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'''自由民主党幹事長'''(じゆうみんしゅとうかんじちょう)は、[[日本]]の[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]の[[幹事長]]。[[自由民主党総裁]]を補佐し、党務を執行する役職である<ref>自民党党則第8条1項。</ref>。
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'''自由民主党幹事長'''(じゆうみんしゅとうかんじちょう)
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[[日本]]の[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]の[[幹事長]]。[[自由民主党総裁]]を補佐し、党務を執行する役職である<ref>自民党党則第8条1項。</ref>。
  
 
== 概説 ==
 
== 概説 ==
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通常、総裁に代わり党務を掌握しているため絶大な権限を持ち、俗に「閣僚ポスト2つ分」と言われる<ref group="注">筆頭副幹事長を務めた[[海部俊樹]]によると、これですら閣僚級の扱いであったという。</ref>。党の実務責任者として重要な任務が多いことから、幹事長経験者は総裁候補と目されることが多く、過去に自民党総裁に就任した24名のうち半数の12名までが幹事長経験者であった。また[[谷垣禎一]]は幹事長経験がなく総裁に就任したが、一度総裁を辞したのちに幹事長に就任している(現在までで唯一の例)。
 
通常、総裁に代わり党務を掌握しているため絶大な権限を持ち、俗に「閣僚ポスト2つ分」と言われる<ref group="注">筆頭副幹事長を務めた[[海部俊樹]]によると、これですら閣僚級の扱いであったという。</ref>。党の実務責任者として重要な任務が多いことから、幹事長経験者は総裁候補と目されることが多く、過去に自民党総裁に就任した24名のうち半数の12名までが幹事長経験者であった。また[[谷垣禎一]]は幹事長経験がなく総裁に就任したが、一度総裁を辞したのちに幹事長に就任している(現在までで唯一の例)。
  
=== 選挙の指揮 ===
 
幹事長の最大の仕事は、[[選挙]]活動を指揮し、勝利することである。幹事長は立候補者に対する公認権を持ち、さらに党財政も管理しているため、公認と資金両面から党内において絶大な発言力を握る。特に、[[衆議院議員総選挙]]で[[小選挙区制]]が導入されたことにより、従来から大きかった幹事長の影響力がさらに増加したとされる。小選挙区制では、[[政党]]から公認を受けない候補が立候補して当選することが、従来の[[中選挙区制]]に比べて格段に難しくなったとされるからである<ref group="注">中選挙区制時代には、1つの選挙区に自民党の候補者が複数立候補するため、派閥の力関係が候補者の資金や公認の割り振りに直結し、派閥の存在意義となっていた。小選挙区制では1つの選挙区で党の候補者は1人に限られるため、幹事長の公認権が以前に比べて増した。</ref>。また、自民党が与党の際は内閣総理大臣が事実上決定権を持つとされる衆議院解散権が、衆院選候補の公認権限を持つ自民党幹事長によって抑制されるケースがあった。
 
 
[[2007年]]([[平成]]19年)[[9月24日]]に総裁に就任した[[福田康夫]]は選挙対策を重視し、総裁直属の選挙対策委員会を設置した。その[[自由民主党選挙対策委員長|委員長]]を党三役と同格の党四役とし、総裁が指名するとしたことから、幹事長が独占してきた選挙指揮を選挙対策委員長が担うこととなった<ref group="注">なお、旧総務局長や選挙対策総局長は幹事長に指名権があったため、幹事長の権限の一部を総裁に移譲する意味も持つ。</ref>。しかし、[[2009年]](平成21年)[[8月30日]]の[[第45回衆議院議員総選挙|衆院選]]で下野後の同年9月28日に新たに総裁となった[[谷垣禎一]]は、翌29日にさっそく組織再編に着手し、選挙対策委員会は選挙対策局に変更格下げした。これにより、再び幹事長が選挙指揮を担うこととなった。
 
 
[[2012年]](平成24年)[[12月25日]]に実施された自民党役員人事において総裁の[[安倍晋三]]は福田同様選挙対策を重視し、総裁直属の選挙対策委員会を再設置した。その[[自由民主党選挙対策委員長|委員長]]を党三役と同格の党四役とし、総裁が指名するとした。同時に委員長に選挙対策局長の[[河村建夫]]を指名した。
 
