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'''紫禁城'''(しきんじょう、{{Lang-zh-Hans|紫禁城}}、{{ピン音|Zǐjìnchéng}}、[[満州語]]:{{mongol|ᡩᠠᠪᡣᡡᠷᡞ<br>ᡩᠣᠷᡤᡞ<br>ᡥᠣᠳᠣᠨ}}、転写:dabkūri dorgi hoton)または'''故宮'''(こきゅう、{{Lang-zh-Hans|故宫}}、{{ピン音|Gùgōng}})は、[[中華人民共和国]][[北京市]]に所在する[[明]][[清|清朝]]の旧王宮である歴史的建造物。「[[北京と瀋陽の明・清王朝皇宮]]」の一つとして[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]](文化遺産)となっている。面積は 725,000[[平方メートル|m<sup>2</sup>]] あり、世界最大の木造建築群である。別称の故宮とは「古い宮殿、昔の宮殿」という意味で、現在は博物館([[故宮博物院]])になっている。
 
  
== 沿革 ==
 
[[ファイル:Taihe Palace in twilight.JPG|thumb|270px|黄昏の太和殿]]
 
[[元 (王朝)|元]]がつくったものを[[明]]の[[永楽帝|成祖永楽帝]]が[[1406年]]から改築し、[[1421年]]に[[南京市|南京]]から北京へ都を遷してから、[[清|清朝]]滅亡まで宮殿として使われた。
 
  
[[1644年]]の[[李自成|李自成の乱]]で[[明|明代]]の紫禁城は焼失したが、李自成の立てた[[順 (王朝)|順朝]]を滅ぼし北京に入城した[[清|清朝]]により再建され、清朝の皇宮として[[皇帝]]とその一族が居住するとともに政治の舞台となった。
+
'''紫禁城'''(しきんじょう、{{Lang-zh-Hans|紫禁城}}、{{ピン音|Zǐjìnchéng}}、[[満州語]]:{{mongol|ᡩᠠᠪᡣᡡᠷᡞ<br>ᡩᠣᠷᡤᡞ<br>ᡥᠣᠳᠣᠨ}}、転写:dabkūri dorgi hoton)または'''故宮'''(こきゅう、{{Lang-zh-Hans|故宫}}、{{ピン音|Gùgōng}})
  
[[1908年]]12月に、[[西太后]][[光緒帝]]の後継者として[[愛新覚羅溥儀]]を指名したことにより、溥儀はわずか2歳10か月で皇帝に即位させられ、清朝の第12代宣統帝かつ紫禁城に居を構える最後の皇帝となった。
+
中国の[[ペキン(北京)直轄市]]にある,[[]][[]]代の皇宮。紫禁の名は,北斗星の北に位置する紫禁星が,天帝の居所とされることに由来する。1912年の[[中華民国]]の成立以後,しだいに一般に開放されるようになり,今日では「昔の皇宮」の意で故宮と呼ばれる。北京の内城中央に位置し,南北 961m,東西 753m,敷地面積は約 72万m<sup>2</sup>で,周囲に幅 52mの堀をめぐらし,城壁で囲まれている。明の[[永楽帝]]が北京への遷都に向け建築を計画し,永楽18(1420)年に移り住んだ。明末の[[李自成の乱]]でほぼ全焼し,現存の建造物は清代に再建されたものが多いが,創建当初の規模を伝えている。城内は,皇帝が居住した北の内廷と,皇帝が政務をとった南の外朝に区分され,内廷には南北一直線上に乾清門,乾清宮,交泰殿,坤寧宮,坤寧門などが建ち,外朝には南から午門,太和門,太和殿,中和殿,保和殿などが並ぶ。東には文華殿,文淵閣など,西には武英殿,南薫殿などの門,宮殿が建つ。このうち太和殿は紫禁城の正殿で,清の[[康煕帝]]の時代(1661~1722)の再建,中和殿と保和殿は天啓7(1627)年再建のものである。1987年[[世界遺産]]の文化遺産に登録された。午門は歴史博物院,内廷は[[故宮博物院]]として一般に公開されている。午門の南にある[[天安門]]は,[[国慶節]]やメーデーに政府要人が登楼することで有名。
  
[[1911年]]10月に[[辛亥革命]]が起き、[[袁世凱]]の求めを受けて[[1912年]]2月に溥儀は退位したが、[[北京政府|中華民国臨時政府]]の「[[清室優待条件|優待条件]]」として溥儀とその一族は、紫禁城の内廷での居住を許された。
+
==外部リンク==
 
+
*[http://www.dpm.org.cn/ 故宮博物院(北京)]
しかし[[1924年]]10月の[[馮玉祥]]による[[北京政変]]の際、11月5日を以って溥儀を初めとする皇族への紫禁城退去が通告され、その後は'''故宮'''と呼ばれ[[ルーヴル美術館]]などの例に倣い[[1925年]][[10月10日]]に[[博物館]]として組織された。[[1949年]]に、[[中国共産党]]の指導者の[[毛沢東]]は城門の一つである[[天安門]]で[[中華人民共和国]]の建国を宣言した。
 
 
 
[[1961年]]に、[[中華人民共和国国務院|中国国務院]]より[[国家重要文化財]]、[[1987年]]に[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]より[[世界遺産]]に認定された。現在は建物自体も明と清の歴史を伝える[[故宮博物院]]の文物の一つとして一般開放されている。
 
