「矢野燿大」の版間の差分

提供: miniwiki
移動先:案内検索
(1版 をインポートしました)
(内容を「{{テンプレート:20180815sk}}」で置換)
(タグ: Replaced)
 
1行目: 1行目:
{{Infobox baseball player
+
{{テンプレート:20180815sk}}
|選手名            = 矢野 燿大
 
|所属球団          = 阪神タイガース
 
|役職              = 二軍監督
 
|背番号            = 88
 
|本名              = 矢野 輝弘
 
|選手写真ファイル名 = HT-Akihiro-Yano2.jpg
 
|写真のコメント    = 阪神での現役捕手時代(阪神甲子園球場)
 
|国籍              = {{JPN}}
 
|出身地            = [[大阪府]][[大阪市]][[東住吉区]](現在の[[平野区]])
 
|生年月日          = {{生年月日と年齢|1968|12|6}}
 
|没年月日          =
 
|身長              = 181
 
|体重              = 81
 
|利き腕            = 右
 
|打席              = 右
 
|守備位置          = [[捕手]]、[[外野手]]
 
|プロ入り年度      = {{NPBドラフト|1990}}
 
|ドラフト順位      = ドラフト2位
 
|初出場            = 1991年8月3日
 
|最終出場          = 2010年5月8日
 
|年俸              =
 
|経歴              =
 
* [[大阪市立桜宮高等学校]]
 
* [[東北福祉大学硬式野球部|東北福祉大学]]
 
* [[中日ドラゴンズ]] (1991 - 1997)
 
* [[阪神タイガース]] (1998 - 2010)
 
|経歴補足題 = 監督・コーチ歴
 
|経歴補足 =
 
* 阪神タイガース (2016 - )
 
|代表チーム        = {{Flagicon|JPN}} [[野球日本代表|日本代表]]
 
|五輪              = [[北京オリンピックにおける野球競技|2008年]]
 
|WBC              =
 
|選出国            =
 
|選出年            =
 
|得票率            =
 
|選出方法          =
 
}}
 
'''矢野 燿大'''(やの あきひろ、本名:'''矢野 輝弘'''/読み同じ、[[1968年]][[12月6日]] - )は、 大阪府[[大阪市]][[東住吉区]](現在の[[平野区]])[[瓜破村|瓜破]]出身の元[[プロ野球選手]]([[捕手]]、[[外野手]])、野球指導者。
 
 
 
[[2010年]]に[[阪神タイガース]]で現役を引退してからは、[[朝日放送]]・[[サンテレビ]]の[[野球解説者]]や[[スポーツニッポン|スポーツニッポン大阪本社]]の[[野球評論家]]として活動。その一方で、[[2013年]][[11月]]からは、[[野球日本代表]]のバッテリーコーチを務めた。[[2016年]]から阪神へ一軍作戦兼バッテリーコーチとして復帰した<ref name="daily151027">[http://www.daily.co.jp/newsflash/tigers/2015/10/27/0008516664.shtml 矢野氏 作戦兼バッテリーコーチに就任]デイリースポーツ 2015年10月27日閲覧</ref>後に、[[2018年]]から二軍監督へ就任。
 
 
 
== 経歴 ==
 
=== プロ入り前 ===
 
小学2年生から地元の[[少年野球]]チームで[[野球]]を始め、当初は[[遊撃手]]だったが、チームの捕手がケガをして以降は捕手を務めた。[[大阪市立瓜破中学校]]では当時野球部がなく、[[バスケットボール]]部に所属していた。
 
 
 
[[大阪市立桜宮高等学校]]へ進学してからは、同級生の[[河本栄得]]・[[高山トモヒロ|高山知浩]]とともに硬式野球部へ入部。矢野は、少年野球時代の活躍を知る当時の監督・[[伊藤義博]]によって、1年生からレギュラーに抜擢された。伊藤が1年後に[[東北福祉大学]]の硬式野球部監督へ転じてからは、投手以外の全ポジションを経験しつつ、1年後輩の[[土井善和]]とバッテリー、高山と[[クリーンナップ]]を組むまでに成長(後述)。4番打者だった3年生の時には、主将も務めた。高校通算で3[[本塁打]]を記録したものの、春・夏とも[[日本の高校野球|甲子園球場]]での全国大会出場を果たせなかった。
 
 
 
桜宮高校を卒業後に、伊藤のいる東北福祉大学へ進学。高校時代と同じく捕手以外のポジションもこなしていた関係で、[[1989年]]には[[三塁手]]として大学日本代表に選出された。第18回[[日米大学野球選手権]]のメンバーにも入っている<ref>[http://www.jubf.net/us/jp_member18.html 第18回日米大学野球選手権日本代表選手] 全日本大学野球連盟公式サイト</ref>。後に阪神でも同僚となる同年齢の[[金本知憲]]は、1年浪人の後に矢野の下級生として同大学に入学している。
 
 
 
[[1990年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1990年のNPBドラフト会議]]では、[[読売ジャイアンツ]]と[[中日ドラゴンズ]]から2位で指名。指名の重複に伴う抽選の結果、中日が独占交渉権を獲得したため、4位で指名された東北福祉大学での同級生・[[吉田太]]と共に入団。この会議では、同大学から矢野・吉田以外にも、内野手の[[宮川一彦]]が[[横浜DeNAベイスターズ|横浜大洋ホエールズ]]、投手の[[小坂勝仁]]が[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]からそれぞれ指名され、同一大学・学年から4人のプロ野球選手が誕生している。もっとも、矢野は当時、レギュラー捕手が高齢で捕手の層も薄かった地元・[[阪神タイガース]]や読売ジャイアンツへの入団を希望。それだけに、2歳年上の[[中村武志]]がレギュラー捕手として全盛期を迎えていた中日から指名されたことには、不安を感じていたという<ref name="nyobo">『阪神の女房』</ref>。後に中日時代の思い出を振り返り「(中村の)存在が大き過ぎて、勝てるとは思えなかった」と、ラジオ番組『[[スポーツにぴたっと。]]』で語っている。
 
 
 
=== プロ入り後 ===
 
=== 中日時代 ===
 
1年目の{{by|1991年}}から一軍出場し、この年は22試合に出場し、プロ初[[本塁打]]も放った。
 
 
 
{{by|1992年}}は72試合に出場し、打率.259と一定の成績を残した。
 
 
 
{{by|1993年}}は出番が減り、24試合の出場に終わってしまった。
 
 
 
{{by|1994年}}も35試合の出場に留まってしまい、打撃面でも成績を残せなかった。
 
 
 
{{by|1995年}}は57試合に出場した。同年オフ、ドラフト1位ルーキーの[[荒木雅博]]に譲る形で背番号を2から38に変更。
 
 
 
{{by|1996年}}[[8月11日]]の対巨人戦では、[[野口茂樹]]と[[バッテリー]]を組んで[[ノーヒットノーラン]]を達成した。また、捕手として一軍に帯同しながら、[[打撃 (野球)|打撃力]]の高さを買われて公式戦に[[外野手]]として出場することもあった。また、巨人が[[メークドラマ#1996年(メークドラマ)|逆転優勝を決めたナゴヤ球場での最終戦]]には、1番・[[中堅手]]で出場。中日の選手としては同球場の公式戦で最後となる本塁打を放った。同年は56試合の出場で、もちろん[[規定打席]]不足ではあったものの、打率.346、7本塁打をマークしたが、本塁打数の割りに打点が19と少なかった。
 
