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{{出典の明記|date=2012年2月|ソートキー=へいえいせんそう__世界史}}
 
{{Infobox Military Conflict
 
|conflict=米英戦争
 
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|image=[[ファイル:BurningofWashington1814.jpg|300px]]
 
|caption=[[ワシントン焼き討ち|首都ワシントンの焼き討ち]]
 
|date=[[1812年]] [[6月18日]] – [[1815年]] [[2月18日]]
 
|place= 北アメリカ東部および中部、メキシコ湾岸、大西洋および太平洋
 
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|result=[[ガン条約]]により元の状態に戻る
 
|combatant1={{USA1795}}、北東部森林地帯インディアン
 
|combatant2= {{GBR3}}<br />{{Flagicon|UK|size=22px}} [[カナダ]]<br />{{BER}}<br />北東部森林地帯インディアン、東部インディアン、南東部インディアン
 
|commander1={{flagicon2|アメリカ合衆国|army}} [[ジェームズ・マディソン]] <br /> {{flagicon2|アメリカ合衆国|army}} [[ヘンリー・ディアボーン]] <br /> {{flagicon2|アメリカ合衆国|army}} [[ジャコブ・ブラウン]] <br />{{flagicon2|アメリカ合衆国|army}} [[ウィンフィールド・スコット]] <br /> {{flagicon2|アメリカ合衆国|army}} [[アンドリュー・ジャクソン]]
 
|commander2={{flagicon2|イギリス|army}} [[ジョージ・プレボスト]]<br />{{flagicon2|イギリス|army}} [[アイザック・ブロック]]†
 
|strength1=•'''アメリカ合衆国正規軍''': 35,800 <br /> •'''レンジャーズ''': 3,049 <br /> •'''民兵''': 458,463* <br /> •'''アメリカ海軍および海兵隊''': (開戦時): <br />•[[フリゲート]]:6 <br />•その他艦船: 14 <br /> •'''インディアン''': 不明
 
|strength2=•'''イギリス植民地軍正規兵''': 48,163  <br /> •'''民兵''': 4,000 <br /> •'''イギリス海軍および海兵隊''': (開戦時): <br />•[[戦列艦]]: 11 <br /> •[[フリゲート]]: 34<br /> •その他艦船: 52 <br /> •'''カナダ植民地海兵隊''': 実数不明 <br /> •'''インディアン''': 3,500
 
|casualties1=戦死: 2,260 <br /> 負傷: 4,505 <br /> 罹患他: 17,205 <br /> 市民: およそ 500
 
|casualties2=戦死または負傷: 5,279 <br /> 罹患: 3321
 
|notes=*ほとんどの民兵は戦闘に参加せず、故郷を離れなかった者すらいた
 
}}
 
'''米英戦争'''(べいえいせんそう)は、[[1812年]][[6月]]から[[1815年]][[2月]]までの期間に[[イギリス]]、その植民地である[[カナダ]]及びイギリスと同盟を結んだ[[インディアン]]諸部族と[[アメリカ合衆国]]との間でおこなわれた戦争。
 
  
「1812年戦争」「アメリカ=イギリス戦争」「第二次独立戦争」とも呼ばれる。米英がカナダ、アメリカ東海岸、アメリカ南部、[[大西洋]]、[[エリー湖]]及び[[オンタリオ湖]]の領土を奪い合い、また両陣営がインディアンに[[代理戦争]]をさせたため、[[北米植民地戦争]]でもあり、[[インディアン戦争]]でもある。英語では専ら{{lang|en|'''War of 1812'''}}(1812年戦争)と表現される。
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'''米英戦争'''(べいえいせんそう)
  