 
 
==主な建物==
 
[[ファイル:Gugun panorama-2005-1.jpg|thumb|center|680px|北側の[[景山公園]]からの紫禁城の眺め(中央手前は神武門)]]
 
[[ファイル:Forbidden city map wp 1.png|thumb|350px|right|紫禁城見取り図
 
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<span style="color: red;">- - -</span> 内廷(北側)と外朝(南側)の大まかな区分境界
 
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{{col-begin}}
 
{{col-break}}
 
A. 午門<br />
 
B. 神武門<br />
 
C. 西華門<br />
 
D. 東華門<br />
 
E. 隅櫓<br />
 
F. 太和門<br />
 
G. 太和殿<br />
 
{{col-break}}
 
H. 武英殿<br />
 
J. 文華殿<br />
 
K. 南三所<br />
 
L. 後三宮(乾清宮)<br />
 
M. 御花園<br />
 
N. 養心殿<br />
 
O. 皇極殿<br />
 
{{col-end}}]]
 
北京故宮南北の長さ961m、東西の幅753m、面積は約725000m<sup>2</sup>。周囲は幅52m の堀が囲む。城壁の高さ12m、底厚10m、頂厚は6m から7m。南に午門、東に東華門、西に西華門、北に神武門<ref>明代には玄武門だったが、[[康熙帝]]の名を[[忌諱]]して改名された</ref>がある。「紫禁城」は[[:Category:中国天文学|中国の天文学]]に従い、[[北極星]](天帝)を皇帝に擬え、地上に「[[紫微垣]]」を再現し、世界の中心を地上に再現した領域であり、天帝に代って地上を治める皇帝の住む宮殿として建設された。そのため'''「天子は南面す」'''の言葉通り、北に皇帝の宮殿が置かれている。
 
紫禁城の由来は、天帝(創造主)が住んでいる星とされる北極星を紫微星、北極星の周辺を回る星座の辺りを紫微垣と呼んだのに由来する「紫宮」、及び「天帝の命を受けて世界秩序の維持に責任を持つ皇帝(天子)」の住居たる「禁城(庶民などが自由に入るのを禁止された城)」の二語を合わせ、紫禁城と呼んだことに由来する<ref>[http://www.geocities.jp/kusumotokeiji/linkkoutei.htm 中国の清朝皇帝に関する読本 (清時代、台湾、清朝、紫禁城、故宮博物院、衣装、ラストエンペラー)]</ref>。
 
 
 
===外朝の外、皇城の南===
 
かつては紫禁城をとり囲む'''皇城'''が存在したが、[[辛亥革命]]以降、皇城の城壁は次々に取り壊されて、現在はほとんど址をとどめていない。
 
 
 
*[[天安門]](abkai elhe obure duka): 明代には'''承天門'''と呼んだ。午門・端門のさらに南にある。法令の公布されるところである。これに対として「地安門(na i elhe obure duka)」が皇城の北に作られていたが、現存しない。
 
*端門(tob duka): 天安門と午門の間にある門である。
 
*太廟
 
*太社稷
 
 
 
=== 城門 ===
 
[[File:皇城1.jpg|thumb|270px|紫禁城と[[北京の城門]]([[:zh:北京城门|zh]])]]
 
[[File:Meridan Gate.jpg|thumb|270px|午門]]
 
*午門(julergi dulimbai duka): 天安門を入り、端門を抜けた北側にある紫禁城の南門。この門の名称は、紫禁城からして午(うま)の方角、つまり南の方角にある事から名付けられた。この門の特徴は、コの字型に両翼がせり出した独特の形をしていること。また、この午門に囲まれた広場では、官吏が午前4時に皇帝を遥拝することになっていた。百叩きの刑などの刑の執行も行われた。ちなみに、映画「[[ラストエンペラー]]」で生母の死を知った溥儀が外に出ようとして陳凱歌の演じる門番に止められたり、溥儀に紫禁城から追放された宦官達が居たのもこの場所である。当時、既に清朝は滅び中華民国の時代となっていたが、形式的上この門の内側は清朝のままであった(ただし、太和殿等の在る外朝部が中華民国の領域で、内朝部が清朝のままである)。現在は、観光記念品を販売する店があり、日本語解説のテープも貸し出している。なお、この午門から先は有料で、故宮博物院への入館券がなければ入ることができない。
 
*東華門(dergi eldengge duka): 外朝東側にある門。(清代には大臣らが使っていた門。格式が一つ低いとされる。皇帝、皇后、皇太后の棺がここから出されたので、「鬼門」、「陰門」とも呼ばれる。)
 
*西華門(wargi eldengge duka): 外朝西側にある門。
 
 
 
=== 外朝 ===
 
[[ファイル:Forbiddencity notopen07.JPG|thumb|200px|内金水河と文華殿]]
 
[[ファイル:Verbotene-Stadt1500.jpg|thumb|200px|明時代に描かれた紫禁城の絵画]]
 
*内金水河 : 護城河ともいう。紫禁城をぐるりと囲む幅52mの堀。
 
*太和門(amba hūwaliyambure duka) : 外朝の正門。明代の名称は皇極門。紫禁城を居城とした明朝の歴代皇帝は、ここで政務を執った。現在は、書籍や観光記念品を販売する店がある。
 
**獅子像 : 太和門の両側にいる青銅の像。如何にこの門が権威ある建物なのかを表している。
 
*弘義閣(jurgan be selgiyere asari)
 
*体仁閣(gosin be dursulere asari)
 
*保和殿西廡 : 現在は絵画館となっている。
 
*保和殿東廡 : 現在は鐘表館となっている。
 
*歴代芸術館
 
 
 
==== 前三殿 ====
 
[[ファイル:太和殿丹陛的日晷.JPG|thumb|200px|日時計(太和殿)]]
 
[[ファイル:Beijing-forbidden5.jpg|thumb|200px|鶴の像(太和殿)]]
 
[[太和殿]]、[[中和殿]]、[[保和殿]]の総称。紫禁城の中心的建造物。外朝三殿ともいう。
 
*太和殿(amba hūwaliyambure deyen) : 明代の名称は皇極殿。俗称、金鑾殿。紫禁城の中軸線上にあって、外朝の三大殿の正殿。紫禁城を居城とした明・清両王朝の歴代皇帝の即位式や万寿節(皇帝の誕生日)、結婚、それに元旦や冬至などを祝う時と重要な朝会、筵宴、出征、そして皇帝の葬儀など宮廷の重大な式典を行った最も重要な建物である。式典が行われるときには、太和殿前の広場に官吏たちがずらりと並び、全員で[[三跪九叩頭の礼]]を行った。また、太和殿は現存する中国最大の木造建築で<ref>{{Cite book|和書 |author = 新建築社 |year = 2008 |title = NHK 夢の美術館 世界の名建築100選 |publisher = [[新建築社]] |page = 16|isbn = 978-4-7869-0219-2}}</ref>、高さ35m、幅約63m、奥行き約33mもあり、しかも3段の大きな台座の上に建っているので、数ある紫禁城の建物の中で最も大きく見える。現在は、清朝時代のままの宮廷の姿を陳列している。玉座の上には大玉が吊るされ、皇帝として不適の者が座ると玉が落ちてくるという迷信があり、[[袁世凱]]は、わざわざ玉座をずらして座り、現在もそのままとなっている。
 
**日時計 : 太和殿のすぐ隣にある皇帝の権威の象徴。
 
**鶴の像
 
**亀の像
 
*中和殿(dulimbai hūwaliyambure deyen): 明代の名称は中極殿。太和殿の後ろ側にあり、式典が太和殿で行われる直前に皇帝が大臣らから祝辞を受け、一旦、休憩した場所。この中和殿は数ある紫禁城にある建物の中で唯一、正方形の形をしているのが特徴。現在は、清朝時代のままの宮廷の姿を陳列している。
 
*保和殿(enteheme hūwaliyambure deyen): 明代の名称は建極殿。中和殿の後ろ側にあり、式典が太和殿で行われる直前に皇帝が更衣をした場所。清朝の時代は、毎年正月にモンゴル、ウイグルの王侯を招いての宴会も行われ、乾隆帝以来、皇帝臨席の下、官吏採用試験である文科挙の最終試験である殿試が、ここで行われた。現在は、清朝時代の宮廷の姿を陳列している。
 
 
 
==== 紫禁城東南部 ====
 
*文華殿(šu eldengge diyan): 明朝の時代は皇太子がここに暮らし、「[[内閣大学士|内閣]]」が置かれた。清朝の時代は、清朝の乾隆帝によって編纂された「四庫全書」がここに収められ、儒教の講義が行われた。文武二殿の一つ。
 
*精一堂
 
*恭黙室
 
*九五斎
 
*玉食館
 
*省愆居
 
*主敬殿(ginggun be da araha deyen)
 
*本仁殿(gosin be fulehe obure deyen, gosin be fulehe obuha diyan)
 
*集義殿(jurgan be isabure deyen)
 
*傳心殿(mujilen be ulara deyen)
 
**治牲所
 
*文淵閣(šu tunggu asari)
 
*鑾儀衛所
 
*地和庫房
 
*国史館(gurun i suduri kuren)
 
 
 
===== 上駟院・南三所 =====
 
*上駟院(dergi adun i jurgan)
 
*南三所
 
*擷芳殿
 
*御茶・御膳総房
 
 
 
===== 内閣(dorgi yamun) =====
 
*満本房
 
*漢本房
 
*蒙古房
 
*漢票簽房(nikan afahari dahabure ba)
 
*満票簽房(manju afahari dahabure ba)
 
*大学士堂
 
*侍読擬写草簽処
 
*中書繕写真牽処
 
*収儲本章档案処
 
 
 
===== 紫禁城西南部 =====
 
*[[武英殿]](u ing diyan, horonggo yangsangga deyen): 明朝を滅ばした[[李自成]]が即位した場所。また、清朝の[[順治帝]]の摂政[[ドルゴン]]が首都を盛京から北京へ遷都する詔書を発布したところである。明代には紫禁城を居城とした明朝歴代皇帝の斎戒や大臣接見の場となり、清代には御用絵師のアトリエになった。文武二殿の一つ。
 
**凝道殿
 
**煥章殿
 
**敬思殿
 
**浴徳堂
 
*咸安殿(宝蘊楼)
 
**清字経館
 
**三通館(ilan hafu bithei kuren)
 
**実録館(yargiyan kooli bithei kuren)
 
**文穎館(šu i suiha i bithe icihiyara kuren)
 
*南薫殿
 
**外瓷器庫
 
**御書処(dergi bithe foloro ba)
 
*内務府(dorgi baita be uheri kadalara yamun)
 
