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{{日本の歴史|Jomon Vessel with Flame-like Ornamentation, attributed provenance Umataka, Nagaoka-shi, Niigata, Jomon period, 3000-2000 BC - Tokyo National Museum - DSC05620.JPG|画像説明=[[火焔土器]]}}
 
'''縄文時代'''(じょうもんじだい)は、約1万5,000年前([[紀元前11千年紀以前|紀元前131世紀頃]]){{#tag:ref|[[放射性炭素年代測定|較正炭素年代]]によれば、最古の[[土器]]は16,000年程前に遡る[[青森県]][[蟹田町]]大平山元II(おおだいらやまもとII)遺跡出土の縄文時代草創期土器が発見されている。暦年較正年代法による。暦年較正年代法とは、従来の放射性炭素測定年代は空気中の放射性炭素の濃度が一定であったという仮説に立っていたが、揺れが生じることが明らかになり、測定値を補正した年代のこと。|group=*}}から約2,300年前([[紀元前4世紀|紀元前4世紀頃]])、[[地質時代|地質年代]]では[[更新世]]末期から[[完新世]]にかけて[[日本列島]]で発展した時代であり、[[世界史]]では[[中石器時代]]ないしは、[[新石器時代]]に相当する時代である。[[旧石器時代]]と縄文時代の違いは、[[土器]]の出現や[[竪穴住居]]の普及、[[貝塚]]の形式などがあげられる。
 
  
縄文時代の終わりについては、地域差が大きいものの、定型的な水田耕作を特徴とする[[弥生文化]]の登場を契機とするが、その年代については[[紀元前]]数世紀から紀元前10世紀頃までで、多くの議論がある。
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'''縄文時代'''(じょうもんじだい)
  
なお、[[沖縄県]]では[[沖縄県の歴史#沖縄貝塚文化|貝塚時代前期]]に区分される。次の時代は同地域では貝塚時代後期となり、貝塚文化と呼ばれる。また[[北東北|東北北部]]から[[北海道]]では縄文時代の生活様式が継承されるため、[[続縄文時代]]と呼ばれる。
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[[弥生時代]]に先行する[[縄文土器]]をもつ文化の時代。実年代は,その発生の時期は前1万 2000~4500年とはっきりしないが,終末は前3~2世紀頃とされている。従来早期,前期,中期,後期,晩期の5期に分けられていたが,早期の前に草創期を加え,6期に分けるのが一般的になっている。縄自体を回転させるという日本独自の[[縄文]]が施されるのは草創期後半に入ってからである。この社会は主として狩猟,漁労に依存する採集経済の段階にあり,西方からの農耕文化の到来によって終末を迎える。磨製石器の存在,土器の発達度,大規模集落の出現などから,[[新石器時代]]の様相が強い文化といえる。集落跡や[[貝塚]]など縄文遺跡は北海道から九州まで各地に分布,[[三内丸山遺跡]]や[[鳥浜貝塚]]などが有名。 ([[縄文時代人]] )
  
== 概要 ==
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{{テンプレート:20180815sk}}
明治時代に始まる日本の先史時代の研究は、当初は[[石器時代]]という概念で先史時代を捉えており、その中で縄文式土器を使用した時期と弥生式土器を使用した時期が存在したという叙述が行われていた。また19世紀中は、日本列島の先史時代の住民を[[アイヌ]]や[[コロポックル|コロボックル]]と考える説も有力であり、これらの説が退けられたのは1920年代である。だがこの時期には[[記紀神話]]を日本列島の先史時代の歴史とする歴史叙述が力を持ち、考古学の知見に基づく日本列島の先史時代像が学界を超えて形成され始めたのは第二次世界大戦後となる<ref>山田康弘『つくられた縄文時代:日本文化の現像を探る』新潮社、2015年、33-51ページ</ref>。
 
 
 
戦後に編纂された歴史教科書では日本列島の先史時代に弥生式文化と縄文式文化の二つの文化の存在を示していたが、[[登呂遺跡]]や[[岩宿遺跡]]の発掘など考古学上の大きな事件が続いたことも影響し、1959年から60年にかけて日本考古学協会から刊行された『世界考古学大系』1巻および2巻において、学界における「縄文時代」「弥生時代」の区分が確立された。<ref>山田前掲書、55-58ページ</ref>
 
 
 
縄文時代は、縄文土器が使用された時代を示す呼称であったが、次第に生活内容を加えた特徴の説明が為されるようになり、磨製石器を造る技術、土器の使用、農耕狩猟採集経済、定住化した社会ととらえられるようになった。
 
 
 
=== 名称 ===
 
「縄文」という名称は、[[エドワード・S・モース]](Edward S. Morse [[1838年]] - [[1925年]])が[[1877年]]([[明治]]10年)に[[大森貝塚]]から発掘した土器を Cord Marked Pottery と報告したことに由来する。この用語は[[矢田部良吉]]により「索紋土器」(さくもんどき)と訳されたが、後に[[白井光太郎]]が「縄紋土器」と改めた。続いて、「[[縄文土器]]」という表記が用いられるようになった。時代の名称が「縄文時代」に落ち着くのは戦後のことである。なお[[佐原真]]はこの語の原義を念頭において「縄紋」という呼称を使用している<ref>佐原真『騎馬民族は来なかった』NHKブックス,1993年,10頁</ref>。
 
[[ファイル:Middle Jomon Period rope pottery 5000-4000BC.jpg|thumb|150px|縄文土器(縄の文様がついている。)]]
 
 
 