 
=== 国会運営、法案審議 ===
 
[[画像:国会議事堂 第12控室 自由民主党幹事長室.jpg|thumb|200px|[[国会議事堂]]内の第12控室は、長らく自由民主党幹事長室とされてきた<ref>[http://www.jiji.com/jc/v?p=ve_pol_new-syugiin090911j-04-w490 【図解・政治】衆院内の議員控室]、時事ドットコム、2009年。</ref>。2009年9月から2012年12月までは民主党幹事長控室となっていた。]]
 
幹事長は、選挙以外にも、衆参両院の[[議院運営委員会]]、党内の[[自由民主党国会対策委員会|国会対策委員会]]などを通じて、国会運営、法案審議の指揮を行う。国会運営は、法案審議のみならず選挙日程にも関係するため、選挙の指揮に次ぐ重要な役割である。幹事長は他党との各種交渉の指揮も行うため、連立政権を組んでいる場合には、連立を組んでいる政党との窓口も幹事長が担当した。幹事長は他党との政策協議、国会運営の指図等を通じて、間接的に政策の企画立案にも関与することとなる。
 
 
=== 党務 ===
 
幹事長は党務全般を管理している。そのため、自民党の財政、人事についても大きな権限を握っている。党則上は副幹事長(幹事長代行・代理も含む)、幹事長の下に置かれる各局の局長・次長、国会対策委員長の決定権を持つ。党内の役職だけでなく、[[国務大臣|閣僚]]<ref group="注">普通、組閣本部のメンバーとして人事に関わる。</ref>や国会の委員長ポスト、場合によっては高級官僚の人事にも影響力を及ぼすことがある。自民党が初めて下野した[[細川内閣]]の時期以降、自民党が銀行から融資を受ける際には、幹事長が[[連帯保証人]]となっている。
 
 
また、自民党のナンバー2として、同党の[[スポークスマン]]の役割も担い、定例記者会見を行う。さらに、テレビ等で各党幹部を集めて討論を行う際には、党の政策責任者である[[自由民主党政務調査会|政調会長]]に代わって、党を代表して幹事長が出演することもある。
 
 
== 総幹分離 ==
 
総幹分離とは、「幹事長は総裁の出身派閥から出さない」という慣例の通称である。[[1979年]](昭和54年)以降、24年間にわたり踏襲され、その後も概ね維持されている。閣僚任免権をもつ総理総裁と、党役員任免権および公認権をもつ幹事長が同一派閥から出ることによって、特定派閥に権力が集中するのを抑制するという趣旨である。
 
 
自民党結党以来、幹事長には総裁派閥の出身者など総裁に近い人物が就任するのが通例であったが、[[1974年]](昭和49年)、[[椎名悦三郎]]が[[椎名裁定]]によって総裁に[[三木武夫]]を選出する際、選出の条件として総幹分離が打ち出された。これにより、三木は任期中、他派閥から幹事長を指名した。また、次の総裁・[[福田赳夫]]は、当初「大福連合」に政権の基盤を置いていたこともあって総幹分離を踏襲し、[[大平正芳]]を幹事長に起用した。[[1978年]](昭和53年)12月、福田に総裁選で勝利した大平は、「(裁定ではなく)公選で総裁に選出された場合には、総幹分離は適用されない」として、総裁着任当初、自派の[[鈴木善幸]]の幹事長起用を模索した。しかし、この人事案は他派の反発を買ったため、自派ながら比較的派閥色の薄い[[斎藤邦吉]]を幹事長に起用した。このように、総幹分離は、この時点では必ずしも明確な慣行とはされていなかったと解される。その後、大平は衆議院総選挙で大敗した責任を追及され、妥協策として反主流派である中曽根派の[[櫻内義雄]]を幹事長とした。以後、[[四十日抗争]]直後から[[ハプニング解散]]に至る激しい党内抗争の中で、櫻内が党内融和に奔走した実績が買われ、櫻内は続く鈴木政権でも続投することになる。かかる経緯により、総幹分離の慣例は定着した。また、幹事長を総裁派閥以外から起用した場合、代わりに幹事長代理を総裁派閥から選任することが慣例化した。
 
 
[[1981年]](昭和56年)11月、総裁に就任した鈴木の下で、櫻内に替わって[[二階堂進]](田中派)が幹事長に就任する。このとき以降、最大派閥を率いていた[[田中角栄]]は、自らの総裁返り咲きのために自派から総裁候補を出さず、代わりに幹事長ポストに自派議員を送りこみ続けた。田中派から竹下派に代替わりしてからも同様であり<ref group="注">実際には田中・竹下派ではない幹事長も存在するが、他派閥のなかでも同派と良好な関係の人物が起用された。</ref>、自派から総裁を出していないときは、その代わりに幹事長ポストを得、総裁の党運営を牽制した。このことも総幹分離を定着させた一因である。
 
 
[[1994年]](平成6年)に導入された衆議院の小選挙区制度は、派閥の影響力を殺ぎ、党本部への権力集中を促進した。さらに、派閥中心の党運営に否定的で官邸主導の政権運営を行った[[小泉純一郎]]の総裁就任によって、派閥の影響力はさらに低下した。小泉は総裁に就任すると、幹事長に山崎派の領袖[[山崎拓]]を起用した。これは、形式的には総幹分離に則っているが、山崎は小泉の盟友であり、最大派閥の橋本派(旧田中派)を排除して、主流派が総裁・幹事長を独占する形になった。小泉はさらに総裁再選に伴い、総裁派閥の[[安倍晋三]]を幹事長に起用し、24年間続いた総幹分離が形式の上からも途切れた。安倍の後任には再び山崎派の[[武部勤]]を起用した。もっとも、武部が自らを「偉大なるイエスマン」と称したことからも分かる通り、この人事は総幹分離によって党内融和を図ったというよりも、むしろ総裁の意向の通りやすい人物を選んだものであって、小泉はここでも派閥にとらわれない人物本位の人事を貫いた。小泉の後継総裁である安倍晋三は、当初は出身派閥の[[中川秀直]]を幹事長に起用したものの、野党に惨敗した[[第21回参議院議員通常選挙|2007年(平成19年)7月の参院選]]後に行った役員改選では[[麻生太郎]](麻生派)に幹事長を任せた。小泉以降の総裁は、総幹分離の慣例の趣旨を踏まえつつ、柔軟な人事を行っている。いずれにしても、熾烈な派閥抗争を調整し、権力のバランスをとるという意味での総幹分離の慣例は、その役割を終えた。
 
 
== 歴代自由民主党幹事長一覧 ==
 
{|class="wikitable"
 
!代!!氏名!!就任日<br />退任日!!出身!!総裁
 
|-
 
|1||'''[[岸信介]]'''<br>[[File:Nobusuke Kishi 01.jpg|60px]]||1955年11月<br>1956年11月||岸派||鳩山一郎
 
|-
 
|2||rowspan="2"|'''[[三木武夫]]'''<br>[[File:Takeo Miki 197412.jpg|60px]]||rowspan="2"|1956年12月<br>1957年7月||rowspan="2"|三木・松村派||石橋湛山
 
|-
 
|3||rowspan="4"|岸信介
 
|-
 
|4||[[川島正次郎]]<br>[[File:川島正次郞.jpg|60px]]||1957年7月<br>1959年1月||岸派
 
|-
 
|5||'''[[福田赳夫]]'''<br>[[File:Takeo Fukuda 1977 adjusted.jpg|60px]]||1959年1月<br>1959年6月||岸派
 
|-
 
|6||[[川島正次郎]]<br>[[File:川島正次郞.jpg|60px]]||1959年6月<br>1960年7月||岸派
 
|-
 
|7||[[益谷秀次]]||1960年7月<br>1961年7月||池田派||rowspan="3"|池田勇人
 
|-
 
|8||前尾繁三郎<br>[[File:Shigesaburo Maeo.jpg|60px]]||1961年7月<br>1964年7月||池田派
 
|-
 
|9||rowspan="2"|'''三木武夫'''<br>[[File:Takeo Miki 197412.jpg|60px]]||rowspan="2"|1964年7月<br>1965年12月||rowspan="2"|三木・松村派
 
|-
 
|10||rowspan="5"|佐藤栄作
 
|-
 
|11||'''[[田中角栄]]'''<br>[[File:Kakuei Tanaka 197207.jpg|60px]]||1965年12月<br>1966年12月||佐藤派
 
|-
 
|12||'''福田赳夫'''<br>[[File:Takeo Fukuda 1977 adjusted.jpg|60px]]||1966年12月<br>1967年11月||福田派
 
