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(筑後川四堰)
 
 
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|名称=筑後川
 
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|画像=[[画像:Chikugo river up20060426.jpg|300px|筑後川 2005年10月21日撮影]]
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|画像説明=久留米市域内一角から下流方
 
 
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|出典=[[日本河川協会]]監修『河川便覧』2004年版
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}}
 
'''筑後川'''(ちくごがわ)は、[[阿蘇山]]を水源として[[九州地方]]北部を東から西に流れ[[有明海]]に注ぐ[[川]]である。[[河川法]]に基づき[[国土交通省]]<ref>当時は[[建設省]]</ref>[[政令]]によって[[1965年]](昭和40年)に指定された'''[[一級水系]]・筑後川[[水系]]'''の[[本流]]で、[[一級河川]]に指定されている。
 
 
 
流路延長143.0[[キロメートル]]、[[流域面積]]約2,860[[平方キロメートル]]の河川で規模としては'''九州地方最大'''の河川である。[[利根川]](坂東太郎)・[[吉野川]](四国三郎)とともに[[日本三大一覧#川・滝|日本三大]][[暴れ川]]のひとつと言われ、'''筑紫次(二)郎'''(つくしじろう)の別名で呼ばれることもある<ref>順位争いで「筑紫三郎」といわれることもある</ref>。また、[[上流]]部では'''田の原川'''・'''杖立川'''・'''[[大山川]]'''・'''[[三隈川]]'''とも呼ばれる(詳細は後述)。
 
 
 
== 地理 ==
 
{{右|
 
[[file:Yoake stn 3.jpg|none|thumb|200px|[[久大本線]][[夜明駅]]構内から見る筑後川(左奥)。ここより夜明渓谷を形成し[[夜明ダム]]へと至る。]]
 
[[file:Chikugo-river Ukiha-Hita.jpg|none|thumb|200px|久大本線から([[福岡県]][[うきは市]]/[[大分県]][[日田市]])]]
 
 
}}
 
}}
[[熊本県]][[阿蘇郡]][[南小国町]]の[[阿蘇山]]の[[外輪山]]、'''瀬の本高原'''に源を発する。[[大分県]]に入り、[[日田市]]で[[玖珠川]]を併せ西流。[[福岡県]]に入り[[筑紫平野]]を貫流する。[[久留米市]]西部あたりからは福岡県と[[佐賀県]]をまたぐように南西方向に流れるが、流路変更の影響で筑後川の北西側であっても福岡県であったり、逆に南東側であっても佐賀県であったりすることも多い。
+
[[ファイル:筑後川.jpg|600px|サムネイル]]
 
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'''筑後川'''(ちくごがわ)
筑後川における[[上流]]・[[中流]]・[[下流]]の区分については[[国土交通省]][[河川局]]が作成した「筑後川水系河川整備基本方針」および「筑後川水系河川整備計画」で明記されている。すなわち、
 
* '''上流''':水源の瀬の本高原(熊本県阿蘇郡南小国町)から[[夜明ダム]](大分県日田市・福岡県[[うきは市]]境)まで
 
* '''中流''':夜明ダムから[[筑後大堰]](福岡県久留米市・佐賀県[[三養基郡]](みやきぐん)[[みやき町]]境)まで
 
* '''下流''':筑後大堰から[[有明海]][[河口]]まで
 
と区分される。上流部は[[新第三紀]]以降繰り返された阿蘇山[[噴火]]によって流出した阿蘇熔岩などの[[溶岩]]や[[安山岩]]などを主体とする[[地質]]となっており、[[火山礫]]・[[火山灰]]の堆積によって[[地層]]が複雑に形成されている。[[九酔渓]]や杖立渓谷など急峻(きゅうしゅん)な[[渓谷]]を形成する一方で[[日田盆地]]や[[玖珠盆地]]などの[[盆地]]も形成される。大分県と福岡県の境界を成す夜明渓谷を過ぎると中流部になるが、上流より筑後川が運搬した土砂によって[[沖積平野]]を形成。広大な'''[[筑紫平野]]'''の基を築いた。下流部も基本的には沖積平野であるが、[[佐賀平野]]および[[柳川市]]周辺における流域では[[大化の改新]]以降連綿と続いた有明海の[[干拓]]による人工的な陸地形成も進められて、現在の形となっている。
 
 
 
=== 分水界 ===
 
筑後川の[[分水界]]は、上流部では阿蘇外輪山の北麓を主体としており、瀬の本高原より筑後川本流が、[[九重山]]より玖珠川が源を発している。阿蘇外輪山北麓に降った雨は概ね筑後川あるいは玖珠川に合流する。一方[[英彦山]]から[[朝倉山塊]]の南麓に掛けて降った雨は花月川などの支流となって筑後川に注ぐ。日田市で玖珠川を合わせ、夜明渓谷を過ぎると北の朝倉山塊と南の[[耳納山地]]に挟まれるように流れるが、この間朝倉山塊南麓と耳納山地北麓に降った雨は最終的に筑後川へと注がれる。
 
 
 
筑紫平野は特に久留米市や[[八女市]]において筑後川上流から運搬された土砂などが堆積、沖積平野を形成して成立したが、[[矢部川]]上流から運搬された土砂も筑紫平野の形成に寄与している。このため筑後川と矢部川が運搬した土砂は相互に堆積しながら筑紫平野の一部である八女平野・柳川平野の広大な[[三角州|デルタ]]地帯を形成し、その中間に存在する八女市付近は緩やかな[[丘陵]]となって、筑後川水系と矢部川水系の分水嶺となっている。八女市北部を流れる広川や[[花宗川]]は筑後川に合流するが、八女市南部の小河川は矢部川に合流する。
 
 
 
一方佐賀県方面より筑後川に合流する支流の多くは概ね[[背振山地]]南西麓を水源とし、筑後川あるいは分流である[[早津江川]]へ最終的には合流する。なお、人工的に分水界を越えて[[水路]]が形成された主な例としては朝倉山塊と背振山地の中間部における分水嶺を越える福岡導水、筑後川水系・[[嘉瀬川]]水系間を連結する[[佐賀導水事業|佐賀導水]]、および筑後川支流の津江川と[[菊池川]]支流の迫間川を連結する津江分水がある。
 
 
 
=== 交通 ===
 
[[file:Tosu JCT.jpg|thumb|200px|[[九州自動車道]]・[[鳥栖ジャンクション]]<ref>{{国土航空写真}}</ref><br/>縦に九州道が走り東へ[[大分自動車道|大分道]]、西へ[[長崎自動車道|長崎道]]が分岐する。ジャンクションは[[宝満川]][[支流]]である秋光川(右)・山下川(左)の間に挟まれる。画像は北が上となる。]]
 
筑後川は[[明治]]以前[[筑前国]]・[[筑後国]]・[[肥前国]]・[[豊後国]]の境界をなしており、軍事上の要衝として活用されていた。このため江戸時代は[[橋]]を架けることが厳禁とされ、代用交通として[[水運]]が発達(後述)し[[昭和]]後期まで利用されていた。[[モータリゼーション]]が高度に発達した現在、流域は九州地方を縦貫・横断する[[道路]]と[[鉄道]]が交差する地域となっており、今もなお交通の要衝になっている。
 
 
 
流域を縦断するものとして道路では[[国道3号]]を筆頭に[[国道208号]]、[[国道211号]]、[[国道212号]]、[[国道322号]]、[[国道385号]]などの[[国道]]および[[都道府県道|県道]]と[[九州自動車道]]があり、横断するものとしては[[国道34号]]、[[国道210号]]、[[国道264号]]、[[国道386号]]などの国道および県道と[[大分自動車道]]、[[長崎自動車道]]がある。鉄道ではJR[[鹿児島本線]]と[[西鉄天神大牟田線]]が縦断し、JR[[久大本線]]と[[長崎本線]]、[[西鉄甘木線]]、[[甘木鉄道]]が横断している。九州地方における流通の[[大動脈]]が筑後川流域に集中しており、こうした交通網を利用した[[工業団地]]や[[流通団地]]が多く立地しているほか、[[福岡都市圏]]などへの通勤・通学客が多く利用する交通集中地帯でもある。
 
 
 
特に筑後川の支流である[[宝満川]]流域に位置する'''佐賀県[[鳥栖市]]'''と、筑後川南岸に位置する'''福岡県久留米市'''はこれら縦断・横断する道路と鉄道が交差する交通上の要衝になっている。鳥栖市の場合、道路では九州自動車道・[[鳥栖ジャンクション]]を基点に大分自動車道と長崎自動車道が東西に分岐。国道も鳥栖市内で国道3号から国道34号が[[佐賀市]]・[[長崎市]]方面へ、[[国道500号]]が福岡県[[朝倉市]]方面へと延びている。鉄道ではJR[[鳥栖駅]]から[[長崎駅]]・[[佐世保駅]]方面へ長崎本線が鹿児島本線より分岐する。久留米市の場合では、国道3号より大分県日田市方面へ向かう国道210号、福岡県[[嘉麻市]]方面へ向かう国道322号が東へ、佐賀市へ向かう国道264号が西へと延びる。また鉄道ではJR[[久留米駅]]より久大本線が鹿児島本線より、西鉄天神大牟田線は筑後川北岸の[[宮の陣駅]]で西鉄甘木線と分岐する。
 
 
 
鳥栖市と久留米市は筑後川を挟み直線距離にして10キロメートル足らずではあるが、九州地方の主要な国道・高速道路・鉄道が縦横に交差している。さらに[[2011年]](平成23年)には[[九州新幹線]]が開通している。しかしこの地域は筑後川が上流より土砂を運搬して形成した[[沖積平野]]で[[洪水]]に弱い土地となっており(後述)、[[1953年]](昭和28年)[[6月]]の[[昭和28年西日本水害]]では筑後川の洪水で主要な交通機関がことごとく寸断されて福岡市と[[鹿児島市]]の間の陸路が完全に途絶した。このため経済・物流の面からも筑後川の治水安全度の確保が重要視されている。
 
 
 
== 名称の変遷 ==
 
筑後川という名称は、現在'''[[水系]]名'''及び'''水系[[本流]]'''の名称として使用されているが、以前は時期によって様々な河川名称で呼ばれていた。また現在でも上流の[[大分県]]・[[熊本県]]流域において一般には通称で呼ばれている。
 
 
 
=== 時代による変遷 ===
 
筑後川は時代によっては'''千歳川・千年川'''(ちとせがわ)、'''一夜川'''(いちやがわ)、'''筑間川'''(ちくまがわ)とも呼ばれていた。筑後川という名称が最終的に本流の名称として統一されたのは'''[[1636年]]'''([[寛永]]13年)のことである。
 
 
 
最も古い文献に見られる'''千歳川・千年川'''であるが、[[鎌倉時代]]に編纂された[[夫木和歌抄]]の第24に収載された[[和歌]]にその名称が記され、[[江戸時代]]には『歌枕名寄』や『米藩([[久留米藩]])詩文選』にも詩歌に記されていた。[[文明 (日本)|文明]]・[[天保]]年間に[[青柳種麿]]が著した『筑前続風土記拾遺』には「千年川は古名也」と記されており、筑後川が正式名称と決定した後も地元住民の間では別名として定着していたとされている。'''一夜川'''については[[室町時代]]にその名称が初見されるが、この名称については後述する筑後川開発史にもあるように「[[洪水]]によって一夜にして豊穣な土地が荒地に変化する」という古くからの伝承によるものとされている。'''筑間川'''については江戸時代初期に[[筑前国]]と[[筑後国]]の中間を流れていたのが由来とされている。
 
 
 
筑後川という名称が正式名称となった経緯であるが、これには久留米藩の資料である『'''米府年表'''』と『'''石原家記'''』にその内容が記されている。すなわち1636年に江戸幕府の命によって河川の名称を筑後川に統一せよという幕命が[[老中]]を通じて下った。ところが[[島原の乱]]が発生し久留米藩のみならず関係する[[福岡藩]]や[[佐賀藩]]、[[柳河藩]]も出陣命令が下ったので一旦保留となった。乱の鎮圧後[[1638年]](寛永15年)に改めて老中の命を受けた上使、松平若狭守と安藤但馬守が久留米藩重臣である有馬主水に「筑後川」の名称を使うよう通達したと記されている。なお、この間に経緯について伝承がある。それは福岡藩[[家老]]と久留米藩家老が老中の列席する中で河川名の評定をしていた時、老中が「この川の名前はどのようにするか」と福岡藩家老に尋ねた所、件の家老は突然尋ねられたことから「筑前川」と答える所を口を滑らせて「あの筑後川は…」と答えてしまい、老中が「では筑後川に決める」と決定したというような内容である。
 
 
 
以上の経緯から、江戸幕府の命により1636年に'''筑後川'''に名称を統一する沙汰が下り、島原の乱終結後正式に決定したのである。しかしこの名称は筑前・筑後・[[肥前国|肥前]]三国の国境を流れる河川に付けられた名称であり、[[上流]]である[[豊後国]]内では呼ばれなかった。
 
