長となった。

設立予定の修学場には最終的に獣医学、農学、桑芸化学、試業料の四科と農学予科を置くこととなり、ヨーロッパから教師を招くことにした。まず1875年(明治8年)に教師の招聘をただちに駐英・駐独両公使に連絡したが、結局数カ国から集めたのでは統制がとり難いためか、イギリスに求めることとなる。当時最も早く近代的農業革命を実現したイギリスに範をとってイギリス農学の移植を試みた。

まず第六課副長の富田禎次郎を翌1876年(明治9年)2月英国に派過、招聘により英国人教師5名が逐次来日した。その担当は、マックブライト(獣医学)、カスタン(農学)、キンチ(桑芸化学)、ペグピー(試業料)、コックス(予科)で、試業科のペグピーは実習、予科のコックスは英語の教師であった。 5人のうち試業科のペグピーは思わしくない人物で2年後に解職、他の4人は3カ年の契約期間を全うして、カスタン、キンチの2人はさらに1、2年延長在職した。後任は3名がドイツから招かれ、英語教師のコックスは初めから家族連れで来ており、その後も大学予備門と農学校の教師を兼ねて長い間勤めていた。コックスの講義を受けた新渡戸稲造は、旧式の文章構成法に忠実なだけの文法講師にすぎず、あまり尊敬できないと評している[2]

一方、生徒の方は農事見習生として、農学、獣医学、試業科、予科について募集募集を開始した。156名を予定していたが、初めは定員に達せず、再三募集して十月には試験を受けさせ獣医学科30名、農学科20名が合格した。試業料、予科は府県から一名ずつ推せんさせたが結局両科で58名であった。

これに伴い、1876年(明治9年)内務卿大久保利通達示で農事修学場の入学資格及び学則大要など学場規則等を作成したが、翌年の10月会議においてその地が狭いうえに周囲が教育に適さないなどの松方正義の意見により、上目黒駒場野に学校設置の議決がなされる。表向きは内藤新宿の土地では狭いという理由が述べられているが、実際は場所の風紀上の問題である。内藤新宿には宿場の遊郭があり、青年たちの教育にははなはだ宜しくないという議論があり、地を駒場に移すこととなり、急速にその整備も進めることとなった。

1877年(明治10年)1月、駒場野における準備が間に合わず内藤新宿試験場内に修学場(農学校)が附設され、試験場内の農業博物館を仮教場教室として授業が始まった。外人教師の授業には通訳が付いたという。

この修学場・農学校に学んだ玉利害造は後年『明治園芸史』に「青山では、リンゴ、ナシブドウなど多数の米国産果樹が立派に整枝され、西洋野菜も多く、積雪下の温室(1874年(明治7年)に建ったもの)には花々が咲いていた。そして青山試験場が米国系だったのに対して、勧業棄の試験場は自然にヨーロッパ系統、ことにフランス系統になったと言って良いだろう」と、書き残している。

この青山の温室は、1885年(明治18年)に小石川植物園に移設された。

新宿の授業の期間中1877年(明治10年)10月に農事修学場という名称を農学校と改めた。農事修学場の名は正式に農学校と変っていた。新宿での授業は約1年、1878年(明治11年)1月に駒場に移し、24日に改めて開校式が行われた。

大久保内務卿は明治8・9年に受けた質典金禄五四二三円九六鋳入庫を農学校のために献納した。掌典禄は、維新の功臣に対し1869年(明治2年)から石高で与えられていたが、1875年(明治8年)に金禄となり、1876年(明治9年)に一時金の公債を支給して打切られていたので、大久保の献納したのは金禄になってからの全てだったかも知れない。この金は奨学備讃金として長く引継がれた。翌1878年(明治11年)5月大久保利通は凶刃に倒れた。

一方民間では津田仙学農社を興した。津田は幕末米国に渡り、帰朝後農業を説き、自分でも栽培試験を行う。築地ホテル館の理事にもなった津田は新鮮な西洋野菜の必要性を痛感し、まずアスパラガスの栽培に経済的にも成功した。1873年(明治6年)ウィーン万国博覧会に政府派遣で視察出張する。1873年(明治6年)という年は、前々年欧米視察に出発した岩倉具視大使らが帰朝した年である。同年、開拓使農場の洋種植物は諸県に禦田を分けられるまでになり、山梨県には植物試験所が設けられる。

1876年(明治9年)、学農社および学農社農学校を設けた。

なお、旧幕時代の小石川御薬園植物園として文部省の所管(園長矢田部良書)となっており、幕末から明治にかけて植物学の本を著した伊藤菜介などが携わって内藤新宿の試験場で缶詰の試作まで始め、のちに製品の販売もされた。また、鶏、七面鳥なども飼われ、養蚕、製紙、製茶の試験研究も行われる。

駒場の牧場はその後農学校が新宿から駒場に移るにあたり下総国に移転した。後に三里塚御料牧場となり、1969年東京新国際空港建設のために栃木に移転するまで続いた。

前述のように、勧業寮は新宿のほかに三田にも試験地を求めた。1877年(明治10年)に三田育種場と改め、ここで内外の魚用植物、果樹、有用木村の良種を栽培繁殖して各地に分けたり、農産市を開くことになっていた。新宿試験場のような土地に適当でないようなものが移されて成功したものもあったようである。

1879年(明治12年)、蚕業試験掛も含め新宿試験場の仕事はすべて三田に移され、新宿の土地は宮内省の所管となる。このとき、新宿試験場の第四課(樹芸課)の池田謙蔵が三田育種場長に転じた。

また農学校はその後国家の整備をイギリスよりもプロイセン風にしたいという当時の政治的状況の変化のなかで、急速にドイツ農学の移植に変わっていった。

19世紀のドイツは、リーピッヒ (Liebich) を中心とする農芸化学者によって、近代自然科学に基づく農学の建設運動が進行し、無機栄養説を中軸とする近代農学の成立をみていた。さらに、メンデル (Mendel) による遺伝法則の発見もあった。日本の農学は、これらに強い影響を受けて、化学生物学を主にして成長することになるのである。

農学の発展過程で得られた知識に基づき、多くの理学分野、技術分野が派生した。例えば、遺伝を扱う育種学からは遺伝学が、生産効率に関わる複雑な要因を切り分ける生物測定学からは統計学実験計画法が生まれている。

1878年(明治11年) 農学校の名称を駒場農学校とした。1879年(明治12年)下総種畜場で変則獣医学生徒を募集し、獣医学教育を開始。1880年(明治13年)2月農事見習生30名に混同農事修成証書が授与される。

1881年(明治14年)4月 内務省勧農局が廃止され農商務省が新設された。三田育種場や駒場農学校の所管は農商務省農務局となる。樹木試験場は農商務省山林局の所轄となる。

1882年(明治15年)1月変則獣医生を駒場農学校所属にさせる。下総種畜場は駒場農学校獣医分科と名称変更する。同年12月第1回卒業生11名に修業証書が授与される。1882年(明治15年)1月西ヶ原の樹木試験場内に東京山林学校を創立。同年12月1日農商務卿西郷従道臨場の下に開校式が行われる。生徒49名。 1883年(明治16年)10月下総の獣医分科を東京三田四国町に移すことが議決される。1884年(明治17年)2月に至って獣医別科と改称し、修業年限を3年と改めた。1884年(明治17年)7月 獣医学本科と別科を合併し駒場農学校獣医学科と呼ぶことになった。

1884年(明治17年) 三田に移っていた蚕業試験掛は、農商務省蚕病試験場に改組。1885年(明治18年)3月に農商務省大書記官岩山敬義が駒場農学校校長を兼任する。6月に農学校及び獣医学別科規則が改正され、7月より獣医学本科と別科とを合併して三田四国町に移し、駒場農学校獣医学科と呼び、学び家を駒場野に移された。

1886年(明治19年) 東京にあった農商務省所管の駒場農学校と東京山林学校が合併、農商務省東京農林学校開校。1889年(明治22年)2月農商務省特許局長高橋是清が校長を兼任する。同年10月には農務局長前田正名が校長を兼任する。

1887年(明治20年) 農商務省蚕病試験場が蚕業試験場になる。その後同試験場は1891年(明治24年)に 蚕業試験場は農商務省仮試験場蚕事部となり、1893年(明治26年)蚕業試験場、1896年(明治29年)に蚕業講習所、1899年(明治32年)に東京蚕業講習所、1914年大正3年)に東京高等蚕糸学校となる。

1890年(明治23年)6月9日、文部大臣と農商務大臣の連名で山県有朋首相宛に、農科大学設置の閣議請議文が出された。農科大学を文部省下に置くことは、管理上、経済上の利便があり、また、その「専門学校」の地位を進め、大学の学部とすることにより、農林の学科を拡充できる利便もあるとしていた。

この請議文は2日後の6月11日に裁可を得る。しかしながら文部大臣から大学の評議会に対して農科大学設置の諮問を行うにあたり、評議官の強い反感を買い、異議が唱えられた。その評議会の議論の要点は、文部大臣が事前に諮詢しなかったこと、帝国大学の分科大学にするには農林学校は水準が低いこと、欧米先進国において大学の一分科として農科を設けた例がないこと、などであり、評議官は総辞職をするに至ったが文部大臣が説得にあたり全員辞表撤回、6月17日の評議会で農科大学を帝国大学の分科大学にすることが決定された。こうして東京農林学校は文部省所管の帝国大学の一分科となり、帝国大学農科大学と改称。初代学長は理学博士松井直島が就任した。

このとき学生数52名で建物143棟,図書21557点も大学へと引き継がれた。学生および諸物件の引継ぎは6月に開始され、9月に終了した。当時所有していた土地地積は62町3反70とされる。また教授は23名、外国人教師および講師は8名であった。農商務省と文部省の官制の違いにより、教授学長を含む3名、助教授は20名でスタートした。

初代学長は第三高等中学校長であった松井直吉が任命された。松井は、1911年(明治44年)2月1日に死去するまでその職にあった。なお、外国人8名のうち7名はドイツ人、1名はイギリス人で、ほとんどは明治20年代に退任している。外国人教師を通じて直接的に西洋農学を導入した時代は明治20年代をもって基本的に終わったと言ってよい。7月25日 高等農林学校所定の学課を履修した学生に卒業証書を授与 甲科学生25名、乙科学生81名に卒業証書が授与された。

9月10日 農科大学学科課程を制定 農科大学設置当初は、旧東京農林学校の制度を継承していたが、新たに農科大学学科課程を制定した。学科編成は、農学科第一部、農学科第二部、林学科、獣医学科からなる。農学科第二部は農芸化学を主とするが、将来の進歩に従い農芸植物学、農芸物理学、農芸動物学、農芸化学を主にするもの等の数部に分ける方針であった。

実科生の回想には、「農学実科及びもとの農学乙科一日の課業は、朝にペンを握りて講堂に昇り、夕に鍬を執りて圃場に耕し、自然に学び自然を友とし、半ばは以て心を労し、半ばは以て身を役するに在り。」とあり、実習重視の教育がうかがえる。

当時の帝国大学東京帝国大学時代における付設的な教育課程・機関としては、全国の医科大学の国家医学講習科、看病法講習科、産婆養成所、理科大学の簡易講習科があった。

1935年4月1日 農学科農業土木学専修が農業土木学科と改称(農業土木学科設置) 農業の生産基盤の充実が求められ、農業土木技術者の需要が増大していたことが背景にある。

話題

脚注

  1. 日本農学会 『日本農学80年史』 養賢堂、2009年ISBN 9784842504612 
  2. チンキとケルネル わが国における農芸化学の曙熊沢喜久雄、『肥料化学』第9号、1986

関連項目

外部リンク