**広儲司(ambula asarara fiyenten)
 
**会計司(acabufi bodoro fiyenten)
 
**掌儀司(dorolon be kadalara fiyenten)
 
**都処司(buthašara be kadalara fiyenten)
 
**慎刑司(erun be ginggulere fiyenten)
 
**営造司(weilrere arara fiyenten)
 
**慶豊司(elgiyen i fusembure fiyenten)
 
 
 
=== 内廷 ===
 
 
 
==== 後三宮 ====
 
[[ファイル:Inside the Forbidden City.jpg|thumb|270px|乾清宮の内部。玉座が安置されその上に<!--康熙帝の御筆による-->『正大光明』の[[扁額]]がある。]]
 
乾清宮、交泰殿、坤寧宮の総称。内廷の中軸線にあって、内廷の中心的建造物。現在は、清朝時代のままの宮廷の姿を陳列している。
 
*乾清門(kiyan cing men): 内廷の正門。宮殿の造りで、内部には[[孔子]]を祀った一室があった。紫禁城を居城とした清朝の歴代皇帝は、ここで「御門の政」(日常の政務を執る事)を行った。現在は、記念品を販売する店がある。
 
*乾清宮西廡 : 清朝の時代、南書房(julergi bithei boo)、敬事房として使われた。現在は、青銅器館となっている。
 
*乾清宮東廡 : 清朝の時代、上書房として使われ、紫禁城を居城とした清朝の歴代皇帝の皇子達が勉学に励んだ場所。
 
*乾清宮(kiyan cing gung) : 清朝の雍正帝以前は、紫禁城を居城とした明・清両王朝の歴代皇帝の寝宮であったが、清朝の[[雍正帝]]以降、清朝歴代皇帝の寝宮は養心殿へと移り、皇帝が大臣を召見し、上奏文の処理、日常の政務を執る場所と筵宴(=宴会を意する勅語、ちなみに口語 文語はそれぞれ筵席 筵會)を行う場所となった他、皇帝が崩御した際、その棺を一旦、安置する場所ともなった。
 
*交泰殿(giyoo tai diyan): 紫禁城を居城とした明・清両王朝の皇帝の皇后の冊立の儀式が行われた場所で、皇后は元旦、冬至、千秋(皇后誕生日)の祝賀をここで受けた。[[乾隆帝]]の頃には印璽の収蔵に使用された。
 
*坤寧宮(kun ning gung): 明朝の時代は、紫禁城を居城とした明朝歴代皇帝の皇后が居住する正宮であった場所で、明朝最後の皇帝、[[崇禎帝]]が[[1644年]]の北京陥落の時に皇后と公主を殺した場所でもある。また、清朝の時代は、朝神、夕神という満漢仏集合の神々(薩満教の神様)が祀られ、司祝という[[シャーマニズム|シャーマン]]によって、朝祭、夕祭、月祭、など[[満族|満州族]]の[[シャーマニズム]]の儀式が行われた他、紫禁城を居城とした清朝歴代皇帝と、その皇后との婚礼が執り行われ、新婚の皇帝と皇后が初夜を過ごす場所であった。なお、最後に執り行われた清朝の皇帝と、その皇后との婚礼は、清朝滅亡後の1922年に執り行われた溥儀(宣統帝)と婉容(ゴベイル皇后)との御成婚式であった。
 
*坤寧門 : 後三宮の北門。ここから御花園に入ることができる。
 
 
 
==== 御花園 ====
 
[[ファイル:御花园.JPG|thumb|200px|御花園]]
 
紫禁城最大の花園で楼閣がある他、堆秀山という山があり、紫禁城を居城とした明・清両王朝の歴代皇帝が、后妃達と遊楽をした場所でもある。
 
*養性斎 : 築山に囲まれ、景色が奥ゆかしい場所。清朝滅亡後の1919年に溥儀の帝師(英文教師)として招聘されたイギリス人の[[レジナルド・ジョンストン]]が住居とした場所。
 
*絳雪軒 : 当初、数本の海棠の木があるのみであったが、風に飛び散る落花が絳色(深紅色)の雪片のようであることから絳雪軒と名付けられた。
 
*欽安殿(kin an diyan): 玄天上帝という道家の天帝を祀る神殿。
 
*順貞門(šun jeng men): 御花園の北門。
 
 
 
==== 内廷の北側中央(御花園の北側) ====
 
[[ファイル:Forbidden City Beijing Shenwumen Gate.JPG|thumb|270px|故宮博物院の正門となっている神武門]]
 
[[ファイル:View from the coal hill to the Forbidden City.jpg|thumb|270px|1900年の紫禁城、景山からの神武門の眺め]]
 
*位育斎 : 明・清両王朝の時代は仏堂であったが、現在は、飲食店となっている。
 
*攡藻堂 : 宮廷の書籍を収蔵した場所で、「四庫全書薈要」が、ここに収蔵された。現在は本屋となっている。
 
*神武門(šen u men) : 清朝の康熙帝以前の名称は玄武門。紫禁城の北門。現在は故宮博物院の正門となっており、[[郭沫若]]の揮毫で「故宮博物院」の扁額が掲げられている。日本語では通常「しんぶもん」と読む。<!--「神武天皇と区別するために」ではなくて、単に呉音と漢音の違いかと。-->
 
 
 
==== 内廷西側 ====
 
*隆宗門(lung dzung men): 乾清門の前にある広場の西門。現在、ここにファースト・フードの店がある。
 
*[[軍機処]](coohai nashūn i ba): 1729年(雍正7年)7月5日に雍正帝によって設置された軍機処があった所。軍機大臣がここで待命し、皇帝の召見を待った。
 
*養心殿(mujilen be ujira deyen、yang sin diyan): 清朝の[[康熙帝]]の頃は書斎として使用されていたが、次の雍正帝以降、清朝歴代皇帝が居住する寝宮となった。また、同治帝と光緒帝の時代に慈安皇太后(東太后)、[[西太后|慈禧皇太后(西太后)]]が「垂簾聴政」を行った所でもあり、1912年2月12日に御前会議によって清朝最後の皇帝、[[愛新覚羅溥儀|宣統帝]]の退位を決定した隆裕皇太后によって、「宣統帝退位詔書」が発布された所でもある。
 
 
 
==== 西六宮 ====
 
[[ファイル:Flickr - archer10 (Dennis) - China-6257.jpg|thumb|200px|right|永寿門(永寿宮)]]
 
[[ファイル:kabe2004_1226.JPG|thumb|270px|right|西一長街]]
 
妃たちの居住地である。清朝の[[同治帝]]の生母、慈禧皇太后が居住し、[[西太后]]と呼ばれた。
 
*永寿宮(enteheme jalafungga gurung、yung šeo gung): 現在は、文物陳列室となっている。
 
*太極殿 : 啓祥宮ともいう。現在は、清朝時代のままの宮廷の姿で陳列されている。
 
**体元殿(ikengge be dursulere deyen): 太極殿の後殿。後部は長春宮の舞台となっている。 現在は清朝時代のままの宮廷の姿で陳列されている。
 
*長春宮(forgon enteheme obure gurung): 現在は、清朝時代のままの宮廷の姿で陳列されている。
 
**承禧殿
 
**綏寿殿
 
**履綏殿
 
**平安室
 
*翊坤宮(i kun gung): 現在は、清朝時代のままの宮廷の姿で陳列されている。
 
**元和殿
 
**延洪殿
 
*儲秀宮(cu sio gung): 現在は、清朝時代のままの宮廷の姿で陳列されている。
 
**体和殿 : 儲秀宮に住む慈禧皇太后(西太后)が食事をした所。現在は、清朝時代のままの宮廷の姿で陳列されている。
 
**麗景軒
 
*咸福宮
 
**同道堂
 
*長康右門 : 西一長街の北門。ここから御花園に入ることができる。
 
 
 
==== 内廷の東側 ====
 
*景運門(ging yūn men): 乾清門前の広場の東門。現在、ここに売店がある。
 
*奉先殿(fung siyan diyan, nenehe be ginggulere deyen): 明朝の時代に建てられた皇室用寺。紫禁城を居城とした明・清両王朝の歴代皇帝が祖先の霊を、ここに祀った。現在は、文物陳列室となっている。
 
*内左門 : 東一長街の南門で、ここから内廷の斎宮、東六宮へと通じている。
 
*斎宮(targara gung) : 清朝の雍正帝の時代に皇帝の斎戒のために建てられた。現在は、文物陳列室となっている。
 
*毓慶宮 : 清朝の康熙帝の時代に皇太子のために建てられた寝宮。10歳を過ぎた清朝の皇太子は、ここで自立生活を送った。
 
**継德堂
 
**味余書室
 
**知不足斎
 
**宛委別蔵室
 
 
 
==== 東六宮 ====
 
[[File:Beijing China Forbidden-City-09.jpg|thumb|270px|延禧宮]]
 
妃たちの居住地である。清朝の[[咸豊帝]]の皇后、慈安皇太后が居住し、[[東太后]]と呼ばれた。
 
*景仁宮(king žin men): 現在は、文物陳列室となっている。
 
*承乾宮(ceng kiyan gung): 現在は、文物陳列室となっている。
 
*永和宮(yong ho gung): 現在は、文物陳列室となっている。
 
*鍾粹宮 : 現在は、工芸館玉器陳列室となっている。
 
*景陽宮(ging yang gung): 現在は、工芸館琺瑯陳列室となっている。
 
*延禧宮
 
*長康左門 : 東一街の北門。ここから御花園へ入ることができる。
 
 
 
==== 養老宮 ====
 
紫禁城の西北部にある宮殿。
 
*慈寧宮(gosingga elhe gung) : 清朝の乾隆帝による造営。
 
*寿康宮(jalafungga elhe gurung): 清朝の雍正帝が母后のために造営して以来、皇太后、太妃の居住地となった。現在は、故宮博物館図書館になっている。
 
**長楽敷華殿
 
*寿安宮 : 明代の名称は咸安宮。清朝の乾隆帝が母后のために再建した。
 
*春禧殿
 
*福宜斎
 
*萱寿堂
 
*英華殿 : 明代に万寿節が行われた所で、清代には皇后、皇太后、后妃たちの持仏堂が置かれた所である。
 
 
 
==== 寧寿宮 ====
 
[[File:BeijingForbiddenCity3.jpg|thumb|270px|皇極殿]]
 
[[File:NineDragons01.jpg|thumb|270px|九龍壁]]
 
[[File:Forbidden city colors.JPG|thumb|270px|屋根と赤壁の詳細]]
 
明朝の時代、皇帝亡き後、未亡人となった皇后と妃嬪達が居住した場所であり、紫禁城の東北部にある。清朝の康熙帝の時代に寧寿宮(nikton jalafungga gurung, elhe jalafungga gurung)と名称を変更し、皇太后の居所となった。その後、乾隆帝の時代に改築され、後に太上皇宮殿として皇極殿と名付けられた。清朝が最盛期を迎えた乾隆帝の時代の建築の芸術と風格を代表する傑作となっている。
 
*錫慶門(urgun isabure duka): 現在は、珍宝館の入場券売り場となっている。
 
*寧寿宮の正門。現在は、珍宝館の入口となっている。
 
*九龍壁 : 中国で有名な三つの「九龍壁」の一つ。長さ29.4m、高さ3.5mもある巨大な瑠璃装飾の壁で、1772年(乾隆37年)に建造された。現在は、故宮観光のメインの一つとなっているが、この九龍壁を見るには、別料金が必要となる。
 
*皇極殿(amba ten i deyen): 1795年(乾隆60年)、治世60年に達した乾隆帝が祖父・康熙帝の治世61年を超えてはならないという名目で帝位を皇太子の愛新覚羅顒琰(嘉慶帝)に譲り、太上皇となった後、院政を敷いた清寧宮(genggiyen elhe gurung)の正殿。
 
*寧寿宮(nikton jalafungga gurung): 明代の名称は仁寿宮。1795年(乾隆60年)、治世60年に達した乾隆帝が祖父・康熙帝の治世61年を超えてはならないという名目で帝位を皇太子の愛新覚羅顒琰(嘉慶帝)に譲り、太上皇となった後、居住した寝殿。現在は、珍宝館の第二展示室となっている。
 
**金昭玉粹殿
 
*養性殿(yang sing diyan) : 清朝の乾隆帝の時代に養心殿を模して建てられたもの。現在は、清朝時代のままの宮廷の姿で陳列されている。
 
*暢音閣 : 宮廷の戯桜(舞台)であったが、現在は、清宮芝居の衣装、道具などが展示されている。
 
**閲是楼
 
*衍祺門 : 乾隆花園の南門。
 
*楽寿堂(lo šeo tang) : 清朝の乾隆帝の時代に円明園の淳化軒を模して建てられたもの。
 
*乾隆花園 : 清朝の乾隆帝の時代に造られた庭園。
 
*珍妃井 : 義和団の乱の最中の1900年(光緒26年)8月15日に光緒帝が最も寵愛した妃であった珍妃が、慈禧皇太后(西太后)によって投げ込まれて殺された井戸。
 
*貞順門(šun jeng men) : 寧寿宮の北門。現在は、珍宝館の出口となっている。
 
*頤和軒(i ho hiyan)
 
*景祺閣(ging ki g'u)
 
*尋沿書屋
 
*古華軒
 
*遂初堂
 
**延趣楼
 
**翠賞楼
 
**養和精舍
 
*符望閣
 
**玉粹軒
 
**竹香館
 
*倦勤斎(giowan kin jai)
 
*景福宮
 
**佛日楼
 
**梵華楼
 
**慶寿堂
 
**兆祥所
 
 
 
==== 乾東五所 ====
 
[[File:Forbidden-City-Bronze-Tortoise-4015.jpg|thumb|270px|亀の像(太和殿)]]
 
[[File:雪中紫禁城 9.jpg|thumb|270px|雪の紫禁城(太和殿)]]
 
*古董房
 
*四執庫
 
*敬事房
 
*寿薬局
 
*如意館(nirugan nirure kuren)
 
 
 
==== 重華宮 ====
 
*崇敬殿
 
*重華宮
 
**芝蘭室
 
**葆中殿
 
**雨花閣
 
*翠雲館
 
*浴徳殿
 
*漱芳斎
 
**静憩軒
 
**金昭玉粹殿
 
**隨安室
 
 
 
=== 付属遺構===
 
*西苑 : 紫禁城西部の「北海」、「中海」、「南海」の溜池と周囲の緑地に営まれた庭園と離宮群。北京の水確保のために作られたが、清代には皇帝、皇族などが庭園、離宮を造営した。いまは[[中華人民共和国]]の[[中南海|政府機関]]があり、非公開の所もある。
 
*景山(ambalinggū alin): 紫禁城の裏山「景山公園」になっている。[[1644年]]明朝の[[崇禎帝]]が首をつって自殺した所である。
 
<gallery perrow="7">
 
ファイル:Tiananmen.JPG|天安門
 
ファイル:Gate of Supreme Harmony.JPG|太和門
 
ファイル:Gold Water River.JPG|金水河
 
ファイル:Forbidden City Imperial Guardian Lions.jpg|獅子([[狛犬]])
 
ファイル:ImperialRoofDeco.jpg|屋根の装飾
 
ファイル:中和殿.JPG|中和殿
 
ファイル:Zhonghedian Interior.jpg|中和殿内部
 
ファイル:Wen Yuan Chamber.JPG|文淵閣
 
ファイル:Forbiddencitybeijing.jpg|乾清門
 
ファイル:乾清宮.JPG|乾清宮
 
ファイル:军机处.JPG|軍機処
 
ファイル:Hong Forbidden City picture.jpg|千秋亭(御花園)
 
ファイル:ShikinjyoHokuto.jpg|北東の隅櫓
 
ファイル:Forbidden City - satellite image (1967-09-20).jpg|紫禁城衛星写真<br />(1967年)
 
</gallery>
 
 
 
== 故宮博物院 ==
 
[[画像:Forbidden City Beijing Shenwumen Gate.JPG|thumb|240px|北京の故宮博物院]]
 
[[中華人民共和国]][[北京市]]の故宮博物院([[簡体字]]:{{lang|zh-Hans|故宫博物院}})は、もとの宮殿([[紫禁城]]、別称は故宮)であった所を博物館にしている。
 
 
 
一般入場料は40元(4月から10月は60元)。留学生のみ学生証によって学割が適用される場合があるが基本的には外国人は子供も一般料金が適用される。120cm以下の子供は外国人を含めて無料。「珍宝館」および「{{lang|zh-Hans|鐘錶}}(時計)館」はそれぞれ別料金(10元)である。敷地内は広大で、売店や軽食堂がある<ref>2007年7月14日、北京の「故宮博物院」敷地内で8年間営業を許可していた[[スターバックス]]のコーヒーチェーン店を「中国文化を損なう」との理由で契約を解除したことが報道された</ref>。また多くの言語の音声ガイドサービスが用意されていて、中には人工言語の[[エスペラント]]まである。等級は[[中国国家一級博物館]]に分類されている。
 
 
 
政治的な事情で分離した[[台湾]]([[中華民国]])の[[国立故宮博物院]]とは、[[2009年]]10月に初の共同展「雍正帝-清・世宗文物大展」を開催しており<ref>{{Cite news
 
|url=http://www.china.com.cn/culture/txt/2009-10/07/content_18663297.htm
 
|title=雍正文物大展在台開展 両岸故宮交流"春華秋実"
 
|work=
 
|newspaper=[[中国網]]
 
|date=2009-10-07
 
|accessdate=2017-12-25
 
}}</ref>、[[2016年]]9月には[[国立故宮博物院]]院長退任直後の{{仮リンク|馮明珠|zh|馮明珠}}が中華人民共和国政府の招聘で北京故宮博物院顧問に就任して台湾で物議を醸した<ref>{{Cite news
 
|url=http://www.sankei.com/world/news/160908/wor1609080045-n1.html
 
|title=台北・故宮博物院前院長が北京・故宮研究院の顧問に 「機密が漏れる」と台湾・与党は批判
 
|work=
 
|newspaper=[[産経新聞]]
 
|date=2016-09-08
 
|accessdate=207-12-25
 
}}</ref>。
 
 
 
現在は故宮博物院の敷地外となっている天安門や端門への登楼も有料で可能であり、正門である午門の前にも民営の小さな展示館がたくさんある。
 
 
 
=== 主な展示物 ===
 
<center><gallery perrow="6">
 
File:Baby pillow 1.JPG|陶製 童子枕
 
File:Clockwithacopperhatstand.JPG|銅製の帽子掛時計(清時代)
 
File:Goddess of luo shui (part)1.jpg|洛神賦(顧愷之作、東晋時代)
 
File:Stroll About InSpring.jpg|游春図(展子虔作、隋時代)
 
File:Emperor Taizong Receiving the Tibetan Envoy(Bunian Tu).jpg|歩輦図(閻立本作、唐時代)
 
File:Huang-Quan-Xie-sheng-zhen-qin-tu.jpg|写生珍禽図(五代十国時代)
 
</gallery></center>
 
 
 
{{Wide image|Wuniutu.jpg|800px|五牛図(唐韓滉作、唐時代)|dir=rtl}}
 
{{Wide image|The Calligraphy Model Boyuan by Wang Xun.jpg|1100px|伯遠帖(王珣作、東晋時代)|dir=rtl}}
 
{{Wide image|The Calligraphy Model Mid-Autumn by Wang Xianzhi.jpg|1100px|中秋帖(王献之作、東晋時代)|dir=rtl}}
 
{{Wide image|Gu Hongzhong's Night Revels 1 edit.jpg|2500px|韓熙載夜宴図(南唐時代)|dir=rtl}}
 
{{Wide image|Alongtheriver QingMing.jpg|2300px|[[清明上河図]](張択端作、北宋時代)|dir=rtl}}
 
 
 
=== 文献 ===
 
*『故宮博物院』(全15巻、[[日本放送出版協会]]、1997-99年)<br>[[1990年代]]後半に[[NHKスペシャル]]で『故宮博物院』が放映された。<ref>[http://cgi2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009040329_00000 NHKスペシャル 故宮の至宝 - NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス]</ref>
 
 
 
==その他==
 
[[File:Forbidden City ovedc A (29).JPG|thumb|200px|太和殿石階段のレリーフ]]
 
*入場料は一般40元(4月から10月は60元)。留学生は中国で発行された学生証により学割が適用される場合があるが、基本的に外国人は子供も含めて一般料金が適用になる。学生は20元。珍妃井のある珍宝館(10元)や北側にある[[景山公園]](2元)、南側の天安門の楼上(15元)などは別料金が必要。
 
*近年来、主要建築物が順次修復工事中である。[[2006年]]4月現在、太和殿や左翼門(dergi ashan duka)等と、景山山頂の万春亭が修復のため立ち入りできない。[[2008年]]7月、五輪を目前に太和殿の工事が終了し、装いを新たに一般公開を再開した。
 
*[[2000年]]以来[[スターバックス]]故宮店が営業していた。「伝統か、便利さか」で議論を呼んだが、故宮側の方針変更により2007年7月に閉店した。現在は別のコーヒーショップが同場所に入っている。
 
 
 
*南群房には、「清韻堂」という骨董品のコピー商品を売る店がある。ここの売りは「溥儀の甥」や「中国の国宝級」の書家が「ボランティア」で書の実演販売を行うことであるが、実際に「溥儀の甥」である証明は付かない。また、「故宮の敷地内で偽物を売るはずがない。」と言っているが、南群房は、故宮博物院の敷地ではない。購入の際には「故宮博物院の鑑定書が付く」と言っているが、実際に付くのは「故宮"清韻堂"」の「証明書」であり、骨董価値を示す鑑定書ではない。(「故宮」という単語は商標とは認められていないため、自由に名乗ることができる。)
 
  
== 関連項目 ==
+
{{テンプレート:20180815sk}}
{{Commons&cat|紫禁城|Forbidden_City}}
 
{{Commonscat|Palace_Museum|故宮博物院}}
 
{{Wiktionary|故宮}}
 
{{Wikivoyage|zh:北京/故宫|紫禁城{{zh-cn icon}}}}
 
{{Wikivoyage|Beijing/Forbidden City|紫禁城{{en icon}}}}
 
*[[故宮博物院]]
 
*[[北京と瀋陽の明・清王朝皇宮]]
 
*[[中華人民共和国の世界遺産]]
 
*「[[トゥーランドット]]」 - [[1998年]]9月紫禁城で上演され話題になった[[オペラ]]
 
*[[紫禁城の落日]]
 
*[[紫禁城の黄昏]]
 
*[[遜清皇室小朝廷]]
 
*[[フエ|フエの建造物群]] - [[阮朝]]の古都
 
*[[景福宮]] - [[李氏朝鮮]]の王宮
 
*[[瀋陽故宮]] - 紫禁城以外で故宮とよばれる場所
 
*[[明故宮]] - 南京にある明朝の宮殿跡
 
*[[京都御所]]
 
*[[京都御苑]]
 
*[[大内裏]]
 
*[[内裏]]
 
  
== 参考文献 ==
 
{{Portal box|中国|世界遺産}}
 
*「故宮案内」 [[遼寧師範大学]]出版社・大連
 
* 入江曜子 『紫禁城 清朝の歴史を歩く』 岩波書店〈岩波新書〉、2008年、ISBN 978-4004311416
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{reflist}}
 
 
==外部リンク==
 
*[http://www.dpm.org.cn/ 故宮博物院(北京)]
 
*[http://wikimapia.org/s/#y=39916780&x=116390898&z=16&l=0&m=s&v=1 Wikimapia航空写真 - 紫禁城]
 
{{中華人民共和国の世界遺産}}
 
{{Authority control}}
 
 
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[[Category:紫禁城|*]]
 
[[Category:紫禁城|*]]

2018/12/31/ (月) 13:00時点における最新版

座標: 東経116度23分27.6秒北緯39.913917度 東経116.391度39.913917; 116.391 (紫禁城)

紫禁城
Forbidden city 07.jpg
太和殿
各種表記
繁体字 紫禁城
故宮博物院
簡体字 紫禁城
故宫博物院
拼音 Zǐjìnchéng
Gùgōng Bówùyuàn
注音符号 ㄗˇㄐㄧㄣˋㄔㄥˊ
ㄍㄨˋㄍㄨㄥㄅㄛˊㄨˋㄩㄢˋ
発音: ツーチンチェン
クークン ポーウーユエン
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紫禁城(しきんじょう、簡体字: 紫禁城拼音: Zǐjìnchéng満州語ᡩᠠᠪᡣᡡᠷᡞ
ᡩᠣᠷᡤᡞ
ᡥᠣᠳᠣᠨ
、転写:dabkūri dorgi hoton)または故宮(こきゅう、簡体字: 故宫拼音: Gùgōng

中国のペキン(北京)直轄市にある,代の皇宮。紫禁の名は,北斗星の北に位置する紫禁星が,天帝の居所とされることに由来する。1912年の中華民国の成立以後,しだいに一般に開放されるようになり,今日では「昔の皇宮」の意で故宮と呼ばれる。北京の内城中央に位置し,南北 961m,東西 753m,敷地面積は約 72万m2で,周囲に幅 52mの堀をめぐらし,城壁で囲まれている。明の永楽帝が北京への遷都に向け建築を計画し,永楽18(1420)年に移り住んだ。明末の李自成の乱でほぼ全焼し,現存の建造物は清代に再建されたものが多いが,創建当初の規模を伝えている。城内は,皇帝が居住した北の内廷と,皇帝が政務をとった南の外朝に区分され,内廷には南北一直線上に乾清門,乾清宮,交泰殿,坤寧宮,坤寧門などが建ち,外朝には南から午門,太和門,太和殿,中和殿,保和殿などが並ぶ。東には文華殿,文淵閣など,西には武英殿,南薫殿などの門,宮殿が建つ。このうち太和殿は紫禁城の正殿で,清の康煕帝の時代(1661~1722)の再建,中和殿と保和殿は天啓7(1627)年再建のものである。1987年世界遺産の文化遺産に登録された。午門は歴史博物院,内廷は故宮博物院として一般に公開されている。午門の南にある天安門は,国慶節やメーデーに政府要人が登楼することで有名。

外部リンク



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