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{{出典の明記|date=2016年5月7日 (土) 00:25 (UTC)}}
 
'''終末論'''(しゅうまつろん、[[英語]]: eschatology)は、歴史には終わりがあり、それが歴史そのものの目的でもあるという考え方。[[目的論]]という概念の下位概念。
 
  
== 概要 ==
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'''終末論'''(しゅうまつろん、[[英語]]: eschatology)
社会が政治的、経済的に不安定で人々が困窮に苦しむような時代に、その困窮の原因や帰趨を、神や絶対者の審判や未来での救済に求めようとするのは、どこの文化でも宗教一般に見られ、[[ユダヤ教]]から[[キリスト教]]、イスラム教、[[ゾロアスター教]]といった[[一神教]]においてのみならず、[[仏教]]などの宗教などにおいても同様の考え方がある。しかし、終末ということの基準を、個々人の死の意味ではなく、民全体にとっての最後のとき、民全体に対する最後の審判と義人選別救済のとき、とするならば、終末論は本質的に一神教のものである。
 
  
== キリスト教 ==
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語義は「終末における事物 eschaton (すなわち世界と人類の逢着する究極的な運命) についての教え」の意。終末論的発想は仏教の[[末法思想]]やそのほかさまざまな宗教,思想,文学に見出されるが,その典型は最も包括的な終末論を教義とするユダヤ教,キリスト教に見出される。終末論は旧約聖書を貫く歴史観である。それによれば,世界の歴史は終末に向って進んでおり,この終末において人類の諸民族に究極的な神の審判が下り,試練によって清められたイスラエルの民には救済がもたらされるとともに,人類史が完成に到達するものと考えられた。イスラエルに救いをもたらすメシア待望の思想も,終末をメシア出現の時とするもので,ユダヤ教終末論の一部をなすものであった。キリスト教はユダヤ教の終末論に独自の解釈を与え,キリスト教とともに救いの時である終末がすでに始ったとして旧約聖書において預言されていた終末と救いをキリストの生涯,死,復活のうちに見出すものであるが,さらに究極的な世界史の完成と神の国の到来をキリストが人類の審判者として来る再臨の時として未来に待望する。ユダヤ教の終末論はイスラエルの民 (ユダヤ人) を苦難の運命のなかで支える力となったが,同様にキリスト再臨の待望は人類の歴史の支配者としての神に対する不断の希望を生み出し,不条理や苦難に満ちた人生を生きる勇気の根源として,キリスト教信仰に不可欠なものとされている。
{{キリスト教終末論}}
 
{{main|キリスト教終末論の相違点}}
 
キリスト教の終末論 ([[:en:eschatology|eschatology]]) という語は、[[ギリシア語]]の {{lang|el|τὰ ἔσχατα}}(ta eschata「最後のこと(中性複数形)」、キリスト教では具体的に四終(死・審判・天国・地獄)を指す)という言葉に由来し、[[イエス・キリスト]]の復活と[[最後の審判]]への待望という事柄に関わる([[千年王国]]参照)。キリスト教では、その目的が世の救済であるため、[[教義学]]では終末を歴史の目的として[[救済史]]という言い方もされる。
 
  
キリスト教系[[新宗教]]の中には、「最後の審判」の時期を、聖書から年代や終末期に起こる出来事(しるし)などから算定し[[予言]]する教団もある。
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[[20世紀]]の[[スイス]]の[[神学者]]・[[カール・バルト]]も、主著『ロマ書』で「(終末にキリストが地上の裁きのために天国から降りてくるという)再臨が『遅延する』ということについて……その内容から言っても少しも『現れる』はずのないものが、どうして遅延などするだろうか。……再臨が『遅延』しているのではなく、我々の覚醒(めざめ)が遅延しているのである」と言い、「終末は既に神によってもたらされている」という認識である。
 
 
 
== 仏教 ==
 
仏教における[[末法思想]]は、「この世の終わり」を意味する終末的思想と同意義と見る向きも多い。
 
 
 
[[大乗仏教]]では、[[釈迦如来|釈迦仏]]の[[入滅]]年代(ただし諸説あり一致しない)より数えて、正・像・末と三時に分け、その最後の時を[[末法]]の世という。これは厳密にいえば、「正しい法が隠れ行われなくなること」である。したがって、世の中の政情不安や天変地異などを含めたものを末法というものではなかった。
 
 
 
しかし、[[日本]]においては、[[平安時代]]後期に末法に突入するという目測と、[[鎌倉時代]]へ移り変わっていく不安感、当時の民衆の仏教への理解不足などが相まって、次第に、末法観念が終末論的に転化されていった。
 
 
 
[[浄土教]]では[[自力]]で悟ることが[[正法]]・[[像法]]の時代よりも困難になる(一部では不可能とする)が、成仏するための[[阿弥陀仏]](一部では末法の世にふさわしいものがあるとする)の力(一部では[[他力]])を求め、[[念仏]]せよ」と説く。[[日蓮]]は、今が末法であるとして、他の教えを捨てて[[法華経]]に帰依するように説いた。なお、[[禅宗]]でも末法はあるが、[[曹洞宗]]の開祖・[[道元]]は『[[正法眼蔵随聞記]]』において末法思想を方便にすぎないとして否定している。<!--「今は云く、この言ふことは、全く非なり。仏法に正像末を立つ事、しばらく一途の方便なり。真実の教道はしかあらず。依行せん、皆うべきなり。在世の比丘必ずしも皆勝れたるにあらず。不可思議に希有に浅間しき心根、下根なるもあり。仏、種々の戒法等をわけ給ふ事、皆わるき衆生、下根のためなり。人々皆仏法の器なり。非器なりと思ふ事なかれ、依行せば必ず得べきなり」-->
 
 
 
[[弥勒菩薩|弥勒]]信仰に見られる下生信仰も、末法思想の一種である。[[中国]]では、[[北魏]]の[[大乗の乱]]が、この信仰によるものとされているし、[[清]]代の[[白蓮教徒の乱]]に代表される、相次いで勃発した[[白蓮教]]信徒による反乱も、この信仰に基づいている。
 
 
 
この他[[転輪王経]]のように終末を描いた経典も存在する。
 
 
 
ただし、[[仏教]]では、[[原始仏教]]・初期[[大乗仏教]]を含めて、本来<!--大乗仏教では空論の展開から「不増不減、無始無終」を説き、-->この世の始まりや終わりを説いていない([[釈尊]]は時間に終わりがあるか、ないかという問いに対し、意味のない議論([[戯論]])であるとして「答えない」([[無記]])という態度をとっている)。さらに大乗経典の中でも、[[涅槃経]]などでは末法の世における救いを力説し、悲観的な見方を根本的に否定している。平安以降に広がった[[地蔵菩薩|地蔵]]信仰では、地蔵菩薩が釈尊入滅から弥勒菩薩が現れる間(末法)六道全ての衆生を救う役割を担うとされる。したがって、これらから仏教における末法思想は、この世の終わりを意味するような終末的思想とは異なることが理解できる。
 
 
 
== ヒンドゥー教 ==
 
インド亜大陸を中心に信仰される[[ヒンドゥー教]]は、固有の宗教観で知られる。ヒンドゥーの三大神の一柱である[[シヴァ]]神は、破壊と再生の神とされ、徹底した破壊をその役どころとしている。破壊が激しいほど、その後にやってくる再生はより大きな可能性を秘めているとのヒンドゥー独特の宗教観がシヴァ神の役どころと言える。
 
 
 
また、シヴァと並ぶ三大神の一柱に位置づけられ、もっとも信仰を集めている[[ヴィシュヌ]]神にも終末を担う役割がある。ヒンドゥーの教えでは[[ユガ]](yuga)と呼ばれる思想がある。この世界は生成と終末を繰り返すとの思想である。各説あるが「[[マヌ法典]]」によれば、ユガは四期に分かれている。(第一期クリタユガ、第二期トレーターユガ、第三期ドヴァーユガ、第四期カリユガ)この教えによれば、現在こそ、もっとも教えが衰えるカリユガの末期であり。
 
ヴェシュヌ神の化身[[カルキ (ヒンドゥー教)|カルキ]]が白馬に乗る騎士の姿で現れ、この世界を破壊から再生させるとされる。
 
 
 
== 百王説 ==
 
[[中国]]の[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]の[[僧]]・[[宝誌]]の手によるとされる「[[野馬台詩]]」が、日本では[[皇室]]の[[未来]]を予言したものだという説が[[中世]]にかけて流布し、「'''百王説'''」が論じられた。これは『古事記』上巻序いかなる[[王朝]]も100代までで滅びるという解釈がされる記述があり、すでに[[鎌倉時代]]初期には『[[愚管抄]]』などでも取り上げられている。ただし、「百王」の意味は百代ではなく「数多き王」を意味するという解釈も存在した<ref>[[#今谷(1990)|今谷(1990)]]、p.144</ref>。
 