== 時期区分 ==
 
縄文土器の多様性は、時代差や地域差を識別する基準として有効である。土器型式上の区分から、縄文時代は、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に分けられる。研究当初は、前・中・後の三期区分だったが、資料の増加や研究の進展によって早期、晩期が加わり、最後に草創期が加えられた。そうした土器研究上の経緯を反映した時期区分であるため、中期が縄文時代の中頃というわけでもなく、生業や文化内容から見た時代区分としても再考の余地があるものの、慣用化した時期区分として定着している。
 
 
 
この時期区分を、[[炭素14年代測定法#AMS法|AMS法]]で測定して[[炭素14年代測定法#年代較正|暦年代に補正した年代]]で示すと、草創期(約1万5,000 - 1万2,000年前)、早期(約1万2,000 - 7,000年前)、前期(約7,000 - 5,500年前)、中期(約5,500 - 4,500年前)、後期(約4,500 - 3,300年前)、晩期(約3,300 - 2,800年前)となる。
 
 
 
また先に示した土器編年による区分の他、縄文時代を文化形式の側面から見て幾つかの時期に分類する方法も存在している。縄文時代の文化史的区分については研究者によって幾つかの方法があり、現在のところ学界に定説が確立されているわけではない。
 
 
 
; 岡村道雄の区分
 
: 考古学者の岡村は、定住化の程度で時期区分すると'''草創期'''から'''早期半ば'''頃までは住居とゴミ捨て場が設置されるが、住居を持たなかったり、季節によって移動生活を送るなどの半定住段階であると想定している。この段階は縄文時代の約半分の時間に相当する。次いで'''早期末'''から '''前期初頭'''には、定住が確立し集落の周りに貝塚が形成され、大規模な捨て場が形成される。'''中期後半'''には、東日本では地域色が顕著になるとともに、大規模な集落が出現して遺跡数もピークに達する。一方西日本では遺跡数が少なく定住生活が前期には既に後退している可能性すらある。'''後期'''になると東北から[[中央高地|中部山岳地帯]]の遺跡は、少数で小規模になり分散する。関東は大規模貝塚を営み、西日本も徐々に定住生活が復活する。'''後期後半'''には近畿から九州まで定住集落が散見されるようになる。この傾向は'''晩期前半'''まで続き、後半はさらに定住化が進み、[[瀬戸内地方]]から[[九州]]北部は[[稲作|水田稲作農耕]]を導入後、[[弥生時代]]早期へと移ってゆく<ref>「縄文時代概説」岡村道雄『日本の考古学』奈良文化財研究所編集 学生社 2007年4月</ref>。
 
; 佐々木高明による区分
 
: 文化人類学者の佐々木は縄文土器編年区分のうち草創期を旧石器時代から新石器時代への移行期として縄文I期、土器編年の縄文早期を縄文文化が完成に向かう時期として縄文II期、土器編年の縄文前期から晩期までを完成した縄文文化が保持された時期として縄文III期に分類した<ref>佐々木高明『日本史誕生』集英社、1991年</ref>。
 
; 泉拓良による区分
 
: 泉も佐々木による区分に近く、縄文草創期を「模索期」、縄文早期を「実験期」、縄文前期から晩期までを「安定期」としている。
 
 
 
== 旧石器から縄文へ ==
 
[[最終氷期]]の約2万年前の最盛期が過ぎると地球規模で温暖化に向かった。最後の氷期である晩氷期と呼ばれる約1万3000年前から1万年前の気候は、数百年で寒冷期と温暖期が入れ替わるほどで、急激な厳しい環境変化が短期間のうちに起こった。
 
 
 
それまでは、[[針葉樹]]林が列島を覆っていたが、西南日本から[[太平洋]]沿岸伝いに[[落葉]][[広葉樹]]林が増加し拡がっていき、北海道を除いて列島の多くが落葉広葉樹林と[[照葉樹林]]で覆われた。[[コナラ]]亜属や[[ブナ]]属、[[クリ]]属など堅果類が繁茂するようになった。北海道はツンドラが内陸中央部の山地まで後退し、亜寒帯針葉樹林が進出してきた。そして、日本海側と南部の渡島半島では、針葉樹と広葉樹の混合林が共存するようになる。また、温暖化による植生の変化は、[[マンモス]]や[[トナカイ]]、あるいは[[ナウマンゾウ]]や[[オオツノジカ]]などの大型哺乳動物の生息環境を悪化させ、約1万年前までには、日本列島から、これらの大型哺乳動物がほぼ絶滅してしまった。
 
 
 
 
 
この草創期の特徴は以下のように指摘されている。
 
 
 
* 新しい道具が短期間に数多く出現した
 
** 例えば、石器群では、大型の磨製石斧、[[石槍]]、植刃、断面が三角形の錐、半月系の石器、有形[[尖頭器]]、矢柄研磨器、[[石鏃]]などが、この期に出現する。
 
* 使われなくなっていく石器群、新しく出現する石器群が目まぐるしく入れ替わった
 
* 草創期前半の時期は、遺跡によって石器群の組み合わせが違う
 
* 急激な気候の変化による植生や動物相、海岸線の移動などの環境の変化に対応した道具が次々に考案されていった
 
* 狩猟・植物採取・植物栽培・漁労の3つの新たな生業体系をもとに生産力を飛躍的に発展させた
 
 
 
== 縄文時代早期 ==
 
日本列島の旧石器時代の人々は、大型哺乳動物([[ヘラジカ]]、[[ヤギュウ]]、[[オーロックス]]、ナウマンゾウ、オオツノシカなど。)や中・小型哺乳動物([[ニホンジカ]]、[[イノシシ]]、アナグマ、ノウサギなど。)を狩猟対象としていた。大型の哺乳動物は季節によって広範囲に移動を繰り返すので、それを追って旧石器時代人も[[キャンプ]]生活を営みながら、頻繁に移動を繰り返していた。キル・サイト{{#tag:ref|大型哺乳動物を解体した場。|group=*}}やブロック{{#tag:ref|石器群の集中区、一般にブロックを一家族が存在したと想定すると、遺跡構造や人口規模を推定する方法。|group=*}}、礫群{{#tag:ref|赤く焼けた礫、主に河原石の集中。|group=*}}、炭の粒の集中するところなどは日本列島内で数千ヶ所も発見されているが、竪穴住居などの施設を伴う遺跡はほとんど発見されていない。
 
 
 
旧石器時代の人々は、[[更新世]]の末まで、[[キャンプ]]生活・遊動生活を営みながら頻繁に'''移動生活'''を繰り返してきた。旧石器時代から縄文時代への移行期である草創期には一時的に特定の場所で生活する'''半定住生活'''を送るようになっていた。縄文早期になると'''定住生活'''が出現する。[[鹿児島市]]にある[[加栗山遺跡]](縄文時代早期初頭)では、16棟の竪穴住居跡、33基の煙道つき炉穴、17基の集石などが検出されている。この遺跡は草創期の[[掃除山遺跡]]や前田遺跡の場合と違って、竪穴住居跡の数の大幅な増加、住居の拡張、重複した住居跡、これらの住居跡やその他の遺構が中央広場を囲むように配置されている。
 
 
 
加栗山遺跡とほぼ同時期の[[鹿児島県]][[霧島市]]にある[[上野原遺跡]]では46棟の竪穴住居をはじめ多数の遺構が検出されている。このうち13棟は、[[桜島]]起源の火山灰[[桜島#桜島の地層|P-13]]に覆われていることから、同じ時に存在したものと推定できる。この13棟は半環状に配置されていることから、早期初頭には、既に相当な規模の定住集落を形成していたと推定される{{誰2|date=2009年12月}}。
 
 
 
縄文早期前半には、[[関東地方]]{{#tag:ref|武蔵野台地や多摩丘陵などの南関東。|group=*}}に竪穴住居がもっとも顕著に普及する。現在まで、竪穴住居が検出された遺跡は65ヶ所、その数は300棟を超えている。そのうちで最も規模の大きな[[東京都]][[府中市 (東京都)|府中市]][[武蔵台遺跡]]では24棟の竪穴住居と多数の土坑が半環状に配置されて検出されている。
 
 
 
南関東や南九州の早期前半の遺跡では、植物質食料調理器具である石皿、磨石、敲石、加熱処理具の土器も大型化、出土個体数も増加する。定住生活には、植物質食料、特に堅果類が食料の中心になっていたと想像されている。南関東の定住集落の形成には、植物採集活動だけでなく、漁労活動も重要な役割を果たしていたと考えられている{{誰2|date=2009年12月}}。
 
 
 
一方、北に目を転じれば、北海道[[函館市]][[中野B遺跡]]からは縄文早期中頃の500棟以上の竪穴住居跡、多数の竪穴住居跡、[[土壙墓]]、落とし穴、多数の土器、石皿、[[磨石]]、敲石、石錘{{#tag:ref|漁業用の錘(おもり)として用いられた石器と考えられている。|group=*}}が出土して、その数は40万点にも上っている。[[津軽海峡]]に面した台地上に立地するこの遺跡では、漁労活動が盛んに行われ、長期にわたる定住生活を営むことが出来たと考えられる。また、[[東海地方]]の早期の定住集落、[[静岡県]][[富士宮市]][[若宮遺跡]]は28棟の竪穴住居をはじめとする多数の遺構群とともに、土器と石器が18,000点ほど出土している。この遺跡が他の早期の遺跡と大いに違う点は、狩猟で使用する石鏃2,168点も出土したことである。富士山麓にあるこの遺跡では、小谷が多く形成され、舌状台地が連続する地形こそ、哺乳動物の生息に適した場であった。つまり、若宮遺跡では、環境に恵まれ、獲物にも恵まれて定住生活を営む上での条件が揃っていたと推定される{{誰2|date=2009年12月}}。
 
 
 
移動生活から定住的な生活への変化は、もう一つの大きな変化をもたらした。その変化は[[プラント・オパール]]分析{{#tag:ref|植物珪酸体の化石であるプラント・オパールから植物の種類を推定する方法。|group=*}}の結果から判明した。一時的に居住する半定住的な生活の仕方では、周辺地域の開拓までに至らなかったが、定住的な生活をするようになった縄文時代人は居住する周辺の照葉樹林や落葉樹林を切り開いたことにより、そこに[[クリ]]や[[クルミ]]などの[[二次林]](二次植生)の環境を提供することとなった。定住化によって、[[縄文人]]は、集落の周辺に林床植物と呼ばれる、いわゆる下草にも影響を与えた。[[ワラビ]]、[[ゼンマイ]]、[[フキ]]、[[クズ]]、[[ヤマイモ]]、[[ノビル]]などの縄文人の主要で安定した食料資源となった有用植物が繁茂しやすい二次林的な環境、つまり[[雑木林]]という新しい環境を創造したことになる。縄文時代の建築材や燃料材はクリが大半であることは遺跡出土の遺物から分かっている<ref>「縄文文化の特質」『縄文文化』勅使河原彰 新日本新書 1998年</ref><ref>「日本列島の新石器時代」今村啓爾 『日本史講座 第1巻』歴史学研究会・日本史研究会編 東京大学出版会 2004年</ref>。2013年、福井県[[鳥浜貝塚]]から世界最古級(約11000〜15000年前)の調理土器が発見された。これにより、サケなどの魚を調理していた可能性が判明した<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20130411-OYT1T00049.htm 世界最古の調理跡発見、魚など水生生物加熱か]</ref>。
 
