「置塩城」の版間の差分

提供: miniwiki
移動先:案内検索
(1版 をインポートしました)
(内容を「{{テンプレート:20180815sk}}」で置換)
(タグ: Replaced)
 
1行目: 1行目:
{{日本の城郭概要表
+
{{テンプレート:20180815sk}}
|img = 画像:Okishio Castle April09 by CR.jpg
 
|img_capt = 置塩城(置塩山、城山)
 
|img_width = 300px
 
|name = 置塩城
 
|pref = 兵庫県
 
|ar_called = 藤丸城、小塩城
 
|struct = 連郭式山城
 
|tower_struct = 不明([[櫓]]と推定される塼列建物が発掘調査で確認されている)
 
|builders = [[赤松政則]]
 
|build_y = [[文明 (日本)|文明]]元年([[1469年]])
 
|revamp =
 
|rulers = [[赤松氏]]五代
 
|remains = 城郭(本丸、二の丸、三の丸等)
 
|reject_y = [[天正]]9年([[1581年]])
 
|cultural asset = 国の史跡
 
|location = {{ウィキ座標2段度分秒|34|55|21.598|N|134|40|52.11|E|region:JP-28_scale:80000}}
 
}}
 
 
 
'''置塩城'''(おきしおじょう、おじおじょう)は、[[兵庫県]][[姫路市]]にある[[日本の城]]([[山城]])。国の[[史跡]]に指定されている。
 
 
 
== 概要 ==
 
姫路市[[夢前町]]宮置、糸田にある標高370mの置塩山にある山城で姫路市の中心部の北10kmに位置し、北から南に[[夢前川]]が流れ、川沿いに播但街道がある要所に築城された。旧夢前町(現在は姫路市に吸収合併されて消滅)が国の史跡指定を目指した調査を実施した。[[1996年]][[3月28日]]に[[白旗城]]跡、[[感状山城]]跡と共に「[[赤松氏]]城跡」の名称で国の史跡に指定された。
 
 
 
== 歴史 ==
 
*文明元年([[1469年]])、標高370mの城山に[[赤松政則]]が築城した。以後、[[赤松氏]]の居城となる。
 
*天正5年([[1577年]])、[[赤松則房]]の時、[[播磨国]]に侵攻してきた羽柴秀吉([[豊臣秀吉]])に降伏。
 
*天正8年([[1580年]])、秀吉の[[城割]]令によって廃城となり、建物や石垣は解体して[[姫路城]]に移された。なお、現存する姫路城の「との一門」は、この時移築されたものといわれている。
 
 
 
=== 城主五代 ===
 
 
 
置塩城は、築城してから城割(破城)までの約100年間に、赤松氏五代にわたって[[城主]]が変わった。
 
 
 
;一代目 赤松政則
 
:政則の播磨国入国には[[管領]][[細川勝元]]の力添えがあり、当初は[[国衆]]にも歓迎されたので、播磨国・[[備前国]]・[[美作国]]の三国の守護に返り咲くことができた。しかし、当時の国衆は全国的に力が強く、三国を完全に統一することはできなかったようである。政則は明応5年([[1496年]])4月25日に42歳で逝去した。
 
;二代目 赤松義村
 
:政則に子はあったが、政則自身は赤松氏でも傍流の出身だったので有力一門の七条家から迎えた[[養子]]の[[赤松義村]]が二代目城主となった。義村の後見には[[守護代]]として[[浦上村宗]]が就いた。しかし、村宗は守護代の地位を利用して実権を握り、それに反発した義村を戦いの末屈服させ、[[大永]]元年([[1521年]])には幽閉し、暗殺した。
 
;三代目 赤松晴政
 
:反[[浦上村宗]]派は、義村の子[[赤松晴政]]を密かに三代目城主に据えた。その後、村宗は細川家の内紛に加担し、[[細川高国]]方について各地を転戦する。晴政は[[大物崩れ]]で村宗を背後から襲い、ついに倒した。しかし、その後も村宗の子の[[浦上政宗]]を服従させることはできなかった。[[天文 (日本)|天文]]7年(1538年)11月には[[出雲国|出雲]]の[[尼子晴久]]が大軍を率いて播磨に侵攻し、晴政も[[摂津国]]に逃亡する。晴久は2年後に播磨国から撤退し、晴政は帰国したがその後も政宗との対立は続いた。晩年にはその子・義祐を擁立した政宗のため置塩から退去し、[[龍野城]]の[[赤松政秀]]の庇護を受けた。[[永禄]]8年([[1565年]])に死去する。
 
;四代目 [[赤松義祐]]
 