 
 
{{by|1997年}}は中日では最多の83試合に出場したが、前年のような打棒を発揮することはできなかった。オフに[[大豊泰昭]]と共に、[[関川浩一]]・[[久慈照嘉]]との交換[[トレード]]で阪神へ移籍。
 
 
 
=== 阪神時代 ===
 
移籍1年目の{{by|1998年}}は、当時の監督であった[[吉田義男]]にリード面を評価され、[[山田勝彦]]に代わってすぐに正捕手の座を勝ち取る。[[5月26日]]の中日戦で[[川尻哲郎]]をリードして2度目のノーヒットノーランを記録。この年、7月7日の横浜戦でこの日まで無敗で連続セーブ記録を続けていた、当時全盛期(この年のシーズンMVP)の“大魔神”こと[[佐々木主浩]](東北福祉大の1年先輩)から、佐々木のその年唯一の敗戦となる逆転サヨナラヒットを放つ勝負強さを見せている。同年はプロ入り初のシーズン100試合出場を果たし、最終的に打率.211と低調だったが110試合に出場した。
 
 
 
{{by|1999年}}、プロ入り9年目にして初めて[[規定打席]]に到達し、[[打率]]3割を記録した。阪神の捕手で規定打席に達した上での打率3割を記録したのは1979年の[[若菜嘉晴]](打率.301)以来20年ぶりのことであった。
 
 
 
{{by|2000年}}、打率こそ前年を下回ったが完全に正捕手に定着、こちらも若菜以来20年ぶりに2年連続捕手として規定打席に到達した。
 
 
 
{{by|2001年}}、オフ、このシーズン限りで監督を辞任した[[野村克也]]の後任として、かつて自らをトレードで放出した[[星野仙一]]が阪神監督に就任したことで、「また星野監督に捨てられてしまう」と失望したと後に語っている。
 
 
 
{{by|2002年}}、[[4月13日]]横浜戦での本塁上の[[クロスプレイ]]で[[相川亮二]]のタックルを受けて左肩脱臼。その後も骨折で戦線離脱するなど怪我が多く、好調だったチームも矢野の離脱と共に失速した。
 
 
 
{{by|2003年}}、前年オフに[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]]の正捕手だった[[野口寿浩]]がトレードで入団。自身のポジションを危ぶまれたが、大学時代のチームメイトで[[広島東洋カープ]]から移籍してきた金本知憲の影響を受け、強い体作りに着手。シーズンを通してほぼマスクを被り、8番の[[藤本敦士]]とともに「'''恐怖の下位打線'''」と呼ばれた。[[最優秀選手 (野球)|MVP]]は4点差で[[井川慶]]に譲ったものの、チーム[[防御率]]は[[セントラル・リーグ]]トップの3.53、打撃でも打率.328を記録し、初の[[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]]と[[ゴールデングラブ賞]]を獲得。ゴールデングラブ賞は捕手として史上最年長での初受賞であった。同年6月17日の対横浜戦では矢野の打撃直後、一塁走者の[[ジョージ・アリアス]]が若干遅れてスタートしたため、アリアスの生還よりも早く矢野が三塁に到達し、珍しい[[サヨナラゲーム|サヨナラ]][[三塁打]]を記録した。
 
 
 
{{by|2004年}}には36歳にして自身初となる全試合出場を達成。しかし、シーズン終盤には[[捕逸]]などミスも目立った。また、[[辻恭彦]]以来球団史上2人目となる全試合マスクを目指したが、[[代打]]出場のみだった試合が1試合あり達成できなかった。
 
 
 
{{by|2005年}}には[[三振]]を減らすべく[[宮本慎也]]を参考にした打撃フォームに改造。自己最多の19本塁打を放ち、[[盗塁阻止率]]も自己最高記録を残す。自身2度目のベストナインとゴールデングラブ賞、[[2005年の日本シリーズ|日本シリーズ]]敢闘賞を獲得。同年、自身2回目となるFA権を取得し、オフに行使して残留。
 
 
 
{{by|2006年}}には17本塁打を放ち、通算100本塁打を達成。チーム2位の78[[打点]]も評価され、2年連続3度目のベストナインにも選出された。
 
 
 
[[ファイル:Yano Akihiro, Beijing 2008.jpg|thumb|right|北京五輪での矢野(2008年)]]
 
{{by|2007年}}は週に1試合ほど[[野口寿浩]]や[[狩野恵輔]]にスタメンマスクを譲ることが多く、[[セ・パ交流戦]]時に右のふくらはぎを痛めたこともあり、一時登録を抹消。打率.236, 6本塁打と打撃不振に終わった。同年オフには[[北京オリンピックにおける野球競技|北京五輪]]の野球日本代表に招集され、アジア予選で試合の終盤を任される「抑え捕手」として活躍した。
 
 
 
{{by|2008年}}は野口が[[岩田稔]]や[[上園啓史]]ら若手とバッテリーを組み、矢野は主に[[安藤優也]]や[[下柳剛]]、[[福原忍]]らと組む併用でスタート。スタメン出場しなかった試合では終盤に代打で出場し、その後[[リリーフ#抑え|抑え]]の[[藤川球児]]とバッテリーを組むような起用が多く、2年ぶりに[[規定打席]]に到達。夏場には藤川、[[新井貴浩]]と共に北京五輪代表に招集された。
 
 
 
{{by|2009年}}は前年オフに手術した右ひじの回復が遅れたため開幕から二軍での調整が続き、7月に一軍昇格した後もスタメン出場は安藤・下柳が先発する試合に限られた。8月16日には41歳の下柳と組んでプロ野球史上初の40代バッテリーでの勝利を達成したが、シーズン終盤に右足首を骨折して再び戦線離脱し30試合の出場に終わった。打撃では100[[打席]]未満ながら打率3割、[[打率#得点圏打率|得点圏打率]]4割超を記録。オフに心機一転の意味を込め、[[登録名]]を本名の'''矢野輝弘'''から'''矢野燿大'''へ変更した。
 
 
 
{{by|2010年}}は[[城島健司]]の加入もあり、8試合の出場のみだった。6月に右肘の故障で一軍登録を抹消されていたが回復の目処が立たず、9月2日にこのシーズン限りの現役引退を球団に申し入れ、了承された<ref>[http://www.asahi.com/sports/update/0903/OSK201009030014.html 阪神・矢野捕手、今季限りで引退 右ひじ痛治らず] 朝日新聞、2010年9月3日閲覧</ref>。9月25日の中日との二軍最終戦が引退試合となり、同級生の下柳とバッテリーを組み、1イニングを無失点に抑えた。試合後に引退セレモニーが行われ、阪神と古巣・中日の双方の選手から胴上げされた。中日のコーチに就任していた中村武志からも労われ「中日時代はどうしても超えられなかった人なので嬉しい」と語り、「幸せな野球人生を送れた」と20年の現役生活を振り返った<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2010/09/26/07.html 矢野2軍戦で引退セレモニー「幸せな野球人生」] スポーツニッポン、2010年9月26日閲覧</ref>。9月30日には横浜戦終了後の甲子園球場(同年レギュラーシーズンの甲子園最終戦でもあった)でも引退セレモニーが行われた。なお、この試合では9回二死から出場する予定で出場選手登録もされていたが、二死になる前に抑え投手の藤川が[[村田修一]]に逆転3ランを浴びたため、勝利を優先した球団の判断により出場機会はなかった。
 
 
 
=== 現役引退後 ===
 
2010年11月、[[スポーツニッポン]]大阪本社専属野球評論家への就任を発表。2011年1月からは、[[朝日放送]]と[[サンテレビ]]の[[野球解説者]]としても活動を始め、2月13日に[[ABCテレビ]]が関西ローカルで放送した阪神対ヤクルトの練習試合中継で、事実上の解説者デビューを果たした。朝日放送では、現役時代の2004年から、オフシーズンに同局のラジオ番組『[[矢野輝弘のどーんと来い!!]]』(2010年からは『矢野燿大のどーんと来い!!』)のパーソナリティを担当。解説者に転じてからも、『スポーツにぴたっと。』などのラジオ番組で、大阪弁による自由闊達な話術をたびたび展開している。他方、阪神関連の番組・中継に出演する場合には、「声を出せばプレーに良い影響を与える」との考えから選手が練習・試合中にベンチやグラウンドで声を出すことの必要性を述べることがある。
 
 
 
現役引退後も'''矢野燿大'''の名義を使用。『[[おはよう朝日です]]』『[[NEWSゆう+]]』『[[キャスト (テレビ番組)|キャスト]]』(いずれも[[ABCテレビ]])で月曜日のスポーツキャスターを務めるかたわら、同局で制作する野球以外のスポーツ中継([[ゴルフ]]・[[ラグビー]]など)や『[[熱血!タイガース党]]』(サンテレビのプロ野球シーズンオフ番組)へ不定期で出演。ABCテレビの[[全国高等学校野球選手権大会]]中継でも、試合前後に放送される甲子園球場内特設スタジオからの中継に不定期で登場している。
 
 
 
[[2012年]]の日本プロ野球公式戦期間中に開催された[[ロンドンオリンピック (2012年)|ロンドンオリンピック]]では、競技種目に野球が入っていないにもかかわらず、朝日放送を代表して[[岩本計介]][[アナウンサー]]とともに現地取材を敢行。金本が現役引退を発表した同年9月12日には、ABCラジオの『[[ABCフレッシュアップベースボール]]』で甲子園のナイトゲーム・阪神対ヤクルト中継の解説を担当する一方で、試合前に開かれた金本の引退発表記者会見の取材にも携わった。
 
 
 
2011年3月には、[[ベースボール・マガジン社]]から自身初の著書『考える虎』が発売された。同書については、発売直前に[[東日本大震災]]が発生したことを受けて、同書の印税の全額を(大学時代を過ごした仙台市を含む)被災地域への義援金として寄付することを表明している。さらに、同年6月には、初の自叙伝として[[朝日新聞出版]]から『阪神の女房』を出した。2012年にも、3月に[[講談社]]から『捕手目線のリーダー論~六つの要~』を刊行している。
 
 
 
[[2013年]]には、阪神の捕手時代に「同級生バッテリー」を組んだ下柳との共著『気を込める 虎の成功プロセス』を、[[10月9日]]にベースボール・マガジン社から発売。[[2014年]]には、[[11月23日]]開催の第4回[[神戸マラソン]]で、自身初の[[マラソン|フルマラソン]]に挑戦した。[[2004年]][[アテネオリンピック (2004年)|アテネオリンピック]]女子マラソン7位入賞で、阪神タイガースの本拠地・[[兵庫県]][[西宮市]]出身で熱烈な阪神ファンでもある[[坂本直子 (陸上選手)|坂本直子]]([[天満屋]]所属元選手・現アドバイザー)からマラソン指導を受けた結果、3時間55分37秒で完走を果たした。
 
 
 
=== 指導者としての活動 ===
 
解説者時代の2013年には、26歳以下の選手で構成される「野球日本代表」と台湾代表の国際強化試合(同年[[11月8日]]から[[11月10日|同月10日]]に[[台湾]]で開催)では、野球日本代表の新監督・[[小久保裕紀]]の下でバッテリーコーチを務めた<ref>[http://www.japan-baseball.jp/jp/news/press/20131015_1.html 侍ジャパン コーチ決定に関して]野球日本代表 侍ジャパンオフィシャルサイト(2013年10月15日)2015年10月27日閲覧</ref>。背番号は、自身の好きな数字(8)や矢野の妻の誕生日([[8月8日]])にちなんだ'''88'''<ref name="sanspo151028">[http://www.sanspo.com/baseball/news/20151028/tig15102805010008-n1.html 阪神・矢野コーチの背番は『88』「たまたま嫁さんの誕生日」]サンケイスポーツ 2015年10月29日閲覧</ref>。矢野がコーチに就任するのは、プロ・アマを通じてこの時が初めてであった。さらに、2014年11月に日本で開催された[[日米野球2014]]でも、日本代表チームのバッテリーコーチを務めた<ref>[http://www.japan-baseball.jp/jp/team/topteam/2014/nichibei/20141009.html 侍ジャパン「2014 SUZUKI 日米野球」出場選手発表]野球日本代表 侍ジャパンオフィシャルサイト(2014年10月9日)2015年10月27日閲覧</ref>。
 
 
 
{{by|2015年}}には、シーズン開幕前の「GLOBAL BASEBALL MATCH 2015 侍ジャパン 対 欧州代表」で、日本代表のバッテリーコーチを担当<ref>[http://www.japan-baseball.jp/jp/news/press/20150206_1.html 「GLOBAL BASEBALL MATCH 2015 侍ジャパン 対 欧州代表」コーチングスタッフについて] ''野球日本代表 侍ジャパンオフィシャルサイト'' (2015年2月6日) 2016年3月10日閲覧</ref>。シーズン中の[[7月16日]]には、11月開催の[[2015 WBSCプレミア12|第1回WBSCプレミア12]]で日本代表バッテリーコーチを務めることが発表された<ref>[http://www.japan-baseball.jp/jp/news/press/20150716_2.html トップチーム、WBSC世界野球プレミア12へ向けて、コーチ陣を発表!] 野球日本代表 侍ジャパンオフィシャルサイト (2015年7月16日) 2015年8月4日閲覧</ref>。しかし、阪神球団では[[10月27日]]に、矢野との間で一軍作戦兼バッテリーコーチの契約を結んだ。大学および阪神でのチームメイトだった金本の一軍監督就任([[10月17日|同月17日]])を受けての本格的な現場復帰で、背番号は日本代表コーチと同じ'''88'''<ref name=daily151027 /><ref name=sanspo151028 />。ただし、第1回プレミア12の開催期間中は、日本代表コーチとしての活動を優先していた<ref>[http://www.nikkansports.com/baseball/news/1558311.html 阪神矢野コーチが就任会見、金本監督のご意見番襲名]日刊スポーツ 2015年10月27日閲覧</ref>。
 
 
 
阪神コーチ1年目の{{by|2016年}}シーズン当初は、捕手陣を競い合わせながら、二軍生活の長い[[岡崎太一]]に一軍開幕戦のスタメンマスクを初めて任せた。その後は、解説者時代から注目してきた[[原口文仁]]や、新人の[[坂本誠志郎]]を一軍に抜擢。故障の影響で[[育成選手制度 (日本プロ野球)|育成選手契約]]を結んでいた原口については、4月の支配下再登録を経て、クリーンアップの一角を担う正捕手格の主力選手に育て上げた。{{by|2017年}}には、その原口を事実上一塁手へ転向させる一方で、2015年の正捕手だった[[梅野隆太郎]]に公式戦の開幕から多くの試合でスタメンマスクを任せている。
 
 
 
2017年4月4日の対ヤクルト戦(京セラドーム大阪)では、5回表に阪神の先発投手・[[藤浪晋太郎]]からヤクルトの[[畠山和洋]]への死球をきっかけに生じた乱闘で、ヤクルトの[[ウラディミール・バレンティン]]と共に審判団から退場を宣告。矢野にとってはコーチ就任後初の退場処分で、翌5日には、バレンティンと共に[[NPB]]から厳重注意と制裁金を科された(矢野の制裁金は15万円)<ref>[http://www.hochi.co.jp/baseball/npb/20170405-OHT1T50129.html 乱闘で退場のバレンティン、矢野コーチにNPBが処分]スポーツ報知 2017年4月9日閲覧</ref>。藤浪を守る目的でグラウンド上に出たところ、畠山の死球に激昂したバレンティンに突き倒されたため、ジャンピングニーパッド(跳び蹴り)で応戦したことによる<ref>[http://www.nikkansports.com/baseball/news/1802674.html 阪神矢野コーチ、バレに蹴り「一番は晋太郎を守る」]日刊スポーツ 2017年4月9日閲覧</ref><ref>[http://www.sanspo.com/baseball/news/20170404/tig17040420020017-n1.html ヤクルト・バレが矢野コーチを突き倒して退場 ジャンピングニーで“応戦”した矢野コーチも退場]サンケイスポーツ 2017年4月9日閲覧</ref>。
 
 
 
2018年からは、[[掛布雅之]]の後任で二軍監督に就任。監督として初めて臨んだ2018年の[[ウエスタン・リーグ]]公式戦では、若手選手に積極的な走塁の意識を植え付ける一方で、チームが勝利した試合では勝利へ貢献した選手に[[ヒーローインタビュー]]を必ず体験させている。実際に、チームの総盗塁数は、前半戦の途中(6月末)時点で100の大台を突破。前年のシーズンを最下位で終えたチームを、首位争いの先頭に導いている。
 
 
 
== 人物 ==
 
{{スポーツ選手の出典明記|人物像|section=1|date=2015年2月}}
 
愛称は「'''テル'''」、「アキちゃん」、「矢野プー」など。
 
 
 
読書家で、愛読書は「[[夢をかなえるゾウ]]」([[水野敬也]])など。大のスイーツ(甘い菓子)好きでもある。
 
 
 
[[創価学会]]員としても名高い。
 
 
 
阪神の選手時代には、「優しい」と形容する解説者が多い一方で、「阪神で一番短気」と言われることもあった。事実、年に一度のペースで[[乱闘]]寸前になることがあり、[[投手]]を叱咤する姿や審判の判定に不服を示す仕草が見られることもあった。前述した2017年の退場処分以外にも、阪神捕手時代の1998年と2006年に、審判への暴力行為で退場処分を受けている。
 
 
 
ドラフト会議では、司会者だった[[伊東一雄]]から名前を「'''てるひろ'''」と読み間違えられ、当時中日の監督であった[[星野仙一]]から「テル」と呼ばれるようになった。中日では星野から打撃力を評価されていたが、入団4年目({{by|1994年}})まで一軍で目立った実績を残せなかった。しかし、東北福祉大から一緒に入団した[[吉田太]]が、その年のシーズン終了後に戦力外通告を受けてひっそりと退団したことから一念発起。「自分が辞める時に後悔だけはしたくない」という危機感を抱きながら、正捕手の中村のリードを本格的に研究するなど、自ら率先して練習に励むようになった。さらに、外野手として公式戦に出場する機会を重ねるうちに、捕手というポジションへの思いを強めた。「ボールがいつ飛んでくるか分からない外野手では、一球ごとにサインを考えたり投手にボールを返したりする捕手に比べて、どこか試合に参加してないような気持ちになる」という吉田の退団をきっかけに日頃からの準備の重要性に気付いたことが、捕手としての転機になった<ref name="nyobo" />。解説者に転じてからは、このような下積みの経験を基に、(捕手を含めた)若手野手のプレーや野球へ取り組む姿勢に苦言を呈することが多い。
 
 
 
技術的にはストレートで追い込んで最後に変化球というタイプの捕手であったと[[山本昌]]からは評されている<ref>ベースボール・マガジン社『133キロ怪速球』(山本昌、2009年) ISBN 978-4583101699 p40-41</ref>。
 
 
 
中日から阪神へのトレードが決まった際、当時中日の監督であった星野からは何も言葉を掛けてもらえなかったといい、「絶対に星野さんを見返す。中日戦だけには絶対、負けへん」と中日相手には多く[[死球]]を要求していた。なお、星野の阪神監督就任後は、気まずい素振りも見せずに星野がよく話しかけてきてくれたため、次第に「星野さんに認められたい。認められるために頑張る」と気持ちが変わっていった<ref>{{Cite news|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2018/01/13/kiji/20180112s00001173358000c.html|title=【星野の記憶】矢野燿大氏“無言トレード”で遺恨「見返したい」が「認められたい」に|date=2018-01-13|newspaper=Sponichi Annex|accessate=2018-01-13}}</ref>。
 
 
 
阪神で現役を引退してからは、野球解説者・評論家として活動するかたわら、現役時代からの趣味であるゴルフ関連の番組にもたびたび出演。朝日放送が毎年11月に主催する[[ABCチャンピオンシップゴルフトーナメント|マイナビABCチャンピオンシップゴルフトーナメント]]では、[[ABCテレビ]]の中継でラウンドリポーターを務めたり、アマチュアのゴルファーとして「マンデートーナメント」に参加したりしている([[#関連情報]]に詳述)。しかし、他のゴルフトーナメントへの出場に向けた練習中に左肘を痛めたことから、2014年5月20日に患部を手術。手術の直後には、左腕を大きな[[ギプス]]で固定しながら、同局のレギュラー番組への出演を続けている<ref>[http://yano39.jp/blog/2014/05/21_1765.php 矢野燿大オフィシャルブログ2014年5月21日付記事「実は!」]</ref>。
 
 
 
阪神時代、打てそうで打てなかった(苦手にしていた)投手に、元[[中日ドラゴンズ|中日]]の[[小笠原孝]]の名前を挙げていた。
 
 
 
== 選手・著名人との交流 ==
 
{{出典の明記|date=2015年2月|section=1}}
 
桜宮高校の野球部では、高山が3番、矢野が4番を打っていた。高山の前に走者が出ると勝負強い矢野に打席が回るよう、ほぼ毎回高山に[[バント]]のサインが出されたと高山が語っている。阪神に在籍していた2005年のシーズンオフには、リーグ優勝記念旅行の模様を放送する特別番組で、高山と2人で漫才に挑んだ。ちなみに、高山からは「アキちゃん」と呼ばれている。
 
 
 
阪神での現役時代には、当時の主力投手陣(藤川、福原、安藤、下柳など)からは絶大な信頼を受けていた。[[ニューヨーク・ヤンキース]]へ移籍した井川からも「ヤンキースに来て下さい」と言われたことがある。巨人時代の[[上原浩治]]からも、オールスターでバッテリーを組んだ際にブログで「阪神で矢野さんがみんなに好かれる訳がわかった。すごく話しやすいいい人」と評され、2007年12月のアジア予選韓国戦でバッテリーを組み9回裏を三者凡退で抑え勝利した際は、ウイニングボールを上原から直接手渡され、自らのブログで「一生の宝物」と書いた。
 
 
 
阪神時代のチームメイトで[[奈良県]]出身の[[関本賢太郎]]とも仲が良く、矢野の現役時代には、「必死のパッチ」(「必死で頑張った」という意味の大阪弁)という発言をめぐる丁々発止のやり取りが人気を博した。矢野は、「自分がヒーローインタビューで最初に発した『必死のパッチ』を、翌日のヒーローインタビューで関本が勝手に真似たせいで、いつの間にか球団公認で関本の『必死のパッチ』グッズまで作られた」と主張。ヒーローインタビューや出演番組では、関本に向けて冗談交じりで「『必死のパッチ』を返せ」と迫る一幕もあった。実際には、関本が「必死のパッチ」を使用することを容認しており、矢野が現役を退いた後は、現役後期の関本にとどまらず、自身より後で阪神に入団した[[西岡剛 (内野手)|西岡剛]]・[[藤浪晋太郎]]・[[原口文仁]]もヒーローインタビューで使用している。その一方で、『[[おはよう朝日です]]』では「“必死のパッチ”を(関本に)貸した覚えはない」と応酬している(その前日の試合で、関本はヒーローインタビューにて西岡に対して「“必死のパッチ”は矢野さんに借りている」と発言したため)。また、『[[キャスト (テレビ番組)|キャスト]]』のスポーツキャスターを務めていた時期には、自身が担当するコーナー「ヤノスポ」で「必死のパッチ賞」を創設。公式ブログで阪神のコーチ就任を報告する際にも、「必死のパッチで頑張って来ます!」という言葉で記事を結んでいる<ref>[http://ameblo.jp/39yano-akihiro/entry-12089121039.html コーチ]矢野燿大オフィシャルブログ(2015年10月28日)同月29日閲覧</ref>。
 
 
 
また、阪神での現役時代には、オフシーズンを中心に関本や[[福原忍]]と趣味の[[釣り]]に興じていた。日本を代表する[[バスフィッシング・プロフェッショナル|バスプロ]]の[[今江克隆]]とも親しく、今江が経営している会社[[IMAKATSU]]の工場へ足を運んでルアーを作るほどである。なお、そのルアーは、同社ホームページ内のブログなどでたびたび紹介。解説者時代には、スポーツキャスターや[[ラジオパーソナリティ]]として、野球・釣り以外のスポーツも積極的に取材していた。
 
 
 
矢野のファンであることを公言している[[声優]]の[[水樹奈々]]が2006年1月21日に行った[[日本武道館]]ライブ([[NANA MIZUKI LIVEDOM-BIRTH- at BUDOKAN]])でビデオメッセージとサインボールを送り、2009年に水樹がナビゲーターとして出演していた[[GAORA]]の『[[ぷちトラ!]]』にて、お礼としてそのライブのDVDをプレゼントされた。また、矢野の地元・関西では、[[ラジオパーソナリティ]]の[[桜井一枝]]も矢野公認のファンとして知られている。
 
 
 
==プロデュース・社会貢献活動==
 
{{出典の明記|date=2015年2月|section=1}}
 
2006年から2008年シーズンには、本人プロデュースのオリジナルスイーツ「Yano Chou(矢野シュー)」を甲子園球場の内野席売店で販売。夏季には、シューの中身をアイスに変えていた。2008年9月から現役最終年の2010年シーズンまでは、プロデュースメニューの第2弾「矢野輝弘(燿大)のヘルシーミックスジュース」と、繰り返し使える専用の[[タンブラー]]を同様の方法で販売。2006年8月末には、公式サイト限定でオリジナルTシャツを発売した。解説者時代にも、2014年に「[http://hanshintigers.jp/news/topics/info_3380.html 矢野燿大のタイガースワッフルボウル]」、2015年に「[http://hanshintigers.jp/news/topics/info_3874.html 矢野の中華風牛肉弁当]」を期間限定で発売している。
 
 
 
2003年からは、[[筋ジストロフィー]]を患うファンとも交流。現役最終年の2010年には、筋ジストロフィー患者や[[児童養護施設]]で暮らす子供たちへの支援を目的に、社会福祉法人・大阪府社会福祉協議会からの協力で「[http://www.yano39.jp/fund/ 39(サンキュウ)矢野基金]」を設立した。
 
 
 
2011年3月には、[[あきんどスシロー]]の「応援部長」に就任。同月9日から31日までは、売上の一部を「39矢野基金」への寄付に充てることを目的に、自身のプロデュースによる2種類の[[寿司]]メニュー「必死のパッチまき」を近畿2府4県および徳島県の店舗(全103店)で発売していた<ref>[http://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20110308-746120.html 阪神OB矢野氏がスシロー応援部長に就任]日刊スポーツ(2011年3月8日)2015年10月29日閲覧</ref>。同様の趣旨で、同年5月には「[http://yano39.jp/blog/2011/04/29_628.php 39矢野ネクタイ]」、2012年3月には「[http://yano39.jp/blog/2012/03/26_954.php Tシャツ]」を公式サイトで販売している。
 
 
 
2015年には、「プロ野球の世界で、20年にわたり一線で活躍してきた矢野燿大だからこそできる恩返し」と称して、矢野が関西各地の[[少年野球|少年野球チーム]]を直々に指導する「39ベースボールプロジェクト」を4月から実施。軟式・硬式を問わず、指導を希望するチームを[http://www.yano39.jp/39baseball/ 公式サイト]で募った後に、抽選で決まったチームを月に2回のペースで訪れていた。
 
 
 
ちなみに関本は、2015年の現役引退表明を機に、矢野と同じく[[スポーツビズ]]との間でマネジメント契約を締結。引退後の2016年からは、矢野と入れ替わる格好で朝日放送の野球解説者・スポーツニッポンの野球評論家を務めるほか、矢野から「39ベースボールプロジェクト」を引き継いでいる。
 
 
 