 
 
== 縄文文化の歴史的変遷 ==
 
=== 縄文文化の分布範囲 ===
 
縄文文化の定義は一様ではないため、縄文文化が地理的にどのような範囲に分布していたかを一義に決定することはできない。縄文土器の分布を目安とした場合、北は[[樺太]]南部と[[千島列島]]、南は[[沖縄本島]]を限界とし、[[宮古島]]や[[八重山諸島]]には分布しない(宮古島や八重山諸島は[[台湾|台湾島]]の土器と同系統のもの)。すなわち、現在の[[日本|日本国]]の国境線とは微妙にズレた範囲が縄文土器の分布域である。
 
 
 
=== 気候の変化と縄文文化の発展 ===
 
縄文時代は1万年という長い期間にわたり、大規模な[[気候変動]]も経験している。また[[日本列島]]は南北に極めて長く、地形も変化に富んでおり、現在と同じように縄文時代においても気候や植生の地域差は大きかった。結果として、縄文時代の文化形式は歴史的にも地域的にも一様ではなく、多様な形式を持つものとなった<ref>藤尾慎一郎『縄文論争』講談社、2002年、60ページ - </ref>。
 
 
 
約2万年前に[[最終氷期]]が終わってから6000年前頃までは、地球の気温は徐々に温暖化していった時期である。この間に<!--この約10万年前の[[最終氷河期]]から-->日本列島は100m以上もの海面上昇を経験している。縄文土器編年区分においてはこれは縄文草創期から縄文前期に相当する(13000年前-6000年前)。また、約6000年前には海面が現在より4m〜5m高く[[縄文海進]]と呼ばれており、海岸部の遺跡の分布を考える上で参考になる。
 
 
 
縄文草創期当時の日本列島の植生は冷涼で乾燥した[[草原]]が中心であったが、[[落葉樹]]の森林も一部で出現していた。また地学的に見ても、北海道と[[樺太]]は繋がっていたし、[[津軽海峡]]は冬には結氷して北海道と現在の[[本州]]が繋がっていた。[[瀬戸内海]]はまだ存在しておらず、本州、[[四国]]、九州、[[種子島]]、[[屋久島]]、対馬は一つの大きな島となっていた。この大きな島と[[朝鮮半島]]の間は幅15キロメートル程度の水路であった。その後、温暖化により海面が上昇した結果、先に述べた[[対馬]]・[[朝鮮半島]]間の水路の幅が広がって朝鮮海峡となり、[[対馬暖流]]が日本海に流れ込むこととなった。これにより日本列島の[[日本海]]側に[[豪雪地帯]]が出現し、その豊富な雪解け水によって日本海側には[[ブナ]]などの森林が形成されるようになった。
 
 
 
縄文早期には定住集落が登場した他、本格的な漁業の開始、関東における外洋航行の開始など新たな文化要素が付け加わった。最も古い定住集落が発見されているのが九州南部の[[上野原遺跡]]や[[金峰町]]の遺跡で、およそ1万1000年前に季節的な定住が始まり、1万年ほど前に通年の定住も開始されたと推測されている。定住が開始された理由としては、それまで縄文人集団が定住を避けていた理由、すなわち食料の確保や廃棄物問題、死生観上の要請などが定住によっても解決出来るようになったためではないかと見られる<ref name=Fujio2002_p74>藤尾、前掲書、74ページ</ref>。この時期の土器は北東アジア系、華北・華中系{{#tag:ref|[[豆粒文土器]]や[[隆起線文土器]]は華北・華中の[[細石刃文化]]の系統と見られている<ref name=Fujio2002_p74 />。|group=*}}、華南系{{#tag:ref|この時期の華南系の土器は無紋、つまり縄文などの文様を持たないものである。|group=*}}の3系統に分けられており、分布面から見ると北東アジア系は北海道から東日本に、華北・華中系は西日本、華南系は南日本から出土している。植生面から見ると、縄文早期前半は照葉樹林帯は九州や四国の沿岸部および関東以西の太平洋沿岸部に限られており、それ以外の地域では落葉樹が優勢であった。
 
 
 
縄文前期から中期にかけては最も典型的な縄文文化が栄えた時期であり、現在は[[三内丸山遺跡]]と呼ばれる場所に起居した縄文人たちが保持していたのも、主にこの時期の文化形式である。この時期には日本列島に大きく分けて9つの文化圏が成立していたと考えられている(後述)。海水面は縄文前期の中頃には現在より3mほど高くなり、気候も現在よりなお温暖であった。この時期のいわゆる縄文海進によって沿岸部には好漁場が増え、海産物の入手も容易になったと[[林謙作]]は指摘している。植生面では[[関ケ原町|関ヶ原]]より西は概ね照葉樹林帯となった。
 
 
 
縄文後期に入ると気温は再び寒冷化に向かい、[[弥生海退]]と呼ばれる海水面の低下がおきる。関東では従来の貝類の好漁場であった干潟が一気に縮小し、貝塚も消えていくこととなった。一方、西日本や東北では新たに低湿地が増加したため、低湿地に適した文化形式が発達していった。中部や関東では主に取れる堅果類がクリから[[トチノキ]]に急激に変化した。その他にも、[[青森県]]の[[亀ヶ岡石器時代遺跡]]では[[花粉]]の分析により、トチノキから[[ソバ]]へと[[栽培]]の中心が変化したことが明らかになっている。その結果、食料生産も低下し、縄文人の人口も停滞あるいは減少に転じる。文化圏は9つから4つに集約され、この4つの文化圏の枠組みは弥生時代にも引き継がれ、「[[東日本]]」・「[[西日本]]」・「[[九州]]」・「[[沖縄]]」という現代に至る日本文化の地域的枠組みの基層をなしている。
 
 
 
=== 縄文文化の地域性 ===
 
縄文文化は日本列島のどの地域でも同質のものだったのではなく、多様な地域性を備えた文化群であったことが指摘されている。
 
 
 
=== 土偶の分布に見る地域性 ===
 
縄文人が製作した[[土偶]]は、縄文時代の全期間を通して日本列島各地で満遍なく使われていたのではなく、時期と地域の両面で限定されたものであった。すなわち、縄文早期の更に前半期に関東地方の東部で集中的に使用された後、縄文中期に土偶の使用は一旦消滅している。その後、縄文後期の前半に東日本で再び土偶が使用されるようになる。一方、それまで土偶の使用が見られなかった九州においては、縄文後期になって九州北部および中部で土偶が登場している。
 
 
 
こうした土偶の使用の地域性について藤尾は、ブナ、ナラ、クリ、トチノキなどの落葉性堅果類を主食とした地域(つまりこれら落葉樹林に覆われていた地域)と、西日本を中心とした照葉樹林帯との生業形態の差異と関連づけて説明している。落葉性堅果類、すなわちクリやいわゆるドングリは秋の一時期に集中的に収穫され、比較的大きな集落による労働集約的な作業が必要となるため、[[土偶]]を用いた祭祀を行うことで社会集団を統合していたのではないかという考え方である<ref>藤尾、前掲書、30-45ページ</ref>。
 
 
 
=== 縄文時代の文化圏 ===
 
前述のように、縄文前期には日本列島内に九つの文化圏が成立していたと考えられている。
 
 
 
; 石狩低地以東の北海道
 
: [[エゾマツ]]や[[トドマツ]]といった針葉樹が優勢な地域。[[トチノキ]]やクリが分布していない点も他地域との大きな違いである。[[トド]]、[[アザラシ]]、[[オットセイ]]という寒流系の海獣が豊富であり、それらを捕獲する為の回転式離頭銛が発達した。
 
; 北海道西南部および東北北部
 
: 石狩低地以東と異なり、植生が落葉樹林帯である。[[ミズナラ]]、[[コナラ]]、クルミ、クリ、トチノキといった堅果類の採集が盛んに行われた。回転式離頭銛による海獣捕獲も行われたが、[[カモシカ]]やイノシシなどの陸上のほ乳類の狩猟も行った点に、石狩以東との違いがある。
 
; 東北南部
 
: 動物性の食料としては陸上のニホンジカ、イノシシ、海からは[[カツオ]]、[[マグロ]]、[[サメ]]、[[イルカ]]を主に利用した。前2者とは異なり、この文化圏の沖合は暖流が優越する為、寒流系の海獣狩猟は行われなかった。
 
; 関東
 
: 照葉樹林帯の植物性食料と内湾性の漁労がこの文化圏の特徴で、特に貝塚については日本列島全体の貝塚のうちおよそ6割がこの文化圏のものである。陸上の動物性食料としてはシカとイノシシが中心。海からは[[ハマグリ]]、[[アサリ]]を採取した他、[[スズキ (魚)|スズキ]]や[[クロダイ]]も多く食した。これらの海産物は内湾で捕獲されるものであり、土器を錘とした網による漁業を行っていた。
 
; 北陸
 
: シカ、イノシシ、[[ツキノワグマ]]が主な狩猟対象であった。植生は落葉広葉樹(トチノキ、ナラ)で、豪雪地帯である為に家屋は大型化した。
 
; 東海・甲信
 
: 狩猟対象はシカとイノシシで、植生は落葉広葉樹であるが、[[ヤマノイモ]]や[[ユリ]]の根なども食用とした。打製石斧の使用も特徴の一つである。
 
; 北陸・近畿・伊勢湾沿岸・中国・四国・豊前・豊後
 
: 狩猟対象はシカとイノシシで、植生は落葉広葉樹に照葉樹([[シイ]]、[[カシ]])も加わる。漁業面では切目石錘(石を加工して作った網用の錘)の使用が特徴であるが、これは関東の土器片による錘の技術が伝播して出現したと考えられている。
 
; 九州(豊前・豊後を除く)
 
: 狩猟対象はシカとイノシシ。植生は照葉樹林帯。最大の特徴は九州島と朝鮮半島の間に広がる[[多島海]]を舞台とした外洋性の漁労活動で、西北九州型結合釣り針や石鋸が特徴的な漁具である。結合釣り針とは複数の部材を縛り合わせた大型の釣り針で、同じ発想のものは古代[[ポリネシア]]でも用いられていたが、この文化圏のそれは朝鮮半島東岸のオサンリ型結合釣り針と一部分布域が重なっている。
 
: 九州南部は縄文早期末に[[鬼界カルデラ]]の大噴火があり、ほぼ全滅と考えられる壊滅的な被害を受けた。
 
; [[トカラ列島]]以南
 
: 植生は照葉樹林帯である。動物性タンパク質としては[[ウミガメ]]や[[ジュゴン]]を食用とする。珊瑚礁内での漁労も特徴であり、漁具としては[[シャコガイ]]や[[タカラガイ]]などの貝殻を網漁の錘に用いた。九州文化圏との交流もあった。
 