|-
 
|13||'''田中角栄'''<br>[[File:Kakuei Tanaka 197207.jpg|60px]]||1967年11月<br>1971年6月||田中派
 
|-
 
|14||[[保利茂]]<br>[[File:Hori Shigeru.JPG|60px]]||1971年6月<br>1972年7月||佐藤派
 
|-
 
|15||[[橋本登美三郎]]||1972年7月<br>1974年11月||田中派||rowspan="2"|田中角栄
 
|-
 
|16||[[二階堂進]]<br>[[File:Nikaido Susumu Bust.JPG|60px]]||1974年11月<br>1974年12月||田中派
 
|-
 
|17||'''中曽根康弘'''<br>[[File:Yasuhiro Nakasone in Andrews cropped.jpg|60px]]||1974年12月<br>1976年9月||中曽根派||rowspan="2"|三木武夫
 
|-
 
|18||[[内田常雄]]||1976年9月<br>1976年12月||大平派
 
|-
 
|19||'''[[大平正芳]]'''<br>[[File:Masayoshi Ohira at Andrews AFB 1 Jan 1980 walking cropped 2.jpg|60px]]||1976年12月<br>1978年12月||大平派||福田赳夫
 
|-
 
|20||[[斎藤邦吉]]||1978年12月<br>1979年11月||大平派||rowspan="2"|大平正芳
 
|-
 
|21||rowspan="2"|[[櫻内義雄]]<br>[[File:Yoshio Sakurauchi Scan10003.JPG|60px]]||rowspan="2"|1979年11月<br>1981年11月||rowspan="2"|中曽根派
 
|-
 
|22||rowspan="2"|鈴木善幸
 
|-
 
|23||rowspan="2"|二階堂進<br>[[File:Nikaido Susumu Bust.JPG|60px]]||rowspan="2"|1981年11月<br>1983年12月||rowspan="2"|田中派
 
|-
 
|24||rowspan="4"|中曽根康弘
 
|-
 
|25||[[田中六助]]||1983年12月<br>1984年10月||鈴木派
 
|-
 
|26||[[金丸信]]||1984年10月<br>1986年7月||田中派
 
|-
 
|27||'''[[竹下登]]'''<br>[[File:Noboru Takeshita 198711.jpg|60px]]||1986年7月<br>1987年10月||田中派→竹下派
 
|-
 
|28||[[安倍晋太郎]]<br>[[File:Shintarō Abe with his oldest son Hironobu in 1956.jpg|60px]]||1987年10月<br>1989年6月||安倍派||竹下登
 
|-
 
|29||'''[[橋本龍太郎]]'''<br>[[File:Hashimoto_Ryūtarō.jpg|60px]]||1989年6月<br>1989年8月||竹下派||宇野宗佑
 
|-
 
|30||[[小沢一郎]]<br>[[File:Ichiro Ozawa cropped 2 Yoshitaka Kimoto and Ichiro Ozawa 20010718 colorized.png|60px]]||1989年8月<br>1991年4月||竹下派||rowspan="2"|海部俊樹
 
|-
 
|31||'''[[小渕恵三]]'''<br>[[File:Keizo Obuchi.jpg|60px]]||1991年4月<br>1991年10月||竹下派
 
|-
 
|32||[[綿貫民輔]]||1991年10月<br>1992年12月||竹下派||rowspan="2"|宮沢喜一
 
|-
 
|33||[[梶山静六]]||1992年12月<br>[[1993年]]7月||[[平成研究会|小渕派]]
 
|-
 
|34||'''[[森喜朗]]'''<br>[[File:Yoshiro Mori cropped 2 Tim Hitchens and Yoshiro Mori 20150623.jpg|60px]]||1993年7月<br>[[1995年]]8月||[[清和政策研究会|三塚派]]||rowspan="2"|河野洋平
 
|-
 
|35||[[三塚博]]||1995年8月<br>1995年10月||三塚派
 
|-
 
|36||[[加藤紘一]]||1995年10月<br>[[1998年]]7月||[[宏池会|宮澤派]]||橋本龍太郎
 
|-
 
|37||'''森喜朗'''<br>[[File:Yoshiro Mori cropped 2 Tim Hitchens and Yoshiro Mori 20150623.jpg|60px]]||1998年7月<br>[[2000年]]4月||三塚派-[[清和政策研究会|森派]]||小渕恵三
 
|-
 
|38||[[野中広務]]<br>[[File:Hiromu Nonaka 199807.jpg|60px]]||2000年4月<br>2000年12月||小渕派-[[平成研究会|橋本派]]||rowspan="2"|森喜朗
 
|-
 
|39||[[古賀誠]]||2000年12月<br>[[2001年]]4月||[[宏池会|加藤派]]-[[宏池会 (古賀派)|堀内派]]
 
|-
 
|40||[[山崎拓]]<br>[[File:Taku_Yamasaki-Public_speaking-20050409.jpg|60px]]||2001年4月<br>[[2003年]]9月||[[近未来政治研究会|山崎派]]||rowspan="3"|小泉純一郎
 
|-
 
|41||'''[[安倍晋三]]'''<br>[[File:57 Shinzo Abe 3x4.jpg|60px]]||2003年9月<br>[[2004年]]9月||森派
 
|-
 
|42||[[武部勤]]||2004年9月<br>[[2006年]]9月||山崎派
 
|-
 
|43||[[中川秀直]]||2006年9月<br>[[2007年]]8月||森派-[[清和政策研究会|町村派]]||rowspan="2"|安倍晋三
 
|-
 
|44||'''[[麻生太郎]]'''<br>[[File:Taro Aso in World Economic Forum Annual Meeting in Davos (cropped).jpg|60px]]||2007年8月<br>2007年9月||[[為公会|麻生派]]
 
|-
 
|45||[[伊吹文明]]<br>[[File:사본 -8632564647 fb1ba67294 o.jpg|60px]]||2007年9月<br>[[2008年]]8月||[[志帥会|伊吹派]]||rowspan="2"|福田康夫
 
|-
 
|46||'''麻生太郎'''<br>[[File:Taro Aso in World Economic Forum Annual Meeting in Davos (cropped).jpg|60px]]||2008年8月<br>2008年9月||麻生派
 
|-
 
|47||[[細田博之]]<br>[[File:Hiroyuki Hosoda (2016).jpg|60px]]||2008年9月<br>[[2009年]]9月 ||町村派||麻生太郎
 
|-
 
|48||[[大島理森]]<br>[[File:Queen's_Birthsday_Party_2016_(26830017170).jpg|60px]]||2009年9月<br>[[2010年]]9月 ||高村派||rowspan="2"|谷垣禎一
 
|-
 
|49||[[石原伸晃]]<br>[[File:Nobuteru Ishihara cropped 2 Ishihara Nobuteru 2012.jpg|60px]]||2010年9月<br>[[2012年]]9月 ||山崎派
 
|-
 
|50||[[石破茂]]<br>[[File:Gates meets Ishiba 8 November 2007 cropped for Ishiba.jpg|60px]]||2012年9月<br>[[2014年]]9月||無派閥||rowspan="3"|安倍晋三
 
|-
 
|51||[[谷垣禎一]]<br>[[File:Tanigaki Sadakazu 1-1.jpg|60px]]||2014年9月<br>[[2016年]]8月||[[宏池会 (谷垣派)|谷垣グループ]]
 
|-
 
|52||[[二階俊博]]<br>[[File:Toshihiro Nikai-20061120.jpg|60px]]||2016年8月<br>||[[志帥会|二階派]]
 
|}
 
※…形式上な派閥解消または派閥離脱は実質的な所属派閥を記載。<br />
 
'''太字'''は後に総裁に就任した人物。[[谷垣禎一]]は幹事長就任前に総裁を経験している
 
 
=== 歴代の自由民主党幹事長代行 ===
 
{| class="wikitable"
 
!代
 
!代行者氏名
 
!在任期間
 
!所属派閥
 
|-
 
|1
 
|[[田野瀬良太郎]]
 
|[[2011年]]10月 - [[2012年]]9月
 
|[[近未来政治研究会|山崎派]]
 
|-
 
|2
 
|[[菅義偉]]
 
|2012年9月 - 2012年12月
 
|無派閥
 
|-
 
|3
 
|[[細田博之]]
 
|2012年12月 - [[2016年]]8月
 
|[[清和政策研究会|細田派]]
 
|-
 
|4
 
|[[下村博文]]
 
|2016年8月 - [[2017年]]8月
 
|細田派
 
|-
 
|5
 
|[[萩生田光一]]
 
|2017年8月 -
 
|細田派
 
|}
 
 
== 記録 ==
 
*最年長就任記録:77歳5ヵ月 - [[二階俊博]]
 
