「貿易史」の版間の差分

提供: miniwiki
移動先:案内検索
ja>いかガ
(東アジア)
 
(内容を「{{テンプレート:20180815sk}}」で置換)
(タグ: Replaced)
 
(同じ利用者による、間の1版が非表示)
1行目: 1行目:
{{国際通商}}
+
{{テンプレート:20180815sk}}
'''貿易史'''(ぼうえきし)は、歴史上に存在した[[貿易]]や貿易制度の歴史である。日本語の貿易は国家間の取引を指し、[[国際貿易]]という表現が用いられる場合もある。交易という語は、国内と国外の双方に用いられる。本記事では、これらの歴史について記述する。
 
 
 
== 概要 ==
 
=== 起源 ===
 
[[画像:National Museum of Ethnology, Osaka - Shell necklace used for Kula exchange (soulava) - Trobriand islands in Papua New Guinea - Made in the latter half of 19th Century - George Brown Collection.jpg|thumb|right|160px|クラ交易用の首飾り]]
 
貿易は、その場にはない財を入手するための手段である。そのために狩猟や略奪に似た面を持っているが、貿易には2方向で財をやりとりするという性質がある。また、取り引きでは平和が保たれる必要があり、貿易には集団間の交流をもたらす効果もあった。貿易は、[[貨幣]]や[[市場]]が存在しない時代から行われていた<ref>ポランニー (1977) p.159</ref>。
 
 
 
最も原初的な交易とされる方法に[[沈黙交易]]があり、2つの集団が接触を避けながら交渉をする。取り引きの当事者は接触や会話をせずに品物を置き、品物を気に入れば取り引きは成立となる。財の入手において外部の集団からの影響を受けない点が重要とされ、会話が通じる集団同士でも沈黙交易は行われる。沈黙交易は[[ヘロドトス]]が記したアフリカの[[カルタゴ]]と[[リビュア]]や、中世の[[ヴォルガ・ブルガール]]の毛皮貿易、『[[蝦夷志]]』の[[アイヌ]]など世界各地に存在した記録がある<ref>グリアスン (1903)</ref><ref>瀬川 (2013)</ref>。また、沈黙交易は20世紀においても行われている<ref>鶴見 (1987) p.114</ref>。
 
 
 
行動規範が同じで隣接している集団との交易では、正直さや儀礼の正確さが求められる。しかし、面識がない集団が相手となると、それぞれの行動規範が機能しない。そのため取り引きの相手をだます行為を認めたり、推奨をする場合もあった<ref>サーリンズ (1974)</ref>。
 
 
 
; 管理貿易
 
[[贈り物]]の交換や使節の交流などの政治的、儀礼的な面がある貿易は、贈与貿易とも呼ばれる。贈与貿易は、[[トロブリアンド諸島]]で2種類の腕輪を贈る[[クラ (交易)|クラ]]や、[[ヴァイキング]]の[[サガ]]に書かれた風習に見ることができる<ref>マリノフスキ (1922)</ref><ref>角谷 (2006) 第4章</ref>。贈与貿易は、集団間の武力衝突を避ける交流としても選ばれた<ref>モース (1925) 第4章第3節</ref>。
 
 
 
遠隔地からの財の獲得は軍事的、外交的な事業でもあり、権力者によって管理貿易が行われた。国家間の管理貿易は条約が定められ、専門の交易者が参加して、用いる財の種類と交換比率が固定されていた<ref>ポランニー (1977) p.180</ref>。管理貿易では公的な財や権力者の財が取り引きされ、やがて私的な財の取り引きも平行して行われるようになった。たとえば[[モルッカ諸島]]の香料貿易では、外国商人は国王が所有する[[クローブ]]から買い入れ、次に個人所有のクローブを買い入れた<ref>生田 (1998) p.125</ref>。奈良時代の日本では、貴族が優先的に大陸からの財を買い付けた<ref>丸山 (2010) p.266</ref>。中国で確立した管理貿易としては[[朝貢]]があり、周辺国のあいだでも朝貢が行われた<ref>濱下 (1997)</ref>。
 
 
 
; 交易港
 
[[File:Plattegrond van Deshima.jpg|thumb|right|160px|長崎の[[出島]](1824年、もしくは1825年)]]
 
管理貿易が確立されると、複数の共同体が参加する制度および場所として、[[交易港]]が定められる場合がある。交易港では政治的中立性が維持されて、専門の交易者、政府の代表、特許会社などが取り引きを行った。また、貿易品を扱う市場は、地元の品を扱う市場とは区別された。貿易の促進のために、商品に関税をかけない[[自由港]]の制度も古代より存在した<ref>ポランニー (1977) 補論1</ref>。交易港のパターンとしては、(1)共同体の境界上において一時的に開催され、定住人口はない。(2)継続的な性質を持ち、交易者の滞在や手工業者などの定住地がある。(3)貿易を目的としなくなって放棄されるか、在地の経済のために機能したり政治・行政・軍事的な目的を持つようになった場所、などがある<ref>角谷 (2006) p.160</ref>。
 
 
 
; 交易者
 
[[File:Pochtecas con su carga.JPG|160px|thumb|{{仮リンク|フィレンツェ絵文書|en|Florentine Codex}}に描かれたポチテカ]]
 
交易を行う者は、大きく2種類に分かれる。義務や公共に奉仕する身分動機の者と、利潤動機のために交易をする者がおり、以下のような類型がある<ref>栗本 (2013) 第3章</ref>。
 
* 身分動機の交易者には、貿易を許された[[商人]]がいた。メソポタミアの[[タムカルム]]、[[メソアメリカ]]の[[ポチテカ]]、[[元王朝]]の[[オルトク]]は、高い身分を保証されて権力者の貿易を行った。[[禅僧]]や[[イエズス会]]修道士のように、宗教的に身分の高い者が外交や貿易を任される場合もあった<ref>安野 (2014)</ref>。
 
* 利潤動機の交易者は、特に古代においては、ギリシアの[[メトイコイ]]のように低い身分を与えられる場合が多かった。交易民族とも呼ばれる集団が存在し、海路や水路を用いた[[フェニキア人]]、[[ヴァイキング]]、乾燥地の[[ベドウィン]]、[[ハウサ人]]、[[ソグド人]]、中国からの[[華僑]]、宗教を背景に持つ[[ユダヤ人]]、[[アルメニア人]]などがいる。
 
 
 
=== 環境と貿易品 ===
 
; 環境
 
自然環境によって貿易の開始や発展に違いが生じる。以下のような特徴を持つ。
 
* [[灌漑]]農耕や[[牧畜]]に適した平原があり、金属、石材、木材を入手するための貿易が行われる。エジプトやメソポタミア南部がこれにあたる<ref>大津・常木・西秋 (1997) p.109</ref>。
 
* 乾燥した気候のもとで、[[遊牧]]・牧畜と農耕が行われ、対照的な生業が交易の原因となる。都市は遊牧民と商人を交易で結びつけ、遠距離交易と市場の仕組みも発達する。シルクロードが通る中央アジア、サハラ交易の西アフリカ、アラビア半島がこれにあたる<ref>長澤 (1993) 第2章</ref>。
 
* 海岸沿いに都市があり、海上貿易で栄える。[[地中海]]の沿岸、[[インド]]の[[グジャラート]]地方や[[マラバール]]、東南アジアの多島海、メソアメリカの[[プトゥン人]]がこれにあたる。東南アジアは自給的な山地と港市のある海岸に分かれており、貿易ルートを支配した国家を[[港市国家]]とも呼ぶ<ref>桜井 (1999)</ref>。
 
* 河川など水路沿いに内陸での長距離交易が行われる。東ヨーロッパやロシアの河川に進出したヴァイキングや[[ルーシ]]がこれにあたる。
 
* 生態系が異なる低地と山地の間で交易が行われる。メソアメリカの高地と低地や、アンデスの海岸と山岳、[[雲南省|雲南地方]]の森林と山地がこれにあたる<ref>上田 (2006)</ref>。
 
* 近代の産業革命の成立には、機械燃料となる[[石炭]]をはじめとする鉱物資源の調達や、人口増加の解決、製品の輸出先が重要となった。ヨーロッパはアメリカ大陸によってこの問題を解決して、人口増加と手工業の拡大を続けて産業革命がいち早く進行した<ref>ポメランツ (2000) p.304</ref>。
 
 
 
; 貿易品
 
歴史的に有名なものとしては、シルクロードの由来にもなった中国の絹貿易、古代ギリシアの頃から地中海で行われていた穀物貿易、15世紀の陶磁器貿易、16世紀の[[香辛料貿易]]、[[奴隷貿易]]、砂糖貿易、17世紀の[[毛皮貿易]]、18世紀の茶貿易、20世紀の[[石油]]貿易などがある。貴金属では、アフリカの[[サハラ交易]]で[[金]]が地中海にもたらされ、16世紀以降のアメリカ大陸と日本からは[[銀]]と金が産出された。ヨーロッパでは、アメリカからの銀によって[[価格革命]]とも呼ばれる現象が起きて商工業が促進され、19世紀にはブラジルの[[ゴールドラッシュ]]がイギリスの[[金本位制]]の成立にもつながる。[[1492年]]にはじまる東半球と西半球のあいだでの広範な交流は、貿易にも多大な影響を与えており、これを[[コロンブス交換]]とも呼ぶ。
 
 
 
[[サトウキビ]]、[[コーヒーノキ]]、[[綿花]]、[[タバコ]]、[[ゴムノキ]]、[[アブラヤシ]]などを栽培する[[プランテーション]]は、大量の労働力を必要としたため、奴隷貿易を含む人口移動をもたらした。16世紀以降でアフリカからアメリカへ運ばれた奴隷は、1250万人にのぼった。貿易ルートを開拓する過程で運ばれた[[トウモロコシ]]、[[ジャガイモ]]、[[サツマイモ]]、[[キャッサバ]]は食料事情の改善にも影響して、18世紀には砂糖、コーヒー、茶の消費が急増して食習慣に大きな変化が起きた<ref>山本 (2000)</ref>。20世紀初頭までは、農産物や鉱物性生産品などの[[一次産品]]が貿易で重要だったが、工業製品が世界貿易の大半を占めるようになり、近年では[[サービス貿易]]の比重が増加している。また、中国の急成長や2003年のイラク戦争の影響で資源価格が高騰して、特に2003年から2008年にかけて[[サブサハラ・アフリカ]]の経済成長につながった。
 
 
 
貿易の拡大による商品や取引の増大は、投機や[[金融恐慌]]の原因にもなった。たとえば、[[1636年]]オランダの[[チューリップ・バブル|チューリップ]]、[[1763年]]オランダの砂糖、[[1799年]]ハンブルクの砂糖やコーヒー、[[1825年]]イギリスの綿花などの輸入商品、[[1830年代]]のイギリス・アメリカ・フランスの綿花、[[1848年]]の小麦、[[1893年]]アメリカの銀・金、[[1907年]]アメリカのコーヒーなどがある<ref>キンドルバーガー (2000) 第3章、付録B</ref>。
 
 
 
=== 交通と情報 ===
 
; 貿易ルート
 
{{main|{{仮リンク|交易路|en|Trade route|label=交易路}}}}
 
[[File:Silk_route.jpg|right|thumb|300px|シルクロードの主要ルート。赤色が陸路、青色が海路]]
 
* シルクロードは、アジアとヨーロッパ、北アフリカを結ぶ東西交通路であり、主なルートは草原、オアシス、海路の3つがある。草原の道は、ユーラシアのステップ地方を北緯50度付近で東西に横断するルートで、主に遊牧民が利用した。オアシスの道は、中央アジアのオアシス群を北緯40度付近で東西に横断するルートで、ソグド人、ペルシア人、ウイグル人が利用した。海上ルートは紅海またはペルシア湾から華南まで伸び、海のシルクロードとも呼ばれる。中国人、東南アジア人、ペルシア人、アラブ人、ヨーロッパ人が利用した<ref>長澤 (1993) p.22</ref>。
 
* [[インド洋]]は東の[[ベンガル湾]]交易圏と、西のアラビア海交易圏に大きく分かれる。この海域ではアラブの[[ダウ船]]が中心となった。東南アジアはジャワ海とシャム湾があり、香料諸島が属している。この海域ではマレー人の{{仮リンク|プラウ船|en|Prau}}が中心となった。北東アジアからオーストラリア東南部にかけての海域は、複数の交易圏がつながっている。東シナ海交易圏と南シナ海交易圏では、中国の[[ジャンク]]船が中心となった<ref>リード (1988) 第1章</ref>。
 
[[File:Explos.png|thumb|300px|大航海時代の主な航路]]
 
* 15世紀から17世紀にかけて、アフリカ周回でインド洋へつながるルート、大西洋を横断するルート、太平洋を横断するルートが確立した。この時代は特に[[大航海時代]]とも呼ばれる。19世紀には地中海と紅海をつなぐ[[スエズ運河]]と、太平洋と[[カリブ海]]をつなぐ[[パナマ運河]]が建設され、さらに貿易を増大させた。
 
* [[大幹道]]と呼ばれるインドを横断するルートは、アジアで最も古くから利用されている道とされる。ヨーロッパを南北に横断する道としては、[[琥珀]]の交易に用いられたことから[[琥珀の道]]と呼ばれるルートがある。古代ローマの領土では道路網が整備されて[[ローマ街道]]と呼ばれ、交易にも利用された。イスラーム以降はマッカへの公式巡礼路としてエジプト道、シリア道、イラク道、イエメン道の4街道でキャラバンが往来した。
 
 
 
; 交通手段
 
[[ファイル:ST-caravan.jpg|thumb|160px|[[キャラバン]]]]
 
陸路では人力のほかに[[馬]]、[[ロバ]]、[[牛]]、そして荷車が用いられた。西アジアや中央アジアが原産の[[ラクダ]]は乾燥地での運搬に適しており、アフリカをはじめ他の乾燥地にも広まった。運搬力に優れた家畜を得るために、馬とロバの雑種である[[ラバ]]や、[[ヒトコブラクダ]]と[[フタコブラクダ]]の雑種が作られた<ref>永田 (1999)</ref>。南アメリカのアンデスでは[[リャマ]]が用いられた。メソアメリカには運搬に適した大型の家畜や車輪技術が存在せず、運搬は人力で行われたため、遠距離貿易には制約となった<ref>青山・猪俣 (1997)</ref>。乾燥や降雪が激しい地域では、季節によって交易の時期が制約された。19世紀に[[鉄道]]が実用化されると、陸路の輸送量は飛躍的に増加した<ref>ポメランツ (2000) p.195</ref>。
 
 
 
大量の物資を運ぶには、陸路より水路が適していた。品物の種類や水域によって船が使い分けられ、たとえば地中海では[[ガレー船]]は積載量が小さいため高価軽量の商品を運び、[[帆船]]は積載量が大きいため、穀物、原料、資材などの低価格で重量のある商品を運んだ。機械を動力に用いるまでは風向きや波が重要であり、停泊は長期間に及んだ。1850年代以降は帆船にかわって石炭を燃料とする[[蒸気船]]の利用が増加して、次に石油を燃料とする内燃機関による輸送が普及した。19世紀には石油類を輸送するための[[タンカー]]が建造されて、20世紀には[[コンテナ]]を陸路と共有して輸送を迅速にする[[コンテナ船]]が登場した<ref>橋本 (2013) p.213</ref>。
 
 
 
; 情報
 
[[ファイル:Mediterranean chart fourteenth century2.jpg|right|thumb|200px|[[アメリカ議会図書館]]にある羅針儀海図。14世紀前半末頃の地中海]]
 
情報の伝達に時間がかかる時代には、交易者が移動して対面で取り引きを行った。やがて情報の入手が容易になると、交易者が定住して代理人を雇い、郵便や電信で遠隔地と連絡をとるようになる。たとえば11世紀のイスラーム世界では信用情報の照会が容易となり、代理人に取り引きを頼む形式が始まる。ムスリム商人と共に活動をした[[マグリブ]]のユダヤ商人が、代理人にあてて書いた文書がエジプトで発見され、[[カイロ・ゲニザ]]と呼ばれて現存している<ref>湯川 (1984)</ref>。
 
 
 
貿易が増えるにつれて、手引書や商業書も増加した。1世紀の『[[エリュトゥラー海案内記]]』は紅海やインド洋の航路情報であり、中世の西アジアやヨーロッパでは商業指南書、中国では[[宋]]から[[明]]にかけて海上貿易の案内書があった<ref>田中 (1984)</ref><ref>齋藤 (2004)</ref>。
 
 
 
[[Image:British_Museum_silk_princess_painting.jpg|thumb|400px|right|中国から[[ホータン王国]]へのカイコの伝来を描いた『蚕種西漸図』]]
 
重要な貿易品の入手法や製法、地図は機密情報としても扱われた。たとえば中国では絹を作るための[[カイコ]]や葉を利用する[[チャノキ]]は、国外への持ち出しを禁じられていた。大航海時代の[[羅針儀海図]]は、当時は機密とされていた。16世紀にポルトガルがマラッカを占領した頃のポルトガル商館員だった{{仮リンク|トメ・ピレス|en|Tomé Pires}}の記録が、[[リスボン]]の宮廷図書館から英訳されたのは、1940年になってからであった<ref>鶴見 (1987) p.98</ref>。
 
 
 
=== 貿易と政治 ===
 
; 安全保障
 
貿易を行う際には、人命や貿易品を守るための安全保障が重要となった。広大な領土を持つ国は、[[駅伝]]をはじめとする交通制度を整備して軍事と交易に用いた。また、世界各地で、貿易において協力関係や保護関係をもつ制度が作られた。中世のアイスランドでは、外国商人は地元の有力者である[[ゴジ]]に保護されるかわりに、滞在中は現地の戦闘に参加するなどの[[互酬]]による関係をもった<ref>松本 (2010)</ref>。[[モンゴル帝国]]や[[元 (王朝)|元]]の制度であるオルトクも、遊牧民と商人の協力関係が原型とされる<ref>四日市 (2008)</ref>。中世の[[琉球王国]]と朝鮮の貿易では、案内役兼船乗りとして[[倭寇]]が同乗して安全を保障する制度があり、[[警固]]と呼ばれた<ref>上里 (2012) p.110</ref>。インド洋や大西洋など広い海域の貿易にヨーロッパが進出すると、[[ポルトガル海上帝国|ポルトガル]]、[[スペイン帝国|スペイン]]、[[オランダ海上帝国|オランダ]]、[[イギリス帝国|イギリス]]は海軍で安全確保を行った。貿易の安全にかかるこうした費用は保護費用(プロテクション・レント)とも呼ばれる<ref>マクニール (1974) 第1章</ref>。
 
 
 
取り引きの失敗は、武力衝突につながる場合があり、『[[日本書紀]]』に記された[[みしはせ|粛慎]]などの記録がある<ref>栗本 (2013) p.107</ref>。貿易品が原因となった紛争として、[[ビーバー戦争]]、[[アヘン戦争]]、奴隷貿易用の捕虜を目的としたアフリカの戦争などがある。略奪・交易・貢納が混じりあう例として、中世の地中海、ヴァイキング時代のバルト海や北海、中央アジアの[[匈奴]]と[[唐]]の関係、東南アジアの多島海、ヨーロッパの[[私掠船]]の制度があげられる<ref>熊野 (2003) 第2章</ref><ref>清水 (1984)</ref>。
 
 
 
; 貿易政策
 
権力者は、長距離交易の国際市場を政治的中立に保ち、安全を保障することで利益を得た。軍事力による国際市場の支配は、貿易ルートの変更を招いて経済が衰える場合もあった。
 
 
 
歴史的には、保護貿易から自由貿易までさまざまな政策がある。保護貿易の思想として16世紀の[[重商主義]]があり、経済学では19世紀の[[フリードリヒ・リスト]]が保護貿易論を主張した。自由貿易は18世紀の[[アダム・スミス]]や[[デヴィッド・リカード]]の時代から貿易政策の理想として論じられており、産業革命後の[[イギリス帝国]]、第二次世界大戦後の[[アメリカ合衆国]]は自由貿易を推進した。保護貿易によるブロック経済が第二次世界大戦の一因となったことから、自由貿易のための国際機関として[[世界貿易機関]](WTO)も設立された。現代の貿易政策は、所得の再分配、産業の振興、国際収支の改善などを目的として行われる。そのための方法として、[[関税]]、輸出補助金、[[輸入割当]]、輸出自主規制や、2国間で貿易を促進する[[相互主義]]がある<ref>服部 (2002)</ref>。
 
 
 
貿易政策の歴史は、政治制度と密接に関連する。たとえば19世紀の[[金本位制|国際金本位制]]は、国際均衡が国内均衡に優先することも意味する。そうした制度は、[[普通選挙]]が普及しておらず国民が発言力を持たない時代に可能だったとされる<ref>納家 (2003) 第3章</ref>。また貿易政策は、[[圧力団体]]などの組織されたグループにとって有利になりやすい。たとえば輸入割当は、特定の生産者が利益を得やすいが、多数にのぼる消費者は損失をこうむるにも関わらず意見が組織されにくい。このため組織されたグループが特定の貿易政策を支持すると、社会全体の厚生が犠牲にされる場合がある。19世紀のイギリスの[[穀物法]]や、世界恐慌を悪化させた1930年のアメリカの[[スムート・ホーリー法]]などがある<ref>クルーグマン、オブズフェルド (2007) 第9章</ref>。
 
 
 
== 古代 ==
 
=== アフリカ ===
 
; エジプト
 
[[File:NC Punt.jpg|200px|right|thumb|古文献に示されたプントへの道筋と、プント国の比定地]]
 
[[ナイル川]]に沿って、[[紀元前5200年]]頃からエジプト北部、[[紀元前4200年]]頃には南部で系統の異なる農耕・牧畜文化が存在した。ナイル下流に[[ナカダ文化]]が栄えると、南の[[ヌビア]]との交易が行われるようになる。ナカダからはビール、油、チーズ、ヌビアからは[[象牙]]、[[黒檀]]などが輸出された。交易用の土器は、[[紀元前3200年]]頃になると[[パレスチナ]]産も含まれており、交易の長距離化が進んでいた<ref>高宮 (2006) 第2章第4節</ref>。[[古代エジプト]]の王朝が統一されて古王国時代になると、官僚や神官によって遠征隊が組織されて、砂漠での採石や採鉱、ミイラの製作に必要な[[ナトロン]]の採集を行った。貿易においても同様に遠征隊が派遣されて、金や[[乳香]]を[[プント国]]に求め、象牙や黒檀はヌビア、銀はメソポタミア、木材は東地中海のグブラから輸入した。エジプト王朝が弱体化した時期にはヌビアに遊牧民が生活して交易を行ったが、[[紀元前21世紀|紀元前2040年]]以降の中王国時代には、エジプト王朝がナイル川の第2瀑布まで進出して金を採集するようになる。採掘やプント国との貿易で得た金は神殿や王宮に蓄蔵され、地中海やメソポタミアとの貿易にも用いられた。[[紀元前17世紀]]から異民族の[[ヒクソス]]が建国した第15王朝や第16王朝では、クレタ島で栄えた[[ミノア文明]]などとの貿易が行われた<ref>屋形 (1998)</ref>。
 
 
 
マケドニアの[[アレクサンドロス3世]]の征服後には、ナイル川の河口に[[アレクサンドリア]]が建設され、政治と貿易の拠点となる。穀倉地帯に恵まれていたエジプトは、ギリシア向けの穀物輸出も行った。やがて、世界最古の価格が変動する国際穀物市場が成立して、[[ナウクラティスのクレオメネス]]が運営した。クレオメネスは飢饉時に穀物の輸出を規制して、国内の食料を確保した。また、貿易担当者を4つのグループに分けて、本土の輸出、航海の輸送、[[ロドス島]]での交渉、ギリシア各地での情報収集を担当させて、価格の最も高い都市へ穀物を運んだ。この政策は国庫に8000[[タレント (単位)|タラントン]]という巨額の富をもたらす一方で、穀物の安定供給を求めるギリシアには批判された。クレオメネスの貿易政策は彼の死後に[[プトレマイオス朝]]に引き継がれ、ローマがエジプトを属州として[[アエギュプトゥス]]となるまで続く。そののちも、アレクサンドリアは地中海貿易で栄えた<ref>ポランニー (1977) 第15章第2節、第3節</ref>。
 
 
 
; 北アフリカ
 
[[File:Dido purchases Land for the Foundation of Carthage.jpg|250px|right|thumb|[[ディードー]]のカルタゴ建国伝承。牡牛の皮が覆える広さの土地を許されたため、細長くした皮で土地を囲って[[ビュルサ]]を手に入れた]]
 
紀元前10世紀から8世紀にかけて、地中海の沿岸にそってフェニキア人が植民都市を建設した。その中で最も繁栄したのが、ティルス人がチュニジアに建てた[[カルタゴ]]だった。フェニキアはイベリア半島のタルテッソスから東へ銀や[[錫]]を運んで利益を得ており、その帰路に位置するカルタゴは、良港と農地にもめぐまれて発展した。カルタゴは西地中海の[[サルデーニャ島]]や[[イベリア半島]]に進出したほか、東方のアケメネス朝とも貿易や協力関係を築いた。また、西アフリカやサハラにも関心をもち、[[航海者ハンノ]]は[[コートジボワール]]近辺まで航路を開拓している。貿易ルートの確保をめぐってはギリシアやローマと対立し、紀元前5世紀にはシチリアにおいてギリシアと戦い、紀元前3世紀にはローマと戦った。カルタゴが[[ポエニ戦争]]でローマに破れたのちの北アフリカは[[アフリカ属州]]となり、穀物を輸出してローマの人口を支えた<ref>栗田・佐藤 (2009)</ref>。
 
 
 
; 東アフリカ、中部アフリカ
 
中部アフリカでは5000年前から乾燥化が進み、カメルーン西部から[[バントゥー系民族|バントゥー系]]の農耕民が東方へと移住して、紀元前3世紀には[[ヴィクトリア湖]]に達した。この移動は技術や生計が異なる民族集団が共存するきっかけをもたらした<ref>宮本・松田編 (1997) 第2章第2節</ref>。[[コンゴ川]]の流域では、5世紀以降に東南アジア原産の[[バナナ]]が持ちこまれて農耕が拡大して、[[焼畑]]農耕民、狩猟採集民、漁労民のあいだで交易が行われた<ref>宮本・松田編 (1997) 第3章第1節</ref>。
 
 
 
紅海では、紀元前5世紀から紀元後1世紀に[[アクスム王国]]が貿易で栄え、ヌビアの[[メロエ]]、ローマ帝国、アラビア半島、インドと取り引きを行った。アクスムは現在のイエメンから[[エチオピア]]へ移住した[[セム系]]の人々が建国したと言われ、金、象牙、奴隷の貿易を行い、2世紀にはアラビア半島に出兵してササン朝と貿易ルートの支配をめぐって争った。4世紀にはキリスト教を国教として栄えたが、7世紀にイスラーム帝国が拡大すると、貿易ルートを奪われて衰退する<ref>宮本・松田編 (1997) p.158</ref>。
 
 
 
=== 地中海、黒海 ===
 
[[File:Cedars01(js).jpg|thumb|200px|[[カディーシャ渓谷と神の杉の森|カディーシャ渓谷]]のレバノンスギ。伐採で約1200本まで減少した]]
 
地中海東岸では紀元前3千年紀には[[都市国家]]があり、[[レバノンスギ]]が建築や造船に用いられる優れた木材として有名だった。レバノンスギはエジプトやメソポタミアにも輸出され、[[ビュブロス|グブラ]]では[[紀元前27世紀|紀元前2680年]]にはすでにエジプトから遠征隊が訪れて伐採を行っていた。[[紀元前23世紀]]以降に最盛期を迎えた[[エブラ]]には、[[紀元前23世紀|紀元前2250年]]頃の粘土板文書があり、アナトリア、パレスティナ、キプロス島、メソポタミア、エジプトと貿易をしていた記録がある。東岸の諸都市は古くから貿易で栄えており、その富はしばしば周辺国の紛争の原因にもなった。レバノンスギの他にも良質の木材に恵まれていたが、伐採によって森林は減少していった<ref>クレンゲル (1979) 第2章、第3章</ref>。
 
 
 
紀元前20世紀にはクレタ島に[[ミノア文明]]が興り、ミノアはエジプトや地中海東岸の都市と取り引きを行った。やがてミノアはペロポネソス半島の[[ミケーネ文明]]と競合して、ミケーネはミノアによって東への進出をはばまれるが、紀元前15世紀にクレタ島を占領した。金属貿易としてタウロス山の銀、エジプトの金、キプロスの銅を扱う[[ウガリト]]が商業都市として繁栄し、紀元前14世紀に繁栄を極めた<ref>栗田・佐藤 (2016) p.31</ref>。ウガリトの商人は東岸やメソポタミアで取り引きをしつつ、王の使節に同行して管理貿易をする者のほかに私的な商人もいた。[[ウラ]]の商人は、ヒッタイトから貿易を委託されてウガリトに滞在したが、次第にその経済力が警戒されて、土地の購入を禁じられるようになった。海上では当時から海賊の被害が深刻であり、ウガリトとキプロスが海賊対策で協定を結んだこともあった<ref>クレンゲル (1979) 第15章</ref>。
 
 
 
; フェニキア
 
[[File:Haustellum brandaris 000.jpg|thumb|150px|貝紫色に用いたシリアツブリガイ]]
 
 
 
東地中海は[[前1200年のカタストロフ]]とも呼ばれる大変動によってヒッタイトが滅亡し、エジプトやミケーネも衰退する。青銅器時代に[[カナン]]と呼ばれていた地域の人々は、この変動の影響を受けて海岸部に集中して住むようになる。それまで農耕を中心としていたカナン人は、居住地の減少のために商工業へと生業を変えてゆき、紀元前12世紀から紀元前8世紀にかけて西地中海へ進出した<ref>栗田・佐藤 (2016) p.100</ref>。こうして、カナンは鉄器時代には[[フェニキア]]と呼ばれるようになる。カナンやフェニキアという名は自称ではなく、特産物である[[ツブ|シリアツブリガイ]]から作った[[貝紫色]]の染料が由来だった<ref>栗田・佐藤 (2016) p.36</ref>。
 
 
 
[[画像:AntikeGriechen1.jpg|thumb|300px|黄がフェニキア人の都市、赤がギリシア人の都市、灰はその他]]
 
東地中海では金属が不足しており、フェニキアは金、銀、銅、鉄、鉛、錫などを求めて西方へ航海した。フェニキアが各地で得た金属を西アジアへ送り、海上貿易によってグブラや[[テュロス]]、[[シドン]]といった都市が栄える。輸出品としては金属の他に特産である貝紫色の染料や木材、そして象牙、ガラス、貴金属などを使った工芸品や奴隷があった<ref>栗田・佐藤 (2016) p.169</ref>。テュロス王の[[ヒラム]]はイスラエル王の[[ソロモン]]と協定を結び、テュロスは木材と職人、イスラエルは小麦とオリーブを贈り、[[エルサレム神殿]]が完成した。ヒラムとソロモンが協力した紅海の貿易については『旧約聖書』の「[[列王記]]」、テュロスの貿易による繁栄は「[[エゼキエル書]]」に記されている<ref>栗田・佐藤 (2016) p.50</ref>。テュロスからは[[イベリア半島]]やアフリカへの植民が始まり、キプロス、シチリア、マルタ、サルデーニャに拠点を建設した。フェニキア人は、紀元前8世紀から9世紀にギリシア、紀元前6世紀にはローマと接触して、地中海をめぐって対立する。[[ホメーロス]]の叙事詩『[[イーリアス]]』と『[[オデュッセイア]]』にも、フェニキア人が描かれている。北アフリカのフェニキア植民都市であるカルタゴは、東地中海のフェニキア都市が他国の支配下となったのちも繁栄を続けた<ref>クレンゲル (1979) 第15章、第17章</ref>。
 
 
 
; ギリシア
 
[[ファイル:AtheneOudheid.JPG|250px|thumb|アテナイ(右)と交易港のペイライエウス(左)]]
 
[[古代ギリシア|ギリシア]]の都市国家である[[ポリス]]は、エジプトやメソポタミアのように大規模な穀倉地帯がなく、地中海や黒海で穀物の輸入と植民をすすめた。紀元前5世紀から4世紀には[[アテナイ]]がギリシアの商業の中心地となり、小麦、木材、鉄、銅、[[奴隷]]などを輸入して、陶器、[[オリーブ油]]、[[ワイン]]などを輸出した。貿易のための港は[[エンポリウム]]と呼ばれ、アテナイでは[[ピレウス|ペイライエウス]]にエンポリウムが建設され、その他に[[ミレトス]]、[[ナウクラティス]]、[[アイノス]]、[[ビュザンティオン]]、[[フェオドシヤ|テオドシア]]、[[パンティカパイオン]]など各地に存在した。ルートの安全を保障するための軍事力も整備され、[[デロス同盟]]で海上支配を強めた。
 
 
 
貿易商人は、商船を所有するナウクレーロスと、商船に同乗したり陸上で貿易をする[[エンポロス]]に大きく分かれており、ポリス内の市場で取り引きをする[[カペーロス]]とは区別された。土地を所有できない外国人居留者である[[メトイコス]]が、ナウクレーロスやエンポロスに従事した。メトイコスには、ミケーネ文明の崩壊でアテナイに住み着いた難民が多かったとされる。アテナイに届いた穀物には2パーセントの関税がかかり、エンポロスが3分の2を市内に運び、それをカペーロスが[[アゴラ]]で販売した。国内のアゴラの穀物価格は公定価格が維持されていたが、紀元前4世紀にアテナイの海上支配が衰えると、エンポリウムの貿易では穀物価格が高騰して、アゴラの価格にも影響を与えた<ref>前沢 (1999)</ref>。
 
 
 
戦争に付随するかたちで奴隷貿易も行われており、[[従軍商人]]によって戦利品や捕虜が競売にかけられ、エンポリウムへ送られた。[[トゥキュディデス]]の『[[戦史 (トゥキディデス)|戦史]]』や、[[クセノポン]]の『[[アナバシス]]』には、戦争と結びついた貿易が記されている<ref>ポランニー (1977) 第10章第2節</ref>。アテナイの喜劇作家[[アリストパネス]]の戯曲『[[アカルナイの人々]]』では、[[ペロポネソス戦争]]の最中に敵国と単独和平をして貿易で儲ける人物が登場して、戦争に積極的な有力者と対照的に描かれている<ref>ポランニー (1977) 第12章第6節</ref>。
 
 
 
; ローマ
 
[[File:Tabula Peutingeriana ROMA.JPG|thumb|right|250px|ローマ街道の地図。[[ポイティンガー図|タブラ・ペウティンゲリアナ]]と呼ばれる]]
 
ギリシアののちには、[[古代ローマ|ローマ]]が地中海沿岸の貿易を独占した。ローマはラティウム地方の交易地であり、北のエトルリア人を征服して拡大してゆく。ギリシアのポリスはそれぞれが独立して、独自の貨幣で貿易を行っていたが、ローマは各地を征服して単一の政治機構のもとにおき、貨幣制度を統一した。共和政末期から帝政初期に貿易が盛んとなり、ローマ人のほかにギリシア人、シリア人、[[ユダヤ人]]の商人がいた。また[[解放奴隷]]の多くは商工業で働いたため、ローマ商人のなかには解放奴隷が多かった。[[ローマ街道]]をはじめとする輸送網は軍事と貿易に活用され、[[大理石]]や穀物は国家管理に置かれつつも、実際には民間業者が請け負った<ref>グリーン (1986) 第2章</ref>。
 
 
 
[[File:Collezione delle anfore romane studiate da Heinrich Dressel, 03.JPG|thumb|250px|ギリシアやローマでは[[アンフォラ]]も輸送に用いられた]]
 
ローマの商人はメルカトルと呼ばれ、その中でも貿易商はネゴティアトルと呼ばれた。遠距離交易では調味料の[[ガルム (調味料)|ガルム]]、ワイン、オリーブ油、陶器、穀物、塩、金属、奴隷などが運ばれ、ネゴティアトルにとって多額の現金を持つ各地の兵士は魅力的な顧客だった<ref>グリーン (1986) 第6章</ref>。商人には組合組織があって相互扶助が行われたが、企業のような組織とはならなかった。ローマには商業に対する蔑視もあり、[[紀元前218年]]の{{仮リンク|クラウディウス法|en|Lex Claudia}}で元老院議員が所有する船の大きさに制限を設けた。[[ペトロニウス]]の小説『[[サテュリコン]]』に登場する解放奴隷の{{仮リンク|トリマルキオ|en|Trimalchio}}が、貿易で成功したのちに土地所有者に転じているのも、こうした価値観の表れとされる<ref>坂口 (1999)</ref>。海上輸送は紀元1世紀から2世紀にかけて最盛期を迎え、その後は徐々に衰退した。
 
 
 
[[ローマ帝国]]は西アジアでパルティアと絹貿易を行い、紅海からインド洋にかけては南インドの[[サータヴァーハナ朝]]と[[季節風]]を利用した貿易を行っており、 当時の様子は紀元1世紀のものとされる『[[エリュトゥラー海案内記]]』に記されている<ref>村川訳註 (AD1)</ref>。2世紀にはローマ人が東南アジアに到達して、扶南国の交易港であるオケオではローマの金貨も見つかっている。[[166年]]には後漢の[[桓帝 (漢)|桓帝]]が治める[[洛陽]]を、[[後漢書#大秦王安敦|大秦王安敦]]の使節が訪れており、ローマ帝国からの使節とされる<ref>長澤 (1993) 第7章</ref>。
 
 
 
; ヨーロッパ
 
紀元前10世紀には、イベリア半島南部の[[タルテッソス]]がフェニキアと[[銅]]や銀の貿易をした。タルテッソスはイギリスの[[コーンウォール]]などから錫を運ぶ貿易を独占して繁栄したが、やがて大西洋側にフェニキア人が建設した[[カディス]]との競争が起きて衰退した<ref>シュライバー (1973) p.23</ref>。
 
 
 
ローマ帝国は[[ゲルマン人]]との間に[[リーメス]]と呼ばれる壁を建設し、その長さは[[スコットランド]]から[[黒海]]までの5000キロにもおよんだ。ローマ人とゲルマン人はリーメスをはさんで居住し、戦闘のほかに人の往来や交易もあった。ローマの物産が交易や略奪によってゲルマンに浸透するにつれ、その財をめぐってゲルマン人同士の争いも起きるようになる。ゲルマン人は[[マルコマンニ戦争]]を起こし、やがて勢力を拡大した[[西ゴート族]]は4世紀からイタリア半島やガリアへと移住した<ref>佐藤・池上 (1997) 第2章</ref>。
 
 
 
=== 西アジア ===
 
; メソポタミア
 
[[メソポタミア文明]]が栄えた平原は灌漑農耕や牧畜に適している一方で、特に南部メソポタミアは金属、石材、木材に不足していた。そこで、[[アナトリア]]やイラン高原から銅、銀、[[錫]]などの鉱物、レバノンからは木材を輸入した。メソポタミアからの輸出品には、[[大麦]]、[[羊毛]]や毛織物、[[胡麻油]]などがあった。装飾品として[[ラピスラズリ]]が珍重され、[[紀元前4千年紀]]には中央アジアの[[バダフシャーン]]地方で産するラピスラズリがメソポタミアやエジプトまで運ばれていた<ref>小林 (2007) p.171</ref>。[[紀元前3千年紀]]に編纂された[[ギルガメシュ叙事詩]]には、英雄[[ギルガメシュ]]が[[レバノンスギ]]を手に入れるエピソードがあり、当時の事情を表しているとされる<ref>小林 (2007) p.189</ref>。[[シュメル]]時代にはペルシャ湾方面の海上貿易も活発で、[[バット、アル=フトゥム、アル=アインの考古遺跡群|マガン]]で銅鉱山を開発したり、[[ディルムン]]経由でインダス文明と貿易をした。[[紀元前2千年紀]]には、キプロス島など地中海からも金属が運ばれた<ref>小林 (2007) p.189</ref>。
 
 
 
都市国家が競合して、[[エラム]]、[[エシュヌンナ]]、[[シッパル]]、[[アッシュール]]などの都市は交易が盛んになり、古バビロニア時代からは広い領域を統治する国が出現する。都市国家の后妃のあいだでは外交の一環で贈与交易も行われて、贈り物には装身具、家畜や家具が選ばれた<ref>小林 (2007) p.141</ref>。王室や神殿の物資調達は商人への委託が進み、交易者には[[アッカド語]]の[[タムカルム]]や[[シュメール語|シュメル語]]のダムガルと呼ばれる役職があり、王に仕えて取り引きをした。ディルムンで銅貿易をしたウルエンキや、后妃に仕えたウルエムシュといった商人の名前が記録に残っている<ref>小林 (2007) p.183</ref>。私的な取り引きを行う商人も活発になり、[[アナトリア]]の[[キュルテペ遺跡]]で発見されたキュルテペ文書には、北部メソポタミアの[[アッシリア]]の商人の活動が記されている。アッシリア商人は[[紀元前1900年]]から[[紀元前1750年]]にかけて、[[ヒッタイト]]支配下のアナトリアにカールムと呼ばれる居留地を作り、織物や錫との交換で貴金属を調達した。アッシリアの文化はアナトリアに影響を与え、ろくろを使った土器、金属加工技術、文字などが伝わった。アッシリア商人はヒッタイトの鉄に関心を示して、粘土板には鉄が金の40倍の価値があるといった記録も残している<ref>大村 (2004) 第3章、第4章</ref>。交易の増加にともなって、共同出資や債権管理の法体系が整い、新バビロニアの時代には交易の投資を管理するハルラーヌという制度も整備された<ref>明石 (2015)</ref>。
 
 
 
; ペルシア
 
[[File:Tribute Bearers on the Apadana Staircase 20 (Best Viewed Size "Large") (4688577403).jpg|thumb|160px|アケメネス朝への貢納使節。アパダナの壁画]]
 
紀元前7世紀の[[アケメネス朝]]は、西はエジプトから東は[[ガンダーラ]]にわたってを領土として、公道として[[王の道]]を整備する。徴税を担当する総督、軍事を担当する司令官、そして皇帝直属の監察長官を各地に派遣した。紀元前6世紀にはエジプトからインドに至る海上貿易で各地の産物も取り引きされた。王都だった[[スーサ]]には、木材がガンダーラや{{仮リンク|カルマニア|en|Carmania}}、瑠璃と紅玉がソグディアナ、金は[[バクトリア]]、象牙がエチオピアやインドからもたらされた。その他にもインドの香辛料、北ヨーロッパの琥珀、カルタゴの織物などがあった<ref>長澤 (1993) 第4章</ref>。謁見の間であるアパダナには朝貢図の壁画があり、各地からアケメネス朝を訪れてくる民族と、その貢物が描かれている<ref>小林 (2007) p.175</ref>。
 
 
 
; アラビア半島
 
[[アラビア半島]]では、乾燥した気候のもとで遊牧・牧畜と農耕が行われ、対照的な生業が交易の原因にもなった。都市は遊牧民と農民を交易で結びつけ、遠距離交易と市場の仕組みも発達する。[[661年]]にアラビア半島で成立した[[イスラーム帝国]]の[[ウマイヤ朝]]は、[[ダマスカス]]を首都としてローマ帝国の制度を取り入れ、中央アジアからイベリア半島にいたる地域を征服した。商業を重んじるイスラームは貿易に影響を与え、のちの[[アッバース朝]]の時代に急速に拡大する<ref>坂本 (1999)</ref>。
 
 
 
=== インド洋、ペルシア湾 ===
 
[[File:Bahrain Fort overview.jpg|thumb|200px|ディルムンの中心地だったとされる[[バーレーン要塞]]]]
 
[[紀元前27世紀]]頃には、[[メソポタミア文明]]と[[インダス文明]]が海上貿易を行っていたとされる。貿易品はインド洋やペルシャ湾を経由して運ばれ、インダスの名産だったカーネリアンのビーズがメソポタミアで発見されている。[[アッカド語]]で{{仮リンク|メルッハ|en|Meluhha}}と呼ばれた土地が、インダス文明を指すのではないかという説がある。一方でインダス側にはメソポタミアとの交渉を示す証拠が少なく、インダス文字が解明されていない点も調査を困難としている<ref>遠藤 (2013)</ref>。インダスとメソポタミアの貿易の中継地として[[ディルムン]]が知られ、インダスの装飾品の他にメソポタミアの大麦、[[青銅]]、木材が取り引きされていた。アッカド期のメルッハからは、砂金、銀、ラピスラズリ、カーネリアン、青銅といった鉱物のほかに、珍しい生き物としてクジャクなどがもたらされている<ref>小林 (2007)</ref>。
 
 
 
[[File:Map of the Periplus of the Erythraean Sea.jpg|thumb|250px|エリュトゥラー海案内記に基づいた1世紀のローマ・インド間貿易のルート]]
 
[[紀元前13世紀]]からは、アラビア半島南部の[[サバア王国]]をはじめとする国が、インドの香料をエジプトやシリアに運んでいた。インド洋の西部では、季節風が4月から9月にかけては南西から北東、11月から3月にかけては北東から南西に吹く。1世紀から2世紀には、アエギュプトゥスに住むギリシア人が、貿易商人のための案内書として『[[エリュトゥラー海案内記]]』を書いている。この書では、エリュトゥラー海を指す紅海だけでなく、アラビア海、ペルシア湾、インド洋も含んでいた。案内記によれば、ギリシア人の船乗りである{{仮リンク|ヒッパロス|en|Hippalus}}が季節風を利用する航路を開拓したためにヒッパロスの風とも呼ばれた<ref>村川訳註 (AD1)</ref>。
 
 
 
[[Image:Dhow.jpg|right|thumbnail|200px|ダウ船(ダルエスサラーム付近)]]
 
季節風の利用で貿易が活発となり、インドからアラビア半島、東アフリカまでをつないだ。[[モカ]]をはじめとするアラビアと東アフリカの港町をつなぐ航路では[[ダウ船]]が用いられ、タンザニアからオマーンまでの約4000キロメートルの直行には3週間から4週間かかった。東アフリカから輸出されたのは [[シナモン]]、乳香、象牙、[[サイ]]の角、[[鼈甲]]などで、アラビアからアフリカへ輸出されたのは武器、[[ガラス]]製品、[[ワイン]]、麦などであった。地中海とインド洋のあいだの貿易は1世紀末には衰退するが、インド洋とアフリカを結ぶルートは貿易以外にも用いられ、4世紀から5世紀にかけては東南アジアの[[マライ系]]や太平洋の[[オーストロネシア語族|オーストロネシア系]]の人々が東アフリカへ移住する。移住者によって、米、バナナ、サトウキビ、イモ類がアフリカに伝わった<ref>宮本・松田編 (1997) 第8章第1節</ref>。
 
 
 
=== 南アジア、東南アジア ===
 
; インダス文明
 
[[File:IndusValleySeals.JPG|thumb|200px|インダス式印章]]
 
[[インダス文明]]が最盛期を迎えた[[紀元前2600年]]から[[紀元前1900年]]には、海水面が現在よりも約2メートル高く、内陸部に海岸線があった。[[インダス川]]の流域から離れている[[グジャラート地方]]や{{仮リンク|マクラーン地方|en|Makran}}の集落や都市の多くは当時の海岸線に近く、大河を利用した大規模な灌漑農耕ではなく海上貿易で生活していたとされる。グジャラート地方では良質の[[カーネリアン]]を産出して、重要な貿易品にもなった。[[ドーラビーラ]]はインドと西アジアをつなぐ貿易都市として繁栄して、カーネリアン製[[ビーズ]]の工房もあった。[[ロータル]]には巨大なプール状の施設があり、海洋生物の痕跡やメソポタミアの産物が発見されたことから、交易港のドックだったとする説もある。ドーラビーラやロータルでは、ペルシャ湾沿岸に多い円形の印章も発見されている<ref>宮内・奥野 (2013)</ref>。メソポタミアに輸出されていた装飾品やインダス式印章の原材料は、インド内陸の各地から遠距離交易で都市へと集められて加工された<ref>遠藤 (2013)</ref>。陸路には牛車を運搬に用いたほかに、[[カッチ湿原]]の周辺では家畜ロバと[[アジアノロバ|インドノロバ]]との雑種を交易に利用していた説もある<ref>木村 (2013)</ref>。
 
 
 
; 十六大国時代
 
[[コーサラ国]]や[[マガダ国]]の時代には、[[チャンパー]]、[[ウッジャイニー]]、[[ラージャグリハ]]、[[ヴァイシャーリー]]、[[ヴァーラーナシー]]、[[シュラーヴァスティー]]などの都市が栄え、[[グリハパティ]]と呼ばれる有力者が経済の中心だった。グリハパティは家長を意味する語で、その中でも[[シュレーシュティン]]と呼ばれる富裕者が交易を行い、隊商で国境を越えて活動した。交易品にはヴァーラーナシーの織物、象牙、[[ガンジス川]]の高級土器である北方黒色磨研土器、貴金属や宝石、資材や食料が扱われ、この時期に金属貨幣の使用も始まっている。ガンジス川中流の新興都市の商工業者は、シュレーニーやプーガと呼ばれる同業者団体を作った。[[ヴァルナ (種姓)|ヴァルナ制度]]において商人は第3階級とされ、司祭階級のバラモンからは軽視され、商人がのちの仏教やジャイナ教を支持する一因ともなった。シュラーヴァスティーの[[祇園精舎]]も、王侯や商人の寄進によって建てられている<ref>辛島編 (2004) 第1章</ref>。
 
 
 
; マウリヤ朝以降
 
[[マウリヤ朝]]は官僚制度を整え、その経済政策は『[[実利論]]』にも記されている。整備された交易路や交易港は、マウリヤ朝の滅亡後も利用された。北方の[[クシャーナ朝]]はシルクロードの一部を押さえ、ローマからの金貨を改鋳して自国で用いて、それまでの銀貨にかわって金貨も増加した。ガンジス川流域では[[グプタ朝]]の建国までにいくつもの王国が建ち、[[ミトラ貨幣]]と総称される銀貨や銅貨が各地で発行された。デカン高原の[[サータヴァーハナ朝]]の貨幣は外国でも用いられ、織物商のギルドなどに寄進も行われた。サータヴァーハナ朝は西方との貿易が盛んで、1世紀頃にはギリシア人やアラビア人が訪れる。中国の絹は[[ガンジス川]]河口からの海上ルートでも運ばれた。南インドで海上貿易を行った[[チョーラ朝]]ではローマのワインが飲まれ、傭兵にはギリシア人がいたとされる。当時の港湾都市の{{仮リンク|アリカメドゥ|en|Arikamedu}}では、ローマの[[アンフォラ]]やガラス製品が発見されている。ギリシア人などの西方人は{{仮リンク|ヤヴァナ|en|Yavana Kingdom}}と呼ばれ、南インドの[[シャンガム文学]]の叙事詩にはヤヴァナの貿易活動も謳われた<ref>辛島編 (2004) 第2章</ref>。グプタ朝の時代にはローマが紅海のルートを押さえられたため来航が減るが、グプタ朝はベンガルを支配下におき、西アジアや東南アジアとの貿易は続いた。6世紀にはグプタ朝末期の混乱で大都市間の交易が減り、海上貿易もアラブ人やペルシア人に代わられていった<ref>辛島 (2004) 第3章</ref>。
 
 
 
; 東南アジア
 
[[File:Cloves.JPG|thumb|150px|干したクローブ。その形から丁子とも呼ばれる]]
 
東南アジアでは、自給的な山地と外部と交流をする港市は異なる経済圏だった。香辛料は山地の森林で産するものが多く、山地の住民は王国への賦役や[[人頭税]]として産物を納めていた。その産物が海岸へ運ばれて、管理貿易で輸出されるようになる。港市には首都を兼ねているところもあった<ref>桜井 (1999)</ref>。[[メコン川]]や[[チャオプラヤ川]]の下流に建国された[[扶南国]]は中継貿易の中心地となり、ボルネオやスマトラの金やモルッカ諸島のクローブを集め、[[オケオ]]を中心として港湾都市が栄えた。モルッカ諸島の香辛料である[[クローブ]]や、[[コショウ]]、 [[シナモン]]は、紀元1世紀頃には知られていた。クローブは釘に似ている形から丁子と呼ばれてマライ系民族が運び、コショウやクローブは唐まで輸出されていた。6世紀の[[粱]]の『粱書』には、モルッカとされる馬五国の記述がある<ref>生田 (1998) 第1章</ref>。インドと中国を結ぶ貿易ルートとして[[マラッカ海峡]]が重要であり、7世紀からはスマトラ島の[[シュリーヴィジャヤ王国]]が海峡を支配下に置く<ref>石澤・生田 (1998) 第4章</ref>。
 
 
 
=== 中央アジア、北アジア ===
 
; 遊牧民とオアシス都市
 
[[ファイル:He Tian jade bracelet.jpg|thumb|ホータンで産する[[和田玉]]]]
 
現在[[シルクロード]]と呼ばれているルートは、最古は玉(ぎょく)の道だったとも言われている。古代中国では[[軟玉]]と呼ばれる[[翡翠]]を用いた玉製品が珍重され、[[紀元前2000年]]には玉器の貿易が行われていた。軟玉は[[タリム盆地]]の[[ホータン]]で産出され、[[紀元前1500年]]には[[楼蘭]]が中継地となって[[蘭州]]や[[藍田]]に運ばれた。中央アジアや西アジアのオアシスでは灌漑農耕が行われ、用水路や地下水路の[[カナート]]の建設が進み、[[紀元前1000年]]には[[オアシス都市]]が成立して貿易の拠点になった<ref>長澤 (1993) 第2章</ref>。軍事面に優れた遊牧民と、経済面に優れたオアシス都市とは互恵的な関係を持つようになる。遊牧民は軍事的な庇護を提供して、オアシス都市は食料や人畜を提供した。遊牧民の使節は隊商も兼ねるようになり、オアシス都市や使節に同行する商人にとって遠距離交易の機会が増えた<ref>荒川 (2010) 第1部</ref>。
 
 
 
[[紀元前7世紀]]には南ロシアの遊牧民である[[スキタイ]]が、メソポタミアやエジプトへ進入を繰り返した。スキタイは東西交易を行い、黒海の[[アゾフ海]]から中央アジアの[[イッセドネス人|イッセドネス]]まで、ステップ地帯を横断するルートが伸びた。スキタイではギリシアの影響を受けた工芸品も作られ、素材には黄金や金銀の合金であるエレクトラムが用いられた。[[紀元前6世紀]]にはアケメネス朝の支配が中央アジアに及び、[[紀元前4世紀]]頃からは[[ソグディアナ]]の農耕民だった[[ソグド人]]が交易でも活動するようになる<ref>長澤 (1993) 第4章</ref>。
 
 
 
; 絹馬貿易
 
紀元前4世紀からは遊牧民の[[匈奴]]が[[西域]]を支配した。中国では翡翠と交換するための絹の輸出が増え、交易を行っていた[[月氏]]は絹の民族とも呼ばれたが、匈奴に征服される。匈奴は[[河西回廊]]の貿易ルートに軍を置き、華北で[[秦]]と交戦する。その一方で東方とも盛んに交易をして、絹を入手するために馬を送ったため、のちに[[絹馬貿易]]とも呼ばれた。匈奴は東の中国から入手した絹を用いて西の[[パルティア]]と貿易を行い、西方の絨毯や装飾品と交換した。匈奴は紀元前2世紀にはタリム盆地を支配して、西域進出をする漢と対立した<ref>長澤 (1993) 第3章、第5章</ref>。
 
 
 
[[ファイル:Xiyu City-States of Tarim basin (BC1C).jpg|thumb|250px|紀元前1世紀のタリム盆地の西域諸国]]
 
紀元前1世紀には匈奴が内紛で影響力を弱めたために漢の西域経営が安定して、東西貿易が活発となる。[[漢]]からの輸出品では絹が最も重要であり、漢とパルティアが直接に取り引きを行うようになると流通が増加して、絹は西方ではセレスの名で知られた。ローマ帝国の博物学者[[ガイウス・プリニウス・セクンドゥス|プリニウス]]や、天文学者・地理学者の[[プトレマイオス]]もセレスについて記しているが、絹の製法は[[東ローマ帝国]]の[[ユスティニアヌス帝]]の時代までヨーロッパでは知られていなかった<ref>長澤 (1993) 第6章</ref>。
 
 
 
東西貿易はオアシス諸国の技術や文化の向上につながり、人口も増加して55カ国となった。5世紀頃からはソグド人が[[モンゴル高原]]や華北での貿易に進出して、交易拠点にコロニーを建設した。ソグド人は漠北、[[高車]]、[[突厥]]、[[ウイグル]]などの王国でも働き、隊商の指導や官僚として重用された。[[青海省|青海地方]]では遊牧民の[[吐谷渾]]が青海路を支配して5世紀から6世紀にかけて東西貿易で利益を得たが、[[隋]]が吐谷渾を攻撃して西域四郡を設置した。6世紀から遊牧民の突厥が中央アジアを領内に収め、7世紀には唐が突厥にかわって進出して、駅道や通行許可証の制度を整えた<ref>荒川 (2010)</ref>。
 
 
 
; 北方の交易圏
 
北方の[[オホーツク文化]]と[[コリヤーク人|コリヤーク文化]]の交易では、工芸品になる[[セイウチ]]の牙、毛皮、青銅や鉄に金属製品が取り引きされた。オホーツク北岸のコリヤーク文化圏は夜叉国とも呼ばれ、夜叉国ではカムチャッカ半島で狩ったセイウチの牙を送って流鬼国から金属製品を入手した。オホーツク文化圏に属する流鬼国は[[サハリン]]に住む[[ニヴフ]]であり、地元で狩ったテンの毛皮や、夜叉から入手したセイウチの牙を送って、[[黒水靺鞨]]から金属製品を入手した。黒水靺鞨は中国の唐に朝貢をしており、流鬼から入手したテンの毛皮やセイウチの牙を唐へ送って回賜を受け取っていた。のちには流鬼国も唐へ朝貢を送るようになる。中国の北方では[[営州]]が異民族との交流で栄え、契丹や靺鞨が住んでおり、毛皮のほかに薬用人参や[[ジャコウ]]などの物産も運ばれた<ref>菊池 (2009) 第5章</ref>。
 
 
 
=== 東アジア ===
 
[[File:Jade disk.JPG|thumb|150px|前漢時代の璧]]
 
軟玉の翡翠を用いた玉器は、[[ソウ (玉器)|琮]]や[[璧]]と呼ばれるものが[[紀元前22世紀]]から作られていた。[[殷]]の時代には装身具に用いる軟玉や、[[貝貨]]として貨幣にも用いられた[[タカラガイ]]が遠方から運ばれていた。『[[禹貢]]』、『[[水経注]]』、『[[山海経]]』などによると、翡翠は中央アジアのほかに[[揚州 (古代)|揚州]]、[[浙江省|浙江]]、[[陝西省|陝西]]といった中国各地でも産出した記録がある。一方でタカラガイは熱帯や亜熱帯の海で生息しており、南方から運ばれていた。玉製品は[[秦朝|秦]]や[[漢]]の時代に入るとさらに普及した<ref>山田 (2000) p.13、 p.19</ref>。
 
 
 
; 冊封と朝貢貿易
 
[[Image:Zhigongtu full.jpg|thumb|590px|《[[職貢図]]》、6世紀の梁朝]]
 
[[冊封]]とは、中国皇帝が周辺国と結ぶ外交関係であり、周辺国の君主は形式的に中国皇帝の臣下となるかわりに自治を認められた。中国の統治原理では、中央と地方の外には、少数民族の指導者を地方官に任命する間接統治があり、さらに外には異民族統治の藩部、朝貢による統治、相互関係の強い互市国、そして教化が及ばない化外という分類がされていた。冊封を結んだ国とは[[朝貢]]という形式で管理貿易を行い、周辺国は貢物として方物(礼物)を送り、中国は貢物よりも高価な回賜(褒美)を送った。朝貢をする国が遠方にあるならば、一定の周期で朝貢するように取り決める場合が多く、年期制と呼ばれた。朝貢は中国側にとって不利な貿易であったが、安全保障として役立った。冊封の体制は[[前漢]]の時代に整い、朝貢の制度は中国の周辺国でも行われた。たとえば奈良時代の日本は[[渤海国]]から朝貢を受けており、[[内モンゴル]]から華北にかけてを領土とした[[遼]]は、[[西夏]]などの国から朝貢を受けた<ref>濱下 (1997)</ref>。
 
 
 
; 西域経営
 
[[Image:ChineseShapedSogdianCoinKelpin8thCenturyCE.jpg|thumb|150px|ソグディアナで鋳造された中国様式の硬貨]]
 
漢の[[武帝 (漢)|武帝]]は、中央アジアの遊牧民である匈奴対策のために、月氏への使者として[[張騫]]を送る。張騫は当初の目的を果たせずに帰国するが、彼は西方の情報を武帝に伝えて、漢の西域進出のきっかけとなった。[[隋]]は6世紀から吐谷渾を攻撃して、西域での官貿易を再開して、[[長安]]や[[洛陽市|洛陽]]を訪れる隊商を歓待した。隋の西域経営は[[唐]]に引き継がれ、唐は都市と州府を駅道で結んで通行証にあたる[[過所]]を発行した。中央アジアにおける過所は隊商の許可も兼ねており、漢人の商人が西域の貿易に参加しやすくなった。唐は外来のソグド人を[[興胡]]という身分に定め、内地の商人である[[行客]]とともに課税対象とするかわりに過所を発行して通行を保証した。唐の駅伝制では、駅制は国都と州府の使者や緊急の情報伝達用、伝制は公用の交通や輸送として使われ、駅道は貢納、軍事、交易を支えた。絹の産地である[[河東]]、[[河南]]、[[剣南道]]から中央アジアに庸調の絹が送られ、[[8世紀]]の中央アジアでは絹が帛練と呼ばれて[[物品貨幣]]に用いられた<ref>荒川 (2010) 第10章</ref>。オアシス国家や遊牧民は、貿易ルートを唐に管理されることと引きかえに唐領内の交易に参加する機会を得て、唐の首都である長安にはソグド人の隊商が西域の産物をもたらした。[[ササン朝]]からはペルシアの宝石、香料、貴金属細工、織物などの物産のほかに衣食住の風俗や音楽も流入して、長安に住むペルシア系の人々は[[胡|胡人]]と呼ばれた。7世紀に[[イスラーム]]のカリフ国の攻撃でササン朝が滅び、アラブ軍はソグディアナも占領したため、多数のペルシア人やソグド人が長安に亡命した<ref>長澤 (1993) 第10章</ref>。
 
 
 
; 海上貿易
 
[[File:Japanese envoy to Tang Dynasty China ship 2010.jpg|thumb|right|上海万博に際し復元された遣唐使船]]
 
前漢の時代には、海賈と呼ばれる商人が[[日南郡|日南]]や[[カーンチープラム|黄支国]]に進出しており、『[[漢書]]』に記録がある。絹や金を運んで[[真珠]]や宝石、ガラス製品と交換し、移動には港ごとに地元の船を仕立てていたので長期の旅となった<ref>可児 (1984) p.2</ref>。唐の後半には海上貿易が盛んになり、[[海商]]と呼ばれる商人も現れた。交易港として栄えた[[広州市|広州]]、[[泉州市|泉州]]、[[杭州市|杭州]]をはじめとする港市には、海上貿易を管理する[[市舶司]]が設置され、ムスリムの商人も訪れる。ムスリム商人は[[蕃坊]]に住み、広州に滞在する外国人は住唐と呼ばれた。
 
 
 
コショウ、クローブ、[[蘇芳]]といった東南アジアやインド洋の香料や染料が唐に輸入され、朝鮮の[[新羅]]はそれを中継貿易で日本へ送った。[[倭国]]時代の日本は、[[卑弥呼]]や5世紀の[[倭の五王]]が冊封を結んでいるが、のちの時代の天皇は結んでいない。ただし遣隋使や遣唐使は、中国では朝貢として記録された。日本は[[600年]]に[[遣隋使]]を派遣して、[[838年]]の最後の[[遣唐使]]を送るまで朝貢は続いた。[[安史の乱]]ののちは唐の勢力が衰え、新羅では[[張保皐]]のように貴族や軍の指導者から私貿易を始めて富を得る者も現れる。唐の商人も私貿易に参加して、唐の商船には新羅や日本の乗員もいた。日本の朝貢品は[[絁]]、[[真綿]]、銀など国内で納税されたものが中心で、当時は物品貨幣として使えるものが多く、のちに[[和紙]]や[[砂金]]が加わる。輸入品には漢籍や仏典などの書物、美術工芸品、薬物と香料がある。[[ミカン]]や[[茶]]のように食文化や喫茶文化に影響を与えたものもあった。日本への輸入品は、宝物として[[正倉院]]に収められた<ref>東野 (2007) 第4章</ref>。遣唐使が停止したのちも交流は続き、[[874年]]の入唐使では外交使節や外国商人ではない役人も香料や薬物を求めて貿易に関わっていた<ref>東野 (2007) 第1章</ref>。
 
 
 
=== アメリカ ===
 
; メソアメリカ
 
[[File:Chunchucmil-obsidian.jpg|right|150px|thumb|黒曜石の刃物の断片]]
 
[[メソアメリカ文明]]は、寒冷な高地と、熱帯の低地に大きく分かれる。石器を発達させた[[マヤ文明]]では、道具や装身具に用いる石材の交易が盛んで翡翠や[[黒曜石]]が重要な品とされ、ほかに装身具となる[[ケツァール]]の羽根や、低地で産するカカオも珍重された。ただし、メソアメリカには運搬に適した大型の家畜や車輪が存在せず、人力で運ばれたため、穀物のようなかさばる物資の貿易には制約となった。2世紀から6世紀にかけてのメキシコ中央高地では、[[テオティワカン]]が黒曜石の交易で繁栄した<ref>青山・猪俣 (1997)</ref>。
 
 
 