:この頃になると備前国では[[宇喜多氏]]、美作国では[[浦上氏]]が勢力を拡大しており、[[所領]]はわずか飾東、飾西、神東の三郡だけとなっていた。その義祐も[[天正]]4年([[1576年]])に死去する。
 
;五代目 赤松則房
 
:最後の城主は[[赤松則房]]である。[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]の[[中国攻め]]に対して、則房を含めた播磨国の国衆達はほとんど戦うことなく降伏し、軍門に下った。播磨国を統一した秀吉は権力基盤を整えるために「城割」を実施し、筆頭に「置塩城」をあげて廃城にした。秀吉の命によって則房は[[天正]]13年([[1585年]])に[[阿波国]]の[[住吉村 (徳島県)|住吉城]]{{efn|[[板野郡]]23村。[http://www.town.aizumi.tokushima.jp/docs/2014012100052/ 藍住町観光マップ]}}に1万石で移封する。
 
 
 
== 置塩城の曲輪 ==
 
 
 
[[画像:置塩城5.jpg|thumb|本丸跡]]
 
[[画像:置塩城8.jpg|thumb|三の丸跡]]
 
[[画像:置塩城6.jpg|thumb|二の丸跡下の石垣]]
 
 
 
置塩城の[[曲輪]]は、小さいものを含めると60以上あり、曲輪壁面下部に土留めとして低い[[石垣]]が築かれている。
 
 
 
;主だった曲輪
 
 
 
*[[本丸]]
 
*本丸南曲輪群
 
*[[二の丸]]
 
*[[二の丸]]北曲輪群
 
*[[三の丸]]
 
*北曲輪群
 
*西曲輪群
 
*南西曲輪群
 
*南曲輪群
 
*茶室跡
 
*台所跡
 
 
 
== 置塩城の支城 ==
 
 
 
置塩城の周辺には、[[支城]]ではないかと思われる次のような[[城]]が点在している。
 
 
 
*[[小屋谷城]]
 
*[[鞍掛山城]]
 
*[[番城山城]]
 
 
 
これ以外にも数多くの[[支城]]があったと思われている。
 
 
 
赤松政則は播磨国[[守護]]に任じられ、姫路城(規模は現在のものよりはるかに小さい)を本拠地としていた。[[但馬国]]からの侵攻に備えるため、防御に優れた山城が必要になって置塩城を築城し、姫路城には[[小寺豊職]]を入れて置塩城の[[支城]]とした時期もあった。
 
 
 
== 城跡へのアクセス ==
 
 
 
[[画像:置塩城2.jpg|thumb|置塩城登山口]]
 
[[画像:置塩城9.JPG|thumb|置塩城登山口付近にある駐車場]]
 
 
 
*鉄道・バスでのアクセス
 
*:[[JR]][[山陽本線]] [[姫路駅]] → [[神姫バス]]「塩田・前之庄」行 宮置下車
 
*車でのアクセス
 
*:[[中国自動車道]][[福崎IC]] → 県道23号線 前之庄 → 県道67号線 宮置(登山口に駐車場あり)
 
*徒歩でのアクセス
 
*:登山口 → 山頂中心部まで徒歩約40分
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
=== 注釈 ===
 
{{Notelist}}
 
=== 出典 ===
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
{{No footnotes|date=2018年2月|section=1}}
 
*朽木史郎・橘川真一『ひょうごの城紀行(上)』神戸新聞総合出版センター、1998年4月。
 
 
 
== 関連項目 ==
 
*[[日本の城一覧]]
 
*[[兵庫県の城]]
 
*[[赤松氏]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
{{Commons|Category:Okishio Castle}}
 
*[http://map.yahoo.co.jp/pl?lat=34.91947&lon=134.68346306&p=%C3%D6%B1%F6%BE%EB%C0%D7 置塩城跡、YAHOO!地図情報]
 
*[http://www.city.himeji.lg.jp/s110/2212786/_5222/_5237/_5240/_5615.html 赤松氏城跡 置塩城跡、姫路市公式ホームページ]
 
*[http://www.nishi-harima.gr.jp/detail.php?eid=00058&sichyop=himeji 置塩城、西播磨観光協議会公式ホームページ]
 
 
 
{{Japanese-history-stub}}
 
 
 
{{DEFAULTSORT:おきしおしよう}}
 
[[Category:兵庫県の城]]
 
[[Category:兵庫県にある国指定の史跡]]
 
[[Category:姫路市の歴史]]
 
[[Category:赤松氏|城]]
 

2019/4/27/ (土) 20:23時点における最新版



楽天市場検索: