興福寺

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 興福寺
所在地 奈良県奈良市登大路町48番地
位置 北緯34度40分59.7秒
東経135度49分52.2秒
山号 なし
宗派 法相宗
寺格 大本山
本尊 釈迦如来
創建年 天智天皇8年(669年
開基 藤原不比等
札所等 西国三十三所9番(南円堂)
南都七大寺2番
西国薬師四十九霊場4番(東金堂)
神仏霊場巡拝の道16番
大和北部八十八ヶ所霊場 第62番(菩提院)
文化財 五重塔・木造弥勒仏坐像・乾漆八部衆像ほか(国宝)
南円堂・木造薬王菩薩・薬上菩薩立像ほか(重要文化財)
世界遺産
地図
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興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある、南都六宗の一つ、法相宗の大本山の寺院である。南都七大寺の一つに数えられる。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。南円堂は西国三十三所第9番札所である。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。

歴史

創建

藤原鎌足夫人鏡大王の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像本尊として、天智天皇8年(669年山背国山階(現京都府京都市山科区)に創建した山階寺(やましなでら)が当寺の起源である。壬申の乱のあった天武天皇元年(672年)、山階寺は藤原京に移り、地名の高市郡厩坂をとって厩坂寺(うまやさかでら)と称した。

和銅3年(710年)の平城遷都に際し、鎌足の子不比等は厩坂寺を平城京左京の現在地に移転し「興福寺」と名付けた[注 1]。この710年が実質的な興福寺の創建年といえる。中金堂の建築は平城遷都後まもなく開始されたものと見られる。

その後も、天皇や皇后、また藤原家によって堂塔が建てられ整備が進められた。不比等が没した養老4年(720年)には「造興福寺仏殿司」という役所が設けられ、元来、藤原氏の私寺である興福寺の造営は国家の手で進められるようになった。

南都北嶺

興福寺は奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられ、特に摂関家藤原北家との関係が深かったために手厚く保護された。平安時代には春日社の実権をもち、大和国一国の荘園のほとんどを領して事実上の同国の国主となった。その勢力の強大さは、比叡山延暦寺とともに「南都北嶺」と称された。寺の周辺には塔頭と称する多くの付属寺院が建てられ、最盛期には百か院以上を数え、中でも天禄元年(970年定昭の創立した一乗院寛治元年(1087年隆禅の創立した大乗院は皇族・摂関家の子弟が入寺する門跡寺院として栄えた。

鎌倉室町時代の武士の時代になっても大和武士[注 2]僧兵等を擁し強大な力を持っていたため、幕府は守護を置くことができなかった。よって大和国は実質的に興福寺の支配下にあり続けた。安土桃山時代に至って織豊政権に屈し、文禄4年(1595年)の検地では、春日社興福寺合体の知行として2万1,000余石とされた。

平重衡の兵火による焼失

興福寺は、創建以来たびたび火災に見まわれたが、その都度再建を繰り返してきた。中でも治承4年(1180年)、治承・寿永の乱(源平合戦)の最中に行われた平重衡南都焼討による被害は甚大で、東大寺とともに大半の伽藍が焼失した。 この時、焼失直後に別当職に就いた信円と解脱上人貞慶らが奔走、朝廷や藤原氏との交渉の結果、平氏が朝廷の実権を握っていた時期に一旦収公されて取り上げられていた荘園が実質的に興福寺側へ返却され、朝廷・氏長者(藤原氏)・興福寺の3者で費用を分担して復興事業が実施されることとなった。現存の興福寺の建物はすべてこの火災以後のものである。なお仏像をはじめとする寺宝類も多数が焼失したため、現存するものはこの火災以後の鎌倉復興期に制作されたものが多い。興福寺を拠点とした運慶ら慶派仏師の手になる仏像もこの時期に数多く作られている。

江戸時代享保2年(1717年)の火災の時は、時代背景の変化もあって大規模な復興はなされず、この時焼けた西金堂、講堂、南大門などは再建されなかった。

廃仏毀釈による破壊

江戸時代は2万1,000石の朱印を与えられ保護された興福寺だが、慶応4年(1868年)に出された神仏分離令は、全国に廃仏毀釈の嵐を巻き起こし、春日社と一体の信仰が行われていた興福寺は大きな打撃をこうむった。興福寺別当だった一乗院および大乗院の門主は還俗し、それぞれ水谷川家、松園家と名乗った(奈良華族)。子院はすべて廃止、寺領は1871年(明治4年)の上知令で没収され、僧は春日社の神職となった。境内は塀が取り払われ、樹木が植えられて、奈良公園の一部となってしまった。一乗院跡は現在の奈良地方裁判所、大乗院跡は奈良ホテルとなっている。一時は廃寺同然となり、五重塔、三重塔さえ売りに出る始末だった。五重塔は250円(値段には諸説ある)で買い手がつき、買主は塔自体は燃やして金目の金具類だけを取り出そうとしたが、延焼を心配する近隣住民の反対で火を付けるのは取りやめになったという。ただし、五重塔が焼かれなかった理由はそれだけでなく、塔を残しておいた方が観光客の誘致に有利だという意見もあったという。[2]

行き過ぎた廃仏政策が反省されだした1881年(明治14年)、ようやく興福寺の再興が許可された。1897年(明治30年)、文化財保護法の前身である「古社寺保存法」が公布されると、興福寺の諸堂塔も修理が行われ、徐々に寺観が整備されて現代に至っている。 しかし、寺に塀が無く公園の中に寺院がある状態、いわゆる「信仰の動線」が欠落していると称される状態は、この時の名残である。

現在

1998年に世界遺産に登録され、1999年から国の史跡整備保存事業として、発掘調査が進められている。平城京での創建1300年を期に中金堂が再建中であり[3]、南大門の再建も計画されている。中金堂は2018年の落慶を目指している。

門跡

かつて興福寺には「興福寺両門跡」と呼ばれる2つの子院があった。一乗院と大乗院である。

一乗院門跡

一乗院は、平安時代後期の第6代門主覚信が関白藤原師実の子息だったことをきっかけに、代々、摂家あるいは皇族が門主を務める門跡寺院のひとつとなった。その後、五摂家分立以降は近衛家の管領するところとなり、近衛家流(近衛家・鷹司家)の子弟が門主となる例が多かった。ちなみに足利義昭は、もともと近衛稙家の猶子として法名覚慶を名乗り一乗院の門跡となっていたが、兄義輝の殺害にともない還俗し、織田信長の援助を得て将軍となったものである。大和の国衆でのちに戦国大名化した筒井氏は一乗院の衆徒の筆頭であった。江戸時代に入って後陽成天皇の皇子尊覚が門主となったのをきっかけに親王が門主をつとめるケースも増えた。たとえば、久邇宮朝彦親王は、もと一乗院の門主であったものが、その後青蓮院に移されたものである。摂家や親王家と同様に諸大夫以下の専属の家司もおり、摂家・親王家と同格の立場を誇っていた。また奈良だけではなく、京都今出川の桂宮邸と御所の間に「里坊」と呼ばれる屋敷を持っていた。

大乗院門跡

大乗院は、これも藤原師実の子息である尋範が門主となったのをきっかけに門跡寺院となった。こちらは九条家の管領に属し、九条流(九条家二条家一条家)の子弟が門主を務めるところであった。戦国時代には、日記『大乗院寺社雑事記』で著名な門主尋尊一条兼良の子息)が出ている。また、足利義昭が将軍の地位を追われたあと、義昭のひとり息子が出家して法名を義尋と名乗り大乗院の門主となっている。一乗院が筒井氏を衆徒としたように、大乗院も古市氏を衆徒としている。諸大夫以下の家司や里坊を有し、摂家・親王家と同様の格式を誇ったことは一乗院と同様であるが、親王が門主となった例はない。

両門跡と世俗権力

興福寺の最高職である別当は、一乗院門主と大乗院門主が交互に就任するならわしだった。ただし、平家による南都焼き討ち直後の時期に第44代別当となった信円[注 3] に限っては、例外的に一条院門跡と大乗院門跡の双方を、他の幾つかの院家と共に兼帯している。また、両門跡に属する門主以外の者が別当に就任した例もある。

また、興福寺がその権限を行使していた大和国守護職について、別当が権限を有していた説、両院の門主が共同で権限を行使していたとする説、門主が別当の時は別当が全権を行使しそれ以外の者が別当の時は別当と両院が共同で権限を行使していたとする説がある[4]。江戸時代には世俗的権力を失い、幕府から一定の知行(一乗院が1,492石、大乗院が951石)を与えられた単なる寺院となった。両院とも明治の廃仏毀釈で廃寺となった。

伽藍と文化財

かつての興福寺には、中金堂(ちゅうこんどう)・東金堂(とうこんどう)・西金堂(さいこんどう)という3つの金堂があり、それぞれに多くの仏像を安置していた。寺の中心部には、南から北に、南大門中門、中金堂、講堂が一直線に並び、境内東側には、南から、五重塔、東金堂、食堂(じきどう)が、境内西側には、南から、南円堂(なんえんどう)、西金堂、北円堂(ほくえんどう)が建っていた。このほか、境内南西隅の一段低い土地に三重塔が、境内南東部には大湯屋がそれぞれ建てられた。これらの堂宇は、創建以来たびたび火災に見舞われ、焼失と再建を繰り返してきた。明治期以降、興福寺の境内は奈良公園の一部と化し、寺域を区切っていた塀や南大門もなくなり、天平時代の整然とした伽藍配置を想像することは困難になっている。

中金堂

ファイル:興福寺仮金堂.JPG
仮講堂/この画像では「お堂で見る阿修羅展」の行列ができている。左の基壇は中金堂のもの。

興福寺中金堂( - ちゅうこんどう)は、藤原鎌足発願の釈迦三尊像を安置するための、寺の中心的な堂として和銅3年(710年)の平城京遷都直後に造営が始められたと推定される。のちに東金堂・西金堂が建てられてからは中金堂と呼ばれている。創建以来たびたび焼失と再建を繰り返したが、江戸時代の享保2年(1717年)の火災による焼失後は1世紀以上再建されず、文政2年(1819年)、篤志家の寄付によってようやく再建された。この文政再建の堂は仮堂で、規模も従前の堂より一回り以上小さかったが、興福寺国宝館の開館(1959年)までは、高さ5.2メートルの千手観音像をはじめ、現在興福寺国宝館で見られる仏像の多くを堂内に安置していた。また、朱色に塗られていたため「赤堂」として親しまれていた。あくまで仮の堂として建てられたため、長年の使用に不向きである安価なマツ材が使用され、瓦も安物が使われたために経年による雨漏りがひどく、1974年に中金堂裏側の講堂跡に仮金堂(奈良・薬師寺の旧金堂を、入母屋造から寄棟造にし、向拝を撤去するなどの大改造により外観を変えて移築したもの)が建てられ、本尊の釈迦如来坐像などはそちらに移された。文政再建の仮堂の中金堂は老朽化のため移築再利用も不可能と判断され、一部の再利用できる木材を残して2000年に解体されている。なお、中金堂解体後の発掘調査も終了し、創建1,300年の2010年着工、2018年落慶を目指し、創建当初の姿を再現した新・中金堂の建設と境内の整備が進められている。

2017年、翌年に新・中金堂が完成するのを見越し仮金堂内の諸仏を新・中金堂に移す。中金堂内には興福寺の本尊である釈迦如来坐像(江戸時代の再興)のほか、以下の仏を安置。

  • 木造薬王菩薩・薬上菩薩立像(重文)-像高3.6メートルの巨像。現在は本尊釈迦如来像の両脇に安置されるが、本来は廃絶した西金堂本尊・釈迦如来像の脇侍として、鎌倉時代の建仁2年(1202年)に造立されたもの。
  • 木造四天王立像(国宝)-鎌倉時代の作。この四天王像の当初の安置場所や作者は不明であるが[5]、2017年までは南円堂に安置されていた。南円堂本尊の不空羂索観音像と同様、本四天王像も運慶の父・康慶一門の作であると長らく信じられていたが、藤岡穣が1990年に発表した論考で、当時の中金堂(仮金堂)に安置されていた現・南円堂安置の四天王像が、元から南円堂にあった康慶作の像であると指摘して以降、これが定説となった。本四天王像は2017年に東京国立博物館で開催された「運慶展」後に、康慶作の四天王像と入れ替わる形で中金堂に移された[6]

なお、仮金堂は名称を仮講堂に改め、国宝館にあった阿弥陀如来坐像を新たな本尊として安置した。

東金堂

現存する興福寺東金堂は、 室町時代中期・応永33年(1426年)の再建。平面は桁行七間、梁間四間。屋根は一重、寄棟造、本瓦葺である[7]1897年(明治30年)12月28日、当時の古社寺保存法に基づく特別保護建造物(文化財保護法における「重要文化財」に相当)に指定[8]1952年(昭和27年)3月29日文化財保護法に基づく国宝に指定されている[9]

興福寺東金堂は、神亀3年(726年)、聖武天皇が伯母にあたる元正天皇の病気平癒を祈願し、薬師三尊を安置する堂として創建した。治承4年(1180年)の兵火による焼失後、文治3年(1187年)、興福寺の僧兵は飛鳥山田寺(現・奈良県桜井市)講堂本尊の薬師三尊像を強奪してきて、東金堂本尊に据えた。東金堂はその後応永18年(1411年)に五重塔とともに焼け、現在の建物は応永22年(1415年)の再建の室町時代の建築である。様式は、唐招提寺金堂を参考にした天平様式。平面規模は、創建時の堂に準じている。堂内には以下の諸仏を安置する。

  • 銅造薬師三尊像(重文)-中尊は応永18年(1411年)の火災後の再興像で室町時代の作。脇侍の日光菩薩像・月光菩薩像は応永の火災の際に救出されたもので、奈良時代の作である。
  • 木造維摩居士坐像(国宝)-本尊薬師如来の向かって左に安置。鎌倉時代、建久7年(1196年)、定慶の作。維摩は大乗仏教の重要経典の一つである「維摩詰所説経(維摩経)」に登場する伝説上の人物で、在家仏教徒の理想像とされる。興福寺では山階寺の創建直後に藤原鎌足が維摩経を講賛・供養する維摩会を始めさせ、以後、最重要の法会の一つとして現在に至るまで毎年10月に執り行われている。その経緯などから維摩は藤原氏の篤い信仰を集め、また興福寺においても特に重要な存在と見なされている。実在の老人のようにリアルに表現されている。
  • 木造文殊菩薩坐像(国宝)-本尊薬師如来の向かって右に安置され、上記維摩居士像と対を成す。作者は不明だが、維摩像と同じ頃、定慶の手になるものと推定される。維摩経のクライマックスにあたる文殊と維摩の問答の場面を表現したものである。
  • 木造四天王立像(国宝)-堂内四隅に安置。堂内の他の像より古く、平安時代前期の重厚な作風の像。
  • 木造十二神将立像(国宝)-薬師如来を守護する12の眷属の像。鎌倉時代、建永2年(1207年)頃の作。各像のダイナミックな姿勢と12体の個性を彫り分けた群像表現が見所である。
五重塔、昼景 五重塔、夜景
五重塔、昼景
五重塔、夜景

五重塔

現存する興福寺五重塔は、室町時代中期・応永33年(1426年)の再建。本瓦葺の三間五重塔婆である[7]1897年(明治30年)12月28日、当時の古社寺保存法に基づく特別保護建造物(文化財保護法における「重要文化財」に相当)に指定[8]1952年(昭和27年)3月29日文化財保護法に基づく国宝に指定されている[9]

興福寺五重塔は、光明皇后の発願により、天平2年(730年)に創建された。現存の塔は、応永33年(1426年)頃の再建である。高さ50.1メートルで、現存する日本の木造塔としては、東寺五重塔に次いで高い。

北円堂

現存する興福寺北円堂は、鎌倉時代前期・承元4年(1210年)の再建。屋根を一重、本瓦葺とする八角円堂である[7]1897年(明治30年)12月28日、当時の古社寺保存法に基づく特別保護建造物(文化財保護法における「重要文化財」に相当)に指定[8]1952年(昭和27年)3月29日文化財保護法に基づく国宝に指定されている[9]

興福寺北円堂(国宝)は、養老5年(721年)、藤原不比等の一周忌に際し、元明上皇元正天皇の両女帝長屋王に命じて創建させた。現在の建物は承元4年(1210年)頃の再建で、興福寺に現存する中で最も古い建物である。法隆寺夢殿と同様、平面が八角形の「八角円堂」である。現在、回廊の復元計画中。

  • 木造弥勒仏坐像(国宝)-晩年の運慶が一門の仏師を率いて建暦2年(1212年)頃に完成したもの。
  • 木造法苑林菩薩大妙相菩薩半跏像-弥勒仏の脇侍像だが、制作年代は室町時代に下る。
  • 木造無著菩薩・世親菩薩立像(国宝)-無著・世親の兄弟は5世紀頃のインドで活動した唯識教学の祖で、興福寺が属する法相宗では尊ばれている。本尊弥勒像と同じ頃、運慶一門の作。鎌倉時代のリアリズム彫刻の頂点をなす作品、日本の肖像彫刻の最高傑作の1つとして高い評価を得ている。※右列に画像あり。
  • 木心乾漆四天王立像(国宝)-堂内の他の諸仏より古く平安時代ごく初期の像である。弘安8年(1285年)の修理銘によると、本来は大安寺のもので、延暦10年(791年)に造立されたという。

南円堂

現存する興福寺南円堂は、江戸時代中期。年代:寛保元年(1741年)の再建。屋根を一重、本瓦葺とする八角円堂で、正面に拝所が付属する[7]1986年(昭和61年)12月20日文化財保護法に基づく重要文化財に指定されている[10]

興福寺南円堂は、藤原北家藤原冬嗣が、父・内麻呂追善のため、弘仁4年(813年)に創建した八角堂である。現在の建物は寛政元年(1789年)の再建。創建時の本尊は、もと興福寺講堂に安置されていた不空羂索観音像であった。この像は天平18年(748年)、その前年に没した藤原房前の追善のため、夫人の牟漏女王、子息の藤原真楯らが造立したものであった。堂は西国三十三所の九番札所として参詣人が絶えないが、堂の扉は常時閉ざされており、開扉は10月17日の大般若経転読会という行事の日のみである(2002年秋、2008年秋、2013年春に特別開扉が行われた)。堂内には本尊である不空羂索観音坐像のほか、四天王立像と法相六祖像を安置していたが、法相六祖像は国宝館に移されている。堂の前に生える 「南円堂藤」 は南都八景の一つで、毎年、美しい花を咲かせている。

  • 木造不空羂索観音坐像(国宝)-運慶の父である康慶一門の作で、文治5年(1189年)に完成。坐像で高さ336センチの巨像である。
  • 木造四天王立像(重文)-もともと南円堂にあったもの。その後、仮金堂(後に仮講堂と改称)に移されていたが、2017年に東京国立博物館で開催された「運慶展」後に南円堂に戻された[6]。鎌倉時代、運慶の父・康慶一門の作。2018年度に国宝指定見込み[11]
  • 木造法相六祖坐像(国宝) - 運慶の父・康慶一門の作。玄賓行賀玄昉神叡常騰善珠という、法相宗の6名の高僧の肖像。※右列に、伝 行賀像の画像あり。

三重塔

現存する興福寺三重塔は、鎌倉時代前期の再建(正確な建立年次は不明)。本瓦葺の三間三重塔婆である[7]1897年(明治30年)12月28日、当時の古社寺保存法に基づく特別保護建造物(文化財保護法における「重要文化財」に相当)に指定[8]1952年(昭和27年)3月29日文化財保護法に基づく国宝に指定されている[9]

興福寺三重塔は、康治2年(1143年)、崇徳天皇中宮皇嘉門院によって創建された。治承4年(1180年)の大火による焼失記録はないが、現在の塔は建築様式から大火後まもなく再建された鎌倉建築と考えられる。

西金堂跡

興福寺西金堂は、光明皇后が、母・橘三千代一周忌に際し、釈迦三尊を安置する堂として天平6年(734年)に創建した。平安時代に2回、鎌倉時代に1回、被災したが、その都度に再建されてきた。その後、江戸時代享保2年1月4日1717年)に講堂からの出火によって中金堂や南金堂と共に焼失した。この時は資金難のために再建は叶わず、基壇を残すのみという状態になってしまった。そうして今は西金堂跡として往時を偲ぶばかりとなっている。 ただ、堂内に納められていた寺宝には焼失を免れて今日まで伝えられているものが少なくない。釈迦如来像(伝運慶作。体部は焼失し、今は頭部のみが国宝館に安置されている)、両脇侍像(薬王菩薩像と薬上菩薩像。今は中金堂に両脇侍像として安置)、梵天帝釈天像(奈良時代の作。明治時代に国外へ流出し、今は米国サンフランシスコアジア美術館English版が所蔵)、十大弟子像(奈良時代の作。今は10躯中の6躯を国宝館などに安置)、八部衆像(奈良時代の作。今は国宝館に安置)、金剛力士像(伝定慶作。今は国宝館に安置)、四天王(所在不明)、華原磐(奈良時代の作。今は国宝館に安置)などがそれである。

大湯屋

現存する興福寺大湯屋は、室町時代中期・応永年間(1394-1427年)頃の再建。平面は桁行四間、梁間四間。屋根は一重、本瓦葺で、西面を入母屋造、東面を切妻造とする[7]1953年(昭和28年)3月31日 、文化財保護法に基づく重要文化財に指定されている[12]

興福寺大湯屋は、五重塔の東方に建つ。五重塔と同じ、応永年間(1394-1427年間)の頃に再建された。

菩提院大御堂

五重塔の南、三条通りを渡ったところに建つ、興福寺の子院である。現在の堂は天正8年(1580年)の再建で、本尊阿弥陀如来坐像(重文)などを安置する。

本坊

興福寺本坊( - ほんぼう)は、境内東方に位置する。一般には公開されていない。

  • 木造聖観音立像(重文) - 本坊持仏堂(大圓堂)本尊。鎌倉時代の作。一般には公開されていないが、1997年東京国立博物館で開催された「興福寺国宝展」で初めて公開されたほか、2007年10月20日 - 11月25日に寺内で初めて公開。寺伝では聖観音像とされているが、像内納入文書によれば、本来は弥勒菩薩像として、建長5年(1253年)に仏師快円によって作られたものである[13]

食堂跡

興福寺食堂(じきどう)は、奈良時代に創建され、焼失と再建を繰り返したが、1874年(明治7年)、廃仏毀釈のあおりで興福寺が荒廃していた時代に取り壊された[14]。跡地には、1959年(昭和34年)になって寺宝を納める耐火式宝物庫「国宝館」が建設された。旧食堂の遺構は国宝館の地下にそのままの形で保存されている。

国宝館

国宝館(こくほうかん)は、文化財の収蔵と展示を目的とする耐火式収蔵施設で、1959年(昭和34年)、食堂及び細殿の跡地に建てられた。鉄筋コンクリート構造であるが、外観は、創建時の食堂、すなわち奈良時代の寺院建築を模したものとなっている。国宝館の内部には、食堂の本尊であった巨大な千手観音立像(高さ5.2メートル)が中央に安置され、仏像を始めとする多くの寺宝が展示されている。2010年3月にリニューアルオープンし、従前に比べ展示点数が増えたほか、文化財に与える悪影響が少ないLED照明が採用されたことにより、多くの仏像がガラスケースなしで見られるようになった。現館長は金子啓明。なお、国宝館は耐震改修工事のため、2017年1月から12月までの1年間休館し、2018年1月に再開した。[15]

ファイル:ASURA Kohfukuji.jpg
阿修羅像/八部衆像の1躯。
  • 乾漆八部衆立像(国宝) - 奈良時代の作。もと西金堂本尊釈迦如来像の周囲に安置されていた群像の1つ。五部浄沙羯羅(しゃがら)、鳩槃荼(くはんだ)、乾闥婆(けんだつば)、阿修羅迦楼羅緊那羅畢婆迦羅(ひばから)の8体が揃って現存するが、五部浄像は大破して胸から下の体部が失われている。中でも三面六臂(顔が3つで手が6本)の阿修羅像が著名である(※右列に画像あり)。
  • 乾漆十大弟子立像6躯(国宝)-奈良時代の作。八部衆像とともに、西金堂本尊釈迦如来像の周囲に安置されていた群像の一つである。当然ながら制作当初は10体の群像であったが、4体は明治時代に寺外へ流出し、舎利弗目犍連(もくけんれん)、須菩提富楼那迦旃延羅睺羅(像名はいずれも寺伝による)の6体のみが寺に現存する。寺外に流出した4体は、明治時代の古写真に写っているが、いずれも破損が激しい。これら4体のうち、大倉集古館旧蔵の1体(伝優波離像)は関東大震災で焼失した。他の3体は以下の所蔵先に現存するが、いずれの像も原形を留めていない。
  • 銅造仏頭(国宝) - 白鳳時代の作で、頭部のみ残っているが、白鳳文化を代表する作品。旧山田寺仏頭とも。元来、飛鳥の山田寺(現・奈良県桜井市)講堂本尊薬師三尊像の中尊像の頭部で(前記)、東金堂にあったが、室町時代の火災で頭部だけがかろうじて焼け残った。(この火災により、右耳付近が大きく変形している)。この頭部は新しく作った本尊像の台座内に納められて長らく人目にふれず、1937年(昭和12年)に再発見された。この時には他に、類例の少ない銀製の仏像の腕(重文)も発見されている。※右列に画像あり。
  • 木造仏頭(重文) - 廃絶した西金堂の旧本尊・釈迦如来像の頭部。鎌倉時代。頭部のほかに両手の一部、光背を飾っていた飛天像と化仏(小型の仏像)も残っている。従来、運慶の兄弟子・成朝の作とされていたが、近年、興福寺別当(住職)信円の日記の記述から、文治2年(1186年)正月に運慶によって作られたとする説が有力となっている。
金剛力士像(吽形) 金剛力士像(阿形)
金剛力士像(吽形)
金剛力士像(阿形)
天灯鬼像 竜灯鬼像
天灯鬼像
竜灯鬼像
  • 木造金剛力士立像(国宝) - もと西金堂安置。鎌倉時代。定慶作とする説もある。※右列に画像あり。
  • 木造天燈鬼・龍燈鬼立像(国宝)-もと西金堂安置。大きな燈篭を、天燈鬼は肩にかつぎ、龍燈鬼は頭上で支える。架空の存在を写実的かつユーモラスに表現した、鎌倉期彫刻の傑作である。龍燈鬼像は運慶の子息である康弁の建保3年(1215年)の作で、天燈鬼も同人か周辺の仏師の作と思われる。※右列に画像あり。
  • 木造千手観音立像(国宝) - もと食堂(じきどう)本尊。現在は、食堂跡地に建つ国宝館の中央に安置される[注 5]。高さ5.2メートルの巨像で、像内納入品の銘記から鎌倉時代、寛喜元年(1229年)頃の完成と推定される。この千手観音像は記録によると造像開始から完成まで4半世紀の歳月を要した。当初の造像担当者であった成朝は運慶の父康慶の兄弟子にあたり、康慶よりも正当な慶派の後継者であった。しかし成朝は病弱であったため千手観音像の制作途中で亡くなったと推定されている。その後放置されていたものが何らかの理由で制作が再開され、別の仏師の手により完成された。像の部材は制作が中止されている間風雨に晒されていたらしく、内部の木肌は酷く痛んだ状態であった。
  • 板彫十二神将像(国宝) - 平安時代11世紀半ばの作。日本では珍しい、板に浮き彫りにした仏像で、現在は剥落しているが、もとは彩色されていた。12面完存している。像容は誇張的にデフォルメされており、武神像でありながらどこかユーモラスな雰囲気が漂う。厚さ3cmほどの板に彫られたとは思えないほど立体感と奥行きが感じられ、特に顔や手足の筋肉は微妙な段差と起伏によって巧みに表されており、作者の高い技量を見て取ることが出来る。10世紀末期に活躍した画僧・玄朝(源朝)の図様を元に制作された。江戸期の文献には、この板彫を指すと見られる十二神将像が東金堂にあったという記載があるが、それ以前の伝来については解っていない。十二神将は薬師如来を守護し、仁和寺の薬師如来坐像の台座には十二神将を彫った作例があることから、元々は薬師像の台座側面に貼られていたと推測される。
  • 金銅燈籠(国宝) - 南円堂前に立っていた銅製の燈籠で、現在は国宝館に展示されている。平安時代初期の弘仁7年(816年)の銘があり、紀年銘のある燈籠としては日本最古のものである。火袋の文字は当代の書道史の遺品としても貴重。
  • 梵鐘(国宝) - 奈良時代、神亀4年(727年)の銘がある。制作年の分かる梵鐘としては、妙心寺鐘(698年)に次いで、日本で二番目に古い。現在は仮講堂に所在。

文化財

木造十二神将像のうち、伐折羅像(左)と波夷羅像(右) 木造弥勒仏坐像(北円堂) 木造不空羂索観音坐像(南円堂)
木造十二神将像のうち、伐折羅像(左)と波夷羅像(右)
木造弥勒仏坐像(北円堂)
木造不空羂索観音坐像(南円堂)

現在の境内と合わせて奈良公園の一部にまたがる旧境内が国の史跡に指定されている。所有する国宝は26件、重要文化財は44件になる。

国宝

  • 東金堂
  • 五重塔
  • 北円堂(附:旧内陣小壁8枚、銘札1枚)
  • 三重塔
  • 木造文殊菩薩坐像(東金堂)
  • 木造維摩居士坐像 定慶作(東金堂)
  • 木造四天王立像(東金堂) ※右列に広目天像の画像あり。
  • 木造十二神将立像(東金堂) ※右列に伐折羅像と波夷羅像の画像あり。
  • 木造弥勒仏坐像 運慶作(北円堂) ※右列に画像あり。
  • 木造無著立像・木造世親立像 運慶作(北円堂) ※「北円堂」節に画像あり。
  • 木心乾漆四天王立像(北円堂)
  • 木造不空羂索観音坐像 康慶作(南円堂) ※右列に画像あり。
  • 木造四天王立像(中金堂) ※右列に画像あり。
  • 乾漆八部衆立像 8躯(国宝館・旧西金堂)
  • 乾漆十大弟子立像 6躯(国宝館・旧西金堂)
  • 木造金剛力士立像 2躯(国宝館・旧西金堂)
  • 木造天燈鬼立像・木造龍燈鬼立像(国宝館・旧西金堂)
  • 木造法相六祖坐像 6躯 康慶作(南円堂)
  • 板彫十二神将像(国宝館・旧東金堂)
  • 銅造仏頭(国宝館・旧東金堂)
  • 木造千手観音立像(附:像内納入品)(国宝館・旧食堂)
  • 金銅燈篭
  • 梵鐘
  • 華原磬 ※右列に画像あり。
  • 日本霊異記上巻 延喜四年書写奥書
  • 興福寺金堂鎮壇具(銀製鍍金唐花文鋺2口、銀製鍍金唐草文脚杯残欠1口、銀鋺7口、水晶念珠玉5箇、水晶玉類6箇) - 1884年(明治17年)に発掘された鎮壇具の大部分は東京国立博物館の所蔵になっている。興福寺所蔵分は銀器、水晶玉など21点。

阿修羅像は「乾漆八部衆立像 8躯」のうちの1躯である。

重要文化財

(建造物)
  • 大湯屋
  • 南円堂
(彫刻)
  • 木造薬王菩薩・薬上菩薩立像(中金堂)
  • 木造四天王立像(南円堂) - 2018年度国宝に指定見込み[17]
  • 銅造薬師如来および両脇侍像(東金堂)
  • 木造阿弥陀如来坐像(菩提院大御堂)
  • 木造阿弥陀如来坐像(仮講堂)
  • 木造釈迦如来坐像(国宝館)
  • 木造薬師如来坐像・像内納入品(薬師経)(国宝館)
  • 木造仏頭(附:仏手2箇)(国宝館・旧西金堂本尊)
  • 木造飛天・化仏 11躯(飛天8、化仏3)(国宝館・旧西金堂本尊光背付属)
  • 木造帝釈天立像(国宝館)- 寺では「梵天像」と称している。
  • 木造梵天・帝釈天立像(国宝館)
  • 木造地蔵菩薩立像(国宝館)
  • 厨子入木造弥勒菩薩半跏像(附:像内納入品)(国宝館) - 大乗院持仏堂旧所在
  • 厨子入木造吉祥天倚像(国宝館)
  • 銀造仏手(国宝館)
  • 木造大黒天立像
  • 木造広目天立像(奈良国立博物館寄託) - 四天王のうちの1体。残り3体は滋賀・MIHO MUSEUM(持国天)および奈良国立博物館(増長天・多聞天)所蔵。
  • 木造聖観音立像(弥勒菩薩立像)快円作(本坊持仏堂)
  • 木造釈迦如来立像(1929年盗難)

(参考)広島県尾道市生口島)の耕三寺所蔵の木造釈迦如来坐像(1901年重文指定)はもと興福寺にあり、第二次大戦後に耕三寺に移ったものである。

(絵画、書跡典籍ほか)

  • 絹本著色慈恩大師像
  • 絹本著色慈恩大師像
  • 絹本著色淄州(ししゅう)大師画像
  • 絹本著色二天王画像
  • 護法善神扉絵 12面
  • 細字(さいじ)法華経 天平十六年書写奥書
  • 経典釈文断簡
  • 成唯識論(じょうゆいしきろん)巻十 天平宝字五年小治田弟成書写奥書
  • 紺紙金字成唯識論 10巻[注 6][注 7]
  • 紺紙金泥金剛般若波羅蜜経 奥に康永二年二条良基の願文あり
  • 宋版一切経 4,354帖
  • 講周易疏論家義記断簡
  • 大慈恩寺三蔵法師伝 10巻
  • 僧綱補任 6巻
  • 明本抄 巻第一、第三、第六、第十紙背文書(内1通栄西自筆)附:建暦二年十二月廿三日貞慶付嘱状等(6通)1巻
  • 延暦寺智行高僧伝
  • 左府抄 3巻 寛喜三年実信鈔写奥書
  • 聖徳太子伝暦 4帖 徳治二年書写奥書
  • 篳篥譜(ひちりきふ)
  • 興福寺別当次第 6巻
  • 造興福寺記
  • 春日版版木 2,778枚(附 版本瑜伽師地論(春日版)91巻、版本大般若経(春日版)610巻)

典拠:2000年(平成12年)までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。

御詠歌

興福寺・南円堂の御詠歌は、「春の日は 南円堂に かがやきて 三笠の山に 晴るるうす雲」

前後の札所

西国三十三所
8 長谷寺 -- 9 興福寺 -- 10 三室戸寺

アクセス

  • 近鉄奈良線近鉄奈良駅下車徒歩7分。
  • 境内自由。国宝館、東金堂は通年拝観可(有料)。北円堂・仮講堂の内部は春・秋などに期日を限って公開。南円堂開扉は10月17日と特別公開時のみ。