 
 
その後の[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]、[[皇室の系図一覧|皇統]]は[[神武天皇|神武]]以来100代に達するとう理解から、折からの政情不安と[[末法思想]]が相まって、[[北畠親房]]が言及するなど大いに論じられた。また、室町幕府将軍の[[足利義満]]も百王説に関心を示していたという。
 
 
 
歴代天皇の数え方については諸説があるが、[[南朝 (日本)|南朝]]を正統とする数え方では[[南北朝合一]]後の[[後小松天皇]]が百代となり、中世にはこれとは別に[[北朝 (日本)|北朝]]の[[後円融天皇]]を百代とする理解が存在した。
 
 
 
== 元・会・運・世の説 ==
 
元・会・運・世は[[儒教|儒学]]における世界(時間)のサイクルで、「1元(12万9600年)経つと天地の寿が終わり、再び1元が始まる」とするもの<ref>[[島田虔次]] 『朱子学と陽明学』 [[岩波新書]] 28刷1999年 p.72.</ref>。1元は12会で、1会は1万800年<ref>同『朱子学と陽明学』 p.72.</ref>。11会の時期に「万物(人)皆絶える(絶滅する)」とされる<ref>同『朱子学と陽明学』 p.73(図).</ref>。この説では万物=人が生まれたのは3会の時期(天が始まってから3万2400年の前後)である<ref>同『朱子学と陽明学』 p.73.従って、人の歴史は3会から11会までと定まっている。</ref>。11世紀で7会に当たり<ref>同『朱子学と陽明学』 p.73.</ref>、4会経ったら人が絶滅し、5会経つと天地が終わるということになる。この世界観では何度も終末を繰り返しているということになるが、同時に終わりでもない。
 
 
 
== 脚注 ==
 
<references />
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* {{Cite book |和書 |author=[[今谷明]] |title=室町の王権 - 足利義満の王権簒奪計画 |publisher=[[中央公論新社|中央公論社]] |series=[[中公新書]] 978 |date=1990-07 |isbn=978-4-12-100978-4 |ref=今谷(1990) }}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[救済史]]
 
* [[終わりの時]]
 
* [[熱的死]]
 
* [[宇宙の終焉]]
 
* [[黙示]]
 
* [[黙示録]]
 
* [[ハルマゲドン]]
 
* [[ラグナロク]]
 
* [[カリ・ユガ]]
 
* [[終末もの]]
 
* [[オウム真理教]]
 
* [[キリスト教福音浸礼会]]
 
* [[冨士大石寺顕正会|顕正会]]
 
* [[ノストラダムスの大予言]]
 
* [[2012年人類滅亡説]]
 
* [[ブランチ・ダビディアン]]
 
* [[技術的特異点]]
 
* [[認知閾]]
 
 
 
{{Doomsday}}
 
 
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[[Category:キリスト教神学]]
 
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[[Category:世界観]]
 
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終末論(しゅうまつろん、英語: eschatology)

語義は「終末における事物 eschaton (すなわち世界と人類の逢着する究極的な運命) についての教え」の意。終末論的発想は仏教の末法思想やそのほかさまざまな宗教,思想,文学に見出されるが,その典型は最も包括的な終末論を教義とするユダヤ教,キリスト教に見出される。終末論は旧約聖書を貫く歴史観である。それによれば,世界の歴史は終末に向って進んでおり,この終末において人類の諸民族に究極的な神の審判が下り,試練によって清められたイスラエルの民には救済がもたらされるとともに,人類史が完成に到達するものと考えられた。イスラエルに救いをもたらすメシア待望の思想も,終末をメシア出現の時とするもので,ユダヤ教終末論の一部をなすものであった。キリスト教はユダヤ教の終末論に独自の解釈を与え,キリスト教とともに救いの時である終末がすでに始ったとして旧約聖書において預言されていた終末と救いをキリストの生涯,死,復活のうちに見出すものであるが,さらに究極的な世界史の完成と神の国の到来をキリストが人類の審判者として来る再臨の時として未来に待望する。ユダヤ教の終末論はイスラエルの民 (ユダヤ人) を苦難の運命のなかで支える力となったが,同様にキリスト再臨の待望は人類の歴史の支配者としての神に対する不断の希望を生み出し,不条理や苦難に満ちた人生を生きる勇気の根源として,キリスト教信仰に不可欠なものとされている。



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