*最年少就任記録:47歳1ヵ月 - [[田中角栄]]
 
*就任時最多当選衆議院議員回数記録:12回 - [[桜内義雄]]、[[二階堂進]]
 
*就任時最少当選衆議院議員回数記録:3回 - [[岸信介]]、[[安倍晋三]]
 
*連続最長在任記録:3年 - [[前尾繁三郎]]
 
*通算最長在任記録:4年1ヵ月 - [[田中角栄]]
 
*連続最短在任記録:1ヵ月 - [[麻生太郎]]
 
*通算最短在任記録:
 
  
 
== 脚注 ==
 
== 脚注 ==
200行目: 24行目:
 
{{Reflist}}
 
{{Reflist}}
  
== 関連書籍 ==
+
{{テンプレート:20180815sk}}
*[[浅川博忠]]『自民党幹事長というお仕事』(亜紀書房、[[2002年]])
 
*[[奥島貞雄]]『自民党幹事長室の30年』(中央公論新社、2002年)
 
 
 
== 関連項目 ==
 
*[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]
 
*[[自由民主党執行部]]、[[執行部]]
 
*[[自由民主党総務会]]
 
*[[自由民主党政務調査会]]
 
*[[幹事長]]
 
*[[総務会]]
 
*[[政策部会]]
 
  
{{自民幹事長}}
 
{{自由民主党 (日本)}}
 
 
{{デフォルトソート:しゆうみんしゆとうかんしちよう}}
 
{{デフォルトソート:しゆうみんしゆとうかんしちよう}}
 
[[Category:自由民主党|かんしちよう]]
 
[[Category:自由民主党|かんしちよう]]
 
[[Category:自由民主党幹事長|*]]
 
[[Category:自由民主党幹事長|*]]

2018/9/21/ (金) 09:22時点における版

自由民主党 > 自由民主党幹事長

自由民主党幹事長(じゆうみんしゅとうかんじちょう)

日本自由民主党幹事長自由民主党総裁を補佐し、党務を執行する役職である[1]

概説

総務会長政務調査会長選挙対策委員長とともに、党四役として同党総裁を補佐する。党則上総裁に次ぐとされる同党副総裁は常設の役職ではないので、幹事長が事実上の党ナンバー2とされる。党最高責任者である総裁が内閣総理大臣である場合は、党務全般を幹事長が握る。ただし、自民党の参議院議員団に関する党務については同党参議院幹事長が担当する。

任期は1年で再任の制限無し。任期途中で辞職した場合、新任者の任期は前任者の残任期間までである。総裁が新たに選任された場合は在任期間に関わらず、幹事長の任期は終了する。

幹事長は人事局、経理局、情報調査局、国際局などの党の組織を掌握している。また、幹事長は党の総合調整機関である役員会に参加する。なお、幹事長を補佐する役職として、幹事長代理および副幹事長が置かれる[2][注 1]。野党時代の2011年より新たに幹事長代行を新設した[注 2]

通常、総裁に代わり党務を掌握しているため絶大な権限を持ち、俗に「閣僚ポスト2つ分」と言われる[注 3]。党の実務責任者として重要な任務が多いことから、幹事長経験者は総裁候補と目されることが多く、過去に自民党総裁に就任した24名のうち半数の12名までが幹事長経験者であった。また谷垣禎一は幹事長経験がなく総裁に就任したが、一度総裁を辞したのちに幹事長に就任している(現在までで唯一の例)。


脚注

注釈

  1. 副幹事長の定員は30名以内で、党則に記載はないがそのうち1名が「筆頭」。副幹事長の中から幹事長代行と幹事長代理が幹事長により指名される。
  2. 2011年10月より新設で、定員は1名。党則8条2項に挙げられる順番や党役員一覧から、従来より存在した幹事長代理より上位職と見られる
  3. 筆頭副幹事長を務めた海部俊樹によると、これですら閣僚級の扱いであったという。

出典

  1. 自民党党則第8条1項。
  2. 自民党党則 平成25年3月17日 自民党ホームページより


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