== 米英戦争の原因 ==
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1812年戦争,米英戦争とも呼ばれる。[[フランス革命]]後の英仏抗争に巻込まれたアメリカが,西部の「タカ派」の圧力によって行なったイギリスとの戦争。英仏抗争中イギリス海軍によるアメリカ船員の強制徴用などをめぐってアメリカの世論は次第に硬化した。一方カナダや西部への進出を目指す H.クレー,J.カルフーンら西部や南部の若い指導者たちは,西部に残存するイギリス勢力と先住民族インディアンとの結びつきを断とうとした。彼らはアメリカ議会に圧力をかけ,1812年6月 18日対イギリス宣戦を決議させた。アメリカ軍はカナダに侵入しようとして阻止され,かえって首都ワシントン D.C.を焼かれる状態であったが,15年1月ニューオーリンズを攻めるイギリス軍を A.ジャクソンの率いるアメリカ軍が破って,わずかに面目を保った。ただしこれは両国間の和平が成立した (1814.12.) あとである。この戦争はナポレオン没落とイギリスの国内事情で終息に向ったが,講和後は戦前とほとんど変らない状態に戻っている。アメリカに与えた影響としては,産業革命の促進,ナショナリズムの興隆,それにインディアンの後退による西部進出の促進があげられる。
{{Main|米英戦争の原因}}
 
この戦争がおこった背景にはいくつかの理由がある。
 
  
第一に、米英が奪い合おうとした土地が、そもそも[[インディアン]]の領土であったことである。自国防衛のために、[[アメリカ州の先住民族#アメリカ先住民の分類: アメリカ合衆国とカナダ|インディアン諸部族]]は米英と闘わなければならなかった。
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{{テンプレート:20180815sk}}
 
 
第二に[[ヨーロッパ]]での[[ナポレオン戦争]]中、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]は中立を宣言するが、[[イギリス]]、[[フランス]]による海上封鎖によって、アメリカは経済的大打撃を受けていたので、反英感情が高まっていた。またイギリスの米船に対する[[臨検]]活動も反英感情を強めた。
 
 
 
第三にアメリカ国内において、入植[[コーカソイド|白人]]は[[インディアン]]の土地を狙っていたが、激しく抵抗するインディアンたちの背後でイギリスが扇動していると考えていた。そのため反英感情が高まっており、根本的解決のためにはイギリスと戦争するしかないと考えられた。この戦争においてインディアン達はアメリカ人の侵略活動による西進を防ぐ為、イギリスと手を組んだ。
 
 
 
第四にナポレオン戦争に関わっていたイギリスには新大陸に戦力を向ける余裕が無く、アメリカはその隙を狙っていわば火事場泥棒的にカナダをイギリスから奪おうとした。
 
 
 
第五に、第四の理由からアメリカの指導者達は戦争はすぐに終わると楽観していた。
 
 
 
== 戦争の経過 ==
 
戦争の火ぶたは、アメリカ合衆国が仕掛けて始められた。1812年6月18日、アメリカ第4代[[アメリカ合衆国大統領|大統領]][[ジェームズ・マディソン]]政権のときに米国議会はイギリスに宣戦布告した。外交的な論争が何年も続いた挙げ句の開戦ではあったが、どちらの側も戦争の準備はあまりできていなかった。
 
 
 
イギリスは[[ナポレオン戦争]]に掛かりきりでいた。[[イギリス陸軍]]の主力は[[スペイン]]での[[半島戦争]]に取られており、イギリス海軍は[[ヨーロッパ]]の[[海上封鎖]]を強いられていた。1812年6月のカナダ駐在イギリス軍は公式の数字で6,034名となっており、これにカナダ民兵が支援していた。米英戦争の間、イギリスの陸軍及び植民地担当大臣は第3代[[バサースト伯爵]][[ヘンリー・バサースト (第3代バサースト伯爵)|ヘンリー・バサースト]]であった。開戦から2年間、イギリスは北アメリカの軍隊を補強するゆとりがなかったので、北アメリカ総司令官[[ジョージ・プレボスト]]中将に防衛的な戦略を採らせた。このことはプレボスト自身の考えでもあった。しかし、[[1814年]]になると、戦争経験のある25,000名以上の大規模な増援が可能になったにも拘わらず、プレボストの[[ニューヨーク州|ニューヨーク]]侵攻は[[プラッツバーグの戦い]]での敗北で挫折した。また南部の[[ルイジアナ州|ルイジアナ]]侵攻も[[ニューオーリンズの戦い]]で反撃された。
 
