稲荷寿司

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稲荷寿司(いなりずし)は、甘辛く煮た油揚げの中に、酢飯を詰めた寿司の一種。「お稲荷さん」「お稲荷」「いなり」などとも呼ばれる。

概要

袋状に開いた油揚げを甘くあるいは甘辛く煮付け、寿司飯をそのまま、あるいはニンジンシイタケなどの具材を煮込んで混ぜた寿司飯を詰める[1]一種の印籠寿司[2]である。稲荷神社稲荷神五穀を司る宇迦之御魂神・倉稲魂命を参照)は商売繁盛と共に豊作の神様であり、米を使用した俵型の稲荷寿司につながる。一般的には米俵を模した型(円筒に近い直方体)に仕上げる。

味がしっかり油揚げに染み込むようにひっくり返し煮込み[3]、ひっくり返したまま中身を詰めるもの[4]油揚げの表面を炙ったもの[5]、三角油揚げを用いて三角形に仕上げるものなど、地域によって異なる(後述)。

いわゆる高級な寿司屋ではあまり見られないが、回転寿司を含む庶民的な店やテイクアウト専門の寿司屋では人気の安価な食べ物である。商店街などにある総菜店やスーパー、コンビニエンスストアでも定番商品となっており、家庭で作るなど行楽の弁当などにも良く登場する。

歴史

稲荷寿司に関する最古の史料として江戸時代末期に書かれた『守貞謾稿』があり、

天保末年(旧暦1844年、新暦1844年2月~1845年1月)、江戸にて油揚げ豆腐の一方をさきて袋形にし、木茸干瓢を刻み交へたる飯を納て鮨として売巡る。(中略)なづけて稲荷鮨、或は篠田鮨といい、ともに狐に因ある名にて、野干(狐の異称)は油揚げを好む者故に名とす。最も賤価鮨なり。の名古屋等、従来これあり。江戸も天保前より店売りにはこれあるか。

と記載されている。

『天言筆記』(明治成立)には飯や豆腐ガラ(オカラ)などを詰めてワサビ醤油で食べるとあり、「はなはだ下直(げじき-値段が安いこと)」ともある。『近世商売尽狂歌合』(1852年嘉永5年))の挿絵には、今日ではみられない細長い稲荷ずしを、切り売りする屋台の様子が描かれている。

一説、豊川市の豊川稲荷が発祥地である。[6]

本来、稲荷神は狐ではないが、江戸時代には俗信により同化とみなす向きがあった。これにより、稲荷神の神使であるの好物が油揚げであるという言い伝えから、「稲荷寿司」の名がついた[1]ともされている。

各地の稲荷寿司

地方によっては「きつね寿司」や、狐の鳴き声の擬音語から「こんこん寿司」などとも呼ばれる。稲荷寿司を、煮上げた干瓢などで縛ることもある。

青森県津軽地方
酢飯に紅ショウガとクルミを入れる。酢飯は紅ショウガにより全体がピンクに色付けされている。[7]
埼玉県熊谷市妻沼地区
この地区の稲荷寿司(聖天寿司など)は、通常の倍ほどの長さである。
茨城県笠間市
日本三大稲荷の一つである笠間稲荷神社門前町では、油揚げの皮に蕎麦を詰めたり、寿司飯にクルミで味付けしたりした独特の稲荷寿司が販売されている[8]
東京
伝統的には揚げを色濃く煮染めて使用するが、色の薄い揚げの場合もある[9]
西日本
西日本では酢飯のみで作ることは稀で、通常は椎茸や人参、ゴマなどの具材が入る(五目稲荷ともいう)。東日本の俵型に対し、油揚げを対角線に切った三角形に作るのも特徴である。地域によっては「揚寿司(あげずし)」、また年配者には「しのだ寿司」(「信太鮨」「志乃田寿司」「信田寿司」)と呼ばれることもある。葛の葉を参照。
沖縄
沖縄県には、味付けしない油揚げに酢飯を詰めただけのシンプルな稲荷寿司が存在する。うるま市の丸一食品が発祥とされるが、現在では模倣店が多数存在するほか「沖縄風いなり」という名称で惣菜店やスーパーマーケット、コンビニエンスストア等でも販売されている。
日本国外
ハワイなど、かつて多くの日本人が移民した土地でもポピュラーな食品となっている。また台湾韓国ミクロネシアの島々[10]にも日本統治時代に広まり、台湾では豆皮壽司、韓国ではユブチョバプ(油揚げ寿司)と呼ばれる。

関連

助六寿司

ファイル:助六寿司.JPG
助六寿司(太巻きと稲荷寿司)

稲荷寿司と巻き寿司を組み合わせた折り詰めは助六寿司と呼ばれる。歌舞伎十八番助六由縁江戸桜」の主人公、助六の愛人の名が揚巻であることから、 油げとき寿司の洒落から名付けられている。

セットメニュー

蕎麦うどんとセットにしたメニューが、立ち食いそば・うどん店などにある。

蕎麦稲荷

中身を寿司飯の代わりに蕎麦としたものを「蕎麦稲荷」という(魚介類や米飯を使わないため厳密には「寿司」ではない)。

脚注

関連項目

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