近隣施設

参考文献

  • 井上靖塚本善隆監修、大原富枝多川俊映著 『古寺巡礼奈良11 興福寺』、淡交社、1979
  • 小西正文 『興福寺』(日本の古寺美術5)、保育社、1987 ISBN 4-586-72005-0
  • 『週刊朝日百科 日本の国宝』55 - 57号(興福寺1 - 3)、朝日新聞社、1998。後に『朝日百科 日本の国宝5 近畿3[奈良]』 朝日新聞社、1999年、所収、ISBN 4-02-380012-0
  • 西村公朝 『釈迦と十大弟子』(とんぼの本) 新潮社、2004 ISBN 4-10-602114-5
  • 金子啓明 『もっと知りたい興福寺の仏たち』(アートビギナーズ・コレクション)、東京美術、2009 ISBN 978-4-8087-0859-7
  • 『古寺をゆく1 興福寺』小学館101ビジュアル新書、2009年4月、ISBN 978-4-098-23001-3 写真多数、貫首の法話がある。
  • 大橋一章・片岡直樹編著『興福寺 美術史研究のあゆみ』、里文出版、2011、ISBN 978-4-8980-6379-8
辞典類
図録
  • 東京国立博物館編 『興福寺国宝展』 芸術研究振興財団、1997
  • 『興福寺』(興福寺国宝館で発売されていた解説入り図録、著者名表記なし)、1997
  • 東京藝術大学大学美術館ほか編 『興福寺国宝展』 朝日新聞社、2004

脚注

注釈

  1. なお、唐において「弘福寺」が「興福寺」と改名された事例があるとして、通説では平城遷都後も飛鳥に留まったとされる川原寺(弘福寺)を移転・継承する意図も含まれていたとする説もある[1]
  2. 室町時代になると、十市氏を刀禰とする長谷川党、箸尾氏を刀禰とする長川党、筒井氏を刀禰とする戌亥脇党、楢原氏を中心とした南党、越智氏を中心とした散在党、平田党の六党が割拠し、その中でも筒井氏、越智氏、箸尾氏、十市氏の四氏が「大和四家」と呼ばれる勢力に成長していった。
  3. 信円は松殿家の始祖となった松殿基房の同母弟で、近衛家の始祖となった近衛基実と九条家の始祖となった九条兼実の異母弟にあたる。彼は奈良僧正と呼ばれ、後白河法皇、兄の松殿基房、それに九条兼実といった院や摂関家の有力者との関わりが深かったことが玉葉などの記述に見える。
  4. これら3体の写真は、『週刊朝日百科 日本の国宝 55 興福寺1』の5-141頁および5-143頁にある。
  5. 食堂は明治の廃仏毀釈により取り壊されその跡地に国宝館が建っている。
  6. 当初指定時(1956年)は「9巻」。1999年に巻四が追加指定され「10巻」となった。(平成11年6月7日文部省告示第139号)
  7. 文化庁サイトの「国指定文化財等データベース」に「紺紙金字唯識論」とあるのは誤りで、「紺紙金字成唯識論」が正当。

出典

  1. 加藤優「興福寺と伝戒師招請」関晃先生古希記念会編『律令国家の構造』、吉川弘文館、1989年
  2. 磯貝誠「廃仏毀釈と興福寺」『興福寺 美術史研究の歩み』所収、p.39 - 44
  3. 興福寺整備計画
  4. 田中慶治「室町期大和国の守護に関する一考察 -幕府発給文書を中心に-」(初出:矢田俊文 編『戦国期の権力と文書』(高志書院、2004年) ISBN 978-4-906641-80-2/所収:田中『中世後期畿内近国の権力構造』(清文堂、2013年) ISBN 978-4-7924-0978-4)
  5. 『興福寺国宝展』(東京国立博物館、1997)、p.197
  6. 6.0 6.1 興福寺の四天王像がお引っ越し 奈良 朝日新聞 2018年2月16日
  7. 7.0 7.1 7.2 7.3 7.4 7.5 国指定文化財等データベース - 文化庁
  8. 8.0 8.1 8.2 8.3 明治30年12月28日内務省告示第87号(参照:国立国会図書館デジタルコレクション))
  9. 9.0 9.1 9.2 9.3 昭和27年10月16日文化財保護委員会告示第21号(指定は昭和27年3月29日付け)
  10. 昭和61年12月20日文部省告示第150号
  11. 「文化審議会答申〜国宝・重要文化財(美術工芸品)の指定について〜」(文化庁サイト、2018年3月9日発表)
  12. 昭和28年7月16日文化財保護委員会告示第59号(指定は昭和28年3月31日付け)
  13. 山本勉「興福寺本坊持仏堂弥勒菩薩立像(伝聖観音菩薩像)について」『Museum』553号(1998年4月)
  14. 『興福寺国宝展』(東京国立博物館、1997)、p.221
  15. 奈良新聞2016年12月30日付
  16. 本件四天王像の各個の像名について、『奈良六大寺大観 興福寺2』をはじめ、既存の文献・図録では、(a)剣を持つ像、(b)右手を腰に当て、左脚を遊脚とする像、(c)左脚を支脚とし、口を閉じる像をそれぞれ持国天、増長天、広目天としているが、興福寺のサイトでは(a)(b)(c)をそれぞれ増長天、広目天、持国天としている。本項解説は当面、既存の文献・図録に従う。
  17. 「文化審議会答申〜国宝・重要文化財(美術工芸品)の指定について〜」(文化庁サイト、2018年3月9日発表)

関連項目

外部リンク

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