 
一方、アメリカ合衆国の方は楽観的に見過ぎていた。マディソン大統領は、民兵が容易にカナダを確保し、その後に停戦交渉を行えばよいと見ていた。1812年、アメリカ陸軍の正規兵は12,000名を切っていた。[[アメリカ合衆国議会]]は陸軍兵力を35,000名まで拡張することを認めたが、従軍は志願に頼り、給与が少なくて不人気だったうえに、最初の内は訓練を積み経験のある士官が少なかった。民兵は正規兵の応援を要請されたが、その所属する州の外での従軍には反対し、規律もあまり良いとは言えず、さらに出身州の外で敵と遭遇すると働きが悪かった。合衆国は戦費を賄うことが非常に難しい状態にあった。これは丁度国立銀行を放棄したばかりであったことと、北東部の民間銀行が戦争に反対していたことによっていた。
 
 
 
アメリカの準備の足りなさと、アメリカ合衆国陸軍長官[[ウィリアム・ユースティス]]の指導力の不足とで、ユースティスの更迭にまで発展し、初期のアメリカは悲惨な状況だった。ユースティスの後継者[[ジョン・アームストロング (陸軍長官)|ジョン・アームストロング]]は[[1813年]]遅くに[[モントリオール]]占領を目指した連携戦略を試みたが、兵站の破綻、非協力的で喧嘩っ早い指揮官達および訓練の足りない兵士によって失敗させられた。1814年までにアメリカ合衆国陸軍の士気と指導力は大きく改善されたものの、首都[[ワシントンD.C.|ワシントン]]が焼き討ちにあい、今度はアームストロングが職を追われた。次の陸軍長官[[ジェームズ・モンロー]]が新しい戦略を立てる前に、戦争は終わった。
 
 
 
アメリカの戦争遂行は、特に[[米英戦争に対する反戦運動|反戦論]]の声が大きかった[[ニューイングランド]]での不人気に災いされた。ニューイングランドが民兵や財政的な援助を与えられなかったことが深刻な打撃となった。ニューイングランドが合衆国から脱退するという脅威もあり、イギリスはこの分裂を即座に利用して、海上封鎖を南部の港に限定し、密貿易を奨励した。
 
 
 
米英戦争は主に3つの戦線で行われた。すべてインディアンの領土であり、地元のインディアンが米英両陣営の抗争に巻き込まれて虐殺されていった。
 
 
 
# 五大湖地方およびカナダ戦線
 
# 大西洋戦線
 
# 南部諸州戦線
 
 
 
=== 五大湖地方およびカナダ戦線 ===
 
{{Main|米英戦争のカナダ戦線}}
 
アメリカは、英領カナダの奪取を狙い、カナダ領内に侵攻した。米英戦争2年目となる1813年5月には[[ナイアガラ川]]河口近くにあったイギリス軍の[[ジョージ砦の戦い|ジョージ砦]]を攻撃して占領した。エリー湖、オンタリオ湖をおさえ、[[アッパー・カナダ]]の制圧には成功するも、[[セント・ローレンス川]]の水運をおさえることはできず、結果[[モントリオール]]、[[ケベック]]の攻略は失敗し、[[ローワー・カナダ|ロウアー・カナダ]]の制圧はできなかった。こうしてアメリカのカナダ侵略の野望は潰えた。
 
 
 
戦前、かつての司令官[[ジョージ・ワシントン]](米初代大統領・米英戦争以前に病没)はこの地を領土とする[[イロコイ族]]の皆殺しを指揮し彼らの集落を徹底破壊して、イロコイ族から「町の破壊者」と恐れられた。イロコイ族がイギリス軍と同盟を組んでアメリカ植民政府側に刃向かったからである。ワシントンは部隊に殺したイロコイ族の皮を剥がせて軍装の飾りにさせていた。
 
