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(内容を「'''盛岡藩'''(もりおかはん) 南部藩ともいう。江戸時代,陸奥国岩手郡盛岡地方 (岩手県) を領有していた藩。藩主の南部…」で置換)
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'''盛岡藩'''(もりおかはん)は、[[陸奥国]]北部([[明治]]以降の[[陸中国]]および[[陸奥国 (1869-)|陸奥国]]東部)、すなわち現在の[[岩手県]]中部から[[青森県]]東部にかけての地域を治めた[[藩]]。一般に'''南部藩'''とも呼ばれるが、後に八戸藩と七戸藩が分かれるなどの変遷を経る。藩主は[[南部氏]]で、居城は[[盛岡城]]([[陸中国]][[岩手郡]]、現在の[[岩手県]][[盛岡市]])である。家格は[[外様大名]]で、石高は長らく[[表高]]10万[[石 (単位)|石]]であったが、[[内高]]はこれより大きく、[[幕末]]に表高20万石に高直しされた。
+
'''盛岡藩'''(もりおかはん)
 
 
同じ南部氏領の[[八戸藩]]、支藩の[[#七戸藩(盛岡新田藩)|七戸藩]](盛岡新田藩)があるが、八戸藩の詳細を除き、ここにまとめて記述する。
 
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| topic  = 南部氏領(盛岡藩と[[八戸藩]])
 
| image1 = [http://www.hachinohe.ed.jp/haku/image/date/r_tanjo_il_2.jpg 黄色が盛岡藩領(+七戸藩領)<br />ピンク色が八戸藩領]<br />([[八戸市博物館]]「[http://www.hachinohe.ed.jp/haku/rekisi_tanjo.html 八戸藩の誕生]」)
 
| image2 =
 
| image3 =
 
}}
 
 
 
== 歴史 ==
 
[[甲斐国]](現在の[[山梨県]])に栄えた[[甲斐源氏]]の流れを汲んだ[[南部氏]]の始祖・[[南部光行]]が、[[平泉]]の[[奥州藤原氏]]征討の功で現在の[[青森県]][[八戸市]]に上陸し、現在の[[南部町 (青森県)]]相内地区に宿をとった。その後、奥州南部家の最初の城である[[平良崎城]](現在の[[南部町立南部中学校 (青森県)|南部町立南部中学校]]旧校舎跡地)を築いた。後に現在の青森県[[三戸町]]に[[三戸城]]を築城し移転している(現在、城跡は城山公園となっている)。
 
 
 
[[鎌倉時代]]に[[源頼朝]]に出仕して以来、700年間も同じ土地を領有し続けた大名は、[[薩摩国|薩摩]]の[[島津氏|島津家]]と南部家の2家のみである<ref group="†">[[相馬氏]]([[相馬中村藩]])も鎌倉時代以来の同じ土地を領有し続けたとの説もある</ref>。
 
{{Main|南部氏|南部氏歴史年表}}
 
ちなみに、盛岡市の市章は「違菱(たがいびし)」と呼ばれ、南部氏の家紋「向鶴(むかいづる)」にあしらわれた鶴と、甲斐源氏を出自とすることの表れである元来の家紋「菱」を連想させるものである。現在の市章が使われるようになった経緯は明らかでないが、菱を重ねた紋は、少なくとも江戸時代には既に南部家で使われていたものと言われている。
 
 
 
=== 安土桃山時代 ===
 
[[天正]]18年([[1590年]])7月、「南部家中興の祖」とも呼ばれる南部家第26代[[南部信直]](初代盛岡藩主・[[南部利直]]の父)が[[豊臣秀吉]]の[[小田原征伐]]に参陣しそのまま[[奥州仕置]]に従軍中、秀吉から[[宇都宮]]において7月27日付で南部の所領の内7ヶ郡([[糠部郡]]、[[閉伊郡]]、[[鹿角郡]]、[[久慈郡]]、[[岩手郡]]、[[紫波郡|志和郡]]、そして[[遠野]][[保]])についての覚書の朱印状を得る<ref>{{PDFlink|[http://www.pref.aomori.lg.jp/soshiki/kyoiku/e-kyodokan/files/2010-0604-1454.pdf 天正20年(1500)7月27日付豊臣秀吉朱印状南部信直宛(盛岡市中央公民館蔵)]}} </ref>ことによって、豊臣大名として公認された。
 
 
 
さらに、翌天正19年([[1591年]])[[九戸政実の乱]]の後本拠を、[[三戸城]]から[[九戸城]](のち「福岡城」と改める。現在の[[二戸市]][[福岡町 (岩手県)|福岡]]に当たる。)に移したが、[[津軽為信]]に安堵されたことで失領した[[津軽郡 (陸奥国)|津軽3ヶ郡]]([[平賀郡]]、[[鼻和郡]]、[[田舎郡]])の代替地として[[和賀郡]]、[[稗貫郡]]の2ヶ郡が加増され、9ヶ郡におよぶ版図が確立し、このとき安堵された9ヶ郡は、現在の[[岩手県]]、[[青森県]]・[[秋田県]]の3県にまたがっており、[[蒲生氏郷]]や[[浅野長政]]より九戸では北辺に過ぎるとの助言を受け[[不来方]]の地を本拠とすべく、仮住まいの[[郡山城 (陸奥国)|郡山城]](現在の岩手県[[紫波町]]日詰高水寺)を経て、文禄元年([[1592年]])、[[盛岡城]]を中心とした[[城下町]]の建設を始めた。
 
 
 
=== 江戸時代 ===
 
* 江戸時代の250年間に76回もの[[飢饉]]があった。
 
* [[慶長]] 5年([[1600年]])、[[関ヶ原の戦い]]で覇権を確立した[[徳川家康]]からもそのまま所領が安堵され、表高(軍役高)10万石の大名として認められた。
 
* [[元和 (日本)|元和]] 3年([[1617年]])3月、盛岡藩主・南部利直、[[南部氏#根城南部氏(遠野南部氏)|八戸氏(根城南部氏)]]から下北の支配権を接収。
 
* [[寛永]] 4年([[1627年]])3月、[[阿曽沼氏]]の旧領だった遠野地区が陸奥[[仙台藩]]との領境を接する防御上の用地であったため、藩主・利直は南部本家筋にあたる[[八戸直栄]](直義)を八戸根城から遠野横田城へ'''陸奥国代'''として転封させて、中世以来の八戸の根城南部氏から、'''[[南部氏#根城南部氏(遠野南部氏)|遠野南部氏]]'''となった。
 
* 寛永10年([[1633年]])3月、盛岡へ[[福岡藩#黒田騒動|黒田騒動]]で[[筑前国|筑前]][[福岡藩]]家老・[[栗山利章]]が南部家御預りとなる。この年、[[盛岡城]]が度重なる水害を経ておよそ40年の歳月を掛けて完成し、盛岡は正式な南部氏の[[城下町]]となった。
 
 
 
城から仰ぐ[[岩手山]]・[[早池峰山]]・[[姫神山 (岩手県)|姫神山]]の「南部三山」に大権現を勧請し、城を中心として、上級武士(高知)を住まわせ、その周りに町人を、さらにそれらを、取り囲むように一般の侍町をつづけ、市中の平均した発展を図るために「五の字割」と呼ばれる町割りを行い、周辺の村々に通じる城下はずれの街道沿いには、警護の必要から足軽(同心)を住まわせた。さらに城下北東の山麓には、防護上の配慮から、、城の真北に祖霊を祀る「大光山聖壽禅寺([[臨済宗妙心寺派]])」を建立した。[[京都]]にならって、北部丘陵を「北山」と呼んで領内の寺社を集め、大寶山東禅寺(臨済宗)、擁護山無量院教浄寺([[時宗]])、瑞鳩峰山[[報恩寺 (盛岡市)|報恩寺]]([[曹洞宗]])、大智山法泉寺(臨済宗)と合わせ特に「盛岡五山(盛岡五ヶ寺、北山五山)」と定め、東には[[盛岡八幡宮]]、[[盛岡天満宮]]、[[住吉神社 (盛岡市)|住吉神社]]などの神社を配した。
 
* 寛永11年([[1634年]])8月、糠部郡が[[北郡|北]]、[[三戸郡|三戸]]、[[二戸郡|二戸]]、[[九戸郡|九戸]]の4ヶ郡に分割されて、[[徳川家光]]により、領内10郡10万石の領知判物拝領。
 
* 寛永12年([[1635年]])3月、[[朝鮮通信使]]を巡る[[柳川一件]]で[[対馬国|対馬]][[対馬府中藩|府中藩]]([[長崎県]][[対馬市]])から、当時の有識者である[[規伯玄方]](「方長老」と呼ばれた)が、遠く[[九州]]からお預けの身となったが、当時の藩主は[[茶道|茶の湯]]や[[漢文]]を始めとする文化の師として厚遇し、京や西国、大陸の文化を取り入れることに成功した。また、これが地場工芸の[[南部鉄器]]や作庭、後世の菓子創作などに影響し、盛岡における芸術文化の土壌を生み出したと考えられている。この頃、藩主は「[[蛭子屋三衛門]]」(現・小野染彩所)を御用染司として京都から招いた。
 
 
 
物流は[[北上川]]舟運による輸送が主流であり、仙台藩の[[石巻]]を経由して[[江戸]]・[[上方]]と結ばれていたが、西には[[鹿角街道]]([[流霞道]])があり、遠国との海運を果たす重要ルートであった。盛岡藩は砂金、紫紺、良馬の産地であり、城下には大店が並び[[上方]]からの下り物取引があって、飢饉の頻発した農村と比べれば経済的には豊かであった。時に町人の生活は華美になり、過度に山車の壮麗さを競う風潮も生まれ、奢移品を禁ずる法令もが出されたという。それは開府に先立って招聘した[[近江商人]]をはじめとする「領外商人」進出による影響が大きい。うち有力な者は現在の[[滋賀県]][[高島市]]大溝周辺から進出した村井氏・小野氏ほか一族で、現在の[[大阪府]]から「平野[[杜氏]]」を招き、清酒醸造の技術を盛岡の南郊「志和」に伝えた。この技術を今に伝えるのが、「[[南部杜氏]]」である。城下には近江商人のほか、山城([[京都府]])・大坂([[大阪府]])・伊勢([[三重県]])・美濃([[岐阜県]])・常陸([[茨城県]])・富山など主に西日本から多くの商人が定住し、後にその末裔は後世に企業や銀行の創設に関わるなど、盛岡の文化・経済を大きく動かすこととなる。
 
 
 
殊に京都(京)からの移住者は城下の要地に集住し、ここは「京町」(現在の本町通)と呼ばれのちには勧業銀行が置かれるなど、近代まで盛岡の主要な商店街であった。また[[上方]]([[関西]]地方)出身の武士が集まって住んだ町は「上衆小路」と呼ばれ、仙北町([[秋田県]][[仙北市]]からの移住者が集住)、津軽町([[青森県]][[津軽]]地方からの移住者が集住、現在の津志田)のほか、「岩手町・久慈町」(現在の材木町)など、領内各地からの移住者による町も生まれた。
 
 
 
* [[万治]] 2年([[1659年]])、茶道に造詣の深い第2代藩主・南部重直は、甲斐から鋳物師の「[[鈴木家綱|鈴木縫殿<small>(ぬいと)</small>家綱]]」(現・鈴木盛久工房)を、京都より釜師「[[小泉仁五郎七|小泉仁左衛門五郎七]]」(現・御釜屋)を召抱え、領内の良質な砂鉄を元に鉄瓶の製作を進めた。以後、南部釜と称される[[南部鉄器]]の本格的な生産が開始される。
 
* [[寛文]] 4年([[1664年]])9月、第3代藩主の[[南部重直]]が、[[江戸幕府]]第4代将軍・[[徳川家綱]]に後継者選定と家の存続を事前に願って[[江戸]]で死去した。
 
重直の将軍への願いを知らされていなかったためか、国元は相続人と家の存続を巡って一時不穏となる。同年12月、家綱は裁定して、2万石減封した上で盛岡8万石を異母弟の[[南部重信|七戸重信]]に与えて家を継がせ、重直・重信双方の異母弟の[[南部直房|中里直好]]に八戸2万石を新規に与えて家を興させ、事実上の分割相続を行った。
 
<!-- * 寛文13年([[1673年]])、盛岡において北上川を直進させる新川開削工事に着手。延宝 3年([[1675年]])、完成。-->
 
* [[天和 (日本)|天和]] 3年([[1683年]])、重信は新田開発高を幕府に届け出て高直しを願い出たが、領内各村に一定の割合を乗じて算出した増加分で盛岡藩の領地域はそのままで10万石に復した。
 
* [[元禄]] 7年([[1694年]])、第5代藩主・[[南部行信]]は弟の[[南部政信]](麹町候)に5,000石、同じく[[南部勝信]](三田候)に3,000石を分知して、それぞれを旗本として出仕させる。
 
* 元禄16年([[1703年]])、[[越前国]]金剛院の僧「[[空念]]」の推挙により、南に「南部の繁昌」を願い、毒ケ森を[[南昌山]]と改名した。
 
* [[文化 (元号)|文化]] 5年([[1808年]])には、第11代藩主・[[南部利敬]]は[[蝦夷地]]警備の功により、幕府によって領地加増を伴わない20万石への高直し(文化の高直り<ref>『弘前城築城四百年』[[長谷川成一]]著など</ref>)が行われる。さらに格式も、[[城主大名]]から准国主<ref>[http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BD%E0%B9%F1%BC%E7 準国主とは - はてなキーワード]</ref>をとびこえて「[[国主|国持大名]]」に準じたことを記念し、以後領国を「南部」から「盛岡」へ改めるよう通達した。これにより、城下町盛岡と領国名とが同一となった。<!--「国統大年譜」によると、南部が単に甲州の村落名であるという理由から、文化14年([[1817年]])に南部藩も改称したとされる。-->
 
 
 
石高が上がり藩の格式は高くなったものの、実収入の増加が全く伴わない上、藩主主導の放漫経営や散財、無理に高くした格式に見合った参勤交代や[[蝦夷地]](現在の[[北海道]])警衛など、より多くの兵力準備と動員を義務づけられ、負担が倍増する事態を招いた。以後、盛岡藩の財政は[[新渡戸傳]]([[新渡戸稲造]]の曽祖父)によって立ち直されるまで慢性的な赤字体質となり、破綻寸前まで追い詰められる。
 
* [[文政]] 2年([[1819年]])、盛岡藩から[[新田分知|新田分]]5,000石を支給されていた[[内分分知|分知]][[旗本]]家(当時の当主・[[南部信誉]])に新たに6,000石を支給し、支藩の七戸藩(別名:盛岡新田藩)を立てる(ただし、盛岡藩から蔵米を支給され、実体領を持たない大名で、七戸に藩の政庁を置くのは[[明治維新]]後の[[明治]]2年([[1869年]])のことである)。
 
 
 
この時期の商業として特筆されるのは、創始を元和年間に遡る「菊の司」(現・菊の司酒造)以下、明和4年(1767年)に醸造業「近江屋」(現・[[平金商店]])、文化13年([[1816年]])に荒物商「茣蓙九」(現・茣蓙九森九商店)、安政4年(1857年)に薬種商「村源」、慶応2年(1866年)鉈屋町に興された木綿商が「川徳呉服店」(現・[[川徳]])として発展するなど、形態を変えながらも、藩政時代創業の商家が現在にまで存続している例が多いことである。
 
 
 
* 文政 4年([[1821年]])4月、[[相馬大作事件]]が起こる。この南部藩を窮地に追い込む[[テロ]]事件は、250年前に津軽氏([[弘前藩]]主)が南部氏から独立したことを発端としたとされ、[[南部氏]]やその家臣の[[津軽氏]]に対する遺恨の深さを示すものである。藩は窮地に立たされるが、相馬大作こと[[下斗米秀之進]]は幕藩体制に不満を持つ[[江戸]]市民に「[[赤穂浪士|赤穂義士]]の再来」ともてはやされ、[[藤田東湖]]に影響を与えたほか、のちに[[歌舞伎]]の演目としても用いられた。
 
* [[天保]]11年([[1840年]])、「順正書院」を設けたことで知られる蘭方医の[[新宮涼庭]]が京都から来盛、御稽古場を基に[[藩校]]「明義堂」設立。[[八角高遠]](後に明義堂教授)がオランダ医学を学ぶため上京。
 
* [[嘉永]] 2年([[1849年]])、元禄、宝暦、天明、天保の飢饉供養のため、祗陀寺14世・[[天然]]和尚により、宗龍寺に「五智如来・十六羅漢」(現・らかん公園)が完成。
 
* [[安政]] 4年([[1857年]])、第14代藩主・[[南部利剛]]に[[水戸藩]]主・[[徳川斉昭]]の三女・明子姫が輿入れした。在任中に[[戊辰戦争]]が勃発、藩論は勤王であったが仙台藩の圧力に屈服し、[[津軽藩]]や[[出羽国|出羽]][[秋田藩]]に乱入して敗退している。この、幕府方として[[奥羽越列藩同盟]]に加わったことにより、後にその責を負うこととなった。
 
* [[文久]] 3年([[1863年]])、八角高遠・[[大島高任]]により洋学校「日新堂」設立。
 
* [[慶応]]元年([[1865年]])、明義堂を拡充し「作人館」へ改称(後の盛岡市立仁王小学校)。
 
* 慶応 3年([[1867年]])10月、'''[[大政奉還]]'''。12月、'''[[王政復古 (日本)|王政復古の大号令]]'''。
 
* [[明治]]元年([[1868年]])、反朝廷方であったとして陸奥[[白石藩]]13万石に減封。
 
* 半年後、70万両を支払う約束で旧領盛岡に復帰。ただしこの70万両は支払不可能であり、のちに減免されている<ref>盛岡藩の廃藩置県の折に課せられた70万両の納付は減免されており、藩の借金も盛岡に限らず1843年までは破棄、1844年以降の物は明治政府が国債3,000万円を起債し肩代わりするなど救済措置も見られた。</ref>。
 
 
 
* 明治3年([[1870年]])5月、[[廃藩置県]]の布告を待たず、借金返済の不可能を理由に、他藩に先駆けて廃藩置県を願い出で受理され、藩は終了した。同年7月10日、[[盛岡県]]設立。
 
 
 
=== 明治維新 ===
 
[[明治]]元年([[1868年]])、当初、藩内は新政府方・反新政府方に意見が対立していたが、最終的に[[楢山佐渡]]が藩論を[[奥羽越列藩同盟]]への参加継続で一致させ、途中から新政府側についた[[久保田藩]]に攻め込んだ[[秋田戦争#南部・秋田戦線|秋田戦線]]において大館城を落したが、その後は新政府側による大量の補給物資が久保田藩に到達して戦況は一変し、多くの戦闘を繰り返しながら元の藩境まで押されてしまう。盛岡藩領内へ戻った楢山佐渡以下の秋田侵攻軍は、留守中に藩を掌握した朝廷側勢力によって捕縛され、盛岡藩は朝廷側へと態度を変更しはじめた。
 
 
 
なお、遠野南部家は藩の大評定で強硬に新政府側につくことを主張し、八戸藩は藩主・[[南部信順]]が[[薩摩藩]]主・[[島津重豪]]からの養子であり、ともに秋田戦争に参加していない。
 
 
 
以下日付は全て旧暦。
 
* 明治元年([[1868年]])
 
*:9月24日 盛岡藩、新政府軍に全面降伏。
 
*:10月10日 盛岡藩の帰順嘆願が受理される。同日、新政府軍が[[盛岡城]]に入城する。
 
*:10月14日 奥羽鎮撫総督府から[[沢宣種]]が入城、戦後処置を行う。
 
*:11月11日 東征大総督府の命を受けた監察使、[[藤川能登]](藤川三渓)が入城。南部利剛、利恭の[[東京]]への護送、[[楢山佐渡]]・*[[那珂通高|江幡五郎]]・[[佐々木直作]]ら首謀者の捕縛といった処分を執り行う。
 
*:11月14日 奥羽鎮撫総督府の行政機関となる、[[久保田藩]]兵を中心とした鎮撫行政司庁の管理下となる。
 
*:12月7日 南部利剛は奥羽越列藩同盟に加わったかどで隠居差控を命じられ、盛岡藩領20万石を明治政府直轄地として没収。
 
*:12月17日 南部家第41代当主・[[南部利恭]]が家名相続許されて、[[白石]]への減転封を課せられる。('''白石藩''')
 
*:12月23日 「諸藩取締奥羽各県当分御規則」により盛岡藩領は[[松代藩]]、[[松本藩]]、[[弘前藩]]の管理下となる。
 
* 明治2年([[1869年]])
 
*:1月15日 新政府の会計官権判事、[[林友幸]]が領地引渡し準備のため盛岡に着任。鎮撫行政司を解散し久保田藩兵らを帰国させる。
 
*:2月8日 弘前藩の支配を嫌う二戸、三戸、九戸郡領民の反対運動が激しく、取締が同藩から[[黒羽藩]]へと変更される。
 
*:3月4日 [[東政図]]の献策により、白石藩主であった南部利恭により[[版籍奉還]]の[[建白書]]が[[正親町三条実愛]]に提出される。
 
*:4月24日 盛岡藩から松代、松本、黒羽の各藩から赴任した権知県事に土地、人民、諸帳簿の類を引き渡す。以後松代藩取締地を'''盛岡県'''(第一次)、松本藩取締地を'''花巻県'''、黒羽藩取締地を'''[[三戸県]]'''と称する。(黒羽藩取締地においては北奥県の名称は用いられなかった。)
 
*:5月3日 松代藩取締地において「盛岡県御役所」が開庁する。
 
*:5月20日 目付や近習頭といった旧来の職制を廃し、藩治機構を一新する。
 
*:6月17日 南部利恭が白石[[藩知事]]に任命される。
 
*:6月23日 楢山佐渡、盛岡・報恩寺において刎首。
 
*:7月22日 南部利恭の旧領盛岡への復帰が認められる。盛岡県(第一次)が廃県し'''盛岡藩'''([[府藩県三治制]])となる。
 
*:8月7日 旧領内において'''[[九戸県]]'''、'''[[江刺県]]'''が設置される。取締各藩より新県へ支配地を移管。
 
*:8月10日 南部利恭が盛岡藩知事に任命される。
 
*:9月13日 九戸県が八戸県(第一次)へ名称変更する。
 
*:9月19日 八戸県が三戸県へ名称を再度変更する。
 
*:10月8日 東政図が[[大参事]]に、[[野田親孝]]が権大参事に任命される。
 
*:10月10日 盛岡県から盛岡藩への事務引継ぎが行われ、盛岡城内に正式に藩庁を設置。領域は[[岩手郡]]、[[紫波郡]]、[[稗貫郡]]([[八戸藩]]支配地を除く)、[[和賀郡]]の一部からなる13万石。
 
*:10月19日 [[白石城]]に残っていた盛岡藩の役人から、後任の県知事の[[武井守正]]に事務引き継ぎがなされる。
 
*:11月3日 三戸県の内3万石をもって、[[会津松平氏]]の家名存続を目的とした'''[[斗南藩]]'''が立藩。
 
*:11月29日 三戸県が江刺県に編入される。
 
* 明治3年([[1870年]])
 
*:7月10日 財政難により、南部利恭が[[廃藩置県]]の断行と藩知事の辞任を願い出ていたものが許可される。盛岡藩は廃藩し'''盛岡県'''(第二次)が設置される。
 
*:7月12日 東政図、野田親孝が盛岡県大参事に任命される。
 
* 明治4年([[1871年]])
 
*:7月14日 廃藩置県により[[八戸藩]]が[[八戸県]]となる。江刺県管理下の[[九戸郡]]が八戸県となる。
 
*:11月2日 第一次府県統合。江刺県及び八戸県の九戸郡、紫波郡内の八戸県管理地を編入した新置の'''盛岡県'''となる(第三次)。江刺県の内、旧領の[[鹿角郡]]は[[秋田県]]に編入。新たに[[島惟精]]が盛岡県[[参事]]に、野田親孝が県権参事に任命される。
 
*:12月4日 盛岡城が[[兵部省]]の管轄になったため、[[県庁]]を広小路の元南部邸に置く。
 
* 明治5年([[1872年]])
 
*:1月8日 盛岡県を'''岩手県'''と改称する。
 
 
 
* 明治9年([[1876年]])、[[青森県]]に編入されていた[[二戸郡]]と旧[[仙台藩]]領の[[磐井郡]]、[[胆沢郡]]、[[江刺郡]]、[[気仙郡]]を編入し、現在に至る。
 
 
 
[[戊辰戦争]]の戦後処理として、途中から新政府側に参加した久保田藩、津軽藩が論功行賞を受ける一方で、転封を命じられたのは、盛岡藩と出羽[[会津藩]]、出羽[[庄内藩]]、それに[[近江国|近江]][[山形藩#朝日山藩|朝日山藩]]に5万石で移された出羽[[山形藩]]などがあり、減封を命じられたのは、明治元年12月7日、仙台藩は62万石から28万石に、米沢藩は4万石を削減され14万7,000石などがあった。
 
 
 
==== 白石藩 ====
 
利恭は明治政府が仙台藩から没収した所領の一部、白石13万石([[刈田郡]]・[[柴田郡]]・[[伊具郡]]・[[亘理郡]]および[[宇多郡]]の一部)への減転封を命じられた。明治2年([[1869年]])4月、旧城主[[片倉氏]]から[[白石城]]が南部氏側に引き渡され、6月17日の[[版籍奉還]]にともない白石藩知事に任命されたが、その間も重臣たちが中心となって国替停止と盛岡城地安堵の運動が続けられ、領民たちも政府に対して藩主・利恭の盛岡復帰請願を続けた。その結果7月22日に上納金70万両の献納を条件に盛岡復帰が認められ、(実際は一部を納めたのみ)、8月10日に利恭は盛岡藩知事を拝命し、陸中四郡([[岩手郡]]・[[紫波郡]]・[[稗貫郡]]・[[和賀郡]]の一部)13万石を管轄した。
 
 
 
白石藩領はその後政府直轄の白石県となり、10月に南部氏から後任の県知事に引き継がれた後、11月県庁を[[角田城]]に移し[[角田県]]となる。
 
 
 
==== 廃藩 ====
 
念願の盛岡復帰を果たした南部家とその家臣たちであったが、その条件として課せられた70万両もの大金は明らかに献納不能なものであった。また凶作で税収が見込めない中、前藩主・[[南部利剛]]の娘の郁子が[[華頂宮博経親王]]に嫁ぐことになり多額の出費を余儀なくされるなど、藩財政は完全に破綻していた。藩を取り仕切っていた大参事の[[東政図]]は、この状況を切り抜けるには南部利恭の藩知事辞任と[[廃藩置県]]を実行する他にないと考え新政府に嘆願していた。明治 3年([[1870年]])4月、70万両の献納は撤回されたものの、他藩への影響などを考慮して藩知事の辞任は許可されずにいた。しかし藩の再三の嘆願を受けた新政府により明治 3年7月10日、盛岡藩を廃して'''[[盛岡県]]'''が設置された。
 
 
 
盛岡県は明治 5年([[1872年]])[[1月8日 (旧暦)|1月8日]]に'''岩手県'''と改称され、後に[[江刺県]]と[[磐井県]]の一部を編入し現在に至る。盛岡県成立時の領地は[[陸中国]][[岩手郡]]、[[稗貫郡]]および[[紫波郡]]、[[和賀郡]]の一部のみであり、旧領のうち[[陸奥国]][[北郡]]、[[二戸郡]]および[[三戸郡]]の一部と陸中国[[鹿角郡]]および[[九戸郡]]の一部は'''[[三戸県]]'''に(三戸県の大部分は後に江刺県に、鹿角郡は[[秋田県]]にそれぞれ編入された)、陸中国[[閉伊郡]]および和賀郡の一部は'''[[江刺県]]'''に、[[岩代国]][[伊達郡]]の一部は'''[[福島県]]'''にそれぞれ移管されていた。
 
 
 
盛岡城の城郭は明治元年([[1868年]])に新政府に接収され、当初は[[廃城令]]の存城とされたものの、建物の老朽化が著しく、明治7年([[1874年]])に廃城となり、建造物はことごとく破却、民間に払い下げられた。現在、[[盛岡城]]の地上建造物が残されていないのはこのためである。
 
 
 
== 歴代藩主 ==
 
* 初代 [[南部利直|南部信濃守利直]](としなお)
 
* 2代 [[南部重直|南部山城守重直]](しげなお)
 
* 3代 [[南部重信|南部大膳大夫重信]](しげのぶ)
 
* 4代 [[南部行信|南部信濃守行信]](ゆきのぶ)
 
* 5代 [[南部信恩|南部備後守信恩]](のぶおき)
 
* 6代 [[南部利幹|南部大膳亮利幹]](としとも)
 
* 7代 [[南部利視|南部大膳大夫利視]](としみ)
 
* 8代 [[南部利雄|南部大膳大夫利雄]](としかつ)
 
* 9代 [[南部利正|南部大膳大夫利正]](としまさ)
 
* 10代 [[南部利敬|南部大膳大夫利敬]](としたか)
 
* 11代 (1)[[南部利用 (吉次郎)|南部吉次郎利用]](としもち)
 
* 11代 (2)[[南部利用 (大膳大夫)|南部大膳大夫利用]](としもち、吉次郎利用が将軍家初見前に死んだため身代わりで襲封した)
 
* 12代 [[南部利済|南部信濃守利済]](としただ)
 
* 13代 [[南部利義|南部甲斐守利義]](としとも)、藩主時代は信候(のぶとも)と称していたが、隠居後の利義が有名。
 
* 14代 [[南部利剛|南部美濃守利剛]](としひさ)
 
* 15代 [[南部利恭|南部甲斐守利恭]](としゆき)
 
 
 
== 藩の職制 ==
 
藩の行政組織は10万石の軍役組織によるもので、中央の職制は幕府を模倣し、藩主の下に家老のほか諸役をおいた。
 
=== 家老・加判役 ===
 
藩行政の最高機関であり、常時は数人の家老の合議制によって大綱が決定された。日常中丸に登城して庶務を決議し、連署に応ずる。
 
==== 御席詰 ====
 
藩主の常勤する御用の間に出仕する、家格が高く、家老の経験を積んだ老練な人が選任される。
 
==== 御大老 ====
 
 
 
=== 北地御用所 ===
 
北方警備の監督部署。分轄された蝦夷地の警備・下北半島から釜石浦に至る海岸の防備についての費用調達、動員計画、陣屋説定、配備計画などを行う。
 
=== 御用人所 ===
 
城内中丸の御用人所に常勤し、その庶務を執る。
 
=== 目付所 ===
 
御目付所は司法、検察等、主として治安方面を総轄し、その大目付は高知格についても検察の権があり、常時二人とされた。勘定所、寺社町奉行とともに公示三役と称されて、広汎にわたっていた。
 
 
 
御目付所の所管には、寺社町奉行、表目付、牛馬目付、武具奉行、御境奉行等があり、監査・検察を要するものは、目付所の管轄に置かれている。
 
=== 勘定所 ===
 
城内に設置されてあった出納事務所で、目付所、寺社町奉行とともに公示三役と称された職掌であった。御郡支配方、御代官方、御支配方、山林方、御土蔵方の七つの分掌となって、領内の地方行政にかかわっていた。
 
 
 
== 家臣団構成 ==
 
盛岡藩士の家系を調べる際の必須の書とされている『'''[[参考諸家系図]]'''』が岩手県立図書館等に架蔵されており、復刻版も出版されている。
 
=== 格と職 ===
 
<!-- ;藩政安定後 -->
 
家格として、'''高知'''(たかち)・'''高家'''・'''本番組'''・'''加番組'''・'''新番組'''などが決められていた<ref>『藩史大事典』</ref>。高知衆は後期には細分化したほか、藩主一族のための身分も設けられている。
 
また1,000石以上が高知衆に対し、1,000石以下は'''平士'''と呼ばれた<ref>[http://www.bunka.pref.iwate.jp/seikatsu/jyutaku/data/buke.html 【いわての住まい】武家]</ref>。
 
{| class="wikitable" style="Background:white; font-size:smaller"
 
|+ '''主な家格'''
 
|-
 
| style="width:8em" |
 
| style="text-align:center" colspan="2" | 天保15年([[1844年]])
 
| style="text-align:center" colspan="2" | 明治元年([[1868年]])
 
| style="text-align:center"| 明治2年
 
|-
 
| rowspan="4" style="text-align:center" |'''高 知'''
 
| style="text-align:center" | 御家門
 
|  3 家
 
| style="text-align:center" | 御家門
 
|  2 家
 
| rowspan="4" style="text-align:center" |上 士
 
|-
 
| style="text-align:center" rowspan="3" | 高 知
 
| rowspan="3" | 28 家
 
| style="text-align:center"| 御三家
 
|  3 家
 
|-
 
| style="text-align:center"| 着座高知
 
|  7 家
 
|-
 
| style="text-align:center"| 高 知
 
| 20 家
 
|-
 
| style="text-align:center" |'''高 家'''
 
| style="width:8em" | 御新丸御番頭
 
| 21 家
 
| style="width:8em" | 御新丸御番頭
 
| 19 家
 
| rowspan="2" style="text-align:center" |中 士
 
|-
 
| style="text-align:center" |'''本番組'''
 
| colspan="2" | 平士 100石以上
 
| colspan="2" | 平士 150石以上
 
|-
 
| style="text-align:center" |'''加番組'''
 
| colspan="2" | 平士  50石以上
 
| colspan="2" | 平士  50石以上
 
| rowspan="4" style="text-align:center" |下 士
 
|-
 
| style="text-align:center" |'''新番組'''
 
| colspan="2" | 平士  50石以下
 
| colspan="2" | 平士  50石以下
 
|-
 
| rowspan="2" |
 
| colspan="2" | 一生御給人
 
| colspan="2" | 一生御給人
 
|-
 
| colspan="2" | 勤中御給人
 
| colspan="2" | 勤中御給人
 
|-
 
| rowspan="3" style="text-align:center" |御医師茶道
 
| colspan="2" | 100石以上御医師
 
| colspan="2" | 100石以上御医師
 
| style="text-align:center" |中 士
 
|-
 
| colspan="2" | 100石以下御医師
 
| colspan="2" | 100石以下御医師
 
| rowspan="2" style="text-align:center" |下 士
 
|-
 
| colspan="2" | 御茶道
 
| colspan="2" | 御茶道
 
|-
 
| style="text-align:center" |在々御給人
 
| colspan="2" | 在々御給人
 
| colspan="2" | 在々御給人
 
| 平民のち士族<!--冥加金献上による名字帯刀等のケースがあった -->
 
|-
 
| rowspan="2" style="text-align:center" |その他
 
| colspan="2" | 御同朋から御同心
 
| colspan="2" | 御同朋から御同心
 
| rowspan="2" style="text-align:center" |卒 族
 
|-
 
| colspan="2" | 在々御与力・御同心
 
| colspan="2" | 在々御与力・御同心
 
|}
 
 
 
「天保十五年御国住居緒士」「明治二年身帯帳」
 
=== 家臣在郷制 ===
 
通常の武士身分で在郷している'''御給人制'''があり、また、陪臣は在郷のものが多い。
 
==== 在々御給人 ====
 
代官の下に下役以下各種奉行その他の役職を務めさせるため「御給人」を置いた。<!--(半農半士または半商半士の人、他藩でいう郷士身分に属する地方在住の人))--><!--南部藩における御給人とは、藩士ではなく。-->藩士とは区別され、城下を離れた在町に土着して、自ら農業もしくは商業を営みつつ士分に準ずる待遇を受けている者のことである。形式的には苗字帯刀を許され、知行が与えられるが、この知行地は自己所有の石高の全部または一部を知行地として認められたものである<ref name = むつ市近>(むつ市史) 近世編</ref><!-- p.46 -->。
 
その居住地を支配している代官の置かれた地域名を冠して「七戸御給人」、「野辺地御給人」などと称された。
 
<!-- むつ市史 p.46
 
盛岡藩の地方行政を語るにあたって、「御給人制」という特色のある制度にふれないわけにはいかない。田名部代官所の役方の多くはこの御給人階層の人々である。御給人制の意義について的確にのべている論考があるので次にあげてみたい。盛田稔氏は盛岡藩の地方支配機構としての御給人制度について次のようにのべている。
 
「御給人」とは、城下を離れた在町に士着し、相当の知行地の保有を認められ、それからの年貢収人に依存して生活するか、あるいは自らその士地に依拠して農業を営むか、あるいはまた時には商業を営むかしながら、同時に藩士に準ずる待遇(名字・帯刀・年貢取得権等)を与えられ、その反対給付として一定の軍役に従事する者、つまりは半農半士、あるいは半商半士的生活を営んでいた者を指す名称であり、一般にいう「郷士」に近い概念に属する。
 
とのべつつさらに次のようにいう。 これらの御給人は、いわゆる藩士と厳然と区別され(中略)、その居住地を支配している代官の置かれた地域名を冠して「七戸御給人」、「野辺地御給人」などと称された。(中略)これらの御給人は、藩の地方行政機構である代官所の役人として、あるいは藩の財政窮乏打開に貢献する等、藩政に寄与する処多人なものがあったと同時に、在町における各方面の指導者でもあった。(『七戸町史』2) このように、御給人は正規の藩士とは区別されていながらも、藩政にとっては重要な存在であり、在町においては指導的な役割を果していた人々であるとする。
 
-->
 
 
 
藩の行政組織は幕府から指定された、10万石の軍役組織によるものであった<ref>『むつ市史』、1988</ref>。
 
 
 
中央の職制は幕府のそれをほぼ模倣し、藩主の下に家老のほか諸役をおいた。常時は数人の家老の合議制によって大綱が決定された。
 
{|
 
|-
 
| rowspan="15" | 藩主
 
| rowspan="15" | -
 
| rowspan="15" | 家老
 
| rowspan="15" | -
 
|┌
 
| colspan="2" |御近習頭
 
|-
 
|├
 
| colspan="2" |御留守居
 
|-
 
|├
 
| colspan="2" |御用人所
 
|-
 
|│
 
| ├
 
|御用人
 
|-
 
|│
 
| └
 
|御側御用人
 
|-
 
|├
 
| colspan="2" |御目付所
 
|-
 
|│
 
| └
 
|大目付
 
|-
 
|┼
 
| colspan="2" |御勘定所
 
|-
 
|│
 
| └
 
|元締
 
|-
 
|├
 
| colspan="2" |北地御用所
 
|-
 
|│
 
| └
 
|北地御用大番頭
 
|-
 
|├
 
| colspan="2" |御中丸御番頭
 
|-
 
|├
 
| colspan="2" |御新丸御番頭
 
|-
 
|├
 
| colspan="2" |加番組
 
|-
 
|└
 
| colspan="2" |新番組
 
|}
 
 
 
=== 家老 ===
 
;藩政初期
 
'''家老'''には大身の老臣が就いていた。また戦国期の規律を引き継ぎ、大身は[[陪臣]]を持っていたり、その[[家禄]]に応じて役職に任じられたり軍備を担っていた。
 
 
 
[[慶長]]5年([[1600年]])時点では1,000石以上の家臣が22家あった<ref>『岩手県史』</ref>。
 
*[[八戸氏]] - 1万3,000石、後の遠野南部氏。
 
*[[北信愛]] - 8,000石、子息がすべて別家し信愛が名跡継承を願わず絶家。
 
*[[浄法寺氏]] - 5,000石、[[岩崎一揆]]鎮圧の際に当主・[[浄法寺重好]]が軍令違反を起こし改易。
 
*[[大光寺氏]]・[[南氏]] - 3,000石。
 
*[[北愛一]] - 2,500または2,000石、2代目の直愛が藩主・[[南部重直]]の鹿狩で不祥事を起こし500石に、後年直系が無嗣断絶。
 
*[[北直継]] - 2,000石、[[慶長]]18年([[1613年]])以後の石高、後の大湯南部氏。
 
*[[毛馬内氏]]・桜庭氏・[[中野氏 (陸奥国)|中野氏]](後の花輪南部氏)・石井氏・[[東氏]]・大湯氏([[正保]]年間に無嗣断絶)・江刺氏 - 2,000石。
 
*日戸氏・[[楢山氏]]・沢田氏 - 1,000石以上。
 
*梁田氏・葛巻氏・野田氏・又重氏・内堀氏 - 1,000石。
 
 
 
==== 高知 ====
 
[[明治]]2年([[1869年]])には'''上士'''となった。'''家老'''(後期に改名して'''加判役''')・御近習頭・北地大番頭・御中丸御番頭などに就任した。
 
;御家門
 
[[文政]]元年([[1818年]])10月に藩の家格向上を祝して藩主一族の3家(南部利視の子、信居・信駕・信周の家)と、族臣とされる八戸氏・中野氏・北氏・南氏・東氏が南部姓の名乗りを許されたことに始まる。ただし東氏が一旦改易され南部姓の名乗れなくなったほか、初期の御家門衆はすべて家格が変更されている。
 
*新屋敷南部家 - [[南部信居]]が興した家。のち着座高知。
 
*角屋敷南部家 - [[三戸信駕]]が興した家。のち着座高知。
 
*中屋敷南部家 - [[南部信周]]が興した家。のち着座高知。
 
*下屋敷南部家 - [[文政]]3年(1820年)から高知、翌年10月より御家門。後の藩主・[[南部利済]]、利済の本家相続で消滅。
 
*南部出羽 - [[弘化]]4年([[1847年]])より、[[南部利済]]の四男・[[南部栄枝]]。
 
*南部伯耆 - 弘化4年より、[[南部利剛]]の弟・[[南部剛弘]]。
 
*[[南部剛確]]・[[南部剛融|剛融]]・[[南部剛護|剛護]] - 全て南部利剛の子。明治2年(1869年)より。
 
*遠野南部氏・大湯南部氏・花輪南部氏 - [[文政]]御支配帳に記載。後に御三家。
 
*[[南氏]]・[[東氏]] - 文政御支配帳に記載。南部姓を名乗る。
 
 
 
;御三家([[慶応]]以前は高知、[[文政]]御支配帳では御家門)
 
*[[八戸氏|遠野南部氏(八戸氏)]] - 陸奥[[遠野市|遠野]]領1万2,700石、維新後[[男爵]]。
 
*[[北氏|大湯南部氏(北氏)]] - 陸奥[[大湯温泉 (鹿角市)|大湯]]領2,760石
 
*[[中野氏 (陸奥国)|花輪南部氏(中野氏)]] - 陸奥[[花輪]]領3,370石、[[九戸氏]]の一族。
 
**[[中野元康]]([[九戸政実]]の甥孫)-[[中野直保]]-[[中野永州]]-[[中野光康]]-[[中野康貞]]=[[中野康敬]]=[[中野康房]]-[[南部康孝]]-[[南部済愛]]-[[南部康彊]]=[[南部康直]]=[[南部康保]]
 
 
 
;着座高知(慶応以後)
 
*新屋敷南部家・角屋敷南部家・中屋敷南部家 - [[安政]]2年([[1855年]])11月より高知に引き下げ。
 
*[[南氏]] - 南部姓を名乗る。文政御支配帳では御家門、寛政・天保期以後は高知。
 
*[[桜庭氏]]
 
*[[楢山氏]] - 石亀氏の支流
 
*[[三戸式部]]家 - 戸沢氏、角屋敷南部家の分家
 
;高知
 
*[[石亀氏]]
 
*八戸氏 - 遠野南部氏の分家:小八戸家
 
*奥瀬氏 - [[小笠原安芸]]の後裔
 
*[[桜庭氏]] - [[桜庭光康]]の家系
 
*[[毛馬内氏]]
 
*漆戸氏
 
*野田氏 - [[一戸氏]]の後裔の一つ。
 
*内堀氏 - [[浅井氏]]旧臣、[[天正]]年間に加賀[[前田氏]]より移籍。
 
*下田氏 - 南氏の支流
 
*[[新渡戸氏]]
 
*藤枝氏
 
*岩間氏
 
*黒沢氏
 
*向井氏
 
*山本氏
 
*安宅氏
 
*花輪氏
 
==== 高家 ====
 
明治2年には本番組とあわせて'''中士'''となった。加番組御番頭・御側御用人・[[花巻城]]代・寺社奉行・御勘定所元締・新番組御番頭などに就任した。
 
;御新丸御番頭
 
*中野氏 - 花輪南部氏の分家
 
*[[七戸氏]] - 南氏の支流で北氏の血筋
 
*[[東氏]] - 文政御支配帳では御家門、嘉永年間には高知
 
*北氏 - 大湯南部氏と同族、北愛一の系統
 
*北守氏 - 北愛一系の北氏の分家
 
*辛氏 - 花輪南部氏分家
 
*三上氏
 
*日戸氏
 
*織笠氏 - [[板垣氏]]の後裔で[[福士氏]]の庶流
 
*沢田氏
 
==== 本番組 ====
 
御用人・花巻城代・寺社奉行・御勘定所元締・新番組御番頭などのほか、御境奉行・代官・御船手頭・町奉行・郡奉行などに就任した。'''平士'''のうち100石以上(天保15年時点)または150石以上(明治元年時点)の者が該当した。
 
==== 加番組 ====
 
御金奉行・御銅山吟味役・御作事奉行・万所奉行・御勝手方などに就任した。'''平士'''のうち50石以上が該当。明治2年、新番組とあわせて'''下士'''となった。
 
==== 新番組 ====
 
諸御山奉行・大納戸奉行・新田奉行・御国産方などに就任した。'''平士'''のうち50石以下に当たる。
 
 
 
== 領内の統治 ==
 
=== 諸城破却書上 ===
 
[[天正]]18年([[1590年]])7月、[[豊臣秀吉|秀吉]]より所領安堵の五カ条からなる朱印状が交付され、南部信直は領内にある家中の城館の破棄を命ぜられ、また家中の妻は、南部氏の居城下に集合を厳命されている。地方の諸城にいたものは従来の在地地主から、その城館を破却して大名城下に出仕して、不在地主という性格に変わっていった。<!--県史5P195-196-->
 
同20年6月には、その処理を報告している。
 
 
 
{{Main|南部大膳大夫分国之内諸城破却共書上}}
 
 
 
=== 盛岡藩 ===
 
 
 
==== 代官 ====
 
大目付は司法、警察、軍事を総轄し、勘定奉行の下に御代官、御山奉行などが配置され、代官は100石以上の本番組士。各通ごとに2人を置かれ当番非番制により、民政関係の庶務に従事していた。
 
 
 
==== 通制 ====
 
盛岡・八戸両藩の独特の行政組織としての「'''通制'''」である。領内の郷村支配のため、代官統治地区を「'''通'''(とおり)」と称しているが、藩政初期は単に方面とか、その地方を表現した言葉であったが、[[天和 (日本)|天和]]年間([[1681年|1681]] - [[1683年|83年]]には、代官所統治区域を指した。
 
 
 
「通」には原則として代官を置き、盛岡で藩士の中から任命し、任期を2年として2人を任用、半年交替勤務とした。その下に下役・物書を2、3人を任用した。
 
下役は代官が地方の給人から任用し。代官は地方行政・司法・警察・租税の一切を執行する権限をもち、その経費は村高に<!--比例-->応じて地方付加税として徴収した。
 
 
 
{{Main|[[通 (南部藩)#盛岡藩|通 (盛岡藩)]]}}
 
 
 
==== 盛岡町奉行 ====
 
藩の諸機関の整備に寛永年間に基礎が定まり、地方統治は城代統治が城の廃絶に伴って、代官統治へと移行していった。
 
大目付所の下に盛岡町奉行(天和元年([[1681年]])以降、寺社奉行と兼務し、寺社町奉行と称した。)が置かれ、市内取締まりのため特に任命され、創設の年代は盛岡城下開市にともなって、慶長年間といわれている。
 
 
 
 (盛岡城下)検断頭(六検断) - 町検断役 - 書留役 - 宿老役
 
 
 
盛岡城下六検断は苗字帯刀が許され<ref>文化7年11月15日条 藩日記</ref><!-- 県史5 P.607 --> ており、通例中津川を挟んで、向い町(河南)方向に3人、川北に3人常置され、藩からの任命で任期は終身であり、町吏の最高機関として、直接町奉行の支配に属していた。
 
 
 
==== 郷村三役 ====
 
南部藩の村政は肝煎(村長格)、老名(助役格 2,3人)、組頭(五人組組頭)を持って構成され、その下に本百姓、水呑百姓がいた<ref name = "むつ市">(むつ市史)近世編</ref>。<!-- p.34,44 -->
 
* 肝煎 - 宿老 - 組頭
 
町と村との区別は、町は宿駅伝馬の有る市街地で、村にはそのような設備がないところである。
 
 
 
領内の町と称されているところでは、<!--には町検断が置かれていた。-->町検断<!--は村の肝煎に対応し、-->を通して日常の町政が運営された。軽犯罪の処罰権をもっていたので、各村肝煎より以上の権限があった。土地の売買に立ち会い、これに認印するのも仕事の一つであった。
 
村肝入の役も同様に、多くはその町の名家で検断役宅はその自宅があてられていた。
 
 
 
町検断も村肝入も代官所の配下に属し、任免もその所管区の代官の権限内にあり、任期も定まっておらず、事故がない限り終身勤務しており、多くは世襲でその村の生活の安定している旧家などが務めていた。
 
 
 
老名は年寄ともいい、肝煎・検断の補助役であり村政担当者のひとりとして処理に当たった。
 
 
 
村内20石を単位に検地帳に登録された[[本百姓]]を中心に、[[五人組 (日本史)|五人組]]を組織し、五人組の長を組頭と呼んだ。肝煎・検断などからの通知を通達し、相互に連帯し相互互助に務め、売買質入れ手形の連印犯罪防止その他の義務を負った。なお、幕領のような[[地方三役|村方三役]]のうち農民の代表である百姓代はおかなかった。
 
 
 
村肝煎の職務内容については『紫波郡矢巾町教育委員会 矢巾町文化財報告第31集 「間野々村肝煎緒帳面改引請目録」[[延享]]元年([[1744年]])』に記載がある。
 
 
 
<!--代表する組頭の主立ちを老名(おとな)と称し、その老名の中から選出された後世の村長にあたる肝煎(きもいり)(肝入、他藩の[[庄屋|名主、庄屋]]に相当)が代官の支配下にあって村政を担当した。
 
村役と称されるもののうち、後世の村長にあたるものに村肝煎-->
 
 
 
=== 八戸藩 ===
 
==== 通制 ====
 
八戸藩の領内の行政区分は盛岡藩と同様に「通制」を用い<!--、勘定頭が代官を指揮して民政の当たる。各区域には各2名ずつ代官が置かれていたが、領外(飛地)の志和については4名に増員され-->た。
 
 
 
{{Main|[[通 (南部藩)#八戸藩|通 (八戸藩)]]}}
 
 
 
[[元禄]]元年([[1688年]])正月、領内の郷村に庄屋名主制度<ref name="こもんじょ01">[http://www.komonjokan.net/cgi-bin/komon/report/report_view.cgi?mode=details&code_no=119 (近世こもんじょ館)八戸藩の村役人制度-名主・大下書・田屋について]</ref>を採用し、元禄7年([[1694年]])10月に実施し、町検断を庄屋に、肝入を名主と改称した。盛岡藩とは異なっている。<!--県史5 P.1538-->
 
 
 
== 領内の主要交通路 ==
 
=== 陸路の主要街道 ===
 
目的地の地名を冠して街道名と呼ぶため、<!--終点側や -->街道沿いの別の土地では、別名称で呼ばれているのが常態であった。
 
==== 南部藩 ====
 
*慶安2年([[1649年]] 、「[[大道筋]](奥州之内南部領海陸道規帳)<ref name="青森史02">「青森県史」資料編 近世篇 4 南部1盛岡藩</ref>」
 
{| class="wikitable" style="Background:white; font-size:smaller"
 
|-
 
| colspan="3"  |
 
| style="text-align:center"| 街道名
 
| style="text-align:center"| 起 点
 
| style="width:5em" |
 
| style="text-align:center"| 終 点
 
| style="text-align:center"| 備 考
 
|-
 
| style="text-align:left" colspan="3" |'''大 道 筋'''
 
| style="text-align:left" |[[奥州街道]]
 
| style="text-align:center" |<small>仙台境</small>鬼 柳
 
| style="text-align:center" |
 
| style="text-align:center" |<small>津軽境</small>馬 門
 
| style="text-align:center" |
 
|-
 
| style="text-align:left" colspan="3" |'''小道井山道'''
 
| style="text-align:left" |[[秋田街道|秋田往来]]
 
| style="text-align:center" |盛 岡
 
| style="text-align:center" |
 
| style="text-align:center" |橋 場
 
|
 
|-
 
| rowspan="4"  style="width:2em" |
 
| rowspan="3"  colspan="2" style="text-align:center" |小 道
 
| style="text-align:left" |[[沢内街道]]
 
| style="text-align:center" |雫 石
 
| style="text-align:center" |
 
| style="text-align:center" |太 田
 
|<small>出羽うとう村へ出ル道筋</small>
 
|-
 
| style="text-align:left" |[[鹿角街道]]
 
| style="text-align:center" |盛 岡
 
| style="text-align:center" |花 輪
 
| style="text-align:center" |楢 柏<small>境目</small>
 
|
 
|-
 
| style="text-align:left" |
 
| style="text-align:center" |
 
| style="text-align:center" |花 輪
 
| style="text-align:center" |松 山
 
|
 
|-
 
| colspan="2" style="text-align:center" |横 道
 
| style="text-align:left" |
 
| style="text-align:center" |
 
| style="text-align:center" |花 輪
 
| style="text-align:center" |小 坂
 
|
 
|-
 
| rowspan="5" colspan="2"|
 
| rowspan="4" style="text-align:center" |小 道
 
| style="text-align:center" |[[三戸鹿角街道]]
 
| style="text-align:center" |三 戸
 
| style="text-align:center" |
 
| style="text-align:center" |大 湯
 
|
 
|-
 
| style="text-align:left"" |[[三戸街道]]
 
| style="text-align:center" |三 戸
 
| style="text-align:center" |
 
| style="text-align:center" |八 戸
 
|
 
|-
 
| style="text-align:left" |
 
| style="text-align:center" |七 戸
 
| style="text-align:center" |
 
| style="text-align:center" |平 沼
 
|
 
|-
 
| style="text-align:left" |[[登り街道]]
 
| style="text-align:center" |福 岡
 
| style="text-align:center" |
 
| style="text-align:center" |八 戸
 
|
 
|-
 
| style="text-align:center" |山 道
 
| style="text-align:left" |
 
| style="text-align:center" |三 戸
 
| style="text-align:center" |
 
| style="text-align:center" |大 湯
 
|
 
|-
 
| rowspan="3" colspan="3" style="text-align:left" |'''海 辺 道'''
 
| style="text-align:left" |[[三陸浜街道#盛岡藩|浜街道]]
 
| style="text-align:center" |平田坂<small>石塚境目</small>
 
| style="text-align:center" |
 
| style="text-align:center" |八 戸
 
|
 
|-
 
| style="text-align:left" |[[北浜街道]]
 
| style="text-align:center" |八 戸
 
| style="text-align:center" |
 
| style="text-align:center" |大 畑
 
|
 
|-
 
| style="text-align:left" |[[北通]]
 
| style="text-align:center" |大 畑
 
| style="text-align:center" |
 
| style="text-align:center" |長 後
 
|
 
|-
 
| rowspan="2" colspan="3" style="text-align:left" |'''入 海 辺 道'''
 
| style="text-align:left" |[[田名部街道]]
 
| style="text-align:center" |野辺地
 
| style="text-align:center" |
 
| style="text-align:center" |田名部
 
|
 
|-
 
| style="text-align:left" |[[西通]]
 
| style="text-align:center" |田名部
 
| style="text-align:center" |
 
| style="text-align:center" |脇ノ沢
 
|
 
|-
 
|}
 
 
 
==== 盛岡藩 ====
 
*  [[奥州街道筋]]
 
*  [[秋田街道|秋田街道筋]]
 
*  [[鹿角街道|津軽街道筋]]
 
*  [[三戸鹿角街道|三戸・鹿角街道筋]]
 
*  [[釜石街道]][[海辺道|・海辺筋]]
 
*  [[宮古街道|宮古街道筋]]
 
*  [[小本街道|小本街道筋]]
 
*  [[野田街道|野田・沼宮内街道]]
 
*  [[遠野街道|花巻・遠野街道筋]]
 
*  [[浄法寺街道]]
 
*  [[北浜街道]]
 
*  [[田名部街道]]
 
*  [[北通]]
 
*  [[西通]]
 
 
 
==== 八戸藩 ====
 
八戸領内の主な街道は八戸城下を起点としていた。
 
*  [[上り街道]]
 
*  [[九戸街道]]
 
*  [[久慈街道]]
 
*  [[三戸街道]]
 
*  [[五戸街道]]
 
*  [[市川街道]]
 
*  [[浜街道]]
 
*  [[新井田街道|新井田・種市街道]]
 
 
 
==== 明治期における国道・県道・里道の区別(岩手県) ====
 
国道・県道・里道の分類は、修繕費について、国道は官費支弁、県道は地方費支弁となったものと考えられ、それに次ぐ重要路線は里道(村道)となっていた。
 
 
 
明治14年の県記録に、一等国道として1路線、三等国道として1路線、県道の名称は17線あり、内一等県道1路線、三等県道16路線をあげられている。
 
* 一等国道
 
** 函舘街道 管内の中央部を南北に貫通する管内陸上交通の幹線。
 
* 三等国道
 
** 浜街道  宮城県下気仙沼を経て岩手県に入り、三陸海岸を経過して青森県下に通ずる沿岸郡村の陸上交通線。
 
        宮城県下気仙沼-気仙-氷上-盛-吉浜-小白浜-釜石-大槌-船越-山田-津軽石-宮古-田老-小木-田ノ畑-普代-宇部-久慈-青森県 十七駅が設置
 
 
 
* 一等県道
 
** 秋田街道     盛岡-雫石-橋場-秋田県生保内、途中二駅
 
* 三等県道
 
** 山形街道(其一) 盛岡-繋-南畑-川舟-秋田県 途中七駅
 
** 山形街道(其二) 黒沢尻-川尻-越中畑-秋田県 途中四駅
 
** 津軽街道     盛岡-一木木-寺田-秋田県、途中五駅
 
**  同新道     田頭-松尾-兄川-秋田県、途中三駅
 
** 宮古街道     盛岡-築川-川井-宮古、途中七駅
 
** 釜石街道     盛岡-大迫-遠野-釜石、途中七駅
 
**  同古道     達曾部-遠野
 
** 小本街道     盛岡-藪川-岩泉-小本、途中三駅
 
** 久慈街道     沼宮内-葛巻-久慈、途中二駅
 
** 八戸街道     福岡-観音林-八戸
 
** 遠野街道(其一) 花巻-土沢-下宮守-遠野
 
**  同街道(其二) 伊手-人首-鮎貝-遠野
 
** 気仙沼街道    磐井-薄衣-手厩-気仙沼、途中三駅
 
** 石巻街道     磐井-金沢-涌津-宮城県、途中二駅
 
** 気仙街道(其一) 磐井-長坂-大原-気仙、途中四駅
 
**  同街道(其二) 水沢駅-岩谷堂-世円米-盛、途中四駅
 
<!-- (明治十四年)県史10-p121-122 -->
 
 
 
=== 主要な港 ===
 
当時の海上輸送ルートは、田名部湊([[むつ市]])や野辺地湊([[上北郡]][[野辺地町]])を利用して日本海を経由して西国に至る[[北前船|日本海海運(西廻り航路)]]と、宮古湊([[宮古市]])から三陸沖を経由したり、北上川舟運を通じた仙台領石巻湊(宮城県[[石巻市]])を利用して[[銚子市#銚子漁港|銚子]]に陸揚げする太平洋海運があった。<!-- 青森県史 資料編 近世4 P193-195 -->
 
 
 
{|
 
|-
 
|閉伊郡
 
|釜石・両石・大槌・吉里吉里・山田・宮古
 
|-
 
|北 郡
 
|泊・野辺地・横浜・[[田名部七湊]](川内・安渡・大畑・大間・奥戸・佐井・牛滝 『郷村古実見聞記』<small>時代により変化した</small>)
 
|-
 
|八戸領
 
|久慈・鮫
 
|}
 
 
 
=== 北上川水運 ===
 
盛岡藩では江戸藩邸への物資を廻送は、慶安期以降に北上川舟運(しゅううん)<ref name="岩手博02">[http://www.pref.iwate.jp/~hp0910/korenaani/h/023.html (岩手県博物館)北上川の舟運]</ref><ref name="日財図02">[http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2005/00085/contents/0001.htm  (日本財団)郡山河岸と小操舟]</ref>と[[太平洋]]の[[海運]]を利用し、[[仙台藩|仙台領]]石巻に米倉を設置した。米雑穀類のほかに、鹿角地方で産出された銅も新山河岸からも積み出されていた。
 
 
 
また、八戸藩の飛地である志和郡四ヵ村の米穀類も郡山河岸を利用して江戸廻米を行っていた。
 
{{Main|[[北上回漕会社#北上回漕会社前史|北上回漕会社]]}}
 
{| class="wikitable" style="Background:white; font-size:smaller"
 
|-
 
| rowspan="2" style="text-align:center" |河 岸
 
| style="text-align:center" |盛 岡
 
| style="text-align:center" |日 詰
 
<!--  | style="text-align:center" |石鳥谷河岸 -->
 
| style="text-align:center" |花 巻
 
| style="text-align:center" |黒沢尻
 
| rowspan="2" style="text-align:center" |(藩 境)
 
| style="text-align:center" |仙台藩領
 
|-
 
<!--  | style="width:5em" | -->
 
| style="width:5em" style="text-align:center" |新山河岸
 
| style="width:5em" style="text-align:center" |郡山河岸
 
<!--  | style="width:5em" | -->
 
| style="width:5em" style="text-align:center" |花巻河岸
 
| style="width:5em" style="text-align:center" |和賀川舟場
 
| style="width:5em" style="text-align:center" |石巻湊
 
|}
 
 
 
=== 盛岡領 番所の所在地 ===
 
{| class="wikitable" style="Background:white; font-size:smaller"
 
|-
 
| style="text-align:left" colspan="9" |'''境目番所''' (他領との境界警護)
 
|-
 
| style="width:6em" |'''[[和賀郡]]'''
 
| style="width:6em" | 鬼柳番所
 
| style="width:6em" | 立花番所
 
| style="width:6em" | 黒岩番所
 
| style="width:6em" | 浮田番所
 
| style="width:6em" | 田瀬番所
 
| style="width:6em" | 倉沢番所
 
| style="width:6em" | 越中畑番所
 
| style="width:6em" | 岩崎番所
 
|-
 
| '''[[閉伊郡]]'''
 
| 鮎貝番所
 
| 荒屋番所
 
| 赤羽根番所
 
| 平田番所
 
| colspan="4" |
 
|-
 
| '''[[岩手郡]]'''
 
| 橋場番所
 
| colspan="7" |
 
|-
 
| '''[[鹿角郡]]'''
 
| 熊沢番所
 
| 土深井番所
 
| 松山番所
 
| 濁川番所
 
| colspan="4" |
 
|-
 
| '''[[北郡]]'''
 
| 馬門番所
 
| colspan="7" |
 
|-
 
| style="text-align:left" colspan="9" |'''物留番所''' (領内の商品流通の統制)
 
|-
 
| '''[[和賀郡]]'''
 
| 煤々孫番所
 
| 沢内番所
 
| 下中島番所
 
| 黒沢尻番所
 
| colspan="4" |
 
|-
 
| '''[[閉伊郡]]'''
 
| 遊井名田番所
 
| colspan="7" |
 
|-
 
| '''[[稗貫郡]]'''
 
| 野沢番所
 
| colspan="7" |
 
|-
 
| '''[[岩手郡]]'''
 
| 簗川番所
 
| 尾入番所
 
| colspan="6" |
 
|-
 
| '''[[鹿角郡]]'''
 
| 湯瀬番所
 
| colspan="7" |
 
|-
 
| '''[[二戸郡]]'''
 
| 小繋番所
 
| colspan="7" |
 
|-
 
| '''[[三戸郡]]'''
 
| 夏坂番所
 
| colspan="7" |
 
|-
 
| style="text-align:left" colspan="9" |'''遠見番所''' (船舶を監視)
 
|-
 
| '''[[閉伊郡]]'''
 
| 小谷鳥
 
| 重茂
 
| 箱ヶ崎
 
| 下ノ崎
 
| 羅賀崎
 
| colspan="3" |
 
|-
 
| '''[[九戸郡]]'''
 
| 山の上
 
| colspan="7" |
 
|-
 
| '''[[北郡]]'''
 
| 泊ノ崎
 
| 尻屋崎
 
| 黒岩
 
| 牛滝
 
| colspan="4" |
 
|}
 
「郷村古実見聞記」([[文化 (元号)|文化]]元年([[1804年]])書上)
 
=== 八戸領 番所の所在地 ===
 
{| class="wikitable" style="Background:white; font-size:smaller"
 
|-
 
| style="width:10em" | '''城下'''
 
| style="width:6em" | 沢里惣門
 
| style="width:6em" | 売市惣門
 
|-
 
| '''[[久慈街道|久慈街道筋]]'''
 
| colspan="2" | 田代番屋
 
|-
 
| '''[[登り街道|登り街道筋]]'''
 
| colspan="2" | 天狗沢番屋
 
|-
 
| '''[[市川街道|市川]]・五戸街道筋'''
 
| colspan="2" | 大橋番屋
 
|}
 
このほかに、必要に応じて改所が設置された。
 
 
 
== 城地 ==
 
=== 要害屋敷 ===
 
はじめは、伊達、佐竹、津軽藩に対する国境警備のための城館であったが、文化年間になると地方統治の一拠点に変質し、役所が要害屋敷にあり、年貢(金穀や現物)を収納する藩庫(土蔵)があってその土地の人々が年貢を上納する便宜上の理由もあり、代官所とは異なった。
 
 
 
* 居城 [[岩手郡]] [[盛岡城|盛岡]]
 
* 抱城 [[稗貫郡]] [[花巻城|花巻]]
 
<!-- 慶長20年([[1615年]])に江戸幕府が制定した一国一城令に則り、支城の性格を帯びている代官屋敷を館(たて)と称し、要害屋敷と公称した。  -->
 
** 要害屋敷 [[鹿角郡]] [[花輪館|花輪]]
 
** 要害屋敷   〃 [[柏崎館|毛馬内]]
 
** 要害屋敷 [[閉伊郡]] [[横田城 (陸奥国)|遠野]]
 
** 要害屋敷 [[北郡|北 郡]] [[七戸城|七戸]]
 
** 要害屋敷  〃  [[野辺地城|野辺地]]
 
 
 
== 江戸城の詰間 ==
 
* 柳間 (寛政期)
 
* 大広間 (天保期、文化2年([[1805年]])以降 大広間詰)
 
 
 
== 藩邸および江戸での菩提寺 ==
 
宗藩盛岡藩の[[江戸藩邸]]は、外桜田に上屋敷、麻布南部坂に下屋敷があった。後に鉄砲洲<!-- 三田寺町 という資料もあり -->に中屋敷を設けるが品川大崎村に移転。また、江戸[[蔵屋敷]]は芝田町に、[[京都]]藩邸は東岡崎村に、[[大坂]]藩邸は北浜過書町におかれた。江戸における菩提寺は芝切通しにあった五山派の勝林山金地院であった。
 
 
 
また、江戸藩邸は[[元禄]]16年([[1703年]])の[[元禄大地震]]では1度すべて全壊している。
 
 
 
== 飢饉 ==
 
古来、この地方では[[飢饉]]が非常に多く、その度に多大な死者を出していた。特に、慶長5年(1600年)から明治3年(1870年)の盛岡廃藩までの270年間を通じて断続的に飢饉が続き、その間に、記録に残っているだけでも不作が28回、凶作が36回、大凶作が16回、水害が5回あった。
 
 
 
特に沿岸部([[閉伊]]・[[九戸]]・[[三戸]]地方)においては、[[やませ]]と呼ばれる冷風による被害が甚大で、[[天明]]3年([[1783年]])から天明7年([[1787年]])にかけて起った全国的な大飢饉([[天明の大飢饉]])では収穫が0という惨状であった。
 
 
 
また、藩経営が潤滑に進まなかったため備蓄が少ないばかりか、農地も農作物も無いという状態に陥ったことから、死者がさらに増えた原因であるとされている。
 
 
 
=== 飢饉による一揆 ===
 
盛岡藩での[[一揆]]は記録にあるものだけでも133回(次点の[[久保田藩]](秋田藩)は87回)あり、その大半は18世紀末以降であり、時代が下るにつれて、盛岡以南の稲作地帯と、製鉄・水産業の盛んな三陸沿岸地域での一揆が多く発生している<!--面積は広いものの江戸時代では一揆が最も多い藩であった-->。
 
 
 
原因としては以下の諸点が考えられる。
 
* 水稲北限地域外で無理に水稲生産を強制したため、連年凶作に見舞われ、代換品による食事を奨励したが、代換品すらも備蓄が無かったこと。
 
* [[寛政]]5年([[1793年]])の松前(蝦夷地)出兵が原因の財政負担増。
 
* 目安箱の設置が、罪人を糾明する証拠集めのために用いられたこと。
 
* 負債を次から次へと作る新税・重税で解消しようとしたこと。
 
* 海産業を主とする三閉伊地方([[三陸海岸]]沿岸部)に、水稲の基準で重課税。
 
* 三閉伊地方の産業(海産、材木、製鉄)に御用金制度を用い、無理な課税を行ったこと。
 
* 「軒別税」(人頭税)を実施したこと。
 
* [[藩札]]の大量発行による[[インフレーション]]。
 
* 幕府の手伝い普請(公共工事手伝い命令)による臨時課税。
 
* 財政難から藩士の禄を長期にわたって借上したこと。
 
* [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]以来のライバルである[[弘前藩]]、[[仙台藩]]に対抗するために恒常的に高直しや[[官位]]の叙任工作を幕府有力者に働きかけていたための出費。
 
 
 
さらに、農民たちはこのような原因から起こった貧困を脱するため、偽金(密銭)を鋳造したが、藩側は原因となる問題を放置のまま、偽金の製造に関わる者、使用した者を重罪人として扱い、厳重に処罰した。それまで何とか偽金で食べ繋いで来た農民たちは、1万人規模の一揆を起こすようになり、それを成功させたのである。
 
盛岡藩百姓一揆の中で最も大規模かつ組織的で、その要求が政治的であったものが弘化4年([[1847年]])と嘉永6年([[1853年]])の'''三閉伊一揆'''であった。
 
{{Main|三閉伊一揆}}
 
天保期の一揆・騒動は盛岡以南の穀倉地帯の買米制度とその停止を要求して行われており、田名部・野辺地・七戸の各通は買米の対象となる穀倉地帯ではなく、他領からの移入米によって生活をまかなう地区であったため、対立を引き起こさなかった。そして、寛永期以降の蝦夷地幕領化の中で「松前稼」と呼ばれた、蝦夷地への労働力移動が可能であり、飢餓期の困窮を一時的に回避することができた。
 
 
 
== 飢饉・一揆 ==
 
東北地方の太平洋側では、初夏になると、「[[やませ]]」と呼ばれる冷涼な北東風が吹き、夏でも気温が上がらず、明治以降においても、冷害が凶作をひきおこしたことがある。北奥に位置する南部藩は領域は広大であっても、そのほとんどが山林原野によって占められて耕地が少なく、また水稲生産の限界地的な地域で、当時の幕藩社会が石高制に基づいて、つねに財政的基盤を畑作より水稲生産力に求めていたが、天候不順に起因する冷害と、旱舷・風水害・霜害・病虫害を原囚とする凶作を契機にして、食糧の欠乏が原因で多数の飢人と餓死者を出していた。
 
 
 
盛岡・八戸両藩で発生した百姓一揆は132回を数え<ref name="南部一揆の研究">「森嘉兵衛著作集 七 南部藩百姓一揆の研究(昭和10年(1935年))」 ([[法政大学出版局]] 1992出版) </ref><ref name="岩手博03">[http://www.pref.iwate.jp/~hp0910/korenaani/h/074.html (岩手県博物館)百姓一揆を禁じた制札]</ref>、徳川期の最多発生地であった。その中でも「稗貫・和賀」(花巻・北上)地方が最多発地域だった。
 
 
 
元禄・宝暦・天明・天保の飢饉は被害が甚大で盛岡藩の四大飢饉といわれ、凶作・飢饉の続発で藩財政を圧迫し、重税とそれに反対する一揆が繰り返されてきた。
 
 
 
=== 元禄の飢饉 ===
 
<small>(元禄4年(1691年) - 8年(1695年))</small>
 
 [[元禄]]年間([[1688年|1688]]~[[1704年]])の盛岡藩は、元禄6([[1693年]])年・10年・11年・16年の四ヵ年を除くと、あとは連年不作と凶作が続き、元禄8年と15年には飢饉となった。
 
元禄8年、典型的な霖雨・早冷による冷害がもとで作柄も悪く、年貢収納が例年の28.6%しか見込めず、ついに飢饉となって米価が高騰した。
 
11月、藩では幕府に「領内不作の儀」について報告した結果、来春の参勤が免除され、その費用をもって飢饉対策に充当した。
 
米雑穀等の他領移出禁止、貯穀奨励、他領者の領内逗留禁止、酒造の禁止、火の用心などを命令するとともに、城下の庶民救済のため払米をし、紺屋町と寺町では盛岡御蔵米を小売させた。さらに城下の寺院や富豪の協力を得て、長町梨子本丁出口辺と束顕寺門前の二ヵ所に御救小屋を設け、飢人の救済にあたった。
 
 
 
=== 寛延2年 猪飢饉<small>(イノシシけがづ)</small>  ===
 
当時関東周辺で、田畑を木綿や養蚕などの収益の上がる作目に転換したため、大豆が不足し、盛岡藩や八戸藩が大豆生産のため、焼き畑を繰り返し放棄地に餌が生い茂ることで猪が異常繁殖して、[[寛延]]2年([[1749年]])、凶作で里に下りてきた畑の作物を食い荒らし、多くの農民を餓死に追いやった。
 
 
 
=== 宝暦の飢饉 ===
 
<small>(宝暦3年([[1753年]]) - 宝暦7年([[1757年]]))</small>
 
 
 
[[宝暦]]4年([[1754年]])が大豊作であったので約10万石の江戸廻米を行った結果、藩内に米が払底し、宝暦5年([[1755年]])の大凶作を契機に大飢饉に発展した。藩では城下の富豪からの御用金を資金として、翌宝暦6年([[1756年]])正月、城下の永祥院と円光寺に茅葺きの御救小屋を建て、飢人の収容救済に乗り出した。
 
宝暦6年に代官所が提出した報告書によると、餓死者 49,594人、空家 7,043軒であり、なかでも三戸郡五戸通、次いで岩手郡の雫石通・沼宮内通の被害が激甚を極めた。
 
 
 
=== 天明の飢饉 ===
 
<small>([[天明]]2年([[1782年]]) - 天明8年([[1788年]]))</small>
 
 
 
天明3年、土用になっても「[[やませ]]」よって夏でも気温が上がらず、稲の成長が止まり、加えて、大風、霜害によって収穫ゼロという未曾有の大凶作となり、その年の秋から翌年にかけて大飢饉となり、多くの餓死者を生じた。また、気象不順という自然災害だけに原因があるわけでなく、農村に対する年貢収取が限度を超え、農業における再生産が不可能な状態に陥った。<!--『岩手県史』5_858-9 -->
 
 
 
=== 寛政 2年 長岡通久保村知行地一揆 ===
 
=== 寛政 7 - 8年 盛岡南方税制改革一揆  ===
 
 
 
=== 寛政11年 - 文政 4年 蝦夷地幕領化にともなう一揆 ===
 
下北地区の一揆13件の内8件までは、寛政11年([[1799年]])から文政4年([[1821年]])までの蝦夷地幕領化にともなう時期に集中している。
 
 
 
[[寛政]]11年([[1799年]])2月の東蝦夷地の幕領化によって、[[享和]]2年([[1802年]])の東蝦夷地の永久直轄化と、課役負担の固定化という危機感を増幅させた。
 
 
 
[[文化 (元号)|文化]]元年([[1804年]])の佐井-箱舘間の航路にともなう夫役・伝馬役にかかわる課役負担の増加に、人馬通行役の軽減を求めた愁訟が起こり、文化5年([[1808年]])12月に、盛岡藩は東西蝦夷地を永久に警護するため1,000人の藩兵を蝦夷地へおくることになったが、代わりに領地加増を伴わない20万石への高直しが行われる。それにより増俸なしに軍役負担だけが倍になって<!-- 以下、大畑町史 -->藩財政は枯渇状態であるという過重な結果をまねいた。
 
 
 
文化9年([[1812年]])農民が従来負担してきた賦役を貨幣で賦課した「定役銭」を農民に転嫁したため、北通の関根村、下風呂村、易国間村、蛇浦村、大間村、奥戸村、牛滝村、佐井村の各肝入と大畑村険断が連名で田名部代官所に愁訴に及び免除された(文化9年定役銭一揆)が、西通と東通の村々は負担が重くなった。また、文化12年([[1815年]])にも新役銭の徴収免除の愁訴が行われた。
 
 
 
=== 天保の飢饉 ===
 
<small>([[天保]]3年([[1832年]]) - 天保10年([[1839年]]))</small>
 
霖雨・早冷・降霜などの気象条件を主な原因とし、天保3年([[1832年]])から同9年([[1838年]])まで<!--の七ヶ年は-->連続的に凶作が続き、これを七年「飢渇(けかつ)」と呼ばれた<ref name="大間" />、また藩財政の窮乏による重税政策がその度を高めた。
 
天保期、盛岡藩領では凶作がうち続き、にもかかわらず、盛岡藩領からは藩財政の補填のために米価の高い江戸を目標としての米の移出が強行されていた。それは百姓からの年貢の通常の取り立てでまかなうことはできず、来年の耕作のための種籾や、食料としての蓄えにも及ぶものさえ取り立てて廻送していった。
 
 
 
天保期の一揆・騒動は盛岡以南の穀倉地帯の買米制度とその停止を要求して行われており、田名部・野辺地・七戸の各通は買米の対象となる穀倉地帯ではなく、他領からの移入米によって生活をまかなう地区であったため、対立を引き起こさなかった。そして、寛永期以降の蝦夷地幕領化の中で「松前稼」と呼ばれた、蝦夷地への労働力移動が可能であり、飢餓期の困窮を一時的に回避することができた。<!--『岩手県史』5_859 -->
 
 
 
==== 天保 5年 久慈・軽米通 稗三合一揆 ====
 
[[天保]]4年([[1833年]])の飢饉に際して、八戸藩は一切の救済を行うことなく、領民の一日の食料を精白しない稗三合と定め、それ以外の穀物は市場の実勢を無視し、強制的にすべて藩札で安く買い上げることを布告した。
 
天保5年([[1834年]])12月に入って是川村を皮切りに、久慈・軽米・嶋守に広がり、最初集結した2千人の一揆勢が[[久慈街道]]を、法螺貝の音轟かせながら八戸城下鍛治町および周辺村々に結集した時には人数8千になっていたと言われる。一揆の訴願書には、70以上の願書を出して、[[野村軍記]]の引き渡しと稗三合一件の撤回を要求した。
 
<!--天保5年([[1834年]])、-->野村軍記は起こった総百姓一揆の責任を負わされて入牢して八戸で獄死した。
 
<!--http://soumai.p-kit.com/page202651.html-->
 
 
 
==== 天保 7年 盛岡南方一揆 盛岡越訴 ====
 
天保7年([[1836年]])11月に新税・増税反対一揆として、現大迫町(花巻市)の農民数千人が決起して、盛岡城下に押しかけ(盛岡強訴)の一揆側の要求を一度受入れたが、解散をすると、前言を取消した。
 
==== 天保 8年 盛岡南方一揆 仙台越訴 ====
 
天保8年([[1837年]])には、昨年の一揆に対し稗貫・和賀の農民2千人以上が [[仙台藩|仙台領]]に越訴する事態に発展し、南部藩を非難した。南部藩は一揆衆を取り戻すため、首謀者を処罰しないことを約束し、仙台藩は幕府に内密にすることを約束した。しかし南部藩は一揆衆を取り戻した後、許可したものを破棄し、首謀者を処刑した。これで領民からは軽蔑するようになった。その後、南部藩は目安箱を設置した。
 
 
 
=== 三閉伊一揆  ===
 
三陸東海岸では水稲生産力には恵まれず、江戸市場輸出・長崎俵物輸出、魚粕・魚油の商品生産化によって、他領からの移入米によって生活をまかなう地区であった。
 
{{Main|三閉伊一揆}}
 
==== 弘化4年 遠野強訴  ====
 
盛岡藩は、天保10年([[1839年]])、今後、御用金など<!-- 他の新税や御用金は課税しないと -->一切の租税を廃止するとして、全領内に一軒あたり1貫800匁を基準に全戸に割り当てた'''軒別役'''という新たな税を課した。<!--商品生産として有効な水産資源に狙いをつけたので、-->三陸沿岸の大槌・宮古通の三閉伊地域は、特に課税額が多く、全領の合計は2万9180両に及んだ。
 
 
 
[[弘化]]4年([[1847年]])10月に、新たな課税はしないという先の約束を破り、財政難に窮した藩は、外船警備のための'''特別御用金'''5万2500両を課した。これが契機となって11月17日、野田通の安家村(下閉伊郡岩泉町)から起きた一揆が周辺も村々を巻き込んで小本、田老、宮古、山田、大槌と南下し各地の一揆と合流して[[笛吹峠 (岩手県)|笛吹峠]]を越えて、遠野に強訴した。
 
上納金の不払いを要求するものではなく、大挙して仙台領へ出稼ぎにでてその労賃をもって支払うという経緯のため、南部藩の恥を天下にさらすこととなり、鎮圧一点ばりの鎮撫は行えなかった。
 
 
 
 12月4日、遠野早瀬川原において、不信極まる本藩上席家老'''南部土佐'''に何を問われても口を開かず終始無言で相手とせず、遠野南部家家老'''新田小十郎'''に、一揆の代表は集会の25ヶ条の要求を願書で提出した。要求は、御用金の免除、大豆・塩の買い上げ免除、いままでの定役と年貢以外の新税の免除などであった。ついに、盛岡藩は、これらの要求の12条を認めて事態を収拾しようとしたざるを得なかった。
 
遠野南部家では一揆の農民に帰路の食料を支給したので、12月5日から各村々に散っていって、伊達領への越藩もかろうじてまぬがれ、ひとまず鎮撫するにいたった。
 
『[[内史略]]』によれば、一揆の代表弥五兵衛は花巻で逮捕され、盛岡で牢死している。
 
 
 
 また、これに呼応し、同年12月1日に鬼柳・黒沢尻通、同15日には徳田・伝法寺通と八幡・寺林通でも一揆が発生したが、当局によって鎮圧された。
 
 
 
(藩の対応)
 
 
 
<!--幕府老中阿部伊勢守正弘のの内意ということで、-->[[嘉永]]元年([[1848年]])6月、責任を取る形で南部利済は病気在国中であったため病気隠退を願いで、南部利義が第13代藩主となるが、利済は家督は譲ったものの官位も返上せず「大太守」の名で院政が行われた。
 
嘉永2年([[1849年]])7月、利済は藩主位を譲っていた南部利義が江戸滞在中に南部土佐を派遣して退位するように圧力をかけられて、11月に隠居した。この廃立に反対した[[東堂一堂|東堂学派]]一派は翌1850年に弾圧され、南部利剛を第14代藩主に相続させて院政を継続した。
 
<!--利済の院政がしばらく行われる。さらに利済の重臣で近習頭である田鎖左膳は嘉永2年10月に利道と改名している。-->
 
 
 
==== 嘉永6年 仙台強訴 ====
 
嘉永6年([[1853年]])2月、藩は<!--経済的に参勤交代費と累積赤字に苦しみ、-->行きづまった財政はいかんともしがたく、'''郷割御用金'''の徴収が強制されたことを契機にして、各種の新税に反対する流通商人を中心に、同年5月、野田通の田野畑村から一斉に蜂起をはじめ、 [[三陸浜街道|浜通り]]を南下して田老・宮古・山田の各村を押し出すにつれ大群衆となっていった。
 
6月4日、大槌通に押し寄せ、<!--盛岡藩当局は警備の役人を派遣したものの、かえって一揆の勢いを恐れて逃げ出 し、大槌代官所の役人達は船で逃げたという。-->翌5日に釜石に集合した一揆の人数は一万六千余人にも達し<!-- た。浜通りをここで一揆は遠野に強訴すると言いふらしながら-->、仙台領への越訴を画策し、盛岡領平田番所から仙台領<!--唐丹番所を-->へ押し通ろうしたが、<!-- 一方-->唐丹番所側では<!--、既にこの動きを察知し、高田代官を通して藩へ報告。--> 藩境警備を厳重に取り締まっていたため、間道を進み<!--篠倉峠を越えるルートを通り、-->気仙郡唐丹村に八千人余が越訴し、仙台藩の役人に訴え出るという、前代未聞の自体になっていた。
 
これに対して、盛岡藩が策を練るすべもなく混乱しているうちに、6月17日に一揆の代表45人を残して帰国した。村々は、この代表に何らかの不幸が起きた場合には共同で子孫養育料をだすことなどの約束を取り交わしていたのである。
 
 
 
その訴状によれば、三閉伊を幕領化か、仙台藩領化を願い出たもので、仙台藩では政治的要求であるから返答は出来ないとし、具体的な要求を尋ね<!--盛岩寺で願文をつくる 盛岩寺において三閉伊通り(野田・宮古・大槌の各通り)の幹部45人の寄り合いが開かれ-->、商品経済の発達によって賦課された重税に対する反対行動であったが、答えた47箇条の願文をつくりあげ、伊達藩へ差し出した。伊達藩と南部藩の話し合いは5ヶ月も話し合われ、ようやく三閉伊通りの農漁民の願いが叶ったのであった。6ヶ月間にわたった押し出し一揆は成功の内に終わる
 
 
 
(藩の対応)
 
 
 
嘉永7年([[1854年]])、この一揆は幕府に知られ、藩主・利剛はお構いなし、隠居の利済には参府の上、永久閉居が申し付けられた。<!--、翌安政2年(1855年)4月に江戸の下屋敷で病死した。-->
 
領袖を失った利済派は、家老 南部土佐、[[横沢兵庫]]を、御役御免のうえ家祿半減、永久閉居。参政[[石原汀]]、[[田鎖左膳|田鎖茂左衛門]]、川島杢左衛門らも家祿屋敷を没収のうえ、召しかかえを放たれる。
 
<!-- 盛岡藩に三奸といわれる若年寄がおりました。石原汀、田鎖左膳、川島杢左衛門でございます。とくに石原汀は、利済さまの生母である油の御前といわれる町家出身の「お米の方」の血縁筋にあたり、利済さまの寵愛(ちょうあい)このうえないのであります。-->
 
 
 
南部利義は隠居の身になっており、父利済が公儀から謹慎を命ぜられたときも、遊興遊猟を続けていたため、譴責を受け、江戸家老の毛馬内典膳、[[東政図|東中務]]は責任を負って免職されている。
 
 
 
== 他地域との関わり ==
 
=== 蝦夷地との関わり ===
 
江戸幕府が成立すると[[徳川家康]]は[[アイヌ人]]の往来を自由とする[[黒印状]]を発布した。そこで17世紀、盛岡藩領のアイヌ人の[[津軽半島]]往来は自由に行われ、盛岡藩領内には公式なアイヌ人居住地の[[戎村]]や、ほかにもアイヌ人の非公式な交易拠点があった。東北アイヌは和人風俗を身に付け、逆に和人の領民の中にもアイヌ風俗が一部普及したため、日常ではアイヌと非アイヌの境界はあいまいだった。これを利用して、盛岡藩はアイヌ人を仲介とした北方貿易の担い手にもなっていた。
 
 
 
[[寛文]] 8年([[1668年]])、[[シャクシャインの戦い]]の際、翌寛文 9年 アイヌ蜂起の鎮圧のため、幕命により[[弘前藩]]・[[久保田藩]]とともに蝦夷地へ出兵し、また、領内において下北アイヌの監視をも兼ねて田名部・野辺地に藩士を派遣した。
 
 
 
18世紀には、盛岡藩領内の[[飛騨屋]]が[[蝦夷地]]での材木業、のちに[[漁業]]にも進出した。飛騨屋には[[下北半島]]や[[宮古市|宮古]]周辺から出稼ぎ労働者が集まり、アイヌ人を酷使しながら大きな利益を上げた。やがて反発したアイヌ人が蜂起([[クナシリ・メナシの戦い|国後目梨の戦い]])したが、[[松前藩]]が鎮圧に成功した。このとき盛岡藩の出稼ぎ労働者の一部がアイヌ側に保護され、盛岡藩に引き渡されている。
 
 
 
[[寛政]]11年([[1799年]])、幕府は千島列島に進出しつつあった[[ロシア帝国|ロシア]]に対抗して蝦夷地の直轄領化が試みられた。このとき幕府より蝦夷地経営、警備の名目によって東北諸藩が出兵を命じられ、盛岡藩は後の[[渡島国]]([[松前藩]]領を除く)・[[胆振国]]・[[択捉島]]の領域を担当した。特に[[ニコライ・レザノフ|レザノフ]]の部下による択捉島攻撃の際は矢面に立ち、敗北している。盛岡藩はその後も対ロシア警備の前線を担当し、[[ヴァーシリー・ゴローニン|ゴローニン]]の逮捕も盛岡藩兵が行ったものである。当初、幕命により[[箱館]]に陣屋を建設して警備に当たったが、[[新渡戸十次郎]]らの建策より[[1857年]]に[[室蘭郡|室蘭]]に移った。これらは1868年の[[戊辰戦争]]の際に引き払ったが、跡地は現在でも残っている。
 
 
 
=== 盛岡藩領と青森県 ===
 
廃藩置県により、盛岡藩は岩手県だけではなく、青森県にも編入された。現在の青森県域については、江戸時代中期以降の盛岡藩領と八戸藩領が共存している。
 
 
 
いわゆる「[[南部地方 (青森県)|南部地方]]」と呼ばれる地域は、ほとんどが旧盛岡藩領である。また、[[下北地方]]も旧盛岡藩領であった。
 
 
 
[[八戸市]]周辺から岩手県久慈市に到る海岸に沿った九戸郡を含む領域と志和4ヵ村は、旧八戸藩領であった。志和4ヵ村は収穫量5,000石の飛び領で、周辺の盛岡藩領の農民が八戸藩領農民を圧迫し、八戸の役人がたびたび交渉に赴き、ついには討って出ると迫って八戸藩領の農民の権益を保護するなど、盛岡藩と八戸藩の係争地であった。八戸藩では領内において代官が各2名ずつ置かれていたが、領外(飛地)の志和については4名に増員された<ref>[[工藤祐董]]著『八戸藩の歴史』八戸市、1999</ref>。
 
 
 
=== 弘前藩との遺恨 ===
 
盛岡藩南部氏は、戦国時代から[[弘前藩]][[津軽氏]]と確執を抱えていた。津軽氏は、元々南部氏の分家・大浦氏であったが南部宗家への従属意識が薄く、[[津軽為信|大浦為信]]のときに独立した。その際に南部氏重臣・[[石川高信]](盛岡藩初代藩主となる[[南部利直]]の祖父にあたる)らが討たれている。その後の中央工作によって大浦氏が津軽氏と名乗り[[豊臣政権]]から大名として認められてしまったため、南部氏の領地は大幅に減少することになった。この遺恨は江戸時代も続き、弘前藩主津軽氏の参勤交代は南部領を一切通らずに行なわれたし、江戸在府期間も原則として両家は重ならないように配慮され同席させられなかった。
 
江戸後期には南部家の家臣による津軽当主暗殺未遂事件([[相馬大作事件]])の遠因にもなった。
 
 
 
== 産業構造 ==
 
=== 畜産 ===
 
古代・中世に糠部と呼ばれた地域は名馬の産地として知られ、糠部の駿馬と称されており、その中心は北奥の三郡(北、三戸、九戸)であった。平安末期には東西南北の4つの「門」(かど)と、9つの「戸」(へ)に分けられ、'''[[糠部郡#九ヵ部四門の制|'''九ヵ部四門の制'''(くかのぶ しかどのせい)]]が成立し馬牧・駿馬の産地として知られていた。糠部の公田に課せられた年貢は馬で納められていた<ref name = azm01>「吾妻鏡」文治5年9月17日条</ref>。
 
<!--戦国の頃まで、山野の適地を選定し、そこに野馬を飼育し、年一度宛、野馬捕りをやっていた証があり、捲き堀の名が、それに起因して発生したことが考えられる。--><!--岩手県史3 P1016-->
 
 
 
==== 南部駒  ====
 
近世期に入ると、南部藩の馬制は、藩直営の牧野で飼う「御野馬(おのま)」と、民牧の「里馬(さとうま)」との二本建になっている。南部藩内の(九牧含む)すべての牛馬の総轄したのが、「牛馬掛御用人」<ref name="岩手大">[http://ir.iwate-u.ac.jp/dspace/bitstream/10140/1780/4/erar-v61n2p149-168.pdf (岩手大学研究年報) 第61巻第2号, 2001 公儀御馬買衆と盛岡藩]</ref>であって、その下に「野馬掛」と「里馬掛」がおかれた。
 
 
 
また、民間の馬であっても藩の許可なく移動することも売却することも禁止されており、藩は馬産による収益を確保していた。
 
藩から貸与された種牡馬によって生れた若駒(牡馬を「駒」、牝馬は「駄」と呼ばれた。)は、牝なら馬主に与えたが、牡はすべて二歳駒で「掫駒(せりごま)市」にかけて廉価で徴収して種馬や群軍用馬にして、馬商人も取引区域が限られ、他国人は取引が制限されていた<ref name="大間">『大間町史』</ref>。
 
 
 
盛岡城下の成立とともに産馬の掫(せり)市が始められたといわれているが、詳細は明らかではない。<!--『地方史事典』 弘文館-->
 
田名部では季節的に早い馬市が毎年ひらかれていた<ref name="大間" />。<!-- p.180 -->
 
 
 
[[貞享]]元年([[1684年]])、御掫駒奉行が9組20人任命され、領内30カ所近くの馬市を開催している。<!--『地方史事典』 弘文館-->
 
 
 
==== 南部九牧 ====
 
藩政期を通じ、南部九牧(なんぶくまき)<ref name="岩手図02">[http://www.library.pref.iwate.jp/ihatov/no6/html6/b26/index.html (岩手県図書館) 岩手の古地図 南部九牧之図]</ref>と総称される「'''御野'''(藩営牧場)」を整備して、<!--藩牧は御用人支配に属したが、牧経営の-->実務は三戸に御野馬役所を設けて、総括責任者は「御野馬別当」と呼ばれ、各牧には「馬責(調教)」「馬医」<!-- 「野守」「馬責(調教)」「馬医」「猟師(害獣防除)」「馬見」「木戸番」「野掛」などの属吏が配置されて監督にあたらせた。 -->が配置されて補佐する一方、藩牧が存在する各代官所には牛馬役が置かれた。
 
* 大間野(青森県下北郡大間町)(現 [[むつ市]])
 
* 奥戸野( 〃  〃  〃 )
 
* 蟻渡野( 〃 上北郡横浜町および野辺地町北部)
 
* 木崎野( 〃  〃 三沢市)
 
* 又重野( 〃 三戸郡新郷村)
 
* 住谷野( 〃  〃 三戸町)
 
* 相内野( 〃  〃 南部町)
 
* 北野 (岩手県九戸郡侍浜村)(現 [[久慈市]])
 
* 三崎野( 〃 九戸郡宇部村)
 
他に田鎖野・妙野・広野・立崎野があって、公牧は計13カ所。住谷野は中世から牧が存在したが他の牧は多くが[[寛永]]から[[正保]]期に整備されている。この他に[[寛文]]4年([[1664年]])の八戸藩分立によって盛岡藩は妙野(青森県[[八戸市]])と広野(岩手県[[久慈市]])の二牧を譲渡した<!-- 青森県史 資料編 近世4 P394 -->。
 
 
 
実際の藩牧経営は地元農民に転嫁され、夫役を徴収して<!--「野守」として野馬の飼育・管理を命じられ-->行われていた<!--大間町史-->。牧場に飼育さえている馬は、冬期には、積雪や寒凍を避けて、<!--舎飼と呼ばれる-->周辺<!--各村-->の農家に課役として預けて保護している。また、牧場により、積雪の少ないところは、四季を通じて放牧のまま<!-- 大間町史 四季放飼 p.176 -->であった。
 
 
 
明治維新後、盛岡藩の減転封に伴ない、各牧は後継の斗南藩・七戸藩に引き継がれたが、廃藩置県後は廃止された<!-- 青森県史 資料編 近世4 P394 -->。
 
[[明治]]3年([[1870年]])9月、、旧盛岡藩の産馬事業は直接政府が管轄することとなり、盛岡に民部省養馬掛出張所が置かれた。<!-- 青森県史-資料編近現代2近代成立期p.458-->
 
明治5年([[1872年]])10月 岩手県は九戸郡侍浜村北野と宇部村三崎野の旧盛岡藩の牧場廃止を行った<!--岩手県史9-P764-->。
 
 
 
==== 里馬 ====
 
里馬は飼育にあたって、村単位に春から秋まで共同の牧野<!--に放ち-->や、冬場の舎飼のための草刈り場も共同利用の入会秣場であり、村ごとに「馬組」が結成されて、「馬肝入」がそれを統括し、藩の牛馬方役人につながっていた<ref name="大間" />。
 
 
 
藩有の「野馬」は藩の乗用や贈答用にあてられていたほかに、郷村に無償で父馬として預けて「里馬」の改良に役立つ貸付種馬の育成を目的としており、藩の「牛馬改役」のほか、各代官所の「牛馬役」が巡回して郷村の農家の飼食する牡馬の調査を行なった。
 
 
 
[[宝永]]3年([[1706年]])、領内の里馬に関して、牝馬(母駄)を上中下の三等級に区分して本帳(馬籍帳)に登録し、その区別を何人も判別するために、髪を切り父馬も髪を切り一般牡馬と区別の明確化を図り、上駒、中駒は一切他領に出すことは禁じられていた。
 
 
 
==== 御馬買衆 ====
 
毎年秋に江戸幕府から「公儀御馬買衆」、諸大名から「わき馬買」と呼ばれる軍馬買い入れの役人が派遣されており、江戸幕府は軍馬購入のために、刈田郡宮(宮城県)から出羽国に出て、途中の横手の馬市で仕入れた後、六郷・角館・生保内を経由して国見峠を越え、主産地の盛岡入りするのが通例だった。
 
公儀御馬買衆は寛永2年([[1625年]])にはじめられ、元禄3年([[1690年]])を最後に廃止されたが、ある年の記録によれば一行の人数は御馬買衆は2人で従者を含めると50人におよんだという。軍馬の購入は例年二百頭前後で、11月には奥羽街道を経て江戸に帰ったという<ref name="あきた通巻121号">[http://common.pref.akita.lg.jp/koholib/search/html/121/121_039.html あきた(秋田県広報誌)通巻121号、1972年(昭和47年)6月1日発行]</ref>。
 
元禄4年([[1691年]])4月、老中<!--大久保忠朝-->より、盛岡・仙台両藩の留守居役に対して、御馬買衆の派遣は中止するが、歳、毛色、性別を目録に認めて、幕府<!--の若年寄り-->に提出するよう求められ、目録をもとに注文して馬を購入するようにした。この仕組みを「御買馬」と呼ぶようになった。享保4年([[1719年]])まで続き、毎年7-8疋が購入された。<!-- その後、享保5年からは「御用御馬」とし、購入方法も目録を無用とするなど改められた。-->
 
 
 
==== 牛の飼育 ====
 
南部領の牛飼育の産地は偏っておらず、北上川流域以外で行われ、閉伊郡の北方や九戸郡北部方面に飼育され、峻嶮な山谷の運搬のためなど、民間の駄<!--物資搬出交易-->用に利用され、農耕に使役された形跡がない。北上谷の米穀地帯への塩とその他の海産物を、おおむね閉伊・九戸の海岸に近い山間部から「野田ベコ」と呼ばれる牛方によって搬入されて来る例があった。
 
 
 
藩における牛の飼育は、馬に比較すると後れていたため、馬における諸制度のような完備が見受けられなく統制も緩やかであった。官職には目付役監督下に馬牛改役があり、各代官所毎に牛馬役があって、各村の馬牛肝煎を指揮していた。
 
 
 
=== 鉄器、鉄製品 ===
 
今でも「南部鉄器」として鉄瓶などが有名であるが、その歴史は[[17世紀]]中頃からとされ、上述の南部重直が、甲州から鈴木縫殿を鋳物師として、京都から小泉五郎七を釜師として呼び寄せたのが始まりである。
 
 
 
また、八戸藩領の九戸郡でも、十分な産出量の砂鉄を利用した鉄器があり、上記項目「飢饉による一揆」でも説明されたように、盛岡藩に出回った偽金の製造はこの地方が主流であったという。もっとも、悪貨が良貨を駆逐し、その後の藩札乱発もあって激しい物価高となり一揆の原因ともなった。
 
 
 
== 八戸藩と七戸藩 ==
 
=== 八戸藩(八戸南部藩) ===
 
{{Main|八戸藩}}
 
八戸藩は[[陸奥国]][[三戸郡]]八戸([[青森県]][[八戸市]]内丸)に存在した南部氏族の藩である。前述の通り、将軍の裁定により成立した藩であるため支藩ではない。
 
 
 
寛文4年(1664年)に八戸藩が分立され、藩庁は[[八戸城]]である。盛岡藩との関係については、独立した関係とされる。[[文化 (元号)|文化]]9年([[1812年]])八戸藩の上屋敷が類焼した際に財政支援を行っているが、盛岡藩主[[南部利敬]]より「八戸藩は独立した藩であり、心得違いがあってはならない」という趣旨の見解を示している<ref>『新編八戸市史 近世資料編1』八戸市、2007、426P</ref>。
 
 
 
領内人口は寛延2年(1749年)に7万1352人で([[江戸時代の日本の人口統計#盛岡藩 (南部藩)]]参照)、領地の内訳は[[三戸郡]]41ヶ村、[[九戸郡]]38ヶ村、[[志和郡]](現在の[[岩手県]][[紫波郡]])4ヶ村の計83ヶ村<ref>[http://www.hachinohe.ed.jp/haku/rekisi_tanjo.html 八戸藩の範囲]([[八戸市博物館]])</ref>。志和は周囲を盛岡藩に囲まれた[[飛び地]]である一方、九戸郡内には周囲を八戸藩に囲まれた盛岡藩の飛び地があった<ref>{{PDFlink|[http://www.pref.iwate.jp/~hp0910/tayori/101p6.pdf 岩手県の誕生]}}([[岩手県立博物館]]だよりNo.101 2004年4月)</ref>。現在の[[八戸市]]域と比較すると、現在の八戸市市川町の一部分などは'''盛岡藩'''域に属している。[[貞享]]元年([[1687年]])に盛岡・八戸両藩の間で侍浜村・白前村と七崎村が領地の交換がされ、七崎村が八戸藩領に編入された。
 
 
 
藩庁である八戸城の一部は角御殿表門が市内南部会館の表門として移築され現存する。<!-- {{Main2|詳細は[[八戸城]]の項目を}} -->
 
 
 
=== 七戸藩(盛岡新田藩) ===
 
{{Main|七戸藩}}
 
別名、盛岡新田藩と言われる盛岡藩の支藩。元々は江戸幕府[[旗本寄合席]]の石高5,000石の旗本であったが、本家より加増を受けて成立したもの。[[定府]](江戸住まい)大名であるが、南部信鄰が幼少の[[南部利用 (吉次郎)|南部吉次郎利用]]を補佐する際には幕府の許可をもらって盛岡に下向し、本家藩政に参画した。
 
 
 
[[陸奥国]][[北郡]](現在の[[青森県]][[上北郡]][[七戸町]]周辺)に領地があったと言われるが、書面上のものであったとも言われる。藩主は定府であったが、[[戊辰戦争]]後の戦後処理の際、盛岡藩重臣の新渡戸傳によって[[1863年]]に分知が実施されたとする書類が提示され(書類が本物であるかについては不詳)、これに基づく実際の領地が確定し、藩主が七戸に下った。陣屋門が1棟移築され現存する。
 
当初より七戸南部氏であったわけではなく、居所を[[七戸城]]とする分知大名の創設を幕府に願って認められて以後の呼称である。
 
 
 
七戸藩の江戸藩邸上屋敷は、[[江戸城]]半蔵門外(大手より10町。現在の「ふくおか会館([[福岡県]]東京事務所)」([[東京都]][[千代田区]]麹町)附近)にあり、これは旗本時代以来からのものである。また、天保年間には青山五十人町に下屋敷を設けた。ちなみに江戸の菩提寺は宗藩と同じ。
 
 
 
なお、盛岡藩主となった[[南部重信]]が養嗣子となって継いでいた七戸を知行地とする一族家臣[[七戸氏]]の跡は、重信の子の1人英信が名跡を継ぎ、七戸氏を称した。またそれ以外の重信の子([[七戸秀信]]・[[七戸定信]]・[[七戸愛信]])も七戸を称している。七戸愛信は盛岡藩家老職を務めている。
 
 
 
== 幕末の領地 ==
 
=== 盛岡藩 ===
 
* [[陸奥国]]([[陸奥国 (1869-)|陸奥国]])
 
** [[二戸郡]] - 68村(うち8村は[[会津藩#斗南藩|斗南藩]]に編入)
 
** [[北郡]]
 
* 陸奥国([[陸中国]])
 
** [[岩手郡]] - 85村
 
** [[稗貫郡]] - 68村
 
** [[和賀郡]] - 69村(うち52村は[[江刺県]]に編入)
 
** [[閉伊郡]] - 138村(江刺県に編入)
 
** [[鹿角郡]] - 70村(江刺県に編入)
 
** [[紫波郡]]のうち - 71村
 
** [[九戸郡]]のうち - 11村(江刺県に編入)
 
* 陸奥国([[岩代国]])
 
** [[伊達郡]]のうち - 8村([[福島県]]に編入)
 
* [[蝦夷地|東蝦夷地]]([[胆振国]]。いずれも[[開拓使]]直轄領に編入)
 
** エトモ場所([[室蘭郡]]の南東部)
 
** ホロベツ場所([[幌別郡]])
 
** アブタ場所の一部([[虻田郡]]の南西部)
 
 
 
=== 八戸藩 ===
 
* 陸奥国
 
** [[三戸郡]]のうち - 67村
 
* 陸奥国(陸中国)
 
** 九戸郡のうち - 48村
 
** 紫波郡のうち - 4村
 
 
 
=== 七戸藩 ===
 
* 陸奥国
 
** [[北郡]]のうち - 35村
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
=== 注釈 ===
 
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=== 出典 ===
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* {{Cite book|和書
 
|author=菊池悟郎
 
|title=南部史要
 
|date=1910-8-28
 
|publisher=菊池悟郎
 
}}
 
* {{Cite book|和書
 
|author=青森県史編さん中世部会
 
|title=青森県史 資料編 中世 1 南部氏関係資料
 
|date=2004-3-31
 
|publisher=青森県
 
}}
 
* {{Cite book|和書
 
|author=青森県史編さん中世部会
 
|title=青森県史 資料編 中世 2 安藤氏・津軽氏関係資料
 
|date=2005-3-31
 
|publisher=青森県
 
}}
 
* {{Cite book|和書
 
|author=青森県史編さん近世部会
 
|title=青森県史 資料編 近世篇 2 津軽1 前期津軽領
 
|date=2002-3-31
 
|publisher=青森県
 
}}
 
* {{Cite book|和書
 
|author=青森県史編さん近世部会
 
|title=青森県史 資料編 近世篇 3 津軽2 後期津軽領
 
|date=2006-3-31
 
|publisher=青森県
 
}}
 
* {{Cite book|和書
 
|author=青森県史編さん近世部会
 
|title=青森県史 資料編 近世篇 4 南部1 盛岡藩
 
|date=2003-3-3
 
|publisher=青森県
 
}}
 
* {{Cite book|和書
 
|author=青森県史編さん近世部会
 
|title=青森県史 資料編 近世篇 5 南部2 八戸藩
 
|date=2011-3-31
 
|publisher=青森県
 
}}
 
* {{Cite book|和書
 
|author=青森県史編さん近現代部会
 
|title=青森県史 資料編 近現代 2 近代成立期
 
|date=2000-3-31
 
|publisher=青森県
 
}}
 
* {{Cite book|和書
 
|author=青森県史編さん民俗部会
 
|title=青森県史 民俗編 資料 南部
 
|date=2001-3-31
 
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* {{Cite book|和書
 
|author=青森県史編さん民俗部会
 
|title=青森県史 民俗編 資料 下北
 
|date=2007-3-31
 
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}}
 
* {{Cite book|和書
 
|title=岩手県史 第2巻 中世篇 上
 
|date=1961-3-25
 
|publisher=岩手県
 
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* {{Cite book|和書
 
|title=岩手県史 第3巻 中世篇 下
 
|date=1961-10-20
 
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* {{Cite book|和書
 
|title=岩手県史 第5巻 近世篇 2
 
|date=1963-1-30
 
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}}
 
* {{Cite book|和書
 
|title=岩手県史 第9巻 近代篇 4 岩手県篇(その2)
 
|date=1964-3-30
 
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* {{Cite book|和書
 
|title=岩手県史 第10巻 近代篇 5 岩手県篇(その3)
 
|date=1965-3-30
 
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* {{Cite book|和書
 
|title=岩手県史 第12巻 年表
 
|date=1966-11-1
 
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* {{Cite book|和書
 
|title=秋田県史 第1巻 古代・中世編
 
|date=1977-4-30
 
|publisher=秋田県
 
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* {{Cite book|和書
 
|author=むつ市史編さん委員会
 
|title=むつ市史 近世 編
 
|date=1988-3-31
 
|publisher=青森県むつ市
 
}}
 
* {{Cite book|和書
 
|author=むつ市史編さん委員会
 
|title=むつ市史 年表 編
 
|date=1988-2-20
 
|publisher=青森県むつ市
 
}}
 
* {{Cite book|和書
 
|author=工藤睦男
 
|title=大畑町史
 
|date=1992-2-1
 
|publisher=青森県下北郡大畑町(現[[むつ市]])
 
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* {{Cite book|和書
 
|author=川内町史編さん委員会
 
|title=川内町史 原始・古代 中世 近世 編
 
|date=2005-3-13
 
|publisher=青森県下北郡川内町(現[[むつ市]])
 
}}
 
* {{Cite book|和書
 
|title=五所川原市史 通史編I
 
|date=1998-3-31
 
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* {{Cite book|和書
 
|title=矢巾町文化財報告書第31集 久慈文書
 
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* {{Cite book|和書
 
|author=「角川日本地名大辞典」編纂委員会
 
|title=角川日本地名大辞典 2 青森県
 
|date=1985-12-1
 
|publisher=角川書店
 
|isbn=4-04-001020-5
 
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* {{Cite book|和書
 
|author=「角川日本地名大辞典」編纂委員会
 
|title=角川日本地名大辞典 3 岩手県
 
|date=1985-3-8
 
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|author=「角川日本地名大辞典」編纂委員会
 
|title=角川日本地名大辞典 5 秋田県
 
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|publisher=角川書店
 
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* {{Cite book|和書
 
|author=(有)平凡社地方資料センター
 
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|publisher=平凡社
 
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<!-- 9784582490053 -->
 
* {{Cite book|和書
 
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|author=浪川健治
 
|title=街道の日本史 4 下北・渡島と津軽海峡
 
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|author=瀧本壽史、名須川溢男
 
|title=街道の日本史 5 三陸海岸と浜街道
 
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|author=細川計
 
|title=街道の日本史 6 南部と奥州道中
 
|date=2002-05-20
 
|publisher=吉川弘文館
 
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* {{Cite book|和書
 
|author=西ヶ谷恭弘
 
|title=国別 戦国大名城郭事典
 
|date=1999-12-05
 
|publisher=東京堂出版
 
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}}
 
* {{Cite book|和書
 
|author=地方史研究協議会
 
|title=地方史事典
 
|date=1997-04-30
 
|publisher=弘文館
 
|isbn=4-335-25056-8
 
}}
 
* {{Cite book|和書
 
|author=大正十三造
 
|title=不来方の賦 -南部藩主物語-
 
|date=1987-4-10
 
|publisher=岩手日報社
 
|isbn=4-87201-015-9
 
}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[南部氏]]
 
** [[八戸氏]]
 
* [[藩の一覧]]
 
** [[八戸藩]]
 
** [[七戸藩]]
 
* [[諸賞流]]
 
* [[柳生心眼流]]
 
* [[自剛天真流]](盛岡藩では「自得天真流」と呼ばれていた)
 
* [[盛岡弁]]
 
* [[下北弁]]
 
* [[田名部おしまこ]]
 
* [[南部街道]]
 
* [[南部大膳大夫分国之内諸城破却共書上]]
 
* [[通 (南部藩)]]
 
* [[平成・南部藩]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
*国立公文書館 - デジタル・ギャラリー「[http://jpimg.digital.archives.go.jp/jpg_prg/jgmWeb?%TmpFileDisp%env=jpeg2k_images/ezu/kuniezu_tenpo/049_mutsu.env 天保国絵図 陸奥国(南部領)]」
 
* [{{NDLDC|763427}} 国立国会図書館 近代デジタルライブラリー 南部史要]
 
* [http://www.bunka.pref.iwate.jp/ 岩手県庁 政策地域部NPO・文化国際課]
 
* [http://www.city.morioka.iwate.jp/ 盛岡市役所]
 
* [http://www.komonjokan.net/ 近世こもんじょ館]
 
* [http://www.pref.aomori.lg.jp/ 青森県庁]
 
* [http://www.city.hachinohe.aomori.jp/ 八戸市役所]
 
** [http://www.hachinohe.ed.jp/haku/rekisi_tanjo.html 八戸市博物館]
 
* [http://www.city.mutsu.lg.jp/index.cfm むつ市役所]
 
* [http://nippon.zaidan.info/index.html 日本財団 図書館]
 
<!-- ** [http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2005/00085/mokuji.htm (日本財団 図書館)記念誌 郡山河岸と小操舟] -->
 
===自治体史===
 
* [http://www.town.shichinohe.lg.jp/ 青森県上北郡七戸町]
 
** [http://www.town.shichinohe.lg.jp/shichinohe/item.asp?g=7&c=299&i=11795 七戸町史・天間林村史]
 
* [http://www.vill.yomogita.lg.jp/index.html 青森県東津軽郡蓬田村]
 
** [http://www.vill.yomogita.lg.jp/profile/profile_1_sonshi.html 蓬田村 村のあらまし]
 
* [http://www.vill.takizawa.iwate.jp/ 岩手県岩手郡滝沢村]
 
** [http://www.vill.takizawa.iwate.jp/contents/sonshi/web/index.html 農民生活変遷中心の滝沢村誌]
 
  
 +
南部藩ともいう。江戸時代,[[陸奥国]]岩手郡盛岡地方 (岩手県) を領有していた藩。藩主の[[南部氏]]は鎌倉時代以来の豪族で,天正年間 (1573~92) の信直を藩祖とする。第2代利直は関ヶ原の戦いで東軍に属して 10万石の所領を安堵され,第4代重信は寛文4 (1664) 年甥の直房に2万石を分与して支藩八戸 (はちのへ) 藩を興し,8万石となった。さらに天和3 (83) 年には領地拡大のため 10万石の分限となり,文化5 (1808) 年には第 11代利敬が松前警備のため高直しにより 20万石となった。文政2 (19) 年には支藩七戸 (しちのへ) 藩1万 1000石を創設。戊辰戦争で[[奥羽越列藩同盟]]軍に加わったため 13万石に減封,廃藩置県にいたった。外様,江戸城大広間詰。
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2018/8/26/ (日) 20:20時点における最新版

盛岡藩(もりおかはん)

南部藩ともいう。江戸時代,陸奥国岩手郡盛岡地方 (岩手県) を領有していた藩。藩主の南部氏は鎌倉時代以来の豪族で,天正年間 (1573~92) の信直を藩祖とする。第2代利直は関ヶ原の戦いで東軍に属して 10万石の所領を安堵され,第4代重信は寛文4 (1664) 年甥の直房に2万石を分与して支藩八戸 (はちのへ) 藩を興し,8万石となった。さらに天和3 (83) 年には領地拡大のため 10万石の分限となり,文化5 (1808) 年には第 11代利敬が松前警備のため高直しにより 20万石となった。文政2 (19) 年には支藩七戸 (しちのへ) 藩1万 1000石を創設。戊辰戦争で奥羽越列藩同盟軍に加わったため 13万石に減封,廃藩置県にいたった。外様,江戸城大広間詰。

先代:
陸奥国
行政区の変遷
1600年 - 1868年 / 1870年 (盛岡藩→盛岡県)
次代:
岩手県
八戸県(第1次)・江刺県
先代:
(陸奥国)
行政区の変遷
1664年 - 1871年 (八戸藩・七戸藩→八戸県・七戸県)
次代:
青森県




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