 
 
の9つである<ref>藤尾、前掲書、66ページ</ref>。
 
 
 
これら9つの文化圏の間の関係であるが、縄文文化という一つの文化圏内での差異というよりは、「発展の方向を同じくする別個の地域文化」と見るべきであるとの渡辺誠による指摘がある。つまり、これら全ての文化圏のいずれもが共通の、しかし細部が若干異なる文化要素のセットを保持していたのではなく、それぞれの文化圏が地域ごとの環境条件に適合した幾つかの文化要素を選択保持しており、ある文化圏には存在したが別の文化圏には存在しなかった文化要素も当然ながら見られるのである。
 
 
 
縄文後期に入ると、これら9つの文化圏のうち、「北海道西南部および東北北部」「東北南部」「関東」「北陸」「東海・甲信」の5つがまとまって単一の文化圏(照葉樹林文化論における「ナラ林文化」)を構成するようになり、また「北陸・伊勢湾沿岸・中国・四国・豊前・豊後」「九州(豊前・豊後を除く)」がまとまって単一の文化圏(照葉樹林文化論における照葉樹林文化)を構成するようになる。その結果、縄文後期・晩期には文化圏の数は4つに減少する。
 
 
 
=== 勾玉からみる地域交流 ===
 
遅くとも縄文中期(BC5,000年)頃には[[ヒスイ製勾玉]]が作られていたことが判明しており、特に新潟県糸魚川の「[[長者ケ原考古館|長者ケ原遺跡]]」からはヒスイ製勾玉とともにヒスイの工房が発見されている。蛍光X線分析によると青森県の「三内丸山遺跡」や北海道南部で出土される[[ヒスイ]]は[[糸魚川]]産であることが分かっており、このことから縄文人が広い範囲でお互いに交易をしていたと考えられている。後年には日本製勾玉は朝鮮半島へも伝播している<ref>門田誠一「朝鮮三国時代における硬玉製勾玉の消長」『古代東アジア地域相の考古学的研究』2006年、学生社</ref>。
 
 
 
== 植物栽培 ==
 
縄文農耕論は、明治時代以来の長い研究史があり、農耕存否の論争は現在も続いている。縄文時代に植物栽培が行われていたことは確実であると考えられている。福井県の[[鳥浜貝塚]]の前期の層から栽培植物([[アズキ]]、[[エゴマ]]、[[ウリ]]、[[ヒョウタン]]、[[ゴボウ]]など{{#tag:ref|[[リョクトウ]]については[[鳥浜貝塚]]の報告が修正され、リョクトウが縄文時代に栽培されていたとする報告はない<ref>山田悟郎、椿坂恭代 「北の農耕」 『ユーラシア農耕史:さまざまな栽培植物と農耕文化』 第4巻 佐藤洋一郎監修、木村栄美編、臨川書店、2009年、p.72 ISBN 978-4653040446</ref>。|group=*}}。)が、早期の層から[[ヒョウタン]]{{#tag:ref|対馬海流によって運ばれたとする説と人為的な持ちこみとする説がある<ref>湯浅浩史 「ヒョウタン - 実用と象徴の文化誌」『ユーラシア農耕史:さまざまな栽培植物と農耕文化』 第4巻 佐藤洋一郎監修、木村栄美編、臨川書店、2009年、pp.169-173 ISBN 978-4653040446</ref>。滋賀県大津市[[粟津貝塚]]の早期の層から検出されている。|group=*}}が検出されている。一方、北部九州の後・晩期遺跡の遺物で[[焼畑農業|焼畑農耕]]が行われていた可能性が高いと考えられている<ref>[[藤原宏志]]</ref>。福岡県下の後・晩期遺跡の花粉分析<ref>[[安田喜憲]]</ref>、熊本市の遺跡で[[イネ]]、[[オオムギ]]、大分県遺跡でイネなどが検出されており、東日本からも、同じく後・晩期の10個所を超える遺跡から[[ソバ]]の花粉が検出されている。これらも焼畑農耕による栽培であると推定されている<ref>『縄文文化』勅使河原彰 新日本新書 1998年6月</ref>。
 
 
 
=== 稲作の始まり ===
 
{{main|稲作}}
 
現在ではプラント・オパールの研究により、縄文時代後期から晩期にかけては[[ジャバニカ米|熱帯ジャポニカ]]の[[焼畑稲作]]が行われていたことが判明している。
 
 
 
[[イネ]]({{Snamei|Oryza sativa}})には、ジャポニカ(日本型)とインディカ(インド型)などの[[亜種]]があり、ジャポニカはさらに、温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカ(ジャバニカ米)に分かれる。温帯ジャポニカは、[[中国]]の[[長江]]北側から、日本列島というごく限られた地域に水稲農耕と密接に結びついて分布している。[[弥生時代]]以降の水稲も温帯ジャポニカであるとされている。
 
 
 
列島へは、まず熱帯ジャポニカが[[南西諸島]]を通って列島に伝播した。
 
縄文時代のイネは、炭化米が後期後半の[[熊本県]]や[[鹿児島県]]の[[上野原遺跡]]などから検出されており、籾跡土器の胎土から検出されたイネのプラント・オパールは、後期後半の西日本各地の遺跡{{#tag:ref|後期中葉の岡山県津島岡大遺跡、南溝手遺跡|group=*}}から発見されている。熊本県下の上南部(かんなべ)遺跡の土壌と土器胎土からイネのプラント・オパールが見出され、[[岡山県]][[総社市]]の南溝手(みなみみぞて)遺跡で岡山県古代吉備文化財センターが発掘した土器6点の中の4点からイネのプラント・オパールが見出された。うち2点は、縄文時代後期中頃、およそ3500年前(炭素14年代)に属している。同センターは、穂を摘み取るのに使われたと推定される石器(穂摘み具)や、打製土掘り具と見られる石器を発見した<ref>佐原真「米と日本文化」金関恕・春成秀爾編『佐原真の仕事6 考古学と現代』岩波書店 2005年</ref>。
 
 
 
晩期の突帯文土器を伴う岡山市北区津島の津島江道遺跡は水田遺構として最も古いもので、3メートル×5メートル前後の小区画水田である<ref>狩野久「吉備の国づくり」 藤井学・狩野久・竹林栄一・倉地克直・前田昌義『岡山県の歴史』山川出版社、2000年、15ページ</ref>。
 
 
 
このため、後期後半の日本列島でイネが栽培されていたことは間違いない。ただ、イネが単独で栽培されていたわけでなく、[[オオムギ]]、[[ヒエ]]、[[キビ]]、[[アワ]]、[[ソバ]]などの雑穀類の栽培や[[アズキ]]、[[大豆]]なども混作されていた。
 
 
 
== 縄文時代の主なできごと ==
 
{| class="wikitable" <!--border="1" cellspacing="0" cellpadding="3" -->
 
!style="white-space:nowrap" |時期区分!!colspan="2"|主なできごと
 
|-
 
|rowspan="6" |草創期<br />約1万3千年前<br /> - <br />約1万年前{{#tag:ref|縄文Ⅰ期<ref name=Sahara_2007_p17>佐原真他監修『日本の考古学』上巻 学生社 2007年 17ページ</ref>|group=*}}
 
|-
 
|気候環境||この期の初め頃は[[日本列島]]が大陸から離れる直前であったと推測されている。晩氷期の気候は、短期間に寒・暖がおこり、厳しい環境変化であった。温暖化が進行し、氷河が溶けて海水面が上昇し、海が陸地に進入してきた。「海進」という。
 
|-
 
|生活<br />住居||環境の変化に伴い貝類や魚類が新しい食糧資源になった。狩猟の獲物は、[[ゾウ]]や[[野牛]]の大型哺乳動物から[[シカ]]や[[イノシシ]]の中・小哺乳動物に変わっていった。[[竪穴住居]]址から[[サケ]]の顎骨発見。小型の骨製U字型釣針。
 
|-
 
|style="white-space:nowrap" |石器||[[局部磨製石斧]]が作られる。槍・弓矢の製作・使用。
 
|-
 
|土器||[[豆粒文土器]]・[[隆起線文土器|隆起線文系土器]]{{#tag:ref|この種の土器を出土するのは[[福井洞窟]]・[[上黒岩岩陰遺跡]]・[[花見山遺跡]]などが著名である。|group=*}}・爪形文系土器・押縄文系土器(多縄文系土器)女性像を線刻した小礫が作られる。
 
|-
 
|貝塚||&nbsp;
 
|-
 
|rowspan="6" |早期<br />約1万年前<br /> - <br />6千年前{{#tag:ref|縄文Ⅱ期<ref name=Sahara_2007_p17 />|group=*}}
 
|-
 
|気候環境||日本列島が完全に大陸から離れて島国となっていた。そして、初めの頃は、現在よりも気温2度ほど低く、海水面も30メートルほど低かった。その後、海水面の高さが戻る。[[鬼界カルデラ]]の噴火で西日本一帯に火山灰が積もる。
 
|-
 
|生活<br />住居||数個の竪穴住居で一集落を構成する。組み合わせ式釣り針。[[ドングリ]]や[[クルミ]]などの[[堅果類]]を植林栽培する初歩的農法が確立し、食糧資源となっていた。狩猟では、大型の哺乳動物に変わって、シカやイノシシなどの中・小型哺乳動物が中心となった。狩猟道具として弓矢が急速に普及した。
 
|-
 
|石器||網用の土錘・石錘。ヤス、銛。堅果植物を叩いたり、砕いたり、すり潰したりするための[[石皿]]や磨製の石なども使用されていた。
 
|-
 
|土器||圧煮炊き用の土器の出現が旧石器時代の生活を変えた。縄文・撚糸文の尖底土器が作られた。夏島貝塚から撚糸文系土器、貝殻沈線文系土器、貝殻条痕文系土器という早期から終末までの土器が層位的に出土した。小型の土偶が作られる。
 
|-
 
|貝塚||貝塚は、この時期の前半には、海が進入して出来た海岸地域に作られていた。貝塚は[[ヤマトシジミ (貝)|ヤマトシジミ]]が主体であった。狩猟とともに漁労が活発化した。最古級の[[神奈川県]][[横須賀市]][[夏島貝塚]]、[[千葉県]][[香取郡]][[神崎町]][[西之城貝塚]]。押型文土器期に属する[[愛知県]][[知多郡]][[南知多町]]先苅(まずかり)貝塚は海面下13メートルの深さから発見された。人口2万100人。[[縄文犬]]を人と一緒に埋葬。[[屈葬]]。
 
|-
 
|rowspan="6" |前期<br />約6千年<br /> - <br />5千年前{{#tag:ref|縄文Ⅲ期<ref name=Sahara_2007_p17 />|group=*}}
 
|-
 
|環境||気候温暖で海面・気温上昇([[縄文海進]]、海水面4〜5メートル高くなる)のため、現在の内陸部に貝塚が作られる。[[常緑照葉樹]]と[[落葉照葉樹]]。
 
|-
 
|住居||'''竪穴住居が広場を囲んで集落を作る'''。湖沼の発達により'''丸木船'''が作られる。漁労活動開始。
 
|-
 
|石器||木器・土器・櫛・黒曜石などに漆を塗ることが始まる。環状列石が作られる。
 
|-
 
|土器||この期を境に土器の数量は一気に増加し、形や機能も多様化し、平底土器が一般化する。土器は羽状縄文を施した[[繊維土器]]が盛んに作られる(→[[関山式]]、[[黒浜式]])。
 
|-
 
|遺跡||耳飾り・勾玉・管玉などの装身具が作られる。立石列(りつせきれつ)環状石籬。貝塚。人口10万5500人。
 
|-
 
|rowspan="6" |中期<br />約5千年<br /> - <br />4千年前{{#tag:ref|縄文Ⅳ期<ref name=Sahara_2007_p17 />|group=*}}
 
|-
 
|環境||&nbsp;
 
|-
 
|生活<br />住居||'''[[集落]]の規模が大きくなる'''。'''植林農法'''の種類も[[ドングリ]]より食べやすい[[クリ]]に変わり大規模化する。
 
|-
 
|石器||海岸線ほぼ現在に近くなる。大型貝塚形成。
 
|-
 
|土器||[[石棒]]・[[土偶]]などの呪物が盛んに作られる。石柱祭壇。[[抜歯]]の風習が始まる。気温低下始める。'''立体的文様'''のある'''大型土器'''が流行する。
 
|-
 
|遺跡||貝塚。人口26万1300人。
 
|-
 
|rowspan="6" |後期<br />約4千年<br /> - <br />3千年前{{#tag:ref|縄文Ⅴ期<ref name=Sahara_2007_p17 />|group=*}}
 
|-
 
|環境||&nbsp;
 
|-
 
|生活<br />住居||大型貝塚。内陸地域にも貝塚が出来ていた。製塩専業集団、塩媒介集団、塩消費集団。[[伸展葬]]。交易目的の漁労民発生。
 
|-
 
|石器||[[大湯環状列石]]([[ストーンサークル]])、東北地方に集中。
 
|-
 
|土器||村の一角に土器塚が出来る。[[製塩土器]]。
 
|-
 
|遺跡||ウッドサークル(巨大木柱遺跡)。敷石住居址。人口16万300人。
 
|-
 
|rowspan="6" |晩期<br />約3千年<br /> - <br />2300年前{{#tag:ref|縄文Ⅵ期<ref name=Sahara_2007_p17 />|group=*}}
 
|-
 
|環境||気温2度前後低下。海面も低下。漁労活動に壊滅的な打撃。
 
|-
 
|生活<br />住居||木製の太刀。頭部外科手術か?漁労の網。東北の太平洋側に銛漁開花。
 
|-
 
|石器||北九州・近畿でも縄文水田。
 
|-
 
|土器||[http://www.pref.nagasaki.jp/jiten/index.php/view/304 山の寺式土器]・柏崎式土器(夜臼式土器)。
 
|-
 
|遺跡||貝塚。人口7万5800人。
 
|-
 
|}
 
 
 
== 脚注 ==
 
=== 注釈 ===
 
{{Reflist|group=*}}
 
 
 
=== 出典 ===
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Commons&cat|縄文時代|Jōmon period}}
 
* [[縄文人]]
 
* [[日本の歴史]]
 
* [[日本史時代区分表]]
 
* [[先住民族]]
 
* [[縄文時代の遺跡一覧]]
 
* [[標式遺跡]]
 
* [[火焔土器]]
 
* [[宗左近]]
 
* [[東京都]][[大田区]] [[大森貝塚]]
 
* [[三内丸山遺跡]]
 
* [[山崎三四造]](縄文時代の生活を再現した生活を送った人物)
 
* [[勾玉]]
 
* [[漆器]]
 
* [[櫛目文土器時代]]
 
* [[櫛目文土器文化]]
 
* [[ハプログループC-M8 (Y染色体)]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://www.hi-ho.ne.jp/mizuno/ 水野の縄文写真館]
 
* [http://www.rekihaku.ac.jp/ 国立歴史民俗博物館]
 
* [http://www.higo.ed.jp/bedu/edukuma/no15/q-a.htm 歴史Q&A 塗り替えられる日本の歴史「教育くまもと」]
 
 
 
{{日本の歴史一覧}}
 
{{アイヌの歴史}}
 
  
 
{{DEFAULTSORT:しようもんしたい}}
 
{{DEFAULTSORT:しようもんしたい}}

2019/6/11/ (火) 10:10時点における版

縄文時代(じょうもんじだい)

弥生時代に先行する縄文土器をもつ文化の時代。実年代は,その発生の時期は前1万 2000~4500年とはっきりしないが,終末は前3~2世紀頃とされている。従来早期,前期,中期,後期,晩期の5期に分けられていたが,早期の前に草創期を加え,6期に分けるのが一般的になっている。縄自体を回転させるという日本独自の縄文が施されるのは草創期後半に入ってからである。この社会は主として狩猟,漁労に依存する採集経済の段階にあり,西方からの農耕文化の到来によって終末を迎える。磨製石器の存在,土器の発達度,大規模集落の出現などから,新石器時代の様相が強い文化といえる。集落跡や貝塚など縄文遺跡は北海道から九州まで各地に分布,三内丸山遺跡鳥浜貝塚などが有名。 (縄文時代人 )



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