 
 
このようにアメリカ人は多かれ少なかれインディアンに酷薄に接し、また基本的な利害の対立があったので、戦争が起きる度にインディアンには植民者(アメリカ人)に反する側に味方する傾向があった。
 
 
 
=== 大西洋戦線 ===
 
{{Main|米英戦争の大西洋戦線}}
 
大西洋においても海戦がおこなわれていた。[[アメリカ海軍]]は[[イギリス海軍]]に較べ、戦闘艦の数も質も圧倒的に劣勢ながら、戦争前半は善戦した。しかしヨーロッパ大陸でのナポレオン戦争の帰趨が[[対仏大同盟]]側に有利になると、イギリスは海軍力をアメリカに向けたため、後半はその活動を封じ込められた。この戦争で英艦を破った米艦[[コンスティチューション (フリゲート)|コンスティテューション]](同艦は[[2015年]]現在も現役である)は[[三笠 (戦艦)|三笠]]、[[ヴィクトリー (戦列艦)|ヴィクトリー]]と並んで、世界三大艦の1つとして有名である。また[[私掠船]]も盛んに活動した。
 
 
 
海軍に輸送されたイギリス陸軍は敵首都の直接攻略のためアメリカ東海岸に上陸し、1814年8月には[[メリーランド州]]において[[ブラーデンスバーグの戦い]]に勝利し、次いで[[インディアン戦争]]をするアメリカは侵略者であるとして[[ワシントン焼き討ち]]を行い[[ホワイトハウス]]を破壊した。アメリカの民衆は衝撃を受け、ヨーロッパ大陸の指導者らはこれを非難した。
 
 
 
大統領府のある[[首都]][[ワシントンD.C.]]が陥落したのはこの一度のみである。ちなみに戦後、大統領府を改修する際に、このときの焼け焦げを隠すために真っ白なペンキを塗ったことから、大統領官邸は[[ホワイトハウス]]と呼ばれるようになったという有名なエピソードがある。
 
 
 
[[ファイル:Ft. Henry bombardement 1814.jpg|250px|thumb|left|フォートマクヘンリーに海上からロケットを打ち込むイギリス艦: 1814年]]
 
またこの戦争で最も熾烈な戦いといわれるのが1814年[[9月13日]]の「マックヘンリー要塞の戦い」である。アメリカ兵は[[アメリカ独立戦争|独立戦争]]時に作られた[[メリーランド州]][[ボルチモア]]の[[フォートマクヘンリー|マックヘンリー要塞]](フォートマクヘンリー)に立てこもって戦った。当時のボルチモアはアメリカ私掠船の根拠地であった。それに対し[[チェサピーク湾]]に侵入したイギリス軍は間断ない艦砲射撃と[[コングリーヴ・ロケット]]弾による攻撃を加えた。このロケットによる攻撃は米国国歌の歌詞に“And the Rockets' red glare, the Bombs bursting in air,”と残されている。イギリスのロケットの精度の悪さとアメリカ軍の大砲の射程制限によって、どちらの側も損害はほとんどなかったが、砦は25時間に及ぶ激戦に耐えた。
 
 
 
[[ファイル:FtMcHenryEntrance.JPG|250px|thumb|right|[[国定公園]]、[[アメリカ合衆国ナショナル・モニュメント|ナショナル・モニュメント]]、[[アメリカ合衆国国家歴史登録財|国家歴史登録財]]の三重登録である現在のフォートマクヘンリー]]
 
この戦の際に攻撃側のイギリス軍艦に抑留されていた[[フランシス・スコット・キー]]は、停戦後も砦で風になびく特製の[[アメリカ合衆国の国旗|星条旗]]を海上から見てそれを称える詩を詠み、後に曲が与えられて現在の[[アメリカ合衆国の国歌|アメリカ国歌]]「[[星条旗 (国歌)|星条旗]]」となった(後述)。この戦いを表す歌詞として“Gave proof through the night that our Flag was still there.”とある。また本戦争以降、州が増えるなどしてアメリカ合衆国の旗が新しくなる際は、まずフォートマクヘンリーに掲揚されるのが伝統となった。国旗の星の数が49個になったとき、また50個になったとき、最初にこの砦で翻って、以後、正式使用となった。それらは砦の施設内に保存されている。
 
 
 
=== 南部諸州戦線 ===
 
{{main|クリーク戦争}}
 
この地を領土とするインディアン諸部族が米英の侵略に対して蜂起。[[ショーニー族]]の若き戦士[[テクムセ]]の呼びかけにより、米軍との徹底抗戦を決めたクリーク族インディアンの戦い(クリーク戦争)と、休戦条約の頃に行われた[[メキシコ湾]]沿岸からのイギリス軍による侵攻が含まれる。
 
 
 
[[1814年]]3月、[[アンドリュー・ジャクソン]]は[[テネシー州]]民兵、[[チェロキー族]]戦士およびアメリカ陸軍正規兵を率いて南部に向かい、クリーク族のメナワたちインディアン戦士団と戦った。[[3月26日]]、ジャクソンとジョン・カフィー将軍は[[ホースシュー・ベンドの戦い]]でクリーク族を打ち破り、クリーク族1,000名の中800名を殺したのに対し、約2,000名のアメリカ軍・チェロキー族連合軍は40名の戦死と154名の負傷に留まった。ジャクソン軍は生き残ったクリーク族を追跡し降伏に追い込んだ。インディアンはイギリス側に付き、イギリスも支援していたので、多くの歴史家がクリーク戦争を米英戦争の一部と見なしている。
 
 
 
イギリス軍は9月のニューヨーク州とメリーランド州での攻勢ではかばかしい戦果を上げられず、視点を南に向けて10,000名以上の部隊を載せた艦隊をメキシコ湾に派遣した。ジャクソンは更に西に動いて、1814年の暮れからのイギリス軍の侵攻に備えた。
 
 
 
== ガン条約 ==
 
互いに決定打を欠いたまま戦争が長引くと、米英共に経済的にも軍事的にも疲弊し、講和の動きが出始めた。[[1814年]]12月26日、ベルギーにて[[ガン条約]]が結ばれて米英は講和、米英戦争は終結した。
 
 
 
この[[条約]]締結後、[[アンドリュー・ジャクソン]]率いる民兵軍が[[ニューオーリンズ]]でイギリス軍を撃破した([[ニューオーリンズの戦い]])。これは当時、新旧大陸間の連絡には船で数週間かかり、講和成立の知らせがすぐには届かず、停戦が遅れたためにおこった。インディアンを虐殺して領土を奪うこの勝利でアンドリュー・ジャクソンは白人たちの英雄となり、後に[[アメリカ合衆国大統領]]となった。
 
 
 
イギリス軍はニューオーリンズの奪取を諦めたが、[[アラバマ州|アラバマ]]の[[モービル (アラバマ州)|モビール]]の町に攻撃の矛先を向けた。米英戦争の最後の戦いは[[1815年]][[2月11日]]のボウヤー砦の戦いであり、このときは約1,000名強のイギリス軍が370名のアメリカ軍守備隊を降伏させた。この時にアメリカの受けた攻撃以降、太平洋戦争まで、アメリカ本土は他国の正規軍からの攻撃に曝されることはなかった。次に起こったのは、[[太平洋戦争]]中の、1942年(昭和17年)2月24日、大日本帝国海軍[[伊号第一七潜水艦]]による、カリフォルニア州サンタバーバラのエルウッド石油製油所に対する[[砲撃]]([[アメリカ本土砲撃]])だった。(1916年に[[パンチョ・ビリャ]]がニューメキシコ州に侵攻している。1941年のハワイ[[真珠湾攻撃]]については、ハワイは本土でなく、当時は州でもなかった。)
 
 
 
== インディアンの衰退と軍縮協定 ==
 
{{Main|米英戦争の結果}}
 
多くのインディアン部族が消滅寸前まで虐殺され、領土を奪われて散り散りとなった。インディアンを追いだした広大な土地は、アメリカ植民政府の植民地となった。
 
 
 
ガン条約の取り決めにより、両国がインディアンから占領した地域は全て米英に戻されることになった。アメリカ合衆国はセントローレンス湾での漁業権を獲得し、未払いの負債や略取されていた財産は返還または支払われた。またイギリス軍に自由人として従軍していた奴隷を返させる代わりに、現金でその代償を払った。
 
 
 
この戦争の結果として、戦争中にイギリス商品の[[輸入]]がストップしたため、アメリカの経済的な自立が促され、アメリカ北部を中心に産業、工業が発展した。このため米英戦争は、政治的な独立を果たした「独立戦争」に対して、経済的な独立を果たしたという意味で「'''第二次独立戦争'''」とも呼ばれている。
 
 
 
1817年4月にはアメリカ、イギリス、[[カナダの歴史#英領カナダ|英領カナダ]]との間で、軍縮協定である[[ラッシュ・パゴット協定]]が締結された。19世紀に成立した珍しい軍縮協定であり、またアメリカと英領カナダとの間の国境問題を解決した。
 
 
 
== 国歌「星条旗」の誕生 ==
 
{{Main|アメリカ合衆国の国歌}}
 
この戦争のさなか、アメリカ合衆国の[[国歌]]「星条旗」([[英語|英]]:{{lang|en|''The Star-Spangled Banner''}}、星の煌く旗)が生まれている。[[歌詞]]は、[[1814年]]当時35歳であった[[詩人]]・[[弁護士]]のフランシス・スコット・キー(上述)による。
 
 
 
キーは、「マックヘンリー要塞の戦い」において、[[捕虜]]として捕えられた友人の釈放交渉のためイギリス[[軍艦]]に乗り込んだ。英国側の司令官は、最終的にはキーもその友人も解放することに同意したが、英軍の[[機密]]保持のため、イギリス艦隊がマクヘンリー砦を砲撃する間、2人は軍艦内に抑留されることとなった。激しい夜間砲撃の後、夜明けを迎えたキーらは、停戦後も砦の上にひるがえる星条旗を目にする。キーは自らの体験をすぐさま「マックヘンリー要塞の防衛」という[[詩]]にあらわした。これが、「[[天国のアナクレオンへ]]」という当時アメリカで人気のあったイギリスの俗謡の[[メロディ]]に合わせて歌われるようになったのがアメリカ国歌のはじまりである。
 
== 参考文献 ==
 
* 歴史群像 No.83 米英戦争1812(荒川佳夫)学研
 
*{{Gutenberg book|no=3362|name=Battle of Fort George (ジョージ砦の戦い)|author={{仮リンク|アーネスト・クルックシャンク|en|Ernest Alexander Cruikshank|preserve=1}}, 1896}}
 
 
 
== ボードゲーム ==
 
* War of 1812, Columbia Games Inc. 1973
 
木片のブロックを使ったユニットを使うのが特徴で、日本では「積み木のウォーゲーム」と呼ばれているColumbia Gamesのウォーゲーム。[[デトロイト]]から[[ケベック]]までをマップの範囲として、米英戦争を通年でプレイ出来るようデザインされている。[[エリー湖]]と[[オンタリオ湖]]も範囲に入っているので、湖での海戦もプレイできる。イギリス軍がデトロイトを占領するとインディアン部隊が登場するなど、史実がデザインに反映されている。
 
* ''Rocket Red Glare'' (Simulation Canada, 1981)米英戦争全体を、戦略マップと作戦マップのハイブリッドで表現。2013年に新版が、PAPERWARS 78号の付録となった。
 
* ''Naval War of 1812'' (Worthington Games,2012)-米英戦争時の海戦をカードゲーム化。
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[米英戦争の戦闘一覧]]
 
* [[ヨーロッパ諸国によるアメリカ大陸の植民地化]]
 
* [[アメリカ独立戦争]]
 
* [[ナポレオン戦争]]
 
* [[ジョージ・ワシントン]] 
 
* [[アンドリュー・ジャクソン]]
 
* [[インディアン戦争]]
 
* [[代理戦争]]
 
* [[領土問題]]
 
* [[植民地主義]]
 
* [[白人至上主義]]
 
* [[プランテーション]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
{{Wikisource|en:US Declaration of War against the United Kingdom}}
 
* [http://www.loc.gov/rr/program/bib/1812/ Library of Congress Guide to the War of 1812]
 
* [http://www.hnoc.org/BNO/william_cook.htm William C. Cook War of 1812 in the South Collection]
 
* [http://www.army.mil/cmh-pg/books/amh/amh-06.htm American Military History – The War of 1812]
 
* [http://warof1812.ca/ The War of 1812 Website]
 
* [http://edsitement.neh.gov/view_lesson_plan.asp?id=570 President Madison's 1812 War Message, with lesson plans and numerous primary documents from the U.S. and Britain regarding the causes of the war]
 
*[http://www.loc.gov/rr/program/bib/ourdocs/Ghent.html Treaty of Ghent and related resources on the War of 1812 at the Library of Congress]
 
*[http://www.galafilm.com/1812/e/intro/index.html Galafilm's War of 1812 website]
 
*[http://home.earthlink.net/~gfeldmeth/chart.1812.html Key Events of the War of 1812]
 
*[http://www.historycentral.com/1812/Index.html Historycentral.com War of 1812]
 
*[http://www.archives.gov.on.ca/english/on-line-exhibits/1812/index.aspx War of 1812 – online exhibit at the Archives of Ontario]
 
* [http://www.tourniagara.com/history/war-of-1812/ The War of 1812 Niagara Region]
 
* New York State Military Museum:[http://www.dmna.state.ny.us/historic/articles/blacksMilitary/BlacksMilitary1812.htm Black Americans in the US Military from the American Revolution to the Korean War: The War of 1812]
 
* [http://www.battleofplattsburgh.org/ Battle of Plattsburgh & War of 1812]
 
* [http://libraryautomation.com/nymas/warof1812paper/paperrevised2006.html American Privateers in The War Of 1812]
 
* [http://indiamond6.ulib.iupui.edu/War1812/ War of 1812 Collection] – War of 1812 Indiana Territory Volunteers
 
{{米英戦争}}
 
{{アメリカ合衆国}}
 
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2019/4/27/ (土) 17:29時点における最新版

米英戦争(べいえいせんそう)

1812年戦争,米英戦争とも呼ばれる。フランス革命後の英仏抗争に巻込まれたアメリカが,西部の「タカ派」の圧力によって行なったイギリスとの戦争。英仏抗争中イギリス海軍によるアメリカ船員の強制徴用などをめぐってアメリカの世論は次第に硬化した。一方カナダや西部への進出を目指す H.クレー,J.カルフーンら西部や南部の若い指導者たちは,西部に残存するイギリス勢力と先住民族インディアンとの結びつきを断とうとした。彼らはアメリカ議会に圧力をかけ,1812年6月 18日対イギリス宣戦を決議させた。アメリカ軍はカナダに侵入しようとして阻止され,かえって首都ワシントン D.C.を焼かれる状態であったが,15年1月ニューオーリンズを攻めるイギリス軍を A.ジャクソンの率いるアメリカ軍が破って,わずかに面目を保った。ただしこれは両国間の和平が成立した (1814.12.) あとである。この戦争はナポレオン没落とイギリスの国内事情で終息に向ったが,講和後は戦前とほとんど変らない状態に戻っている。アメリカに与えた影響としては,産業革命の促進,ナショナリズムの興隆,それにインディアンの後退による西部進出の促進があげられる。



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