== 詳細情報 ==
 
=== 年度別打撃成績 ===
 
{|{{年度別打撃成績|リーグ=日本プロ野球}}
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|1991}}
 
|rowspan="7" style="text-align:center;white-space:nowrap;"|[[中日ドラゴンズ|中日]]
 
|22||30||27||2||3||0||0||1||6||4||0||0||1||0||2||0||0||15||0||.111||.172||.222||.395
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|1992}}
 
|72||118||108||10||28||6||0||0||34||8||0||1||0||1||8||0||1||20||3||.259||.314||.315||.628
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|1993}}
 
|24||39||31||5||10||0||0||1||13||3||0||0||1||0||6||2||1||4||1||.323||.447||.419||.867
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|1994}}
 
|35||53||46||5||10||2||0||1||15||2||0||1||3||0||3||1||1||9||2||.217||.280||.326||.606
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|1995}}
 
|57||123||115||14||28||2||2||1||37||5||1||0||0||0||7||1||1||31||5||.243||.293||.322||.614
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|1996}}
 
|56||124||104||26||36||3||0||7||60||19||1||0||2||2||13||0||3||16||2||.346||.426||.577||1.003
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|1997}}
 
|83||244||214||24||54||8||0||3||71||19||1||0||5||0||22||1||3||32||3||.252||.331||.332||.662
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|1998}}
 
|rowspan="13" style="text-align:center;white-space:nowrap;"|[[阪神タイガース|阪神]]
 
|110||340||285||27||60||18||0||3||87||20||1||2||24||0||27||3||4||63||9||.211||.288||.305||.593
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|1999}}
 
|113||418||369||39||112||13||2||3||138||27||5||2||6||2||36||2||5||74||14||.304||.371||.374||.745
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|2000}}
 
|114||428||376||41||101||12||1||5||130||26||1||2||9||4||35||4||4||87||9||.269||.334||.346||.680
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|2001}}
 
|119||364||327||26||79||10||1||8||115||30||1||1||5||3||28||0||1||72||10||.242||.301||.352||.653
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|2002}}
 
|66||253||221||31||71||18||2||6||111||27||1||1||5||0||24||4||3||51||6||.321||.395||.502||.897
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|2003}}
 
|126||484||433||65||142||25||5||14||219||79||1||0||4||1||38||6||8||84||8||.328||.392||.506||.897
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|2004}}
 
|'''138'''||551||502||38||143||23||3||11||205||65||1||3||4||3||35||7||7||110||19||.285||.338||.408||.747
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|2005}}
 
|138||550||499||53||135||26||0||19||218||71||1||1||9||2||32||1||8||113||12||.271||.323||.437||.760
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|2006}}
 
|133||501||453||42||124||20||3||17||201||78||0||0||8||5||32||1||3||94||12||.274||.323||.444||.766
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|2007}}
 
|106||401||356||25||84||14||1||6||118||42||0||0||7||1||34||0||3||92||9||.236||.307||.331||.639
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|2008}}
 
|119||404||371||20||102||17||1||4||133||36||0||1||10||5||16||1||2||100||13||.275||.305||.358||.663
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|2009}}
 
|30||83||75||9||23||1||1||2||32||8||1||0||0||0||8||1||0||17||1||.307||.373||.427||.800
 
|-
 
|style="text-align:center;"|{{by2|2010}}
 
|8||9||9||1||2||0||0||0||2||1||0||0||0||0||0||0||0||5||0||.222||.222||.222||.444
 
|-
 
!colspan="2" style="white-space:nowrap;"|[[日本プロ野球|NPB]]:20年
 
|1669||5517||4921||503||1347||218||22||112||1945||570||16||15||103||29||406||35||58||1089||138||.274||.335||.395||.730
 
|}
 
 
 
=== 年度別守備成績 ===
 
{| class="wikitable" style="text-align: right; font-size: small;"
 
!rowspan="2"|年<br />度!!rowspan="2"|球<br />団!!colspan="11"|[[捕手]]!!colspan="6"|[[外野手|外野]]
 
|-style="line-height:1.25em;"
 
!試<br /><br />合!![[刺殺|刺<br /><br />殺]]!![[補殺|補<br /><br />殺]]!![[失策|失<br /><br />策]]!![[併殺|併<br /><br />殺]]!![[捕逸|捕<br /><br />逸]]!![[守備率|守<br />備<br />率]]!!企<br />図<br />数!!許<br />盗<br />塁!![[盗塁刺|盗<br />塁<br />刺]]!![[盗塁阻止率|阻<br />止<br />率]]!!試<br /><br />合!!刺<br /><br />殺!!補<br /><br />殺!!失<br /><br />策!!併<br /><br />殺!!守<br />備<br />率
 
|-
 
|style="text-align:center;"|1991
 
|rowspan="7" style="text-align:center; white-space:nowrap;"|中日
 
|14||34||3||0||0||2||1.000||3||0||3||1.000||colspan="6" style="text-align:center;"|-
 
|-
 
|style="text-align:center;"|1992
 
|65||210||16||2||2||2||.991||22||18||4||.182||colspan="6" style="text-align:center;"|-
 
|-
 
|style="text-align:center;"|1993
 
|21||56||7||0||1||3||1.000||8||5||3||.375||1||0||0||0||0||----
 
|-
 
|style="text-align:center;"|1994
 
|26||76||7||0||1||1||1.000||8||5||3||.375||colspan="6" style="text-align:center;"|-
 
|-
 
|style="text-align:center;"|1995
 
|41||191||21||1||3||0||.995||16||10||6||.375||colspan="6" style="text-align:center;"|-
 
|-
 
|style="text-align:center;"|1996
 
|38||157||13||1||0||3||.994||13||9||4||.308||12||14||1||1||0||.938
 
|-
 
|style="text-align:center;"|1997
 
|60||307||28||2||3||4||.994||41||34||7||.171||22||34||0||0||0||1.000
 
|-
 
|style="text-align:center;"|1998
 
|rowspan="13" style="text-align:center; white-space:nowrap;"|阪神
 
|109||521||49||2||8||7||.997||80||54||26||.325||colspan="6" style="text-align:center;"|-
 
|-
 
|style="text-align:center;"|1999
 
|111||693||52||5||8||6||.993||79||53||26||.329||colspan="6" style="text-align:center;"|-
 
|-
 
|style="text-align:center;"|2000
 
|113||752||62||6||9||6||.993||69||45||24||.348||colspan="6" style="text-align:center;"|-
 
|-
 
|style="text-align:center;"|2001
 
|108||556||72||3||14||2||.995||81||49||32||.395||4||4||0||0||0||1.000
 
|-
 
|style="text-align:center;"|2002
 
|66||528||30||1||7||4||.998||31||19||12||.387||colspan="6" style="text-align:center;"|-
 
|-
 
|style="text-align:center;"|'''2003'''
 
|123||932||66||2||11||14||.998||100||65||35||.350||colspan="6" style="text-align:center;"|-
 
|-
 
|style="text-align:center;"|2004
 
|137||1126||56||3||16||5||.997||87||57||30||.345||colspan="6" style="text-align:center;"|-
 
|-
 
|style="text-align:center;"|'''2005'''
 
|138||1130||76||3||11||8||.998||76||43||33||.434||colspan="6" style="text-align:center;"|-
 
|-
 
|style="text-align:center;"|2006
 
|132||1001||75||6||7||5||.994||67||39||28||.418||colspan="6" style="text-align:center;"|-
 
|-
 
|style="text-align:center;"|2007
 
|101||720||56||3||8||3||.996||67||47||20||.299||colspan="6" style="text-align:center;"|-
 
|-
 
|style="text-align:center;"|2008
 
|116||748||63||2||7||4||.998||71||45||26||.366||colspan="6" style="text-align:center;"|-
 
|-
 
|style="text-align:center;"|2009
 
|26||144||14||2||1||0||.988|| 18||13||5||.278||colspan="6" style="text-align:center;"|-
 
|-
 
|style="text-align:center;"|2010
 
|1||0||0||0||0||0||.---|| 0||0||0||.---||colspan="6" style="text-align:center;"|-
 
|-
 
!colspan="2"|通算
 
|1546||9882||766||44||117||79||.996||937||610||327||.349||39||52||1||1||0||.981
 
|}
 
* '''太字年'''は[[ゴールデングラブ賞]]受賞年
 
 
 
=== 表彰 ===
 
* [[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]]:3回 (2003年、2005年、2006年)
 
* [[ゴールデングラブ賞]]:2回 (2003年、2005年)
 
* [[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]敢闘選手賞:1回 ([[2005年の日本シリーズ|2005年]])
 
* [[最優秀バッテリー賞]]:2回 (2003年、投手:[[井川慶]]、2005年、投手:[[藤川球児]])
 
* 優秀[[JCB・MEP賞]]:1回 (2003年)
 
* [[ヤナセ]]・阪神タイガースMVP賞:1回 (2003年)<ref>{{Cite news|url=http://www.sanspo.com/baseball/photos/20151212/tig15121205030006-p5.html|title=2台目ベンツゲット!虎・福留「来年優勝」してEクラス頂く(5)ヤナセ・阪神タイガースMVP賞歴代受賞者|newspaper=[[サンケイスポーツ|SANSPO.COM]]|publisher=[[産業経済新聞社]]|date=2015-12-12|accessdate=2018-03-01}}</ref>
 
* [[サンケイスポーツ|サンスポ]]MVP大賞:1回 (2003年)<ref>{{cite news|url=http://www.sanspo.com/baseball/photos/20161123/tig16112305040011-p6.html|title=【ファン交歓会一問一答】原口、関西弁の女性「いいと思います」(画像6)歴代サンスポMVP大賞、新人賞の受賞者|newspaper=[[サンケイスポーツ|SANSPO.COM]]|publisher=[[産業経済新聞社]]|date=2016-11-23|accessdate=2017-09-08}}</ref>
 
* [[ベスト・ファーザー イエローリボン賞#ベスト・プラウド・ファーザー賞|ベスト・ファーザー in 関西]] (2007年)
 
 
 
=== 記録 ===
 
; 初記録
 
* 初出場:1991年8月3日、対[[阪神タイガース]]19回戦([[ナゴヤ球場]])、7回表に[[中村武志]]に代わり[[捕手]]として出場
 
* 初打席・初三振:同上、7回裏に[[中田良弘]]から
 
* 初安打・初本塁打・初打点:1991年8月26日、対阪神タイガース23回戦([[阪神甲子園球場]])、9回表に[[山本昌|山本昌広]]の代打で出場、[[野田浩司]]から左越2ラン
 
* 初先発出場:1991年9月18日、対阪神タイガース24回戦(阪神甲子園球場)、8番・捕手として先発出場
 
; 節目の記録
 
* 1000試合出場:2004年4月4日、対[[読売ジャイアンツ]]3回戦([[東京ドーム]])、8番・捕手で先発出場 ※史上390人目
 
* 1000本安打:2005年9月15日、対読売ジャイアンツ20回戦(東京ドーム)、7回表に[[酒井純也]]から右越ソロ ※史上238人目
 
* 100本塁打:2006年10月4日、対[[東京ヤクルトスワローズ]]21回戦([[明治神宮野球場]])、2回表に[[石井一久]]から左越3ラン ※史上247人目
 
* 1500試合出場:2007年9月16日、対[[中日ドラゴンズ]]22回戦(阪神甲子園球場)、7番・捕手として先発出場 ※史上155人目
 
* 1000三振:2008年5月23日、対[[福岡ソフトバンクホークス]]1回戦([[福岡ドーム|福岡Yahoo! JAPANドーム]])、2回表に[[大隣憲司]]から ※史上41人目
 
; その他の記録
 
* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場:7回 (1999年、2002年 - 2006年、2008年)
 
* 通算サヨナラ安打10本(阪神タイガース球団タイ記録)
 
 
 
=== 背番号 ===
 
* '''2''' (1991年 - 1995年)
 
* '''38''' (1996年 - 1997年)
 
* '''39''' (1998年 - 2010年)
 
* '''88''' (2016年 - )
 
 
 
=== 登録名 ===
 
* '''矢野 輝弘''' (やの あきひろ、1991年 - 2009年)
 
* '''矢野 燿大''' (やの あきひろ、2010年)
 
 
 
=== 登場曲 ===
 
* 『[[マイ・シャローナ]]』 / [[ザ・ナック]]<ref>[[月刊タイガース]]2000年5月号45p</ref>
 
 
 
=== 指導歴 ===
 
* [[日米野球2014]]
 
* [[2015 WBSCプレミア12 日本代表]]
 
 
 
== 関連情報 ==
 
=== 解説者時代の出演番組 ===
 
2011年から2015年まで、朝日放送の解説者として、テレビ・ラジオで放送されるプロ野球中継(主に阪神戦)に登場。同局からの出向扱いで、『[[サンテレビボックス席]]』の阪神戦中継にも解説者として出演している。さらに中日OBでもあることから、[[CBCラジオ]]の中日対阪神戦中継(ABCラジオと相互ネットの場合)に出演することがあった。
 
 
 
====レギュラー番組====
 
* [[虎バン]]([[ABCテレビ]])- 阪神での現役時代から、インタビューやドキュメンタリー企画などにたびたび登場。2011年以降は、レギュラーコメンテーターとして出演。
 
* [[おはよう朝日です]]月曜日(ABCテレビ)- 2011年3月7日放送分から、スポーツキャスターとしてレギュラー出演。
 
* [[キャスト (テレビ番組)|キャスト]](ABCテレビ)- 『NEWSゆう+』の後番組で、2011年10月の放送開始から2015年3月まで、月曜日に編成されていた「ヤノスポ」でキャスターを担当。番組リニューアルで同コーナーが終了した2015年4月以降は、阪神時代のチームメイトだった下柳や[[桧山進次郎]]と交互に、水曜日の「週刊 浦川スポーツ」へ出演している。
 
* [[武田和歌子のぴたっと。|スポーツにぴたっと。]](ABCラジオ、オフシーズン番組)- 現役引退後初のレギュラー番組で、2010年度の途中(2011年1月5日放送分)から水曜日に出演(2011年度も続投)。2012年1月6日からは金曜日にも登場していた。2012年度は金曜日、『[[武田和歌子のぴたっと。]]』第2部として放送される2013年度以降は火曜日にのみ出演。
 
* [[金谷多一郎・矢野燿大の考えるゴルフ]]([[スカイ・エー|Sky・A sports+]]、2011年~)
 
* [[虎魂]](sky・A sports+、2011年10月から月1回のペースで放送)
 
* [[NEWSゆう+]]月曜日(ABCテレビ) - 2011年3月28日放送分から番組終了の同年9月まで、スポーツコーナー「週刊YANO+」にレギュラー出演。
 
* [[見知らぬ関西新発見!みしらん]](ABCテレビ) - 2013年1月5日放送分からスポーツコーナー「スポーツみしらん」を新設したことを機に、スポーツキャスターとして同年9月21日の最終回まで出演。
 
 
 
====不定期放送・出演====
 
* [[矢野輝弘のどーんと来い!!]](ABCラジオ、2004年度から、オフシーズンのレギュラー番組→スペシャル番組)- 阪神での現役時代からメインパーソナリティを担当。2009年度以降は『矢野燿大のどーんと来い!!』というタイトルで放送。
 
* [[矢野燿大の「アスリートの舞台裏」]](ABCラジオ)- 2011年5月16日から月1回のペースで放送。メインパーソナリティを担当。
 
* [[熱血!タイガース党]]([[サンテレビ]])- 阪神での現役時代にゲストやVTRで出演。2011年度以降はABC野球解説者として不定期出演。
 
* [[CBCドラゴンズナイター]]([[CBCラジオ]]) - 中日主管の阪神戦(ABCラジオが同時ネットで放送する火曜 - 木曜の試合)中継にのみ、ゲスト解説者として出演。
 
* [[全国高等学校野球選手権大会中継]](ABCテレビ)- 2011年から、試合前後に甲子園スタジオから放送される中継に、ゲストとして随時出演。ただし、試合の解説まで担当するわけではない。
 
* [[ABCチャンピオンシップゴルフトーナメント|マイナビABCチャンピオンシップゴルフトーナメント]](ABCテレビ制作、[[All-nippon News Network|テレビ朝日系列]]で放送)- 2011年以降のテレビ中継で、金谷とともにラウンドリポートを担当。2013年には、アマチュアのゴルフプレイヤーとして、本選への出場を目指して「マンデートーナメント(主催者推薦の予選会)」に初めて挑戦した(結果は6オーバーの59位で本選出場ならず)<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/10/29/kiji/K20131029006903970.html 元阪神矢野氏 ゴルフツアー本戦出場ならずも「ホッとしました」] (『[[スポーツニッポン]]』[[2013年]][[10月29日]]付記事)</ref>。
 
 
 
以下はゲストで出演した主な番組。
 
* [[報道ステーション SUNDAY]]([[テレビ朝日]]) - 2011年11月13日放送分
 
* [[GET SPORTS]](テレビ朝日) - 2011年11月13日深夜(14日未明)放送分
 
* ABC創立60周年記念特別番組 スポーツのキセキは、いつまでも(ABCテレビ、2011年12月30日)
 
* [[ジャパンラグビートップリーグ]]・[[神戸製鋼コベルコスティーラーズ]]対[[ヤマハ発動機ジュビロ]]戦中継(ABCテレビ)- 2012年1月29日深夜に録画で放送
 
* [[ガラスの地球を救え|ガラスの地球を救えスペシャル いま見直そう!ニッポンの心 関西のチカラ]](ABCテレビ、2012年4月30日)生放送の全編にゲストで出演したほか、[[兵動大樹]]([[矢野・兵動]])とともに、「新 矢野・兵動」と名乗りながら甲子園球場の環境保全施策を取材。
 
* [[パネルクイズ アタック25]](ABCテレビ制作・テレビ朝日系列で放送) 
 
** オープニングクイズ出題者としてVTR出演(2013年3月3日放送分)
 
** 2000回記念番組対抗芸能人大会に[[古田敦也]]と共に「熱闘甲子園&スーパーベースボールチーム」として回答者出演(2015年7月19日放送分)
 
* [[探偵!ナイトスクープ]](ABCテレビ) - 自身の著書『阪神の女房』のPRを兼ねて“顧問”として出演した。
 
 
 
=== 出演映画 ===
 
* [[ミスター・ルーキー]](2002年) - 阪神を舞台にした作品だったことから、当時の現役選手を代表して、本人役で最終決戦のシーンに捕手として出演。
 
=== 出演CM ===
 
* NEXTStage「極肌」(2012年、ABCラジオ・関西ローカル限定で放送)
 
* [[NTTDoCoMo|NTTDoCoMo関西]](2013年 - ) - スポンサーに付いているABCテレビ制作・全国ネットの高校野球関連番組(『[[速報!甲子園への道]]』や[[全国高等学校野球選手権大会中継]])内を中心に放送
 
* [[関西アーバン銀行]](2015年、ABCラジオ・関西ローカル限定で放送)
 
* [[阪神甲子園球場]](2015年、関西ローカル限定で放送) - 阪神甲子園球場への来場には電車・バスの利用を促す内容で、[[阪神電気鉄道|阪神電鉄]]の駅貼りポスターのモデルにも起用されている。
 
ABCラジオでは、矢野を起用した他社の[[スポットCM]]も随時流している。<br>
 
以下はいずれも、阪神での現役選手時代に出演したテレビCM。
 
* [[上新電機]]([[赤星憲広]]・[[今岡誠]]と共に出演、2008年まで)
 
* [[ハウス食品]]「[[六甲のおいしい水]]」(2004年からの今岡に加わって2006年より出演)
 
 
 
=== 著書 ===
 
*『考える虎:最強タイガースを作り上げた攻守のカナメ』([[ベースボール・マガジン社]]、2011年3月、ISBN 9784583103440)
 
*『阪神の女房』([[朝日新聞出版]]、2011年6月、ISBN 9784022508553)
 
*『捕手目線のリーダー論:六つの要』([[講談社]]、2012年3月、ISBN 978-4062169189)
 
*『気を込める:虎の成功プロセス』([[下柳剛]]共著、ベースボール・マガジン社、2013年10月、ISBN 9784583106212)
 
*『左手の記憶:20年間受け止めた「投手の決め球」と「男の気持ち」』([[竹書房]]、2014年10月、ISBN 9784801900387)
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[大阪市出身の人物一覧]]
 
* [[東北福祉大学の人物一覧]]
 
* [[中日ドラゴンズの選手一覧]]
 
* [[阪神タイガースの選手一覧]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
{{Commonscat|Akihiro Yano}}
 
{{NPB|41343883}}
 
{{MLBstats |mlb= |espn= |br= |fangraphs= |cube=Akihiro-Yano |brm=yano--001aki}}
 
* [http://www.yano39.jp/ 矢野燿大オフィシャルウェブサイト] - 公式サイト
 
* {{Facebook|39yano}}
 
* [https://ameblo.jp/39yano-akihiro/ 矢野燿大オフィシャルブログ「Thank you」]
 
 
 
 
 
{{阪神タイガース}}
 
{{Navboxes|title=業績
 
|list1=
 
</span>
 
{{日本シリーズ敢闘賞}}
 
{{セントラル・リーグ ベストナイン (捕手)}}
 
{{セントラル・リーグ ゴールデングラブ (捕手)}}
 
{{セントラル・リーグ 最優秀バッテリー賞}}
 
}}
 
{{Navboxes|title = {{Flagicon|JPN}} 野球日本代表|titlestyle =background:#003; color:#fff
 
|list1=
 
{{北京オリンピック野球日本代表}}
 
{{2015 WBSCプレミア12日本代表|コーチ}}
 
}}
 
{{中日ドラゴンズ1990年ドラフト指名選手}}
 
 
 
{{DEFAULTSORT:やの あきひろ}}
 
[[Category:日本の野球選手]]
 
[[Category:東北福祉大学硬式野球部の選手]]
 
[[Category:中日ドラゴンズ及びその前身球団の選手]]
 
[[Category:阪神タイガース及びその前身球団の選手]]
 
[[Category:NPBオールスターゲーム選出選手]]
 
[[Category:野球日本代表選手]]
 
[[Category:日米大学野球選手権大会日本代表選手]]
 
[[Category:オリンピック野球日本代表選手]]
 
[[Category:日本の野球監督]]
 
[[Category:野球解説者]]
 
[[Category:ラジオ番組のパーソナリティ・DJ]]
 
[[Category:大阪市出身の人物]]
 
[[Category:1968年生]]
 
[[Category:存命人物]]
 

2018/10/4/ (木) 23:13時点における最新版



楽天市場検索: