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{{基礎情報 武士
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[[ファイル:足利義満『足利義満画像』(部分),東京大学史料編纂所所蔵.jpg|サムネイル]]
| 氏名 = 足利 義満
+
'''足利 義満'''(あしかが よしみつ)
| 画像 = Yoshimitsu Ashikaga cropped.jpg
 
| 画像サイズ = 250px
 
| 画像説明 = 足利義満像([[鹿苑寺]]蔵)
 
| 時代 = [[室町時代]]前期
 
| 生誕 = [[正平 (日本)|正平]]13年/[[延文]]3年[[8月22日 (旧暦)|8月22日]]([[1358年]][[9月25日]])
 
| 死没 = [[応永]]15年[[5月6日 (旧暦)|5月6日]]([[1408年]][[5月31日]])
 
| 改名 = 春王(幼名)、義満、道有(号)、道義(号)
 
| 別名 = [[日本国王]]、[[室町殿]]
 
| 諡号 = [[鹿苑院]][[太上天皇|太上法皇]]、恭献王<ref>{{cite wikisource|明史/卷322|[[張廷玉]]|zh|nobullet=yes}}「明年十一月來賀冊立皇太子。時對馬、壹岐諸島賊掠濱海居民,因諭其王捕之。王發兵盡殲其眾,縶其魁二十人,以三年十一月獻於朝,且修貢。帝益嘉之,遣鴻臚寺少卿潘賜偕中官王進賜其王九章冕服及錢鈔、錦綺加等,而還其所獻之人,令其國自治之。使者至寧波,盡置其人於甑,烝殺之。明年正月又遣侍郎兪士吉齎璽書褒嘉,賜賚優渥。封其國之山為壽安鎮國之山,御製碑文,立其上。六月,使來謝,賜冕服。五年、六年頻入貢,且獻所獲海寇。使還,請賜仁孝皇后所制《勸善》、《内訓》二書,即命各給百本。十一月再貢。十二月,其國世子源義持遣使來告父喪,命中官周全往祭,賜謚'''恭獻''',且致賻。又遣官齎敕,封義持為日本國王。時海上復以倭警告,再遣官諭義持剿捕。」</ref><ref>{{cite wikisource|欽定續文獻通考|[[張廷玉]]|zh|nobullet=yes}}「成祖永樂三年十一月日本王源道義遣使獻賊俘于朝 先是對馬壹岐諸島賊掠濱海居民因倭使諭其王捕之王發兵盡殲其衆縶其魁二十人以獻六年十二月其國世子源義特遣使來告父喪賜諡'''恭獻'''封義特為國王時海上復以倭警告九年寇磐石十五年寇松門金郷平陽十七年倭船入王家山島都督劉榮率精兵疾馳入望海堝賊數千人分乗二十舟直抵馬雄島進圍望海堝榮發伏出戰竒兵㫁其歸路賊奔櫻桃園榮合兵攻之斬獲千二百九十餘榮封廣寧伯自是倭不敢窺遼東二十年倭寇象山至英宗正統四年五月倭船四十艘連破台州桃渚寧波大嵩二千戸所又陷昌國衞大肆殺掠八年五月寇海寧景帝景泰四年貢使至臨清掠居民貨天順初其王源義政移書朝鮮王令轉請遣使謝罪廷議使臣不得仍前肆擾成化四年十一月倭使傷人于市曲赦之孝宗弘治九年三月王源義髙遣使來京還至濟寧其下仍持刀殺人詔嚴防禁武宗正徳五年春時劉瑾竊柄納其王源義澄所使宋素卿黄金千兩賜飛魚服前所未有也素卿鄞縣朱氏子名縞幼習歌唱倭使見悦之而縞叔澄負其直因以縞償至是充正使至蘇州澄與相見後事覺法當死瑾庇之謂已自首並獲免 臣等謹按王圻謂永樂初西洋之役雖威震海表而華人習知遠夷饒金寳夷人亦知我海道奸闌出入彼此相糾故海中寇盜復起若非廣寧之捷厥禍未已然以明史考之則倭之搆禍實與明代相終始矣」</ref><ref>{{cite wikisource|皇明異典述|[[王世貞]]|zh|nobullet=yes}}「夷狄賜諡 夷王得諡者:日本王源道義諡'''恭獻''',高麗王王顓諡恭湣、李旦諡康獻、李芳遠諡恭定、李向諡恭順、李娎諡康靖,浡泥國王麻邪惹加那乃諡恭順,蘇祿國東王巴都葛叭答剌諡恭定,古麻剌朗國王幹剌義亦敦奔諡康靖。」</ref><ref>{{cite wikisource|弇山堂別集 (四庫全書本)/卷009|[[王世貞]]|zh|nobullet=yes}}「夷狄賜謚 夷王得諡者日本王源道義諡'''恭獻'''髙麗王王顓諡恭愍李旦諡康獻李芳遠諡恭定李珦諡恭順李娎諡康靖浡泥國王麻邪惹加那乃諡恭順蘇祿國東王巴都葛哈叭答剌諡恭定格黙勒朗國王衞喇義伊徳伯諡康靖」</ref><ref>{{cite wikisource|明臣諡考 (四庫全書本)/卷下|[[鮑應鰲]]|zh|nobullet=yes}}「外國王諡附 恭定 巴都葛叭哈剌 蘇祿國東王 敬事供上永樂年諡 純行不爽 李芳遠 朝鮮國王 同永樂年諡 恭靖 李曔 朝鮮國權署國 敬事供上事永樂年諡 寛樂令終 恭順 麻那惹加那 浡泥國王永樂年諡 李珦 朝鮮國王 敬順事上景泰年諡 慈仁和民 恭憲 李峘 朝鮮國王 敬順事上隆慶年諡 行善可紀 '''恭獻''' 源道義 日本國王永樂年諡 恭僖 李懌 朝鮮國王 敬順事上嘉靖年諡 小心恭慎 莊憲 李峘 朝鮮國王 嚴敬臨民景泰年諡 行善可紀 襄悼 李晄 朝鮮國王 因事有功成化年諡 未中早夭 惠莊 李瑈 朝鮮國王 柔質慈仁成化年諡 嚴敬臨民 康靖 哇來頓本 朝鮮國王 安樂撫民永樂年諡 寛樂令終 李娎 朝鮮國王 温良好樂 治年諡 寛樂令終 康獻 李旦 朝鮮國王永樂年諡 榮靖 李峼 朝鮮國王 寵禄光大嘉靖年諡 寛樂令終 懐簡 李璋 朝鮮世子贈 慈仁短折王成化年諡 平易不訾」</ref><ref>{{cite wikisource|日本國志/卷五|[[黄遵憲]]|zh|nobullet=yes}}「朕承洪業,享有福慶,極所覆載,咸造在近,周爰諮詢,深用嘉歎。邇者對馬、壹岐諸小島,有盜潛伏,時出寇掠。爾源道義,能服朕命,咸殄滅之,屹為保障。誓心朝廷,海東之國,未有賢於日本者也。朕嘗稽古,唐虞之世,五長迪功渠搜即敘;成周之隆,庸蜀羌矛微盧彭濮;率遏亂略,光華簡冊,傳誦至今。以爾道義方之,是大有光於前哲者也。日本王之有源道義,又自古以來未之有也。朕維繼唐虞之治,舉封山之典,特命日本之鎮山號壽安鎮國之山,賜以銘詩,勒之貞石,榮示于千萬世。」義滿又遣使謝,賜冕服。連年往貢,並獻所獲海寇。使還,請賜仁孝皇后所制《勸善》、《内訓》二書,詔給之。十五年,道義死,十二月,世子源義持遣使告喪。成祖命中官周全往祭,賜諡'''恭獻''',且致賻。又遣官齎敕,封義持為日本國王。時山東有倭寇,又諭義持捕盜。義持遣使謝恩,尋獻所獲盜。十八年,明復遣内官王進齎敕褒賚,至兵庫而還。先是道義死,義持以臣貢為非,至是阻明使不得達。」</ref><ref>{{cite wikisource|明諡紀彚編 (四庫全書本)/卷22|[[郭良翰]]|zh|nobullet=yes}}「欽定四庫全書 明謚紀彙編卷二十二 明 郭良翰 撰 臣謚 外夷 天下大一統也故外夷得附之臣 '''恭獻''' 日本國王源道義 永樂 恭愍 髙麗國王王顓 洪武 恭順 浡泥國王麻那惹加那乃 永樂 朝鮮國王李珦 景泰 恭定 蘇禄國東王巴都葛叭荅剌 永樂 朝鮮國王李芳遠 永樂 恭靖 朝鮮國權署國事李曔 永樂 恭僖 朝鮮國王李懌 嘉靖 恭憲 朝鮮國王李峘 隆慶 康獻 朝鮮國王李旦 永樂 康靖 古麻剌國王幹剌義亦敦 永樂 朝鮮國王李娎 弘治 莊憲 朝鮮國王李祹 景泰 惠莊 朝鮮國王李瑈 成化 襄悼 朝鮮國王李晄 成化 懷簡 朝鮮國王世子贈王李暲 成化 榮靖 朝鮮國王李峼 嘉靖 明謚紀彙編卷二十二」</ref><ref>{{cite wikisource|重訂日本外史/卷之八|[[頼山陽]]|zh|nobullet=yes}}「五月。義滿薨。義滿初敍從五位下。任左馬頭。累遷從一位左大臣。兼右近衛大將右馬寮御監。終至太政大臣。准三宮。初久我氏爲源氏長者。充淳和奨學兩院別當。至義滿時。乃屬之於足利氏。終足利氏之世。其官爵敍任。例概如此。而至太政大臣者。止於義滿。義滿之薨。詔贈太上皇號。義持惶懼。辭不受。明主諡義滿。曰'''恭獻王'''。義持受之。明年六月。滿兼卒。初氏滿至從三位左兵衛督。而滿兼以從四位下左兵衛佐終。遂以爲例。滿兼二子。持氏。持仲。持氏爲嗣。先是。宇都宮氏廣爲亂。斯波持詮爲陸奧探題。擊斬之。獻首鎌倉。滿兼賜持詮以氏廣邑。以賞之。伊達政宗作亂。滿兼遣執事上杉氏憲。擊平之。十八年。飛驒國司藤原尹綱兵起。義持遣京極高數。擊平之。十九年。帝讓位於皇太子。是爲稱光帝。諸南朝遺臣。請立後龜山後如約。足利氏議。立南朝皇胤者。非我家之志也。終不聽其請。」</ref><ref>[[頼山陽]]『筑後河を下り、菊池正観公の戦処を過ぎ感じて作有り』「文政之元十一月 吾下筑水僦舟筏 水流如箭萬雷吼 過之使人竪毛髪 居民何記正平際 行客長思己亥歳 當時國賊擅鴟張 七道望風助豺狼 勤王諸將前後没 西陲僅存臣武光 遺詔哀痛猶在耳 擁護龍種同生死 大擧來犯彼何人 誓剪滅之報天子 河亂軍聲代銜枚 刀戟相摩八千師 馬傷冑破気益奮 斬敵取冑奪馬騎 被箭如蝟目眥裂 六萬賊軍終挫折 歸來河水笑洗刀 血迸奔湍噴紅雪 四世全節誰儔侶 九國逡巡西征府 棣萼未肯向北風 殉國劍傳自乃父 嘗卻明使壯本朝 豈與'''恭獻'''同日語 丈夫要貴知順逆 少貳大友何狗鼠 河流滔滔去不還 遥望肥嶺嚮南雲 千載姦黨骨亦朽 獨有苦節傳芳芬 聊弔鬼雄歌長句 猶覺河聲激餘怒」[http://marute.co.jp/~hiroaki/kansi_syuu/kansi_syuu-10/chikugogawa.htm]</ref><ref>[[頼山陽]]『[[日本楽府]]』「史官遺倒日本王、相公怒裂明册書、欲王則王吾自了、朱家小児敢爵余、吾國有王誰覬覦、叱咤再蹀八道血、鴨緑之流鞭可絶、地上阿鈞不相見、地下空唾'''恭献'''面。」[http://mitsuo-cl.com/mitsuo/colum/colum34.html]</ref><ref>[[新井白石]]『[[読史余論]]』「同月、義嗣内裏にて元服、其儀親王に准ず。参議従三位たり。中将如元(于時十五歳)。五月、前征夷大将軍太政大臣従一位准三后義満入道道義薨(五十一)。太上天皇の尊号を贈らる(義持固辞して不受ともいふ)。十二月、大明成祖より義持に慰詔を賜ひ道義を吊ひ祭文を作り'''恭献王'''と諡す。」[http://lovekeno.iza-yoi.net/dokus0.htm]</ref><ref>[http://nanteo.s14.xrea.com/kiden/kiden1411.html 『南方紀伝』応永十八年(辛卯)]「興福寺五重塔・金堂・大湯屋・新御願塔二基が落雷で焼失した。明国の成祖・永楽帝が書を義持に贈り、義満の死を弔慰し[[祭文 (漢文)|祭文]]を作り'''恭献王'''と諡した。」</ref>
 
| 神号 =
 
| 戒名 = 鹿苑院天山道義
 
| 墓所 = [[相国寺]][[塔頭]][[鹿苑院]]
 
| 官位 = [[従五位|従五位下]]、[[正五位|正五位下]]、[[左馬頭]]、[[征夷大将軍]]、[[従四位|従四位下]]、[[参議]]、[[近衛府|左近衛中将]]、[[従三位]]、[[大納言|権大納言]]、[[近衛府|右近衛大将]]、[[従二位]]、[[右馬寮御監]]、[[従一位]]、[[内大臣]]、[[左大臣]]、[[蔵人別当]]、[[後円融天皇|後円融院別当]]、[[源氏長者]]、[[准三宮]]、[[淳和奨学両院別当]]、[[太政大臣]]
 
| 幕府 = [[室町幕府]]第3代[[征夷大将軍]](在職:1368年 - 1394年)
 
| 氏族 = [[足利氏]]([[足利将軍家]])
 
| 父母 = 父:[[足利義詮]]、母:[[紀良子]]
 
| 兄弟 = [[足利千寿王|千寿王]]、'''義満'''、[[柏庭清祖]]、[[足利満詮|満詮]]、[[廷用宗器]]、[[宝鏡寺殿]]
 
| 妻  = [[正室]]:'''[[日野業子]]'''<br />[[継室]]:'''[[日野康子]]'''<br/>[[側室]]:[[藤原慶子]]、[[春日局 (足利義満側室)|春日局]][[#系譜|ほか]]
 
| 子  = [[尊満]]、'''[[足利義持|義持]]'''、[[足利義嗣|義嗣]]、[[足利義教|義教]]、[[法尊]]、[[虎山永隆]]、[[義昭|大覚寺義昭]]、[[梶井義承]]、[[#系譜|ほか]]
 
| 特記事項 = [[金閣寺]]建立
 
}}
 
'''足利 義満'''(あしかが よしみつ)とは、[[室町時代]]前期の[[室町幕府]]第3代[[征夷大将軍|将軍]](在職[[1368年]] - [[1394年]])である。父は第2代将軍・[[足利義詮]]、母は[[側室]]の[[紀良子]]。
 
  
[[南朝 (日本)|南]][[北朝 (日本)|北]]朝の合一を果たし、有力[[守護大名]]の勢力を押さえて幕府権力を確立させ、[[鹿苑寺]](金閣)を建立して[[北山文化]]を開花させるなど、室町時代の政治、経済、文化の最盛期を築いた。義満が邸宅を北小路室町へ移したことにより、義満は「室町殿」とも呼ばれた。のちに足利将軍を指す呼称となり、政庁を兼ねた将軍邸は後に歴史用語として「室町幕府」と呼ばれることになった。
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[[室町幕府]] 3代将軍(在職 1368~94)。[[足利義詮]]の子。母は紀良子。父の病により正平22=貞治6(1367)年政務を譲られ,以来元中7=明徳1(1390)年土岐康行,翌年起こった[[明徳の乱]]で山名氏清,応永6(1399)年に起こった[[応永の乱]]では大内義弘を滅ぼして将軍の権威を高めた。元中9=明徳3(1392)年には南北朝合体を成し遂げ,天下を統一した。応永1(1394)年[[太政大臣]]となり,将軍職を子の[[足利義持]]に譲り,翌年出家したが死ぬまで実権を握っていた。室町に花の御所([[室町殿]])を建て,晩年[[北山殿]]を営んでいる([[北山文化]])。
  
== 生涯 ==
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{{テンプレート:20180815sk}}  
=== 幼少期 ===
 
正平13年/延文3年(1358年)8月22日、[[京都]]春日東洞院にある幕府[[政所]]執事の[[伊勢貞継|伊勢貞継入道照禅]]の屋敷で生まれる。祖父である[[足利尊氏|尊氏]]の死からちょうど100日目のことである。幼児期は伊勢邸で養育された。義満は長男ではなかったが、義詮と[[正室]]の[[渋川幸子]]との間に生まれていた[[足利千寿王|千寿王]]は夭折してその後幸子との間に子は無く、義満誕生の前年にも義詮と紀良子の間には男子(名前不明)が生まれていたが、義満は[[嫡男]]として扱われた<ref name="足利義満p11"> 臼井信義 著『人物叢書‐足利義満』吉川弘文館、1989年、p.11</ref>。
 
 
 
義満が幼少のころの幕府は[[吉野朝廷|南朝]]との抗争が続き、さらに[[足利氏|足利家]]の内紛である[[観応の擾乱]]以来、幕政をめぐる争いが深刻さを増していた。やがて政争で失脚した[[細川清氏]]などの有力武将が南朝勢力に加担し、[[正平 (日本)|正平]]16年/[[康安]]元年([[1361年]])12月には細川清氏や[[楠木正儀]]、[[石塔頼房]]らに京都を占領され、義詮は[[後光厳天皇]]を奉じて[[近江国|近江]]に逃れ、義満はわずかな家臣に守られて[[建仁寺]]に逃れた後、[[北野義綱]]に護衛されて[[赤松則祐]]の居城・[[播磨国|播磨]][[白旗城]]への避難を余儀なくされた。この後しばらくの間、則祐により義満は養育される<ref name="足利義満p14"> 臼井信義 著『人物叢書‐足利義満』吉川弘文館、1989年、p.14</ref>。翌年、幕府・北朝側が京都を奪還したため帰京しているが、帰途で[[摂津国|摂津]]に泊まった際にその場所([[尼崎市|明石・須磨]]あたり)の景色がよいことを気に入り、「ここの景色はよいから、京都に持って帰ろう。お前達が担いで行け」と家臣らに命じ家臣らはその気宇壮大さに驚いたという<ref group="註">気宇壮大を史書は伝えるが、作家の[[海音寺潮五郎]]は単なるわがままであるとしている。</ref>。
 
 
 
京都に帰還した義満は新しく[[管領]]となった[[斯波義将]]に養育され、[[正平 (日本)|正平]]19年/[[貞治]]3年([[1364年]])3月に7歳で初めて乗馬した。正平20年/貞治4年([[1365年]])5月には矢開の儀を行ない、6月には七条の赤松則祐屋敷で祝儀として馬・鎧・太刀・弓矢等の贈物を受けるなど、養父である則祐とは親交を続けた。正平21年/貞治5年([[1366年]])12月7日には後光厳天皇から名字を義満と賜り、従五位下に叙せられた。なお、このとき尊義という諱も呈示されたが、[[柳原忠光]]により義満が撰ばれたという。貞治5年/正平21年([[1366年]])8月に[[貞治の変]]が起こって[[斯波高経]]・義将父子が失脚すると、叔父の[[足利基氏]]の推挙により[[細川頼之]]が後任の管領に任命された。この頃の義満は祖母の[[赤橋登子]]の旧屋敷に移ったり、赤松則祐の山荘に立ち寄ったりしている<ref name="足利義満p16-18"> 臼井信義 著『人物叢書‐足利義満』吉川弘文館、1989年、p.16-18</ref>。
 
 
 
=== 家督・将軍職相続 ===
 
正平22年/[[貞治]]6年([[1367年]])11月になると父・義詮が重病となる。義詮は死期を悟り、11月25日に義満に政務を委譲し、細川頼之を管領として義満の後見・教導を託した。朝廷は12月3日に義満を正五位下・左馬頭に叙任した。12月7日に義詮は死去し、義満が第3代将軍として足利将軍家を継いだ<ref name="足利義満p19"> 臼井信義 著『人物叢書‐足利義満』吉川弘文館、1989年、p.19</ref><ref group="註">'''足利義満 征夷大将軍の辞令(宣旨)''' 「後愚昧記」:左馬頭源朝臣義満:左少辨藤原朝臣仲光傳宣:權中納言藤原朝臣實綱宣:奉 勅件人宜爲征夷大將軍者:應安二年正月一日:修理東大寺大佛長官主殿頭兼左大史備前權介小槻宿禰兼治奉::(訓読文)左馬頭源朝臣義満(足利義満、正五位下) 左少弁藤原朝臣仲光([[広橋仲光]]、正五位上・蔵人兼帯)伝へ宣(の)り、権中納言藤原朝臣実綱([[正親町実綱]]、従三位)宣(の)る、勅(みことのり)を奉(うけたまは)るに、件人(くだんのひと)宜しく征夷大将軍に為すべし者(てへり)、応安2年(1369年)正月1日 修理東大寺大仏長官主殿頭兼左大史備前権介小槻宿禰兼治([[壬生兼治]])奉(うけたまは)る</ref>。
 
 
 
[[1368年]](正平23年/[[応安]]元年)に[[評定始]]が行われ、4月には[[管領]][[細川頼之]]を[[烏帽子親]]として元服が行われた。このとき、加冠を務める頼之を始め、理髪・打乱・泔坏の四役を全て[[細川氏]]一門が執り行った<ref group="註">これを吉例として足利義教(義満の子、第6代将軍)の元服では管領[[畠山持国]]一門、その子・足利義政(義満の孫、第8代将軍)の元服では管領[[細川勝元]]一門が四役全てを占めて、幼少もしくは還俗直後の新将軍を管領一門が支えることをアピールする場としている。</ref><ref>森茂暁『中世日本の政治と文化』(思文閣出版、2006年)P80-100。</ref>。[[1369年]](正平24年/応安2年)には正式に将軍に就任した。幕政は管領細川頼之をはじめ、足利一門の守護大名が主導することにより帝王学を学ぶ。頼之は[[応安大法]]を実施して土地支配を強固なものにし、京都や鎌倉の[[五山]]制度を整えて宗教統制を強化した。また南朝最大の勢力圏であった[[九州]]に[[今川貞世]](了俊)・[[大内義弘]]を派遣して、南朝勢力を弱体化させ幕府権力を固めた。[[1374年]]([[文中]]3年/応安7年)には[[日野業子]]を室に迎えた。
 
 
 
さらに京都の支配を強化するために、[[1370年]](応安3年)に朝廷より山門公人([[延暦寺]]及びその支配下の諸勢力及びその構成員)に対する取締権を与えられた。[[1375年]]([[永和 (日本)|永和]]元年)、[[二十一代集]]の20番目にあたる[[新後拾遺和歌集]]は義満の執奏により[[後円融天皇|後円融院]]が勅撰を下命した。[[1378年]]([[天授 (日本)|天授]]4年/[[永和 (日本)|永和]]4年)には、邸宅を三条坊門より北小路室町に移し、幕府の政庁とした。移転後の幕府(室町第)はのちに「[[花の御所]]」と呼ばれ、今日ではその所在地により室町幕府と呼んでいる。
 
 
 
義満は、朝廷と幕府に二分化されていた京都市内の行政権や課税権なども幕府に一元化するとともに、守護大名の軍事力に対抗しうる将軍直属の常備軍である[[奉公衆]]を設け、さらに[[奉行衆]]と呼ばれる実務官僚の整備をはかった。
 
 
 
[[1382年]]([[永徳]]2年)には[[開基]]として[[相国寺]]の建立を開始し、翌年には自らの[[禅]]の修行場として[[塔頭]][[鹿苑院]]も創建する。[[1385年]]([[元中]]2年/[[至徳 (日本)|至徳]]2年)には[[東大寺]]・[[興福寺]]などの南都寺院を参詣、[[1388年]](元中5年/[[嘉慶 (日本)|嘉慶]]2年)には[[駿河国|駿河]]で[[富士山]]を遊覧し、[[1389年]](元中6年/[[康応]]元年)には[[安芸国|安芸]][[厳島神社]]を参詣するなど、視察を兼ねた[[デモンストレーション]](権力示威行為)を行っている。
 
 
 
=== 権力強化と南北朝合一 ===
 
[[1379年]](天授5年/[[康暦]]元年)、義満は反頼之派の守護大名である[[斯波義将]]や[[土岐頼康]]らに邸を包囲され頼之の罷免を求められ、頼之は罷免される([[康暦の政変]])。後任の管領には義将が任命され、幕政の人事も斯波派に改められる。頼之に対しては追討令が下されるが翌年には赦免されて宿老として幕政に復帰しており、また政変後に義満の将軍権力が確立している事から斯波・細川両派の抗争を利用して相互に牽制させていたと考えられている。頼康の死後、分裂して争う土岐氏の内紛につけ込んで土岐氏を討伐した([[土岐康行の乱]])。
 
 
 
[[1391年]]([[元中]]8年/[[明徳]]2年)には[[山名氏]]の内紛に介入し、11か国の守護を兼ねて「六分一殿」と称された有力守護大名・[[山名氏清]]を挑発して挙兵させ、同年12月に討伐する([[明徳の乱]])。
 
 
 
また、義満は[[1378年]](天授4年/[[永和 (日本)|永和]]4年)3月に[[右近衛大将]]に任ぜられ(征夷大将軍と近衛大将兼務は[[惟康親王]]以来)、5か月後には権大納言を兼務して以後、朝廷の長老である二条良基の支援を受けながら、公家社会の一員として積極的に参加する姿勢を見せる。[[1379年|翌年]]8月14日、[[十市遠康]]ら南朝方武家に奪われた寺社領の返還を求める[[興福寺]]の[[大衆 (仏教)|大衆]]が[[春日大社]]の[[春日神木|神木]]を奉じて洛中に[[強訴]]に及んだ(康暦の強訴)。摂関家以下藤原氏系の公卿は神木の神威を恐れて出仕を自重して宮中行事が停滞する中、義満は自分が源氏であることを理由に出仕を続け、[[1380年]](天授6年/康暦2年)には一時中断していた[[御遊始]]・[[作文始]]・[[歌会始]]などを立て続けに大々的に再興して反対に大衆を威圧した。このため、同年12月15日に大衆と神木は幕府の十市討伐の約束以外に具体的な成果を得ることなく奈良に戻り、歴史上初めて神木入洛による強訴を失敗に終わらせて[[寺社勢力]]に大打撃を与えた<ref>小川剛生『二条良基研究』(笠間書院、2005年)P87-90</ref>。もっとも、年が明けると幕府は興福寺に使者を派遣してこれまでになかった直接対話を行って興福寺側の要望を訊き、延暦寺に対しても幕府との直接交渉ができる[[山門使節]]の設置を認め、所領興行や仏事再興にも取り組むなどの硬軟両様の使い分けを行っており、後に義満が1385年(元中2年/至徳2年)に南都参詣(前述)に行った際には南都の僧侶たちはこれをこぞって歓迎し、[[1394年]]([[応永]]元年)に延暦寺ゆかりの[[日吉社]]参詣を行った際にも延暦寺から参詣費用の献上が行われて義満も御礼に堂舎を寄進している<ref>大田壮一郎『室町幕府の政治と宗教』(塙書房、2014年)P285-291</ref><ref>なお、康暦の強訴の幕府の対応について、結果的には室町幕府の対権門寺院政策の転換点になったものの、本来は義満が参加する朝儀の無事に行われることのみを目的としたもので、幕府は積極的に強訴を解決しようとした訳ではなく興福寺をなだめて問題を先送りにする方針であったとする指摘もある(大藪海「室町幕府ー権門寺院関係の転換点―康暦の強訴と朝廷・幕府―」中島圭一 編『十四世紀の歴史学 新たな時代への起点』(高志書院、2016年) ISBN 978-4-86215-159-9)。</ref>。
 
 
 
義満は祖父・[[足利尊氏|尊氏]]や父を越える内大臣、左大臣に就任し[[官位]]の昇進を続けた。[[1383年]]([[弘和]]3年/[[永徳]]3年)には武家として初めて[[源氏長者]]となり淳和・奨学両院別当を兼任、[[准三后]]の宣下を受け、名実ともに公武両勢力の頂点に上り詰めた。摂関家の人々にも偏諱を与えるようになるなどその勢威はますます盛んになり、掣肘できるものは皆無に等しかった。また、これまで院や天皇の意思を伝えていた[[伝奏]]から命令を出させ、公武の一体化を推し進めた<ref>桜井、66-67p</ref>。これら異例の措置も[[三条公忠]]が「先例を超越した存在」と評したように、公家側も受け入れざるを得ず、[[家礼]]となる公家や[[常盤井宮滿仁親王|常磐井宮満仁王]]のように愛妾を差し出す者も現れた<ref>桜井英治、28p</ref>。
 
 
 
[[1392年]]([[元中]]9年/[[明徳]]3年)には[[楠木正勝]]が拠っていた[[河内国]][[千早城]]が陥落し、南朝勢力が全国的に衰微したため義満は大内義弘を仲介に南朝方と交渉を進め、[[持明院統]]と[[大覚寺統]]が交互に即位する事([[両統迭立]])や諸国の[[国衙領]]を全て大覚寺統の所有とする事(実際には国衙領はわずかしかなかった)などの和平案を南朝の[[後亀山天皇]]に提示し、後亀山が保持していた[[三種の神器]]を[[持明院統|北朝]]の[[後小松天皇]]に接収させて南朝が解消される形での南北朝合一を実現し58年にわたる[[朝廷]]の分裂を終結させる([[明徳の和約]])。
 
 
 
義満と対立して[[後小松天皇]]に譲位していた[[後円融天皇|後円融上皇]]が[[1393年]](明徳4年)に死去し、自己の権力を確固たるものにした義満は[[1394年]]([[応永]]元年)には将軍職を嫡男の[[足利義持]]に譲って隠居したが、政治上の実権は握り続けた。同年、従一位[[太政大臣]]にまで昇進する。武家が太政大臣に任官されたのは、[[平清盛]]に次いで2人目である。そして征夷大将軍を経験した武家が太政大臣に任官されたのは初めてであり、かつ後の時代を含めても義満が足利家唯一の太政大臣となった。翌年には出家して'''道義'''と号した。義満の出家は、征夷大将軍として武家の太政大臣・准三后として公家の頂点に達した義満が、残る寺社勢力を支配する地位をも得ようとしたためであると考えられている。義満の出家に際して、斯波義将をはじめ多くの武家や公家、[[皇族]]の[[常盤井宮滿仁親王]]まで追従して出家している。
 
 
 
[[1395年]]([[応永]]2年)には[[九州探題]]として独自の権力を持っていた今川貞世を罷免する。[[1399年]](応永6年)には[[西日本|西国]]の有力大名・大内義弘を挑発し義弘が[[堺市|堺]]で挙兵したのを機に討伐し([[応永の乱]])、西日本で義満に対抗できる勢力は排除された。
 
 
 
=== 勘合貿易と北山文化 ===
 
義満は若年の頃から[[明]]への憧憬を深く抱いていた。その例としては、[[1394年]](明徳5年)に行われた改元の議の際の出来事があげられる。義満は明の太祖・[[洪武帝]]の治世にあやかって日本の[[元号]]にも「洪」の字を使うよう工作した。しかし、洪の字は洪水につながり、また不吉<ref group="註">この時最終案に残った「洪」のつく案は「洪徳」であったが、これまで[[永徳]]、[[至徳 (日本)|至徳]]、[[明徳]]と「徳」の字がつく元号が連続しており、3回連続「治」のつく元号を用いた[[崇徳天皇]]や、4回連続「元」のつく元号を用いた[[後醍醐天皇]]の例と同じになり不吉とされた。ちなみにこの時案として後に用いられる[[寛永]]や[[宝暦]]が提案されている。</ref>であるとして公家達が反発したため実現せず、[[応永]]の元号が用いられることとなった<ref group="註">この際に反対論を唱えたのは、[[一条経嗣]]らであったという(久水、2011年、P346-347)。</ref>。機嫌を損ねた義満は、自分の生きている間には元号を変えさせなかった<REF name=imatani>今谷明『室町の王権』中央公論社、1990年</REF>。ただし、これについては異説もあり、[[1408年]](応永15年:義満死去に伴う)と[[1413年]](応永20年:称光天皇即位に伴う)に出された改元の議を阻止し、自分が生きている間には元号を変えさえなかったのは息子の義持であるとする指摘もある<ref>臼井信義「正長の改元」(『日本歴史』52号(1952年))など。</ref>。また、義満の改元への影響力は強かったものの、その立場自体は同時代の太政官に列する公卿の範疇でしかなく(「洪徳」不採用もその反映とする)、その発言力も[[戦国時代 (日本)|戦国期]]の将軍([[足利義稙|義稙]]・[[足利義晴|義晴]])よりは低かったとする指摘もある<ref>久水俊和「室町時代の改元における公武関係」(初出:『年報中世史研究』34号(2009年)/改題所収「改元をめぐる公家と武家」久水『室町期の朝廷公事と公武関係』(岩田書院、2011年) ISBN 978-4-87294-705-2) </ref>。いずれにしても、その結果として応永年号は35年と、[[明治]]以前では最も長い元号となった。
 
 
 
義満は明との正式な通交を望んでいた。しかし[[1374年]]([[応安]]7年)の遣使では、明側は南朝の[[懐良親王]]を「[[日本国王]]良懐」として日本における唯一の正規な通交相手として認めていた事と、天皇の臣下(全ての民の君主である中国皇帝から見て、その家臣である天皇の家臣は陪臣)との通交は認めない方針のため、幕府の交渉は実らなかった。[[1380年]]([[康暦]]2年)にも「日本国征夷将軍源義満」名義で交渉を始めようと試みるが、これも天皇の家臣との交渉は受けないとの理由と、宛先を丞相にしたという理由で入貢を拒まれている。そこで義満は応永元年12月([[1394年]])に太政大臣を辞し、出家した。これにより義満は天皇の臣下ではない自由な立場となった。
 
[[ファイル:Kinkakuji 2004-09-21.jpg|thumb|250px|[[鹿苑寺]]]]
 
[[1401年]]([[応永]]8年)、「日本国准三后源道義」の名義で博多の商人[[肥富]](こいとみ、こいつみ・こいずみとも)と僧[[祖阿]]を使節として明に派遣する。懐良親王の勢力はすでに没落しており、[[建文帝]]は義満を日本国王に冊封した。同時に明の[[大統暦]]が日本国王に授与され、両国の国交が正式に樹立された。日本国王が皇帝に[[朝貢]]する形式をとった[[日明貿易|勘合貿易]]は[[1404年]](応永11年)から始まり、また明に要請されて[[倭寇]]を鎮圧している(なお、返礼の使者を送るまでに[[靖難の変]]が起き、建文帝から[[永楽帝]]に皇帝が変わっていた)。遣唐使の廃止以来、独自の政策を採っていた公家社会では、明皇帝の臣下となる朝貢貿易に対して不満や批判が多くあったが、義満の権勢の前では公の発言ができず日記などに記すのみであった。
 
 
 
[[1397年]](応永4年)には[[西園寺家]]から京都北山の「北山弟」(ほくさんてい)を譲り受け、舎利殿(金閣)を中心とする山荘(「北山第」(きたやまてい)または「北山殿」(きたやまどの)、後の[[鹿苑寺]])を造営した。[[1399年]](応永6年)春以降、義満は本格的にこの山荘に移り住み、活動の拠点としていく<ref>大田壮一郎「足利義満の宗教空間」(初出:『ZEAMI 中世の芸術と文化』4号(森話社、2007年)/所収:大田『室町幕府の政治と宗教』(塙書房、2014年) ISBN 978-4-8273-1264-5)</ref>。この時代の文化を、武家様・公家様・唐様(禅宗様)が融合した[[北山文化]]と呼ぶことも多い。また北山文化の芸能である[[猿楽]]では、義満は[[観阿弥]]・[[世阿弥]]父子を庇護した。
 
 
 
また、足利義満が建設を進めた特筆すべき建築物として、[[1399年]]に京都[[相国寺]]に完成した八角[[七重塔]]がある。塔の高さは、360尺(約109m)に及ぶ[[高層建築物]]であり、以後500年以上、日本最高記録となっていた。相国寺の七重塔は、4年後に落雷により焼失したが、翌年の[[1404年]]には同等規模の北山大塔を金閣寺付近に建設したという<ref>[http://mainichi.jp/articles/20160709/k00/00m/040/164000c 金閣寺・敷地内から装飾品出土、七重塔「北山大塔」部材か] 毎日新聞(2016年7月8日)2017年2月11日閲覧</ref>。
 
 
 
=== 最期 ===
 
応永15年(1408年)4月27日、義満は病に倒れた。4月28日には見舞の人にも対面しなかった。4月29日、医師の[[坂士仏]]の治療により快方に向かったが、5月1日には悪化した。このため、将軍の義持は[[山科教冬]]を遣いに送り、諸寺に義満快癒の祈祷を命じた。その他にも管領などにより義満快癒の様々な催しが行なわれている。しかし5月4日に危篤となり、昼頃には一旦事切れたかに見えたが夕方になって蘇生した。5月5日は平静を保ったが、5月6日の申刻過ぎから酉刻近くに遂に死去した<ref group="註">[[服部敏良]]は流行の風邪にかかり、それが悪化し[[肺炎|急性肺炎]]のような症状で死去したであろうと推測している(『室町安土桃山時代医学史の研究』[[吉川弘文館]]、1988年)。</ref>。享年51(満49歳没)<ref name="足利義満p190-191"> 臼井信義『人物叢書‐足利義満』吉川弘文館、1989年、p.190-191</ref>。
 
 
 
法名は鹿苑院天山道義。[[等持院]]で火葬された義満の遺骨は、[[相国寺]][[塔頭]][[鹿苑院]]に葬られた。以後相国寺は足利将軍の位牌を祀る牌所になったが、[[天明の大火]]で灰燼に帰して衰微した。鹿苑院に至っては[[明治]]になってから[[廃仏毀釈]]のあおりで廃寺の憂き目に遭う。そのため義満の墓所はその正確な位置が不明となってしまったが、位牌は足利家と縁の深かった[[臨川寺]]に移され安置されている<ref>「[[歴史読本]]スペシャル 特別増刊「臨終の日本史その死の瞬間」」[[新人物往来社]] 昭和62年(1987年) p.207</ref>。
 
 
 
== 死後 ==
 
義満の死後には[[朝廷]]から「鹿苑院[[太上法皇]]」の称号を贈られるが、4代将軍となった子の義持は斯波義将らの反対もあり辞退している(その一方で[[相国寺]]は受け入れたらしく、過去帳に「'''鹿苑院太上天皇'''」と記されている)。永楽帝は義満を評価しており、その死の翌年に弔問使を日本につかわし「'''恭献'''」という諡を送っている。この関係は義満の跡を継いだ足利義持が1411年に明の使者を追い返すまで続いていた。義満は生前から義持と折り合いが悪かったとされ、対朝廷・公家政策、守護大名統制政策、明との勘合貿易などの外交政策をはじめとする義満の諸政策は義持によって一旦は否定された。また義満の遺産である北山第も金閣を除いて義持によって破却された。義持は義満が偏愛した義満の次男・[[足利義嗣|義嗣]]が出奔した際に、謀反を企てたとして殺害している。のちに義嗣の子孫は越前に下り、子孫は鞍谷御所と呼ばれるようになった。
 
 
 
6代将軍となった子である[[足利義教|義教]]は義満の政策を踏襲した施政を始めるが、[[嘉吉の乱]]で[[赤松満祐]]に暗殺されたことで頓挫する。孫の8代・[[足利義政|義政]]も祖父や父の政治を引き継ごうとしたが、[[応仁の乱]]や側近政治の中で嫌気が差し政権運営への情熱をなくしてしまう。また義満の治世に従順であった有力守護大名も、再び幕府に対して反抗的な態度を取り始める。
 
 
 
== 人物 ==
 
[[File:Ashikaga Yoshimitsu Admiring the Golden Pavilion LACMA M.2007.152.67.jpg|200px|thumb|大日本名将鑑 足利義満公([[月岡芳年]]画、[[ロサンゼルス・カウンティ美術館]]所蔵)]]
 
[[今川貞世|今川了俊]]は『[[難太平記]]』において[[大内義弘]]が「今御所の御沙汰の様、見及び申す如くば、よはきものは罪少なけれども御不審をかうぶり面目を失うべし。つよきものは上意を背くといえどもさしおかれ申すべき条、みな人の知る所なり(義満様の政治を見ると、弱い者は罪が軽くても厳罰に処され、強い者は命令に背いてもそのままにされる。このことはみなが知っている)」と語ったと記録している。[[佐藤進一]]はこの「強きを助け、弱きを挫く」姿勢が義満の生涯を貫く政治テクニックだと評し、傲岸と卑屈さが同居した性格と評している<ref>佐藤、409p</ref>。このことは義満の猶子である三宝院[[満済]]も日明交渉や大名に対する接し方が義持よりはるかに丁重であったと回想している<ref>桜井、111-112p</ref>。このほかにも義満から様々な冷遇を受けた了俊は「上の明にわたらせ給はぬ(上が賢明でない)」と、義満を激しく批判している。
 
 
 
義満は当時としては珍しく時間厳守を非常に重んじた人物であり、遅刻する者を厳しく処分したという<ref>早島2010、88頁。</ref>。[[永徳]]元年([[1381年]])7月23日の[[内大臣]]大饗に遅刻した[[御子左為遠]]が翌日の出仕で義満から追い出されたり<ref>『後愚昧記』。</ref>、応永元年([[1394年]])の[[南都]]([[興福寺]])の[[常楽会]]では義満が夜明けから桟敷に座り込み、遅参した公家・武家の同席を許さなかった<ref>『兼宣公記』。</ref>。
 
また義満は自分や周囲の服装にも口うるさく、応永13年([[1406年]])に明使を迎えるために兵庫へ下向した際には[[裏松重光]]・[[山科教興]]らが当時の軽装である[[十徳羽織|十徳]]を着用させられ、教興の父[[山科教言]]が「十徳の体、当世の風体」と嘆いている。自らは明使を応接する際には唐人の装束で歓待したという。また、朝廷においても毎月朔日の拝賀では武家装束の[[直垂]]を、中旬に行われる廻祈祷では公家装束である[[束帯]]の着用を指図しており、側近達は毎月直垂を新調していたという<ref>早島2010、140-141頁。『教言卿記』。</ref>。
 
 
 
== 皇位簒奪と暗殺説 ==
 
[[田中義成]]、[[今谷明]]らは義満が[[皇位簒奪]]する意図を持っていたのではないかとする説を唱えており、これを受けて[[作家]]の[[海音寺潮五郎]]、[[井沢元彦]]らは義満の死は皇位簒奪を阻止するため[[暗殺]]されたのではないかとの意見を提示している。
 
 
 
義満は早くから[[花押]]を[[武家]]用と[[公家]]用に使い分けたり、2番目の妻である康子を[[後小松天皇]]の准母(天皇の母に准ずる扱い)、ついで[[女院]]にしたり、公家衆の妻を自分に差し出させたりしていた。また祭祀権・叙任権(人事権)などの諸権力を天皇家から接収し、義満の参内や寺社への参詣にあたっては、上皇と同様の礼遇が取られた。[[1408年]](応永15年)3月に北山第へ後小松が行幸したが、義満の座る畳には天皇や院の座る畳にしか用いられない繧繝縁が用いられた。4月には宮中において次男・義嗣の元服を親王に准じた形式で行った。これらは義満が皇位の簒奪を企てていたためであり、明による日本国王冊封も当時の明の外圧を利用しての簒奪計画の一環であると推測している<REF name=imatani/><REF>佐藤進一『日本の歴史9 南北朝の動乱』中央公論社、2005年</REF>。
 
 
 
今谷は義満は中国(明)の影響を強く受けていたが、[[易姓革命]]思想ではなく当時流行した『[[野馬台詩]]』を利用していたのではないかと推測する。この詩は[[予言]]として知られており、天皇は100代<ref group="註">現在では後小松天皇が100代目とされている。しかし当時は天皇の代数の数え方は必ずしも一致していなかった。現代では天皇とみなされる[[弘文天皇]]、[[淳仁天皇]]、[[仲恭天皇]]の即位は一般には認められておらず、一方で[[神功皇后]]は即位したとされていた。当時は北朝が正統とされていたため、この数え方によると100代目は[[後円融天皇]]にあたる。</ref>で終わり、[[サル|猿]]や[[イヌ|犬]]が[[ヒーロー|英雄]]を称した末に日本は滅ぶと解釈できる内容だった。「[[終末論#天皇|百王説]]」と呼ばれる天皇が100代で終わるという終末思想は[[慈円]]『[[愚管抄]]』などに記録されており、幅広く浸透していたことが推測できる。[[鎌倉公方]]の[[足利氏満]]は[[申]]年生まれ(ただし現在では[[亥]]年生まれとされる)、義満は[[戌]]年生まれだから猿や犬とは2人のことであるという解釈もされていた。また井沢は、『[[源氏物語]]』をヒントにしているのではないかと推測している。
 
 
 
なお、皇位簒奪とは義満みずからが天皇に即位するわけではなく[[治天の君]](実権を持つ天皇家の家長)となって王権(天皇の権力)を簒奪することを意味している。寵愛していた次男、義嗣を天皇にして自らは天皇の父親として天皇家を吸収するというものである。
 
 
 
暗殺説を取る者は、簒奪を阻止しようとした朝廷側による毒殺であると疑っている(井沢は著作で犯人を[[世阿弥]]と[[二条満基]]の共犯と推理)。また、他には義満の義嗣偏愛によって将来が不安視された義持の陣営による暗殺と見る説もある。
 
 
 
しかし、当時の公家の日記などには義満の行為が皇位簒奪計画の一環であるとしたり、その死を暗殺と疑った記録はなく、直接の証拠はない。また、皇位簒奪計画の最大の障害になる筈である[[儲君]][[称光天皇|躬仁親王]]が何らかの圧迫を受けていたとする記録も無い(井沢は、死後に太上天皇の名を贈られていることは、暗殺による義満の怨霊化を防ぐという怨霊信仰に基づくものとしている)。その後の研究では義満以降の[[日本国王]]号が日本国内向けに使用された形跡がないことから、国王号が朝廷に代わる権威としてではなく朝貢貿易上の肩書きに過ぎなかったと評価されている<REF>田中建夫『前近代の国際交流と外交文書』吉川弘文館、1996年</REF><REF>村井章介『中世の国家と在地社会』校倉書房、2005年</REF>。
 
 
 
[[石原比位呂]]は今谷説の批判を通じて、これまでの足利義満期の公武関係に関する研究の問題点を指摘し、義満は将軍の任命権者である(北朝)天皇の権威の回復のために朝儀の復興を原理原則に忠実かつ威儀厳重に催行されるべきという考えであったと指摘した上で、義満によって処罰された公家の多くはこの方針に反した者たちであったが義満の方針にもっとも反発したのは治天の君である後円融天皇(後に上皇)であったとする。このため、義満は自らの朝廷政策の実現のために後円融天皇を退位させてその権限を剥奪して新帝・後小松天皇の父代わりを演じる必要があったと推測し、今谷説は足利義満と後円融天皇の個人的対立を公武関係全体にまで広げた過大な解釈であると批判し、義満の「上皇化」も自己の朝廷政策を実現させるために対立した後円融天皇を排除して義満自身が後小松天皇の後見を行う必要性があったからだとしている<ref>石原比位呂「足利義満の対朝廷政策」『室町時代の将軍家と天皇家』(勉誠出版、2015年) ISBN 978-4-585-22129-6</ref>。
 
 
 
[[榎原雅治]]によれば、現在では、義満の公家化は、朝廷側にも義満を利用しようという思惑があったとの考えが定説となりつつあるという。当時財政的に窮乏していた朝廷は、政治的安定によって経済的支援などを得ようとした。権威の復興を図る朝廷と、武家の中で足利家の権威をより高めようとする義満の意図が一致し、義満が公家化したとされる<ref>読売新聞 東京版 2017年2月1日 p21</ref>。
 
 
 
義満のとった措置は子の義持によって改められた。義満への太上天皇贈位は辞退され、義持に対し、公家達が義満と同様の礼を取ろうとした際も、義持は辞退している。ただし、その義持も義満の朝廷政策の全てを否定していた訳ではなく、義持の[[花押]]は公家様の花押しか伝えられておらず、公家の[[家門]]安堵に関与して後継者に[[偏諱]]を授与したり、[[称光天皇]](躬仁親王)の[[御名]]を改めさせる(天皇の御名変更は義満ですらなし得なかった)など朝廷への影響力行使を続けており、天皇との直接的な距離は置きつつも朝廷に対する関与路線は継続されている。
 
 
 
仮に簒奪計画があったとしても、それは義満一人の計画であり、義持や管領[[斯波義将]]を始めとする守護大名達は参画していなかった。近年では、王権簒奪説に対する批判が相次ぎ、もはやそのままでは成立しない学説となっている<ref>早島2010、116頁。</ref>。
 
 
 
== 官歴 ==
 
※()=旧暦
 
* [[1367年]][[1月7日]](正平21年/貞治5年[[12月7日 (旧暦)|12月7日]])、[[従五位下]]に叙す。[[12月24日]](正平22年/貞治6年[[12月3日 (旧暦)|12月3日]])、[[正五位下]]に昇叙。[[12月28日]](12月7日)、[[馬寮|左馬頭]]に任官。
 
* [[1368年]][[5月2日]](正平23年/応安元年[[4月15日 (旧暦)|4月15日]])、元服し、義満と名乗る。
 
* [[1369年]][[1月28日]](正平23年/応安元年[[12月30日 (旧暦)|12月30日]])、[[征夷大将軍]]宣下。
 
* [[1374年]]1月7日(文中2年/応安6年[[11月25日 (旧暦)|11月25日]])、[[従四位下]]に昇叙し、[[参議]]に補任。[[近衛府|左近衛中将]]を兼任。
 
* [[1375年]][[12月13日]](天授元年/永和元年[[11月20日 (旧暦)|11月20日]])、[[従三位]]に昇叙。参議左近衛中将如元。
 
* [[1378年]][[4月21日]](天授4年/永和4年[[3月24日 (旧暦)|3月24日]])、[[大納言|権大納言]]に転任。[[9月19日]]([[8月27日 (旧暦)|8月27日]])、[[近衛大将|右近衛大将]]兼任。
 
* [[1379年]][[1月2日]](天授4年/永和4年[[12月13日 (旧暦)|12月13日]])、[[従二位]]に昇叙。権大納言右近衛大将如元。[[2月4日]](天授5年/康暦元年[[1月6日 (旧暦)|1月6日]])、[[右馬寮御監]]兼務。
 
* [[1380年]][[2月11日]](天授6年/康暦2年[[1月5日 (旧暦)|1月5日]])、[[従一位]]に昇叙。権大納言右近衛大将如元。
 
* [[1381年]][[8月13日]](弘和元年/永徳元年[[7月23日 (旧暦)|7月23日]])、[[内大臣]]に転任。右近衛大将如元。
 
* [[1382年]][[2月9日]](弘和2年/永徳2年[[1月26日 (旧暦)|1月26日]])、[[左大臣]]に転任。右近衛大将如元。[[3月4日]]([[1月19日 (旧暦)|閏1月19日]])、[[蔵人]]別当兼務。[[5月11日]]([[3月28日 (旧暦)|3月28日]])、[[牛車宣旨|牛車を許される]]。<br/>     [[5月24日]]([[4月11日 (旧暦)|4月11日]])、[[後円融天皇|後円融院]]別当兼務。
 
* [[1383年]][[2月16日]](弘和3年/永徳3年[[1月14日 (旧暦)|1月14日]])、[[源氏長者]]、淳和奨学両院別当兼務。[[7月26日]]([[6月26日 (旧暦)|6月26日]])、[[准后|准三宮]]宣下。
 
* [[1384年]][[4月8日]](元中元年/至徳元年[[3月17日 (旧暦)|3月17日]])、右近衛大将辞任。
 
* [[1388年]][[6月30日]](元中5年/嘉慶2年[[5月26日 (旧暦)|5月26日]])、左大臣辞任。
 
* [[1393年]][[2月7日]](元中9年/明徳3年[[12月26日 (旧暦)|12月26日]])、左大臣還任。
 
* 1393年[[10月22日]](明徳4年[[9月17日 (旧暦)|9月17日]])、左大臣辞任。
 
* [[1394年]][[1月8日]](応永元年[[12月17日 (旧暦)|12月17日]])、征夷大将軍辞職。[[1月16日]]([[12月25日 (旧暦)|12月25日]])、太政大臣に転任。[[6月20日]](応永2年[[6月3日 (旧暦)|6月3日]])、[[太政大臣]]辞任。[[7月7日]]([[6月20日 (旧暦)|6月20日]])、出家(道有を号し、のち、道義と改める)。
 
* 1402年[[8月20日]](応永9年[[9月5日 (旧暦)|9月5日]])、[[明]]より[[日本国王]]に封ぜられる。
 
* 1408年5月31日(応永15年5月6日)、薨去。[[6月3日]]([[5月9日 (旧暦)|5月9日]])、[[太上天皇]]追号(幕府が辞退)。
 
 
 
== 系譜 ==
 
* 父:[[足利義詮]](2代将軍)
 
* 母:[[紀良子]](側室)
 
 
 
* 兄弟姉妹
 
** [[足利千寿王|千寿王]]
 
** [[柏庭清祖]]
 
** [[足利満詮]]
 
** [[廷用宗器]]
 
** 女子([[宝鏡寺殿]]。恵昌?)
 
 
 
* 正室:[[日野業子]]([[日野時光]]娘)
 
** 女子
 
* 正室:[[日野康子]]([[日野資康]]娘)
 
* 側室:[[藤原慶子]]([[安芸法眼]]娘)
 
** [[足利義持]](4代将軍)
 
** [[足利義教]](6代将軍)
 
** 女子([[入江殿聖仙]])
 
* 側室:[[加賀局]]([[長快]]法印女)
 
** [[尊満]](友山清師)
 
** 男子([[宝幢若公]])
 
* 側室:[[春日局 (足利義満側室)|春日局]]([[摂津氏]]、[[摂津能秀]]女)
 
** [[足利義嗣]]
 
* 側室:[[寧福院]]殿
 
** 女子([[大慈院聖久]])
 
* 側室:[[藤原量子]]
 
** 男子(義嗣・義教と生年は同じ)
 
** 女子([[大慈院聖紹]]?)
 
* 側室:[[藤原誠子]](当初は義満の同母弟・[[足利満詮]]の正室で子もいたが、義満の手がついて側室になった)
 
** [[梶井義承]]
 
* 側室:[[慶雲庵主]]([[大炊御門冬宗]]女)
 
** 女子([[光照院尊久]])
 
* 側室:[[高橋殿]]
 
* 側室:[[池尻殿]]
 
** 女子
 
** [[虎山永隆]]
 
* (以下生母不明の子女)
 
** [[法尊|仁和寺法尊]]
 
** [[義昭|大覚寺義昭]]
 
** [[満守|本覚院満守]]
 
** 女子([[法華寺尊順]])
 
** 女子([[六角満綱]]正室)
 
** 女子([[摂取院殿]])
 
** 女子([[宝鏡院主]])
 
* 側室:[[源春子]]
 
* 側室:[[東御方]]
 
* 側室:[[対御方]]
 
* 側室:[[北向三品局]]
 
* 側室:[[一条局 (足利義満側室)|一条局]]
 
* 側室:[[坊門局 (足利義満側室)|坊門局]]
 
* 側室:[[宇治殿]]
 
** 女子
 
* 猶子
 
** [[斯波義重]]
 
** [[満済|三宝院満済]]
 
 
 
== 義満の偏諱を受けた人物 ==
 
=== 「義」の字 ===
 
* 足利'''義'''持・'''義'''教ほか義満の男子の一部(前述参照)
 
* [[赤松義則|赤松'''義'''則]]
 
* [[斯波義重|斯波'''義'''重]](義満の猶子。[[管領]]、[[斯波氏|武衛家]]当主。のち義教に改名)
 
* [[日野義資|日野'''義'''資]](義満の正室・[[日野康子]]の甥)
 
* [[細川義之|細川'''義'''之]](讃州家(阿波細川家))
 
 
 
 
 
=== 「満」の字 ===
 
==== 皇族・公家 ====
 
* [[常盤井宮滿仁親王|常盤井宮'''満'''仁親王]](皇族)
 
* [[九条満家|九条'''満'''家]]
 
* [[二条満基|二条'''満'''基]]([[二条家]])
 
* [[洞院満季|洞院'''満'''季]]([http://kotobank.jp/word/%E6%B4%9E%E9%99%A2%E6%BA%80%E5%AD%A3 コトバンク]を参照、[[洞院実熙]]の父)
 
* [[満済|三宝院'''満'''済]](義満の猶子)
 
 
 
==== 武家 ====
 
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
 
* [[尊満|尊'''満''']](実子(庶長子))
 
* [[満守|本覚院'''満'''守]](実子)
 
* [[足利満詮|足利'''満'''詮]](実弟)
 
* [[足利氏満|足利氏'''満''']]([[鎌倉公方]])
 
* [[足利満兼|足利'''満'''兼]](氏満の子、鎌倉公方)
 
* [[足利満直|足利'''満'''直]](氏満の子、満兼の弟)
 
* [[足利満隆|足利'''満'''隆]](氏満の子、満兼・満直の弟)
 
* [[足利満貞|足利'''満'''貞]](氏満の子、満兼・満直・満隆の弟)
 
* [[粟飯原満胤|粟飯原'''満'''胤]]([[粟飯原氏]]、父は詮胤)
 
* [[赤松満祐|赤松'''満'''祐]](義則の子)
 
* [[赤松満則|赤松'''満'''則]](義則の弟)
 
* [[赤松満政|赤松'''満'''政]](満則の子)
 
* [[蘆名満盛|蘆名'''満'''盛]]([[蘆名詮盛|詮盛]]の子)
 
* [[七条満弘|赤松'''満'''弘(七条'''満'''弘)]]([[赤松氏|赤松七条家]]、[[赤松光範|光範]]の子)
 
* [[荒川満頼|荒川'''満'''頼]]
 
* [[石川満持|石川'''満'''持]]([[陸奥石川氏]]第16代当主、[[石川詮持|詮持]]の子)
 
* [[石川満朝|石川'''満'''朝]](同氏第17代当主、満持の子)
 
* [[一色満範|一色'''満'''範]]
 
* [[一色氏#<宮内一色家>|一色'''満'''直]]
 
* [[今川満範|今川'''満'''範]](貞世(了俊)の末子)
 
* [[上野満兼|上野'''満'''兼]]([[上野氏#清和源氏足利流 上野氏嫡流|足利氏系上野氏]])
 
* [[宇佐美詮祐|宇佐美'''満'''秀]](詮祐)
 
* [[宇佐美満茂|宇佐美'''満'''茂]]
 
* [[塩冶満通|塩冶'''満'''通]]([[塩冶高貞]]の弟・[[塩冶時綱|時綱]]の孫)
 
* [[大内満弘|大内'''満'''弘]]
 
* [[大内満世|大内'''満'''世]](満弘の子)
 
* [[大崎満詮|大崎'''満'''詮]]([[大崎詮持|詮持]]の嫡男)
 
* [[大崎満持|大崎'''満'''持]](満詮の子で[[大崎持詮|持詮]]の父とされる)
 
* [[大舘満信|大舘'''満'''信]]([[大舘義冬|義冬]]の孫)
 
* [[大舘満冬|大舘'''満'''冬]](満信の弟、[[今参局]]の父)
 
* [[小笠原満長|小笠原'''満'''長]]([[小笠原氏#京都小笠原氏|京都小笠原氏]]、[[小笠原持長|持長]]の父。)
 
* [[葛西満清|葛西'''満'''清]](満信の長兄)
 
* [[葛西満宗|葛西'''満'''宗]](満信の次兄)
 
* [[葛西満信|葛西'''満'''信]]
 
* [[北畠満泰|北畠'''満'''泰]](満雅の兄)
 
* [[北畠満雅|北畠'''満'''雅]]
 
</div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
 
* [[京極満秀|京極'''満'''秀]]([[京極氏#能勢家(治部少輔家・佐州家)|京極能勢家]]祖)
 
* [[斯波満種|斯波'''満'''種]](大野斯波家当主)
 
* [[斯波満理|斯波'''満'''理]](満種の弟)
 
* [[渋川満頼|渋川'''満'''頼]]([[九州探題]])
 
* [[渋川満行|渋川'''満'''行]](満頼の弟)
 
* [[渋川満直|渋川'''満'''直]](満行の子、九州探題)
 
* [[少弐満貞|少弐'''満'''貞]]
 
* [[白井満宗|白井'''満'''宗]]
 
* [[白井満常|白井'''満'''常]](同上、満宗の甥(兄・詮常の子))
 
* [[曽我満助]]
 
* [[摂津満親|摂津'''満'''親]]([[摂津氏]]、幕府[[奉公衆]]、義満の側室・春日局の兄または弟)
 
* [[千秋満範|千秋'''満'''範]](幕府奉公衆・[[熱田神宮|熱田]][[大宮司]]家一族([[藤原季範]]の末裔))
 
* [[武田満信]](幕府奉公衆・京都武田氏当主)
 
* [[武田満信]](安芸武田氏二代当主、初名[[武田信在]])
 
* [[大掾満幹|大掾'''満'''幹]]
 
* [[中条満秀|中条'''満'''秀]]
 
* [[中条満平|中条'''満'''平]](満秀の弟)
 
* [[土岐満貞|土岐'''満'''貞]]
 
* [[富樫満家|富樫'''満'''家]](満成・満春の父)
 
* [[富樫満成|富樫'''満'''成]]
 
* [[富樫満春|富樫'''満'''春]]
 
* [[長野満藤|長野'''満'''藤]]
 
* [[仁木満長|仁木'''満'''長]]
 
* [[仁木満将|仁木'''満'''将]](満長の子)
 
* [[畠山満家|畠山'''満'''家]](管領、[[河内畠山氏]](畠山宗家)当主)
 
* [[畠山満慶|畠山'''満'''慶]](満家の弟、[[能登畠山氏]]祖)
 
* [[畠山満義|畠山'''満'''義]](満家の従弟、父は[[畠山義深]]の子・[[畠山持深|持深]])
 
* [[石垣満国|畠山'''満'''国]](石垣満国、満家の叔父)
 
* [[畠山満国 (河内畠山氏)|畠山'''満'''国]]([[畠山家国]]の子・[[畠山清義|清義]]の孫)
 
* [[本宮満国|畠山'''満'''国]](本宮満国、[[二本松氏#本宮氏|本宮氏]]祖)
 
* [[鹿子田満詮|畠山'''満'''詮]](鹿子田満詮、本宮満国の弟)
 
* [[二本松満泰|畠山'''満'''泰]](二本松満泰([[二本松氏]])、満国・満詮の弟)
 
* [[畠山満盛|畠山'''満'''盛]](満泰の長男、[[二本松氏#高倉氏|高倉氏]]祖)
 
* [[畠山満熈|畠山'''満'''熈]]([[畠山家国]]の子・[[畠山義熈|義熈]]の子)
 
* [[畠山満基|畠山'''満'''基]](満熈の弟、子の[[畠山教元|教元]](教基?)は[[御供衆#御供衆一覧|御供衆]])
 
* [[畠山満安|畠山'''満'''安]](満熈・満基の弟)
 
* [[畠山満純|畠山'''満'''純]]([[畠山義清]]の子)
 
</div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
 
* [[肥田満昌|肥田'''満'''昌]]([[肥田氏#土岐肥田氏の代表的な人物|土岐肥田氏]])
 
* [[細川満元|細川'''満'''元]](管領、[[細川氏]]京兆家当主)
 
* [[細川満国|細川'''満'''国]](満元の弟、野州家祖)
 
* [[細川満之|細川'''満'''之]](備中守護家)
 
* [[細川満久|細川'''満'''久]](満之の子、義之の養子となり讃州家を継ぐ)
 
* [[細川満春|細川'''満'''春]](淡路守護家、[[細川氏春|氏春]]の子)
 
* [[細川満師|細川'''満'''師('''満'''俊)]](満春の子)
 
* [[細川満経|細川'''満'''経]](奥州家、[[細川和氏|和氏]]の孫)
 
* [[細川満益|細川'''満'''益]](遠州家、[[細川頼種|頼種]]の曾孫、[[細川勝益|勝益]]の祖父)
 
* [[松田満秀|松田'''満'''秀]]([[松田氏#室町幕臣 松田氏|室町幕臣松田氏]])
 
* [[宮満信|宮 '''満'''信]]([[宮氏信|氏信]]の子)
 
* [[山名満時|山名'''満'''時]]
 
* [[山名満幸|山名'''満'''幸]]
 
* [[河口満氏|山名'''満'''氏]](河口満氏(山名河口家祖)、[[山名氏清]]の子)
 
* [[結城満藤|結城'''満'''藤]](もと古山氏、義満の寵臣、[[山城国]]守護、[http://kotobank.jp/word/%E7%B5%90%E5%9F%8E%E6%BA%80%E8%97%A4 コトバンク]を参照。)
 
* [[湯川満春|湯川'''満'''春]](紀伊国衆、詮春(詮光)の子)
 
* [[吉見満隆|吉見'''満'''隆]]([[吉見氏]])
 
* [[六角満高|六角'''満'''高]](※一説によれば義満の実弟)
 
* [[六角満綱|六角'''満'''綱]](満高の子、義満の娘婿)
 
</div>{{clear|left}}
 
 
 
== 脚注 ==
 
=== 註釈 ===
 
{{Reflist|group="註"}}
 
=== 出典 ===
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* [[臼井信義]]『足利義満』(吉川弘文館人物叢書、[[1989年]]([[平成]]元年)新装版) ISBN 4-642-05150-3
 
* [[今谷明]]『室町の王権 <small>足利義満の王権簒奪計画</small>』(中公新書、[[1990年]](平成2年)) ISBN 4-12-100978-9
 
* [[佐藤進一]]『足利義満 <small>中世王権への挑戦</small>』(平凡社ライブラリー、[[1994年]](平成6年)) ISBN 4-582-76062-7
 
* [[井沢元彦]]『天皇になろうとした将軍 <small>それからの大平記 足利義満のミステリー</small>』(小学館文庫、[[1998年]](平成10年)) ISBN 4-09-402301-1
 
* 井沢元彦『逆説の日本史(7) <small>中世王権編 太平記と南北朝の謎</small>』(小学館文庫、[[2003年]](平成15年)) ISBN 4-09-402007-1
 
* [[桜井英治]]『室町人の精神 <small>日本の歴史12</small>』([[講談社学術文庫]]、[[2009年]]) ISBN 978-4062919128
 
* [[早島大祐]]『室町幕府論』([[講談社選書メチエ]]、[[2010年]])、ISBN 978-4062584876
 
* [[小川剛生]]『足利義満—公武に君臨した室町将軍』(中公新書、2012年)、ISBN 978-4121021793
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[朝鮮通信使]] 足利義満が朝鮮と対等の外交関係を開いた
 
* [[吉備津神社]] 義満の命により再建
 
* [[大草流庖丁道]]
 
 
 
== 足利義満が登場する作品 ==
 
; アニメ
 
* 1975年-1982年(昭和50年-57年)に放映されたTVアニメ『[[一休さん (テレビアニメ)|一休さん]]』([[東映アニメーション|東映動画]]製作)では、将軍として義満(声優:[[キートン山田]])が登場する。史実に基づく有能な人物・一休と対立する立場としての側面も見せるが、総じてわがままで間の抜けた面も多いコミカルな感じのイメージで描写される。
 
; 小説
 
* [[北方謙三]]『陽炎の旗』(新潮社/新潮文庫、1991年) 
 
* [[山田風太郎]]『柳生十兵衛死す』(小学館文庫、1992年)
 
* [[安部龍太郎]]「バサラ将軍」(文藝春秋『室町花伝』/文春文庫『バサラ将軍』収録、1995年)
 
* [[平岩弓枝]]『獅子の座 <small>足利義満伝</small>』(中央公論新社/文春文庫、2000年)
 
* [[朝松健]]『一休暗夜行』(2001年、光文社文庫)
 
* [[鯨統一郎]]『とんち探偵一休さん 金閣寺に密室』(2000年4月 祥伝社ノン・ノベル / 2002年9月 祥伝社文庫)
 
; 漫画
 
* [[坂口尚]]『[[あっかんべェ一休]]』(講談社、1993年 - 1996年)
 
; テレビドラマ
 
* 『[[一休さん (2012年のテレビドラマ)|一休さん]]』(2012年、フジテレビ、演:[[東山紀之]])
 
 
 
{{Commonscat|Ashikaga_Yoshimitsu}}
 
 
 
{{足利宗家歴代当主|||第10代}}
 
{{征夷大将軍|1368年 - 1394年}}
 
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[[Category:足利義満|*]]
 
[[Category:足利義満|*]]

2019/5/7/ (火) 22:51時点における最新版

足利義満『足利義満画像』(部分),東京大学史料編纂所所蔵.jpg

足利 義満(あしかが よしみつ)

室町幕府 3代将軍(在職 1368~94)。足利義詮の子。母は紀良子。父の病により正平22=貞治6(1367)年政務を譲られ,以来元中7=明徳1(1390)年土岐康行,翌年起こった明徳の乱で山名氏清,応永6(1399)年に起こった応永の乱では大内義弘を滅ぼして将軍の権威を高めた。元中9=明徳3(1392)年には南北朝合体を成し遂げ,天下を統一した。応永1(1394)年太政大臣となり,将軍職を子の足利義持に譲り,翌年出家したが死ぬまで実権を握っていた。室町に花の御所(室町殿)を建て,晩年北山殿を営んでいる(北山文化)。



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