 
 
=== 地域による変遷 ===
 
筑後川本流及び最終的に筑後川へと合流する河川を全て包括した[[水系]]である'''筑後川水系'''は、[[1964年]](昭和39年)の[[河川法]]改訂に伴い[[一級水系]]に指定された<ref>筑後川水系に包括される河川は、ごく一部の流域を除いて概ね一級河川の指定を受けている。指定された河川は140河川、総延長965.8キロメートルに及ぶ。</ref>。水系の本流である筑後川は名称こそ1636年には中流・下流において統一されていたが、上流部では様々な河川名で呼ばれていた。そこで[[流域面積]]が最も広い'''[[大山川]]'''流域が筑後川本流とされ、長さで大山川を上回っていた[[玖珠川]]は[[支流]]とされた。現在、河川法の上で[[一級河川]]として指定<ref>このうち、[[国土交通省]]が直轄で管理する「指定外区間」は[[松原ダム]]より[[有明海]]の河口までで、残りは[[熊本県]]が管理する「指定区間」である。</ref>されている筑後川の本流は、
 
: 上流端:[[熊本県]][[阿蘇郡]][[南小国町]]大字満願寺字中園台8894番地(田の原橋)
 
: 下流端:[[有明海]]の[[河口]]
 
までとされている<ref>水源から田の原橋までの区間は一級河川の指定を受けていない。</ref>。従って、法令や河川管理標識及び[[大分県]]内に存在する筑後川本流の河川工作物([[松原ダム]]、大山川ダム、島内可動堰など)の[[ダム#諸元|諸元]]などはこの区間内については「'''一級河川筑後川水系筑後川'''」と正式には表示される。だが実際は地域によって様々な呼称がなされており、一般的には現在も使用されている。
 
 
 
まず水源である[[阿蘇山]][[外輪山]]から熊本県阿蘇郡[[小国町 (熊本県)|小国町]]中心部の志賀瀬川合流点までは「'''田の原川'''」と通称される。志賀瀬川合流後は「'''杖立川'''」(つえだてがわ)と通称され、松原ダム湖である梅林湖において津江川と合流した後に「'''大山川'''」と名前を再度変える。さらに[[日田市]]内で玖珠川を合流すると今度は「'''[[三隈川]]'''」(みくまがわ)と名を変え、日田市内を流下する。そして[[花月川]]を合流すると筑後川になり、有明海に注ぐ。従って筑後川は水源から河口までの間、実に'''五回も河川名を変える'''ことになる。[[国土地理院]]や出版社が発行する[[地図]]、及び河川標識では地元においてその河川名が定着している現状、通称が使われるケースが多い。
 
 
 
''筑後川は上流において大山川、三隈川などの名称が使用されるが、本記事では特記しない限り河川法上の名称である「'''筑後川'''」で表記を統一する。また河川名の筑後川と水系名である筑後川水系は厳密には別個の存在であるが、両者は密接な関係にあるので'''本記事では併せて説明する'''。なお河川等級・水系名については可読性の観点から省略する。''
 
 
 
== 流域 ==
 
[[File:Chikugo River basin major facilities.svg|thumb|250px|筑後川水系の流域と主な支流・分流、ダム・堰]]
 
=== 本流と流域自治体===
 
筑後川本流は先に述べた通り、上流より田の原川・杖立川・[[大山川]]・[[三隈川]]と名を変え、[[大分県]][[日田市]]の花月川合流点より'''筑後川'''の名称になるが、[[河川法]]上では田の原川源流の瀬の本高原から流れる河川が筑後川である。本流が流れる自治体は[[熊本県]]・[[大分県]]・[[福岡県]]・[[佐賀県]]の四県、9[[市]]3[[郡]]にまたがる。
 
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small;"
 
|-
 
!通称
 
!主要支流<br/>・分流
 
!流域県
 
!流域市郡
 
|-
 
|'''田の原川'''
 
|満願寺川(志津川)<br/>志賀瀬川<br/>小田川<br/>馬場川
 
|[[熊本県]]
 
|[[阿蘇郡]]
 
|-
 
| rowspan="2"|'''杖立川'''
 
| rowspan="2"|中原川<br/>北里川<br/>津江川
 
|熊本県
 
|阿蘇郡
 
|-
 
|[[大分県]]
 
|[[日田市]]
 
|-
 
|'''[[大山川]]'''
 
|[[赤石川 (大分県)|赤石川]]<br/>[[玖珠川]]
 
|大分県
 
|日田市
 
|-
 
|'''[[三隈川]]'''
 
|[[花月川]]<br/>高瀬川<br/>庄手川
 
|大分県
 
|日田市
 
|-
 
| rowspan="3"|'''筑後川'''
 
| rowspan="3"|[[大肥川]]<br/>隈上川<br/>佐田川<br/>小石原川<br/>[[巨瀬川]]<br/>広川<br/>[[宝満川]]<br/>田手川<br/>佐賀江川<br/>[[花宗川]]<br/>早津江川
 
|大分県
 
|日田市
 
|-
 
|[[福岡県]]
 
|[[うきは市]]・[[朝倉市]]・[[久留米市]]<br/>[[大川市]]・[[柳川市]]・[[三井郡]]
 
|-
 
|[[佐賀県]]
 
|[[鳥栖市]]・[[神埼市]]・[[佐賀市]]<br/>[[三養基郡]]
 
|}
 
 
 
=== 支流・分流と流域自治体 ===
 
[[File:kusugawa river.JPG|thumb|200px|筑後川水系最大の[[支流]]・[[玖珠川]]。]]
 
[[File:Hayatsue River mudflat 1.JPG|thumb|200px|分流・早津江川下流では両岸に河川[[干潟]]が広がる。]]
 
筑後川水系において、最終的に筑後川に合流する[[支流]]の数は'''239河川'''に上り、九州地方の河川では第二位の[[大淀川]]水系をおよそ100河川も上回り群を抜いている。支流の中で最大の河川は'''[[玖珠川]]'''(くすがわ)で、流路延長56.0[[キロメートル]]・[[流域面積]]530.5[[平方キロメートル]]となっている。合流点より上流を見た場合筑後川本流(大山川流域)より流路延長は長いが、流域面積では下回っているため支流となっている。なお、これら支流のうち[[一級河川]]に指定されている支流は'''140河川'''に上る。
 
 
 
また分流も多く、[[河口]]付近で分流する'''早津江川'''(はやつえがわ)の他、中流部の日田市では'''隈川'''・'''庄手川'''に一旦分流して再度合流する。さらに大石分水路・原鶴分水路・千年分水路や諸富川など、筑後川[[治水]]事業の過程で建設された人工の[[分水路]]や旧流路も多い。なお、筑後川水系に存在する[[湖沼]]のほとんどは[[人造湖]]または[[ため池]]である。
 
 
 
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small;"
 
|-
 
!河川
 
!流路延長<br/>(km)
 
!流域面積<br/>([[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]])
 
!主要支流
 
!主要湖沼
 
!流域県
 
!流域市郡
 
|-
 
| rowspan="2"|津江川
 
| rowspan="2"|
 
| rowspan="2"|
 
| rowspan="2"|鯛生川<br/>上野田川
 
| rowspan="2"|[[下筌ダム|蜂の巣湖]]
 
|熊本県
 
|阿蘇郡
 
|-
 
|大分県
 
|日田市
 
|-
 
|[[玖珠川]]
 
|56.0
 
|530.5
 
|町田川<br/>野上川<br/>松木川
 
|地蔵原貯水池<br/>松木ダム湖
 
|大分県
 
|日田市・[[玖珠郡]]
 
|-
 
|[[花月川]]
 
|
 
|125.9
 
|小野川<br/>[[有田川 (大分県)|有田川]]
 
|
 
|大分県
 
|日田市
 
|-
 
| rowspan="2"|[[大肥川]]
 
| rowspan="2"|
 
| rowspan="2"|76.8
 
| rowspan="2"|宝珠山川<br/>鶴河内川
 
| rowspan="2"|
 
|福岡県
 
|[[朝倉郡]]
 
|-
 
|大分県
 
|日田市
 
|-
 
|隈上川
 
|
 
|70.1
 
|小塩川
 
|[[合所ダム]]湖
 
|福岡県
 
|うきは市
 
|-
 
|佐田川
 
|25.5
 
|73.0
 
|疣目川
 
|[[寺内ダム|美奈宜湖]]
 
|福岡県
 
|朝倉市・三井郡
 
|-
 
|小石原川
 
|
 
|84.4
 
|山見川<br/>二又川
 
|[[江川ダム|上秋月湖]]
 
|福岡県
 
|朝倉市・朝倉郡・三井郡
 
|-
 
|[[巨瀬川]]
 
|27.0
 
|84.7
 
|持木川<br />南新川<br />
 
|[[藤波ダム]]
 
|福岡県
 
|うきは市・久留米市
 
|-
 
| rowspan="2"|[[宝満川]]
 
| rowspan="2"|
 
| rowspan="2"|172.3
 
| rowspan="2"|山口川<br/>山家川<br/>草場川<br/>大木川<br/>安良川<br/>秋光川<br/>新宝満川
 
| rowspan="2"|天拝湖<br/>山神ダム湖<br/>大木ダム湖
 
|福岡県
 
|[[筑紫野市]]・朝倉市・[[小郡市]]<br/>久留米市・朝倉郡・三井郡
 
|-
 
|佐賀県
 
|鳥栖市・三養基郡
 
|-
 
|広川
 
|
 
|74.6
 
|長延川
 
|広川ダム湖
 
|福岡県
 
|久留米市・[[八女市]]・[[八女郡]]
 
|-
 
|田手川
 
|21.0
 
|56.4
 
|
 
|
 
|佐賀県
 
|神埼市・[[神埼郡]]
 
|-
 
| rowspan="2"|佐賀江川
 
| rowspan="2"|13.0
 
| rowspan="2"|157.0
 
| rowspan="2"|城原川
 
| rowspan="2"|
 
|佐賀県
 
|佐賀市・神埼市
 
|-
 
|福岡県
 
|久留米市
 
|-
 
|[[花宗川]]
 
|
 
|39.4
 
|
 
|
 
|福岡県
 
|八女市・[[筑後市]]・大川市<br/>[[三潴郡]]
 
|-
 
| rowspan="2"|早津江川
 
| rowspan="2"|6.0
 
| rowspan="2"|
 
| rowspan="2"|
 
| rowspan="2"|
 
|佐賀県
 
|佐賀市
 
|-
 
|福岡県
 
|大川市
 
|}
 
 
 
== 筑後川開発史 ==
 
筑後川は先述の通り[[1636年]]に河川名が現在の「筑後川」となるまでは「'''千歳川'''」や「'''筑間川'''」等と呼ばれていたが、「'''一夜川'''」とも呼ばれていた。その意味は洪水により一夜にして流域が荒廃してしまうとの意味であり、[[筑後国]]の[[租]]が1年免除されたと記録される[[806年]]の洪水から近代河川整備が本格的に行われるようになった[[1889年]]([[明治]]22年)の洪水までの間には、実に183回もの大水害が発生している。これは本流・支流の水源地の地質が[[安山岩]]等の透水性の低い火山岩地質であること、上流部が急勾配である反面下流は緩勾配で下流部は溢水し易い地形が災いしている。だが、流域は肥沃な穀倉地帯でもあり、流域の治水・利水は古くから間断なく行われている。
 
  
=== 開拓と藩政下の治水 ===
+
別称筑紫次郎。九州北部を流れる川。阿蘇外輪山に発する大山川と九重山から流れる玖珠川とを合せた三隈川を上流部とし,柳川市で有明海に注ぐ。全長 143km。九州第1の大河で,利根川の坂東太郎に次ぐものとして筑紫次郎と称される。江戸時代から治水工事が進められ,1887年から近代的改修工事を開始。
[[画像:YoshinogariIseki.jpg|right|thumb|200px|筑後川流域における歴史の第一歩を踏み出した[[吉野ヶ里遺跡]]([[佐賀県]])。]]
 
筑後川流域に人の営みが培われるようになったのは[[縄文時代]]末期の[[紀元前400年]]頃と推定される。当時筑紫平野の大部分は海であり、筑後川河口も当時は[[背振山地]]南部に偏っていたとされている。この地に大規模な[[環濠集落]]である'''[[吉野ヶ里遺跡]]'''が誕生し、以後[[弥生時代]]中期の[[3世紀]]まで約700年もの間栄えた。その後[[海退期]]を迎えて[[海岸|海岸線]]が徐々に南西へ移り、筑後川本流・支流の土砂運搬も相まって次第に沖積平野である筑紫平野が形成された。[[大化の改新]]で[[班田制]]が施行されると[[有明海]]の[[干拓]]が開始され、現在の[[柳川市]]から[[佐賀平野]]に掛けての筑後川下流では[[条里制]]による整然とした[[クリーク]]が引かれるようになったが、[[墾田永年私財法]]により土地私有が認められ班田制が崩壊し[[荘園]]が形成されると、それらクリークも雑然と整備されるようになった。[[鎌倉時代]]以降[[室町時代]]末期まで筑後川流域は[[少弐氏]]や[[大友氏]]、[[大内氏]]、[[龍造寺氏]]、[[島津氏]]が相次いで支配し、[[筑後川の戦い]]を始めとして戦乱が多く繰り返されたが、筑後川の開発については見るべきものがなかった。
 
  
筑後川の開発が積極的に行われるようになったのは[[豊臣秀吉]]が全国統一を果たした[[安土桃山時代]]末期、筑後川の中州開拓からである。[[1592年]]([[天正]]20年)緒方将監は道海島を開拓するために入部し、肥前国住民からの妨害にも負けず[[1610年]]([[慶長]]15年)に18年の歳月を掛けて開墾に成功した。[[1605年]](慶長10年)からは[[肥後国]][[菊池氏]]の末裔である菊池十左衛門が浮島を、1610年からは[[筑後国]][[三潴郡]](みずまぐん)住人三郎左衛門が大野島の開拓を行い[[新田]]を開墾した。これらの島は筑後国領域と認定され、現在でも[[福岡県]]の一部となっている。[[1622年]]([[元和 (日本)|元和]]8年)には[[柳河藩]]貨幣方だった三潴郡の豪商・紅粉屋七郎左衛門が干拓によって80町歩を開拓している。この頃干拓地は『'''搦'''』(からみ)、または『'''開'''』(ひらき)と呼ばれていた。『搦』については干拓[[堤防]]の中心となる杭に竹などの枝を絡み付ける技法から、『開』は開拓・開墾・開発から語源が来ていると考えられている。
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1953年大水害に見舞われたが,57年以来ダム建設による治水計画が進み,64年「水資源開発促進法」の開発水系に指定。下筌 (しもうけ) ,松原,夜明などの多目的ダムがある。上流域は日田杉を中心とする林業地で,玖珠,日田の盆地がある。中・下流域は筑紫平野を形成。下流域にはクリーク網が発達し,有明海岸には広大な干拓地造成が進展している。上流部は[[阿蘇くじゅう国立公園]],耶馬日田英彦山国定公園に属する。
 
 
[[治水]]事業は[[江戸時代]]初期より[[藩]]主導で開始されている。[[1600年]](慶長5年)の[[関ヶ原の戦い]]において筑後では[[久留米城]]主の[[毛利秀包|小早川秀包]]と[[柳川城|柳河城]]主の[[立花宗茂]]<ref>[[田中忠政]]が無嗣で[[改易]]された後、旧領である柳河11万石に復帰した。[[関ヶ原の戦い|関ヶ原]]の敗戦で改易となった[[大名]]が旧領に復帰した希有な例である。</ref>が西軍に加担したため[[改易]]され、代わりに[[石田三成]]を捕縛する大功を立てたことにより[[田中吉政]]が筑後一国・柳河32万石の国主として[[1601年]](慶長6年)に入部したが、吉政は早くも筑後川の改修に取り組んだ。[[1606年]](慶長11年)から13年の歳月を掛けて瀬の下地区(久留米市)の[[蛇行]]を解消するべく筑後川の流路をショートカットする'''瀬の下捷水路'''(しょうすいろ)を開削し、筑後川の流路を変更した。[[田中忠政]]が無嗣により改易された後久留米21万石の藩主となった[[有馬豊氏]]は引き続き河川整備を行い、[[寛永]]年間([[1624年]]~[[1643年]])に'''安武堤防'''を築堤した。
 
 
 
一方肥前[[佐賀藩]]執政・[[鍋島直茂]]の重臣で中世土木史にその名を刻む'''[[成富茂安]]'''(なりどみ・しげやす)は蛤岳から[[那珂川 (九州)|那珂川]]の支流である大野川へ流下する水を、水路により山地の周囲を回らせて田手川へ導水する「[[蛤水道]]」を[[1626年]](寛永3年)に完成させ、[[神埼郡]]の[[灌漑]]を図った。しかしこれにより逆に[[福岡藩]]側の水の便が悪くなり大野川が枯れた。これに抗議すべく福岡藩側の「お万」と言う女性が築堤を壊そうとし、母子ともに滝に身を投げたと言う逸話も伝わる。その後茂安は水路の溢水対策として「野越し」と言うオーバーフローを設け、増水時には大野川にも配水するようにした。また、茂安は[[三根郡]]・[[養父郡 (佐賀県)|養父郡]](やぶぐん)・[[基肄郡]](きいぐん)<ref>現在は合併して[[三養基郡]](みやきぐん)となっている。</ref>を水害から守るため[[1643年]](寛永20年)に筑後川右岸に12キロメートルの二重堤防を築堤した。これは「'''千栗(ちりく)堤防'''」と呼ばれ現在は河川改修により残っていないが、築堤以来300年近くにわたり堤防決壊などが起こらず、地域住民を水害から守った。このため茂安の名は同郡では大変な尊敬をもって迎えられ、かつて同郡内には茂安の名にちなんだ北茂安村・南茂安村<ref>いずれも現在の三養基郡[[みやき町]]の一部</ref>が存在したほどであった。
 
 
 
また、水制として水刎(みずはね)・荒籠(あらかご)などが各所に設置されたが、荒籠は水流に対して[[直角]]に設置して水流を弱めるため対岸の護岸を削る副作用があり、これが原因で上流部では福岡藩と[[久留米藩]]が、下流部では佐賀藩と柳河藩が対立。各藩が勝手に水制を設置したことにより却って洪水被害が増幅する皮肉な結果を導いた。
 
 
 
=== 筑後川四堰 ===
 
[[Image:Yamadazeki-s-r1.JPG|thumb|200px|古賀百工により大改築が行われた山田堰。手前より堀川用水が取水される。]]
 
[[File:Asakura Three Water wheels.jpg|thumb|200px|山田堰より取水される水を田畑へ供給する朝倉三連水車([[朝倉市]])。]]
 
[[17世紀]]後半から[[18世紀]]に掛けて、流域各藩では[[新田]]開発を積極的に実施し[[年貢]]収穫を高めようとした。筑後川ではこの時期「'''筑後川四堰'''」と呼ばれる[[堰#固定堰|固定堰]]が相次いで建設された。完成した順番から'''[[山田堰 (福岡県)|山田堰]]'''・'''大石堰'''・'''袋野堰'''・'''恵利堰'''([[床島堰]])の四つの堰を指す。
 
 
 
最初に手がけられたのは'''山田堰'''である。契機となったのは[[1662年]]([[寛文]]2年)から翌[[1663年]](寛文3年)に掛けての大[[旱魃]]であり、対策として山田堰とそこを取水元とする'''[[堀川用水]]'''が[[1664年]](寛文4年)に開削されたが度重なる水害は堀川用水の取水口を[[ダムと環境#堆砂|堆砂]](たいさ)で埋め、用水の便が悪くなってしまった。そこで[[1722年]]([[享保]]7年)取水口を改良して水量によって自動開閉する[[水門]]への改造と[[トンネル]]掘削によって用水供給の安定化を図った。これにより堀川用水供給対象の農地は新田開発が進んだが、その恩恵を受けない[[朝倉郡]]下大庭村などでは旱魃の被害が続いていた。そこで下大庭村[[庄屋]]であった'''古賀百工'''はこれらの地域にも水を供給するため'''新堀川用水'''の開削を福岡藩庁に申請。福岡藩第六代藩主・[[黒田継高]]の命により福岡藩直轄事業として[[1759年]]([[宝暦]]9年)に山田堰大改修に着手、高さを1メートル嵩上げし水門幅を倍に拡張することで取水量を増加させ、従来用水の恩恵を受けなかった地域にも水が供給された。この新堀川用水は[[1764年]](宝暦14年)に5年の歳月を掛けて完成し150[[ヘクタール]]に水が供給された。さらに百工は第二次山田堰大改修計画を立てたが、これには下流の朝倉郡長田の農民達が反対した。長田地域は[[湿地]]帯であり、用水を引けば浸水被害が拡大するというのが理由であったが百工は長田の住民を説得し、同地域の湿地帯を乾燥化させる「湿抜工事」を行うことで同意させ藩庁の許可を得る。そして[[1790年]]([[寛政]]2年)に山田堰を大改修し、さらにその2年後には約束事項であった「長田湿抜工事」も着手されこちらは23年の歳月を掛けて[[1825年]]([[文政]]8年)に完成させた。なお、堀川用水には水田に水を供給するための[[水車]]が各所に設けられたが、その最大のものとして'''[[朝倉三連水車]]'''がある。
 
 
 
続いて計画されたのが'''大石堰'''である。[[浮羽郡]]内の夏梅村・清宗村・高田村・今竹村・菅村などの筑後川南岸地域は筑後川が近くにありながら水の便が悪い地域で、収穫も乏しい困窮した地域であった。用水を引いて収穫の向上と農民の貧窮を救うため同地の庄屋であった'''栗林次兵衛'''・'''本松平右衛門'''・'''山下助左衛門'''・'''重富平左衛門'''・'''猪山作之丞'''の五名は'''大石用水'''開削計画を立てた。1663年の大旱魃を機にその計画は推進され、浮羽郡奉行である高村権内に許可申請を行い、同地を統括する大庄屋であった田代又左衛門の添書きを携え久留米藩に許可申請を提出した。当初は藩庁の許可が下りなかったが久留米藩普請奉行であった山村源太夫が5庄屋の要請を受けて現地視察を行い、その結果詳細な調査に基づく協議の結果1664年、山田堰とほぼ同時期に久留米藩直轄事業として久留米藩第三代藩主・[[有馬頼利]]は[[家老]]・'''丹羽頼母'''に建設総指揮を命じ建設が開始された。まず取水口である大石水門を[[生葉郡]]大石に建設、幅3.6メートル、長さ3.0キロメートルの用水路を建設。翌[[1665年]](寛文5年)には水門の増設と水路幅を二倍に拡張する工事が行われた。さらに[[1666年]](寛文6年)には筑後川の[[支流]]である巨瀬川(こせがわ)に余った水を融通させる工事が行われた後、最後に同じ筑後川支流の隈上川(くまのがみがわ)に水を融通させる工事が[[1667年]](寛文7年)に行われ、既に完成していた隈上川の'''長野堰'''との間で合理的な水運用を行うため大石堰が大石水門地点に建設され、[[1674年]]([[延宝]]2年)に完成した。これにより筑後川と支流の巨瀬川・隈上川が大石用水を通じてつながり、水を融通しあうことで効率的な水運用が図られることになり500ヘクタールの農地が恩恵に浴した。
 
 
 
大石堰の完成に刺激を受けた浮羽郡28村を統括する大庄屋・'''田代弥三左衛門重栄'''(しげひで)は長男である'''田代重仍'''(しげより)と共に'''袋野堰'''の建設を計画した。「[[五庄屋]]の手で大石用水が完成したのだから、袋野の切り貫きも完成できないはずはない」と意気込み、[[1672年]](寛文12年)久留米藩庁に工事願いを申請し、藩の調査を経て許可を得た。計画としては現在の[[うきは市]]夜明にある獺の瀬(たつのせ)地点に取水口を設けて用水を引く計画であったが、この地点は筑後川の夜明峡谷地点で断崖が川岸に迫り、加えて大きく[[蛇行]]している区間だったため通常の用水建設では水路延長が長くなる。このため重栄・重仍父子は獺の瀬から全長1.3キロメートルに及ぶトンネルを掘って出口であるくじ取場まで難工事の末[[1673年]](寛文13年)に'''袋野用水'''を完成させた。だが用水完成後期待した水量が確保できなかったことから今度は用水取水口付近に堰を設けることにした。これが袋野堰で[[1676年]](延宝4年)、堰の長さ120メートル、幅110メートルの固定堰が完成し450ヘクタールが潤された。なおこの袋野堰・用水は他の三堰とは異なり藩直轄事業ではなく、田代父子が私財を投じて建設したものである。
 
 
 
最後に計画されたのが'''恵利堰'''([[床島堰]])である。[[御井郡]]・[[御原郡]]の両郡もまた水の便が悪く、筑後川の水を何とかして利用したいと流域住民は考えていた。かねてより用水建設の取水口地点候補として佐田川との合流点付近である床島地点が有望視されていたが、この地点は急流で水量も多く、加えて福岡藩・久留米藩の境界でもあり技術面と政治面の問題が着工を遅らせていた。だが新田開発の機運が高まり同地の庄屋であった'''高山六右衛門'''・'''秋山新左衛門'''・'''中垣清右衛門'''・'''鹿毛甚左衛門'''は[[1710年]]([[宝永]]7年)5月に御井郡総裁であった本荘主計・本荘市正父子に用水開削の必要性を説いた。本荘父子もこれに賛同し同郡28村庄屋の連名を以って請願書を久留米藩に提出した。久留米藩第六代藩主・[[有馬則維]]は久留米藩直轄事業として直ちに進めるよう久留米藩普請奉行・草野又六らに命じたが、対岸である福岡藩領・朝倉郡長田の住民がこの計画に猛反発した。先の山田堰建設反対の時と同様、堰の建設により水が流れ込むことで浸水被害に遭うというのが理由である。[[1711年]](宝永8年)川越六之丞ら11村の庄屋は久留米藩に対し工事中止の抗議書を送り、取水口である床島水門を下流2.2キロメートルに移転させることで一旦は決着したが、水運の便を図る舟通しを中曽地点に選定したところ、この地点が両藩境界未設定地域であったことから藩境紛争に発展した。これに対し早期の堰完成を図るべく早田村庄屋であった'''丸林善左衛門'''が長田地域の住民に「中曽は早田村の区域である」と説得したところ逆に住民達により[[拉致]][[監禁]]されたうえ[[拷問]]を受け、三ヶ月もの間抑留された。困窮著しい農民を救うため、あえて危険を冒し単身で解決の途を探った善左衛門の行為はやがて両岸住民の同意を得、[[1712年]]([[正徳 (日本)|正徳]]2年)遂に完成。1,428ヘクタールの新規開墾が図れたほか両岸の農民が対等の収穫を挙げられるようになった。しかし善左衛門は拷問により重傷を負い体が不自由になり、死期を早めてしまった。
 
 
 
このように筑後川四堰は庄屋主導で行われた利水事業であり、その根底には困窮する農民を救うという思想があった。早田村庄屋丸林善左衛門にみられる命がけの行動が藩を動かし、現在に至るまで流域の農業に多大な恩恵を与えている。山田・大石・恵利の三堰は現役で稼働しているが、袋野堰については[[1954年]](昭和29年)に完成した[[夜明ダム]]によって水没し、現在はその姿を見ることは出来ない。袋野堰の代わりに同地点には袋野取水塔が設けられ、用水供給を行っている。
 
 
 
=== 近代の筑後川開発 ===
 
[[File:Chikugo River Fukuoka-Saga boundary OSM.png|thumb|200px|筑後川下流の流路(青色)と、[[福岡県]]・[[佐賀県]]の県境(赤色)。蛇行していた時代に確定され、直線化の後も変更されなかったため、[[飛地|飛び地]]が幾つも生まれた。]]
 
[[file:Onagohata power station.JPG|thumb|200px|女子畑発電所(玖珠川)。完成当時は九州最大級の水力発電所であった。]]
 
[[明治]]以降の筑後川における治水事業は、当時発達していた水運を考慮に入れて行われた。筑後川は[[1884年]](明治17年)より[[内務省 (日本)|内務省]]直轄河川事業の対象となり、[[1886年]](明治19年)より'''第一期筑後川河水改修事業'''が河口から[[大分県]][[日田市]]間で開始されたが、主なものは水運強化のための低水敷工事が中心であった。また[[淀川]]・[[木曽川]]・[[九頭竜川]]など全国各地の河川改修に尽力した[[ヨハニス・デ・レーケ]]は筑後川でも河川改修に携わったがこの時も主眼は舟運強化であり、筑後川河口から[[早津江川]]間の6キロメートルに断続的な導流堤を建設し河口の堆砂を防除して水運の便を図った。だが[[1889年]](明治22年)流域に未曾有(みぞう)の大水害が起こり、これを契機に[[1923年]]([[大正]]12年)より'''第二期筑後川河水改修事業'''が行われた。第二期では本支流の堤防建設のほか、第一期で着手された筑後川本流の開削工事が本格的に施行され、金島・小森野・天建寺・坂口の4捷水路を開削して河道を直線化し流下能力の向上を図った。この事業は幕末に田中政義が立案したもので、自費を投じ筑後川の千分の一模型を作成し効果を実証した。なお、この模型は日本初の河川水利模型実験である。この捷水路により総延長は9キロメートル短くなった。
 
 
 
近代の灌漑については従来の筑後川四堰に加え、筑後川河口からおよぞ29キロメートル区間における感潮区間で揚水取水が行われるようになった。この区間では[[満潮]]になると[[有明海]]の[[海水]]が筑後川に遡上するが、この時に上流から流れ来る河水は海水により河川表層に押し上げられる。このような河水を「淡水」と書いて「'''アオ'''」と地元では呼ぶが、このアオを用いた灌漑用水の取水が江戸時代より盛んになった。当初は水門などで[[クリーク]]に導水して取水が行われたが、明治時代に入ると[[ポンプ]]による取水が採用され1万4,000[[ヘクタール]]の農地がアオによる用水供給を行っている。一方筑後川中流部の直接取水でもポンプによる取水が行われ、[[1893年]](明治26年)には久留米市で[[蒸気機関]]によるポンプ取水が開始された。[[甘木市|甘木]]など両筑平野北部や耳納山地など[[八女茶]]の産地では各所に揚水ポンプを設置しての用水供給が盛んとなるが、過剰な取水が後年新たな水不足を呼んだ。
 
 
 
従来農地の灌漑にのみ利用されていた筑後川の利水であるが、日本各地の河川と同様に[[明治時代]]の[[富国強兵]]政策などで次第に[[上水道]]や[[工業用水道]]、[[水力発電]]に利用されるようになった。'''水道'''に関しては上水道が久留米市によって1923年[[7月9日]]に筑後川流域としては初めて計画され、[[1925年]](大正14年)[[3月31日]]に内務省の許可を得て事業を開始。[[1930年]](昭和5年)1月に最大で毎秒1万5,000[[立方メートル]]の給水を開始した。その後[[日田市]]などが続いたが何れも上水道事業は[[第二次世界大戦]]後に行われた。工業用水道についてもやはり久留米市を中心に取水が開始され、[[1931年]](昭和6年)に[[日本ゴム]]と[[ブリヂストン]]が筑後川からの取水を開始して以降、[[月星化成]]が[[1943年]](昭和18年)に取水を行うなど久留米市の産業の中心を担う[[ゴム]]製造業が筑後川を利用している。戦後は[[味の素]]が[[1961年]](昭和36年)に筑後川の取水を開始しており、[[キリンビール]]や[[コカコーラ]]の工場なども筑後川水系より取水しており、両社が九州で生産している[[ビール]]や[[清涼飲料水]]については筑後川の水が利用されている。
 
 
 
'''水力発電'''に関しては[[1907年]](明治40年)に日田水電株式会社が筑後川(三隈川)に出力1,000キロ[[ワット]]の石井発電所を運転させたのが最初である。その後は主に[[玖珠川]]流域で開発が行われ、[[1913年]](大正2年)[[12月15日]]には筑後川合流点付近の玖珠川最下流部に'''女子畑発電所'''(おなごはたはつでんしょ)が運転を開始した。これは玖珠川中流部と筑後川上流部より取水した水を女子畑第一・第二調整池という二箇所の[[ダム]]で貯水し、発電所に導水して発電を行う[[水路式発電所]]である。出力2万6,750キロワットは当時としては大規模な水力発電所であり、『'''東の猪苗代、西の女子畑'''』として[[福島県]][[耶麻郡]][[猪苗代町]]に建設された[[阿賀野川#猪苗代発電所|猪苗代第一発電所]]と並び称される[[水力発電所]]であった。1922年には最上流部の地蔵原川に[[アースダム]]の地蔵原ダムを建設してその水を利用する町田第一・第二発電所(出力合計7,600キロワット)も稼働し、玖珠川流域は当時九州でも有数の[[電源地帯]]となった。
 
 
 
戦後は筑後川本流に[[夜明ダム|夜明発電所]](出力1万2,000キロワット)が[[1954年]](昭和29年)、[[下筌ダム|下筌発電所]](出力1万5,000キロワット)が[[1969年]](昭和44年)、[[松原ダム|松原発電所]](出力5万600キロワット)が[[1971年]](昭和46年)に運転を開始するが何れも筑後川本流上流域の[[ダム式発電所]]である。最後に建設されたのが'''柳又発電所'''で、筑後川本流の松原ダムより導水した水を日田市で合流する筑後川の支流・高瀬川に建設した高瀬川ダムで貯水。さらに高瀬川ダムから筑後川本流そばに建設された発電所に導水して発電する[[ダム水路式発電所]]であり、出力は6万1,900キロワットと筑後川水系最大である。筑後川流域の総出力は'''21万2,292キロワット'''となったが、柳又発電所以降新規の水力発電は行われず、[[揚水発電]]や出力10万キロワットを超える水力発電所も建設されていない。急峻な地形と豊富な水量がある割には電源開発があまり行われなかった一級河川の一つである。
 
 
 
=== 筑後川水系治水基本計画 ===
 
''昭和28年西日本水害における筑後川流域の被害詳細については'''[[昭和28年西日本水害#筑後川流域]]'''を参照。''
 
[[Image:Yoake_dam.JPG|thumb|200px|[[夜明ダム]](筑後川)。[[1953年]](昭和28年)の[[昭和28年西日本水害]]ではダム両岸が濁流により崩落。建設中の[[水門]]も数門が破壊された。]]
 
戦後、筑後川の治水を語る上で欠かせないのは[[1953年]](昭和28年)[[6月25日]]から[[6月29日]]にかけて発生した'''[[昭和28年西日本水害]]'''である。この時は筑後川上流の熊本県[[阿蘇郡]][[小国町 (熊本県)|小国町]]で6月25日一日で433.6ミリの豪雨が降り注いだのを始め、5日間で[[阿蘇山]]を中心に総雨量1,000ミリを越える[[集中豪雨]]となった。これにより筑後川は過去最悪の洪水をひき起こし、[[久留米市]]を始め[[朝倉郡]]・[[浮羽郡]]など筑後川流域は有史以来最悪の水害を蒙り死者147人、被災者数54万人を数え[[アメリカ軍|米軍]]や[[自衛隊|保安隊]]も救助活動を行った。特に、[[中流]]部の夜明地点に[[九州電力]]が建設していた'''[[夜明ダム]]'''は、両岸が激しい水流によって崩落し'''[[日本のダム#日本のダム事故|ダム決壊]]'''という事態を招いた。このことは後に調査委員会が設けられるなど一時問題となったが、根本的な問題はダム決壊よりも河川整備の不備であった。
 
 
 
[[建設省]]九州地方建設局<ref>現在の[[国土交通省]]九州[[地方整備局]]。</ref>は[[1949年]](昭和24年)の「河川改訂改修計画」に拠って筑後川支流の玖珠川と津江川にダムを建設する計画を立てていたが、この水害を受けて大幅な[[治水|計画高水流量]]の改訂に迫られた。[[1957年]](昭和32年)「'''筑後川水系治水基本計画'''」を策定し、この中で[[多目的ダム]]による[[洪水調節]]が必須との結論が出て、その結果筑後川本流の津江川合流点付近に'''[[松原ダム]]'''、松原ダム直上流部の津江川に'''[[下筌ダム]]'''(しもうけダム)を建設して洪水調節を図り、[[1973年]](昭和48年)に両ダムは完成した。また、中流部においては[[1961年]](昭和36年)より千年分水路・原鶴分水路・大石分水路の「'''三大分水路'''」が建設され[[1979年]](昭和54年)に事業が完成している。
 
 
 
下流域では[[1966年]](昭和41年)より久留米市において'''東櫛原大規模引堤事業'''が着手され、住民の移転や[[西日本鉄道]][[西鉄天神大牟田線|天神大牟田線]]の筑後川鉄橋など4橋梁の架け替えなどに難航しながらも[[1993年]](平成5年)に完成している。[[佐賀市]]を流れる佐賀江川については[[1980年]](昭和55年)の水害で[[激甚災害法]]に指定されたことを契機に'''佐賀江川激甚災害対策特別緊急事業'''(激特事業)に指定され、排水機場の整備や[[蛇行]]部の直線化が行われた。この他[[宝満川]]・小石原川・[[花宗川]]・広川など主な支流には堤防整備や筑後川の洪水逆流防止のための水門改築、橋梁整備や川幅拡張を行った。現在は支流の城原川(じょうばるがわ)に[[城原川ダム]]の建設を進めている。福岡県も管理する筑後川水系の中小河川について河川改修を実施する傍ら[[国庫]]補助を受けた[[多目的ダム#補助多目的ダム|補助多目的ダム]]・[[治水ダム#補助治水ダム|補助治水ダム]]事業を行っており、宝満川支流に山神ダム(山口川)や河内ダム(大木川)、広川には広川ダムを完成させた。現在は[[うきは市]]の巨瀬川に藤波ダムを[[治水ダム]]として建設している。
 
 
 
=== 筑後川水系水資源開発基本計画 ===
 
[[image:Terauchi-2430-r1.JPG|200px|thumb|[[福岡都市圏]]の水がめ・[[寺内ダム]](佐田川)。[[昭和53-54年福岡市渇水|福岡大渇水]]の最中に完成した。]]
 
利水については、平野部では従来より大石堰・恵利堰・山田堰と淡水(アオ)による農業用水の取水が中心であったが、台地では地下水を揚水機によって汲み上げる取水が行われていた。だが、無秩序に揚水機が1,400台も設置された結果、地下水の減少による水不足や揚水機の維持管理費の高騰が問題となり、こうした問題を解決すべく「国営両筑平野用水事業」や「国営耳納山麓土地改良事業」などが計画された。
 
 
 
一方、[[福岡市]]・久留米市・大牟田市・[[佐賀市]]等の都市部では急速に人口が増加し上水道の水需要が逼迫するようになった。こうした中で[[1962年]](昭和37年)「水資源開発促進法」・「水資源開発公団法」が施行され水資源開発公団<ref>現在の[[独立行政法人]][[水資源機構]]。</ref>が発足。筑後川は[[1964年]](昭和39年)に水資源開発水系に指定され「'''筑後川水資源開発基本計画'''」(フルプラン)が策定された。また建設省九州地方建設局・[[農林省]]<ref>現在の[[農林水産省]]。</ref>[[九州農政局]]・[[通商産業省]]<ref>現在の[[経済産業省]]。</ref>福岡通商産業局と北部九州の四県、九州・山口経済連合会など関連経済団体は[[1963年]](昭和38年)に筑後川水系の利水総合開発を行うため「北部九州水資源開発協議会」を結成。フルプランを軸にさらなる筑後川水系の水資源開発を促進し[[福岡都市圏]]の水供給を確実にさせるため[[1969年]](昭和44年)6月、「'''北部九州水資源開発マスタープラン'''」を作成した。
 
 
 
この計画では筑後川水系のみならず[[遠賀川]]水系、[[嘉瀬川]]水系、[[矢部川]]水系、[[六角川]]水系および[[菊池川]]水系を含めて多目的ダムによる大規模総合開発を行い、水不足に悩まされる九州北部の水需要を安定化させ、可能な限り合理的な水利用を図ることとした。これに基づき計画されたのは筑後川本流の杖立ダムと'''[[筑後大堰]]'''、玖珠川の猪牟田ダムと玖珠川ダム、花月川の日向野ダムなど三ダム、小石原川の'''[[江川ダム]]'''([[福岡市水道局]])、佐田川の'''[[寺内ダム]]'''、隈上川の'''[[合所ダム]]'''(ごうしょダム)であり、矢部川には支流の[[星野川]]に真名子ダム、嘉瀬川には[[嘉瀬川ダム]]、菊池川には支流の迫間川に[[竜門ダム]]を建設して佐賀導水や津江分水などで水系間で水を融通し効率的な水供給を図ろうとした。
 
 
 
これを元にダム・用水整備は進められ、[[1975年]](昭和50年)には江川ダムが建設され両筑平野用水事業が完成。[[1979年]](昭和54年)には'''福岡導水'''事業の水源として寺内ダムが建設され、[[1978年]](昭和53年)の[[昭和53-54年福岡市渇水|福岡大渇水]]において暫定的に運用を開始した。その後福岡導水事業は[[1983年]](昭和58年)に通水したが[[1985年]](昭和60年)の筑後大堰、[[1993年]](平成5年)の合所ダムなどの完成により事業の拡充整備が進み、福岡市・[[太宰府市]]・[[筑紫野市]]等9市9町に[[上水道]]を供給している。下流部では筑後大堰を水源として[[農林水産省]]九州農政局の「国営筑後川下流土地改良事業」と共同して「筑後川下流用水事業」を施工した。筑後川下流用水は久留米市・[[大牟田市]]・佐賀市・[[鳥栖市]]など9市13町村の上水道・農業用水などを供給している。さらに従来は上水道供給目的が無かった松原・下筌ダムに上水道目的を付加する「松原・下筌[[ダム再開発事業]]」が実施され、梅林湖(松原ダム湖)・蜂の巣湖(下筌ダム湖)の容量配分を再検討して利水容量を設けた。これにより[[日田市]]への上水道供給が強化されたほか、筑後大堰や九州電力管理の大山川ダムと連携して[[アユ]]・[[エツ]]・[[ノリ]]といった筑後川・[[有明海]]の[[漁業]]資源保全を目的とした[[放流 (ダム)#河川維持放流|河川維持放流]]を行い、漁業保護と河川[[生態系]]の維持に努めている。
 
 
 
だが[[1994年]]([[平成]]6年)の福岡渇水では給水車の出動こそ無かったが290日に及ぶ給水制限が行われたため、対策として水源整備がさらに進められ、現在では[[江川ダム|小石原川ダム]](小石原川)・大山ダム(赤石川)の建設が進められている。さらに菊池川水系との連携による効率的な水運用も図り、竜門ダムと下筌ダム上流の津江分水堰(津江川)の間に建設された津江分水路を利用し、水供給の強化も図っている。
 
 
 
=== 河川行政への警鐘~蜂の巣城紛争~ ===
 
[[image:Shimouke-2797-r1.JPG|200px|thumb|[[蜂の巣城紛争]]の舞台となった[[下筌ダム]](津江川)。ダム右岸(画面左)に「蜂の巣城」が建設され、攻防の舞台となった。]]
 
筑後川では治水・利水のための多くのダムが建設されたが、一方で早くから[[公共事業]]の進め方に対する問題が浮き彫りとなった。その代表が松原ダム・下筌ダム建設に伴う「'''[[蜂の巣城紛争]]'''」である。[[1957年]](昭和32年)よりダム建設は計画されたが、九州地方建設局の住民説明会で生活再建策が何も説明されなかったことに住民が反発、翌年には'''[[室原知幸]]'''を中心に「絶対反対決議」が為され、建設省に対する徹底抗戦の意思表示として下筌ダムサイト地点に「蜂の巣城」を建設、籠城した。この間強制執行に対する流血事件や建設差し止めの行政訴訟など、公共事業と[[基本的人権]](憲法第29条[[財産権]])の侵害という問題を室原は行政に突きつけ続けた。蜂の巣城は1964年に落城したものの、室原の抵抗は彼が亡くなる[[1970年]](昭和45年)まで続いた。
 
 
 
だが、この紛争は水没地域の救済制度や[[河川総合開発事業]]の不備を行政に認めさせた点で大きなきっかけであった。室原没後の1973年、水没地域の計画的な産業基盤整備・振興を行って地域住民の生活安定・福祉向上を図る目的で「'''[[水源地域対策特別措置法]]'''」(水特法)が施行され、[[河川法]]・[[土地収用法]]・[[多目的ダム#特定多目的ダム|特定多目的ダム法]]の改正も同時に行われた。13年に亘る蜂の巣城紛争は、河川行政が開発優先から地域との共生へ視点を転換した曲がり角であり、以後のダム建設に多大なる影響を与えた。室原の「公共事業は理にかない、法にかない、情にかなわなければならない」という言葉は、現在でも補償交渉の基礎として生き続けており、1990年代以降の公共事業見直しはこの延長線上にある。筑後川でも玖珠川最上流部に建設予定だった猪牟田ダム<ref>高さ125.0メートルの[[ロックフィルダム]]として計画されていたが、ダム建設地点の[[地質]]が劣悪で対策を講じていたが、結果的に克服できず中止となった。</ref>が建設中止となった。また「北部九州水資源開発マスタープラン」で計画されていた杖立ダムや玖珠川ダム、日向野ダムなどは計画倒れに終わった。
 
 
 
現在では城原川に計画されている'''[[城原川ダム]]'''について、地元が賛成派と反対派に分裂し収拾のつかない状態になっている。[[平成の大合併]]で誕生した[[神埼市]]市長選挙でも争点となり、誕生した新市長はダム賛成の態度を取っている。また[[古川康]][[佐賀県知事]]は[[治水ダム#穴あきダム|穴あきダム]]方式でのダム建設を事業者である国土交通省に提唱、これをうけて国土交通省は城原川ダムを多目的ダムから[[治水ダム]]へ変更した。しかし[[1979年]](昭和54年)の計画発表から既に29年経過している。また巨瀬川に建設中の[[藤波ダム]]も住民の反対が激しく、[[2009年]](平成21年)の完成まで39年を要した。
 
 
 
== 日本住血吸虫症の撲滅 ==
 
[[file:Schistosoma japonicum (3) histopathology.JPG|right|thumb|200px|[[肝臓]]に寄生した[[日本住血吸虫]]。筑後川流域の住民を苦しめた。]]
 
[[file:Chikugo_Ozeki Weir.JPG|right|thumb|200px|日本住血吸虫撲滅に大きな役割を果たした[[筑後大堰]](筑後川)。]]
 
[[File:Oncomelania nosophora cenotaph. Chikugo River area.A.JPG|right|thumb|200px|宮入貝供養碑。久留米市宮ノ陣。2014年12月撮影。]]
 
{{main|日本住血吸虫}}
 
 
 
かつて筑後川流域のうち下流域は、[[利根川]]下流域の[[茨城県]]、[[富士川]]流域の[[山梨県]][[甲府盆地]]、[[芦田川]]流域の[[広島県]][[深安郡]][[神辺町]]片山地区と並ぶ'''[[日本住血吸虫]]'''(にほんじゅうけつきゅうちゅう)の浸淫地で、[[寄生虫病]]のひとつである'''[[日本住血吸虫症|日本住血吸虫症(地方病)]]'''の有病地であった。
 
 
 
日本住血吸虫症とは、'''[[ミヤイリガイ]]'''(カタヤマガイ)という巻貝を[[中間宿主]]として、河水に入ったヒトなど[[哺乳類|哺乳動物]]に[[皮膚]]より日本住血吸虫の幼虫([[セルカリア]])が寄生、[[皮膚炎]]を初発症状として高熱や消化器症状といった急性症状を呈した後に、成虫へと成長した日本住血吸虫が[[肝臓]]や[[脾臓]]に巣食い慢性化、多数寄生して重症化すると[[肝硬変]]による[[黄疸]]や[[腹水]]を発症し、最終的に死に至る疾病である。当時は発症すると有効な治療法に乏しかった<ref>現在は[[プラジカンテル]]という特効薬がある。</ref>ことから、多くの流域住民が感染し、病に倒れた。
 
 
 
筑後川流域では、特に支流の[[宝満川]]流域(宝満川本流、新宝満川、安良川)と筑後川の合流点から、現在の[[国道210号]]豆津橋一帯の福岡県[[久留米市]]・佐賀県[[三養基郡]]周辺が一大分布地であった。福岡県をはじめ久留米市など流域市町村は、対策として、日本住血吸虫症患者の早期発見と治療、感染予防対策を行うほか、[[用水路]]への薬剤散布などで、宿主のミヤイリガイや[[最終宿主]]である[[ハタネズミ]]などの駆除を実施していたが、根本的な解決はミヤイリガイを人為的に絶滅させる以外方法はなかった。
 
 
 
そこで、筑後川の河川管理者である[[建設省]]九州地方建設局は、治水事業の一環として実施している河川整備に、日本住血吸虫症対策としてミヤイリガイ撲滅を併せて目的に組み入れることにした。具体的には[[河川敷]]を整地し[[コンクリート]]護岸を整備することで、ミヤイリガイの繁殖に適する[[ススキ]]原や[[湿地]]帯を埋め立てることで、生息地を壊滅に追い込むことにあった。
 
 
 
建設省による事業は[[1965年]](昭和40年)より開始され、まず宝満川流域で河川敷整備と[[水門]]の改築による護岸工事を実施した。この結果、宝満川下流域において、[[1970年]](昭和45年)までに、新宝満川左岸部の久留米市小森野地区を除き、ミヤイリガイの根絶に成功。上流部の[[鳥栖市]]でも、[[1969年]](昭和44年)のミヤイリガイ大発生以降は、ススキの刈り取りを徹底的に実施して根絶に追い込んだ。
 
 
 
しかし、新宝満川左岸の久留米市小森野地区では、その後も感染したミヤイリガイの棲息が継続的に確認されており、対策が求められていた。建設省は1965年より筑後川治水事業第二次五ヵ年計画を策定、久留米市内の大規模築堤事業として「久留米市東櫛原大規模引堤事業」を計画。また[[水資源開発公団]]は、筑後川水系水資源開発基本計画の一環として[[筑後大堰]]の建設を計画した。この両事業は大規模な河川敷改修を伴うが、最後のミヤイリガイ分布地に建設されることから、同時に本格的な日本住血吸虫撲滅に乗り出した。
 
 
 
[[1984年]](昭和59年)に筑後大堰、[[1993年]](平成5年)に東櫛原引堤事業は完成するが、この間建設省・水資源開発公団は、徹底的な河川敷整備を行い、[[盛土]]や護岸整備で、久留米市など流域市町村では、河川敷の清掃を行ってススキなどを刈り取り、ミヤイリガイの生息域を壊滅させた。この結果、[[1990年]](平成2年)に福岡県と久留米市はミヤイリガイ棲息調査を行い、ミヤイリガイが撲滅されたことを確認し「'''安全宣言'''」を発表した。
 
しかし日本住血吸虫症は慢性疾患であること、また調査の漏れをなくす理由から、さらに10年間の追跡調査を実施した。調査の末[[2000年]](平成12年)、新規感染患者もミヤイリガイ発生も皆無だったことから「'''終息宣言'''」が発表され、筑後川流域から長年流域住民を悩ませた日本住血吸虫症の'''完全撲滅に成功'''した。同じ時期、他の感染区域であった利根川や富士川などでも撲滅され、日本は世界で唯一、日本住血吸虫症の撲滅に成功した。
 
 
 
日本住血吸虫症は、2014年現在では国内に存在しない反面、[[公衆衛生]]の観点とはいえ、筑後川流域からミヤイリガイを人為的に絶滅させたことは確かであり、久留米市にはミヤイリガイを供養するための「宮入貝供養碑」が建立されている。
 
 
 
== 筑後川水系の河川施設 ==
 
筑後川の河川開発は[[江戸時代]]中期の4大取水堰に始まるが、流域4藩([[福岡藩]]・[[佐賀藩]]・[[久留米藩]]・[[柳河藩]])による統一性のない治水・利水施設の乱立によって水害の被害が却って拡大する皮肉となった。明治の改修を経て[[1953年]](昭和28年)の[[昭和28年西日本水害]]による筑後川大水害を機に、[[建設省]]([[国土交通省]]九州[[地方整備局]])による「'''筑後川水系治水基本計画'''」による[[ダム]]・[[放水路]]・堤防といった治水整備が行われた。また、[[1964年]](昭和39年)に「水資源開発促進法」に伴う水資源開発水系に指定され、水資源開発公団([[独立行政法人]][[水資源機構]])による利水施設が系統的に建設された。[[水力発電]]に関しては[[大正時代]]の女子畑発電所を皮切りに、主に[[玖珠川]]流域で発電施設が建設されたが、大規模な電源開発までには至らなかった。
 
 
 
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small;"
 
|-
 
!一次<br />支川名<br />(本川)
 
!二次<br />支川名
 
!三次<br />支川名
 
!ダム名
 
!堤高<br />(m)
 
!総貯水<br />容量<br />(千[[立方メートル|m<sup>3</sup>]])
 
!型式
 
!事業者
 
!備考
 
|-
 
|筑後川
 
|-
 
|-
 
|[[松原ダム]]
 
| align=right|83.0
 
| align=right|54,600
 
|[[重力式コンクリートダム|重力式]]
 
|[[国土交通省]]
 
|([[大山川]])
 
|-
 
|筑後川
 
|-
 
|-
 
|大山川ダム
 
|-
 
| align=right|-
 
|重力式
 
|[[九州電力]]
 
|小堰堤
 
|-
 
|筑後川
 
|-
 
|-
 
|島内可動堰
 
|-
 
| align=right|-
 
|[[可動堰]]
 
|国土交通省
 
|([[三隈川]])
 
|-
 
|筑後川
 
|-
 
|-
 
|[[夜明ダム]]
 
| align=right|15.0
 
| align=right|4,050
 
|重力式
 
|九州電力
 
|
 
|-
 
|筑後川
 
|-
 
|-
 
|山田堰
 
|
 
| align=right|-
 
|[[固定堰]]
 
|土地改良区
 
|筑後川四大堰
 
|-
 
|筑後川
 
|-
 
|-
 
|恵利堰
 
|-
 
| align=right|-
 
|固定堰
 
|土地改良区
 
|筑後川四大堰
 
|-
 
|筑後川
 
|-
 
|-
 
|大石堰
 
|-
 
| align=right|-
 
|固定堰
 
|土地改良区
 
|筑後川四大堰
 
|-
 
|筑後川
 
|-
 
|-
 
|原鶴分水路
 
|-
 
| align=right|-
 
|[[放水路]]
 
|国土交通省
 
|
 
|-
 
|筑後川
 
|-
 
|-
 
|大石分水路
 
|-
 
| align=right|-
 
|放水路
 
|国土交通省
 
|
 
|-
 
|筑後川
 
|-
 
|-
 
|千年分水路
 
|-
 
| align=right|-
 
|放水路
 
|国土交通省
 
|
 
|-
 
|筑後川
 
|-
 
|-
 
|[[筑後大堰]]
 
| align=right|13.8
 
| align=right|5,500
 
|可動堰
 
|[[水資源機構]]
 
|
 
|-
 
|津江川
 
|-
 
|-
 
|[[下筌ダム]]
 
| align=right|98.0
 
| align=right|59,300
 
|[[アーチ式コンクリートダム|アーチ式]]
 
|国土交通省
 
|
 
|- bgcolor="yellow"
 
|赤石川
 
|-
 
|-
 
|大山ダム
 
| align=right|99.0
 
| align=right|19,600
 
|重力式
 
|水資源機構
 
|建設中
 
|-
 
|[[玖珠川]]
 
|(河道外)
 
|-
 
|女子畑第一調整池<br />(第2号)
 
| align=right|20.3
 
| align=right|312
 
|[[アースダム|アース]]
 
|九州電力
 
|
 
|-
 
|玖珠川
 
|(河道外)
 
|-
 
|女子畑第一調整池<br />(第3号)
 
| align=right|26.7
 
| align=right|312
 
|アース
 
|九州電力
 
|
 
|-
 
|玖珠川
 
|地蔵原川
 
|-
 
|地蔵原ダム
 
| align=right|21.8
 
| align=right|1,858
 
|アース
 
|九州電力
 
|
 
|-
 
|玖珠川
 
|松木川
 
|-
 
|松木ダム
 
| align=right|48.5
 
| align=right|1,300
 
|重力式
 
|[[大分県]]
 
|
 
|-
 
|玖珠川
 
|女子畑川
 
|-
 
|女子畑第二調整池
 
| align=right|34.3
 
| align=right|392
 
|重力式
 
|九州電力
 
|土木遺産
 
|-
 
|高瀬川
 
|-
 
|-
 
|高瀬川ダム
 
| align=right|25.6
 
| align=right|273
 
|重力式
 
|九州電力
 
|
 
|-
 
|隈上川
 
|-
 
|-
 
|[[合所ダム]]
 
| align=right|60.7
 
| align=right|7,660
 
|[[ロックフィルダム|ロックフィル]]
 
|[[福岡県]]
 
|
 
|-
 
|佐田川
 
|-
 
|-
 
|[[寺内ダム]]
 
| align=right|83.0
 
| align=right|18,000
 
|ロックフィル
 
|水資源機構
 
|
 
|- bgcolor="yellow"
 
|小石原川
 
|-
 
|-
 
|[[江川ダム|小石原川ダム]]
 
| align=right|129.0
 
| align=right|40,000
 
|ロックフィル
 
|水資源機構
 
|計画中
 
|-
 
|小石原川
 
|-
 
|-
 
|[[江川ダム]]
 
| align=right|79.2
 
| align=right|25,326
 
|重力式
 
|水資源機構
 
|
 
|-
 
|[[巨瀬川]]
 
|-
 
|-
 
|[[藤波ダム]]
 
| align=right|52.0
 
| align=right|2,515
 
|ロックフィル
 
|福岡県
 
|
 
|-
 
|[[宝満川]]
 
|山口川
 
|-
 
|山神ダム
 
| align=right|59.0
 
| align=right|2,980
 
|[[コンバインダム|複合式]]
 
|福岡県
 
|
 
|-
 
|宝満川
 
|山口川
 
|卯ヶ原川
 
|山口調整池
 
| align=right|60.0
 
| align=right|3,900
 
|ロックフィル
 
|水資源機構
 
|
 
|-
 
|広川
 
|-
 
|-
 
|広川ダム
 
| align=right|29.2
 
| align=right|990
 
|ロックフィル
 
|福岡県
 
|
 
|-
 
|宝満川
 
|大木川
 
|-
 
|河内ダム
 
| align=right|35.0
 
| align=right|1,995
 
|アース
 
|[[佐賀県]]
 
|
 
|- bgcolor="yellow"
 
|佐賀江川
 
|城原川
 
|-
 
|[[城原川ダム]]
 
| align=right|98.5
 
| align=right|15,800
 
|ロックフィル
 
|国土交通省
 
|計画中
 
|}
 
(注):黄欄は建設中もしくは計画中のダム([[2009年]]現在)。
 
 
 
== 水運と橋梁 ==
 
[[file:Chikugo River Lift Bridge UP 20110914.jpg|thumb|200px|[[1935年]](昭和10年)に完成した[[筑後川昇開橋]]。現在は歩行者専用橋となっている。]]
 
[[file:Kurume_komorino_bridge.jpg|thumb|200px|小森野橋。[[昭和28年西日本水害]]における筑後川の洪水で流失。その後架け替えられた。]]
 
[[file:Kurume_nisen-nenbashi.jpg|thumb|200px|二千年橋。[[2000年]]に完成したことから名付けられた。]]
 
[[file:JR鹿児島本線と九州新幹線用の筑後川橋梁.jpg|thumb|200px|JR[[鹿児島本線]]鉄橋と建設中の[[九州新幹線]]筑後川橋梁。]]
 
[[file:Tenkenji-B.JPG|thumb|200px|[[天建寺橋]]]]
 
筑後川は[[久留米藩]]([[摂津有馬氏|有馬家]])、[[福岡藩]]([[黒田氏|黒田家]])、[[佐賀藩]]([[鍋島氏|鍋島家]])、[[柳河藩]]([[立花氏|立花家]])の四藩が境界を接しており、境界争いや水争いなどが頻発して相互の関係は険悪であった。このため藩領防衛の観点により架橋は厳禁とされ、代用交通として'''水運'''が発達した。[[1789年]]([[寛政]]元年)に編集された「筑後上三郡取調手鑑」には既に19箇所の渡し場が登録されており、その後も増加を続け最盛期には62箇所の[[渡し舟|渡船場]]を数える程になった。また筑後川両岸には[[天正]]年間に三潴郡住民である三郎左衛門が開発した大野島が次第に交通の要衝として重視され港湾が整備されるようになった。佐賀藩は現在の[[佐賀市]][[諸富町]]に'''諸富港'''を築港し、藩の軍事拠点として活用された。また久留米藩は[[1751年]]([[宝暦]]元年)に七代藩主・[[有馬頼徸]](よりゆき)の命で[[三潴郡]]羽犬塚村([[筑後市]])の住民を移転させ'''若津港'''を築港、農産物を始めとする物資輸送の拠点とした。若津港築港により発展したのが現在の[[大川市]]で、上流の豊後[[日田市|日田]]から船や筏で[[スギ]]が運搬され、木材集積地となりは木材加工業が発達。現在でも[[箪笥|タンス]]の主要生産地となっている。この他久留米藩・佐賀藩・柳河藩は筑後川や早津江川沿岸に川筋番所を設置して河川交通の取り締まりを行った。
 
 
 
明治以降も渡し場が続々増加したほか若津港が[[1922年]](大正11年)、諸富港が[[1923年]](大正12年)に[[内務省 (日本)|内務省]]令によって指定港湾となった。また[[漁港]]も筑後川・早津江川分流点の直上流部より相次いで整備され、[[ノリ]]や[[エツ]]などの漁業拠点として現在も12漁港が存在する。陸運については[[1935年]]([[昭和]]10年)に[[日本国有鉄道|国鉄]][[佐賀線]][[筑後大川駅]]と[[諸富駅]]間に'''[[筑後川昇開橋]]'''が竣工し、船舶通過時には橋中央が上方に可動した。その後は筑後川の各所に道路橋が建設され、[[モータリゼーション]]発達に伴いその数は増加したが反面[[渡し船]]は時代の趨勢に取り残され、続々廃止されて行く。
 
 
 
また、ダムを始めとする河川開発も舟運にも影響を与え、日田から大川へ[[スギ]]を運搬した筏運は夜明ダムの完成で陸上輸送に取って代わった。国道整備などに伴う陸上輸送の発達と相まって渡し舟の衰退に拍車が掛かり、[[1994年]](平成6年)の'''下田の渡しが廃止'''されたのを最後に筑後川における渡し舟は消滅した。しかし近年では水運に対する見直しの機運も高まり、筑後川の水運を復活させようという動きも見られている。
 
 
 
一方明治時代以降筑後川における橋梁の建設が盛んになった。当初は国鉄[[鹿児島本線]]や佐賀線、[[西鉄天神大牟田線]]の[[鉄道橋]]が建設され、道路橋は遅れて'''宮ノ陣橋'''が[[1924年]](大正13年)に完成した。この宮ノ陣橋は[[1948年]](昭和23年)頃まで[[西鉄甘木線]]と共用する道路・鉄道併設の橋梁であった。これら明治・大正期に建設された橋梁は水害による流失など多様な理由でいずれも架け替えられた。特殊なものとしては先の水運の項で述べた筑後川昇開橋が存在するが[[1987年]](昭和62年)佐賀線廃止の折、水運衰退も相まって撤去が検討された。しかし大川市・佐賀市の陳情によって存続が決まり、現在は一日8回中央部が昇降する歩行者専用橋として利用されている。
 
 
 
=== 筑後川本流の主な橋梁 ===
 
==== 道路橋 ====
 
掲載対象は[[国道]]、[[高速道路]]が通過する橋梁または長さが100.0[[メートル]]を超える橋梁である。上流より記載する。
 
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small;"
 
|-
 
!橋梁
 
!供用道路
 
!型式
 
!左岸所在地
 
!右岸所在地
 
!完成年
 
!備考
 
|-
 
|([[松原ダム]])||[[国道212号]]||||[[大分県]][[日田市]]天瀬町出口||大分県日田市天瀬町出口||[[1972年]]||ダムと共用
 
|-
 
|千丈橋||国道212号||[[桁橋]]||大分県日田市大山町西大山||大分県日田市大山町東大山||[[1936年]]||
 
|-
 
|恵良橋||国道212号||||大分県日田市琴平町||大分県日田市大部町||||
 
|-
 
|大宮大橋||[[国道210号]]||||大分県日田市大宮町||大分県日田市大部町||||
 
|-
 
|三隈大橋||国道210号||[[トラス橋]]||大分県日田市高瀬本町||大分県日田市川原町||[[1953年]]||
 
|-
 
|島内橋||国道212号||桁橋||大分県日田市中ノ島町||大分県日田市中釣町||[[1960年]]||
 
|-
 
|三隈橋||県道677号||桁橋||大分県日田市石井町3丁目||大分県日田市亀川町||[[1956年]]||
 
|-
 
|夜明大橋||[[国道211号]]||トラス・桁複合||大分県日田市高井町||大分県日田市夜明中町||[[1971年]]||
 
|-
 
|関大橋<br/>袋野大橋||国道210号||||大分県日田市夜明||[[福岡県]][[うきは市]]浮羽町三春||[[1993年]]||連続する
 
|-
 
|寿橋||||桁橋||福岡県うきは市浮羽町古川||福岡県うきは市浮羽町古川||[[1955年]]||
 
|-
 
|昭和橋||[[福岡県道52号八女香春線|県道52号]]||桁橋||福岡県うきは市浮羽町古川||福岡県[[朝倉市]]杷木池田||[[1928年]]||
 
|-
 
|原鶴大橋||[[福岡県道749号保木吉井線|県道749号]]||桁橋||福岡県うきは市吉井町千年||福岡県朝倉市杷木志波||[[1959年]]||
 
|-
 
|恵蘇宿橋||[[福岡県道511号吉井恵蘇宿線|県道511号]]||トラス橋||福岡県うきは市吉井町八和田||福岡県朝倉市山田||1955年||
 
|-
 
|朝羽大橋||[[福岡県道80号甘木朝倉田主丸線|県道80号]]||[[ガーター橋]]||福岡県うきは市吉井町長栖||福岡県朝倉市田中||[[1966年]]||
 
|-
 
|両筑橋||[[福岡県道33号甘木田主丸線|県道33号]]||桁橋||福岡県[[久留米市]][[田主丸町]]恵利||福岡県朝倉市中||1955年||
 
|-
 
|筑後川橋||県道743号||トラス・桁複合||福岡県久留米市田主丸町菅原||福岡県[[大刀洗町]]守部||[[1931年]]||
 
|-
 
|大城橋||[[福岡県道81号久留米浮羽線|県道81号]]||||福岡県久留米市[[北野町]]大城||福岡県久留米市北野町大城||[[2007年]]||
 
|-
 
|[[神代橋]]||[[福岡県道53号久留米筑紫野線|県道53号]]||[[ゲルバー橋]]||福岡県久留米市[[山川神代]]2丁目||福岡県久留米市北野町石崎||[[1940年]]||
 
|-
 
|[[合川大橋]]||[[国道322号]]||||福岡県久留米市[[東合川]]9丁目||福岡県久留米市[[宮ノ陣|宮ノ陣町]]大杜||[[1988年]]||
 
|-
 
|[[筑後川大橋]]||[[九州自動車道]]||トラス橋||福岡県久留米市東合川8丁目||福岡県久留米市宮ノ陣6丁目||[[1973年]]||[[高速道路]]専用
 
|-
 
|[[宮ノ陣橋]]||[[福岡県道88号久留米小郡線|県道88号]]||桁橋||福岡県久留米市[[百年公園]]||福岡県久留米市宮ノ陣5丁目||1988年||当初は[[西鉄甘木線|甘木線]]と共用
 
|-
 
|[[久留米大橋]]||[[国道3号]]||||福岡県久留米市[[東櫛原町]]||福岡県久留米市[[高野]]1丁目||[[1992年]]||[[国土交通省]]直轄
 
|-
 
|[[二千年橋]]||||||福岡県久留米市東櫛原町||福岡県久留米市[[小森野]]4丁目||[[2000年]]||
 
|-
 
|[[小森野橋]]||[[福岡県道・佐賀県道17号久留米基山筑紫野線|県道17号]]||桁橋||福岡県久留米市小森野町||福岡県久留米市小森野1丁目||[[1957年]]||1953年流失
 
|-
 
|[[長門石橋]]||[[佐賀県道・福岡県道145号江口長門石江島線|県道145号]]||[[ラーメン橋]]||福岡県久留米市[[京町]]||福岡県久留米市[[長門石]]1丁目||[[1971年]]
 
|-
 
|[[豆津橋]]||[[国道264号]]||||福岡県久留米市[[大石町 (久留米市)|大石町]]||[[佐賀県]][[みやき町]]江口||[[1993年]]||
 
|-
 
|([[筑後大堰]])||||||福岡県久留米市[[安武町]]武島||佐賀県みやき町江口||[[1985年]]||堰管理道路と共用
 
|-
 
|[[天建寺橋]]||[[佐賀県道・福岡県道138号西島筑邦線|県道138号]]||||福岡県久留米市[[大善寺町]]中津||佐賀県みやき町坂口||[[1999年]]||
 
|-
 
|下田大橋||[[佐賀県道・福岡県道133号坊所城島線|県道133号]]||||福岡県久留米市[[城島町]]浜||福岡県久留米市城島町下田||[[1994年]]||
 
|-
 
|六五郎橋||[[佐賀県道・福岡県道15号佐賀八女線|県道15号]]||トラス橋||福岡県久留米市城島町城島||佐賀県[[神埼市]][[千代田町]]迎島||1966年||
 
|-
 
|青木中津大橋||[[国道385号]]||||福岡県久留米市城島町江島||佐賀県神埼市千代田町迎島||[[1982年]]||
 
|-
 
|鐘ヶ江大橋||[[佐賀県道・福岡県道20号佐賀大川線|県道20号]]||||福岡県[[大川市]]鐘ヶ江||福岡県大川市道海島||[[1981年]]||
 
|-
 
|諸富橋||[[国道208号]]||トラス橋||佐賀県[[佐賀市]]諸富町大字徳富||佐賀県佐賀市諸富町大字諸富津||1955年||大川橋と同時完成
 
|-
 
|大川橋||国道208号||トラス橋||福岡県大川市向島||佐賀県佐賀市諸富町大字徳富||1955年||諸富橋と同時完成
 
|-
 
|[[筑後川昇開橋]]||||トラス橋||福岡県大川市向島||佐賀県佐賀市諸富町大字為重||[[1935年]]||旧[[佐賀線]]鉄道橋<br/>歩行者専用橋
 
|-
 
|新田大橋||[[福岡県道・佐賀県道18号大牟田川副線|県道18号]]||桁橋||福岡県大川市新田||福岡県大川市大野島||1973年||筑後川最下流
 
|}
 
 
 
==== 鉄道橋 ====
 
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small;"
 
|-
 
!橋梁
 
!路線
 
!型式
 
!左岸最寄駅
 
!右岸最寄駅
 
!完成年
 
!備考
 
|-
 
|JR久大本線鉄道橋||[[久大本線|JR久大本線]]||[[トラス橋]]||[[筑後大石駅]]||[[夜明駅]]||[[1931年]]||
 
|-
 
|西鉄天神大牟田線鉄道橋||[[西鉄天神大牟田線]]||||[[櫛原駅]]||[[宮の陣駅]]||[[1981年]]||
 
|-
 
|JR鹿児島本線鉄道橋||[[鹿児島本線|JR鹿児島本線]]||||[[久留米駅]]||[[肥前旭駅]]||[[1977年]]||
 
|-
 
|九州新幹線鉄道橋||[[九州新幹線]]||||久留米駅||[[新鳥栖駅]]||[[2011年]]||
 
|}
 
 
 
== 漁業 ==
 
[[File:Saga Hayatsue Fishing Port.JPG|thumb|200px|河口付近の分流・早津江川右岸の早津江漁港]]
 
[[File:Wakazu Port Training Wall north part from Shinden-Ohashi.JPG|thumb|200px|若津港導流堤(筑後川デ・レーケ堤)。[[ヨハニス・デ・レーケ]]の設計で1890年竣工。最下流部左岸の若津港(大川市)を行き交う船舶の航路確保と、ガタ土の堆積防止を目的に設けられた。[[土木学会選奨土木遺産]]に認定<ref>「[http://committees.jsce.or.jp/heritage/node/103 若津港導流堤(筑後川デ・レーケ堤)]」、土木学会 選奨土木遺産、2015年7月7日閲覧</ref>。写真は干潮時のもので、左側に桟橋が見える若津港付近には多くの船が停泊している。]]
 
筑後川本流・支流における'''漁業'''であるが、上流部では主に[[アユ]]、[[コイ]]、[[フナ]]、[[ハヤ]]が棲息し、特にアユ漁が盛んである。また玖珠川より下流の広範囲に至るまで[[ウナギ]]漁も行われている。河口部では[[干潟]]が広がっており、干満の差が最大6メートルにも及ぶことから広大な面積を有する。こうした干潟には[[有明海]]固有種の[[ムツゴロウ]]を始め[[シオマネキ]]や[[トビハゼ]]、[[牡蠣|カキ]]、[[アサリ]]、[[ハマグリ]]などの貝類も豊富に採ることが出来る。この他固有種として'''[[エツ]]'''を始め[[アリアケシラウオ]]、[[ハゼクチ]]、[[ヤマノカミ]]なども棲息する。[[1992年]](平成4年)から[[1993年]](平成5年)の調査では51種の魚類が確認されたが、[[2001年]](平成13年)の調査では79種類となり種としては増加傾向にある。しかし一部の魚類では[[絶滅危惧種]]に指定されているものもある。
 
 
 
このうち[[2000年]](平成12年)に発表された[[環境省]][[レッドリスト]]で最も[[絶滅]]の危険性が高いとされる'''絶滅危惧種ⅠA類'''にはアリアケシラウオ・アリアケヒメシラウオ、[[ニッポンバラタナゴ]]、[[ヒナモロコ]]が、'''ⅠB類'''には[[スジシマドジョウ]]、[[タビラクチ]]が指定。筑後川固有種であるエツは'''Ⅱ類'''に指定されている。エツは[[ニシン]]目[[カタクチイワシ]]科の魚で、日本では有明海及び筑後川下流の感潮区域にほぼ限定して棲息している。筑後川特産の魚として珍重されているが、美味であることから乱獲が進んだこと、及び[[1985年]](昭和60年)に[[筑後大堰]]が完成したことによる生息域の変化によってその数が減少し、絶滅の危機に瀕している。筑後川下流域の[[漁業権]]を所有する下筑後川[[漁業協同組合]]や有明海漁業協同組合連合では稚魚の放流などで対応しているが、効果は乏しい。この他ムツゴロウやヤマノカミなどの有明海固有種もⅡ類に指定されている。絶滅したものとしては回遊型の[[カジカ (魚)|カジカ]]、及び[[日本住血吸虫症]]対策の一環で人為的に絶滅させられた非食用の[[ミヤイリガイ]]がある。
 
 
 
こうした筑後川の河川[[生態系]]及び漁業保護に対して、河川行政を担う[[国土交通省]]は漁業協同組合からの要望を受けて[[ダム]]や[[堰]]の'''[[放流 (ダム)#河川維持放流|河川維持放流]]'''を実施して生態系と漁業資源の保護を行っている。[[利根川河口堰]]([[利根川]])や[[長良川河口堰]]([[長良川]])などと同様に、筑後大堰建設に際しては計画発表当初から有明海漁業協同組合連合が[[ノリ]]・エツ漁への重大な影響を懸念して強固な反対運動を展開。[[1979年]](昭和54年)には組合員が筑後大堰建設予定地に大挙して押しかけ、[[水資源開発公団]]関係者を長時間にわたって事務所に「缶詰」にして抗議活動を行うなどした。しかし翌年の筑後川水害を契機に建設容認へ転換するも、有明海沿岸の漁業保全対策を公団や所管する建設省に要望した。
 
 
 
建設省(国土交通省)はこうした漁業協同組合の要望に沿う形で、管理する[[松原ダム]](筑後川)・[[下筌ダム]](津江川)からエツやアユ漁のシーズン、及び渇水によるノリ色落ちの可能性がある場合に漁協の要請があった時に[[放流 (ダム)|放流]]を行い、漁業の円滑化とノリの品質保持を図る方針を取った。この放流事業は筑後大堰のほか、[[九州電力]]が管理する[[電力会社管理ダム|発電用ダム]]である大山川ダム・[[夜明ダム]](筑後川)においても国土交通省の指示により連携した放流が行われ、現在においても漁協の要請によって継続的に実施されている。こうした官民一体の施策によって筑後川の河川生態系と漁業資源保護が図られるようになったが、[[密漁]]対策や[[水質汚濁]]対策なども課題となっており絶滅危惧種の個体数回復までにはまだ遠い状況である。
 
 
 
== 生態系 ==
 
[[file:Sroka Pica Pica II.jpg|thumb|200px|[[カササギ]]。福岡県・佐賀県の筑後川流域にほぼ限定して棲息しており、国の[[天然記念物]]に指定。また佐賀県の[[県鳥]]でもある。]]
 
筑後川流域の生態系について[[植生]]及び[[鳥類]]・[[哺乳類]]・[[両生類]]、[[昆虫]]などの生息状況は建設省が行った「'''河川水辺の国勢調査'''」に詳しい内容が記載されており、「筑後川水系河川整備基本方針」におけるデータはほぼ「国勢調査」より引用している。
 
 
 
植生について、まず森林面積については水系内面積のほぼ半分を占めているが、その70[[パーセント]]は'''[[スギ]]'''を筆頭とした[[針葉樹林]]である。特にスギは[[日田市]]を中心に「'''日田スギ'''」として美林で知名度が高く、伐採されたスギは[[江戸時代]]より水運にて下流に運搬されて現在の[[大川市]]へと送られ、特産である[[箪笥|タンス]]の原材料として今なお利用されている。一方で[[広葉樹林]]や[[竹林]]については面積が少なく、かつ減少傾向にある。河川敷における植生は上流から中流においては主に[[ヤナギ]]とその亜種が分布し、中流域では外来種である[[セイタカアワダチソウ]]や[[セイヨウアブラナ]]も広く分布している。下流では[[抽水植物]]である[[ヨシ]]、[[マコモ]]が、河口では[[塩生植物]]である[[シオクグ]]などが群生している。なお、[[オニコナスビ]]や[[キエビネ]]など一部の種類は絶滅危惧種ⅠB種に指定されている。
 
 
 
鳥類では上流に[[ヤマセミ]]、[[カワセミ]]や[[カワガラス]]といった種が渓流沿いに棲息、中流では[[コアジサシ]]などが、そして下流においては国の[[天然記念物]]である'''[[カササギ]]'''を始め[[オオヨシキリ]]などが棲息している。[[シギ]]、[[チドリ]]、[[カモ]]、[[カモメ]]類も中流から下流域に掛けて多種が棲息する。このうち絶滅危惧種にはⅠA類に[[コシャクシギ]]、ⅠB類に[[クマタカ]]と[[ツクシガモ]]、[[セイタカシギ]]が指定されており、Ⅱ類もコアジサシなど数種類が指定されている。[[2000年]](平成12年)における筑後川流域に棲息する鳥類の数は103種類であった。動物では中流域より上流に掛けて[[キツネ]]が棲息しているほか、上流では[[テン]]や[[イノシシ]]が棲息している。両生類では[[オオサンショウウオ]]も棲息している。
 
 
 
昆虫類では上流部の森林地帯に[[ヒラタクワガタ]]など[[甲虫]]類、[[蝶]]類が分布。[[ニシカワトンボ]]など渓流を好む[[トンボ]]も多い。中流部より下流では[[バッタ]]や[[テントウムシ]]、[[カメムシ]]などごくありふれた昆虫類や[[コガネグモ]]などの[[クモ]]類が多い。筑後川流域における昆虫類は[[2001年]](平成13年)調査で1,017種が確認され、中には[[グンバイトンボ]]、[[ベニイトトンボ]]、[[ツマグロキチョウ]]といった絶滅危惧種Ⅱ類、[[ワスレナグモ]]や[[フクロクヨコバイ]]といった準絶滅危惧種も確認されている。
 
 
 
魚類ではコイ科の外来種の[[ソウギョ]]や[[ハクレン]]が定着していることが知られている。
 
 
 
== 景勝地・観光 ==
 
[[file:Kokonoe Dream Big Suspension Bridge Oita,JAPAN.jpg|thumb|200px|[[九重"夢"大吊橋]]。日本最大の歩行者専用[[吊り橋]]。]]
 
[[file:Suitengu_kurume_city.jpg|thumb|200px|[[久留米市]]にある[[水天宮 (久留米市)|水天宮]]。[[真木保臣]]がここより出て、[[幕末]]の動乱に身を投じた。]]
 
筑後川流域には景勝地や観光スポットが多いが、その大半は上流部に集中している。
 
 
 
上流域は[[阿蘇くじゅう国立公園]]や[[耶馬日田英彦山国定公園]]の指定区域になっている流域も多く、阿蘇熔岩や安山岩を削って形成された[[九酔渓]](玖珠川)や杖立渓谷・夜明渓谷(筑後川)といった[[渓谷]]もある。九酔渓には[[日本の滝百選]]にも選ばれている[[震動の滝]]のほか、[[2006年]](平成18年)には'''[[九重"夢"大吊橋]]'''が完成した。歩行者用[[吊り橋]]としては[[茨城県]]にある[[竜神大吊橋]]([[常陸太田市]])を抜いて日本一の高さを有する吊り橋となり、新たな観光名所となっている。また[[紅葉]]の名所も多く、九酔渓のほか[[松原ダム|梅林湖]]と[[下筌ダム|蜂の巣湖]]は[[人造湖]]と紅葉のコントラストが美しく、梅林湖では[[水上バス]]も運行している。このためシーズンになると[[国道210号]]、[[国道212号]]は[[渋滞]]を起こす。また大分県・福岡県境の夜明ダム湖は[[サクラ]]の名所としても知られ、[[カヌー]]の練習場としても使用される。[[うきは市]]には[[名水百選]]に選ばれた[[清水湧水]]がある。
 
 
 
また筑後川流域は、[[阿蘇山]]の火山活動に伴い噴出した[[温泉]]が数多くあり、多くの湯治客や観光客が訪れる。主な温泉として[[黒川温泉]]、[[杖立温泉]]、[[日田温泉]]、[[原鶴温泉]]、[[筑後川温泉]]が本流沿いに、玖珠川沿いには[[天ヶ瀬温泉]]があり知名度が高く、観光客も多い。このほかにも大小様々な温泉が存在する。こうした温泉と共に発展した名物として筑後川の'''観光遊船'''がある。特に日田温泉、原鶴温泉、筑後川温泉の遊船が知られており、歴史としては[[安土桃山時代]]末期より始まったと伝えられる日田市、三隈川の遊船が最も古い。続いて原鶴の遊船が古く、筑後川温泉の遊船が最も新しい。これらの遊船はそもそも[[鵜飼]]より始まり、毎年5月の[[アユ]]漁解禁に合わせて鵜飼が始まると同時に観光の一環として遊船が繰り出されたものである。日田・原鶴・筑後川の三温泉では晩春から初夏より筑後川に多くの[[屋形船]]が浮かび、涼を求める多くの観光客が乗船する。また、毎年8月には「西日本最大級」とも称される'''[[筑後川花火大会]]'''が[[久留米市]]で開催され、2万発近くの花火が打ち上げられる。
 
 
 
観光地としては先に述べた景勝地・温泉のほか日田市の[[咸宜園]]や[[高塚愛宕地蔵尊]]、[[亀山公園]]が上流域に、「小京都」[[秋月]]や朝倉三連水車([[朝倉市]])、うきは市の百年公園や[[耳納山地]]沿いに広がる[[ぶどう]]園が中流域にある。久留米市には[[幕末]]に[[尊王攘夷運動]]に身を投じ、[[禁門の変]]で[[自刃]]した[[真木保臣]]を輩出した久留米[[水天宮 (久留米市)|水天宮]]や[[高良大社]]、[[石橋文化センター]]などの文化施設がある。佐賀県[[神埼市]]と[[神埼郡]][[吉野ヶ里町]]の境、城原川と田手川沿いには[[吉野ヶ里遺跡]]があり、この地も多くの観光客で賑わう。特産品としては[[久留米絣]]のほか[[小石原焼]]、[[秋月焼]]、[[小鹿田焼]](おんだやき)、[[高取焼]]といった陶芸品、大川市のタンス、[[八女市]]から耳納山地に掛けて栽培される[[八女茶]]などがある。
 
 
 
== 筑後川に関連する人物 ==
 
* [[田中吉政]] - [[筑後国]][[柳河藩]]主。筑後川の[[治水]]を最初に手掛ける。
 
* [[有馬豊氏]] - 筑後国[[久留米藩]]主。安武堤防を建設する。
 
* [[成富茂安]] - [[肥前国]][[佐賀藩]]重臣。千栗堤防建設を始め筑後川の治水・利水事業を手掛ける。[[武田信玄]]、[[加藤清正]]と並ぶ中世日本土木史の先駆者。
 
* 丹羽頼母 - 筑後国久留米藩[[家老]]。大石堰建設の総指揮を執り、袋野堰建設を援助するなど筑後川南岸の[[灌漑]]事業に貢献。
 
* 室原知幸 - [[松原ダム]]・[[下筌ダム]]反対闘争である「[[蜂の巣城紛争]]」のリーダー。[[公共事業]]と[[基本的人権]]の整合性を世に問い、日本の河川行政の転換に大きな影響を与えた。
 
  
 
== 脚注 ==
 
== 脚注 ==
 
{{reflist}}
 
{{reflist}}
 
== 参考文献 ==
 
* [[建設省]]九州地方建設局筑後川工事事務所 「筑後川五十年史」:[[1976年]]
 
* [[国土交通省]][[河川局]] 「筑後川水系河川整備基本方針」:[[2006年]]
 
* 国土交通省河川局 「筑後川水系河川整備計画」:2006年
 
* 建設省河川局監修・[[財団法人]][[ダム技術センター]]編 「日本の多目的ダム」1990年版:[[山海堂 (出版社)|山海堂]]。[[1990年]]
 
* [[社団法人]][[日本河川協会]]監修・国土開発調査会編 「河川便覧」2004年版:[[2004年]]
 
* 財団法人[[日本ダム協会]] 「ダム便覧」
 
* 小西四郎・児玉幸多・竹内理三監修 「日本史総覧 コンパクト版」:[[新人物往来社]]。[[1987年]]
 
  
 
== 関連項目 ==
 
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Chikugo River}}
 
 
* [[有明海]]
 
* [[有明海]]
 
* [[久留米藩]]・[[柳河藩]]・[[佐賀藩]]・[[福岡藩]]
 
* [[久留米藩]]・[[柳河藩]]・[[佐賀藩]]・[[福岡藩]]
* [[昭和28年西日本水害]]
 
* [[下筌ダム#蜂の巣城紛争|蜂の巣城紛争]]
 
* [[日本住血吸虫症]]
 
* [[筑後川 (團伊玖磨)|合唱組曲『筑後川』]]([[團伊玖磨]]作曲)
 
* [[吉野ヶ里遺跡]]
 
* [[筑後川の戦い]]
 
* [[エツ]]
 
* [[嫌われ松子の一生]]
 
* [[福岡県道806号吉井久留米自転車道線]](筑後川河川敷に敷かれた自転車道)
 
* [[ちくご (護衛艦)]] - [[海上自衛隊]]の[[ちくご型護衛艦]]の1番艦。
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://www.qsr.mlit.go.jp/chikugo/index.html 国土交通省九州地方整備局 筑後川河川事務所]
 
* [http://www.water.go.jp/chikugo/chikugo/index.html 独立行政法人水資源機構筑後川局]
 
* [http://www.ktarn.or.jp/CHIKUGO/ 筑後川フェスティバルWEB]
 
* [http://www.pref.fukuoka.lg.jp/uploaded/life/43/43674_misc1.pdf 筑後川水系中流平野左岸整備計画] - [[福岡県]]
 
* [http://www.nicovideo.jp/watch/1229333716 ニコニコ動画 選奨土木遺産に選ばれた筑後川の導流堤]([[佐賀新聞]]提供)
 
  
 
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2018/9/1/ (土) 18:32時点における最新版


筑後川.jpg

筑後川(ちくごがわ)

別称筑紫次郎。九州北部を流れる川。阿蘇外輪山に発する大山川と九重山から流れる玖珠川とを合せた三隈川を上流部とし,柳川市で有明海に注ぐ。全長 143km。九州第1の大河で,利根川の坂東太郎に次ぐものとして筑紫次郎と称される。江戸時代から治水工事が進められ,1887年から近代的改修工事を開始。

1953年大水害に見舞われたが,57年以来ダム建設による治水計画が進み,64年「水資源開発促進法」の開発水系に指定。下筌 (しもうけ) ,松原,夜明などの多目的ダムがある。上流域は日田杉を中心とする林業地で,玖珠,日田の盆地がある。中・下流域は筑紫平野を形成。下流域にはクリーク網が発達し,有明海岸には広大な干拓地造成が進展している。上流部は阿蘇くじゅう国立公園,耶馬日田英彦山国定公園に属する。

脚注

関連項目




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