[[マヤ地域]]の南東部の[[モタグア川]]は上流で黒曜石、中流で翡翠を産出して、高地と低地をつなぐ交易路となった。モタグア川が合流するコパン川流域では、[[3世紀]]から[[8世紀]]にかけて[[コパン]]が黒曜石を低地の都市に輸出して発展した。コパンは高地の{{仮リンク|イシュテペケ|en|Ixtepeque}}から黒曜石を採掘して主に刃物として用いており、中でも緑色黒曜石が珍重された。また、コパンには生息しない海産のウミギクガイが翡翠とセットで発見されており、王族の儀礼用の貢納品とされる。コパンは[[738年]]に属領であった[[キリグア]]との戦いに敗れて、交易路の支配権を失う。古典期マヤ文明は8世紀に衰退し、かわってプトゥン・マヤ人がユカタン半島で海上貿易のルートを開拓する<ref>中村 (2007) 第3章-第4章、第7章</ref>。
 
 
 
; 南アメリカ
 
[[ファイル:Mochica Corn.jpg|thumb|180px|モチェ文化の黄金のトウモロコシ像]]
 
[[アンデス文明]]は、砂漠が広がる乾燥した海岸地帯と、植生が多様な山岳地帯に大きく分かれる。[[紀元前2000年]]から1700年にかけてリャマの家畜化が進み、[[紀元前1500年]]から[[紀元前1000年]]には海岸と山岳の間で交易が行われた。標高差が激しく環境が変化に富むアンデスでは、垂直統御とも呼ばれる習慣を用いて物資を入手していた。これは生態系が異なる標高の土地へ出向いて、地元にない資源の収集や作物の栽培などを行うというものだった<ref>大貫 (1979)</ref>。
 
 
 
山岳地帯のラ・ガルガーダ遺跡では、エクアドルの海岸に生息する{{仮リンク|ウミギクガイ|en|Thorny oyster}}で作った装飾品や、アマゾンの[[インコ]]の羽根が発見されている。紀元前8世紀から5世紀には黒曜石の石器や金製品も交易品に加わり、紀元前4世紀から2世紀からは[[リャマ]]が運搬に使われて物資の量が増えた。1世紀から7世紀の海岸に存在した[[モチェ]]はアンデス最初の国家とも言われ、金属の装飾品、精製土器、[[トルコ石]]が交易品に加わった。5世紀から7世紀にかけてウミギクガイの出土が急増しており、貝は豊作や豊穣の儀礼に用いられることから、地域の乾燥化との関係も指摘されている<ref>関 (2010) 第3章-第5章</ref>。
 
 
 
== 中世 ==
 
8世紀には、[[アッバース朝]]によって西アジア、アフリカ、ヨーロッパまでの貿易ルートがつながった<ref>家島 (2006)</ref>。13世紀には、[[モンゴル帝国]]のもとでシルクロードの東西が初めて統一されて、東アジア、アフリカ、ヨーロッパまでの貿易ルートがつながった。こうした交通網の発達は、貿易にまつわる制度や文化の交流ももたらした<ref>ウェザーフォード (2004)</ref>。
 
 
 
=== 西アジア ===
 
; イスラーム帝国
 
[[file:Farsh1.jpg|thumb|300px|right|伝統的な[[ペルシア絨毯]]]]
 
ウマイヤ朝を滅ぼして成立した[[アッバース朝]]は、メソポタミア平原の[[バグダード]]を首都として[[サーサーン朝]]の制度を取り入れた。広大な領土の交通が[[バリード]]という駅伝制で整備されると、流通が改善して農業や手工業の商品化が進んだ。農業ではサワードと呼ばれる平野で商品作物が作られ、穀物はエジプトなどの穀倉地帯から自給が困難な地域へと運ばれた。都市では繊維製品の特産物が増え、エジプトの[[亜麻]]布、[[クーファ]]や[[シーラーズ]]の絹織物、ペルシアや[[アルメニア]]の[[絨毯]]が有名となる。こうして高級品のほかに穀物や繊維製品の流通も盛んとなった。都市の商業施設が充実し、隊商の宿と倉庫を兼ねた[[キャラバンサライ]]と、仕入れたものを売る[[スーク (市)|スーク]]や[[バザール]]が組み合わせて建設された。外部の人間を一時的に保護して、旅人に食料や宿を提供する互助的なジワール制度もあった。大都市には、ジワールを巡礼や学問に利用する者も多数おり、ムジャーウィルーンと呼ばれた。最盛期のバグダードは人口が100万人を超え、バスラ道とクーファ道にそって貿易用の大市場が設けられ、各国の産物が集まった。中世に成立した説話集である『[[千夜一夜物語]]』には、[[バスラ]]の船乗りで海上貿易を行った[[シンドバード]]をはじめとして、8世紀から9世紀にかけての広範な貿易ルートをうかがわせる物語が収められている<ref>宮崎 (1994) 第3章</ref>。
 
 
 
; 貿易ルートの発達
 
[[画像:Caravanserai of Qalat el-Mudiq 01.jpg|thumb|upright 2.2|北シリアのキャラバンサライ]]
 
アッバース朝のもとで数々の貿易ルートがつながり、陸路と海路の結びつきも強まった。陸路ではラクダがアフリカの隊商にも導入され、海路ではダウ船が普及して、季節ごとに移動手段と方向が使い分けられた。こうして地中海ルート、紅海・インド洋・南シナ海ルート、イベリア半島からモロッコを経由するエジプトへのルート、シリアとイラク間の陸上ルート、東ローマ帝国のコンスタンティノープルへのルート、フランク王国へのルートなどが存在した。地理学者である[[イブン・フルダーズベ]]の『諸道路と諸国の書』には、貿易ルートの商人たちの活動が記録されている<ref>宮崎 (1994) 第3章</ref>。交通の整備は、ムスリムの[[マッカ巡礼]]と密接な関係にあり、国家の巡礼キャラバンが組織されていた。商業のキャラバンは、巡礼キャラバンと同じルートを使うことで安全保障の費用を軽減した。巡礼キャラバンの時期に合わせて年市が開かれ、巡礼者と地元の商人や遊牧民との間で取り引きや情報交換が行われた。交通が緊密になると地理学や地理書も盛んになり、{{仮リンク|イスタフリー|en|Estakhri}}や[[イドリースィー]]の記録や世界地図を生み出した。旅行者の記録も増え、[[イブン・ジュバイル]]、{{仮リンク|イブン・ハウカル|en|Ibn Hawqal}}、[[イブン・バットゥータ]]らが有名である。中でもイブン・バットゥータは、北アフリカのマグリブからマッカに至って中国まで旅をしたと語っており、当時の東西交通の活発さを伝えている<ref>イブン・バットゥータ (1355)</ref><ref>家島 (2006) 第2部第1章</ref>。
 
 
 
; 商業の振興
 
[[File:The_Moorish.jpg|thumb|right|[[ムーア人]]のバザール]]
 
貿易をする大商人はタージルと呼ばれ、[[イスラーム法]]のもとで大規模な貿易のための制度も整えられた。出資者が事業家に出資する[[ムダーラバ]]やキラードと呼ばれる方法や、複数の当事者が共同出資をするムシャーラカなどが発達した。こうした制度は、ムスリム同士だけでなく、ユダヤ商人やキリスト教の商人との間でも用いられた。[[イスラーム経済]]では等価・等量交換を重視することから、[[ディナール]]金貨や[[ディルハム]]銀貨の重量が保たれ、ヨーロッパにおいても信用の高い貨幣として扱われた<ref>加藤 (1995) 第2章</ref>。遠隔地貿易の代理人としてアラビア語のワキール、ヘブライ語でバーキードと呼ばれる者がおり、イスラーム商圏で紛争処理、商品保管、仲介などを行った。ワキールにはイスラーム法の知識が求められるため、法官の[[カーディー]]が勤めることも多かった<ref>清水 (1984)</ref>。アッバース朝以降には商業書も多数書かれ、中でも[[ディマシュキー]]の『商業の功徳』が有名である。ディマシュキーは、度量衡や貴金属についての貨幣論、取り引きや品質管理についての経営論、商人の類型などを論じた。ディマシュキーは商人について、倉庫業者で卸売をするハッザーン、運送業者で遠距離交易をするラッカード、各地に代理店を作って買い付けをするムジャッヒズに分類している。『商業の功徳』は、のちにヨーロッパの[[商業学]]にも影響を与えた<ref>齋藤 (2004)</ref>。
 
 
 
=== 地中海、黒海 ===
 
東ローマ帝国軍とアラブ軍は8世紀から9世紀にかけて海戦を行い、シリア、エジプト、[[チュニジア]]がイスラーム王朝の統治下におかれた。アラブやシリアのムスリム商人、ユダヤ商人、イタリア都市の商人が地中海貿易を活発に行い、イスラームのキラード制度によって、宗教が異なる者同士でも協力をして取り引きを行った。海上商人は武装商人でもあり、機会があれば他船を攻撃して略奪を行う場合もあった。フィレンツェの作家である[[ボッカチオ]]の『[[デカメロン]]』には、商人と海賊を兼業して利益を得た話が収められており、当時の生活を反映していると言われる<ref>清水 (1984)</ref>。地中海の縦断には1、2週間かかり、チュニスからリヴォルノまでは11日、コンスタンティノープルからアレクサンドリアまでは寄港を含めて2週間ほどで、地中海全域の横断には2、3ヶ月かかった。{{仮リンク|トゥルン・ウント・タクシス家|de|Thurn und Taxis}}の郵便事業は、ローマとマドリードを1カ月ほどで結び、重大な知らせは、さらに迅速に運ばれた<ref>ブローデル (1949) p.25</ref>。
 
 
 
; シチリア
 
交通の重要地域で穀倉地でもある[[シチリア]]は、[[イフリーキーヤ]]の[[アグラブ朝]]の属領となる。イスラームの灌漑技術で耕地が拡大して、ヨーロッパで珍しかったレモン、メロン、綿花、パピルス、サトウキビといった作物も栽培され、イブン・ジュバイルやイドリーシーの記録では豊富な果樹園が特筆されている。養蚕も行われて[[パレルモ]]を中心に絹を輸出して、中継貿易は11世紀に最盛期を迎える。12世紀にはノルマン人によってキリスト教徒の統治下となるが、[[シチリア王国]]の[[ルッジェーロ2世]]はイスラームの制度を引き継ぎ、住民もイタリア人、ギリシア人、アラブ人、ノルマン人が併存した。アラブ人やギリシア人は宮廷の役人としても働き、領内のシチリア、南イタリア、チュニジアは緊密に交易を行い、ルッジェーロ2世は当時のヨーロッパで最も富裕な王とも言われた。[[1220年代]]に入るとムスリムの強制移住が行われて、灌漑技術は衰退した<ref>高山 (1999) 第7章、第8章</ref>。
 
 
 
; 東地中海、黒海
 
東ローマ帝国との貿易で最も恩恵を受けたのは、ヴェネツィアだった。ヴェネツィアはアドリア海を渡る東ローマ帝国軍の輸送を担当したため、[[バシレイオス2世]]は[[992年]]に[[ダーダネルス海峡]]に入るヴェネツィア船の基本税を30[[ソリドゥス]]から17ソリドゥスに減額した<ref>ヘリン (2007) 第14章</ref>。
 
 
 
インド洋や陸路を経由して運ばれる香辛料は、イタリアの都市に大きな利益をもたらした。13世紀にはモンゴル帝国による戦乱ののちにモンゴルの地方政権によって交通が安全になり、黒海から中国へ向かう陸路の貿易も増えた。ジェノヴァやヴェネツィアは、モンゴル政権の[[イルハン朝]]や[[キプチャク・ハン国]]と商業協定を結んで黒海から東方へ進出する<ref>齋藤 (2011)</ref>。フィレンツェの商人{{仮リンク|ペゴロッティ|en|Francesco Balducci Pegolotti}}が1330年代頃に編纂したとされる商業書『{{仮リンク|商業指南|en|Pratica della mercatura}}』には、中国や黒海方面の貿易の記述が多く、[[アゾフ|タナ]]から中国まで陸路で早ければ7、8カ月で到着すると書かれている<ref>田中 (1984)</ref>。[[カッファ]]や[[トレビゾンド]]はジェノヴァの拠点となり、本国と紛争にいたることもあった。黒海では穀物、塩、魚といった食料の物産に加えて、イタリア商人を中心に奴隷貿易が行われ、スラヴ系の奴隷は[[サカーリバ]]と呼ばれた<ref>マクニール (1974) 第1章</ref>。
 
 
 
15世紀には[[オスマン帝国]]が東ローマ帝国を征服して、地中海貿易は大きく変化する。オスマン帝国は東西の中継貿易に力を入れ、イタリアの都市国家は貿易ルートの支配が低下した。このためヨーロッパでは、地中海以外のルートを開拓する試みが活発となる。[[サファヴィー朝]]が建国されるとアルメニアや商人やギリシア商人の進出が増え、ムスリム商人は地中海やインド洋での活動が縮小していった<ref>坂本 (1999)</ref>。
 
 
 
=== インド洋、ペルシア湾 ===
 
; 綿織物と香辛料貿易
 
インド洋は、イスラームが広まるとマッカ巡礼のルートとしても交流が活発となった<ref>家島 (2006) 第2部第1章</ref>。インド洋の貿易ではインド産の綿織物が質がよく、綿織物を入手するために[[マラバール海岸]]、[[スマトラ]]、[[ジャワ]]では[[コショウ]]や[[カルダモン]]、セイロン島では[[シナモン]]、モルッカ諸島では[[クローブ]]などを輸出した。インド洋貿易における香辛料は綿織物と取り引きするための生産物であったが、香辛料がインド洋を横断して地中海に運ばれると珍重され、高値で取引された。そのためモルッカ諸島は[[香料諸島]]とも呼ばれた。地中海からインド洋への輸出品は銀を中心とする金属、工芸品、奴隷などに限られ、ヨーロッパでは毛織物も特産物として輸出しようとしたが成功せず、逆にインドの綿織物がヨーロッパで注目されるようになる。地中海からの輸出は品目が増えなかったため、取り引きされる香辛料の量も限られ、高価な状態が続いた<ref>生田 (1998) 序章</ref>。
 
 
 
; 銀の流通
 
モンゴル帝国が中国からペルシアにかけて統治するようになると、ペルシアから中国にかけての海上貿易が増加した。[[キーシュ島]]やホルムズが海上貿易の中心となり、紅海やペルシア湾からの[[馬]]が重要な輸出品となった。インドは馬を大量に輸入して、中国からの銀を支払いに用いた。イスラーム諸国は10世紀から銀不足が続いていたが、東から西へと銀が流入するにつれて13世紀に銀不足は解消された<ref>家島 (2006) 第5部第4章</ref>。
 
 
 
; ヨーロッパの進出
 
[[File:Caminho maritimo para a India.png|thumb|right|250px|1498年のヴァスコ・ダ・ガマの航海ルート(黒)。緑線は通常のルート、橙線は1488年のペロ・ダ・コビリャの旅程、青線はアフォンソ・デ・パイヴァの旅程]]
 
地中海を経由せずに香辛料貿易で利益を得るために、ポルトガルはアフリカを周回してインド洋に達する航路を開拓する。[[ヴァスコ・ダ・ガマ]]は喜望峰を通過して東アフリカの[[キルワ王国]]に着き、[[1498年]]にインドの[[カリカット]]に到着して、その後も2回の航海で[[コーチ (インド)|コチン]]に着いてポルトガルのアジア進出の基礎を築いた。しかしヴァスコや後任者は各地の行動規範や商慣習に従わなかったため、海賊の疑いをかけられたり武力衝突を起こした。商業ではなく軍事力で貿易を拡大する方法は、のちにアジアへ進出するスペイン、オランダ、イギリスなどのヨーロッパ諸国も用いた<ref>生田 (1998) 序章</ref>。
 
 
 
=== 南アジア、東南アジア ===
 
; インド
 
9世紀から15世紀にかけては、[[マニグラーラム]]や[[五百人組]]と呼ばれる商人ギルドが活動し、南インドの[[タミル]]の商人が中心となる。マニグラーラムは[[ケーララ]]の領主からの特権として、関税の免減、居住区での裁判権などを得ていた。五百人組は商人グループの連合組織であり、スリランカやスマトラで活動する一方、特定の品物だけを扱う商人や、個々の街の商人も含んでいた。13世紀からは綿布の生産が増えて手工業品の輸出も増える。南インドの[[パーンディヤ朝]]は中国の元と貿易を盛んにして、元の歴史書『[[元史]]』にもその繁栄が記録されている。パーンディヤ朝は中国との貿易で得た銀で、ペルシア湾から馬を大量に輸入して、それまでのインドで伝統的であった象と歩兵の編成から騎馬兵への移行がなされた<ref>四日市 (2008)</ref>。
 
 
 
15世紀の[[グジャラート・スルターン朝]]はインド洋貿易の統制をせず、{{仮リンク|ボーラ (イスマーイール派)|en|Dawoodi Bohras}}やボホラと呼ばれるイスマーイール派のムスリム商人や、{{仮リンク|バニヤ|en|Bania (caste)}}と呼ばれるヒンドゥー教徒やジャイナ教徒の商人たちが、グジャラートの綿織物やマラバールの香辛料を運んだ。ほかにシリア派のキリスト教徒やユダヤ商人も訪れている。グジャラート、[[コロマンデル海岸]]、[[ベンガル]]で生産される綿織物は、染色が容易で良質であり広く流通した。やがて綿織物はヨーロッパにも輸出されるようになる<ref>辛島編 (2004) 第4章</ref>。
 
 
 
; 東南アジア
 
[[ファイル:Le livre des merveilles de Marco Polo-pepper.jpg|thumb|left|230px|コショウの収穫。『[[東方見聞録]]』のフランス語版より]]
 
11世紀に中国の宋が海上貿易に進出し、東南アジアにも影響を与えた。南シナ海では[[チャンパ王国]]で[[沈香]]の輸出が盛んになり、東インドネシア海ではフィリピンの三島、[[ミンドロ島]]の麻逸国、[[ブルネイ]]の渤泥国が中継貿易を行う。[[クメール王朝]]は大陸の産物を輸出して、ジャワのコショウの流通はインド人、ジャワ人、マレー人、中国人が手がけた。モルッカ諸島の香料は、ジャワを経由してインドや中国方面へ運ばれた<ref>桜井 (1999)</ref>。
 
 
 
マレー半島の都市である[[マラッカ]]は、季節風の交差地点であるためインド洋と東南アジアをつなぐ中継地となり、14世紀にタイの[[アユタヤ王国]]から独立して[[マラッカ王国]]が成立した。マラッカ王国はアユタヤ王国との戦いにおいてイスラームが広まり、ムスリム商人が進出して中継貿易がさらに栄える。貿易の増加にともない、外国商人に[[シャーバンダル]]という役職を定め、出身地別に4人を任命して外国商人の管理にあたらせた。のちにマラッカはポルトガルに占領されるが、ポルトガルの占領政策でムスリム商人の多くは去り、[[アチェ]]、アユタヤ、[[ジョホール]]へ移住した<ref>生田 (1998) 序章</ref>。
 
 
 
=== ヨーロッパ ===
 
; 南ヨーロッパ
 
[[ファイル:Italy 1494 shepherd.jpg|right|180px|thumb|ヴェネツィア(薄赤)、ジェノヴァ(薄茶色)、フィレンツェ(赤)。1494年時点]]
 
イタリア半島では、[[ヴェネツィア共和国]]、[[ジェノヴァ共和国]]、[[フィレンツェ共和国]]、[[ピサ]]などの都市国家や自治都市が東ローマ帝国やイスラーム世界と貿易をして栄えた。特にヴェネツィアは海上交易が必須とされる地理にあり、早くから生活のための食料貿易や漁業、塩業を行った。ヴェネツィアは国営の[[ガレー船]]が定期航海をして高価軽量の商品を運び、私立造船所で建造した帆船でかさばる商品を運んだ。東ローマ帝国法の影響を受けた商業金融としてコレガンツァが生まれ、共同出資の形式と、片方のみが出資する形式があった。前者はソキエタス、後者はコンメンダとも呼ばれる。コレガンツァによって能力のある者が資本を調達して商人となる機会が増えた。工芸や手工業も栄え、フィレンツェではイギリスから羊毛を輸入して毛織物を輸出し、ヴェネツィアでは[[ヴェネツィアン・グラス]]が発達した。[[十字軍]]が組織されると、遠征費用をフィレンツェ、ジェノヴァ、ヴェネツィアなどイタリア都市が出したことがきっかけとなり、イタリア商人が北西ヨーロッパにも出向いて取り引きを行った。商人たちが安価な保護費用で活動できる都市は成長し、[[アマルフィ]]のようにノルマン王国が商人に重税を課した都市では貿易は衰退した。ヴェネツィアが香辛料貿易で得る利益は他国に注目され、地中海以外の航路開拓のきっかけとなる<ref>マクニール (1974) 第1章</ref>。
 
 
 
[[File:Venitian glass circa 1330 with enamel decoration derived from Islamic technique and style.jpg|thumb|160px|[[w:Islamic contributions to Medieval Europe|イスラーム技術と様式に由来する]]ヴェネツィアン・グラス(1330年頃)]]
 
貿易と金融を行う商業組織である[[合名会社#歴史・比較法|コンパーニア]]の支店が各地に広まるにつれて、管理が複雑化する。13世紀には財務管理のために[[複式簿記]]が導入され、14世紀には北西ヨーロッパでも使われるようになった。同様に為替、振替、貸付、保険も普及が進んだ。こうした信用技術は、教会による[[利子]]の禁止を迂回して利益を得る手法にもなった。信用技術の発展は、[[ピアチェンツァ]]の金融市場も含めて国際的な定期市の衰退をもたらしたが、ヨーロッパ全体としては取引の活発化につながった<ref>マクニール (1974)</ref>。中世のヴェネツィアにおける貿易を題材とした作品として、[[シェイクスピア]]の戯曲『[[ヴェニスの商人]]』が有名である。
 
 
 
; アンダルス
 
イスラーム帝国のウマイヤ朝の王族は、アッバース家との争いで西方へ逃れる。北アフリカからジブラルタル海峡をへてイベリア半島の西ゴート王国を征服して、[[後ウマイヤ朝]]が成立した。イベリア半島は[[アンダルス]]と呼ばれ、イスラームの農耕技術や貿易で繁栄した。首都の[[コルドバ (スペイン)|コルドバ]]は最盛期には人口50万人を超え、ヨーロッパの大都市となった<ref>前嶋 (1991)</ref>。イスラーム政権下では、[[ズィンミー]]の制度でキリスト教徒とともにユダヤ教徒も保護されたため、ユダヤ商人がヨーロッパ各地から移住した。さまざまな奢侈品のほかに奴隷も扱われ、ヨーロッパ人の奴隷であるサカーリバも多数にのぼった。[[レコンキスタ]]によってキリスト教国が成立すると、ユダヤ人はイベリア半島から各地へ移住して[[セファルディム]]とも呼ばれた<ref>メノカル (2002)</ref>。
 
 
 
; 東ヨーロッパ
 
[[東ローマ帝国]]では、[[コンスタンティノープル]]が陸海のルートの中心として貿易を行った。ただし、古代ローマからの伝統で、商売は自由人にはふさわしくないとされた。元老院身分をはじめとして東ローマ帝国のエリートは土地に投資して、商業には関与しなかった。国家にとって必要物資とされた金、塩、鉄、[[貝紫色]]に染めた絹、兵器である[[ギリシアの火]]は輸出を禁じられており、絹は外交の贈与貿易に用いられた。このため、イタリア諸都市やイスラーム世界が東地中海の貿易を主導した。そうした商業観がありつつも、[[エフェソス]]をはじめとして定期市は毎年開催された。7世紀には{{仮リンク|ロードス海法|en|Rhodian law}}が定められて[[海事法]]が整備され、輸送で損害をこうむった商人は船主から補償額を受け取れるようになった。東ローマの法律は、ヴェネツィアにも影響を与えた<ref>ヘリン (2007) 第14章</ref>。
 
 
 
[[ファイル:Varangian routes.png|thumb|250px|ヴァリャーグからギリシャへの道。地図中の青線と、バルト海上の紫線]]
 
ルーシ北部では、8世紀の[[ハザール王国]]がヴォルガ川、カスピ海、アゾフ海の貿易ルートを押さえてヴォルガ・ブルガールを支配した。9世紀には、水上交易路として[[ヴァリャーグからギリシャへの道]]が確立して北欧との交通が盛んになり、[[ルーシ人]]が建国した[[ルーシ・カガン国]]にはヴァイキングも含まれていたとされる。9世紀に[[ヴォルガ川]]流域の貿易が弱まると[[ドニエプル川]]が重要となり、[[キエフ大公国]]が栄える。12世紀からキエフは政治的に分裂して、その中でも[[ノヴゴロド公国]]はバルト海、黒海、ルーシ、中央アジアの中継貿易を行い、民会による共和制的な運営がなされた。ノヴゴロドは蜜蝋や毛皮を輸出して[[イヴァン商人団]]が力を持ち、スウェーデン、デンマーク、ハンザ都市からの商人が琥珀、ラシャ、装飾品や塩を輸入した。ノヴゴロドでは当時の商業文書にも用いられた{{仮リンク|白樺文書|en|Birch bark manuscript}}も発見されている<ref>ヤーニン (1998)</ref>。
 
 
 
14世紀からは[[モスクワ大公国]]が領土を拡げる。モスクワの輸出品は[[テン]]や[[オコジョ]]の毛皮と森林の物産で、[[ノガイ・オルダ]]から馬を輸入して、キプチャク・ハン国にも商人を送った。やがてバルト海のハンザ商人はロシアにとって障害と見なされて、[[1494年]]にロシアがノヴゴロドを併合するとハンザ商館は閉鎖され、オランダとイギリスが進出する。[[ロマノフ朝]]初期の動乱の時代には、政府の許可を受けたオランダやイギリスの商人が工場建設にも乗り出し、ロシア商人は外国商人の排除をうったえる。ロシアの大商人はゴスチと呼ばれ、貿易や土地所有の特権を得るかわりに政府の代理として働いた<ref>和田編 (2004) 第4章</ref>。
 
 
 
15世紀には[[オスマン帝国]]が東ローマ帝国を征服する。オスマン帝国は、ヨーロッパ人に[[カピチュレーション]]という特権を与えて貿易と居留の自由を与えた。ただし、ヨーロッパ商人の活動は居留地のある港市に限定され、そこから出る際にはイスラーム法官であるカーディーの許可が必要だった。そのためヨーロッパ人は現地に詳しいアルメニア人たちに及ばず、オスマン帝国に開放政策を迫ることになる<ref>坂本 (1999)</ref>。
 
 
 
; 西ヨーロッパ
 
西ヨーロッパではローマ時代からヴィクと呼ばれる交易地が点在して、北方では[[フリースラント|フリースラント人]]が遠距離貿易を行った。[[フランク王国]]のもとで貨幣や市場の制度が定められ、教会の所領で定期市が開かれた。キリスト教が浸透するとワインの消費が増え、[[サン=ドニ大聖堂|サン=ドニ修道院]]の所領ではワインなど各地の物産が取り引きされ、中世初期の国際市場としてよく知られていた<ref>山田 (1999)</ref>。ユダヤ人、ザクセン人、シリア人の商人が貿易を行い、地中海のオリーブ油や東方の香辛料、絹織物を輸入した。輸出されたのはヨーロッパ各地の毛皮や奴隷であり、[[ヴェルダン]]は奴隷を[[去勢]]してアンダルスへ送る拠点となった。[[カロリング朝]]で保護された商人は、王から委託を受けて貿易をするかわりに流通税、軍役、徴発などを免除され、私貿易も行った。修道院では荘園の産物を販売しており、修道院の使用人にあたる商人が請け負った<ref>佐藤・池上 (1997) 第4章</ref>。
 
 
 
[[File:Stadtrecht P.Schiffrecht.MHG.ajb.jpg|thumb|200px|リューベックとハンブルクの同盟]]
 
12世紀になると、商人や職人が相互扶助団体である[[ギルド]]を作って都市において発言力を強め、有力な商人や職人は都市の政治に参加した。商人の同盟だった[[ハンザ]]が[[リューベック]]を中心に[[都市同盟]]に成長して、200近い都市が参加した。ドイツ・ハンザや、北フランスを中心とした17都市ハンザ、[[ロンドン]]におけるロンドン・ハンザなどがバルト海と北海を南ヨーロッパに結びつけ、[[コグ船]]で木材や穀物を運んだ。13世紀には[[羅針盤]]や羅針儀海図、航海日誌が普及して、航海術の向上は南北の海上貿易を統合した<ref>佐藤・池上 (1997) 第10章、第11章</ref>。年市とも呼ばれる[[定期市]]で貿易品が取り引きされるようになり、イングランドの[[スターブリッジの市]]、フランドルの[[シャンパーニュの大市]]などが開催された。毛織物、ワイン、絹、香料などが主な商品となった<ref>ウォルフォード (1883) 第4章、第5章</ref>。フランドル伯領では5つの都市で年市が開かれており、その一つである[[ブリュージュ]]が南北の中継貿易でネーデルラントに繁栄にもたらして、イタリアから為替や複式簿記などの金融技術が伝わった。ブリュージュでは商工業者のためのオランダ語とフランス語の2カ国語の手引書として、[[1369年]]頃に『メティエの書』が編纂された。この手引書は19種類の毛織物、各地のワイン、食べ物、家財道具、ギルド名称、商人や職人の挨拶、数詞などが分かるようになっている<ref>河原 (2006) 第2章</ref>。
 
 
 
; 北ヨーロッパ
 
[[ファイル:Volok by Roerich.jpg|thumb|250px|{{仮リンク|連水陸路|en|Portage}}で移動する船]]
 
北欧の叙事詩を収めた[[サガ]]や、北欧神話の歌謡集『[[エッダ]]』には、贈与が重要な役割を果たす逸話が多く残されている。[[スカンディナヴィア]]では贈与貿易が盛んであり、[[ヴァイキング]]時代に入ると、東方との交流がきっかけで銀を多用する貿易へと変化が起きる。装飾品や副葬品のために銀の蓄蔵を積極的に行い、羊毛、毛皮、奴隷を輸出した。ヴァイキングは8世紀には[[ヴォルホフ川]]流域や[[スターラヤ・ラドガ]]に現れ、9世紀には水上交易路であるヴァリャーグからギリシャへの道を開拓した。河川ぞいにドニエプル川から黒海やコンスタンティノープル、ヴォルガ川からカスピ海へと移動して、東ローマ帝国の[[スラヴ人]]やイスラーム帝国のムスリム商人と取り引きを行った。遠征先で定住する者もおり、ルーシ・カガン国の住人にはヴァイキングも含まれていたとされる。河川での移動には、[[ロングシップ]]よりも小型の[[クナール]]を用いた<ref>熊野 (2003) 第2章、第4章</ref>。
 
 
 
9世紀の[[バルト海]]沿岸では、イスラームのウマイヤ朝の度量衡にもとづいた分銅が普及して、同時代の西ヨーロッパの硬貨よりも高い精度を保った。交易港である[[ビルカ]]、[[ヘーゼビュー]]、[[ゴットランド島]]では、分銅で測られた銀製の装飾品や、イスラームのディナール銀貨が[[秤量貨幣]]として用いられるようになる。分銅が価値尺度としての貨幣の機能を持ち、秤量銀貨が支払い手段の貨幣の機能を担ったため、硬貨の造幣は基本的に行われなかった<ref>角谷 (2006) 第4章</ref>。アイスランドでは14世紀から[[バカラオ|干しタラ]]が名産品となって、ドイツ・ハンザ商人がヨーロッパ各地に輸出した。保存食として優れた干しタラはカトリックの食習慣にも適していたため、スペインやポルトガルの植民地となったメソアメリカや南アメリカにも輸出された。のちにはイギリスからも漁船が訪れるようになり、イギリスとハンザ商人の間で漁獲をめぐる対立が起きた<ref>松本 (2010)</ref>。
 
 
 
=== 中央アジア、北アジア ===
 
; シルクロードのイスラーム化
 
ウマイヤ朝は、シルクロードのオアシス地帯である[[マー・ワラー・アンナフル]]を征服して、オアシス国家は唐に支援を求めた。唐は遠征軍を派遣するが、指揮官の[[高仙芝]]がオアシス国家の財宝を略奪したために不評を買って唐軍は孤立して、[[タラス河畔の戦い]]でアラブ軍に大敗する。シルクロードは次第にイスラームの貿易ルートとなり、都市もイスラーム化が進んでモスク、マドラサ、スークをそろえた街並みとなっていった。また、唐軍からの捕虜に紙漉きの職人がいたため、製紙法が伝わって[[サマルカンド]]にイスラーム世界初の製紙工場が作られた。アッバース朝と唐の対立に加えて、ウイグルや[[吐蕃]]などの遊牧民によって8世紀後半にはシルクロード貿易は不安定となる。そのためペルシア湾から中国へ至る海上貿易ルートが増加した。地理・歴史学者である[[アブー・ザイド]]の『シナ・インド物語』や[[マスウーディ]]の『黄金の牧場』には、内陸の商人たちが海路で[[広州]]などへ向かった様子が記されている。[[養蚕]]の技術がペルシアに伝わって絹織物工業が盛んになったことも、シルクロード貿易の縮小に影響を与えた<ref>宮崎 (1994) 第6章</ref>。
 
 
 
; トルコ系遊牧民
 
9世紀のマー・ワラー・アンナフルには[[サーマーン朝]]が建国され、ソグディアナの[[ブハラ]]を首都として積極的な貿易を続けた。シルクロード以外の陸路も開拓され、カザフスタンのトルコ系遊牧民との貿易が盛んになる。家畜、毛皮、皮革、乳製品、宝石が取り引きされ、特に[[マムルーク]]と呼ばれるトルコ系の白人奴隷はサーマーン朝の重要な財源とされた。マムルークはイスラーム世界で優れた軍人として重用され、[[マムルーク朝]]の成立へとつながる<ref>宮崎 (1994) 第6章</ref>。トルコ系遊牧民は中央アジアで増加を続け、オアシス国家の農耕民として定住して、のちに[[トルキスタン]]と呼ばれるきっかけとなる。ヴォルガ川流域で貿易ルートの開拓が進むと、北方のルーシや、北ヨーロッパのヴァイキングとの交流も増加した<ref>長澤 (1993) 第12章</ref>。
 
 
 
; シルクロード東端
 
10世紀の河西地方は吐蕃やウイグル諸国が馬の名産地となり、中国と絹馬貿易を行った。吐蕃の諸部族によって[[涼州]]や[[汾州]]が不安定になってからは、中国の直轄地として[[節度使]]が置かれている北方の[[霊州]]へと迂回するルートが用いられた。11世紀にはチベット系民族の[[タングート]]が[[西夏]]を建国して、霊州の貿易ルートを支配する。西夏は隣国である[[遼]]に朝貢を行って中国の[[宋]]に対抗した。西域のウイグル人諸国も遼と管理貿易を行い、400人以上の大規模な隊商を3年に1度組織して翡翠、乳香、琥珀、サイの角などを送った。ウイグル商人は河西、[[オルドス]]、山西から華北のルートにも進出して、遼や[[金 (王朝)|金]]では貿易品によって中国文化の流入も進んだ。12世紀以降の中国王朝は主に[[北京]]が首都とされたため、華北のルートの重要性が増した<ref>長澤 (1993) 第12章</ref>。
 
 
 
; モンゴル帝国のシルクロード統一
 
[[Image:Mongol Empire map.gif|right|250px|thumb|モンゴル帝国の版図の変遷。モンゴル帝国(赤)、[[キプチャク・ハン国]](黄)、[[チャガタイ・ハン国]](濃緑)、[[イルハン朝]](緑)、[[元 (王朝)|元]](紫)]]
 
13世紀に入ると、シルクロードは[[モンゴル帝国]]の支配下に置かれる。モンゴリアを統一したモンゴル帝国は、イランのイスラーム王朝である[[ホラズム・シャー朝]]を攻める。モンゴルは当初はホラズム・シャーのもとにラクダ500頭の隊商を送るが、スパイの疑いをかけられて隊商が殺害されたため、[[モンゴルのホラズム・シャー朝征服]]が起きた。モンゴル帝国の征服は続き、東アジアから東ヨーロッパに及ぶ広大な領域を支配下に収めた。それまでのシルクロードは、東西で大きく勢力が分かれていたが、モンゴル帝国のもとで初めて統一された。モンゴル帝国は[[ジャムチ]]という駅伝制を定め、30キロから50キロ間隔で駅が置かれて、通行証として[[牌子]]を発行した。牌子の所持者は通行の安全が保証されるのに加えて、賦役や地方税が免除された。モンゴルの駅伝制はクビという[[再配分]]の制度から発祥しており、各地で得られた戦利品や富を輸送するためのものだった。再配分の物資を送る道は、交易路としても活用が進むようになる。クビの制度は人材の分配にも適用されて、多数の商人、使節、技術者が東西を移動した。モンゴルの整備された駅伝の様子は、ヴェネツィアからの旅行者である[[マルコ・ポーロ]]も記している<ref>ウェザーフォード (2004) 第9章</ref>。
 
 
 
=== 東アジア ===
 
; 宋の貿易と華僑
 
[[Image:Vase Phoenix Handles Celadon.JPG|thumb|160px|龍泉窯青磁。南宋]]
 
宋の時代から羅針盤が使われるようになり、航海技術が向上した。この時代の海商は、各国の権力者や大商人の代理として取り引きを行った。[[北宋]]では[[ジャンク船]]が建造され、官船は500トン、民間船は300トンが用いられた。航路が整備され、[[泉州]]を出発した船がマレー半島で積荷の3分の1を下ろしてから[[パレンバン]]へ向かうといった航程が可能となる。そのため12世紀から東南アジアで海商が活動して、1回の航海に長期間をかけて各地を巡った。海商は共同資本を持ち寄ったり、[[広東]]や[[福建]]では海商に出資する者もいた。北宋時代の『[[萍州可談]]』には、商船貿易の資本は利息が10割で帰国時に元利を返済し、航海から10年帰国しなくても利息は増やさないという記述があり、長期間の航海と利益の大きさを表している。南方航海から長期間帰らない者は[[住蕃]]と呼ばれ、福建からは北ベトナムに海路や陸路で移住する者も増えて、[[華僑]]の始まりとなった<ref>可児 (1984) p.3</ref>。華僑の商人は、特に華商と呼ばれる。
 
 
 
中国では銅貨が伝統的に流通しており、宋に入ると大量の[[宋銭]]が作られた。宋銭は[[王安石]]の時代をのぞけば禁輸とされていたが、周辺諸国にも広まり、朝鮮の[[高麗]]、[[鎌倉時代]]の日本、ベトナムの[[安南]]でも用いられた。日本では九州に漢人居住地の[[唐房]]があり、最大の唐房は[[博多]]の[[大唐街]]であった。こうした漢人の居住地から銅貨が出土している<ref>四日市 (2008) p.145</ref>。華北が金に征服されて[[南宋]]の時代になると、貿易が国家収入で大きな割合を占めた。貴金属や宋銭の流出を防ぐために、陶磁器や絹との交換で決済したために陶磁器の輸出が急増した<ref>森 (2008)</ref>。中国に移住したアラブ、ペルシア、トルコ系の人々は回民と呼ばれ、アラブ系の[[蒲寿庚]]のように巨富を得て活躍したムスリム商人は、のちの元の時代でも重用された。日本では[[禅僧]]が南宋から元の時代に数百人以上が留学して、大陸との外交や貿易にも参加した。禅僧の書簡である[[禅林墨跡]]には、12世紀から14世紀の[[日宋貿易]]の記録も含まれている<ref>榎本 (2008)</ref>。
 
 
 
; 元と東西貿易の統一
 
[[Image:Phagspa vinokurov tablet.jpg|thumb|160px|[[パスパ文字]]で書かれたモンゴル帝国の通行証である牌子]]
 
13世紀にモンゴル帝国が南宋を征服して、[[クビライ]]によって[[元 (王朝)|元]]が成立する。クビライは貿易を盛んに行い、[[オルトク]]という制度で商人に貿易や財政を任せた。オルトクはウイグル人やムスリムの商人を中心としており、もともとは内陸の遊牧民と商人が協力をするための制度であった。沿岸都市が元の支配下になるとオルトク商人も海上貿易に進出して、漢人からも楊氏のようなオルトクが輩出された。同じモンゴル政権のイルハン朝が西アジアに成立して西方との貿易が増えると、元のオルトク商人は南シナ海を経由してインド洋へ進出し、イルハン朝のオルトク商人はインド経由で南シナ海に向かう。こうして、モンゴル帝国によってユーラシアの東西が貿易ルートでつながった。[[朱清]]や[[張瑄]]などの海賊や塩商だった者も[[漕運]]を任されて官位を得て、中央アジア出身でオルトクを管理するシハーブ・ウッディーン(沙不丁)との対立も起きる。このような新興の富豪は官豪勢要とも呼ばれた<ref>四日市 (2008) p.125-128</ref>。
 
 
 
元は[[交鈔]]と呼ばれる紙幣と、銀による貨幣制度を定めた。国内では貴金属の私的な流通を禁じて交鈔を流通させる一方で、銀は管理貿易に用いた。元の王族や領主は、[[銀錠]]という銀貨をオルトク商人に与えて、管理貿易に運用させた。当時のインドでは、貿易の支払いに中国からの銀が用いられた記録があり、銀が西へと流れていたことを示している<ref>四日市 (2008) p.131, 139</ref>。元は銀を確保するために、貴金属が豊富な雲南の大理国に[[雲南・大理遠征]]も行っている。陶磁器は宋に続いて重要な輸出品であり、絹織物の製法も発達して、泉州(ザイトン)を由来とした[[サテン]]の名が生まれてヨーロッパに伝わり、ボッカチオや[[チョーサー]]はこれをタタールの織物やタタールのサテンと表現している。[[印刷]]や羅針盤などの技術も、この時期に西方へ伝わった<ref>ウェザーフォード (2004) 第9章</ref>。元による東西交通の活発化は病原菌の伝染も容易とし、14世紀の[[ペスト]]の大流行をもたらした<ref>ウェザーフォード (2004) 第10章</ref>。イスラーム世界やヨーロッパでは、東方からもたらされた銀を用いて14世紀から銀貨の造幣が増加していたが、元の貿易ルートが衰えると再び銀不足に陥った<ref>黒田 (2013) p.65</ref>。
 
 
 
; 明の海禁と朝貢
 
[[ファイル:The Zheng He expeditions - Jap.jpg|thumb|right|250px|鄭和艦隊の進路]]
 
[[明]]が成立すると[[海禁]]の政策をとり、私的な貿易を取り締まった。海禁は大きな反発を呼び、[[倭寇]]と呼ばれる集団が増加した。倭寇は日本、朝鮮、中国の沿海部の出身者を中心としており、[[対馬]]、[[壱岐]]、松浦、[[済州島]]、[[舟山列島]]を根拠地とした。倭寇は密貿易や海賊を行い、売買のために奴隷を捕獲する者もあった。倭寇対策をめぐって[[室町幕府]]と[[李氏朝鮮]]のあいだで交わされた[[朝鮮通信使]]は、のちの江戸幕府では数少ない正式な外交使節にもなった<ref>田中 (1997) 第1章</ref>。密貿易の増加にともない、それまで内陸で活動をしていた[[徽州商人]]が海上貿易に参加するようになり、博多や平戸でも取り引きをする[[王直]]らの登場につながった<ref>臼井 (1999)</ref>。
 
 
 
明は海禁の一方で、[[永楽帝]]の時代に冊封体制の拡大を計画して、[[鄭和]]の指揮のもとで西方への航海が行われた。{{仮リンク|鄭和の大航海|en|Treasure voyages}}は、『[[明史]]』によれば「西洋下り」とも呼ばれ、[[1405年]]から[[1433年]]にかけて7回に渡って行われ、大艦隊がインド洋を横断して東アフリカまで到達した。朝貢国は非関税で明と貿易ができたが、回賜の増加は明の財政を圧迫するとして批判もあった<ref>濱下 (1997)</ref>。
 
 
 
[[ファイル:Shinkosen.jpg|thumb|200px|琉球の[[進貢船]]]]
 
明の朝貢において優遇されたのは、沖縄の[[琉球王国]]だった。[[1383年]]に明は琉球に大型船を提供して朝貢が頻繁になり、華人が琉球に移住して[[久米三十六姓]]と呼ばれ、朝貢は華人たちが担当した。久米三十六姓の人々が住む場所は大明街と呼ばれ、福建には滞在用の琉球館が建設された。琉球には朝貢の回数制限がなく、一国で複数の朝貢主体が認められるという特例もあった。これは倭寇の対策として琉球の貿易を活発にして、民間貿易の受け皿にするという明の政策が関わっていた。琉球は小型の馬と、[[硫黄鳥島]]の[[硫黄]]を送り、そのほかにコショウや蘇芳を東南アジアのマラッカ王国などから調達して送った。琉球は他の朝貢国とも貿易を行い、朝鮮とは[[高麗]]の時代に交流が始まり、日本からは博多や[[堺]]の民間商人も訪れた。琉球の朝貢は、明の時代から400年以上続くことになる<ref>上里 (2012) 第2章、第3章</ref>。
 
 
 
; 陶磁器貿易
 
[[File:Chinese dish, Yuan dynasty, 14th century, porcelain with glaze, Honolulu Academy of Arts.JPG|right|thumb|200px|元の青花蓮池水禽文大盤]]
 
宋の時代に[[景徳鎮]]、[[竜泉市|龍泉]]、福建などが名産地として知られるようになった。元の時代には、食器を中心に大型化して好評を呼んだ。これはモンゴル人やムスリムが大勢で取り分ける食習慣を反映したもので、イスラーム法で金銀の食器が使えない点も普及につながり、特に龍泉窯青磁は西アジアでも愛好された。[[新安郡]]で発見された沈没船は1323年頃のもので、陶磁器は龍泉窯青磁、[[景徳鎮]]窯や[[福建]]の[[白磁]]と青白磁を中心に2万点以上が積まれており、大量の輸出を示している<ref>森 (2008)</ref>。中国の陶工は輸出先の好みに合わせて工夫を加え、西アジア向けの作品には青い顔料のためにペルシアから[[ラピスラズリ]]を輸入した。明の時代には、ヨーロッパへの輸出も始まる<ref>森 (2008)</ref><ref>ブルック (2009) p.83</ref>。
 
 
 
; 貿易の案内書
 
宋・元・明の時代には、アジア海域の案内書が多く書かれた。著者は地方官や外交使節とそのメンバーである。内容は多岐にわたり、航程と日程、位置と国情、地理、民族や信仰、婚姻習慣、貨幣と度量衡、唐貨(中国の物産)と土貨(現地の物産)、朝貢関係の有無、華僑の有無などが記されている。また、カンボジア、シャム、福建や広東では女性が交易の取り引きを行うといった商習慣も注目された。元の[[汪大淵]]が、泉州からインド洋沿岸をめぐって書いた『[[島夷志略]]』が有名である<ref>斯波 (1995) p.37</ref>。
 
 
 
=== アフリカ ===
 
; 北アフリカ、東アフリカ
 
ウマイヤ朝の時代にはエジプトの[[フスタート]]が貿易都市として繁栄して、バグダードを首都とするアッバース朝が成立するとアラビア海近辺の貿易ルートはペルシア湾経由が増え、[[カイロ]]を首都とした[[ファーティマ朝]]が成立すると紅海経由が増えた。紅海の出入口にあたる[[イエメン]]の商人が東アフリカに進出して、キルワ、[[モガディシオ]]、[[モンバサ]]などの都市が成長した。地中海沿岸では、ムスリム商人が港湾都市の[[ベジャイア]]、[[アルジェ]]、[[オラン]]を建設して、代理人であるワキールは各地に商館を建てて、遠方からの依頼で取り引きを行った。15世紀には、中国の明が鄭和の指揮する艦隊を派遣して、東アフリカにも来航している<ref>宮本・松田編 (1997) 第8章第1節</ref>。西アフリカのサハラ交易で入手された金は、地中海沿岸へと運ばれた。[[エチオピア]]原産のコーヒーノキは、イエメンでも栽培されてイスラーム世界で飲まれるようになり、イランやインドへと産地が広まる。イエメンは15世紀からコーヒーの世界的な輸出港を持ち、やがてカイロの商人もコーヒー貿易に進出して、コーヒーの習慣はトルコをへてヨーロッパでも流行する。ヨーロッパ向けの船が寄港するモカは、のちにコーヒーのブランド名の由来になった<ref>臼井 (1992) 第2章</ref>。
 
 
 
; 西アフリカのサハラ交易
 
[[画像:Map of Trans-Saharan Trade from 13th to Early 15th Century.JPG|250px|thumb|13世紀から15世紀初頭のマリ王国とサハラ交易路]]
 
西部の[[ニジェール川]]流域では、中流の内陸デルタの都市である[[ジェンネ]]が古くから栄え、サハラの銅やサバンナからの金を運ぶ[[サハラ交易]]が行われていた。アラブ・イスラームの進出以前は、[[ベルベル人]]が貿易に携わっていた。7世紀から北アフリカにラクダが導入されると、ムスリム商人の隊商が盛んになる。地中海沿岸のアラブ人はサハラ砂漠の彼方をスーダン(黒人の国)と呼び、ニジェール川流域は西スーダン、チャド湖近辺は中央スーダン、ナイル川上流を東スーダンと呼んだ。サハラ砂漠からは[[岩塩]]が運ばれてニジェール川流域の金と取り引きされ、地中海へ金が運ばれた。また、イスラームの影響で[[コーラ (植物)|コーラ]]の実も嗜好品として流通した。ベルベル人はイスラームへ改宗して、アラブ人が来たのちもサハラ交易の取り引きを主導した。北からのベルベル人のほかに、マンデ系の[[ワンガラ族]]や{{仮リンク|ジュラ人|en|Dyula people|label=ジュラ族}}が活動した。コーラの実がとれる森に沿ってジュラ商人の街も建設されて、交易網を緊密にした<ref>宮本・松田編 (1997) 第5章、第7章</ref>。
 
 
 
[[ファイル:Mansamusa.jpg|left|thumb|160px|マンサ・ムーサ。金塊を手にしている]]
 
貿易ルート沿いの王国は商人の保護と課税によって経済的基盤を得る一方、イスラームへの改宗も進んだ。主な国としては8世紀から記録がある[[ガーナ王国]]、13世紀の{{仮リンク|マンデ人|en|Mandé peoples}}の[[マリ王国]]、水運を支配した15世紀の[[ソンガイ王国]]がある。ガーナ王国の首都はムスリム居住地と王の土地に分かれており、セネガル川上流から金が産出された。以後、金の産出地は東へと移ってゆく。マリの王は大規模なキャラバンでマッカ巡礼を行い、中でも[[マンサ・ムーサ]]は8000人以上を率いたとも言われており、新しい交易ルートの開発も目的だったとされる。ルート上に点在する都市も繁栄して、特に[[トンブクトゥ]]は有名となった<ref>宮本・松田編 (1997) 第5章、第7章</ref>。
 
 
 
; 中部アフリカ
 
11世紀から13世紀にかけて[[ザンビア]]とインド洋をつなぐ貿易ルートが確立して、コンゴ川の河口部に[[コンゴ王国]]、上流部には{{仮リンク|ルンダ王国|en|Kingdom of Lunda}}や、ルバ族の{{仮リンク|ルバ王国|en|Kingdom of Luba}}が成立した。ルバ王国は鉄、銅、塩を輸出して、コンゴ王国ではポルトガルとの奴隷貿易を行った。アフォンソ王時代のコンゴ王国は戦争の捕虜を輸出していたが、アメリカでプランテーションの労働力が求められるにつれて奴隷の輸出は激増して、地域間の紛争とともにコンゴ王国の衰退を招いた<ref>宮本・松田編 (1997) 第3章第2節、第3節</ref>。
 
 
 
; 南部アフリカ
 
[[画像:Map of Archaeological ruins in R.of Zimbabwe.JPG|right|250px|thumb|ジンバブエの主な考古遺跡]]
 
南部の[[ザンベジ川]]と[[リンポポ川]]の流域では、10世紀から[[ショナ人]]によって金の採取や採掘が盛んとなる。貿易ルートはインド洋と結びつき、14世紀に最盛期を迎えた[[グレート・ジンバブエ]]ではムスリム商人と取り引きをした。輸出品としては塩、金、象牙などかあり、遺跡からは中国の元や明の陶器、キルワの金貨、そのほかの輸入品が発見されている。15世紀にはグレート・ジンバブエの建築文化を引き継ぐ[[モノモタパ王国]]が建国され、交易港の[[ソファラ]]からインド洋に向けて金や銅を輸出して、16世紀からはポルトガルと通商関係を結ぶ。16世紀は[[トルワ王国]]、17世紀の[[チャンガミレ王国]]といった国々も興り、ポルトガルと貿易や戦争を行った<ref>宮本・松田編 (1997) 第4章第1節、第2節</ref>。
 
 
 
; ヨーロッパとの海上貿易
 
[[Image:Caravel Boa Esperanca Portugal.jpg|200px|right|thumb|キャラベル船]]
 
[[1415年]]にポルトガルの[[アヴィス朝]]が[[ジブラルタル海峡]]のアフリカ側に進軍して、スーダンからの金が集められていた貿易港の[[セウタ]]を占領した。これがポルトガルによるインド航路開拓のきっかけであり、ヨーロッパの[[大航海時代]]の先駆けとなった。ポルトガルの[[エンリケ航海王子|エンリケ王子]]はセウタの防衛を任され、アフリカ西海岸の貿易独占権を得てから、アフリカの金とインド洋の香辛料を求めて航海事業に力を入れる。15世紀のポルトガルはヨーロッパの他国に比べて戦争や内乱による混乱がなく、ヴェネツィアと競争関係にあるジェノヴァからの投資も受けた。この頃、[[クリストファー・コロンブス]]は西インド航路の開拓をポルトガルに提案したが受け入れられず、スペインの[[カスティーリャ王国]]に雇われることとなる。ポルトガルの[[キャラベル船]]はアフリカ西海岸沿いに南下して航路の開拓を進め、[[1488年]]には[[バルトロメウ・ディアス]]がアフリカ南端を通過して帰路に[[喜望峰]]を発見した。ポルトガルに続いてイギリス、フランス、オランダもアフリカを南下して、海岸沿いには各国の城砦が貿易拠点として建設された。当初はヨーロッパの金属製品とアフリカの金、象牙、胡椒などが取り引きされていたが、16世紀には大西洋の奴隷貿易が主流となる<ref>宮本・松田編 (1997) 第9章第1節</ref>。
 
 
 
=== アメリカ ===
 
; プトゥン人
 
[[File:Map of Putun trade route and terminal-classc or early postclassic maya sites.jpg|thumb|250px|right|プトゥン人の交易ルート、特産品、古典期終末から後古典期のマヤの祭祀センター]]
 
古典期のマヤ文明が崩壊したのちは、低地で[[プトゥン人]]が遠距離の海上貿易を行い、内陸の交易では[[チチェン・イツァ]]が8世紀から10世紀にかけて中心地となった。海上ではカヌーを用いてタバスコ州からユカタン半島を通ってベリーズやホンジュラスまでをつなぎ、交易港として{{仮リンク|シカランコ|en|Punta Xicalango}}、[[コスメル島]]、[[トゥルム]]、{{仮リンク|ニト|en|Nito}}などがあった。品物には、ユカタン半島の北部では蜜、塩、奴隷などを輸出し、マヤ南東部ではカカオ、翡翠、黒曜石、銅が輸出された。ほかに土器、トルコ石、金などもあった<ref>青山・猪俣 (1997)</ref>。
 
 
 
; アステカ
 
メキシコ高地の[[アステカ]]は、[[テノチティトラン]]、[[テスココ]]、{{仮リンク|トラコパン|en|Tlacopan}}の3都市の同盟を中心として、首都にあたる[[テノチティトラン]]と姉妹都市である商業都市{{仮リンク|トラテロルコ|en|Tlatelolco}}では[[ポチテカ]]と呼ばれる特権商人が遠距離貿易を独占した。ポチテカはすでに14世紀にはトラテロルコで活動しており、世襲制のギルドを組織して、メシコ各地へ出向いて取り引きをする他に諜報活動も行ってアステカの征服の一端を担った。ポチテカの扱った品物には、羽毛材として装身具に使う[[ケツァール]]の羽、貴重な嗜好品で貨幣でもある[[カカオ]]、宝石、貴金属、[[ジャガー]]の皮、奴隷などがある。カカオ産地の{{仮リンク|ソコヌスコ|en|Soconusco}}は重要とされ、カカオはのちに[[チョコレート]]の原料としてヨーロッパ向けの輸出品となる。カカオ豆の貨幣は、20世紀まで通用した地域もあった<ref>小林 (1985)</ref>。
 
 
 
; 南アメリカ
 
8世紀から14世紀にかけて、ペルーの北海岸で[[シカン]]が栄えた。シカンは灌漑農耕を行い、金属工芸品を制作して交易に用いた。金属製品に優れ、特に金製品はマスク、王冠、グローブ、[[イヤリング]]など多岐にわたる。砒素青銅の製品は長距離交易で輸出され、斧型のものは貨幣に用いられた可能性もある。ウミギクガイ、[[紫水晶]]、[[エメラルド]]も発見されており、エメラルドはコロンビアからの輸入品とも言われる。ペルーの[[チンチャ地方]]やエクアドルには海上貿易を行った商人もいた<ref>関 (2010) 第7章</ref>。
 
 
 
15世紀にアンデスを統合した[[インカ]]は、アンデスで伝統だった垂直統御を引き継いで精緻にした。交通では{{仮リンク|インカ道|en|Inca road system}}とも呼ばれる交通網と駅伝制を整備して、タンプと呼ぶ宿駅を一定間隔で建設して物資を保存した。険しい地形のために水運や車輪ではなく人力とリャマで輸送をしたため、かさばる物品の長距離輸送は困難となった。インカは植民制度である[[ミトマク]]で住民の移住を進めつつ、インカ以前から活動していたエクアドルやチンチャの特産品を扱う商人は存続された<ref>関 (2010) 第7章、第8章</ref><ref>ダルトロイ (2012)</ref>。
 
 
 
高原地帯の[[アルティプラーノ]]周辺の熱帯林には、葉に覚醒作用がある[[コカノキ]]が生息しており、贈与や貢納、儀式に用いられた。コカの葉は、[[チチカカ湖]]沿岸の[[ティワナク]]では疲労回復に用いられ、インカでは貢納されたコカの葉を臣下に再分配していた。のちにコカの葉は世界的な商品となる<ref>ダルトロイ (2012)</ref>。
 
 
 
; ヨーロッパ人の到着
 
ポルトガルのアフリカ周航ルートに対して、スペインでは別の航路の開拓が検討された。コロンブスは[[1492年]]に西回りのインド航路を開拓するために航海をして、大西洋を横断して現在の[[バハマ]]に到達した。[[1500年]]には、ポルトガルの[[ペドロ・アルヴァレス・カブラル]]がアフリカ周航ルートから外れ、現在のブラジルに漂着した<ref>宮本・松田編 (1997) 第9章第1節、第2節</ref>。
 
 
 
== 近世・近代 ==
 
ヨーロッパが大航海時代の航路開拓によってアフリカ、アメリカ、アジアへの貿易に進出する。輸出作物のための[[プランテーション]]や、多国間による[[三角貿易]]も発達した。世界各地にヨーロッパの植民地が建設されて、原料の輸入や製品の輸出先として利用された。産業革命後はアメリカや日本も進出をはかり、世界規模での貿易圏の対立を招いた<ref>ホブズボーム (1987)</ref>。
 
 
 
=== ヨーロッパ ===
 
; 重商主義
 
貿易が国家の繁栄に重要であるという認識は、イタリア諸都市の伝統として古くからあり、イエズス会司祭{{仮リンク|ジョヴァンニ・ボッテーロ|en|Giovanni Botero}}による『国家理性論』、フィレンツェ共和国の外交官[[ニッコロ・マキャヴェッリ]]による『リウィウス論』や『[[君主論]]』にも見られる。こうした思想はヨーロッパ各国の君主、政治家、商人によって16世紀以降に顕著となり、[[重商主義]]と呼ばれた。貿易での優位は国内の利益や雇用につながると考えられ、そのための政策として、貿易ルートの開拓、海軍力、工業化の促進などが推進された。中でも領土や人口においては小国である[[オランダ共和国]]が、貿易と金融でおさめた成功は各国で注目された。イングランドの外交官[[ウィリアム・テンプル]]は、商人の国は農民の国よりも豊かであると論じ、非国教徒も受け入れるオランダのリベラルな国制を成功の原因の一つとした。東インド会社の役員もつとめた[[トーマス・マン (経済学者)|トーマス・マン]]は『重商主義論』で貿易が国家の利益につながるとして、商人を称賛した。大陸ヨーロッパ諸国ではフランスの[[ブルボン朝]]の[[コルベール]]が産業育成と輸出奨励策をとり、輸入代替政策をはかったが、これは密輸の増加も招いた<ref>マグヌソン (2009) 第2章</ref>。[[ロシア帝国]]はピョートル1世の時代から重商主義政策をとり、北方の[[アルハンゲリスク]]にかわる貿易拠点として[[サンクトペテルブルク]]が建設され、バルト海と内陸の流通が促進される。エリザヴェータの時代には大臣の{{仮リンク|ピョートル・シュヴァーロフ|en|Peter Ivanovich Shuvalov}}が国内関税を廃止して商業を奨励し、富裕貴族を企業活動へ引き込んだ<ref>和田編 (2004) 第5章</ref>。重商主義は、のちのアメリカ合衆国におけるアメリカ・システムなどの経済政策にも影響を与えた<ref>マグヌソン (2009) 第6章</ref>。
 
 
 
; 北西ヨーロッパ都市
 
[[File:View of Amsterdam.JPG|thumb|250px|1538年当時のアムステルダム]]
 
ネーデルラント地方には各地から商人が集まり、ハンザ都市やスペインの他にイタリアの都市とも結びつきを強めた。ブリュージュは14世紀からジェノヴァやヴェネツィアと取り引きが盛んになる。イタリアの商船は[[ミョウバン]]、染料、ワインを下ろしてイギリスの羊毛や毛織物を地中海へ運び、[[メディチ家]]もブリュージュに拠点を置いた。ポルトガルが西アフリカで入手した象牙、金、砂糖もブリュージュへ運ばれた。ヨーロッパで砂糖の消費が増え、大西洋で行われる砂糖貿易のひな型が15世紀にはできあがっていた。ブリュージュは[[ハプスブルク家]]との対立で衰退して、かわって[[アントウェルペン]]が[[ケルン]]の商人を介してイギリス産の毛織物を扱って急成長する。やがてポルトガルはアフリカを周回してインド洋の香辛料を直接運べるようになり、アントウェルペンは地中海を介さずに香辛料を扱ってさらに発展した。アントウェルペンはポルトガルの商館をはじめ外国人を積極的に招き、16世紀に最盛期を迎える<ref>中沢 (1999)</ref>。
 
 
 
[[File:Jan Vermeer van Delft 023.jpg|thumb|200px|right|フェルメール作「士官と笑う娘」]]
 
16世紀後半には[[スペイン・ハプスブルク朝]]がプロテスタント弾圧を強め、アントウェルペンが陥落する。現地の商人たちは、[[アムステルダム]]、[[ロンドン]]、[[ハンブルク]]へ移住した。そのため3つの都市は貿易や金融で類似点を持ち、ときには補完関係やリスク分散を行いつつ繁栄した。アムステルダムは、スペインやポルトガルの異端審問を逃れて移住したユダヤ人の資金も流入して、金融技術の発達にともなってヨーロッパの金融センターとなる<ref>名城 (2008)</ref>。法学者[[グロティウス]]が公海と自由貿易を論じた『[[自由海論]]』も、この時代に書かれている。オランダの[[デルフト]]に住んでいた画家[[ヨハネス・フェルメール]]の作品『{{仮リンク|士官と笑う娘|en|Officer and Laughing Girl}}』には北アメリカのビーバーの毛皮帽子、『[[地理学者 (フェルメールの絵画)|地理学者]]』には和服が描かれており、当時のオランダの繁栄がうかがえる<ref>ブルック (2009)</ref>。
 
 
 
ハンブルクは大陸ヨーロッパにおいてアムステルダムに次ぐ港湾都市となり、16世紀から18世紀にかけて中立都市として栄え、他の都市が交戦中でも各国と貿易を行っていた。西ヨーロッパで開催されていた大規模な国際定期市は次第に内陸へと移り、[[ライプツィヒ]]や[[フランクフルト]]のように[[見本市]]として存続する場合もあった<ref>谷澤 (2010)</ref>。ロシアでは[[マカリエフの定期市]]や[[ニジニ・ノヴゴロド]]の定期市で、毛皮、茶、絹といったヨーロッパとアジアの物産が集められた<ref>ウォルフォード (1883) 第5章</ref>。
 
 
 
; 貿易会社
 
[[Image:VOC amsterdam building.JPG|thumb|200px|旧オランダ東インド会社の本社]]
 
共同資本で貿易を行う貿易会社が増え、その中には特別許可状を受けて貿易を行う[[勅許会社]]が現れた。[[1555年]]の[[モスクワ会社]]がイギリス初の勅許会社となり、[[モスクワ大公国]]との貿易を独占した。[[東インド会社]]は各国で設立されて、イギリスでは[[1600年]]に[[イギリス東インド会社]]が設立された。オランダでは、ジャワ島の[[バンテン王国]]との往復や、新航海会社のモルッカ諸島到着に影響されて会社が林立し、それらを統合して[[オランダ東インド会社]]の設立となる。オランダ東インド会社の資本金は650万[[ギルダー|グルデン]]で株主は有限責任制をとり、対するイギリス東インド会社の第1航海の起債は6万8000ポンド(約53万グルデン)であり、約10倍の開きがあった。当時の会社は航海ごとに組織される当座企業であり、イギリス東インド会社も初期は当座企業としての面があったため、オランダ東インド会社が世界初の[[株式会社]]と言われている<ref>浅田 (1989) 第1章</ref><ref>永積 (2000) 第2章</ref>。
 
 
 
オランダ東インド会社は、北アメリカ、ジャワ島、インド西岸、[[オランダ統治時代 (台湾)|台湾]]、日本などに進出する。ポルトガルの貿易とは異なり布教は目的としておらず、ポルトガルに代わって長崎貿易を行うようになり、貴金属を得て莫大な利益を上げた。一方、イギリス東インド会社はインド、マラッカ、中国へと進出する。毛織物の輸出も計画していたが、アジアではヨーロッパの商品は人気がなく、東南アジアの香辛料、インドの綿織物、中国の茶などによって輸入超過が続く。こうした状況を変えるために、インドの植民地化やアヘン貿易が行われた<ref>浅田 (1989) 第1章</ref>。アフリカやアメリカ進出のための勅許会社としては、イギリスでは[[王立アフリカ会社]]、[[南海会社]]、[[イギリス南アフリカ会社]]などがあった。アフリカでの勅許会社は40社以上にのぼったが、多くは巨額の赤字を出して撤退して、国家による植民地支配が始まった<ref>宮本・松田編 (1997) 第10章</ref>。また、イギリスの南海会社やフランスの[[ミシシッピ計画|ミシシッピ会社]]は投機の流行と混乱の引き金にもなり、[[南海泡沫事件]]は[[バブル経済]]の語源となった。
 
 
 
大規模な勅許会社は植民地政府のような役割を果たし、中でもインドにおけるイギリス東インド会社と、ジャワ島におけるオランダ東インド会社は顕著だった。[[プラッシーの戦い]]以降のイギリス東インド会社は、ムガル帝国のインドで[[ディーワーニー]]と呼ばれる徴税権を得て地税収入を入手できるようになる。18世紀から19世紀にかけてインドで財を成した者は[[ネイボッブ]]と呼ばれ、帰国後に[[腐敗選挙区]]から下院議員に当選する者も出て批判の声があがり、東インド会社の独占廃止と[[改革法 (イギリス1832年)|第1次選挙法改正]]{{enlink|Reform Act 1832}}につながる<ref>浅田 (1989) 第9章、第10章</ref>。
 
 
 
; 貿易と国際秩序
 
ヨーロッパは、大規模な国際戦争である[[30年戦争]]をへて、[[1648年]]から[[ヴェストファーレン条約]]のもとで[[勢力均衡]]がはかられる。この条約によって各国には領土権や法的主権、内政不可侵が定められた。勢力均衡の時代には、18世紀スコットランドの思想家[[デイヴィッド・ヒューム]]やアダム・スミスらが協調や商業による国家の結びつきを重視する。これはマキャヴェッリやトマス・ホッブズの政治思想とは異なるものだった。ヒュームは[[1758年]]に『貿易の嫉妬について』を書き、貿易による相互利益にもとづく国家の関係を論じた。スミスや[[リチャード・コブデン]]は、国際関係において戦争ではなく貿易を優先することを提唱した。スミスは[[1776年]]の『[[国富論]]』で、隣国の経済的な繁栄は敵対状態ならば危険でも、平和で貿易が行える状態においては自国の繁栄につながると論じた<ref>ホント (2005)</ref>。コブデンは、自由貿易によって軍備の縮小と平和がもたらされると論じた<ref>服部 (2002) 第6章第4節</ref>。
 
 
 
=== 大西洋 ===
 
{{See also|ヨーロッパ諸国によるアメリカ大陸の植民地化}}
 
大西洋貿易がスペインやポルトガルを中心としてメソアメリカや南アメリカで進み、ヨーロッパ各国がカリブ海や北アメリカへの植民を始める。北アメリカの植民地とイギリスの対立は、アメリカ合衆国の独立にもつながった。
 
 
 
; 作物や家畜と貿易
 
[[ファイル:Patates.jpg|thumb|right|160px|アンデスのジャガイモ]]
 
アメリカからの作物は[[トウモロコシ]]、[[ジャガイモ]]、[[キャッサバ]]、[[サツマイモ]]、[[トマト]]、[[カボチャ]]、[[落花生]]、[[トウガラシ]]、[[カカオ]]、[[タバコ]]、[[ゴム]]などが運ばれた。ヨーロッパからの作物ではサトウキビ、コーヒー、バナナ、麦、[[タマネギ]]、コショウ、ブドウ。家畜では牛、馬、羊、山羊、豚、ロバが運ばれた。
 
 
 
[[ファイル:Sugar cane 2.JPG|thumb|160px|サトウキビのプランテーション]]
 
中でもサトウキビは大きな影響を与えることになる。サトウキビは東南アジアから西方へもたらされ、イタリア商人やムスリム商人が地中海の[[キプロス]]、クレタ、シチリアなどで栽培した。しかし熱帯性であるため地中海では育ちが悪く、砂糖は貴重だった。15世紀にポルトガルが大西洋の[[マデイラ諸島]]、[[カボヴェルデ]]、[[サントメ]]に植えたサトウキビは地中海よりも育ちがよく、ポルトガルが砂糖貿易で優位に立つ。スペインは[[カナリア諸島]]でサトウキビ農園を建設して、[[1493年]]のコロンブスの第二次航海ではカナリア諸島からのサトウキビが運ばれ、[[サント・ドミンゴ]]でアメリカのサトウキビ栽培が始まった。トウモロコシは南ヨーロッパのイベリア半島、イタリア、バルカン半島で栽培され、アフリカやアジアへ伝わる。ジャガイモは北ヨーロッパのフランス、ドイツ、[[ポーランド]]、[[アイルランド]]、[[ロシア]]へ広まり、特にアイルランドでは主食となった<ref>山本 (2000)</ref>。
 
 
 
; 奴隷貿易
 
{{Main|{{仮リンク|大西洋奴隷貿易|en|Atlantic slave trade|label=大西洋奴隷貿易}}}}
 
大西洋は、[[奴隷貿易]]が歴史上で最も盛んに行われた。大西洋の奴隷貿易が増加するきっかけは、[[サトウキビ]]の栽培と関連がある。アメリカ大陸でサトウキビのプランテーションが始まると、大量の労働力が必要とされ、[[1501年]]には大西洋を横断する奴隷貿易が始まる。ポルトガルはすでに[[1486年]]にリスボン奴隷局を設立して、奴隷商人に貿易許可証を発行していた。スペインは貿易の請負契約である[[アシエント]]を商人や外国と結び、奴隷商人は[[1545年]]から[[1789年]]にかけてアシエントの契約料と税金を納めて奴隷貿易を行った。[[1642年]]以前はスペインとポルトガルが主導して、次に[[オランダ海上帝国|オランダ]]、フランス、イギリス、[[デンマーク海上帝国|デンマーク]]、[[スウェーデン帝国|スウェーデン]]、ハンザ都市もこれに続いた<ref>エルティス、リチャードソン (2010) 第1章</ref>。
 
 
 
[[ファイル:Slavetrade2 blownup.jpg|right|thumb|250px|[[奴隷船]]の内部構造]]
 
海流と風向きによって2つのルートがあった。赤道北部のルートはヨーロッパを拠点として、[[コンゴ川]]の北部と北アメリカ、[[カリブ海地域|カリブ地方]]、リオ・デ・ラ・プラタを結び、イギリスが主導した。南大西洋のルートはブラジルを拠点として、西アフリカや中部アフリカとブラジルを結び、ポルトガルが主導した。運ばれる人間の数は、人間の価格の上昇につれて増加した<ref>エルティス、リチャードソン (2010) 序章</ref>。16世紀中期のポルトガルの[[リスボン]]では人口10万人のうち10パーセントが奴隷であり、スペインの[[セビリヤ]]では人口8万5000人のうち8パーセントが奴隷だった<ref>宮本・松田編 (1997) p.258</ref>。運ばれたアフリカ人の総数は推定1250万人とされており、生きてたどり着けなかった者を含めると、さらに多数となる。運んだ数ではポルトガルが最多であり、17世紀にはスペイン領アメリカの[[ペルー副王領]]と{{仮リンク|ポルトガル領ブラジル|en|Colonial Brazil}}に奴隷の多くが運ばれ、18世紀からはイギリス領カリブ、ブラジル、フランス領カリブの順となる。西アフリカからアメリカ大陸までの航海には40日間から70日間かかり、航海中の死亡率は8パーセントから25パーセントに及び、死亡率が最も高かったのは、距離が長い北アメリカへの航路だった。奴隷となったアフリカ人には戦争捕虜や犯罪者、奴隷狩りの犠牲者が多く、17世紀以降は奴隷獲得のための戦争を行うアフリカの国家もあった。18世紀以降は女性の割合が増えて男性2人につき女性1人となり、最後の60年間は子供の割合が2倍になった<ref>エルティス、リチャードソン (2010) 第4章</ref>。
 
 
 
; 奴隷制と三角貿易
 
[[ファイル:Triangular trade.png|180px|right|thumb|大西洋三角貿易]]
 
16世紀からは三角貿易と呼ばれる手法が活発となった。ヨーロッパの産物を積んだ船がアフリカで奴隷を取り引きして、奴隷を積んでアメリカ大陸へ運ぶ。そしてアメリカ大陸のプランテーションで作った砂糖、コーヒー、綿花、タバコを積んでヨーロッパへ帰るというサイクルである。一巡するには1年半から2年間かかり、三角貿易を行った各国は莫大な利益を得た<ref>エルティス、リチャードソン (2010) 第4章</ref><ref>宮本・松田編 (1997) p.259</ref>。
 
 
 
[[ファイル:Olaudah Equiano - Project Gutenberg eText 15399.png|thumb|160px|オラウダー・イクイアーノ『[[アフリカ人、イクイアーノの生涯の興味深い物語]]』表紙]]
 
スペイン領では17世紀から18世紀にかけてメソアメリカのカカオが重要となり、19世紀にはカリブ地方の砂糖貿易がブラジルを上回るようになり、キューバからの砂糖が急増する。ポルトガル領では18世紀末からの砂糖とコーヒーの需要増加により、ブラジルの奴隷貿易は19世紀半ばまで最盛期を維持した。イギリスの[[ダニエル・デフォー]]による小説『[[ロビンソン・クルーソー]]』の主人公も、ブラジルに農園を持つ奴隷商人だった<ref>ポメランツ、トピック (2009) p.250</ref>。
 
 
 
北アメリカの大西洋貿易は、17世紀や18世紀にイギリス、フランス、オランダによって盛んとなった。イギリスは北アメリカ植民地でタバコや綿花のプランテーションを行った。北海やバルト海に比べると広大な大西洋では軍事力による貿易ルートの保護が重要となり、イギリスが有利となった。イギリスやアメリカの奴隷による記録は、[[奴隷体験記]]という文芸も生み出し、{{仮リンク|オラウダー・イクイアーノ|en|Olaudah Equiano}}や[[フレデリック・ダグラス]]は作品を通して奴隷制度の廃止を訴えた<ref>宮本・松田編 (1997) p.262</ref>。
 
 
 
奴隷貿易の禁止は、[[1792年]]にデンマークで違法とされたのをはじめとして、イギリスでは[[1807年]]の{{仮リンク|奴隷貿易法|en|Slave Trade Act 1807}}で違法となった。最後の環大西洋奴隷貿易の船は、[[1867年]]キューバに停泊した船とされている。しかし、ヨーロッパ各国の禁止後も密輸は続き、奴隷制度そのものが廃止されるまでには、さらに時間がかかった<ref>エルティス、リチャードソン (2010) 第6章</ref>。
 
 
 
=== インド洋、ペルシア湾 ===
 
; ヨーロッパの香辛料貿易進出
 
[[File:16th century Portuguese Spanish trade routes.png|thumb|250px|ポルトガルのアフリカ周回ルート(青)と、スペインの太平洋横断ルート(白)]]
 
インド洋では、ヨーロッパ諸国が[[香辛料貿易]]に進出をはじめる。最初に大規模な介入をしたのは、アフリカ南端からインド洋へのルートを開拓したポルトガルだった。ポルトガルはインド洋へ艦隊を派遣して、[[1509年]]の[[ディーウ沖の海戦]]で、インドのグジャラート・スルターン朝とエジプトの[[マムルーク朝]]を破った。ポルトガルは1509年には[[ゴア]]、[[1510年]]には[[ホルムズ]]やマラッカなど重要な港を占領して貿易ルートを確保して、香辛料貿易において優位が明らかとなった<ref>宮本・松田編 (1997) 第9章第1節</ref>。ポルトガルはインド洋貿易圏に変化をもたらし、カルタスという通行証を発行した。インド洋貿易の船は、ポルトガルに関税を納めてカルタスを受けとる必要があり、持たない場合は拿捕された<ref>生田 (1998) 第1章</ref>。
 
 
 
ポルトガルののちに、オランダ東インド会社とイギリス東インド会社が香辛料貿易を支配する。香辛料は大量にヨーロッパへ輸出されるようになり、[[1670年]]頃のコショウ需要が720万ポンドであるのに対して、オランダとイギリスは2倍近い量を運んだ。こうしてコショウ価格は下落して、ほかに利益の出る商品として、サトウキビ、コーヒー、ゴムなどのプランテーション作物の栽培が始まる<ref>桜井 (1999)</ref>。
 
 
 
=== 太平洋 ===
 
; マニラとガレオン貿易
 
[[ファイル:Spanish Galleon.jpg|thumb|180px|ガレオン船。[[アルブレヒト・デューラー|デューラー]]画]]
 
ポルトガルがアフリカ周回ルートで東南アジアを目指したのに対して、スペインは太平洋を横断して東南アジアへ到達した。[[1570年]]にスペイン船が到着した時の[[マニラ]]は[[フィリピン諸島]]の交易中心地で、マレー系のムスリムでスペインに[[モロ人]]と呼ばれた人々の{{仮リンク|マニラ王国|en|Kingdom of Maynila}}があり、華僑も住んでいた。スペインはマニラ王国の王である{{仮リンク|ラジャ・ソリマン|en|Rajah Sulayman}}を殺害して、[[1571年]]からマニラと[[アカプルコ]]を結ぶ定期航路を始める。アメリカからは[[ポトシ]]で採掘された銀を運び、福建から運ばれた絹や陶磁器、香辛料をマニラで買い付けた。太平洋の横断には2、3カ月かかり、帰路はさらに長くかかった。輸送には大型帆船の[[ガレオン船]]を用いたために[[ガレオン貿易]]とも呼ばれ、ジャンクより積載量に優れる反面で海難による損失も大きかった。ガレオン貿易の影響で、スペイン人に生活物資を売る華僑が急増して、スペイン人からサンレイと呼ばれた。サンレイとは、中国語の生利(shengli)、商旅(shanglu)などを由来とする説がある。定住した華僑により中国系の[[メスティーソ]]も増え、17世紀初頭には、マニラが中国船寄港地として最大の華僑人口を抱えた。華僑の居住地はタガログ人にパリアンと呼ばれ、これはタガログ語で駆け引きが行われる場所を意味した。崇禎帝による海禁復活とガレオン船の海難が重なって貿易が不振になると、マニラでは治安が悪化して、スペインによる華僑の大量殺害も起きた<ref>ブルック (2009) 第6章</ref><ref>菅谷 (1999)</ref>。
 
 
 
; 契約年季労働
 
[[画像:Chinese railroad workers in snow.jpg|thumb|250px|雪の中で[[大陸横断鉄道]]建設のために働く苦力]]
 
トウモロコシ、サツマイモ、落花生、タバコが中国に輸入されて栽培が進むと、江南は人口増となり、[[台湾]]、[[タイ王国|タイ]]、[[ジャワ]]への移住が起きる。[[1830年代]]からの1世紀で[[華僑]]は激増して、それまでの商人である華商から、華工の割合が増加した<ref>斯波 (1995) 第3章</ref>。一方で、アフリカでの奴隷貿易の禁止が進み、各国では労働力の不足をおぎなう方策が求められるようになる。こうして[[天津条約 (1858年)|天津条約]]や[[北京条約]]ののちは、1860年代から移民が急増した。[[1840年代]]から[[1870年代]]には移民がカリブ地方、南北アメリカ、ハワイ、アフリカに向かい、蒸気船の実用化も輸送に拍車をかけた。清からの移住者は[[苦力]]とも呼ばれ、[[1866年]]には清とイギリス・フランスのあいだで華工移民協定が結ばれ、契約移民となった<ref>濱下 (1997) 第3章</ref>。[[インド系移民]]も多数にのぼり、同様のルートで各地のプランテーションで働いた。契約年季労働者は200万人以上にのぼり、旅費と引き換えに5年間の労働契約を結んだ。白人の労働者には土地が割譲されることがあったが、中国人やインド人は帰国させられた。奴隷制の代わりとして過酷な労働につかされたため、契約期間を全うできない者も多く、1920年代には中国とインドで契約年季労働が禁止された<ref>ポメランツ、トピック (2006) p.265</ref>。
 
 
 
契約年季労働の初期には、強引な手段や暴力で人集めをする業者もおり、そのような行為は{{仮リンク|ブラックバーディング|en|Blackbirding}}と呼ばれた。ブラックバーダーは中国や太平洋各地から人間を集めて島々や南米のプランテーションに送り、地域が荒廃するほど多数の住民が連れ去られた島もあった。契約年季労働を終えた者が持ち帰る財は現地で大きな価値を持ち、欧米の財を入手するために契約労働を始める者もいた<ref>山本編 (2000) p.226</ref>。アメリカの小説家[[ジャック・ロンドン]]の短編集『南海物語』や、イギリスの小説家[[サマセット・モーム]]の『作家の手帳』には、契約年季労働者やブラックバーダーの様子も描かれている。
 
 
 
; オセアニア
 
オセアニアでは根菜農耕、樹木の栽培、漁労や採集を生業にしつつ、島嶼間の航海技術を発達させた。15世紀までには、人類はオセアニア全域に広がっていた。オーストラリアの[[アーネムランド]]では、17世紀から[[スラウェシ島|スラウェシ島民]]と[[アボリジニ]]が協力して[[ナマコ]]の加工を行い、ヨーロッパ人に輸出した。[[スールー海]]では[[タオスグ人]]がナマコ貿易でヨーロッパから銃器やアヘンを入手し、ナマコ漁には島嶼部で捕らえられた奴隷が従事していた。19世紀には[[メラネシア]]でヨーロッパ向けの[[白檀]]の伐採と輸出が盛んになり、乱伐で白檀が枯渇するとナマコの輸出が始まる。フィリピンからフィジーに乾燥ナマコの製造法が伝わり、ナマコの対価として銃器が輸入されたため抗争が激化した<ref>秋道 (2000)</ref>。
 
 
 
18世紀末から[[鯨油]]を得るための[[捕鯨]]が盛んになり、太平洋諸島は捕鯨船の補給基地となる。[[ポリネシア]]では漂着する鯨が重要な資源であり、鯨歯は権威を表す貴重な財として、紛争解決や物品貨幣にも用いられてきた。欧米人の捕鯨船が鯨歯をもたらすようになると、鯨歯をめぐる権力闘争が激化する。19世紀に日本沿岸が捕鯨場として有名になり、アメリカは捕鯨船の補給のために[[江戸時代]]の日本に来航し、江戸幕府の[[開国]]につながった。鯨油産業ののちにはオイル用のココナッツ、サトウキビ、[[グアノ]]の蓄積による[[リン鉱石]]の輸出がなされる<ref>秋道 (2000)</ref>。
 
 
 
=== 産業革命 ===
 
近代的な工場は、アメリカ大陸のプランテーションの砂糖工場から生まれた。サトウキビから砂糖を作るには迅速な作業が必要であり、プランテーションの奴隷労働者の1割ほどは工場労働をしていた。収穫後から精製までの時間を短縮するために、時間管理も厳しく行われていた<ref>ポメランツ、トピック (2006) p.349</ref>。ヨーロッパにおいては、初期の工場労働者は農民からではなく手工業者から雇われていた<ref>ポメランツ (2000) p.294</ref>。
 
 
 
[[産業革命]]の条件には、工業原料の調達や製品の輸出をするために国境を越える物流が不可欠であり、最も早く整えたのはイギリスだった。イギリスは石炭資源に恵まれたほか、統制経済政策で貿易の管理を強めた。[[1651年]]から[[航海条例]]を発布してイングランドの貿易をイングランド籍の船にかぎり、大西洋やヨーロッパで競争相手であったオランダ船を排除した。イギリスの保護主義政策は[[1690年]]から顕著となり、毛織物産業を保護するために関税がかけられ、原毛の輸出が禁止されて、国内の利害対立も起こした。イギリスは戦費の負担が大きく、公共支出の増大は間接税と国債発行を呼び、近代的な[[中央銀行]]の確立につながる。海軍への出費は需要増にもなり、[[1750年代]]から工業化を後押しした<ref>マグヌソン (2009) 第4章</ref>。
 
 
 
イギリスでは綿織物業、鉄鋼業、造船業、海運業などの急速に発展をしていた分野は増税されず、産業の成長をうながした。綿織物が世界市場へ輸出され、18世紀末から19世紀初頭にかけて輸出額が2倍以上に上昇した。[[1789年]]の[[フランス革命]]から[[ナポレオン戦争]]へと続く混乱と戦争は大陸諸国の経済に打撃を与えたが、本土が戦火から離れていたイギリスには結果的に利益を与えた。[[フランス帝国]]は[[大陸封鎖令]]でイギリスとの貿易を禁じたものの、これはフランスの同盟国の反発を招いた<ref>マグヌソン (2009) 第2章</ref>。
 
 
 
; 自由貿易
 
工業化と植民地の拡大は産業資本家、商人、投機家だけでなくイギリス国民に支持され、自由貿易が推進された。東インド会社のような特権を持つ企業は、自由貿易を支持するアダム・スミスによって批判された。その一方で他国からは、イギリスが自由貿易を進めるのは強い経済力を背景とした利己的な政策であると批判された。また、イギリスはいち早く工業化を達成した地位を利用して他国を搾取しているという意見も存在した<ref>マグヌソン (2009) p.228</ref>。ナポレオン戦争が終わる[[1815年]]には、物流ではハンブルクとロンドンの競争でロンドンの優位が明らかとなり、金融ではアムステルダムとロンドンの競争でロンドンが優位となった<ref>玉木 (2012) </ref>。ナポレオン戦争中は食料品が値上がりをして地主の利潤が大きく、戦後も高値を保つために地主の働きかけで[[穀物法]]が制定されると、経済学者デイヴィッド・リカードはこの法律に反対し、リチャード・コブデンや[[ジョン・ブライト]]は[[反穀物法同盟]]の運動を行う。やがて穀物法や航海条例など保護貿易のための法律は廃止された<ref>クルーグマン、オブズフェルド (2007) 第4章</ref>。[[1860年]]には、イギリスとフランスの2国間通商条約として{{仮リンク|コブデン=シュヴァリエ条約|en|Cobden–Chevalier Treaty}}が結ばれる。大陸ヨーロッパでは自由貿易がイギリスに利益を与えるものと考えられたが、実際には大陸からのイギリスへの工業製品の輸出は増加しており、イギリスは貿易赤字国となっていた。イギリスの赤字は、植民地のインドによってまかなわれた<ref>マグヌソン (2009)</ref>。
 
 
 
; 交通と通信の発達
 
[[File:Suez Canal drawing 1881.jpg|thumb|left|upright|180px|スエズ運河の風景画(1881年)]]
 
ナポレオン戦争後の[[ウィーン体制]]に入ると、産業革命がイギリス以外の各地でも進行する。鉄道建設はイギリスにおいて発達し、各地へ広まった。鉄道には大規模で長期的な投資が必要となり、紡績工場や炭鉱などの事業で資金を手にしていた投資家によって解決された。鉄道や運河など交通機関の整備にともない、ヨーロッパ域内の物流が活発となった<ref>ポメランツ (2000) p.195</ref>。
 
 
 
[[1844年]]にアメリカの[[サミュエル・モールス]]が実用化した[[電信]]はイギリスで急速に広まり、[[1851年]]にはドーバー海峡の海底ケーブルをきっかけに世界各地で敷設が進められ、[[1866年]]には大西洋、[[1902年]]には太平洋も横断した。電信によって取引にかかる時間が短縮され、商慣行の統一が進み、物流が改善されていった。イギリスの電信会社は[[1870年]]から国有化され、植民地の統治にも効率化をもたらした。交通機関は[[1850年代]]から帆船にかわって蒸気船の利用が増加し、通信技術とともに貿易の速度を高めた。船舶と鉄道は1870年から1910年にかけて急増して、世界の商船は1600万トンから3200万トンになり、鉄道は20万キロメートルから100万キロメートルとなった<ref>ホブズボーム (1987) p.88</ref>。[[1869年]]の[[スエズ運河]]で地中海と紅海がつながり、[[1914年]]には[[パナマ運河]]が開通して太平洋とカリブ海がつながる。交通と通信の発達によって、移民も増加した<ref>玉木 (2012) </ref>。資源貿易も大きな変化をとげる。電信や電機工業では銅が必須であり、ペルー、チリ、ザイール、ザンビアといった銅産出国の輸出が増加した。蒸気機関の次に内燃機関が実用化されると、石油とゴムの消費が増えた<ref>ホブズボーム (1987) 第3章</ref>。
 
 
 
; 植民地と門戸開放
 
[[File:World 1914 empires colonies territory.PNG|thumb|250px|第一次世界大戦勃発時の世界の植民地(本国を含む)]]
 
産業革命により、工業原料の輸入や製品の輸出が求められるようになる。工業化をすすめる国々では、資源や輸出のための地域獲得を行った。地球の表面積の約40パーセントが、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、オランダ、ベルギー、アメリカ合衆国、日本の植民地、保護領、委任統治領となった<ref>ホブズボーム (1987) p.80</ref>。
 
 
 
植民地の貿易は、宗主国の都合に合わせて整えられた。インフラストラクチャーは宗主国が求める産業に優先され、農業は換金作物が多くなり、食料自給率が低くなる。工業では宗主国から製品が輸入されて、宗主国が必要としない製造業の発展が遅れたり、宗主国と競合する産業が衰退した。技術者、経営者、官僚は宗主国の者が多く、現地出身の人材が不足する。こうした問題が最も深刻となったのが、アフリカであった<ref>宮本・松田編 (1997) 第15章第1節</ref>。
 
 
 
植民地の獲得は、各国の保護貿易による競争や対立と結びつく。アフリカやアジアは数カ国によって分割されるか、[[門戸開放政策]]で競争が激化して武力衝突も起きた。アフリカは[[ベルリン会議 (アフリカ分割)|ベルリン会議]]により分割され、中国をめぐっては欧米と日本の対立へとつながる<ref>ホブズボーム (1987) p.94</ref><ref>宮本・松田編 (1997) 第10章第1節</ref>。
 
 
 
=== 南アジア、東南アジア ===
 
; インド
 
[[File:Dress (robe à l'anglaise) and skirts in chintz, ca. 1770-1790, shawl (fichu) in embroidered batiste, 1770-1800.jpg|thumb|200px|[[更紗|インド更紗]]を用いたドレス(1770年から1790年)]]
 
インドの綿織物は名産として[[カリカット]]からヨーロッパへ輸出されるようになり、港の名前をとって[[キャラコ]]と呼ばれた。国内では、ペートと呼ばれる市場町の建設が相次いだ。[[ムガル帝国]]の時代にはイギリス東インド会社が商館を増やしてゆき、香辛料にかわってキャラコを扱い、イギリスでのキャラコの人気は、キャラコ熱とも呼ばれる現象を起こした。インドは17世紀まで綿工業や絹工業の中心地であったが、イギリス東インド会社の進出で産業を破壊される。[[1700年]]には{{仮リンク|キャラコ禁止法|en|Calico Acts}}、[[1720年]]にはキャラコ輸入禁止法が成立し、イギリスの繊維業者が保護された。この影響で、インド綿業の中心だった[[ダッカ]]は19世紀までに人口が70パーセント減少した。こうしてインドは織物用の綿花や絹、紅茶、コーヒーなどの一次産品や、中国向けのアヘンを輸出する地域へと変えられる。18世紀の東インド海域では[[ブギス・マカッサル族]]が制海権を持ち、イギリス東インド会社の許可を受けた個人商人のカントリー・トレーダーはアヘンを扱い、ブギス人と協力をして東インド貿易に参入した。のちにオランダ東インド会社がこれを攻撃してイギリスとオランダの紛争となり、東インドの海域は混迷して海賊が横行した<ref>白石 (2000) 第2章</ref>。[[1813年]]の{{仮リンク|特許状法|en|Charter Act of 1813}}で東インド会社の独占体制が崩れて自由貿易が推進されると、東インド会社はインド植民地の統治機関へと変化する。[[1857年]]の[[インド大反乱]]ののちに東インド会社は解散して、[[イギリス領インド帝国]]が成立した<ref>辛島編 (2004) 第6章、第7章</ref>。
 
 
 
19世紀後半のイギリスは、北米やヨーロッパに貿易赤字を抱えていた。インドはそれらの地域に一次産品で黒字であり、イギリスの赤字の40パーセントはインドの黒字によって相殺された。これは多角的貿易決済と呼ばれる。また、インドは鉄道建設などイギリスの投資に対する利子支払いと、兵士の提供と出兵費用など本国費と呼ばれる支払いをした。1870年代からインドの通貨[[ルピー]]はポンドに対する価値が下がり、その対策として金為替本位制で高いレートでポンドにリンクしたためイギリスからの輸入が増え、一次産品の換金作物の輸出で補われた。また、プランテーションの労働者としてインド系移民が急増してモーリシャスやフィジー、東南アジアへ送られた。南アフリカにもインド人の契約労働者が住み、当地の人種差別や労働環境の改善につとめた[[マハトマ・ガンディー]]の活動は、のちにインドの独立運動へとつながる<ref>辛島編 (2004) 第8章</ref>。
 
 
 
; モルッカ諸島
 
[[Image:AmboynaFort1655.jpg|thumb|right|200px|アンボイナ島における英蘭の領土を描いた銅版画(1655年)]]
 
肉料理の香料として重宝されたクローブは、当初はモルッカ諸島でのみ産する植物だった。そのため、香辛料貿易の利益をめざすポルトガルとスペインの対立の場となる。モルッカでは古来からウリ・リマ(5の組)とウリ・シバ(9の組)という集団に分かれて対立をしており、ウリ・リマは[[テルナテ島]]の王が指導して、ウリ・シバは[[ティドレ島]]の王が指導していた。ポルトガルはテルナナ島でクローブの独占を進め、スペインの[[カスティリア王国]]は太平洋ルートでティドレ島に到着して、ポルトガルが支援するテルナテ島とスペインが支援するティドレ島との間で戦闘となる。ポルトガルとスペインの対立は[[1529年]]の[[サラゴサ条約]]で終結して、クローブ貿易はポルトガル王室以外にも開放されてポルトガル商人が[[マカオ]]や[[ティモール]]にも出向くようになった。ポルトガルとスペインの次には、オランダ東インド会社とイギリス東インド会社が進出して対立する。オランダ側がイギリス商館の全員を殺害する[[アンボイナ事件]]が起きると、イギリスはインドへと活動を移す。その後もテルテナとティドレは貿易の拡大で繁栄を続け、[[1681年]]にはオランダ東インド会社がクローブ貿易を独占した<ref>生田 (1998)</ref>。
 
 
 
; 華僑の増加
 
華僑は東南アジア各地で定住が増え、中国人街が建設される。移住の大規模化には、海運と通信の向上が大きな影響を与えた。また、輸送サイズの大型化や頻度の増加、働き口や賃金の情報の早さも重要であった。タイの[[アユタヤ朝]]は華商に貿易を委託し、磁器、絹、木材、米、[[更紗#インド更紗|インド更紗]]などを取り引きした。アユタヤ朝が滅んだのちは[[チャオプラヤー川]]の[[デルタ地帯]]がサトウキビや米のプランテーションとなり、18世紀には[[客家|潮州人]]がタイの王室貿易を独占した。フィリピンでは華僑が[[メスティーソ]]を形成して、18世紀から国内商業の中心となる。スペインはカトリックの布教も目的としており、改宗と引き換えに中国人商工業者に土地を与えた。ジャワでは[[プラナカン]]と呼ばれる集団が形成され、プラナカンの商人はオランダ東インド会社と取り引きを行った。[[マレー半島]]では[[ババ・ニョニャ]]と呼ばれる集団が生まれ、ババの多くは豊かな貿易商人として住宅街や商工街を建てた<ref>斯波 (1995) 第2章</ref>。
 
 
 
; マレー半島、ジャワ
 
[[Image:Batavia.jpg|450px|thumb|17世紀のバタヴィア]]
 
ポルトガルがマラッカを占領して、のちに来たオランダ東インド会社はジャワの[[バタヴィア]]に拠点をかまえた。17世紀初頭にはコショウ生産は年930万ポンドとなり、サトウキビの栽培も需要増で広まった。香辛料貿易が衰退するにつれて、輸出品はサトウキビ、コーヒー、ゴム、タバコ、パームヤシ、ココナツなどの作物に移った。
 
 
 
イギリスは19世紀に東南アジアへ進出して、植民地政府およびイギリス商人と、華僑のネットワークを用いて拡大した。イギリス東インド会社によるアヘンの三角貿易はイギリス・インド・中国で行われ、ルート上の東南アジアでもアヘンが流通した。イギリスは[[1819年]]の[[シンガポール]]獲得をはじめとしてマラッカ海峡の支配を進め、イギリスのカントリー・トレーダーと華商が活動してシンガポールは東南アジア華僑の中心となる。自由港であり関税収入がなかったシンガポールでは、アヘンの請負収入が植民地政府の収入の半分を占めた<ref>白石 (2000) 第1章</ref>。
 
 
 
オランダ東インド会社は香辛料価格の下落で18世紀末に破産し、[[オランダ領東インド|オランダ東インド政府]]に引き継がれる。オランダはイギリスの自由貿易に対して、サトウキビの[[強制栽培制度]]と貿易独占、そしてアヘンの[[徴税請負]]で利益を目指した。強制栽培ではジャワの農民にサトウキビやコーヒー生産を強制して、オランダ王立商社が独占販売した。オランダの[[エドゥアルト・ダウエス・デッケル]]は、ムルタトゥーリのペンネームで小説『{{仮リンク|マックス・ハーフェラール|en|Max Havelaar}}』を発表して、強制栽培制度を告発する<ref>石坂 (2013) </ref>。強制栽培は批判を受けてプランテーションとなり、白人系の農場主のもとで契約移民の広東人が多数働いた<ref>白石 (2000) 第3章</ref>。アヘンの徴税請負は、政府がインドからアヘンを輸入して、その専売権を公開入札するという制度である。中国人が多くを入札して請負料を納めて、ジャワの農民にアヘンを販売した。スペインとオランダは、イギリスにならってジャワとルソンでケシ栽培に取り組むが失敗に終わった<ref>鶴見 (1987) p.156</ref>。
 
 
 
=== 中央アジア、北アジア ===
 
; 山丹貿易
 
[[ファイル:WLA brooklynmuseum Ainu Tamasay Bead Necklace.jpg|thumb|200px|アイヌ女性のタマサイ(ネックレス)。山丹貿易で得たガラス玉を用いている。]]
 
[[アムール川]]や[[樺太]]などの北東アジアでは、山丹人と呼ばれた[[ウィルタ]]やニヴフと、樺太のアイヌによる[[山丹貿易]]が行われた。アイヌが毛皮や米を運び、山丹人が清の布地や絹服などを運んだ。山丹貿易には、日本の[[松前藩]]や中国の清も関わっており、松前藩は松前城下でアイヌと取り引きをして清の物産を入手した。清の側では、山丹人がアイヌ経由で得た毛皮を朝貢として受けとった。山丹貿易は江戸幕府が終わるとともに行われなくなり、朝貢で利益を得ていた民族には打撃となった<ref>佐々木 (1996)</ref>。
 
 
 
; ロシアの毛皮貿易
 
ロシアは中世のノヴゴロド公国の時代から毛皮貿易が盛んであり、ヨーロッパにビーバーやテンの毛皮を輸出していた。ロシアは16世紀に[[シベリア]]、17世紀後半にアムール川流域に進出して、ロシア、モンゴル人、漢人の毛皮貿易が盛んになった。[[ネルチンスク条約]]では朝貢形式での貿易、[[ブーラ条約]]やキャフタ条約では民間の貿易が認められる。ロシアや清ではクロテンの毛皮が珍重されて、清はロシアにとって最大の毛皮輸出先となるが、18世紀にはシベリアの毛皮資源が減少してロシア商人はアリューシャン列島やアラスカへ行き、[[ラッコ]]や[[オットセイ]]の毛皮をオホーツク、[[ヤクーツク]]、[[イルクーツク]]へ運んだ<ref>森永 (2014) p.5</ref>。イルクーツクの商人[[グリゴリー・シェリホフ]]は、太平洋を横断して、アラスカや北アメリカの西海岸で毛皮を収集した。勅許会社の[[露米会社]]が設立されると毛皮貿易を独占して、支配人の[[アレクサンドル・バラノフ (探検家)|アレクサンドル・バラノフ]]は[[ロシア領アメリカ]]の初代総督にもなった<ref>森永 (2014)</ref>。
 
 
 
清とロシアの間では[[キャフタ条約 (1727年)|キャフタ条約]]が結ばれ、国境に近い[[キャフタ]]ではロシアの毛皮と清の茶が取り引きされた。ヨーロッパ向けの毛皮輸出が減少を続けていたため、ロシアにとって清は重要な輸出先となったが、清は貿易の拡大には積極的ではないため、しばしば中断した<ref>ウォルフォード (1883) p.304</ref>。
 
 
 
; 清やロシアの中央アジア進出
 
18世紀には、[[カザフ・ハン国]]や[[コーカンド・ハン国]]と、中央アジアへ進出した清やロシアとの間で貿易が行われた。コーカンド・ハン国は交易が盛んな[[タシュケント]]を領土として、中央アジア交易を主導した。清は[[ジュンガル王国]]を征服して、唐の時代以上の領土を得る。東トルキスタンは[[新疆]]とも呼ばれて清の文化が流入した。カザフやコーカンド・ハン国は清に朝貢として馬、牛、羊を送り、清は回賜として[[繻子]]、綿布、茶を送った<ref>小松編 (2000) p.305</ref>。
 
 
 
ロシアは[[エカチェリーナ2世]]の時代に中央アジアの併合をすすめる。ヨーロッパと中央アジアのルートがつながると、[[タタール人]]が中継貿易を活発にして、[[カザン]]が拠点として繁栄した。カザフとロシアの貿易は[[オレンブルグ]]、{{仮リンク|トロイツク|en|Troitsk, Chelyabinsk Oblast}}、[[ペトロパブル]]などで行われ、カザフは家畜や毛皮、ロシアは織物や金属製品、食料を輸出した<ref>小松編 (2000) 第6章</ref>。
 
 
 
=== 東アジア ===
 
; 茶貿易
 
[[Image:Cutty Sark (ship, 1869) - SLV H91.250-164.jpg|thumb|right|200px|ティークリッパーの[[カティーサーク]]]]
 
17世紀から、ヨーロッパとの茶貿易が始まる。1609年にオランダ東インド会社が日本の[[緑茶]]を[[平戸市|平戸]]から運び、オランダを通じてフランスやイギリスで飲茶の習慣が広まった。のちに日本からは貴金属の輸出が増え、茶は中国が主流となる。18世紀からイギリス東インド会社はコショウに代わって紅茶貿易に力を入れ、[[1760年]]には620万ポンドと総輸入額の60パーセントを占めた。18世紀初頭では緑茶の割合が多かったが、中頃には[[紅茶]]が多くなった<ref>角山 (1980) 第1章</ref>。陸路ではロシアにも運ばれ、マカリエフの定期市などで大量に扱われた。やがて、一番茶を運んだ船にプレミアをつけるという習慣が生まれ、速度の出る大型帆船として[[クリッパー (船)|クリッパー]]が普及する。イギリスは輸入超過が続いて中国へ銀が流出したため、その解決策としてアヘン貿易が行われる。イギリスの茶貿易は植民地との対立も生み、アメリカ合衆国の独立につながった<ref>角山 (1980) p.101</ref>。
 
 
 
; 日本の貴金属
 
[[画像:Dutch embassy to Edo.jpg|thumb|200px|[[カピタン江戸参府]]のオランダ人を描いた[[浮世絵]]]]
 
日本は[[灰吹法]]によって精錬が向上して、[[石見銀山]]の銀をはじめとして貴金属の産出が増加する。[[朱印船貿易]]以降は、中国からの生糸を買い付けるために金、銀、銅で支払いを行った。[[平戸島|平戸]]と[[長崎市|長崎]]には華僑が住み、その住まいは[[唐人屋敷]]と呼ばれた。朝鮮の[[釜山]]には日本人の応接や貿易のために[[倭館]]が建設され、[[朝鮮人参]]や生糸の支払いに銀を用いた。こうして日本からの貴金属は大量に東アジアや東南アジアに流通して、アメリカからの銀と並んで世界の貿易に大きな影響を与えた。ポルトガルは[[江戸幕府]]の[[鎖国令]]で取り引きが禁じられると貴金属が不足して、アジアから撤退する一因となった<ref>東野 (1997) 第11章</ref>。ポルトガルの次にはオランダ東インド会社が幕府と[[長崎貿易]]を行い、日本の貴金属によって繁栄した。[[出島]]に建設されたオランダ東インド会社の日本商館の純益は1位となって、4位以下の商館の合計よりも多く、ほかの商館の欠損分を埋めるほどになった。小判はクーバンとも呼ばれて商品名となり、当時の日本の銅で作った銅貨も東南アジアに残されている<ref>永積 (2000) p.139</ref>。やがて幕府では貴金属の減少が問題となり、貿易を制限する[[定高貿易法]]や、[[元禄]]以降の[[貨幣改鋳]]へとつながった<ref>東野 (1997) 第11章、第12章</ref>。
 
 
 
; 明清代の海上貿易
 
[[Image: SongJunk.jpg|right|200px|thumb|清代のジャンク船]]
 
中国では[[ボルネオ島]]を通ってモルッカ諸島へ行く香料貿易のルートが知られており、東洋航路と呼ばれた。明の文人の[[張燮]]は商船員からの情報をもとに『[[東西洋考]]』を書き、ボルネオ島北部の[[ブルネイ]]は東洋の尽くる所、西洋の起る所と呼んでいる。元末から明にかけては、東洋と西洋の基準としてボルネオ島が用いられていた<ref>鶴見 (1987) p.144</ref>。明の時代には陶磁器がヨーロッパにも輸出され、中国の[[青花]]や日本の[[伊万里焼]]の影響を受けて、[[デルフト陶器]]や[[マイセン (陶磁器)|マイセン陶磁器]]などが作られた<ref>ブルック (2009) 第3章</ref>。
 
 
 
明が海禁を敷いている頃から[[牙行]]と呼ばれる仲買人の集団が活発となり、[[1567年]]に海禁が緩和されると、牙行から貿易や徴税の特権を得る者が出た。[[鄭芝竜]]は[[アモイ]]や杭州を根拠地として5000隻の船を所有して財をなし、息子の[[鄭成功]]は台湾のオランダ東インド会社を攻撃して[[鄭氏政権 (台湾)|鄭氏政権]]を建国して、[[1683年]]に清が攻撃をするまで繁栄を続けた<ref>永積 (1999)</ref>。清の成立当初は海禁政策がとられたが、中期以降はヨーロッパやアメリカと管理貿易が行われて[[広東貿易体制]]と呼ばれた。これはヨーロッパ商人との取り引きを広東に限定する制度で、[[1720年]]以降は[[広東十三行]]と呼ばれる特権商人のギルドが取り引きを独占した<ref>濱下 (1997) 第9章</ref>。
 
 
 
; アヘン貿易
 
イギリスは清との貿易で赤字が続き、その解決策としてインドで[[ケシ]]を栽培して[[アヘン]]を清へ輸出した。アヘンは17世紀からオランダが持ち込んでおり、イギリス東インド会社がアヘンによる三角貿易を確立した。イギリス東インド会社は、まず個人商人であるカントリー・トレーダーに中国でアヘンを販売させて、アヘン購入には銀を定めた。次に、入手した銀で[[中国茶]]を購入してヨーロッパへ運ぶという方法をとった。こうしてイギリスは赤字を解消するが、清では銀の流出とアヘン中毒の拡大が問題となる。清はアヘンを禁止しようとしたため、イギリスとの間で[[1840年]]に[[アヘン戦争]]が起きた<ref>角山 (1980) p.101</ref>。インドからのアヘン輸出は、[[1870年]]には1300万ポンドに達して、対中国貿易黒字の3分の1を占めた<ref>ポメランツ、トピック (2009) p.150</ref>。
 
 
 
日本は日清戦争後の台湾でアヘン専売を始めて、[[台湾総督府]]の初期の財政を支えた。その後も日露戦争後の関東州でアヘン専売が拡大し、上海を経由したペルシアやトルコ産のアヘン密貿易には日本の商社も関わった<ref>山田編 (1995)</ref>。[[内蒙古]]や華北でケシ栽培とアヘン専売が進められて、[[熱河|熱河地方]]のアヘンが北京にも密輸された。利益は[[満州国]]の財政収入や占領地経営の経費にあてられており、満州国の一般会計の1割以上はアヘンからの税収となった。日中戦争以降の占領地における通貨価値の暴落も、アヘンによる物資調達の増加を招いた<ref>多田井 (1997) 下p.227</ref>。
 
 
 
; 朝貢の終了と門戸開放
 
[[画像:Shanghai 19th century.jpg|thumb|200px|19世紀の上海]]
 
アヘン戦争終結のための[[1842年]]の[[南京条約]]により、清の統治原理からはヨーロッパ諸国は互市国として位置づけられ、これまで非公認であった華僑の存在が認められた。同時に香港島の割譲、5港の開港、貿易自由化が決定して[[不平等条約]]にもつながった。清への朝貢国は、ヨーロッパ諸国と条約を結ぶ一方で清との朝貢関係も残した。やがて清では財政不足の解消のために朝貢の増量を求めつつ、回賜には紙幣を用いるようになる。これにより朝貢貿易の利益が減り、加えて私貿易が増加するにつれて朝貢貿易は衰退した。南京条約の影響で[[上海]]や[[香港]]が急拡大を続け、香港は東南アジアやアメリカとの中継貿易や金融で栄える。上海は生糸や絹織物を産する蘇州や杭州、茶の集積地である漢口に近い位置にあり、最大の貿易港となった。上海の貿易商は、欧米諸国と取り引きする西洋荘、日本と取り引きをする東洋荘、東南アジアと取り引きをする南洋荘に分かれて活動した。西洋商人との仲介をして[[買弁]]と呼ばれる者もいた<ref>濱下 (1997) 第1章、第7章</ref>。
 
 
 
東アジアの貿易をめぐる各国の競争や対立は、戦争の原因ともなった。李氏朝鮮では日本と清が進出をして、清はイギリスの綿製品を朝鮮に輸出する一方で、朝鮮からの輸出は1885年から1893年にかけて90%が日本向けとなる。日本の穀物買い占めは朝鮮で穀物不足と価格高騰をまねき、凶作対策として穀物の域外搬出を禁じた[[防穀令]]に対して、日本側が損害賠償を求める争いも起きた。[[日清戦争]]で清が敗北すると、朝鮮は朝貢を終えるとともに、中国はヨーロッパや日本による分割が進んだ。日本は朝鮮の植民地化をすすめ、朝鮮の輸出の80パーセントから90パーセント、輸入の60パーセントから70パーセントが日本向けとなった。[[満州]]ではロシアが占領を行い、日本も[[日清通商航海条約|日清追加通商航海条約]]などで満州への経済進出をはかって衝突し、[[日露戦争]]が起きた<ref>武田編 (2000)</ref>。中国への進出を求めるアメリカは、[[門戸開放通牒]]を各国へ送り、港湾の使用や中国の主権尊重を主張した。[[九カ国条約]]では門戸開放政策の継続が確認されたが、[[満州事変]]を条約違反とする批判があがり、日本と各国との対立が深刻となる<ref>ホブズボーム (1987) 第3章</ref>。
 
 
 
=== アフリカ ===
 
[[ファイル:Scramble-for-Africa-1880-1913.png|thumb|250x250px|1880年と1913年のアフリカの比較]]
 
アフリカ各地の奴隷貿易は、熟練労働力の減少や、ヨーロッパからの製品輸入による現地産業の衰退などの影響を及ぼした。ヨーロッパは奴隷との交換として銃器も輸出しており、アフリカ人にとっては武器貿易の面も持っていた<ref>栗本 (2013) 第4章</ref>。輸入した銃器は隣国との戦争と、さらなる奴隷の捕獲に用いられ、地域の荒廃や人口減少による共同体の破壊にもつながった<ref>エルティス、リチャードソン (2010)</ref>。アフリカの君主は奴隷貿易についての対応が分かれ、[[ダホメ王国]]のように定期的に出兵して奴隷を捕獲する国がある一方で、ヨーロッパ人に奴隷貿易の縮小を訴えたコンゴ王国の[[ンジンガ・ムベンバ]]のような王も存在した<ref>宮本・松田編 (1997) p.264</ref>。
 
 
 
奴隷貿易の禁止がすすむと、ヨーロッパ諸国は沿岸での奴隷貿易にかわり、内陸に進出してアフリカ人に農産物の栽培や鉱物の採掘を行わせた。輸出品を運ぶための鉄道が建設されて、セネガルやナイジェリアでは落花生鉄道、ケニアでは綿花鉄道、ザイールでは銅鉄道などと呼ばれた。ヨーロッパの7カ国による[[アフリカ分割]]が進み、植民地政策は独立後の貿易にも大きな影響を与える<ref>宮本・松田編 (1997) p.278、p.295</ref>。
 
 
 
; 東アフリカ
 
[[スワヒリ]]のムスリム商人が東アフリカ沿岸部とインド洋沿岸部をつなぎ、象牙や奴隷を運んだ。キルワなどの貿易港や、内陸の[[コンゴ川]]の[[マニエマ州|マニエマ]]に進出して米の栽培を始め、米はこの地方の主食にもなった。19世紀に入ると、アラビア半島南端のオマーンから[[ブー・サイード朝]]の[[サイイド・サイード]]が東アフリカ貿易に進出する。その理由は、ペルシア湾貿易での勢力低下にあった。サイードは[[ザンジバル]]を貿易の拠点としてクローブ栽培を始め、ヨーロッパとの良好な関係も築いて繁栄した。19世紀には奴隷の需要も高まり、[[ティップー・ティプ]]のようなアラブ・スワヒリ商人は奴隷狩りを大規模化した。奴隷の中には、フランスによって[[レユニオン]]や[[マダガスカル]]の大農場へ送られる者もいた<ref>宮本・松田編 (1997) 第3章、第8章第3節</ref>。
 
 
 
内陸のサバンナには、[[ニャムウェジ族]]の商人がタンガニーカから隊商で往来して、ケニアからは[[カンバ族]]の隊商が沿岸のモンバサまで出向いていた。19世紀からアラブ人の交易ルートを用いてヨーロッパ人が進出して、[[イギリス領東アフリカ]]や[[ドイツ領東アフリカ]]となる。ウガンダでは綿花の輸出でアフリカ人の独立農家が増えるが、ケニアでは白人入植者がアフリカ人のコーヒー栽培を禁止させ、原住民登録条例でアフリカ人の独立をさまたげた<ref>宮本・松田編 (1997) 第11章第1節</ref>。
 
 
 
; 西アフリカ
 
[[File:Ouidah Porte du Non retour.jpg|thumb|right|ウィダーの「還らずの門」]]
 
西スーダンではモロッコの[[サード朝]]がソンガイ王国を征服して、17世紀から18世紀にかけてサハラ交易を支配する。サハラ交易の終着地であるハウサランドの都市は独立して[[ハウサ諸王国]]となり、サハラ交易を主導した。各都市国家は藍染で有名な{{仮リンク|カノ王国|en|Kingdom of Kano}}の染色や、織物、陶器などの特産物を生み出した。ハウサ人は各地で商人として活動して、[[ハウサ語]]は商業用語としても広まる。金を産出しない中央スーダンでは、非ムスリムの戦士階層とムスリム商人の協力のもとで奴隷貿易が拡大する。[[カネム・ボルヌ帝国]]やハウサ諸王国は奴隷貿易も行い、ハウサ諸王国では互いに奴隷を略奪した。奴隷貿易の標的となったサハラの南縁地域では、奴隷貿易を行うムスリム国家に対抗するために18世紀から19世紀にかけて牧畜民の[[フルベ族]]が[[聖戦]]を行う。フルベ族は[[ソコト王国]]を建国して、ハウサ諸王国を支配下においた<ref>坂井 (2003)</ref>。
 
 
 
沿岸地域では、ヨーロッパとの貿易で取引された貿易品にちなんだ地名がつけられ、[[奴隷海岸]]、[[黄金海岸]]、[[胡椒海岸]]、[[象牙海岸]]などがある。ダホメ王国の交易港[[ウィダー]]や、[[ガンビア]]の[[クンタ・キンテ島]]は奴隷貿易の拠点となった。のちに20世紀アメリカの作家[[アレックス・ヘイリー]]は、ガンビアからアメリカへ運ばれた祖先の体験をもとに小説『{{仮リンク|ルーツ (小説)|en|Roots: The Saga of an American Family|label=ルーツ}}』を書き、ベストセラーとなる<ref>宮本・松田編 (1997) 第9章第2節</ref>(のち[[ルーツ (テレビドラマ)|テレビドラマ]]化)。
 
 
 
; 中部アフリカ
 
ベルギーの[[レオポルド2世]]は、隣国オランダの植民地経営に関心をもち、国力増強を目的としてコンゴ盆地へ進出する。レオポルド2世は探検家[[ヘンリー・スタンリー]]を派遣して各地の首長から貿易の独占権を得たのちに、[[コンゴ国際協会]]を設立して領域内での無関税を定めた。この政策によってベルリン会議でコンゴは認められ、[[コンゴ自由国]]が建国される。コンゴ自由国はレオポルド2世の私有領であり、輸出用の象牙や天然ゴムが採集されて、[[1901年]]にゴム輸出は6000トンとなり世界総生産量の10%を占めた。その一方で現地における[[強制労働]]などの過酷な状況が批判され、[[1908年]]にベルギーに併合されて[[ベルギー領コンゴ]]となった。ジャーナリストの[[エドモンド・モレル (ジャーナリスト)|エドモンド・モレル]]の『赤いゴム』、作家[[ジョゼフ・コンラッド]]の『[[闇の奥]]』、[[マーク・トウェイン]]の『{{仮リンク|レオポルド王の独白|en|King Leopold's Soliloquy}}』には、自由国時代のコンゴが描かれている<ref>宮本・松田編 (1997) 第11章第4節</ref>。
 
 
 
; 南部アフリカ
 
グレート・ジンバブエやモノモタパ王国の時代に繁栄を支えていた貿易品が、チャンガミレ王国の時代には減少する。18世紀までに金の産出が減り、象を乱獲したため象牙も減少した。輸出が衰えるにつれて、貿易に代わって経済力を獲得するための家畜、人間、土地をめぐる争いが激しくなった<ref>宮本・松田編 (1997) 第4章第3節</ref>。17世紀からはオランダ東インド会社による移民が始まり、19世紀には[[ボーア人]]の国家が建国された。[[オレンジ自由国]]では[[ダイヤモンド]]鉱山が発見され、1886年には[[トランスバール共和国]]で金鉱が発見される。イギリスはこれらの国を[[ボーア戦争]]によって領地とした。[[1910年]]には[[南アフリカ連邦]]が成立してイギリスの支配下に置かれ、南アフリカ連邦では非白人を差別する政策として[[アパルトヘイト]]が進められる<ref>宮本・松田編 (1997) 第12章</ref>。
 
 
 
=== アメリカ ===
 
ヨーロッパの進出で、プランテーションや鉱山が建設されて一次産品がヨーロッパへ輸出された。ヨーロッパから[[天然痘]]をはじめとする病原菌が持ち込まれると先住民の大量死をまねき、[[ミシシッピ文化]]のようにヨーロッパ人との武力衝突が比較的少ない地域でも交易ルートや居住地の消滅を引き起こした。労働力の不足は、アフリカから運ばれる奴隷によって補われた<ref>ダイアモンド (1997) p.386</ref>。
 
 
 
; メソアメリカと南アメリカの鉱物
 
{{see also|スペインによるアメリカ大陸の植民地化|ポルトガルによるアメリカ大陸の植民地化}}
 
メソアメリカのアステカや、南アメリカのインカは、スペインの[[コンキスタドール]]に征服される。住人はヨーロッパ人の支配下におかれ、各地のプランテーションや鉱山で働かされた。16世紀には、[[ペルー副王領]]の[[ポトシ]]や[[ヌエバ・エスパーニャ副王領]]の[[サカテカス]]の鉱山からの銀が、ヨーロッパとアジアへ運ばれる。アメリカからヨーロッパへの大量の銀の流入は[[価格革命]]と呼ばれる現象を引き起こし、日本の銀と並んで世界貿易に影響を与えた<ref>湯浅 (1998)</ref>。
 
 
 
17世紀後半から砂糖貿易の中心はカリブ地方へ移り、18世紀のポルトガル領ブラジルは金の時代となる。[[1693年]]に[[ミナスジェライス州]]で金脈が発見され、ゴールドラッシュが訪れた。サトウキビ農場から鉱山へと奴隷が移動して、新たにアフリカから運ばれた奴隷と合わせて大規模な人口移動が起きた。金採掘の労働はサトウキビ農園よりも過酷であり、絶えず新しい奴隷が金鉱へ送られた。[[1703年]]にポルトガルの[[ブラガンサ朝]]はイギリスと[[メシュエン条約]]を結び、ポルトガル産ワインとイギリス産の毛織物など工業製品の互恵的な通商条約となった。イギリスの工業製品はポルトガル領ブラジルとの貿易で利益をあげて、1731年から1735年にブラジルからリスボンに輸入された金・ダイヤモンドの63パーセント、1736年から1740年の66パーセントがイギリスへ流れた。ミナスジュライスの奴隷が採掘した金は、イギリスに発祥する[[金本位制|国際金本位制]]を整えることにもなった<ref>池本・布留川・下山 (2003)</ref>。
 
 
 
; 南アメリカのコーヒー貿易
 
[[File:Cafe porto Santos 1880.jpg|thumb|200px|{{仮リンク|サントス港|en|Port of Santos}}のコーヒー出荷。1880年]]
 
プランテーションと奴隷制度は、サトウキビの次にコーヒー栽培において盛んになり、ブラジルは世界恐慌が起きるまでコーヒー貿易の中心となった。20世紀初頭には外貨収入の90パーセントをコーヒーが占めるが、次第に生産過剰となり、第一次世界大戦が起きたためドイツやオーストリア向けの輸出も停止する。在庫を抱えたブラジルを救うためにアメリカ合衆国はコーヒーを買いつけるが、交換条件としてブラジルに第一次大戦の参戦を取り付けた。その後もブラジルの過剰在庫は続き、[[禁酒法]]でアメリカのコーヒー消費量が激増して一次的にしのぐが、世界恐慌で各国の購買力が低下したため大量のコーヒーが廃棄された<ref>臼井 (1992) 第7章</ref>。
 
 
 
[[アマゾン熱帯雨林|アマゾン]]に生息している[[パラゴムノキ]]は天然ゴムの原料として輸出され、自動車のタイヤ使用量の増加にともなってゴムブームとなり、東南アジアのプランテーションでも栽培されるようになる<ref>木村 (2000)</ref>。アルゼンチンでは平原の[[パンパ]]に持ち込まれた牛が増え、牛肉の輸出産業が急成長した<ref>山本 (2000)</ref>。
 
 
 
やがてメソアメリカや南アメリカ各地では独立が相次ぎ、スペインやポルトガルを中継せず、ロンドンを中心としてヨーロッパ各地と直接に取り引きをするようになる。ヨーロッパ人による征服は、密貿易の商品も生み出した。インディオの重労働の疲労緩和のためにコカの葉が大量に消費され、[[1860年]]にはコカの葉から[[コカイン]]が製造されるようになる。1918年の国際協定によって医療目的以外のコカイン使用が禁じられたが、収益性が高いために非合法な製造と国際的な取り引きが続いた<ref>ポメランツ、トピック (2009) p.151</ref>。
 
 
 
; 北アメリカの毛皮貿易
 
[[File:Fur traders in canada 1777.jpg|thumb|right|200px|1777年のカナダの毛皮交易]]
 
北米に移住した初期のヨーロッパ人にとって、先住民との[[北アメリカの毛皮交易|毛皮貿易]]が重要となった。東海岸には先住民6部族の国家集団である[[イロコイ連邦]]があり、[[セントローレンス川]]と[[サグネ川]]に面した[[タドゥサック]]には{{仮リンク|インヌ族|en|Innu}}の交易ルートがあった。フランス人が建設した[[ヌーヴェル・フランス]]では、インヌ族や[[五大湖]]沿いの[[ワイアンドット族]]から毛皮を入手して、ナイフや針、調理器具などのヨーロッパ製品と交換した。北米には、ヨーロッパで絶滅に近かったビーバーが多く生息しており、上流階級の毛皮ファッションの流行もあって毛皮貿易は隆盛した。取り引きが増えるにつれて、交易の利益を得ようとする諸部族や、交易ルートの支配を望むヨーロッパ人の間で紛争が大規模化して、[[ビーバー戦争]]と呼ばれる戦争も起きた。フランス人はインヌ族やアルゴンキン語族を支持する一方で、イギリス人はイロコイ連邦を支持しており、フランス対イギリスの代理戦争の面もあった。イギリス人が建設した[[13植民地]]でもビーバーは重宝され、ほかに鹿皮が多く扱われた<ref>木村 (2004)</ref><ref>ブルック (2009) 第2章</ref>。
 
 
 
組織面では[[ハドソン湾会社]]と[[北西会社]]の2社が毛皮貿易の中心となり、毛皮をもたらす先住民と互恵的な関係を築いた。毛皮貿易は、その商品の性質から、先住民とヨーロッパ人の比較的対等な交換をもたらした。ヨーロッパ産の針、鍋、ナイフなどの鉄製品は、先住民に歓迎される生活用具となった。当初は女性の渡航が許されておらず、毛皮交易者たちは協力関係にある先住民の女性を伴侶とした。先住民の女性は旅の同行者や交渉役として貿易の実務でも活躍した<ref>ヴァン・カーク (1999) p.21</ref>。のちには、ロシアの勅許会社である露米会社がアラスカに進出して毛皮貿易を行った<ref>森永 (2014)</ref>。
 
 
 
; アメリカ合衆国の独立
 
[[File:Boston Tea Party Currier colored.jpg|thumb|200px|right|ボストン茶会事件を描いたリトグラフ(1846年)]]
 
13植民地は、宗主国であるイギリスの[[グレートブリテン王国]]と植民地政策をめぐって対立する。貿易においては、[[1773年]]の[[茶法]]をきっかけとして[[ボストン茶会事件]]が起きる。イギリスはこの事件を受けてボストンを軍政下においたため[[アメリカ独立戦争]]のきっかけとなり、[[アメリカ合衆国の独立]]につながった。イギリスはアメリカの商船に対して海賊行為を行い、アメリカは対抗するために[[通商禁止法 (1807年)|通商禁止法]]で海外への全面禁輸を行った。禁輸によってイギリスの損害が期待されたが、アメリカの実質所得が約8パーセント減少して、アメリカの損害の方が大きかった<ref>クルーグマン、オブズフェルド (2007) p.51</ref>。
 
 
 
; アメリカの保護主義と工業
 
[[ファイル:Henry Clay - Project Gutenberg eText 16960.png|thumb|200px|アメリカ・システムを風刺した漫画。檻のなかのサルは、経済の側面である「家庭、消費、国内、改良」を表しており、資源を奪い合っている(1831年)]]
 
アメリカは独立後もイギリスとの貿易が最も多く、保護主義が影響力を持った。アメリカ独立時の政治家で初代財務長官である[[アレクサンダー・ハミルトン]]は、『[[製造業に関する報告書 (ハミルトン)|製造業に関する報告書]]』で重商主義にもとづく保護貿易を主張して、自由貿易を推進するイギリスを批判した。ハミルトンの主張は経済政策に取り入れられ、[[アメリカ・システム (経済計画)|アメリカ・システム]]と呼ばれるようになる。[[1816年]]から[[1846年]]にかけては保護主義の影響が大きく、1846年から[[1861年]]には自由主義時代となる<ref>マグヌソン (2009) 第6章</ref>。1850年代には灯油産業が最盛期となり、原油から灯油を精製する技術と、掘削技術の発達で、1860年代には石油精製事業が急成長をして、[[スタンダード石油]]が石油業界を支配した<ref>ヤーギン (1991) 第1部</ref>。
 
 
 
[[1861年]]の[[南北戦争]]の時代には、北部の産業資本家や商人は保護貿易を支持して、南部のプランテーション所有者や農民は自由貿易を支持した。南北戦争で北部が勝利すると貿易政策は保護主義が中心となり、関税率が上げられた。南北が統一されて[[奴隷制廃止]]になると、プランテーションでの農業から工業へとうつる人口が増えて、工業製品の輸出増加にもつながった。1880年代の不況期には合理化が図られて、[[フレデリック・テイラー]]による管理法が工業の大量生産を確立し、ヨーロッパへ工業製品が輸出されてアメリカは世界貿易における主要国となる<ref>秋元 (2009) 第1章</ref>。フロンティアが消滅したのちのアメリカは、貿易の輸出先を求めて太平洋からアジアへと進出する。[[米西戦争]]でカリブ海やフィリピンなどのスペイン領を得て、中国の門戸開放を求めてヨーロッパや日本と対立した<ref>ホブズボーム (1987) 第3章</ref>。
 
 
 
=== 世界貿易の拡大 ===
 
; 国際金本位制
 
金本位制は、紙幣を金と交換できるようにして価値を保証する制度であり、19世紀後半からはイギリスを中心として国際金本位制が成立した。イギリスでは紙幣の発行を中央銀行のみに許可して金融制度を安定させた。イギリスの通貨である[[スターリング・ポンド]]にならって各国で金本位制が進み、日本でも明治政府が導入した。金本位制のもとで決済手段が統一されると取り引きが迅速化して、金との交換を保証する1国1通貨の制度も普及した。貿易で各国の金の保有量と通貨発行量が自動的に調整されるため、勢力均衡の国際関係にも合致した制度とされた<ref>湯浅 (1998)</ref>。
 
 
 
金本位制は貿易による自動的な調整をもたらすとはいえ、実際には先進国が途上国を資金的に支援する必要があり、途上国は貿易赤字を防ぐために保護主義を採用していた。[[第一次大戦]]以前の40年間は、アメリカをはじめとする各国は自国市場を保護しながら、保護されていないイギリスへの輸出で利益を受けた。このためイギリスが輸入を増やして自由貿易を支えていた面があった<ref>ポメランツ (2000) p.293</ref>。また、金本位制は国内経済に問題を起こす。国内の通貨量は国内の金の量に連動するので、貿易赤字は通貨発行量の減少につながる。金本位制のもとでは通貨は自由に発行できないため、国内経済が縮小して失業や貧困の問題が生じても、政府には財政面での限界があった。[[金準備]]が不足した場合は、平価の切り下げか、資金借入の必要があった<ref>秋元 (2009) 第1章</ref>。
 
 
 
; 大量生産と世界大戦
 
アメリカの鉄道への貸付が原因で[[1873年恐慌]]が起きると、公的介入が図られ、各国の農業と工業で保護主義の支持拡大のきっかけとなる。その一方で、20世紀の初頭にはアメリカの工業製品が大量にヨーロッパへ輸出されて、電話、タイプライター、ミシン、カメラ、蓄音機、包装食品が人気を呼んだ<ref>ホブズボーム (1987) 第2章</ref>。石油はアメリカ、ルーマニア、ロシア、オランダ領インドネシア、ペルシアで採掘がすすみ、世界各地で油田を求める動きが活発となる。[[1914年]]に第一次世界大戦が勃発すると貿易は縮小して、各国の金本位制も停止された<ref>ヤーギン (1991) 第2部第10章</ref>。
 
 
 
第一次世界大戦まで貿易の中心だったイギリスに代わって、1920年代にはアメリカが世界最大の貿易国となり、輸出では1位、輸入ではイギリスに次いで2位になる。しかしアメリカは[[国内総生産]](GDP)に占める貿易の割合が輸出5パーセント、輸入3.4パーセントと低かったため世界貿易の安定には関心が低く、[[国際連盟]]にも加盟しなかった。このアメリカの[[孤立主義]]は、貿易や金融を不安定にする。まず貿易面では、農産物で問題が起きる。第一次大戦で食料需要が急増してヨーロッパ諸国は農産物の自給率を高めたが、アメリカやほかの農業国も増産をしたため、農産物価格が1920年代に下落する。これがさらなる保護主義のきっかけとなった。金融面では、アメリカはヨーロッパの戦後復興を投資で援助しており、[[ニューヨーク連邦準備銀行]]総裁の[[ベンジャミン・ストロング]]によって各国協調が保たれて、金本位制への復帰も続いた。しかし連邦準備銀行は、[[1928年]]から国内の投機の抑制を優先して[[公定歩合]]の引き上げを行う。これがヨーロッパとの金利差を縮めてヨーロッパからの資金逆流を起こしたため、ドイツは第一次大戦の戦後賠償が困難となり、[[ナチ党]]の支持拡大の一因にもなった<ref>秋元 (2009) 第1章</ref>。
 
 
 
=== 世界恐慌と保護貿易 ===
 
; スムート・ホーリー法
 
[[1929年]]に[[世界恐慌]]が起きると、アメリカは関税を引き上げることで世界貿易を縮小させる。1930年の[[スムート・ホーリー法]]で、アメリカの関税率は平均13パーセント引き上げられて59パーセント近くになった。この法案の目的は、当初は恐慌の対策ではなく、1920年代の農産物価格の下落対策だった。大統領候補だった[[ハーバート・フーヴァー]]が農業を保護する関税引き上げを公約しており、フーヴァーの大統領就任後に世界恐慌が起きて、工業業界も加わる形で立案されるという経緯があった。この法案が世界経済を悪化させるという意見もあり、アメリカ内外の経済学者や関係者1000人以上が反対声明に署名をして、30カ国以上の政府が抗議を行ったが、議会では賛成が大勢を占めて法案は成立した<ref>秋元 (2009) 第1章</ref>。
 
 
 
; ブロック経済と政治対立
 
スムート・ホーリー法の成立後は、各国も関税を上げる。ドイツやフランスは平均40パーセントとなり、イギリスも自由貿易政策から保護貿易に転じて平均20パーセントとする。イギリスは連邦諸国に特恵関税を与えて連邦内貿易の強化を始め、アメリカも互恵通商協定でカリブ諸国や中米諸国と経済圏を作った。こうして国内経済の保護を目的とする[[ブロック経済]]が進み、通貨圏をもとにして{{仮リンク|スターリングブロック|en|Sterling area}}、[[ドル]]のブロック、[[ライヒスマルク]]のブロック、金本位制を維持するブロック、[[日満経済ブロック]]などが形成された。ブロック間での輸入制限や排他的な関税措置がとられて国際貿易が分断され、[[近隣窮乏化政策]]という言葉も生まれた。アメリカでは1929年の生産を100とすると、[[1932年]]には54まで落ち、輸出は3分の1に縮小して、失業率は[[1933年]]に25パーセントに達した<ref>納家 (2003) 第3章</ref>。
 
 
 
大恐慌後の世界貿易の縮小は、各国の政治に影響を与える。南アメリカでは1930年から1931年の間に12カ国で政変が起きた。一次産品価格の下落で植民地政府への不満が高まり、カリブ地方、西アフリカ、エジプト、インドなどで政治運動が活発になる。ドイツでは戦後賠償問題からナチ党の政権が成立して、アウタルキー(自給自足)にもとづく一国主義的な政策として[[四カ年計画]]を進めた。
 
 
 
; 石油獲得競争
 
[[画像:Petroleum field at Moreni.jpg|200px|thumb|ルーマニアの[[モレニ]]油田(1920年代)]]
 
第1次大戦後も石油への関心は高まり続け、豊富な埋蔵量が予想された西アジアでは獲得をめぐって各国が争った。[[1928年]]の[[赤線協定]]では、西アジアにおける石油貿易の枠組みが決定された<ref>ヤーギン (1991) 第2部第10章</ref>。アメリカはテキサスなど国内の採掘を盛んにする一方で、スムート・ホーリー法の対象にも石油は含まれずに輸入が続けられた<ref>ヤーギン (1991) 第2部第11章</ref>。[[サウジアラビア]]ではアメリカ主導の採掘が始まり、ペルシャ湾に面する[[クウェート]]は、大恐慌が招いたマッカ巡礼の激減と、日本の養殖真珠による[[天然真珠]]の輸出減で財政難に陥り、イギリス主導で石油利権協定が調印された<ref>ヤーギン (1991) 第2部第15章</ref>。
 
 
 
日本は石油の貿易依存が高く、アメリカから国内消費の80パーセント、オランダ東インド領から10パーセントを輸入していた。日本とアメリカは中国の門戸開放をめぐって対立がすすみ、満州事変や[[日中戦争]]が起きると、日本の軍事行動にアメリカの石油が使われることに反対が高まる。アメリカの石油業界や世論は日本への禁輸を求めて、日本が東南アジアへの軍事行動を開始すると、1941年にアメリカは石油禁輸措置をとり、日米の開戦の一因にもなった<ref>ヤーギン (1991) 第3部第16章、第18章</ref>。
 
 
 
== 現代 ==
 
[[第二次世界大戦]]の一因にもなった保護貿易による対立を教訓として、自由貿易を進めるための国際機関が設立される。
 
 
 
=== 輸送技術の発達 ===
 
[[ファイル:MSC Flaminia at sea.jpg|thumb|160px|コンテナを満載し海を行くコンテナ船]]
 
第二次世界大戦後に、コンテナによって複数の輸送機関を接続する[[インターモーダル輸送]]が世界的に普及する。大戦前の1930年代からコンテナについての研究が行われ、アメリカ連邦政府の運輸委員会などによってコンテナを用いた鉄道、道路、水上交通の連携が指摘された。しかし採用はされず、代わりにトラックを鉄道に載せる[[ピギーバック輸送]]が用いられた<ref>橋本 (2013) p.214</ref>。1950年代にアメリカのトラック運送業者の{{仮リンク|マルコム・マクリーン|en|Malcom McLean}}は海運業に進出をして、トラックと海運の両方に使えるコンテナを採用した。これによってタンカーからトラックへのコンテナの積み替えが容易になり、海上輸送と陸上輸送の連携が迅速になった<ref>橋本 (2013) p.216</ref>。コンテナによって港湾も影響を受け、それまで[[沖仲仕]]が担っていた港湾での運搬は機械化され、大量のコンテナの積み降ろしの可能な港湾が貿易で台頭する<ref>橋本 (2013) p.220</ref>。1960年代には[[国際標準化機構]](ISO)がコンテナについての国際規格を決定して標準化し、輸送コストの低下が物流や貿易に大きな変化をもたらした。製造業では原材料や最終製品の他に部品などの輸送が増加して、生産が世界規模に拡大した<ref>橋本 (2013) p.226</ref>。
 
 
 
=== 世界貿易機関 ===
 
; ブレトン・ウッズ体制
 
国際貿易を改革するために、[[1944年]]にアメリカとイギリスの主導で[[ブレトン・ウッズ会議]]が開催された。会議では[[国際通貨基金]](IMF)と[[国際復興開発銀行]](IBRD、[[世界銀行]]グループ)の設立が決定して国際通貨の枠組みが定められ、アメリカの[[USドル]]を基軸通貨とした[[固定相場制度]]が確立された。ブレトン・ウッズ体制のもとで、特に日本と西ドイツは急速な経済成長をとげる<ref>猪木 (2009) 第1章、第2章</ref>。
 
 
 
第二次世界大戦後の1945年12月、公正な貿易ルールを定めるための組織として[[国際貿易機構]](ITO)が発案され、アメリカは「世界貿易および雇用の拡大に関する提案」を行った。アメリカの[[ハリー・S・トルーマン|ハリー・トルーマン]]政権は無差別な自由貿易の推進を意図していたが、議会はITOが国内産業の発展を妨げるという視点から反対をする。[[1948年]]にはITOのための[[ハバナ憲章]]に54カ国が調印したものの、提案側であるアメリカが議会の反対を受けて批准できず、ハバナ憲章は挫折に終わった<ref>納家 (2003) 第4章</ref>。
 
 
 
ITOの代わりとして、ハバナ憲章の一部であった[[関税及び貿易に関する一般協定]](GATT)が貿易拡大の機関として暫定的に具体化した。GATTの原則には[[最恵国待遇]]の無差別適用、関税の引き下げ、数量制限の禁止、通商政策の[[事前協議]]などがある。ただし、条件付きでの輸出入制限や輸出補助金の容認もあり、漸進的な貿易の自由化を目指した。後述するヨーロッパの経済統合も、GATTの例外規定として認められた。1948年のGATT発足時の参加国は33カ国であり、[[1970年]]には77カ国まで増加して、暫定的だったGATTの役割について機能強化が求められるようになる。アメリカ連邦議会の1993年のNAFTAと1994年のGATTについての法案では、支持する企業と反対する労働団体が対立して、議員に対する企業や労働団体からの献金が可決を左右した<ref>クルーグマン、オブズフェルド (2007) 第9章</ref>。
 
 
 
; 世界貿易機関の設立
 
[[File:Cwr lake facade2.jpg|thumb|right|200px|ジュネーヴのWTO本部(旧GATT本部)]]
 
国際貿易を進展させるための多国間交渉は、貿易ラウンドと呼ばれている。[[1986年]]に多角的貿易交渉として[[ウルグアイ・ラウンド]]が実施され、その合意を実施する機関として[[1995年]]に[[世界貿易機関]](WTO)が設立された。これによりGATTはWTOへと発展的解消をとげ、WTOでは機能が強化された。正式な国際機関となり、取り扱う分野には[[サービスの貿易に関する一般協定]](GATS)や、[[知的所有権の貿易関連の側面に関する協定]](TRIPS)も含まれた。貿易をめぐる紛争解決のためには{{仮リンク|世界貿易機関紛争解決機関|en|Dispute Settlement Body|label=WTO紛争解決機関}}が設立された。
 
 
 
しかしWTO参加国が増えるにつれて、交渉の長期化や参加国の対立が問題となる。ウルグアイ・ラウンドは1986年から1994年までかかり、基本合意書は補足資料を合わせると2万2000ページに及んだ。また途上国は、貿易拡大や経済成長が見込めるという先進国の主張によってウルグアイ・ラウンドの合意を受けいれたが、先進国と途上国の経済格差は拡大を続けた。合意内容を実施するコストの大きさや、少数の国によるWTOの意思決定プロセスも途上国の不満となり、1999年のシアトルでの[[第3回世界貿易機関閣僚会議]]で途上国は新ラウンドに抵抗して、新ラウンドの立ち上げは断念された。2001年に始まった新ラウンドの[[ドーハ・ラウンド]]は難航を続け、2003年のカンクンの{{仮リンク|第5回世界貿易機関閣僚会議|en|World Trade Organization Ministerial Conference of 2003}}では交渉が決裂して、2011年のジュネーヴの{{仮リンク|第8回世界貿易機関閣僚会議|en|World Trade Organization Ministerial Conference of 2011}}において近い将来の合意が断念された。多国間の交渉に代わって、友好国や利害が共通する国家間の自由貿易協定(FTA)が増加した<ref>阿部・遠藤 (2012) p.308-310</ref>。
 
 
 
=== 独立国の増加と貿易 ===
 
; 国連貿易開発会議
 
GATTとは異なる国際的な取り組みとして、[[1964年]]に[[国連貿易開発会議]](UNCTAD)が設立された。開発途上国の経済開発と南北問題の経済格差是正を目的とする会議であり、初の[[第三世界]]出身の国連事務総長である[[ウ・タント]]の主導で実現した。旧植民地から独立をした国々を中心とする[[開発途上国]]や、北半球の先進国と南半球の途上国の格差を指す[[南北問題]]という語は、UNCTADを通じて普及してゆくことになる。開発途上国による[[77ヶ国グループ]]も結成された<ref>平野 (2009) p.3</ref>。
 
 
 
UNCTADの初代事務局長である{{仮リンク|ラウル・プレビッシュ|en|Raul Prebisch}}は、開発途上国の経済成長のために、世界経済にも重点を置いた。当時の経済発展論では国別に段階をふんで発展するという思想が中心であり、国内政策に重点を置いていた。これに対してプレビッシュの構想はプレビッシュ=シンガー・テーゼと呼ばれた。
 
 
 
プレビッシュ=シンガー・テーゼの特徴として、インデクセーションがある。世界経済を工業製品の先進国と一次産品の途上国に二分して考えると、工業製品は技術革新や新製品があるため所得が上がりやすいが、一次産品は相対的に工業製品と比べて不利となる。そこで、一次産品価格を引き上げて工業製品の価格にリンクしつつ、先進国からの援助も含めて途上国の工業化をすすめることが目標とされた。インデクセーションの思想は[[一般特恵関税制度]](GSP)として実現して、自由貿易の普及を目指すGATTにおいては例外措置とされた<ref>平野 (2009) p.4、p.10</ref>。プレビッシュ=シンガー・テーゼでは、輸入代替工業化も重視された<ref>平野 (2009) p.5</ref>。
 
 
 
; 輸入代替工業化
 
第二次世界大戦後、 多くの発展途上国では工業製品の輸入制限と、国内産業の育成が行われた。これは[[輸入代替]]工業化と呼ばれ、製造業の発展を目的としており、輸入財の国産化でもあった。1950年代と1960年代に特に盛んになったが、期待されていたほどの効果は得られず、次第に支持を失った。1985年以降になると、輸入代替を行っていた途上国で関税率の引き下げや輸入割当の廃止が増え、貿易の自由化がなされた。輸出品には農産物や鉱物資源に代わって工業製品と貿易量は増えたものの、途上国間の格差は広がっている<ref>クルーグマン、オブズフェルド (2007) 第10章</ref>。
 
 
 
; 輸出志向型工業化
 
貿易と輸出を志向して成長を目指す政策は、[[輸出志向型工業化]]と呼ばれており、[[輸出加工区]]などの試みも広まった。世界銀行では、こうした政策を取るアジアの国家を、特に高成長アジア経済地域(HPAEs)と呼んでいる。HPAEsは大きく3つに分かれ、第1は日本、第2は1960年代の香港、台湾、[[韓国]]、[[シンガポール]]、第3は1970年代と1980年代の[[マレーシア]]、[[タイ王国|タイ]]、[[インドネシア]]、[[中国]]となる。HPAEs諸国の成功の原因は議論となっており、近年では貯蓄率の高さと教育水準の向上という国内的な要因にあるとされる<ref>クルーグマン、オブズフェルド (2007) 第10章</ref>。
 
 
 
=== 戦略物資と貿易 ===
 
; 軍事技術
 
第二次世界大戦後は、アメリカを中心とする[[西側諸国]]と、[[ソビエト連邦]]を中心とする[[東側諸国]]は対立して、[[冷戦]]と呼ばれた。アメリカの復興計画である[[マーシャル・プラン]]に東ヨーロッパ諸国は参加せず、ソ連は[[1949年]]から[[経済相互援助会議]](COMECON)によって東側諸国と貿易圏を形成する。COMECONでは、ソビエト連邦は原油を供給して、東側諸国は農産物、工業製品、消費財を輸出した<ref>猪木 (2009) 第2章</ref>。対するアメリカは1949年に[[対共産圏輸出統制委員会]](COCOM)を設立して、ソ連、東ヨーロッパ、キューバ、中国などへの戦略物資や軍事技術の輸出を規制した。これはアメリカの[[封じ込め政策]]に沿うものでもあった。
 
 
 
冷戦終結後の[[1994年]]にCOCOMは解散され、旧COCOMを中心とした33カ国で[[1996年]]に[[ワッセナー条約]]が発足した。この条約は、紛争懸念国への通常兵器や関連技術の輸出統制を目的として、大量破壊兵器の開発や製造疑惑のある国家や、テロ支援国家とされる国々に対して輸出規制を行っている<ref>納家 (2003) 第5章</ref>。1990年代から通常兵器の国際移転を規制するための提案がなされ、2013年には[[武器貿易条約]](ATT)が採択された。
 
 
 
; 石油ショック
 
[[ファイル:Oil Prices Since 1861.svg|right|thumb|500px|1861年〜2007年の原油価格
 
{{Legend|#FF9A00|[[実質と名目|実質]]([[消費者物価指数|物価変動]]補正)}}
 
{{Legend|#000080|[[実質と名目|名目]](当時の金額)}}
 
]]
 
ブレトン・ウッズ体制以降で利益を享受する主要先進国と、その貿易体制のなかで経済成長が困難だった国々の間で対立が起きる。資源国が先進国の政策変更を迫るために、資源の武器化とも呼ばれる手法がとられるようになり、最も大きな影響を与えたのは石油だった。[[1973年]]に起きた[[第4次中東戦争]]ののち、[[アラブ石油輸出国機構]](OAPEC)は、[[イスラエル]]支持国のアメリカとヨーロッパ向けの原油輸出を停止して原油産出量を減らした。[[1974年]]には原油価格が約4倍の1バレル約6ドルに急騰して、[[石油ショック]]と呼ばれた。[[1979年]]には[[イラン革命]]ののちに第二次石油ショックが起き、1バレル約23ドルまで上がった。各国では不況とインフレーションが同時に進行する[[スタグフレーション]]が起き、一次産品の需要が低迷する。これは先進国だけでなくラテンアメリカやアフリカの経済に悪影響を与えた。また、貿易は相互的なものであるため原油消費量の減少は産油国にも不利となり、長期的には消費国への依存が高まる結果となった。石油の他にも資源の武器化が行われたが、石油ほどの交易条件の改善は達成できなかった<ref>納家 (2003) 第5章</ref>。
 
 
 
石油ショックは、途上国の[[累積債務問題]]の原因ともなった。ラテンアメリカをはじめとする諸国は1960年代から輸出による経済成長を目指していたが、原油価格の高騰で輸入額が増えると対外債務が増加した。[[オイルマネー]]によって余剰資金があった金融機関はこうした国々に貸し付けるが、第二次石油ショック以降は利払いも困難となる。こうして途上国の対外債務は、1970年の600億ドルから[[1989年]]には1兆2000億ドルまで膨張した<ref>猪木 (2009) 第6章</ref>。
 
 
 
; レアメタル、レアアース
 
[[File:Rareearth_production.svg|frame|300px|レアアース産出量 1950年 - 2000年。[[アメリカ地質調査所]]のデータより]]
 
流通や使用量が少ない鉱物は[[レアメタル]]と呼ばれ、その中でも希少な鉱物が[[レアアース]]であり、先端技術産業において重要とされている。レアメタルは中国で1980年代から増産され、安価で提供したために他国では鉱山の閉鎖も起きた。のちに中国は国内鉱物資源の輸出制限をするようになり、2009年にアメリカとEUは、中国のレアメタル輸出制限をWTOに提訴している。2010年に中国がレアアース生産の97パーセントを占め、同年には中国のレアアース輸出量の4割削減による価格の高騰や、レアアースの対日通関を遅らせる出来事も起きた。2012年には、日本とEUが中国のレアアース輸出制限をWTOに提訴した。北アメリカ、オーストラリア、アフリカでは、レアアース鉱山の再開や鉱区の開発があり、分散調達の動向が加速化した<ref>平野 (2013) 第2章</ref>。
 
 
 
; 紛争鉱物
 
天然資源が武力紛争の原因や武装勢力の資金源とされることがあり、{{仮リンク|紛争鉱物|en|conflict minerals}}とも呼ばれる。紛争鉱物を用いた製品が製造される可能性があるため、アメリカでは紛争鉱物の開示規制も進んでいる<ref>篠田 (2005)</ref>。
 
 
 
=== 新興国の発展 ===
 
; NIEs、ASEAN
 
アジアの[[新興工業経済地域]](NIEs)や[[東南アジア諸国連合]](ASEAN)の諸国は、工業製品の輸出が急増した。高い貯蓄率による国内投資、輸出促進策、アメリカとの貿易の拡大が輸出の後押しとなった。韓国、台湾、香港、シンガポールをはじめとするNIEsは1960年代から急成長して、1980年代にも8%前後の経済成長率があった。ASEANのタイ、インドネシア、マレーシアも1970年代に7%以上の成長率を示した。アジア域内での貿易は、1985年の26.2パーセントから1994年の37.8パーセントと上昇し、所得の伸びを上回るペースで国際分業関係が進展する<ref>大野・桜井 (1997) p.36</ref>。上記7カ国に中国、フィリピン、ベトナムを加えた10カ国は、1980年から1995年の実質成長率が平均6.9パーセントを維持した。世界銀行では1993年に『[[東アジアの奇跡]]』という報告書も書かれている<ref>大野・桜井 (1997) p.157</ref>。
 
 
 
; 中国
 
中国は[[1978年]]から[[鄧小平]]が[[改革開放]]政策を初めて、[[経済特区]]や[[経済技術開発区]]が定められて、外国資本や技術を積極的に導入した。中国は製造業の成長とともに資源の輸入が急増して、資源の調達をするために1990年代からアフリカとの関係を強める。輸出額では2004年に日本を超え、製造業生産額は2006年に日本、2008年にはアメリカを超えた<ref>大野・桜井 (1997) p.291</ref><ref>平野 (2013)</ref>。
 
 
 
; インド
 
[[インド]]は1948年にイギリスから独立したのちに輸入代替工業化を続け、1970年代には輸出入がGDPの5パーセントとなっていた。1980年までは、インドの輸出市場はソ連圏が15から20パーセントを占めていたが、1991年のナラシンハ・ラーオ政権のもとで[[マンモハン・シン]]財務大臣は{{仮リンク|インドの経済改革|en|Economic reforms in India}}を進めて新経済政策とも呼んだ。1994年にWTOに加盟し、最高で300パーセントだった輸入関税は1995年に50パーセントへ引き下げられる。2005年の輸出入の対GDP比は、それぞれ20パーセントを超えた<ref>内藤・中村編 (2006) 第11章</ref>。
 
 
 
; アフリカ
 
アフリカでは1960年代に植民地からの独立が相次ぎ、多くの国家が誕生した。アフリカ諸国は経済の自立をはかり、輸入していた製品を自給するための輸入代替工業化や、外貨を得るための輸出志向型工業化が行われたが、工業化の進展は難航する。人口の少ない国が多く、アフリカ域内の国際分業や貿易の相互依存も低かったので、工業製品を大量生産する利点を活かせない状況が続いた。さらに、各国の国境は民族などの事情を無視して宗主国が決めたものであり、政変や紛争が多発したことも障害となった<ref>宮本・松田編 (1997) 第15章第1節</ref>。1970年代から農産物と鉱産物が輸出不振となり、工業製品と食料の輸入増で貿易赤字が続き、歳入の減少で財政赤字も深刻となる。1980年代からは、世界銀行とIMFの支援を条件として{{仮リンク|構造調整プログラム|en|Structural Adjustment}}が行われた<ref>宮本・松田編 (1997) 第15章第2節</ref>。
 
 
 
[[2003年]]の[[イラク戦争]]を機に始まった資源価格全般の上昇が、アフリカ諸国の成長につながった。1980年代から続いていた資源安にもとづく貿易は変化して、アフリカ諸国は石油を中心とする資源貿易で利益を上げ、投資も増加した。インフラストラクチャーが未整備の地域も多かったが、価格の上昇で採算が取れるようになり、[[石油メジャー]]や[[資源メジャー]]の巨大化や採掘技術の発達も後押しとなった。[[赤道ギニア]]をきっかけに各国で開発が続き、2002年から2008年にかけてのサブサハラ・アフリカの年平均経済成長率は6.4パーセントとなった。一方で、アフリカは人口増加で食料輸入が増えている。植民地からの独立をとげた1960年代には穀物が総輸出額の70パーセントであったが、2013年には[[ザンビア]]などを例外として輸入超過となり、農業の生産性向上が課題となっている<ref>平野 (2013) 第2章、第3章</ref>。
 
 
 
=== 貿易摩擦 ===
 
ブレトン・ウッズ体制のもとで、アメリカを中心とする西側諸国の貿易は[[1960年代]]まで安定して発展を続けた。しかし、国際競争が激しくなるにつれてアメリカの主要産業はシェアが低下して、他国との間で[[貿易摩擦]]として外交問題になった。1960年代には、アメリカの鉄鋼産業は日本とヨーロッパの成長によって競争力が低下して、日本は[[1966年]]に対米輸出自主規制を行い、ヨーロッパは[[1969年]]に同様の自主規制を行う。[[1970年代]]には最低価格輸入制度、[[1980年代]]には国別輸入割当が実施され、アメリカの鉄鋼業は保護主義を強めた。アメリカと日本の貿易は、1960年代の繊維や鉄鋼、[[1981年]]の自動車の輸出自主規制、[[1986年]]の工作機械の輸出自主規制などを起こした。日本の輸入に関しては、1970年代の牛肉やオレンジ、1980年代の半導体、米、スーパーコンピュータ、1990年代のフィルム・印画紙などが問題とされた。こうした日米間の問題は[[日米貿易摩擦]]と呼ばれた。1980年代からは、アメリカとアジアのNIEsとの間でも貿易摩擦が起きた。[[2005年]]には、中国がアメリカ向け繊維製品の輸入割当に合意した<ref>猪木 (2009) 第5章</ref>。
 
 
 
WTO紛争解決機関では国家間の貿易ルールをめぐる提訴を扱い、専門家グループが審議をして訴えを起こした国に報復措置の権利があるかどうかを決定する。最初の提訴は1995年にアメリカの大気汚染基準をめぐって[[ベネズエラ]]から出され、ベネズエラに有利な裁定がくだされた。これは経済的な大国が協定に違反する基準を導入して、小国が提訴して認められた先例となった。2002年にはアメリカの鉄鋼製品輸入への関税率30パーセントについての提訴や、2005年にブラジルによるアメリカ綿花生産者への補助金についての提訴などがあった<ref>クルーグマン、オブズフェルド (2007) 第9章</ref>。近年では環境、[[電子商取引]]、労働基準などの従来は国内問題とされてきたことも注目されている。
 
 
 
=== 産業内貿易 ===
 
異なる産業部門での貿易を産業間貿易と呼び、同じ産業部門で行われる双方向の貿易を産業内貿易と呼ぶ。産業内貿易は経済発展が似たような国々の間で効果が大きく、[[規模の経済]]が大きく働き、製品の多様化で貿易からの利益も大きくなるためである。そのために地域主義や自由貿易協定は、産業内貿易とも関連がある。西ヨーロッパは1957年から欧州経済共同体(EEC)内の貿易が拡大して混乱も予想されたが、産業間ではなく産業内の貿易で拡大が起きたため混乱は少なかった。[[1964年]]にアメリカとカナダは自動車産業の自由貿易圏を設け、自国の生産物の種類は減るかわりに両国間でのトータルの製品数は多様化して、輸出入がともに増加した<ref>クルーグマン、オブズフェルド (2007) 第6章</ref>。
 
 
 
=== 多国籍企業 ===
 
国境を越えて業務を行う[[多国籍企業]]が増加を続けている。金融業をのぞく多国籍企業のうちで海外資産の多い100社の本社所在地は、1990年の14カ国から2008年には22カ国となり、多国籍企業は[[経済協力開発機構]](OECD)の非加盟国も含めて増加している。企業の多国籍化が増えている理由として、資源が国ごとに異なる点、現地生産で輸送費を節約できる点、貿易障壁を回避できる点がある。内部化の観点からは、製造技術や経営能力で優位に立っている企業ならば、他企業との取り引きよりも自企業が外国に進出するほうが有利となりうる。生産工程が国境を越えることを[[オフショアリング]]と呼ぶ。多国籍化が進むことで、同一企業内での国境を越える[[企業内貿易]]も増加している<ref>阿部・遠藤 (2012) 第9章</ref>。
 
 
 
=== 環境問題 ===
 
環境と貿易の関係については、1970年代から関心が高まっている。環境に関する多国間貿易協定として、[[1975年]]には絶滅の恐れがある野生動物の取り引きに関する[[ワシントン条約]]、1992年には有害廃棄物の取り引きに関する[[バーゼル条約]]が発効された。WTOの紛争解決でも環境が取り上げられるようになり、貿易制限にあたるケースが出ている。たとえば1998年には、ウミガメ保護政策を行うアメリカが、ウミガメを混獲するエビ漁法をしている国からのエビ輸入を禁止した。これに対して4カ国が貿易制限であると訴えて、WTOの紛争解決ではアメリカの貿易制限は認められなかった。2007年にはEUで化学物質の規制について[[REACH]]が実施されており、貿易にも影響を与えると考えられている<ref>阿部・遠藤 (2012) 第10章</ref>。[[排出取引|炭素排出権]]も貿易問題となり、2006年にはフランスが温室効果ガスの排出制限を設けていない国からの輸入品に税金をかけようとした。輸出側である中国、インド、ブラジルといった国々は、これを非合法の関税だとして批判している<ref>クルーグマン、オブズフェルド (2007) 第11章</ref>。
 
 
 
=== 国際機関への批判 ===
 
[[ファイル:WTO protests in Seattle November 30 1999.jpg|thumb|right|200px|WTO閣僚会議への抗議活動と警官隊(1999年11月30日)]]
 
[[1999年]]6月の[[第25回主要国首脳会議|ケルン・サミット]]では、重債務国の債務取り消しを求める[[NGO]]が、サミット会場を包囲する「人間の鎖」を作った。IMFや世界銀行に対しては、途上国への援助の条件となる構造調整政策が批判された。同年11月にシアトルで開催されたWTO閣僚会議は、抗議行動によって開会式が中止された。抗議行動は多角的貿易交渉に反対する環境団体、人権団体、消費者団体などが中心となり、人間の鎖で各国代表の入場を阻止した。抗議デモには、[[アメリカ労働総同盟・産業別組合会議]](AFL-CIO)も参加して、WTOが労働者の権利を守るように主張した。一部の抗議行動は暴動となり、非常事態宣言や夜間外出禁止令が出された<ref>長尾 (2003) 第10章</ref>。
 
 
 
=== フェアトレード ===
 
[[File:Faitrade display.jpg|200px|thumb|right|[[ダービーシャー]]のフェアトレード・ディスプレイ]]
 
途上国の貧困や国際貿易の変革を目的とする運動として、[[フェアトレード]]がある。フェアトレード4団体のネットワークである{{仮リンク|FINE|en|FINE}}の定義によれば、公正な国際貿易をめざし、特に途上国の生産者や労働者によりよい貿易条件を提供するパートナーシップとされる。初期にはオルタナティブ・トレードと呼ばれていた<ref>古屋 (2011)</ref>。
 
 
 
フェアトレードの起源はチャリティ販売にあるとされる。1946年にアメリカのキリスト教系の援助団体{{仮リンク|メノナイト中央委員会|en|Mennonite Central Committee}}が、プエルトリコの縫製教室の刺繍製品を購入して販売した。1940年代から1960年代にかけてチャリティ団体や教会が同様の販売や輸入を行い、貿易に参加していなかった途上国の生産者に機会を与えた。[[1964年]]に開催されたUNCTADでは、貿易システムを平等にする解決策が提案された。1970年以降にはコーヒーをはじめとして砂糖、紅茶、カカオなどの一次産品も販売され、1985年からフェアトレードという呼称が普及する。一次産品が増えることで専門店以外でも販売されるようになり、1989年に{{仮リンク|フェアトレード認証ラベル|en|Fairtrade labelling}}のマックス・ハーフェラー・ラベルが作られて、ラベルのシステムは成功を収める。1998年にはフェアトレード団体のネットワーク組織としてFINEが誕生して、2004年にフェアトレード・アドボカシー(FTAO)が設立されて貿易システムの改善を目的に政策提言活動を行っている。政治面では、フェアトレードを支持する自治体として[[フェアトレード・タウン]]の運動が2001年から始まった<ref>渡辺 (2007)</ref>。
 
 
 
=== サービス貿易 ===
 
通信技術の発達により、それまで国内で行われていたサービス業が国外に移転できるようになって[[サービス貿易]]が拡大した。コールセンターや事務、保険、コンサルティング、ファイナンス、翻訳などが一例であり、サービスのオフショアリングとも呼ばれている。2005年のアメリカでは、遠隔地で取り引きできる仕事は全雇用の40パーセントにあたり、その内訳は製造業の12パーセントよりもサービス業が14パーセントと多い。2005年の世界貿易の構成比は工業製品が59パーセントでサービスが19パーセントだが、サービス貿易の増加が予想されている。WTOでは、サービス貿易については[[GATS]]で扱われている<ref>クルーグマン、オブズフェルド (2007) 第1章</ref>。
 
 
 
=== 知的財産権 ===
 
貿易における[[知的財産権]]の重要性も増している。特許権、実用新案権、著作権、意匠権、商標権などの知的財産権に関わる財の取り引きが急増しており、医薬品、ハイテク製品、CD、映画、ソフトウェア、アパレルなどが含まれる。特許権では1883年の[[工業所有権の保護に関するパリ条約|パリ条約]]、著作権では1886年の[[ベルヌ条約]]がすでに存在していたが、既存の国際協定だけでは保護が不十分であるとして、[[TRIPS]]が成立した。1996年には、[[世界知的所有権機関と世界貿易機関との協定]]も発効している<ref>山田 (2003) p.165</ref><ref>阿部・遠藤 (2012) p.309</ref>。
 
 
 
=== 経済統合 ===
 
; ヨーロッパ
 
[[File:European Union History.svg|250px|thumb|right|欧州統合の推移]]
 
GATTやWTOが自由貿易を推進する一方で、地域単位の協力関係を制度化する[[地域主義]]が活発となった。まず、西ヨーロッパでの取り組みによってヨーロッパの統合が進む。第二次世界大戦後のヨーロッパ経済の復興策として、アメリカによる[[マーシャル・プラン]]が進められた。1947年にマーシャル・プランのもとで欧州経済協力委員会(CEEC)が設立され、アメリカから西ヨーロッパ諸国へ余剰農産物や生産物の援助が行われた。マーシャル・プランでは貿易決済が簡略化されており、参加国は輸出によって国内通貨が自動的に供給される仕組みになっていた。これによって賠償支払いも容易となり、西ヨーロッパ域内の貿易が急増するきっかけとなる。[[1951年]]には[[欧州石炭鉄鋼共同体]](ECSC)が設立され、ドイツ、ベルギー、フランス、イタリア、ルクセンブルク、オランダが参加して成功を収めた。[[1958年]]にはECSCの参加6カ国によって[[欧州経済共同体]](EEC)が設立され、[[1967年]]に共通の行政組織として[[欧州共同体]](EC)が設立された。[[1973年]]にはイギリス、デンマーク、アイルランドがECに加盟して、イギリスはそれまで貿易が多かったアメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドに比べてヨーロッパ向けの貿易が増加した<ref>猪木 (2009) 第3章</ref>。[[1993年]]には[[欧州連合]](EU)が成立して、[[1999年]]には単一通貨[[ユーロ]]による[[欧州通貨統合]]も開始された。
 
 
 
; 自由貿易協定の増加
 
[[自由貿易協定]](FTA)は1957年のEECが第1号とされており、1990年代から急増した。WTOの多角的貿易交渉よりも、小規模なFTAが短期間で成果を上げるという認識が各国に広まったのも原因とされる<ref>長尾 (2003) 第10章</ref>。FTAが関税や流通を主なテーマとするのに対して、[[知的財産権]]や投資も含めて関係を強化する条約として[[経済連携協定]](EPA)がある<ref>阿部・遠藤 (2012) 第10章</ref>。
 
 
 
北アメリカでは[[1988年]]に{{仮リンク|米加自由貿易協定|en|Canada–United States Free Trade Agreement}}が締結され、1993年にアメリカ、カナダ、メキシコで[[北米自由貿易協定]](NAFTA)が成立した。南アメリカでは1995年に関税同盟として[[メルコスール]]が発足して、域内での自由貿易を進めている。アフリカでは[[ロメ協定]]ののち、2000年に[[コトヌー協定]]が締結されてEPAを目標としている。南アジアでは1985年に[[南アジア地域協力連合]](SAARC)が設立され、当初は政治・軍事問題を中心に話し合われた。1997年の第9回首脳会議では、域内貿易を自由化する{{仮リンク|南アジア自由貿易圏|en|South Asian Free Trade Area}}(SAFTA)の構想について合意がなされ、2006年にSAFTAが発足した。東アジアでは、[[1989年]]に[[アジア太平洋経済協力会議]](APEC)、1993年に[[ASEAN自由貿易地域]](AFTA)が成立した。[[2006年]]からは、環太平洋地域の国々におけるEPAとして、[[環太平洋戦略的経済連携協定]](TPP)が発効している<ref>阿部・遠藤 (2012) 第10章</ref>。
 
 
 
== 出典 ==
 
{{Reflist|3}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
=== 書籍 ===
 
* [[青山和夫 (考古学者)|青山和夫]]・[[猪俣健]] 『メソアメリカの考古学』 同成社、1997年。
 
* [[秋道智彌]] 「オセアニアの地域史」([[川田順造]]・[[大貫良夫]]編 『生態の地域史』 山川出版社、2000年。)
 
* [[秋元英一]] 『世界大恐慌 - 1929年に何がおこったか』 講談社〈講談社学術文庫〉、2009年。
 
* [[浅田實]] 『東インド会社 - 巨大商業資本の盛衰』 講談社〈講談社現代新書〉、1989年。
 
* [[阿部顕三]]・[[遠藤正寛]] 『国際経済学』 有斐閣〈有斐閣アルマ〉、2012年。
 
* [[荒川正晴]] 『ユーラシアの交通・交易と唐帝国』 名古屋大学出版会、2010年。
 
* [[安野眞幸]] 『教会領長崎 - イエズス会と日本』 講談社〈講談社選書メチエ〉、2014年。
 
* [[生田滋]] 『大航海時代とモルッカ諸島 - ポルトガル、スペイン、テルテナ王国と丁字貿易』 中央公論新社〈中公新書〉、1998年。
 
* [[池本幸三]]・[[布留川正博]]・[[下山晃]] 『近代世界と奴隷制 - 大西洋システムの中で』 人文書院、2003年。
 
* [[石澤良昭]]・生田滋 『東南アジアの伝統と発展』 中央公論新社〈世界の歴史13〉、1998年。
 
* [[猪木武徳]] 『戦後世界経済史 - 自由と平等の視点から』 中央公論新社〈中公新書〉、2009年。
 
* [[シルヴィア・ヴァン・カーク]], ''Many Tender Ties: Women in Fur-Trade Society, 1670-1870.'' (1999)  邦訳『優しい絆 - 北米毛皮交易社会の女性史1670-1870』 木村和男・田中俊弘訳、麗澤大学出版会、2014年。
 
* [[上里隆史]] 『海の王国・琉球 - 「海域アジア」屈指の交易国家の実像』 洋泉社〈歴史新書〉、2012年。
 
* {{仮リンク|ジャック・ウェザーフォード|en|Jack Weatherford}}, ''Genghis Khan and the Making of the Modern World'' (2004) 邦訳『{{仮リンク|パックス・モンゴリカ - チンギス・ハンがつくった新世界|en|Genghis Khan and the Making of the Modern World}}』 星川淳監訳、横堀冨佐子訳、NHK出版、2006年。
 
* [[上田信 (歴史学者)|上田信]] 『東ユーラシアの生態環境史』 山川出版社〈世界史リブレット〉、2006年。
 
* [[コーネリアス・ウォルフォード]], ''Fairs, Past and Present'' (1883) 邦訳『市の社会史』 中村勝訳、そしえて、1984年。
 
* [[臼井佐知子]] 「中国江南における徽州商人とその商業活動」([[佐藤次高]]・[[岸本美緒]]編 『市場の地域史』 山川出版社、1999年。)
 
* [[臼井隆一郎]] 『コーヒーが廻り世界史が廻る - 近代市民社会の黒い血液』 中央公論新社〈中公新書〉、1992年。
 
* [[榎本渉]] 「板渡の墨蹟と日宋貿易」(四日市康博編著 『モノから見た海域アジア史 - モンゴル〜宋元時代のアジアと日本の交流』 九州大学出版会、2008年。)
 
* [[デイヴィッド・エルティス]]・[[デイヴィッド・リチャードソン]], ''Atlas of the Transatlantic Slave Trade'' (2010) 邦訳『環大西洋奴隷貿易歴史地図』 増井志津代訳、東洋書林、2012年。
 
* [[遠藤仁 (考古学者)|遠藤仁]] 「工芸品から見たインダス文明期の流通」([[長田俊樹]]編 『インダス - 南アジア基層世界を探る』 京都大学学術出版会、2013年。)
 
* [[大津忠彦]]・[[常木晃]]・[[西秋良宏]] 『西アジアの考古学』 同成社、1997年。
 
* [[大野健一]]・[[桜井宏二郎]] 『東アジアの開発経済学』 有斐閣〈有斐閣アルマ〉、1997年。
 
* [[大村幸弘]] 『アナトリア発掘記 - カマン・カレホユック遺跡の二十年』 日本放送出版協会〈NHKブックス〉、2004年。
 
* [[鹿毛敏夫]] 『アジアのなかの戦国大名 - 西国の群雄と経営戦略』 吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー〉、2015年。
 
* [[加藤博]] 『文明としてのイスラム』 東京大学出版会、1995年。
 
* [[可児弘明]] 「海上民のさまざまな顔 - 中国・東南アジア・日本をめぐって」(家島彦一・[[渡辺金一]]編 『イスラム世界の人びと4 海上民』 東洋経済新報社、1984年。)
 
* [[辛島昇]]編 『世界各国史7 南アジア史』 山川出版社、2004年。
 
* [[河原温 (歴史学者)|河原温]] 『ブリュージュ - フランドルの輝ける宝石』 中央公論新社〈中公新書〉、2006年。
 
* [[菊池俊彦]] 『オホーツクの古代史』 平凡社〈平凡社新書〉、2009年。
 
* [[木村和男]] 『毛皮交易が創る世界 - ハドソン湾からユーラシアへ』 岩波書店、2004年。
 
* [[木村秀雄]] 「アマゾニア熱帯雨林の生態系と社会史」(川田順造・大貫良夫編 『生態の地域史』 山川出版社、2000年。)
 
* [[木村李花子]] 「カッチ湿原が生んだ幻のロバ - 古代における野の育種」(長田俊樹編 『インダス - 南アジア基層世界を探る』 京都大学学術出版会、2013年。)
 
* [[チャールズ・キンドルバーガー]]・[[ロバート・アリバー]], ''Manias, Panics, and Crashes: A History of Financial Crises'' (1978) 邦訳『熱狂、恐慌、崩壊 - 金融危機の歴史』 高遠裕子訳、日本経済新聞出版社、2014年。
 
* [[熊野聰]] 『ヴァイキングの経済学 - 略奪・贈与・交易』 山川出版社、2003年。
 
* [[フィリップ・ジェイムズ・ハミルトン・グリァスン]], ''The Silent Trade'' (1903) 邦訳『沈黙交易 - 異文化接触の原初的メカニズム序説』 中村勝訳、ハーベスト社、1997年。
 
* [[栗田伸子]]・[[佐藤育子]] 『通商国家カルタゴ』 講談社〈講談社学術文庫〉、2016年。
 
* [[栗本慎一郎]] 『経済人類学』 講談社〈講談社学術文庫〉、2013年。
 
* [[ケヴィン・グリーン]], ''Archaeology of the Roman Economy'' (1986) 邦訳『ローマ経済の考古学』 本村凌二監修、池口守・井上秀太郎訳、平凡社、1999年。
 
* [[ポール・クルーグマン]]・[[モーリス・オブズフェルド]], ''International economics : Theory and policy'' (2007) 邦訳『クルーグマンの国際経済学 上 貿易編』 山本章子訳、丸善出版、2014年。
 
* {{仮リンク|ホルスト・クレンゲル|de|Horst Klengel}}, ''Geschichte und Kultur Altsyriens'' (1980)  邦訳『古代シリアの歴史と文化 - 東西文化のかけ橋』 五味亨訳、六興出版、1991年。
 
* [[黒田明伸]] 『貨幣システムの世界史 - 〈非対称性〉をよむ(増補新版)』 岩波書店、2014年。
 
* [[小林登志子]] 『五〇〇〇年前の日常 - シュメル人たちの物語』 新潮社〈新潮選書〉、2007年。
 
* [[小林致広]] 「[http://ir.minpaku.ac.jp/dspace/handle/10502/2874 アステカ社会における衣裳と職務 - アステカ王権に関する一考察]」 国立民族学博物館研究報告9巻4号、国立民族学博物館、1985年。
 
* [[小松久男]]編 『世界各国史4 中央ユーラシア史』山川出版社、2000年。
 
* [[坂井信三]] 『イスラームと商業の歴史人類学 - 西アフリカの交易と知識のネットワーク』 世界思想社、2003年。
 
* [[坂口明]] 「ローマ時代の商業と商人のネットワーク」(歴史学研究会編 『ネットワークのなかの地中海』 青木書店、1999年。)
 
* [[坂本勉]] 「中東イスラーム世界の国際商人」(『岩波講座 世界歴史15 商人と市場』 岩波書店、1999年。)
 
* [[桜井由躬雄]] 「東アジアと東南アジア」(濱下武志編 『東アジア世界の地域ネットワーク』 国際文化交流推進協会、1999年。)
 
* [[佐々木史郎]] 『北方から来た交易民 - 絹と毛皮とサンタン人』 日本放送出版協会〈NHKブックス〉、1996年。
 
* [[佐藤彰一]]・[[池上俊一]] 『西ヨーロッパ世界の形成』 中央公論新社〈世界の歴史10〉、1997年。
 
* [[古屋欣子]] 「フェアトレードの歴史と展開」([[佐藤寛]]編 『フェアトレードを学ぶ人のために』 世界思想社、2011年。)
 
* [[マーシャル・サーリンズ]], ''Stone Age Economics'' (1974) 邦訳『石器時代の経済学』 山内昶訳、法政大学出版局〈叢書・ウニベルシタス〉、2012年。
 
* [[斯波義信]] 『華僑』 岩波書店〈岩波新書〉、1995年。
 
* [[清水廣一郎]] 「地中海商業と海賊 - 中世イタリアの小話から」(家島彦一・渡辺金一編 『イスラム世界の人びと4 海上民』 東洋経済新報社、1984年。)
 
* {{仮リンク|ヘルマン・シュライバー|de|Hermann Schreiber (Historiker)}}, ''Weltgeschichte der Seefahrt'' (1973) 邦訳『航海の世界史』 杉浦健之訳、白水社、2010年。
 
* [[白石隆]] 『海の帝国 - アジアをどう考えるか』 中央公論新社〈中公新書〉、2000年。
 
* [[菅谷成子]] 「マニラの中国人」(濱下武志編 『東アジア世界の地域ネットワーク』 国際文化交流推進協会、1999年。)
 
* [[瀬川拓郎]] 『アイヌの沈黙交易 - 奇習をめぐる北東アジアと日本』 新典社〈新典社新書〉、2013年。
 
* [[関雄二]] 『アンデスの考古学』 同成社、2010年。
 
* [[ジャレド・ダイアモンド]], ''Guns, Germs, and Steel: the Fates of Human Societies'', (1997) 邦訳『{{仮リンク|銃・病原菌・鉄 - 1万3000年にわたる人類史の謎|en|Guns, Germs, and Steel}}(上・下)』 倉骨彰訳、草思社〈草思社文庫〉、2012年。
 
* [[高宮いづみ]] 『古代エジプト - 文明社会の形成』 京都大学学術出版会〈学術選書〉、2006年。
 
* [[高山博]] 『中世シチリア王国』 講談社〈講談社現代新書〉、1999年。
 
* [[武田幸男]]編 『世界各国史2 朝鮮史』 山川出版社、2000年。
 
* [[多田井喜生]] 『大陸に渡った円の興亡(上下)』 東洋経済新報社、1997年。
 
* [[田中健夫]] 『東アジア通交圏と国際認識』 吉川弘文館、1997年。
 
* [[谷澤毅]] 「近世ドイツ・中欧の大市」(山田雅彦編 『伝統ヨーロッパとその周辺の市場の歴史 市場と流通の社会史1』 清文堂出版、2010年。)
 
* [[玉木俊明]] 『近代ヨーロッパの形成 - 商人と国家の世界システム』 創元社、2012年。
 
* [[テレンス・N・ダルトロイ]], ''Funding the Inca Empire'' (2012) 邦訳「インカ帝国の経済的基盤」竹内繁訳([[島田泉 (考古学者)|島田泉]]・[[篠田謙一]]編 『インカ帝国 - 研究のフロンティア』 東海大学出版会〈国立科学博物館叢書〉、2012年。)
 
* [[角谷英則]] 『ヴァイキング時代』 京都大学学術出版会〈学術選書〉、2006年。
 
* [[角山栄]] 『茶の世界史 - 緑茶の文化と紅茶の社会』 中央公論新社〈中公新書〉、1980年。
 
* [[鶴見良行]] 『海道の社会史 - 東南アジア多島海の人びと』 朝日新聞社〈朝日選書〉、1987年。
 
* [[東野治之]] 『貨幣の日本史』 朝日新聞社〈朝日選書〉、1997年。
 
* 東野治之 『遣唐使』 岩波書店〈岩波新書〉、2007年。
 
* [[内藤雅雄]]・[[中村平治]]編 『南アジアの歴史 - 複合的社会の歴史と文化』 有斐閣〈有斐閣アルマ〉、2006年。
 
* [[中沢勝三]] 「ネーデルラントから見た地中海」(歴史学研究会編 『ネットワークのなかの地中海』 青木書店、1999年。)
 
* [[中村誠一 (考古学者)|中村誠一]] 『マヤ文明を掘る - コパン王国の物語』  日本放送出版協会〈NHKブックス〉、2007年。
 
* [[長澤和俊]] 『シルクロード』 講談社〈講談社学術文庫〉、1993年。
 
* [[永田雄三]] 「アレッポ市場圏の構造と機能」(佐藤次高・岸本美緒編 『市場の地域史』 山川出版社、1999年。)
 
* [[永積昭]] 『オランダ東インド会社』 講談社〈講談社学術文庫〉、2000年。
 
* [[永積洋子]] 「東西交易の中継地台湾の盛衰」(佐藤次高・岸本美緒編 『市場の地域史』 山川出版社、1999年。)
 
* [[野林健]]・[[大芝亮]]・[[納家政嗣]]・[[山田敦]]・[[長尾悟]] 『国際政治経済学・入門』 有斐閣〈有斐閣アルマ〉、2003年。
 
* [[橋本毅彦]] 『「ものづくり」の科学史』 講談社〈講談社学術文庫〉、2013年。
 
* [[服部正治]] 『自由と保護 - イギリス通商政策論史』 ナカニシヤ出版、2002年。
 
* [[イブン・バットゥータ]], ''tuḥfat al-naẓār fī ġarāʾib al-ʾamṣār wa-ʿaǧāʾib al-ʾasfār'' (1355) 邦訳『[[大旅行記]](全8巻)』 イブン・ジュザイイ編、家島彦一訳、平凡社〈平凡社東洋文庫〉、1996-2002年。
 
* [[濱下武志]] 『朝貢システムと近代アジア』 岩波書店、1997年。
 
* [[平野克己]] 『アフリカ問題 - 開発と援助の世界史』 日本評論社、2009年。
 
* 平野克己 『経済大陸アフリカ - 資源、食糧問題から開発政策まで』 中央公論新社〈中公新書〉、2013年。
 
* [[ティモシー・ブルック]], ''Vermeer's Hat'' (2009) 邦訳『{{仮リンク|フェルメールの帽子 - 作品から読み解くグローバル化の夜明け|en|Vermeer's Hat}}』 本野英一訳、岩波書店、2014年。
 
* [[フェルナン・ブローデル]], ''La Méditerranée et le Monde Méditerranéen a l'époque de Philippe II'' (1949) 邦訳『{{仮リンク|地中海II - 集団の動きと全体の動き1|fr|La Méditerranée et le monde méditerranéen à l'époque de Philippe II}}』 浜名優美訳、藤原書店、1992年。
 
* [[ジュディス・ヘリン]], ''Byzantium: the Surprising Life of a Medieval Empire'' (2008) 邦訳『ビザンツ - 驚くべき中世帝国』 [[井上浩一 (歴史学者)|井上浩一]]監訳、足立広明・中谷功治・[[根津由喜夫]]・高田良太訳、白水社、2010年。
 
* [[エリック・ホブズボーム]], ''The Age of Empire, 1875-1914'' (1987) 邦訳『{{仮リンク|帝国の時代 1875-1914|en|The Age of Empire: 1875–1914}}(1・2)』 野口建彦・長尾史郎・野口照子訳、みすず書房、1993-1998年。
 
* [[ケネス・ポメランツ]], ''The great divergence: China, Europe, and the making of the modern world economy'' (2000) 邦訳『大分岐 - 中国、ヨーロッパ、そして近代世界経済の形成』 川北稔監訳、名古屋大学出版会、2015年。
 
* ケネス・ポメランツ・[[スティーヴン・トピック]], ''The world that trade created: society, culture, and the world economy, 1400-the present'' (2009) 邦訳『グローバル経済の誕生 - 貿易が作り変えたこの世界』 福田邦夫・吉田敦訳、筑摩書房、2013年。
 
* [[カール・ポランニー]], ''The Livelihood of Man'' (1977) 邦訳『[[人間の経済]] 1』 玉野井芳郎・栗本慎一郎訳 / 『人間の経済 2』 玉野井芳郎・中野忠訳、岩波書店〈岩波モダンクラシックス〉、2005年。
 
* [[イシュトファン・ホント]], ''Jealousy of trade: international competition and the nation-state in historical perspective'' (2005) 邦訳『貿易の嫉妬 - 国際競争と国民国家の歴史的展望』 田中秀夫監訳、昭和堂、2009年。
 
* [[前沢伸行]] 「古代ギリシアの商業と国家」(樺山紘一・他編 『岩波講座 世界歴史15 商人と市場』 岩波書店、1999年。)
 
* [[前嶋信次]] 『生活の世界歴史7 - イスラムの蔭に』 河出書房新社〈河出文庫〉、1991年。
 
* [[ウィリアム・ハーディー・マクニール|ウィリアム・H・マクニール]], ''Venice: the Hinge of Europe, 1081-1797'' (1974) 邦訳『ヴェネツィア - 東西ヨーロッパのかなめ、1081-1797』 清水廣一郎訳、講談社〈講談社学術文庫〉、2013年。
 
* {{仮リンク|ラース・マグヌソン|sv|Lars Magnusson (ekonomhistoriker)}}, ''Nation, state and the industrial revolution'' (2009)  邦訳『産業革命と政府 - 国家の見える手』 玉木俊明訳、知泉書館、2012年。
 
* [[松本涼]] 「中世アイスランドと北大西洋の流通」(山田雅彦編 『伝統ヨーロッパとその周辺の市場の歴史』 清文堂、2010年。)
 
* [[丸山裕美子]] 『正倉院文書の世界 - よみがえる天平の時代』 中央公論新社〈中公新書〉、2010年。
 
* [[ブロニスワフ・マリノフスキ]], ''Argonauts of the Western Pacific: An account of native enterprise and adventure in the Archipelagoes of Melanesian New Guinea'' (1922) 邦訳『[[西太平洋の遠洋航海者]]』 増田義郎編訳、講談社〈講談社学術文庫〉、2010年。
 
* [[宮内崇裕]]・[[奥野淳一]] 「海岸線環境の変化と湾岸都市の盛衰」(長田俊樹編 『インダス - 南アジア基層世界を探る』 京都大学学術出版会、2013年。)
 
* [[宮崎正勝]] 『イスラム・ネットワーク - アッバース朝がつなげた世界』 講談社〈講談社選書メチエ〉、1994年。
 
* [[宮本正興]]・[[松田素二]]編 『新書アフリカ史』 講談社〈講談社現代新書〉、1997年。
 
* [[村川堅太郎]]訳註 『[[エリュトゥラー海案内記]]』 中央公論新社〈中公文庫〉、2011年。
 
* [[マリア・ロサ・メノカル]], ''The Ornament of the World: How Muslims, Jews, and Christians Created a Culture of Tolerance in Medieval Spain'' (2002) 邦訳『寛容の文化 - ムスリム、ユダヤ人、キリスト教徒の中世スペイン』 足立孝訳、名古屋大学出版会、2005年。
 
* [[マルセル・モース]], ''Essai sur le don: forme et raison de l'échange dans les sociétés archaïques'' (1925) 邦訳『[[贈与論]] 他二篇』 森山工訳、岩波書店〈岩波文庫〉、2009年。
 
* [[森達也]] 「アジアの海を渡った龍泉青磁」(四日市康博編著 『モノから見た海域アジア史 - モンゴル〜宋元時代のアジアと日本の交流』 九州大学出版会、2008年。)
 
* [[森永貴子]] 『北太平洋世界とアラスカ毛皮交易 - ロシア・アメリカ会社の人びと』 東洋書店〈ユーラシア・ブックレット〉、2014年。
 
* [[屋形禎亮]] 「古代エジプト」 (樺山紘一・他編 『岩波講座 世界歴史2 オリエント世界』 岩波書店、1998年。)
 
* [[ダニエル・ヤーギン]], ''The Prize: the Epic Quest for Oil, Money, and Power'' (1991) 邦訳『{{仮リンク|石油の世紀 - 支配者たちの興亡|en|The Prize: The Epic Quest for Oil, Money, and Power}}(上・下)』 日高義樹・持田直武訳、日本放送出版協会、1991年。
 
* [[家島彦一]] 『海域から見た歴史 - インド洋と地中海を結ぶ交流史』 名古屋大学出版会、2006年。
 
* {{仮リンク|V・L・ヤーニン|ru|Янин, Валентин Лаврентьевич}}, ''Я послал тебе бересту'', (1998) 邦訳『白樺の手紙を送りました - ロシア中世都市の歴史と日常生活』 松木栄三・三浦清美訳、山川出版社、2001年。
 
* [[山田勝芳]] 『貨幣の中国古代史』 朝日新聞社〈朝日選書〉、2000年。
 
* [[山田豪一]]編 『オールド上海 阿片事情』 亜紀書房、1995年。
 
* [[山田雅彦]] 「ヨーロッパの都市と市場」(佐藤次高・岸本美緒編 『市場の地域史』 山川出版社、1999年。)
 
* [[山本紀夫]] 「作物と家畜が変えた歴史」(川田順造・大貫良夫編 『生態の地域史』 山川出版社、2000年。)
 
* [[山本真鳥]]編 『世界各国史27 オセアニア史』 山川出版社、2000年。
 
* [[湯浅赳男]] 『文明の「血液」 - 貨幣から見た世界史(増補新版)』 新評論、1998年。
 
* [[湯川武]] 「ユダヤ商人と海 - ゲニザ文書から」(家島彦一・渡辺金一編 『イスラム世界の人びと4 海上民』 東洋経済新報社、1984年。)
 
* [[四日市康博]] 「銀と銅銭のアジア海道」(四日市康博編著 『モノから見た海域アジア史 - モンゴル〜宋元時代のアジアと日本の交流』 九州大学出版会、2008年。)
 
* [[アンソニー・リード]], ''Southeast Asia in the age of commerce, 1450-1680'' (1988-1993) 邦訳『大航海時代の東南アジア 1450-1680年(1・2)』 平野秀秋・田中優子訳、法政大学出版局、1997年-2002年。
 
* [[和田春樹]]編 『世界各国史22 ロシア史』 山川出版社、2004年。
 
 
 
=== 論文・雑誌記事 ===
 
* [[明石茂生]] 「[http://www.seijo.ac.jp/research/economics/publications/annual-report/jtmo420000000mtr-att/keiken_nenpo28_akashi.pdf 古代メソポタミアにおける市場,国家,貨幣]」 成城大学経済研究所年報 (28)、2015年。
 
* [[石坂昭雄]] 「[https://sapporo-u.repo.nii.ac.jp/index.php?action=repository_action_common_download&item_id=6985&item_no=1&attribute_id=18&file_no=1&page_id=13&block_id=17 ムルタトゥーリ『マックス・ ハーフェラール, もしくはオランダ商事会社のコーヒー競売』とその時代 - オランダ近代史の光と影]」 札幌大学総合論叢 第36号、2013年。
 
* [[大貫良夫]] 「[http://ir.minpaku.ac.jp/dspace/bitstream/10502/2728/1/KH_003_4_003.pdf アンデス高地の環境利用 - 垂直統御をめぐる問題]」 国立民族学博物館研究報告 (3)、1979年。
 
* [[齊藤寛海]] 「[http://pacioli.world.coocan.jp/AAAJ/AAA_No.24_2011_12.pdf ペゴロッティの商業実務とバドエルの元帳]」 日本パチョーリ協会第23回フォーラム、2011年。
 
* [[齋藤光正]] 「[http://reposit.sun.ac.jp/dspace/bitstream/10561/547/1/v38n3p41_saito.pdf 欧州初期商業学の形成]」 長崎県立大学学術リポジトリ、2004年。
 
* [[篠田英朗]] 「[http://home.hiroshima-u.ac.jp/heiwa/Pub/35/Part11.pdf アフリカにおける天然資源と武力紛争 - 内戦の政治経済学の観点から]」([[小柏葉子]]編 『資源管理をめぐる紛争の予防と解決』平和科学研究センター、2005年。)
 
* [[田中英道]]・[[田中俊子]]訳注 「[http://ci.nii.ac.jp/naid/110002959230 ペゴロッティ『商業指南』・訳と註釈]」 イタリア学会誌 (33)、1984年。
 
* [[名城邦夫]] 「[http://www2.ngu.ac.jp/uri/syakai/pdf/syakai_vol4501_02.pdf 中世後期・近世初期西ヨーロッパ・ドイツにおける支払決済システムの成立 - アムステルダム市立為替銀行の意義]」 名古屋学院大学論集社会科学篇 第45巻 第1号、2008年。
 
* [[渡辺龍也]] 「[http://repository.tku.ac.jp/dspace/bitstream/11150/368/1/genhou14-03.pdf フェアトレードの形成と展開 : 国際貿易システムへの挑戦]」 現代法学、2007年。
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Colbegin}}
 
* [[会計史]]
 
* [[開発経済学]]
 
* [[貨幣史]]
 
* [[グローバリズム]]
 
* [[経済史]]
 
* [[経済地理学]]
 
* [[国際金融]]
 
* [[国際経済学]]
 
* [[国際経済法]]
 
* [[国際政治経済学]]
 
* [[国際貿易]]
 
* [[商業史]]
 
* [[世界システム]]
 
* [[世界の一体化]]
 
* [[日本の貿易史]]
 
* [[貿易理論]]
 
{{Colend}}
 
 
 
== 外部リンク ==
 
;全て英語
 
*[http://www.freetrade.org/ Freetrade.org]
 
*[http://www.intracen.org International Trade Centre]
 
*[http://www.fita.org/webindex/ FITA's Really Useful Links for International Trade]
 
*[http://web.worldbank.org/WBSITE/EXTERNAL/TOPICS/TRADE/0,,contentMDK:20103741~menuPK:167374~pagePK:148956~piPK:216618~theSitePK:239071,00.html World Bank's Trade and Production Database]
 
 
 
{{Good article}}
 
 
 
{{DEFAULTSORT:ほうえきし}}
 
[[Category:経済史]]
 
[[Category:交易の歴史]]
 
[[Category:貿易]]
 

2019/4/27/ (土) 10:45時点における最新版



楽天市場検索: