西本願寺

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西本願寺
所在地 京都府京都市下京区堀川通花屋町下ル門前町60
位置 東経135度45分5.8秒北緯34.9920472度 東経135.751611度34.9920472; 135.751611
山号 龍谷山
豅山
宗旨 浄土真宗
宗派 浄土真宗本願寺派
寺格 本山
本尊 阿弥陀如来
創建年 大谷本願寺 - 元亨元年(1321年)
西本願寺 - 天正19年(1591年)
開基 大谷本願寺 - 本願寺第3世・覚如
西本願寺 - 本願寺第11世・顕如
中興年 文明3年(1471年)頃
中興 本願寺第8世・蓮如
正式名 龍谷山 本願寺
別称 お西さん
文化財国宝)書院、飛雲閣
重要文化財)絹本著色聖徳太子像、
公式HP 本願寺(西本願寺)
地図
京都盆地における位置
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西本願寺(にしほんがんじ)は、京都市下京区にある仏教寺院浄土真宗本願寺派本山である。山号は龍谷山(りゅうこくざん)。

西本願寺は通称であり、正式名称は「龍谷山 本願寺」、宗教法人としての名称は「本願寺」である。京都市民からは「お西さん」の愛称でも親しまれている。真宗大谷派の本山である「東本願寺」(正式名称「真宗本廟」)と区別するため、両派の本山は通称で呼ばれることが多い。文永7年(1272年)、親鸞の廟堂として京都東山の吉水の地に創建された。その後、比叡山延暦寺から迫害を受けるなど場所は転々とし、現在地には天正19年(1591年)、豊臣秀吉の寄進により大坂天満から移転した(詳細は後述「歴史」の項参照)。

境内は国の史跡に指定され、「古都京都の文化財」として世界遺産にも登録されている。[注釈 1]

本願寺住職浄土真宗本願寺派門主となる。

文化財

境内には桃山文化を代表する建造物や庭園が数多く残されており、平成6年(1994年)に国の史跡に指定され、同年12月にユネスコ文化遺産に「古都京都の文化財」として登録されている。

建物の配置と構造は東向きを原則とする真宗建築の典型で、親鸞聖人像が安置されている御影堂(ごえいどう)が、北隣の本堂(阿弥陀堂)よりも大きく造られている。これは本願寺がそもそも宗祖親鸞の廟堂として始まったためである。寛永13年(1636年)に再建された御影堂は、「寛政の大修復」寛政12年(1800年)及び「平成大修復」(1999年 - 2008年12月)と2回の大修復を経ている。

なお、西本願寺や東本願寺では「ごえいどう」と呼称する[1][2]が、専修寺真宗高田派[3][4]知恩院浄土宗[5]では「みえいどう」と呼称する。

国宝

国宝建造物の詳細は、後述「国宝の建造物」の節を参照のこと。

重要文化財

建造物

  • 玄関、浪之間、虎之間、太鼓之間 1棟
  • 能舞台(南能舞台)附:橋掛
  • 浴室(黄鶴台)附:廻廊
  • 本願寺 7棟[8][注釈 2]
    • 経蔵
    • 鐘楼
    • 手水所
    • 鼓楼
    • 御影堂門
    • 阿弥陀堂門
    • 総門
    • 附 御成門
    • 附 目隠塀
    • 附 築地塀 3棟
  • 旧真宗信徒生命保険株式会社本館(本願寺伝道院)(下京区油小路通正面下る玉本町所在)[9]

美術工芸品

  • 絹本著色聖徳太子像
  • 紙本著色親鸞・如信覚如三上人像
  • 紙本著色善信上人絵(琳阿本) 2巻
  • 紙本著色慕帰絵詞 画隆章、隆昌、久信筆 10巻
  • 絹本著色雪中柳鷺図(伝趙仲穆筆) 
  • 絹本著色親鸞聖人絵伝 6幅
  • 銅鐘(梵鐘
  • 歎異抄』 2巻 蓮如書写奥書
  • 教行信証』 6冊
  • 『唯信抄』 親鸞筆 
  • 『浄土三経往生文類』 自筆本(略本)
  • 尊円親王詩歌書巻 自筆本(鷹手本)
  • 版本『浄土論註』 上下 2帖 建長8年親鸞加点奥書
  • 伏見天皇宸翰歌集』(99首)
  • 栄花物語』 15帖
  • 恵信尼自筆書状類 覚信尼宛 (10通)
  • 証如上人極官関係文書 3幅、2巻
  • 親鸞自筆書状類(4通) 2巻
  • 『天文日記(光教日記)』自筆本 56冊、11巻
  • 本願寺御影堂留守職歴代譲状(18通)12巻 附 本願寺留守職相伝系図3通、光佐以下歴代譲状(6通)4巻2通

※ 典拠:2000年までの指定物件については『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。

史跡

特別名勝・史跡

  • 本願寺書院庭園

名勝

  • 滴翠園

国宝の建造物

ファイル:Meeting room Nishi Honganji.jpg
書院(対面所上段・国宝)
ファイル:Shiroshoin Nishi Honganji.jpg
白書院三之間から一之間を望む(国宝)
ファイル:Northern Noh Stage.jpg
北能舞台(国宝)
ファイル:Honganji Plan.jpg
境内略図 1.御影堂門、2.阿弥陀堂門、3.唐門、4.御影堂、5.阿弥陀堂、6.大銀杏、7.書院、8.庭園(百華園)、9.飛雲閣、10.鐘楼
ファイル:Honganji Daishoin Plan.gif
書院配置図 1.対面所(鴻ノ間)、2.雀ノ間、3.雁ノ間、4.菊ノ間、5.白書院、6.黒書院、7.南能舞台、8.北能舞台、9.虎渓の庭、10.虎ノ間、11.浪ノ間及び玄関
書院(対面所及び白書院)
御影堂の南西に位置する。近世書院造を代表する建築の一つである。入母屋造妻入り、本瓦葺きで、平面規模は桁行(本建物の場合は奥行)38.5メートル、梁行(間口)29.5メートル。南側の対面所と北側の白書院から成るが、両者は元来別々の建物であった。本建物を豊臣秀吉伏見城の遺構とするのは俗説で、実際は後述のとおり江戸時代に西本願寺自身により建てられた建物である。
対面所の主室は欄間に雲と鴻(コウノトリ)を透彫りにするところから、「鴻の間」とも呼ばれる。広さは下段のみで162畳、上段を含め203畳、天井は格天井とする。、壁等の障壁画は本願寺お抱え絵師の渡辺了慶の筆と推定されている。正面奥(北側)は東西方向に長大な上段とし、中央に大床(おおどこ)、左に帳台構を設ける。上段の東には床高をさらに一段高めた上々段があり、違い棚と付書院を設ける。能舞台を持つ広庭に南面する広大なスペース、無目敷居による下段の三列二段の区画など、住宅建築としての書院造から儀式空間である対面所に特化した書院造の姿を見せる。この広大な平面については、真宗の本堂建築を基本に、その内陣に代えて上段、上々段、帳台構など書院造の要素を付加したものとの指摘もある。この対面所の西側には控えの間である雀の間、雁の間、菊の間があり、北側には納戸2室を挟んで白書院がある。白書院は西から東へ三の間、二の間、一の間(紫明の間)からなる。一の間には変形10畳の上段があり、床、棚、付書院、帳台構を備える。なお、対面所と白書院三の間は、畳を上げると板敷きで、能舞台としても使用できるように工夫されている。
寺の文書によれば、対面所は元和3年(1617年)の火災で失われた対面所に代わって火災の翌年に再建された建築である。当初は現御影堂付近に東向きに建てられていたが、御影堂再建に先立ち寛永7年(1630年)に元和焼失以前に対面所が建っていた現在地で90度向きを変えて移築された。このことは1969年に行われた半解体修理の際に発見された小屋組の梁の番付墨書により初めて確認された。この移転と同時に西側に雀の間などが増築されたと考えられ、後に(安永6年か)北側に別棟であった白書院を移築合体させた。東縁側に面してで枯山水の「虎渓の庭」が設けられている。[10]
書院は原則非公開。期日を限って特別公開が行われる場合があるが、それ以外の時期の拝観には事前の許可が必要である。(詳細は下記「拝観」の項を参照)
黒書院及び伝廊
黒書院は書院の北東に位置し、伝廊とともに国宝に指定されている。桁行21.5メートル、梁行13.9メートル。寺の記録から明暦3年(1657年)の建立とわかる。屋根は寄棟造こけら葺きで、主屋部分と部分に分けて2段に葺く。前述の白書院が表向きの接客空間で、金地障壁画や彩色透彫の彫刻などで意匠を凝らしているのに対し、黒書院は門主の生活の場としての内向きの空間である。屋根は前者の瓦葺きに対してこけら葺きとし、内部の意匠は水墨の障壁画、土壁、面皮柱、棹縁(さおぶち)天井などを用いた数寄屋風の造りとする。東側の一の間(11畳)、西の二の間(20畳)のほか、広敷の間、鎖の間、茶室などがある。一の間の床、棚、付書院なども草庵風の造りである。建物の東北隅は、一部を床を張らない土庇(どびさし)とし、外部空間を屋根内に取り込んでいる。黒書院は現在も門主の私的空間として使用されているため非公開であるが、2012年11月に初公開された。
北能舞台
書院(対面所及び白書院)の南北にある能舞台のうち北側のもの。正面入母屋造、背面切妻造檜皮葺き。修理時に「天正九年」(1581年)の墨書が発見されたが、これは懸魚(けぎょ)の裏に貼られていた紙(現在は亡失)に書かれていたもので、ただちに建立年代を示すものとは考えられていない。本願寺の坊官を勤めた下間家徳川家康から拝領したとの伝えもあり、正確な年代は不明ながら、江戸時代初期にはあったことが確認できるところから現存する能舞台としては最古のものといわれている。
飛雲閣
境内南東隅の滴翠園(てきすいえん)内、滄浪池(そうろうち)と名付けられた池に面して建つ、3階建の庭間建築である。江戸時代の絵図には「御亭(チン)」あるいは「御物見」として現れる。3階建であるが、各階は平面の大きさを変え、屋根などの意匠も左右相称を避け、変化に富んだ外観をもつ。寺に遺る江戸初期の文書『紫雲殿由縁記』(寛永15年成立、延亨4年増修)には豊臣秀吉の遺構だと記されていることから聚楽第の遺構との説も広く流布したが確証はなく、様式的にもやや新しく、建築史からは否定的意見が多い。一方その1階平面が大書院対面所に共通するから寛永期に本願寺により建てられたのではないかとする説も唱えられたが(平井聖)、飛雲閣1階は一列型書院造の形を示し、一方対面所は3列型で先に触れたように真宗の本堂建築のスタイルを踏襲していると考えられる。こうしたことから両者が似るとするのは無理があり、さらに建築時期、建築理由など十分な説得性にも乏しく、定説とは言えない。近年、付属建物である黄鶴台から「寛永五年三月から寛永六年八月迄‥」という墨書が発見され(鶴岡典慶報告)、これが移築の時期を示すのではないかとの推測から、秀吉の京都新城、後の高台院屋敷の「アコセガ池」畔から、後水尾上皇仙洞御所造営(寛永4年着手)に先立ち解体撤去され、本願寺に移築された建物との説も登場した[11]
1階は池から船で直接建物内に入る形式の船入の間、上段・上々段を設けた主室の招賢殿、下段の八景の間、茶室憶昔席(いくじゃくせき)などがある。舟入の間は書院造の「中門」に当たり、ここ以外に正式な入り口は見当たらない。本来障壁画で飾らるべき上段床の間背面の壁が大障子となっている点や上段が部屋の中心軸上になく北側に寄っている点が特異である。柱や長押は角材を使っており数寄屋の手法は見られないが、これら上段や上々段には数寄屋の趣きが濃厚である。招賢殿の背面から渡廊を介して西側に黄鶴台(重文)が建つが、これは浴室の機能を有し、創建当初から飛雲閣と一体となって庭間建築を形成していたものと考えられる。憶昔席の部分のみは建築年代が明確で、寛政7年(1795年)、茶人藪内竹陰らによって増築されたものである。これら主室の南側にはバックヤードとして厨などが付帯する。本来こうした火気使用エリアは廊下を介して別棟とすべきだが、ここでは主屋と一体化しており、本願寺飛雲閣成立時の事情の一端が伺える。2階歌仙の間は、西側8畳の上段、東側16畳半の下段からなり、上段背面の壁には1階招賢殿と同様障壁画はなく窓が開けられている。隅には喫茶の用に供したものと推測される丸炉が切られている。下段三方の板戸の内外には御簾の下に座す三十六歌仙の像(現状は三十四歌仙)を華やかに描き、天井は金具に飾られた格天井、長押も格調高く打ちまわしており、総じて御殿風の趣きがある。二階へは八景の間横からの階段のほか厨からも上がれるようになっている。3階は摘星楼と名付けた8畳で、長押は打たず天井も低い草庵風の意匠となっている(ただし天井は鏡天井)。奇木を床柱にした一畳の出床が設けられているがこれは後補。各階の主開口部はいずれも北に開けられており、特に1階の書院が南側に全く開口部を持たないのは書院造としては他に例がなく、また我が国の住宅建築の原則からも外れている。このことが元々南向きであったのではないかとの推測を生み、先に述べた「移築説」の根拠の一つとなっている。
なお、元禄時代の状況を示すと考えられる1階平面図(本善寺所蔵)により、現況では北縁側(入り側)に設けられている腰障子はなかったと判り、当初の北からの姿は今より凹凸に富んで見えていたと考えられている。
飛雲閣は原則非公開であるが、外観のみ期日を限って特別公開される。また毎年5月21日の宗祖降誕会の際には室内に茶席(有料)が設けられる。
唐門
境内の南側、北小路通に南面して建つ。境内東側の御影堂門、阿弥陀堂門がそれぞれの堂への入口であるのに対し、唐門は書院(対面所)への正門である。前後に計4本の控え柱をもつ四脚門形式で、屋根は檜皮葺き、正背面は唐破風造、側面は入母屋造の「向い唐門」である。総漆塗り、各部各所を中国の許由張良の故事を題材とした極彩色彫刻と鍍金金具で装飾しており、日暮し眺めても飽きないとされることから「日暮門」の俗称がある。場所によっては厚さ60センチメートルにもなるこれら装飾彫刻の多くがのちに付加されたものであることが修理に際して明らかにされている。金具の各所には桐紋と菊紋が打たれ、寺院の門としては華麗に過ぎるところから聚楽第の遺構とも伏見城の遺構とも、あるいは元和2年以降に破壊が進んだ豊国神社から移築されたものとも伝えるが、確証はない。ただ様式から言えば天正銘が発見された大徳寺唐門に比べて明らかに後の時代に属するものと考えられ、その創建は慶長期以降と推定されることから、聚楽遺構説は否定される。寺の記録『元和四戊午年御堂其外所々御再興ノ記』によれば、元和3年(1617年)の寺の火災の翌年に旧御影堂門(一説には阿弥陀堂門)を「御対面処ノ東」に移築したとあるから元和3年以前に本願寺にあったことが確認でき、のちに寛永初期、御影堂再建に先立つ一連の境内整備の際に現在地に再移築したと考えられているが、そもそもこの門が最初に本願寺に現れた年代や事情ははっきりしていない。

住職

西本願寺の住職は、浄土真宗本願寺派の門主が代々務めてきた。2016年9月時点、第25代門主釋専如が本願寺住職である。

別院

代表的な別院

飛地境内

別荘

歴史

天正19年(1591年)、豊臣秀吉により寺地の寄進を受け、大坂天満から現在の堀川六条に寺基を移転する。廟堂は江戸時代初頭、東山五条坂西大谷に移り現在の「大谷本廟」となっている。

慶長7年(1602年)、後陽成天皇の勅許を背景に徳川家康から、豊臣秀吉の命により本願寺の寺内で隠居所(御影堂と阿弥陀堂もあり)を設けて、北方に隠居させられていた教如(11代顕如の長男)へ烏丸七条に寺領が寄進され、本願寺が正式に西(本願寺派)と東(大谷派)に分立する。この時、江戸幕府内では当時の門主准如(顕如の三男)が関ヶ原の戦いにおいて西軍に味方したことから、准如に代わり教如を門主にするとの考えもあったが、真宗の力を削ぐのに有効との考えから結局分立させることになった。とは言うものの元来、教如は石山合戦以来の自らの派を有しており、宗派内部は既に分裂の状態にあった。

分立当初は准如の「本願寺」は「本願寺」「六条門跡」「本門」「にしもんぜき」などと呼ばれ、教如の「本願寺」は「信淨院[注釈 3]本願寺」「本願寺隠居」「七条本願寺」「信門[注釈 4]」「ひがしもんぜき」などと呼ばれた。

昭和62年(1987年[注釈 5]までは、東西ともに「本願寺」が正式名称である。便宜上、堀川六条の本願寺の東側にある烏丸七条の本願寺を「東本願寺」と通称されたため、相対的に堀川六条の本願寺は「西本願寺」と通称されるようになる。

幕末期には京都を守る剣客集団新選組の本拠地ともなっている。現在まで境内地に大きな変化は無いが、明治9年(1876年)に真宗興正派が独立した際に南境内地を割譲。

本願寺の北には日蓮宗大本山本圀寺の境内が隣接しており、両寺の間に道などはなかったのであるが、付近の住民の訴えにより、住民の負担で、島原から大宮通までで止まっていた花屋町通をさらに大宮通から堀川通にまで伸ばす形で新たに道路を開く工事が行われ、明治15年(1882年)に竣工した。

昭和46年(1971年)に本圀寺が山科区に移転した。その後、昭和61年(1986年)になって本願寺はその旧本圀寺境内地を取得して新たに「本願寺北境内地」とした。現在はその敷地内に聞法会館を建てるなどして、主に駐車場として使用している。本願寺の寺基自体は400年以上に渡り移転していない。

平成23年(2011年)4月9日より翌平成24年(2012年1月16日まで、本願寺御影堂において親鸞聖人750回大遠忌法要が修行された。

平成27年(2015年)5月に、国宝である御影堂の柱に落書きがされているのが発見された[12]

本願寺の住職浄土真宗本願寺派門主に就任する。

年中行事

西本願寺ホームページの「恒例法要と行事」による。

拝観

  • 拝観料は無料で、境内および国宝の御影堂や阿弥陀堂に自由に入ることができ、国宝の唐門もすぐ横まで行ける。
  • 国宝の書院や飛雲閣は前日までに予約をすれば、定員に達していない限り拝観可能(拝観料は志納・300円以上が望ましい)である。当日予約は一切認めていない。時間は14:30の1日1回のみで、10分前には受付箇所である「龍虎殿」に集合する必要がある。公式ホームページに記載されている代表電話番号に書院等の拝観である旨を伝え、電話転送先に希望日時や時間等を伝えれば良い。当日受付にて書面を記載するか、予約が早かった場合は予め郵送された書面を受付に提出する必要がある(本来は門信徒向けのサービスであるので、所属している寺院名の欄があるが、空欄でも構わない)。また、住所が確認できるものを当日持参する必要がある。案内役の僧侶が付き説明を受ける。ただし自由に行動することはできない。飛雲閣は外観のみの拝観になる。行事等により一方、または両方の拝観を行っていない日もある。拝観所要時間は約80分間で、途中離脱は認められていない。また、書院または飛雲閣の修復時は、両方または片方の拝観ができなくなる。
  • 春または秋の法要時は、法要終了後から16時頃まで予約なしで書院内部や飛雲閣の外観を予約なしで自由に無料で拝観できる事が多い。詳しい日程・拝観時間はその都度公式ホームページで発表される。
  • 京都の諸寺社の特別公開に合わせて書院内部や飛雲閣の外観が公開されることもあり、この場合は他の寺社と同様に文化財保護のための拝観料金が必要となる。また、書院内部は公開される部分が普段とは異なることがある。
  • 隣接する北境内地に「聞法会館」というホテルがあり、信徒でなくても比較的安価で宿泊できる。なお、このホテルに宿泊すると早朝の晨朝に希望者は参加しやすく、午前中に国宝の書院や飛雲閣を特別拝観できるプランを時々用意している。
  • 宗派の教義により、西本願寺にはお守り朱印おみくじはなく、祈祷も行っていない。記念スタンプはある。
  • 主に週末のみ北境内地から大谷本廟までの無料バスを運行している。また、北境内地には広大な駐車場があり、参拝者は無料で使用できる。

アクセス

周辺

参詣者や観光客が多いことから、門前町が形成されている。西本願寺御用達の仏具店や和菓子店などの老舗は「開明社」という団体に組織されており、信徒として報恩講などに参加する[13]

宗教番組

その他

ブラジルモジ・ダス・クルーゼス市の浄土真宗本派本願寺のように海外にも寺がある[14]

注釈

  1. 「本願寺」のローマ字表記は、ヘボン式ローマ字では「Hongan-ji」であり、世界遺産「古都京都の文化財」登録時の英文名称も「Hongan-ji」であるが(参照:ユネスコのサイト)、西本願寺自身は「Hongwan-ji」の綴りを採用しており(参照:西本願寺英語版HP)、URLもその綴りを採用している。
  2. 既指定物件の「本願寺鐘楼」(明治43年・1910年指定)に他の6棟を追加指定し、「本願寺 7棟」とした。
  3. 信淨院…教如の院号。
  4. 信門…淨院の跡の意。
  5. 昭和62年に本願寺(東本願寺)は「宗教法人 本願寺」を解散し、真宗大谷派に合併されて「真宗本廟」と改称する。

出典

  1. 浄土真宗本願寺派 本願寺御影堂平成大修復推進事務所だより(27)(28)
  2. ようこそ、東本願寺へ|諸殿拝観|御影堂
  3. 本山専修寺のご紹介|真宗高田派本山 専修寺
  4. 本寺 高田山 専修寺(施設のご案内 御影堂)
  5. 御影堂|総本山知恩院
  6. 平成26年9月18日文部科学省告示第129号
  7. 平成26年9月18日文部科学省告示第130号
  8. 平成26年9月18日文部科学省告示第132号。
  9. 平成26年9月18日文部科学省告示第131号
  10. 本節の解説は特記なき限り以下の資料による。
    • 文化庁編『国宝事典』(新増補改訂版)、便利堂、1976
    • 『週刊朝日百科』「日本の国宝64」、朝日新聞社、1998(解説執筆は小沢朝江、西和夫、斎藤英俊、鶴岡典慶)
    • 宮元健次『図説日本建築のみかた』、学芸出版社、2001
    • 京都府教育委員会『国宝本願寺書院修理工事報告書』1969
    • 京都府教育委員会『国宝本願寺唐門修理工事報告書』1980
  11. 加藤繁生「飛雲閣を探して」(『史迹と美術』825号~832号所収)、史迹美術同攷会、2013
  12. 落書き:西本願寺の国宝、御影堂に 京都 毎日新聞 2015年5月28日
  13. 『日本経済新聞』朝刊2018年2月25日(NIKKEI The STYLE)「精進/信仰のつながり 共に食べて実感」
  14. 新モジ西本願寺=極楽浄土を描くふすま絵=久保開教使9割方仕上げ=モダンな色彩と話題に

関連文献

  • 『原色日本の美術12 城と書院』小学館 1968
  • 平井聖ほか『日本古寺全集21』集英社 1982
  • 『日本の美術13 城と書院』平凡社 1965
  • 『本願寺史料集成 (慶長日記)(元和日記)(西光寺日記)』同朋舎出版
  • 『真宗全書70』国書刊行会 1976
  • 『新編真宗全書 (史伝編6)(史伝編10)』新編真宗全書刊行会 1977
  • 櫻井敏雄『浄土真宗寺院の建築史的研究』1997

関連項目

外部リンク


テンプレート:古都京都の文化財