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{{Otheruses||源氏物語の1帖|行幸 (源氏物語)|廃止自治体|行幸村}}
 
[[Image:Gyoukou.JPG|thumb|right|250px|[[昭和天皇]]行幸碑の例([[広島県]][[福山市]])]]
 
'''行幸'''(ぎょうこう、みゆき)とは、[[天皇]]が外出することである。目的地が複数ある場合は特に'''巡幸'''(じゅんこう)と言う。
 
  
また、'''[[御幸]]'''(ごこう、ぎょこう、みゆき)と言う場合もあるが、これは[[太上天皇|上皇]]・[[法皇]]・[[女院]]に対しても使う。
+
'''行幸'''(ぎょうこう、みゆき)
  
== 語法 ==
+
天皇の外出をいう。行先が2ヵ所以上にわたっているときは「巡幸」,帰りは「還幸」といわれ,太皇太后,皇太后,皇后,皇太子の場合は「行啓」という言葉が用いられた。明治になってから,太政官布告によって法律上の用例となったが,第2次世界大戦後その使用が廃止された。
[[皇后]]・[[皇太后]]・[[皇太子]]・[[皇太子妃]]の外出を'''行啓'''(ぎょうけい)/'''巡啓'''(じゅんけい)と言い、行幸と併せて'''行幸啓'''(ぎょうこうけい)/'''巡幸啓'''(じゅんこうけい)と言う。単に「行幸啓」といった場合は、天皇と皇后が一緒に外出することを指す場合が多い。
 
  
行幸啓した皇族が外出先から帰ることを'''還幸'''(かんこう)、'''還啓'''(かんけい)、'''還幸啓'''(かんこうけい)という。
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{{テンプレート:20180815sk}}
 
 
これら以外の[[皇族]]の外出は'''[[御成り]]'''・'''お成り'''(おなり)、お成りをした皇族が外出先から帰ることを'''ご帰還'''(ごきかん)と言う。
 
 
 
ただし、[[奈良時代]]など{{いつ|date=2013年6月}}には、[[神功皇后]]の[[伊勢国|伊勢]]行幸の様に'''行啓'''を'''行幸'''と言う場合もあった。また、奈良時代など{{いつ|date=2013年6月}}には、行幸の際に宿泊するところを'''[[行宮]]'''(あんぐう、かりみや)と言う。
 
 
 
行幸に際し、地名や社名が付く場合がある。特に、目的地を持った行幸には地名が付くことがある。例えば、[[住吉大社]]に行幸する場合は「住吉行幸」などと呼ばれる。また、[[鎌倉時代]]の書物の中には「[[鞍馬寺|鞍馬]]御幸」などの表記も伺うことが出来る。[[江戸時代]]に入ると、[[慶安]]4年2月25日([[1651年]][[4月15日]])の[[後光明天皇]]による[[朝覲|朝覲行幸]]以後、文久3年3月11日([[1863年]][[4月28日]])の[[孝明天皇]]による[[上賀茂神社]]・[[下鴨神社]]行幸まで行幸は行われなかった(ただし、火災等による御所移動時の行幸は除く。また、[[天保]]8年([[1837年]])には[[江戸幕府]]との合意によって[[仁孝天皇]]による朝覲行幸が計画されていたが、対象となる[[光格天皇|光格上皇]]の病気と崩御(死去)によって実現されなかった)<ref>これについて[[高埜利彦]]は江戸幕府が社会に広く天皇の存在と権威を直接示すことを拒む朝廷統制策(「江戸幕府による行幸禁止政策」)があったとする。これに対して[[藤田覚]]は行幸の衰退・廃絶傾向は鎌倉時代後期から一貫して見られる現象であり、なおかつ財政的な問題もあったことから、それが江戸時代における朝廷側の行幸への消極的な姿勢につながっているとする(藤田覚『近世政治史と天皇』(吉川弘文館、1999年)第6章「天保期の朝廷と幕府-朝覲行幸再興を中心に」)。また、鎌倉時代後期から行幸の衰退・廃絶について、[[佐古愛己]]は財政的な問題に加え、行幸に際して随行した公家たちの対する[[叙位]]が行われたことで、随員に選ばれず他者に超越される(位階を越される)ことになった公家の反発を招いて公家社会内部でのトラブルが深刻化したことにより、[[徳政]]の目標として「公平な人事」を求める声が高まり、叙位発生の原因となる行幸そのものが抑制された可能性を指摘する(佐古愛己『平安貴族社会の秩序と昇進』(思文閣出版、2012年)補論2「中世公家社会における叙位の一考察」)。</ref>。明治の「[[東京行幸]]」は行幸と言う言葉を使い、その形態を装っているが、実質的な[[東京奠都]]と言う意味で用いられる。
 
 
 
現在、[[宮内庁法]]他に用いられる法令用語でもある<ref>この規則は、天皇の'''行幸'''、皇后、皇太后、皇太子及び皇太子妃の'''行啓'''並びにその他の皇族の'''お成り'''の場合の警衛に関し必要な基本的事項を定め、もってその適正な実施を図ることを目的とする。([[国家公安委員会]]規則『[[警衛要則]]』第1条)</ref>。
 
 
 
== 官報 ==
 
[[独立行政法人]][[国立印刷局]]が発行する[[官報]]には、天皇・皇后の行幸啓があった場合、下記の項目が掲載される。
 
*行幸啓した者(天皇の行幸・皇后の行啓・両者の行幸啓)
 
*行幸啓先とその目的
 
*出門と還幸啓の日時
 
 
 
具体的には、下記の例のように掲載される。
 
:天皇陛下は、九月二十八日午後零時四十一分御出門、第百六十五回国会開会式に御臨場のため、国会議事堂へ行幸、同一時十九分還幸になった。
 
:(平成18年10月2日月曜日付官報第4434号より引用<!--引用部分の文章は、著作権法第13条第2号(権利の目的とならない著作物)により、著作権の対象外-->)
 
 
 
== 歴史上著名な行幸啓 ==
 
[[ファイル:Kobe customs06s3872.jpg|thumb|[[神戸税関]]行幸記念碑。[[1899年]](明治32年)11月、[[外国人居留地|居留地]]撤廃を記念しての行幸]]
 
*[[聚楽第]]行幸:[[後陽成天皇]]、[[1588年]]([[天正]]16年)[[4月14日 (旧暦)|4月14日]]-[[4月18日 (旧暦)|18日]]。
 
*[[二条城]]行幸:[[後水尾天皇]]、[[1628年]]([[寛永]]3年)10月25日-30日
 
*地方巡幸:[[明治天皇]]、[[1868年]]([[明治]]元年)以降<ref>{{Cite book |和書 |author=富山県護国神社 |year=2012 |title=富山県における聖帝四代の御製を拝す |page=p27 |publisher=富山県護国神社}}</ref>。
 
*:[[1872年]][[5月23日]]-[[7月12日]] 大阪、中国、西国(近畿、四国、九州)
 
*:[[1876年]][[6月2日]]-[[7月21日]] [[東北]]
 
*:[[1878年]][[8月30日]]-[[11月9日]] [[北陸道]]、[[東海道]]
 
*:[[1880年]][[6月16日]]-[[7月26日]] [[山梨県]]、[[三重県]]、[[京都府]]
 
*:[[1885年]][[7月26日]]-[[8月12日]] [[山陽道]]([[山口県]]、[[広島県]]、[[岡山県]])
 
*地方巡幸:[[昭和天皇]]による全国巡幸。[[1946年]]([[昭和]]21年)以降、一時期の中断をはさんで[[1954年]](昭和29年)まで続いた。[[昭和天皇の戦後の巡幸都道府県一覧]]も参照。
 
**『内務省史 3』764~771頁に「地方行幸一覧(明治元年~昭和二十二年)」が収録されている。
 
 
 
== 明治天皇「聖蹟」==
 
[[史蹟名勝天然紀念物保存法]]により史蹟に指定されていた明治天皇の行在所等の「聖蹟」<ref>柴崎力栄「関東地方における明治天皇親率演習---一八八一年の厚木行幸を中心に」(年報近代日本研究12・近代日本と情報、山川出版社、1990年)133~136頁に「明治天皇聖蹟の史跡指定」について記述がある。</ref>は、[[1948年]](昭和23年)6月29日付け、昭和23年文部省告示第64号によって一斉に指定解除された。同告示(『官報』6435号所載)には指定解除物件の一覧がある。
 
 
 
==三大行幸啓==
 
[[明仁|今上天皇]]は毎年開催される以下の行事には[[皇后美智子|皇后]]を同伴して出席するため「三大行幸啓」と言われる。
 
* [[全国植樹祭]]
 
* [[国民体育大会]]
 
* [[全国豊かな海づくり大会]]
 
 
 
この時には当該行事に出席するだけでなく、天皇、皇后の希望により地域の高齢者福祉施設、障碍者福祉施設の視察・訪問を計画に入れるのが慣例になっている。
 
 
 
==古代の行幸==
 
[[天平]]15年([[743年]])に[[聖武天皇]]が[[恭仁宮]]から[[紫香楽宮]]に行幸した際に五位以上が28名、六位以下が2370名随行(当時の用語では「陪従」と呼ぶ)したと記されている(『続日本紀』天平15年4月辛卯条)他、また他の奈良時代から平安時代にかけての他の行幸でも1000名以上の随行が確認できる行幸が複数確認できるため、天皇の行幸となるとその1000名もしくは2000名クラスでの陪従者が発生したと考えられる。行幸に際しては律令官人は天皇に随従する「陪従」と宮都を守護する「留守」を務めるものとされ、特に前者は功労として[[位階]]の授与が与えられる場合があった。また、[[公式令 (律令法)|公式令]]には中国の例に倣って天皇の行幸時には[[皇太子]]が[[監国]]を務めて留守を守ることを前提とした条文が存在しているが、史書で確認できる行幸では皇太子が陪従している事例がほとんどで、[[皇親]]や[[議政官]]が「[[留守官]]」に任じられて天皇の留守中の宮都の管理を行っていた<ref>永田英明「天皇の行幸」館野和己・出田和久 編『日本古代の交通・流通・情報 2 旅と交易』(吉川弘文館、2016年) ISBN 978-4-642-01729-9 P94-95</ref>。
 
 
 
==平成期の行幸啓==
 
現在(平成以降)の行幸啓は、天皇皇后の二人で行う「行幸啓」が原則である。国内の行幸は金曜日から月曜日、土曜日から火曜日の三泊四日で一つの道府県を訪問するように計画される。行幸啓においては[[宮内庁]]の総務課長が'''「行幸主務官」'''として責任者となる。そのため総務課長は[[警察庁]]からの出向者が務める。行幸啓に使用する交通機関は航空機は民間の航空会社の特別機、新幹線も特別車となる。見送りには首相、宮内庁次長、警視総監が出席する<ref>山本雅人『天皇陛下の全仕事』(2009年、講談社現代新書)</ref>。1994年2月の[[小笠原諸島|小笠原]]行幸啓では飛行場が無く船舶では時間がかかるため[[海上自衛隊]]の[[US-1|US-1飛行艇]]が使用された。
 
 
 
===供奉者===
 
行幸には以下のものが随行する。これらを「供奉者(ぐぶしゃ)」という。
 
 
 
*[[宮内庁長官]]
 
*[[侍従]]長、侍従
 
*[[女官]]長、女官
 
*[[侍医]]
 
*宮内庁総務課長、宮内庁職員、
 
*警察庁長官、警察庁職員、
 
*[[皇宮警察]]本部本部長、皇宮警察職員
 
 
 
訪問先では訪問地の知事と首長が供奉者に加わる。
 
 
 
===車両編成===
 
行幸先での天皇、皇后の車両は以下のような編成となる。
 
 
 
==== 通常編成 ====
 
;先導車
 
:白バイ護衛2台
 
;前駆車(黒塗りの自動車)
 
:行幸主務官と警官2人
 
;[[御料車]]
 
:天皇、皇后と護衛官
 
;側衛車
 
:白バイの護衛2台
 
;後衛車
 
:訪問先の警察本部長、護衛官(責任者)、護衛官
 
;供奉車(マイクロバス)
 
:[[宮内庁長官]][[侍従]]長、侍従、[[女官]]長、女官、[[侍医]]、宮内庁職員2人、訪問先の道府県庁職員、護衛官3人
 
;第1随従車
 
:知事、道府県議会議長、道府県庁秘書課長
 
;第2随従兼無線車
 
:警察庁長官、皇宮警察本部長、警察庁職員2人、護衛官、警察官2人
 
;後押さえ車
 
:白バイ2台
 
;報道1号車(バス)
 
:宮内庁記者会、道府県広報課職員、宮内庁職員
 
;報道2号車(バス)
 
:地元記者クラブ、記者、道府県広報課職員
 
;予備車両
 
:道府県庁職員2人
 
;予備
 
:白バイ2台
 
 
 
==== 災害被災地 ====
 
災害被災地の行幸啓では、前駆車、御料車(マイクロバス)、後衛車の3台のみとなり、御料車になるマイクロバスに供奉者も同乗する。白バイの護衛はなく、地元の知事や警察本部長は災害救援優先のために随従しない。
 
 
 
== 行幸を題材にした和歌 ==
 
*このたびは幣もとりあへず手向山もみぢのにしき神のまにまに([[菅原道真]])
 
*小倉山峰のもみぢ葉心あらばいまひとたびの御幸またなむ([[藤原忠平]])
 
== 行幸にちなむ名称 ==
 
* [[御幸道路]]:[[三重県道37号鳥羽松阪線]]等の通称で、[[伊勢神宮]]への参道。[[明治天皇]]の行幸から。
 
* 行幸道路:[[東京都道・神奈川県道51号町田厚木線]]の通称。[[昭和天皇]]の行幸から。
 
* 行幸通り:[[東京都道404号皇居前東京停車場線]]の通称。行幸の際に使う、[[皇居]]と[[東京駅]]を継ぐ道路。
 
* [[みゆき通り (姫路市)|みゆき通り]]:[[兵庫県]][[姫路市]]。明治天皇の行幸から。
 
* 行啓通:[[北海道]][[札幌市]][[中央区 (札幌市)|中央区]]にある南14条通のうち[[中島公園]] - [[国道230号]]にかけて。皇太子嘉仁親王(のちの[[大正天皇]])の行幸に由来。行啓通と[[札幌市電]]が交わる地点に「[[行啓通停留場]]」がある。
 
* [[御幸村 (熊本県)|御幸村]](現・[[熊本市]][[御幸 (熊本市)|御幸]]):明治天皇の行幸から「部田村」から[[1903年]]に改称
 
* 御幸公園:[[川崎市]][[幸区]]。明治天皇の行幸から。「幸区」の名もこれにちなむ。
 
* [[御幸台]]:[[千葉県]][[船橋市]][[薬円台]]。「[[習志野]]」の名もこれにちなむ。
 
* [[御幸ノ浜]]:[[神奈川県]][[小田原市]]。明治6年(西暦1873年)、明治天皇、昭憲皇太后が地引網の見学をしたことに由来。広義では早川~山王川(南町、本町、浜町)にかけて。[[松原神社例大祭]]時には同地でお浜降りが行われ、夏季には「御幸の浜海水浴場」が開かれる。
 
* [[御幸が丘]]:[[茨城県]][[つくば市]]。
 
* [[聖蹟桜ヶ丘駅]]:[[東京都]][[多摩市]]。「聖蹟」は「行幸の地」の意。明治天皇の行幸から。
 
* [[旧多摩聖蹟記念館]]:東京都多摩市。都立桜ヶ丘公園内にある。明治天皇の行幸から。
 
* 行幸橋:東京都多摩市。
 
 
 
その他、各地の「[[みゆき通り]]」のように行幸にちなむ名を随所に見ることが出来る。
 
 
 
== 記念切手 ==
 
[[Image:Crown Prince Hirohito visit to Taiwan 1.5sen.JPG|thumb|right|150px|台湾行啓記念切手(1銭5厘)]]
 
[[台湾総督府]]は[[1923年]](大正12年)に皇太子時代の昭和天皇が[[台湾行啓|台湾を行啓]]した際に1銭5厘と3銭の[[記念切手]]2種を発行している。
 
 
 
切手の発行権限は[[逓信省]](現在の[[日本郵政]])にあったため、形式的には日本国内全域で使える[[切手]]であったが、発売されたのは[[東京中央郵便局]]及び台湾総督府管内の郵便局でのみであった。描かれていたのは台湾一の高峰であり当時日本一高い山であった[[玉山 (台湾)|新高山]](現在名玉山)である。なお、この切手は行啓日初日の4月9日に発行予定であったが、4月1日に[[北白川宮成久王]]が自動車事故で[[薨去]]したため、行啓が延期され発行も延期になった。そのため切手は行啓が行われた4月16日に発行された。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
 
 
== 関連項目 ==
 
*[[昭和天皇の戦後の巡幸都道府県一覧]]
 
*[[御用邸]] - 那須御用邸
 
*[[阿胡行宮]]
 
*[[住吉行宮]]
 
*[[参拝#天皇の参拝|親拝]]
 
*[[お召し列車]]
 
*行幸記念碑について記述のある項目
 
** [[明治天皇駐蹕之処の碑]]
 
** [[天覧山]]
 
** [[高松山 (厚木市)]]
 
 
 
{{天皇項目}}
 
 
{{DEFAULTSORT:きようこう}}
 
{{DEFAULTSORT:きようこう}}
 
[[Category:日本の皇室]]
 
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[[Category:旅行]]
 
[[Category:旅行]]

2018/10/18/ (木) 22:42時点における最新版

行幸(ぎょうこう、みゆき)

天皇の外出をいう。行先が2ヵ所以上にわたっているときは「巡幸」,帰りは「還幸」といわれ,太皇太后,皇太后,皇后,皇太子の場合は「行啓」という言葉が用いられた。明治になってから,太政官布告によって法律上の用例となったが,第2次世界大戦後その使用が廃止された。



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