「皇太子徳仁親王」の版間の差分

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{{基礎情報 皇族・貴族
 
| 人名 = 皇太子徳仁親王
 
| 各国語表記 =
 
| 家名・爵位 =
 
| 画像 = Príncipe Naruhito no Brasil em 2018.jpg
 
| 画像サイズ =
 
| 画像説明 = [[2018年]](平成30年)
 
| 続柄 = [[明仁|今上天皇]]第一皇男子
 
| 称号 = 浩宮(ひろのみや)
 
| 全名 = 徳仁
 
| 身位 = [[皇太子]]・[[親王]]
 
| 敬称 = [[殿下]]
 
| お印 = [[梓]]
 
| 出生日 = {{生年月日と年齢|1960|2|23}}
 
| 生地 = {{JPN}} [[東京都]][[千代田区]][[千代田]]<br/>[[皇居]]・[[宮内庁病院]]
 
| 死亡日 =
 
| 没地 =
 
| 埋葬日 =
 
| 埋葬地 =
 
| 配偶者1 = [[皇太子徳仁親王妃雅子|親王妃雅子]](小和田雅子)
 
| 配偶者2 =
 
| 子女 = [[愛子内親王|敬宮愛子内親王]]
 
| 父親 = [[明仁|今上天皇]]
 
| 母親 = [[皇后美智子]]
 
| 役職 = [[日本赤十字社]]名誉副総裁<br />[[国際連合]]「水と衛生に関する諮問委員会」[[名誉総裁]]<br />[[学習院大学]]史料館[[客員研究員]]<br />他
 
}}
 
{{Infobox Royal styles
 
|royal name = 皇太子
 
|image = [[file:Japan_Koutaisi(son)_Flag.svg|100px]]
 
|dipstyle = [[殿下]]<br>''His Imperial Highness''
 
|color = #FFFFFF
 
|background = #BE0026
 
}}
 
{{日本の皇室}}
 
'''皇太子徳仁親王'''(こうたいし なるひとしんのう、[[1960年]][[2月23日]] - )は、[[日本]]の[[皇族]]。[[明仁|今上天皇]]の第一皇男子。母は[[皇后美智子]]。[[御称号]]は'''浩宮'''(ひろのみや)。[[身位]]は[[皇太子]]([[法定推定相続人]])、[[親王]]。[[皇室典範]]に定める[[敬称]]は[[殿下]]。[[お印]]は[[梓]](あずさ)。[[勲等]]は[[大勲位]]。[[学位]]は[[修士|人文科学修士]]([[学習院大学]])[[1988年]](昭和63年)。その他、[[名誉学位]]・[[称号]]として[[名誉博士|名誉法学博士]]([[ケンブリッジ大学]])などがある。[[皇位継承順位]]第1位。<!-- 皇位継承発生時は、この記事のノートで案内されている、プロジェクトで合意された手続きにしたがって記事を修正してください。 -->
 
  
住居は[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[元赤坂]]の赤坂御用地内にある[[東宮御所]]。
+
'''皇太子徳仁親王'''(こうたいし なるひとしんのう、[[1960年]][[2月23日]] - )
  
== 人物 ==
+
天皇明仁(あきひと)の第1皇子。
[[1989年]]([[昭和]]64年・[[平成]]元年)に父・[[明仁|明仁親王]](当時)の[[皇位継承]]に伴い事実上の皇太子([[皇位継承順位]]第1位、[[法定推定相続人]])となり、[[1991年]](平成3年)には[[立太子の礼]]が執り行われた。皇太子となって以降、[[国会 (日本)|国会]]・[[日本国政府|政府]]の用いる正式表記では皇太子を冠し「皇太子徳仁親王」とされる。
 
  
[[1993年]](平成5年)に[[国際司法裁判所]]所長・[[小和田恒]]の長女[[皇太子徳仁親王妃雅子|小和田雅子]]と[[皇太子徳仁親王と小和田雅子の結婚の儀|結婚の儀]]を挙げ、[[2001年]](平成13年)に[[愛子内親王|敬宮愛子内親王]]をもうけた。
+
昭和35年2月23日生まれ。昭和58年から2年間,イギリスのオックスフォード大に留学する。父の即位で皇太子となり平成3年立太子の礼がおこなわれた。5年外務次官小和田恒(ひさし)の長女雅子と結婚。日本赤十字社名誉副総裁。学習院大卒。幼称は浩宮(ひろのみや)。著作に「テムズとともに」。
  
[[2005年]](平成17年)に[[愛知県]]で開催された[[2005年日本国際博覧会|日本国際博覧会]](愛知万博、通称「愛・地球博」)では、[[名誉総裁]]を務めた。
+
{{テンプレート:20180815sk}}
 
 
[[2007年]](平成19年)より[[国際連合]]「水と衛生に関する諮問委員会」の[[名誉総裁]]に就任。英語での講演を、[[スペイン]]、[[トルコ]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]などで開かれたフォーラムおよびシンポジウムで行っている<ref>宮内庁HP[http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/02/koen/koen02.html 皇太子殿下のご講演]</ref>。
 
 
 
[[1987年]](昭和62年)より2016年(平成28年)現在まで、22回、今上天皇の海外訪問の期間または病気療養の期間、天皇から委任を受け[[国事行為臨時代行]]を務めている。2016年(平成28年)1月28日には、[[平成]]時代の臨時代行として初の[[閣僚]]に対する[[認証式]]を行った<ref>{{Cite news |title=皇太子さまが認証式臨時代行 |newspaper=[[ロイター]] |date=2016-01-28 |url=http://jp.reuters.com/article/idJP2016012801001922 |accessdate=2016-01-28 |agency=[[共同通信]] |publisher=[[トムソン・ロイター]]|language=日本語 }}</ref>。
 
 
 
男性皇族としては珍しく、[[歴史学]](主に交通史・流通史)を専門とする。また[[ヴィオラ]]演奏・[[登山]]・[[ジョギング]]を趣味とし、国民にもその姿をたびたび披露している<ref>MSN産経 2008年3月11日[http://sankei.jp.msn.com/culture/imperial/080311/imp0803111733001-n1.htm 「殿下がんばれ」 皇太子さまが都心でジョギング]</ref><ref>MSN産経 2009年5月10日[http://sankei.jp.msn.com/culture/imperial/090510/imp0905101738003-n1.htm 皇太子さま、ビオラで「第九」をご演奏]</ref>。
 
 
 
== 略歴 ==
 
=== 皇孫時代 ===
 
[[ファイル:Img20070409031304.jpg|thumb|left|[[1963年]](昭和38年)2月、黒紅御縫御服姿の浩宮徳仁親王(3歳)]]
 
[[File:Catalpa ovata.jpg|サムネイル|お印に用いられた[[梓]](写真は梓とされる樹木の一種・[[キササゲ]])]]
 
[[1960年]](昭和35年)[[2月23日]]、[[明仁|皇太子明仁親王]]と[[皇后美智子|同妃美智子]](いずれも当時)の第一子・長男として、東京都[[千代田区]]の[[宮内庁病院]]で誕生した。
 
 
 
[[懐妊]]に際しては[[母子手帳]]が発行され、[[皇居]][[宮殿]]内の御産殿で出産を行わないなど、それまでの[[皇室]]の慣例によらない、[[戦後#第二次世界大戦後|戦後]]初の[[内廷皇族]]の親王誕生は、広く国民に注目された。同年[[2月29日]]に[[命名の儀]]において祖父・[[昭和天皇]]が浩宮徳仁(ひろのみや なるひと)と命名した<ref group="注">「浩宮」は称号であり、名は「徳仁」のみ。</ref>。「浩宮」の称号は[[四書五経]]のうちの『[[中庸]]』第32章にある「浩々たる天」、「徳仁」の名は同じく「聡明聖知にして天徳に達する者」を典拠とする。
 
 
 
皇太子夫妻による子育ても、国民の関心の的となった。中でも、生後7か月の徳仁親王から離れて夫妻が14日間の公務訪米旅行の際に、皇太子妃が世話係へ書き置いた育児メモ「ナルちゃん憲法」は、子供を預けて働く母親たちの子育て指針としても共感を呼んだ。
 
 
 
夫妻は、専任の養育係を置かず、子育てを行った。ただし、[[東宮侍従]]の[[濱尾実]]が、徳仁親王が1歳3か月の時から初等科5年生まで、専任の養育係に準ずる存在として養育および教育に貢献している。徳仁親王は濱尾を「オーちゃん」と呼び、濱尾家の子ども達とも親しく遊んでいた<ref>浜尾実『殿下とともに』角川出版</ref>。両親の下で、弟・[[秋篠宮文仁親王|礼宮文仁親王]]、妹・[[黒田清子|紀宮清子内親王]]とともに育つ徳仁親王たちの様子は、報道を通じてしばしば公表され、一般国民の感覚に近い戦後の幸せな家庭像を描くとともに、新しい皇室像の形成にも大きく寄与した{{要出典|date=2017年12月}}。
 
 
 
徳仁親王は、幼稚園から大学まで[[学校法人学習院|学習院]]で学んだ。[[学習院中・高等科|学習院高等科]]時代は、正規の授業のほか、御所におけるご進講の形で「歴代天皇の[[御事跡]]」や[[古事記]]、[[日本書紀]]、[[万葉集]]、[[平家物語]]から[[比較神話学]]、[[文化史]]、[[文化人類学]]、[[時事問題]]などを幅広く学んだ。「[[帝王学]]」の一環と考えられる<ref>河原敏明『美智子妃』講談社文庫、P.160。</ref>。[[学習院大学]]では音楽部に所属しヴィオラを担当した。在学中の[[1980年]](昭和55年)2月23日、満20歳で成年式を執り行った。
 
 
 
[[1982年]](昭和57年)3月に学習院大学[[文学部]][[史学科]]を[[卒業]]した([[学士|文学士]])。その後、同大学[[大学院]]人文科学研究科博士前期課程に進学。それまでの皇族が、[[生物学]]を中心とした[[自然科学]]を専攻したのに対して、徳仁親王は[[史学]]、[[中世]]の交通史・流通史という[[人文科学]]・[[社会科学]]に近い分野を専攻した。
 
 
 
[[1983年]](昭和58年)から[[1985年]](昭和60年)にかけて、[[オックスフォード大学]][[マートン・カレッジ]]に留学して、[[テムズ川]]の水運史について研究<ref>1993年(平成5年)に、留学記『[[テムズとともに|テムズとともに 英国の二年間]]』(学習院教養新書)を出版している。</ref>。[[1988年]](昭和63年)には、学習院大学大学院人文科学研究科の[[博士前期課程]]を[[修了]]した(人文科学修士)。この間、[[1987年]](昭和62年)[[10月3日]]から[[10月10日]]には、昭和天皇の病気療養と皇太子明仁親王の外国訪問が重なり、初めて[[国事行為臨時代行]]に就いた。
 
 
 
昭和時代の末より、親王妃候補について様々な憶測が報道されるようになり、[[1986年]](昭和61年)[[10月18日]]、来日中の[[エレナ・デ・ボルボーン・イ・デ・グレシア|スペイン王女]]の歓迎パーティーに出席した際、外務省に勤める[[皇太子徳仁親王妃雅子|小和田雅子]]と知り合う(後述→[[#結婚までの経緯]])。
 
 
 
=== 皇太子時代 ===
 
[[ファイル:Japan Koutaisi(son) Flag.svg|thumb|200px|皇太子旗]]
 
[[ファイル:Naruhito-2008-1.jpg|thumb|200px|[[2008年]](平成20年)[[6月18日]]、[[ブラジル連邦議会]]にて]]
 
[[1989年]](昭和64年)[[1月7日]]、祖父・[[昭和天皇]]の[[崩御]]を受け、父・皇太子明仁親王が[[即位]]した。これに伴い、[[皇位継承順位]]が1位となり、徳仁親王は事実上の[[皇太子]]([[法定推定相続人]])となった。また、それまで家族と同居していたがこれを機に別居、独立した。
 
 
 
[[明仁|今上天皇]]の[[即位の礼#今上天皇の即位の礼・大嘗祭|即位の礼]]などを経て、[[1991年]](平成3年)2月23日、満31歳となった日に[[立太子の礼#徳仁親王の立太子の礼|立太子の礼]]が執り行われた。また同日、皇太子の印とされる「[[壺切御剣]]」を今上天皇から親授された。
 
 
 
[[1993年]](平成5年)[[1月19日]]、[[皇室会議]]において[[結婚|婚姻]]の相手に小和田雅子を内定。同年[[6月9日]]に[[結婚の儀]]が執り行われた。
 
 
 
8年後の[[2001年]](平成13年)[[12月1日]]、雅子妃との間に長女・[[愛子内親王|敬宮愛子内親王]]が誕生した。
 
 
 
皇太子となってからは、たびたび外国を訪問し、皇室外交の進展を図っている。また、[[公務]]の傍ら[[1991年]](平成3年)9月には、ケンブリッジ大学から名誉法学博士号を授与されている。そして[[1992年]](平成4年)4月からは学習院大学史料館客員研究員の委嘱を受け、日本中世史の[[研究]]を続けている。[[学習院女子大学]]国際文化交流学部の授業では、「北米文化の源流・イギリスの社会と文化」や「オックスフォードにおける学生生活」について講義を行い、名誉総裁として臨席した[[世界水フォーラム]]の開会式では、「京都と地方を結ぶ水の道」や「江戸と水運」と題した講演を行なっている。
 
 
 
[[2004年]](平成16年)[[5月10日]]、欧州3か国歴訪を前にした会見内で「雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」と発言した(いわゆる[[人格否定発言]])。同発言は、皇太子一家と皇室・宮内庁の間に不和があることを浮き彫りにし、大きな反響を呼んだ。同年7月に雅子妃が療養している事実が正式に発表され、以後徳仁親王は単独で公務・祭祀を行うことがほとんどとなった。
 
 
 
[[2007年]](平成19年)[[3月27日]]、定期[[健康診断]]で[[十二指腸]]に[[ポリープ]]が発見された。同年5月には良性と診断されたが、同年[[6月6日]]に十二指腸ポリープの[[内視鏡]]による切除手術を東京都[[文京区]]の[[東京大学]]医学部附属病院で受けた。同年[[11月1日]]、[[国際連合|国連]]「水と衛生に関する諮問委員会」の名誉総裁に就任。日本の皇族が国連などの常設の国際機関の役職に就くのは初である<ref>[http://www.jiji.com/jc/zc?k=200711/2007110100754 皇太子さま、国連諮問委の名誉総裁に=「水と衛生」、皇族で初]、時事通信、2007年11月1日{{リンク切れ|date=2013年10月}}</ref>。
 
 
 
[[2009年]](平成21年)[[11月8日]]から[[11月20日]]まで来日した[[彭麗媛]]が団長を務める[[中国人民解放軍]]総政治部の歌舞団が東京と札幌で中国歌劇『[[木蘭|木蘭詩編]]』を[[学習院大学]]で公演した際に皇太子は私的に会場を訪れて2階VIP席で彭麗媛と隣り合わせの席で観劇して言葉を交わしており、彭麗媛の夫の[[習近平]]の[[天皇特例会見]]と同じ[[中華人民共和国]]による皇室の政治的利用と批判されることになった<ref>[[産経新聞]](2009年11月21日)【花田紀凱の週刊誌ウォッチング】(236)</ref><ref>[[読売新聞]](2009年12月15日)『特例会見、中国では「次の最高指導者」周知の意図』</ref>。
 
 
 
[[2013年]](平成25年)[[3月6日]]、米国[[ニューヨーク]]の[[国際連合本部|国連本部]]で開かれた「水と災害に関する特別会合」で、[[英語]]で基調講演を行った。同会合は、[[東日本大震災]]([[東北地方太平洋沖地震]])など世界的な水災害の増加を受け国連で初めて開催された会合である<ref>YOMIURI ONLINE 2013年3月7日[http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20130307-OYT1T00316.htm 皇太子さま、国連本部で講演…津波被害に言及]</ref>。
 
 
 
[[2016年]](平成28年)[[1月28日]]、今上天皇が[[フィリピン]]訪問のために不在であったことから、[[第3次安倍内閣 (第1次改造)|第3次安倍第1次改造内閣]]で[[経済財政担当大臣]]が[[甘利明]]から[[石原伸晃]]へ交代したことに伴う閣僚の[[認証官認証式]]を臨時代行の形で執り行った<ref>[http://jp.reuters.com/article/idJP2016012801001922 皇太子さまが認証式臨時代行] Reuters Japan 2016年1月28日閲覧</ref>。
 
 
 
== 年譜 ==
 
* [[1960年]](昭和35年)[[2月23日]] - [[宮内庁病院]]にて誕生
 
* [[1964年]](昭和39年)[[10月29日]](4歳) - [[着袴の儀]]
 
* [[1980年]](昭和55年)[[2月23日]](20歳) - 成年式(皇居宮殿・春秋の間)
 
* [[1982年]](昭和57年)3月(22歳) - [[学習院大学]][[文学部]][[史学科]]を[[卒業]](文学士)
 
* 同年4月 - 学習院大学[[大学院]]に入学。専攻は[[史学]]・[[中世]]の交通・流通史。
 
* [[1988年]](昭和63年) - 学習院大学大学院[[人文科学]][[研究科]][[博士前期課程]]を[[修了]](人文科学修士)
 
* [[1989年]](昭和64年)1月7日(28歳) - 父・[[明仁|明仁親王]](当時)が[[今上天皇]]として即位したことに伴い、事実上の[[皇太子]]([[皇位継承順位]]第1位、[[法定推定相続人]])となる。
 
* [[1991年]](平成3年)2月23日(31歳) - [[立太子|立太子の礼]](皇居宮殿・松の間)。[[壺切御剣]]親授(皇居宮殿・表御座所・鳳凰の間)。
 
* [[1993年]](平成5年)[[1月19日]](32歳) - [[皇室会議]]にて、妃に[[皇太子徳仁親王妃雅子|小和田雅子]]が内定。
 
* 同年[[4月12日]] - [[納采の儀]](小和田邸)
 
* 同年[[6月9日]] - [[皇太子徳仁親王と小和田雅子の結婚の儀|結婚の儀]]([[宮中三殿]]・[[賢所]])
 
* [[2001年]](平成13年)[[12月1日]](41歳) - 第一女子・[[愛子内親王|敬宮愛子内親王]]が誕生。
 
 
 
== 外国訪問歴 ==
 
=== 昭和 ===
 
{| class="wikitable" style="font-size:80%"
 
|+昭和 <ref>『皇族 天皇家の近現代史』 小田部雄次 中公新書 2011</ref>
 
|-
 
!style="width:8em;color:#fff; background-color:#000080" |年 !!style="width:7em;color:#fff; background-color:#000080" | 出国!!style="width:7em;color:#fff; background-color:#000080" | 帰国!!style="width:18em;color:#fff; background-color:#000080"|訪問地!!style="width:4em;color:#fff; background-color:#000080"| 同行!!style="width:16em;color:#fff; background-color:#000080"|備考
 
|-
 
|1974年<br />([[昭和]]49年)|| 8月16日|| 8月30日||{{AUS}} || ||旅行
 
|-
 
|1976年<br />([[昭和]]51年)||8月7日 ||8月18日 ||{{BEL}}、{{ESP}} || ||旅行
 
|-
 
| 1980年<br />([[昭和]]55年)||12月20日 ||12月29日 ||{{THA}} || ||旅行
 
|-
 
|[[1982年]]<br />([[昭和]]57年)||[[10月3日]] ||[[10月18日]] ||{{BRA}}({{MEX}}立寄り) ||  ||国際親善
 
|-
 
|1983年<br />(昭和58年)||6月20日 ||10月31日 ||{{GBR}}(留学)・{{LIE}}・{{SUI}}・{{SMR}}・{{VAT}}・{{TCH}}・{{USA}}など16カ国 || ||[[オックスフォード大学|マートン・カレッジ]]
 
|-
 
|[[1986年]]<br />(昭和61年)|| [[7月20日]] ||[[7月27日]] ||{{GBR}} || ||[[アンドルー (ヨーク公)|アンドルー]]王子結婚式参列
 
|-
 
|rowspan="2"|[[1987年]]<br />(昭和62年)||[[3月10日]]  ||[[3月25日]] ||{{NPL}}・{{BTN}}・{{IND}}({{THA}}立寄り) || ||国際親善
 
|-
 
| [[11月6日]] ||[[11月3日]] ||{{FRG}} || ||ベルリン日独センター開会式臨席
 
|}
 
 
 
=== 平成 ===
 
{|class="wikitable" style="font-size:90%; line-height:1.25em; margin-right:0px"
 
|+平成<ref>[http://www.kunaicho.go.jp/about/gokomu/shinzen/gaikoku/gaikoku-h21-30.html#h26 天皇・皇族の外国ご訪問一覧表(平成21年以降)]</ref><ref>『皇族 天皇家の近現代史』 小田部雄次 中公新書 2011</ref>
 
|-
 
!年
 
!出国日
 
!帰国日
 
!訪問/旅行国
 
!立寄国
 
!同行者
 
!訪問/旅行理由
 
|-
 
|1989年<br />{{smaller|[[平成]]元年}}
 
|9月23日
 
|10月1日
 
|{{BEL}}
 
|{{smaller|[[フランス]]}}
 
|
 
|ユーロパリア日本祭開会式
 
|-
 
|1990年<br />{{smaller|平成2年}}
 
|8月17日
 
|8月27日
 
|{{BEL}}
 
|{{smaller|[[ルクセンブルク]]<br />[[アメリカ合衆国]]}}
 
|
 
|第10回国際経済史学会
 
|-
 
|rowspan="2"|1991年<br />{{smaller|平成3年}}
 
|1月28日
 
|2月1日
 
|{{NOR}}
 
|
 
|
 
|故[[オーラヴ5世|オーラヴ5世国王]]葬儀
 
|-
 
|9月11日
 
|9月24日
 
|{{MAR}}<br />{{GBR}}
 
|{{smaller|[[フランス]]}}
 
|
 
|国際親善<br />ジャパンフェスティバル1991開会式
 
|-
 
|1992年<br />{{smaller|平成4年}}
 
|7月18日
 
|8月4日
 
|{{ESP}}<br />{{VEN}}<br />{{MEX}}
 
|{{smaller|[[アメリカ合衆国]]}}
 
|
 
|[[セビリア万国博覧会]]並びに[[バルセロナオリンピック]]<br />国際親善<br />国際親善
 
|-
 
|1994年<br />{{smaller|平成6年}}
 
|11月5日
 
|11月15日
 
|{{SAU}}<br />{{OMN}}<br />{{QAT}}<br />{{BHR}}
 
|{{smaller|[[タイ王国|タイ]]}}
 
|[[皇太子徳仁親王妃雅子|雅子妃]]
 
|国際親善<br />国際親善<br />国際親善<br />国際親善
 
|-
 
|1995年<br />{{smaller|平成7年}}
 
|1月20日
 
|1月28日
 
|{{KWT}}<br />{{ARE}}<br />{{JOR}}
 
|{{smaller|[[シンガポール]]}}
 
|雅子妃
 
|国際親善<br />国際親善<br />国際親善
 
|-
 
|rowspan="2"|1999年<br />{{smaller|平成11年}}
 
|2月8日
 
|2月9日
 
|{{JOR}}
 
|
 
|雅子妃
 
|故[[フセイン1世|フセイン1世国王]]葬儀
 
|-
 
|12月3日
 
|12月7日
 
|{{BEL}}
 
|
 
|雅子妃
 
|[[フィリップ (ベルギー王)|フィリップ王太子]]結婚式
 
|-
 
|2001年<br />{{smaller|平成13年}}
 
|5月18日
 
|5月25日
 
|{{GBR}}
 
|
 
|
 
|「JAPAN2001」開幕行事
 
|-
 
|rowspan="2"|2002年<br />{{smaller|平成14年}}
 
|1月30日
 
|2月4日
 
|{{NED}}
 
|
 
|
 
|[[ウィレム=アレクサンダー (オランダ王)|ウィレム=アレクサンダー王太子]]結婚式
 
|-
 
|12月11日
 
|12月19日
 
|style="white-space:nowrap"|{{NZL}}<br />{{AUS}}
 
|
 
|雅子妃
 
|国際親善<br />国際親善
 
|-
 
|rowspan="2"|2004年<br />{{smaller|平成16年}}
 
|5月12日
 
|5月24日
 
|{{DEN}}<br />{{PRT}}<br />{{ESP}}
 
|
 
|
 
|[[フレデリック (デンマーク皇太子)|フレデリック王太子結婚式]]<br />国際親善<br />[[フェリペ6世 (スペイン王)|フェリペ王太子]]結婚式
 
|-
 
|9月8日
 
|9月11日
 
|{{BRN}}
 
|
 
|
 
|[[アルムタデー・ビラ|ビラ王太子]]結婚式
 
|-
 
|2005年<br />{{smaller|平成17年}}
 
|8月3日
 
|8月4日
 
|{{SAU}}
 
|
 
|
 
|故[[ファハド・ビン=アブドゥルアズィーズ|ファハド国王]]弔問
 
|-
 
|rowspan="3"|2006年<br />{{smaller|平成18年}}
 
|3月15日
 
|3月21日
 
|{{MEX}}
 
|{{smaller|[[カナダ]]}}
 
|
 
|第4回[[世界水フォーラム]]全体会合基調講演
 
|-
 
|8月17日
 
|8月31日
 
|{{NED}}
 
|
 
|style=''white-space:nowrap"|雅子妃<br />[[愛子内親王]]
 
|静養([[ベアトリクス (オランダ女王)|ベアトリクス女王]]からの招待によるもの)
 
|-
 
|9月18日
 
|9月20日
 
|{{TON}}
 
|style=''white-space:nowrap"|{{smaller|[[ニュージーランド]]}}
 
|
 
|故[[タウファアハウ・トゥポウ4世|トゥポウ4世国王]]葬儀
 
|-
 
|2007年<br />{{smaller|平成19年}}
 
|7月10日
 
|7月17日
 
|{{MGL}}
 
|
 
|
 
|国際親善
 
|-
 
|rowspan="3"|2008年<br />{{smaller|平成20年}}
 
|6月16日
 
|6月27日
 
|{{BRA}}
 
|{{smaller|[[アメリカ合衆国]]}}
 
|
 
|[[日系ブラジル人|日本人ブラジル移住]]100周年記念
 
|-
 
|7月16日
 
|7月23日
 
|{{ESP}}
 
|
 
|
 
|サラゴサ国際博覧会
 
|-
 
|7月30日
 
|8月3日
 
|{{TON}}
 
|{{smaller|[[オーストラリア]]}}
 
|
 
|[[ジョージ・トゥポウ5世|トゥポウ5世国王]]戴冠式
 
|-
 
|rowspan="2"|2009年<br />{{smaller|平成21年}}
 
|2月10日
 
|2月15日
 
|{{VIE}}
 
|
 
|
 
|外交関係樹立35周年
 
|-
 
|3月14日
 
|3月20日
 
|{{TUR}}
 
|{{smaller|[[ドイツ]]}}
 
|
 
|第5回世界水フォーラム
 
|-
 
|rowspan="2"|2010年<br />{{smaller|平成22年}}
 
|3月6日
 
|3月15日
 
|{{GHA}}<br />{{KEN}}
 
|{{smaller|[[イギリス]]<br />[[イタリア]]}}
 
|
 
|国際親善<br />国際親善
 
|-
 
|6月17日
 
|6月21日
 
|{{SWE}}
 
|
 
|
 
|[[ヴィクトリア (スウェーデン王太子)|ヴィクトリア王太子]]結婚式
 
|-
 
|rowspan="2"|2011年<br />{{smaller|平成23年}}
 
|6月21日
 
|6月25日
 
|{{GER}}
 
|
 
|
 
|日独交流150周年
 
|-
 
|10月26日
 
|10月27日
 
|{{SAU}}
 
|
 
|
 
|故[[スルターン・ビン・アブドゥルアズィーズ|スルターン王太子]]弔問
 
|-
 
|rowspan="3"|2012年<br />{{smaller|平成24年}}
 
|6月20日
 
|6月21日
 
|{{SAU}}
 
|
 
|
 
|故[[ナーイフ・ビン・アブドゥルアズィーズ|ナーイフ王太子]]弔問
 
|-
 
|6月25日
 
|7月1日
 
|{{THA}}<br />{{CAM}}<br />{{LAO}}
 
|
 
|
 
|国際親善<br />国際親善<br />国際親善
 
|-
 
|10月18日
 
|10月27日
 
|{{LUX}}
 
|
 
|
 
|[[ギヨーム・ド・リュクサンブール|ギヨーム大公世子]]結婚式
 
|-
 
|rowspan="4"|2013年<br />{{smaller|平成25年}}
 
|3月5日
 
|3月8日
 
|{{USA}}
 
|
 
|
 
|{{Flagicon|UN}}&nbsp;[[国際連合|国連]]「水と災害に関する特別会合」基調講演(皇族として初)<ref>MSN産経 2013年3月17日[http://sankei.jp.msn.com/life/news/130307/imp13030701300000-n1.htm 「災害に強い社会へ強い意志」 皇太子さま国連ご講演の要旨]</ref><ref>[http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/02/koen/koen-h25az-kokuren.html 国連水と災害に関する特別会合における皇太子殿下基調講演]、宮内庁HP。</ref>
 
|-
 
|4月28日
 
|5月3日
 
|{{NED}}
 
|
 
|雅子妃
 
|[[ウィレム=アレクサンダー (オランダ王)|ウィレム=アレクサンダー国王]]即位式
 
|-
 
|6月10日
 
|6月16日
 
|{{ESP}}
 
|
 
|
 
|交流400周年
 
|-
 
|12月9日
 
|12月11日
 
|{{ZAF}}
 
|
 
|
 
|故[[ネルソン・マンデラ|マンデラ元大統領]]追悼式
 
|-
 
|style="white-space:nowrap"|2014年<br />{{smaller|平成26年}}
 
|style="white-space:nowrap"|6月17日{{0}}
 
|style="white-space:nowrap"|6月23日{{0}}
 
|{{SUI}}
 
|
 
|
 
|国交樹立150周年
 
|-
 
|rowspan="3"|2015年<br />{{smaller|平成27年}}
 
|1月25日
 
|1月26日
 
|{{SAU}}
 
|
 
|
 
|故[[アブドゥッラー・ビン・アブドゥルアズィーズ|アブドラ国王]]弔問
 
|-
 
|7月2日
 
|7月6日
 
|{{TON}}
 
|
 
|雅子妃
 
|[[トゥポウ6世|トゥポウ6世国王]]戴冠式<ref>[http://www.kunaicho.go.jp/activity/gonittei/02/gaikoku/h27tonga/cpv-h27-tonga.html トンガご訪問(平成27年)](2015年6月12日)、宮内庁、2015年7月4日閲覧</ref>
 
|-
 
|11月17日
 
|11月2日
 
|{{USA}}
 
|
 
|
 
|{{Flagicon|UN}}&nbsp;国連「水と災害に関する特別会合」
 
|-
 
|rowspan="2"|2017年<br />{{smaller|平成29年}}
 
|4月13日
 
|4月17日
 
|{{MYS}}
 
|
 
|
 
|外交関係樹立60周年
 
|-
 
|6月15日
 
|6月21日
 
|{{DNK}}
 
|
 
|
 
|外交関係樹立150周年
 
|-
 
|2018年<br />{{smaller|平成30年}}
 
|3月16日
 
|3月22日
 
|{{BRA}}
 
|{{smaller|[[アメリカ合衆国]]}}
 
|
 
|第8回世界水フォーラム
 
|}
 
 
 
:[[ファイル:Lula-Naruhito-2008.JPG|thumb|left|250px|ブラジルの[[ルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァ|ルーラ]][[ブラジル連邦共和国大統領|連邦共和国大統領]]と(2008年6月18日)]]
 
:[[ファイル:Royal Wedding Stockholm 2010-Lejonbacken-066.jpg|thumb|center|300px|スウェーデンの[[ヴィクトリア (スウェーデン王太子)|ヴィクトリア王太子]]の結婚式で(2010年6月19日)]]
 
{{0}}
 
 
 
== 子女 ==
 
[[雅子妃]]との間に1子がいる。[[第125代今上天皇]]の皇孫にあたる。
 
{| class="wikitable" style="font-size:95%"
 
![[諱]]
 
!読み
 
!生年 / 年齢
 
![[御称号]]
 
![[続柄]]
 
|-
 
|[[愛子内親王]]
 
|あいこ
 
|style="text-align:right" |[[平成13年]](2001)[[12月1日]]({{年数|2001|12|1}}歳)
 
|<sub>としのみや</sub><br>敬宮
 
|第1女子
 
|}
 
 
 
== 系譜 ==
 
{{皇太子徳仁親王の系譜}}
 
{| class="wikitable" style="width:80%"
 
|-
 
| rowspan="8" style="text-align: center; background-color:#ddf;width:25%"| '''徳仁親王 '''
 
| rowspan="4" style="text-align: center; background-color:#dfd;width:25%"| '''父:'''<br />[[明仁|第125代:今上天皇]]
 
| rowspan="2" style="text-align: center; background-color:#dfd;width:25%"| '''祖父:'''<br />[[昭和天皇|第124代:昭和天皇]]
 
| style="text-align: center; background-color:#dfd;width:25%"| '''曾祖父:'''<br />[[大正天皇|第123代:大正天皇]]
 
|-
 
| style="text-align: center;"| '''曾祖母:'''<br />[[貞明皇后]]
 
|-
 
| rowspan="2" style="text-align: center; background-color:#fdd"| '''祖母:'''<br />[[香淳皇后]]
 
| style="text-align: center; background-color:#dfd"| '''曾祖父:'''<br />[[久邇宮邦彦王|邦彦王]]([[久邇宮]])
 
|-
 
| style="text-align: center;"| '''曾祖母:'''<br />[[邦彦王妃俔子|俔子]]
 
|-
 
| rowspan="4" style="text-align: center;" | '''母:'''<br />[[皇后美智子|美智子]] ([[皇后]])
 
| rowspan="2" style="text-align: center;" | '''祖父:'''<br />[[正田英三郎]]
 
| style="text-align: center;" | '''曾祖父:'''<br />[[正田貞一郎]]
 
|-
 
| style="text-align: center;"| '''曾祖母:'''<br />正田きぬ
 
|-
 
| rowspan="2" style="text-align: center;"| '''祖母:'''<br />正田富美子
 
| style="text-align: center;"| '''曾祖父:'''<br />副島網雄
 
|-
 
| style="text-align: center;"| '''曾祖母:'''<br />副島アヤ
 
|}
 
 
 
=== 系図 ===
 
{{皇室明治以降}}
 
 
 
{{皇室系図}}
 
 
 
== 皇位継承資格 ==
 
現在の[[皇位継承順位]]は第1位であり[[皇太子]]である。将来自らより上位の継承権を持つ人物が生まれる可能性がない[[法定推定相続人]]のため、自身が[[薨御]]するか、[[皇室会議]]で順序を変えられない限り、<ref>[[皇室典範]]第3条</ref>次期[[天皇]]となることは確定している。
 
 
 
== 国事行為の臨時代行歴 ==
 
2016年(平成28年)1月現在、[[昭和天皇]]在位中に皇孫として1回、[[明仁|今上天皇]]即位後に皇太子として21回、天皇から委任を受け[[国事行為臨時代行]]を務めている。
 
 
 
{| class="wikitable collapsible collapsed" style="font-size:smaller;"
 
! nowrap|委任を行った天皇
 
! 委任年月日
 
! 委任の理由
 
! 委任の期間
 
! 委任された事項
 
! style="white-space: nowrap;"|解除(終了)年月日
 
! style="white-space: nowrap;"|解除(終了)の理由
 
|-
 
|style="font-weight: bold;"|[[昭和天皇]]||1987年(昭和62年)10月3日|| style="white-space: nowrap;"|病気療養中<br />皇太子明仁親王外国旅行||当分の間||全般||1987年(昭和62年)10月10日||皇太子明仁親王帰国
 
|-
 
|rowspan="21" style="font-weight: bold;"|[[明仁|今上天皇]]||1991年(平成3年)9月26日||外国旅行||外国旅行の間||全般||1991年(平成3年)10月6日||帰国
 
|-
 
| style="white-space: nowrap;"|1992年(平成4年)10月23日||外国旅行||外国旅行の間||全般||1992年(平成4年)10月28日||帰国
 
|-
 
|1993年(平成5年)8月6日||外国旅行||外国旅行の間||全般||1993年(平成5年)8月9日||帰国
 
|-
 
|1993年(平成5年)9月3日||外国旅行||外国旅行の間||全般||1993年(平成5年)9月19日||帰国
 
|-
 
|1994年(平成6年)6月10日||外国旅行||外国旅行の間||全般||1994年(平成6年)6月26日||帰国
 
|-
 
|1994年(平成6年)10月2日||外国旅行||外国旅行の間||全般||1994年(平成6年)10月14日||帰国
 
|-
 
|1997年(平成9年)5月30日||外国旅行||外国旅行の間||全般||1997年(平成9年)6月13日||帰国
 
|-
 
|1998年(平成10年)5月23日||外国旅行||外国旅行の間||全般||1998年(平成10年)6月5日||帰国
 
|-
 
|2000年(平成12年)5月20日||外国旅行||外国旅行の間||全般||2000年(平成12年)6月1日||帰国
 
|-
 
|2002年(平成14年)7月6日||外国旅行||外国旅行の間||全般||2002年(平成14年)7月20日||帰国
 
|-
 
|2003年(平成15年)1月16日||病気療養||当分の間||全般||2003年(平成15年)2月18日||病気快復の状況に鑑み
 
|-
 
|2005年(平成17年)5月7日||外国旅行||外国旅行の間||全般||2005年(平成17年)5月14日||帰国
 
|-
 
|2005年(平成17年)6月27日||外国旅行||外国旅行の間||全般||2005年(平成17年)6月28日||帰国
 
|-
 
|2006年(平成18年)6月8日||外国旅行||外国旅行の間||全般||2006年(平成18年)6月15日||帰国
 
|-
 
|2007年(平成19年)5月21日||外国旅行||外国旅行の間||全般||2007年(平成19年)5月30日||帰国
 
|-
 
|2009年(平成21年)7月3日||外国旅行||外国旅行の間||全般||2009年(平成21年)7月17日||帰国
 
|-
 
|2011年(平成23年)11月7日||病気療養||当分の間||全般||2011年(平成23年)12月6日||病気快復の状況に鑑み
 
|-
 
|2012年(平成24年)2月17日||病気療養||当分の間||全般||2012年(平成24年)4月10日||病気快復の状況に鑑み
 
|-
 
|2012年(平成24年)5月16日||外国旅行||外国旅行の間||全般||2012年(平成24年)5月20日||帰国
 
|-
 
|2013年(平成25年)11月30日||外国旅行||外国旅行の間||全般||2013年(平成25年)12月6日||帰国
 
|-
 
|2016年(平成28年)1月26日||外国旅行||外国旅行の間||全般||2016年(平成28年)1月30日||帰国
 
|}
 
* 「委任年月日」は官報に掲載された代行開始期日。
 
* 天皇の訪問国は[[明仁#外遊歴]]を参照
 
 
 
== 発言 ==
 
* 「美しいものを見たときに、それを美しいと評価できる人」
 
* 「これからはある程度の外国語が話せたほうが良い」
 
* 「[[ニューヨーク]]の[[ティファニー]]に行ってあれやこれや買うような方では困る」
 
** 以上、1985年(昭和60年)、留学先のイギリスから帰国後の記者会見で、「どのような方を妃として望むか」という質問に対して。
 
*「人の心情、悩み、苦しみを推し量って、思いやれる人が良い」
 
**以上、1986年(昭和61年)、誕生日記者会見でお妃の理想像を聞かれて。
 
*「すぐ手の届くところに中世が存在する」
 
** 1983年(昭和58年)留学した、オックスフォード大マートンコレッジ 1264年創について。
 
*「自分の意見をはっきり述べ、服装も(日本の女性と比べて)気取らず地味なのに感心しました」
 
**留学して半年後、昭和58年12月の記者懇談で、英国の女子学生について。
 
*「寮の部屋ごと、記念に持って帰りたい心境です」
 
**1985年(昭和60年)10月オックスフォード大での留学を終えての感想<ref>以上3点「プリンス浩宮」薗部英一 日本映像出版</ref>。
 
* 「心から祝福いたします。[[文仁親王妃紀子|川嶋紀子]]さんは以前からよく遊びに来ており、妹のような気持ちで接しておりました(中略)弟と紀子さんとは非常によく合うと思います」
 
* 「川嶋家に色々問い合わせが来て、二人の間が不安定になっているのはよくないということもありました。二人の結婚は私も強く勧めたところです。私についてはマイペースでやっていきたいと考えております」
 
** 以上、1989年(平成元年)9月21日、記者会見にて、[[秋篠宮文仁親王|文仁親王]]の婚約についての質問に対して<ref>朝日新聞 1989年9月22日</ref>。
 
* 「立太子宣明の儀が行われ、誠に身の引きしまる思いであります。皇太子としての責務の重大さを思い、力を尽くしてその務めを果たしてまいります」
 
** 1991年(平成3年)2月23日、立太子の礼にて<ref>日本経済新聞 1991年2月23日夕刊</ref>。
 
* 「皇室に入られるということには、いろいろな不安や心配がおありでしょうけれども、雅子さんのことは僕が一生全力でお守りしますから」
 
** 1992年(平成4年)11月後半に交際中の雅子にかけた言葉、婚約内定の記者会見にて雅子妃が披露した<ref>読売新聞 1993年1月20日</ref>。
 
* 「[[外交官]]としての雅子の[[経歴|キャリア]]や[[人格]]を否定するような動きがあったことも[[事実]]です」<ref>{{cite web|url=http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/02/gaikoku/gaikoku-h16az-europe.html|title=皇太子殿下の記者会見 デンマーク・ポルトガル・スペインご訪問に際し(平成16年)|author=宮内庁|accessdate=2009-11-14}}</ref>
 
** 2004年(平成16年)、訪欧前の記者会見で。いわゆる[[人格否定発言]]。
 
* 「[[皇室典範に関する有識者会議]]が最終報告書を提出したこと、そしてその内容については、私も承知しています。親としていろいろと考えることもありますが、それ以上の発言は控えたいと思います」<ref>{{cite web|url=http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/02/kaiken/kaiken-h18az.html|title=皇太子殿下の記者会見 皇太子殿下お誕生日に際し(平成18年)|author=宮内庁|accessdate=2009-11-14}}</ref>
 
** 2006年(平成18年)2月21日、誕生日に際する記者会見にて、[[皇位継承問題 (平成)|皇室典範改正問題]]についての質問に対して。
 
* 「昨年9月の[[悠仁親王]]の誕生を心から喜ばしく思います。御所で、また、秋篠宮邸で、そしてまた、この赤坂御用地を弟夫妻が散歩で連れている折などに会うことがありますけれども、健やかに成長しているようで嬉しく思っております」<ref>{{cite web|url=http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/02/kaiken/kaiken-h19az.html|title=皇太子殿下の記者会見 皇太子殿下お誕生日に際し(平成19年)|author=宮内庁|accessdate=2009-11-14}}</ref>
 
** 2007年(平成19年)2月21日、誕生日に際する記者会見にて、悠仁親王誕生についての質問に対して。
 
* 「両陛下のこれまでの歩みについては、常に深くご尊敬申し上げており、両陛下のご活動の一つ一つから多くを学んでまいりました」
 
** 2009年(平成21年)2月20日、誕生日に際する記者会見にて、今上天皇、皇后のこれまでの歩みについての質問に対して<ref>[http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/02/kaiken/kaiken-h21az.html 皇太子殿下の記者会見 皇太子殿下お誕生日に際し(平成21年)]</ref>。
 
* 「[[花園天皇]]の言われる『学問』とは、単に博学になるということだけではなくて、人間として学ぶべき動議や礼儀も含めての意味で使われた言葉です。私も五十歳になって改めて学ぶことの大切さを認識しています」
 
** 2010年(平成22年)2月、誕生日に際する記者会見にて「誡太子書」に言及して。<ref>『皇太子殿下 皇位継承者としてのご覚悟』明成社 21ページ</ref>。
 
* 「若い世代が国の内外で自信を持って活躍し、女性・高齢者・障害者を含め全ての人々が、社会に積極的に参画できるような活力のある社会を構築するために、(中略)私自身、今年も、国の内外で若者や[[ボランティア]]の方々など多くの方にお会いしたいと思っています」
 
** 2013年(平成25年)2月21日、誕生日に際する記者会見にて、前年6月に20年ぶりに開催された「国連持続可能な開発会議」に言及して<ref>[http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/02/kaiken/kaiken-h25az.html 皇太子殿下の記者会見 皇太子殿下お誕生日に際し(平成25年)]</ref>。
 
* 「過去の天皇が歩んでこられた道と、そしてまた、天皇は日本国、そして国民統合の象徴であるとの日本国憲法の規定に思いを致して、国民と苦楽を共にしながら、国民の幸せを願い、象徴とはどうあるべきか、その望ましい在り方を求め続けるということが大切であると思います。同時に、これまで行われてきている公務を踏まえつつ、将来にわたり生じる日本社会の変化に応じて、公務に対する社会の要請に応えていくことが、重要であると考えております。私としても、常に学ぶ姿勢を忘れずに、他人への思いやりの心を大切にしながら、世の中のためにできることを心掛けてやっていきたいと思っております」
 
** 同記者会見にて、将来天皇となる立場から、公務をどのようなものと考えているのかという質問に対して。
 
* 「私、それから秋篠宮が折に触れて、陛下の所で、陛下のご意見を伺ったり、あるいはいろいろな意見交換をするということは、非常に私自身も大切なことだと思いますし、私自身も大変有意義な一時を過ごさせていただいております。陛下と折に触れてご質問の象徴天皇の在り方について、具体的にどういうことを話しているかは申し上げられませんけれども、陛下ご自身がいろいろ思われていること、あるいは体験されてきたことなどをお話しくださるので、私としても本当にいろいろと参考にさせていただいておりますし、大変有り難いことだと思っております」
 
** 同記者会見にて、御所での今上天皇と皇太子徳仁親王と秋篠宮文仁親王との懇談についての質問に対して
 
 
 
== 逸話 ==
 
=== 人物に関するもの ===
 
* 幼少時(2歳頃)の徳仁親王は、身体は活発だが器用な方ではなかった。しかし、何事にも非常に粘り強く頑張る性格で服のボタン留めなども丁寧にやりとげていた。幼稚園時代、[[自転車]]をマスターする時にも、倒れて涙を見せても自分の力で立ち上がり自転車を起こしていた。しかし、4歳の時、なぜ自分には[[苗字]]がないのかと寂しそうに尋ねた。7歳の時には自分の立場を自覚し、一人で歓迎の人達に向かって挨拶をした。「男の子は泣くものではありません」としつけられていたため、弟の[[文仁親王]]が生まれベビーベッドで泣いていたとき「アーヤは赤ちゃんだから泣いてもいいんだよね」と言ってかばった<ref>浜尾実『殿下とともに』角川出版</ref>。
 
* [[趣味]]は[[スポーツ]]と[[音楽]]を中心に幅広く、特に日本各地の[[登山]]と[[ヴィオラ]]の[[演奏]]はしばしば国民の目をひく。登山に関しては、登山専門誌『[[岳人]]』や『[[山と渓谷]]』などに、幾度か[[エッセイ]]も寄稿している。このエッセイでは、父と山に登ったときの思い出なども書かれ、文中では一般の[[敬語]]の原則に従い、天皇を「父」、皇后を「母」と呼んだ。登山のほかには[[テニス]]と[[ジョギング]]を好む。普段は赤坂御用地内を走っているが、皇居を周回するジョギングコースで市民ランナーとともに走ったことが過去に3回ある。2007年(平成19年)は約10km(2周)を51分前後で走破し、その健脚ぶりを披露している。
 
* [[ヴィオラ]]は、友人知人や演奏家を招いた際などに私邸で演奏するほか、学習院OB演奏会の[[オーケストラ]]などで演奏することもある。元来ヴァイオリンを弾いていたが、学習院大学入学を機にヴィオラに転じた。
 
* 皇太子になる前には、歌手の[[柏原芳恵]]のコンサートに赴いたこともある。[[1986年]](昭和61年)10月19日、[[新宿]][[東京厚生年金会館]]でのコンサートに行き話題となる。出迎えた柏原がレコードと写真集をプレゼントした。そのお礼に彼女にオレンジ色のバラを贈っている。(父皇太子明仁親王邸である)東宮御所に咲く(エリザベス女王が皇太子妃美智子に送ったバラ)「[[プリンセス・ミチコ]]」であった。カラオケで柏原の曲「[[ハロー・グッドバイ (アグネス・チャンの曲)|ハロー・グッバイ]]」を歌うこともあった。
 
* 小学生の頃は[[読売ジャイアンツ]]のファンで、そのユニフォームを着て野球に興じる姿を映した映像も残っている。[[末次利光]]を贔屓にしており、観戦した[[1971年の日本シリーズ]]第4戦で末次が満塁本塁打を放った際には大いに喜んだ<ref>「浩宮さまは背番号38」朝日新聞1971年10月17日23頁</ref>。また、[[長嶋茂雄]]のファンでもあった<ref>読売新聞1971年7月21日11頁</ref>。[[1988年]](昭和63年)の[[夏の甲子園]]の[[第70回全国高等学校野球選手権大会]]では開会式後の[[始球式]]を務めた<ref group="注">打者は第一試合に出場した茨城県代表・[[常総学院中学校・高等学校|常総学院高等学校]](対戦相手は長崎県代表・[[長崎県立小浜高等学校]])の1番打者であった[[仁志敏久]](元[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]])である。</ref>この大会については良い思い出として記憶していると語っていたことが雑誌記事に掲載され、21年後の[[2009年]](平成21年)夏の甲子園の[[第91回全国高等学校野球選手権大会]]では開会式に出席し、お言葉を読み上げた。
 
* [[阪神・淡路大震災]]に際しては被災者を見舞い、「春になればいいことがありますよ」と言葉をかけたと伝わる。[[地震]]の発生メカニズムについても興味を示し、地震研究所を訪問したと伝わる。この直前にはクウェート、アラブ首長国連邦、ヨルダンを外遊中であり、外遊を継続する予定であったが、外遊先ヨルダンの[[フセイン1世|フセイン国王]]の勧めで急遽予定を切り上げ、帰国した。[[ハーシミーヤ宮殿]]で会見し「訪問の約束は果たさなければと思っていましたが、はざまで難しかった」と語っている。その後、[[2010年]](平成22年)までに、[[阪神・淡路大震災]]被災地訪問を12回行い<ref>『皇太子殿下 皇位継承者としてのご覚悟』明成社124ページ</ref>、15周年の追悼式典には療養中の雅子妃を伴って訪れた<ref>宮内庁HP[http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/02/koen/koen02.html 阪神・淡路大震災15周年追悼式典で献花台にご供花になる皇太子同妃両殿下]</ref>。
 
 
 
=== 研究者として ===
 
* [[歴史学]](交通史、流通史)を専門としたきっかけは、幼少時、美智子妃(当時)と共に御用地を散策中に[[石碑]]を見つけたことだという。のちに「そもそも私は、幼少の頃から交通の媒介となる「道」についてたいへん興味があった。ことに、外に出たくともままならない私の立場では、たとえ[[赤坂御用地]]の中を歩くにしても、道を通ることにより、今までまったく知らない世界に旅立つことができたわけである。私にとって、道はいわば未知の世界と自分とを結びつける貴重な役割を担っていたといえよう。」と回想している<ref>『[[テムズとともに]]』徳仁親王、学習院総務部広報課、p150。</ref>。
 
* 第5回世界水フォーラム[[トルコ]]での開会式では、トルコ語で最後の呼びかけを行い会場は割れるような拍手に沸いた。一方、基調講演では、弥生時代の「唐子・鍵遺跡」の環濠集落や、徳川家康が治水上の安全を根本的に向上させるために実施した「利根川の東遷」の事例を引いて水問題を歴史の視点から語った。「殿下は水と人との関係を、開催国の歴史と日本の伝統を踏まえて具体的な事例を示して講演されるので、開催国と日本の間に「伝統の継承」という美しい橋を架ける」と[[尾田栄章]]は評している<ref>『皇太子殿下〜皇位継承者としてのご覚悟』明成社、p46 - 54</ref>。
 
 
 
=== 外遊に関するもの===
 
* [[1984年]](昭和59年)[[オックスフォード]]大学への留学中、ロンドンサミット出席のため訪英していた[[中曽根康弘]]首相(当時)に、女王の夫君[[エジンバラ公]]は「浩宮殿下は完全にロイヤル・ファミリーの一員となっています」と伝えた<ref>「プリンス浩宮」 薗部英一 日本映像出版</ref>。
 
* [[2007年]](平成19年)の [[モンゴル]]訪問においては、到着翌日に日本人抑留者の慰霊碑に供花した。[[シベリア]]抑留者のうち1万4,000人がモンゴルに移送され、約2,000人亡くなっていることに思いをよせたためという。このことに感謝した日本モンゴル協会の人々は、大きな日の丸を振って殿下の車列を迎え、見送った<ref>『皇太子殿下〜皇位継承者としてのご覚悟』明成社、p94 - 97</ref>。
 
*[[2017年]](平成29年)のデンマーク訪問のときには、同国首都[[コペンハーゲン]]市民の[[自撮り]]に応じた<ref>[https://www.sankei.com/life/news/170618/lif1706180012-n1.html 皇太子さま、市民とご交流 ビール勧められ「次の機会に」 デンマークで運河沿いご散策]産経新聞2017年6月17日(2018年5月21日閲覧)</ref>。
 
 
 
=== 国内公務に関するもの===
 
* [[1986年]](昭和61年)[[金沢市]]における全国高校相撲選手権大会で、原稿なしで堂々たるスピーチをされ大きな拍手が涌き起こった。「お言葉」を読み上げる以上の熱意を観衆が感じたためと思われる<ref>河原敏明『美智子皇后』講談社、pp303 - 304。</ref>。
 
* 沖縄県からの子ども達による記者「豆記者」の受け入れを、平成になってからは皇太子殿下と同妃が引き継がれており、毎年8月に東宮御所でお会いになり、一人一人に声をかけている<ref>『皇太子殿下〜皇位継承者としてのご覚悟』明成社、pp133 - 134。</ref>。
 
 
 
=== 皇族とのもの ===
 
* [[高円宮]]家とは家族ぐるみで親しく交際していた。[[高円宮憲仁親王]]は皇太子と年が近く兄のような存在で、結婚後も二人の心の支えとなった。夫妻は結婚当日、赤坂御用地で家族そろってパレードを終えた二人を迎えた。憲仁親王は愛子内親王の誕生をことのほか喜び、出産時の見舞いに先に妃たちだけが行くことになったのを非常に悔しがったという。皇太子夫妻が憲仁親王と最後に会えたのは、1週間前に愛子内親王を連れて高円宮邸を訪れたときだった。<ref>この部分の出典。{{Cite book |和書 |author=高円宮妃久子 |authorlink=憲仁親王妃久子 |year=2003 |title=宮さまとの思い出 |edition =初版第一刷 |publisher=[[扶桑社]] |pages=272-284 |isbn=4-594-04248-1 }}</ref>
 
* [[2006年]](平成18年)[[9月6日]]、[[文仁親王妃紀子|秋篠宮妃紀子]]が[[愛育病院]]で[[悠仁親王]]を出産した際は、[[秋篠宮文仁親王|秋篠宮]]からの電話連絡を受け、「ご無事のご出産おめでとう。妃殿下の[[手術]]が無事に終わることを祈っています。両殿下も親王殿下もお身体をお大切に」と祝意を述べた。[[北海道]]で公務中だった天皇・皇后の[[行幸|還幸]](9日)と見舞い(10日)の後、自らは11日に雅子妃・愛子内親王を伴って見舞いに訪れた。
 
* 徳仁親王は2007年(平成19年)の誕生日会見で、「(愛子内親王が)両陛下とお会いする機会を作っていきたい」と表明したが<ref>{{Cite web |url=http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/02/kaiken/kaiken-h19az.html |title=皇太子殿下お誕生日に際し(平成19年) |publisher=宮内庁 |accessdate=2013-10-20}}</ref>、翌2008年(平成20年)2月13日の定例会見で[[羽毛田信吾]]宮内庁長官に天皇皇后両陛下への参内(訪問)の回数が増えていないことを指摘された<ref>[http://sankei.jp.msn.com/culture/imperial/080213/imp0802131645000-n1.htm]{{リンク切れ|date=2016年1月}}</ref>。その直後の誕生日会見では羽毛田長官の発言に対し、参内を心がけたいとして、それ以上の内容は“プライベートな事柄”として発言を控えた<ref>{{Cite web |url=http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/02/kaiken/kaiken-h20az.html |title=皇太子殿下お誕生日に際し(平成20年) |publisher=宮内庁 |accessdate=2013-10-20}}</ref>。
 
 
 
=== 結婚までの経緯 ===
 
{{Main|皇太子徳仁親王と小和田雅子の結婚の儀}}
 
[[1986年]](昭和61年)[[10月18日]]、[[東宮御所]]で催された[[スペイン]][[スペイン君主一覧|国王]][[フアン・カルロス1世 (スペイン王)|フアン・カルロス1世]]の娘[[エレナ・デ・ボルボーン・イ・デ・グレシア|エレナ]]王女歓迎の茶会に、外務省条約局長だった[[小和田恆]]とともに招かれた、恆の長女で外務公務員I種試験に合格して間もない小和田雅子と初対面を果たす。[[1987年]](昭和62年)4月25日には、[[高円宮憲仁親王]]・[[憲仁親王妃久子|同妃久子]]が高円宮邸に徳仁親王と小和田雅子を招き、親交を深めるきっかけを作った<ref>[[サンデー毎日]] 1993年1月24日号</ref>。
 
 
 
こうして親王妃候補の一人となった雅子の母方の祖父・[[江頭豊]]は銀行員であったが、四大公害病の筆頭である[[水俣病]]を引き起こした日本窒素株式会社のメインバンクから水俣病患者の保証部門として新設された[[チッソ]]に派遣されその後、社長に就任したことや[[メディアスクラム]]の被害、雅子自身の外交官の仕事への熱心さから、親王妃候補から外れた。しかし、この間も徳仁親王の念頭には雅子の存在があり、他の妃候補が同様のメディアスクラムの被害を受けるなどして次々と辞退したことと徳仁親王の希望もあり他の親王妃候補と平行して話が進んだ。宮内庁内の反対の流れを大きく変えたのは元[[最高裁判所裁判官|最高裁判所判事]]であり当時宮内庁参事であった[[団藤重光]]の「江頭氏は再建のため[[日本興業銀行]]からチッソに入った。再建できなければ被害者への補償も不可能になった。水俣病の発生について法的責任はない」との見解であった。前宮内庁長官の[[富田朝彦]]は後に「和解案を裁判所が提出するとか、前向きの形といいますか、取り組みといったものが出てまいりまして、それでいまの[[藤森昭一]]長官ともその情勢をいろいろと話し合って、もうここまでくればいつまでも見守るという態勢ではないだろうと。そろそろいい時期にきたかなと、こういうふうになってきたのが大体の経緯です」と述べている<ref>毎日新聞 1993年6月10日</ref>。
 
 
 
また、今上天皇と皇后は「皇太子が選んだ相手との話を進めてもらいたい」との意向を宮内庁に伝えたとされる<ref>毎日新聞 1993年1月18日</ref>。小和田雅子が英国留学から帰国した後に、[[藤森昭一]]宮内庁長官の依頼を受けた<ref>読売新聞 1993年1月7日夕刊</ref>、元外務次官[[柳谷謙介]]が宮内庁と小和田家の仲介役を務め、[[1992年]](平成4年)[[8月16日]]、柳谷邸にて徳仁親王と雅子が再会し、交際も再開した。同年[[10月3日]]に宮内庁新浜鴨場でのデートで徳仁親王が求婚した。小和田家側は辞退したが、徳仁親王は雅子に「天皇皇后両陛下も温かくお迎えするとおっしゃって下さっている<ref>朝日新聞 1993年1月20日</ref>」旨を伝えた。そして[[12月12日]]に東宮仮御所において雅子は婚約の受諾を伝えた。[[12月25日]]に東宮仮御所で、徳仁親王は雅子を今上天皇と皇后に紹介し歓談した。
 
 
 
翌[[1993年]](平成5年)[[1月6日]]午後8時45分、報道協定が解除されたため、テレビ各局は通常番組を中断して雅子が皇太子妃に内定したことを報道した。同年[[1月19日]]、[[皇室会議]]において徳仁親王と小和田雅子の婚姻が全員一致で可決され、同日二人による記者会見が行われた。翌日からは多数の企業が祝賀広告を新聞に掲載するなど国民は祝賀ムードに包まれた。同年[[4月12日]]の[[納采の儀]](婚約)を経て、同年[[6月9日]]に結婚の儀が執り行われた。
 
 
 
同日、午前8時30分から2時間55分にわたってNHKが中継した結婚の儀の平均視聴率は30.6%([[ビデオリサーチ]]・関東地区調べ)を記録した。そして成婚パレードの沿道には約19万人が集まり、そのテレビ中継の最高視聴率は79.9%を記録するなど、盛大な祝福を受けた<ref>[http://sankei.jp.msn.com/culture/imperial/080608/imp0806080824000-n1.htm MSN産経【皇室ウイークリー特別編】お写真で振り返る皇太子ご夫妻の15年]</ref>。また当日は、「皇太子徳仁親王の結婚の儀の行われる日を休日とする法律」が制定されて[[休日]]となった。また各地で神輿・山車が繰り出され、提灯行列や花火の打ち上げや餅つき、国営公園の無料開放などが行われた。
 
 
 
=== 雅子妃の親族とのもの ===
 
[[皇太子徳仁親王妃雅子|皇太子妃雅子]]の祖母に当たる江頭寿々子が病床にあったときは、愛子内親王を伴って見舞いに訪れており、2006年(平成18年)に雅子の祖父・[[江頭豊]]が死去した際には雅子に同行、葬儀に参列している。
 
 
 
== 栄典 ==
 
{{multiple image |width1 = 150 | image1 = Emblem of Naruhito of Japan (Order of the Seraphim).svg| alt1  = セラフィム | caption1= {{仮リンク|セラフィム勲章|en|Royal Order of the Seraphim}}員としての紋章| image2    = Emblem of the Crown Prince of Japan (Order of Charles III).svg| alt2      = カルロス|width2 = 152| caption2={{仮リンク|カルロス3世勲章|es|Orden de Carlos III}}員としての紋章}}
 
 
 
=== 日本 ===
 
* [[大勲位菊花大綬章]](受章時は浩宮)
 
 
 
=== 外国 ===
 
* {{Flag|Austria}}: オーストリア共和国勲章 - [[ファイル:AUT Honour for Services to the Republic of Austria - 1st Class BAR.png|55px]] ([[1999年]]) <ref>{{cite web|url=http://www.parlament.gv.at/PAKT/VHG/XXIV/AB/AB_10542/imfname_251156.pdf|title=Reply to a parliamentary question about the Decoration of Honour|language=German|page=1299|format=pdf|accessdate=13 June 2012}}</ref>
 
* {{Flag|Bahrain}}: アール・ハリーファ勲章
 
* {{Flag|Belgium}}: レオポルド勲章 - [[ファイル:Grand Crest Ordre de Leopold.png|55px]] <ref>[http://theroyalchronicle.wordpress.com/2012/10/20/ Guillaume and Stephanie of Luxembourg’s religious wedding Ceremony], Prince Naruhito, having no Luxembourgish decoration, has worn the [http://www.wort.lu/img/dd65339db25b8eb0761e7a48d614fa35/560/360/0/10/792/519/75/4f36e057b79c933368225cca13aa62932526f4a8.jpg ribbon bar] of Grand Cordon of the Order of Leopold</ref>
 
* {{Flag|Denmark}}: エレファント勲章 - [[File:Orderelefant ribbon.png|55px]]([[2004年]])<ref>[https://www.borger.dk/foa/Sider/Default.aspx?fk=26&foaid=10526981&paid= www.borger.dk], Persondetaljer - Hans Kejserlige Højhed Naruhito</ref>
 
* {{flag|Greece|old}} : 救い主勲章 - [[File:GRE Order Redeemer 1Class.png|55px]]
 
* {{flag|Hungary}}: {{仮リンク|ハンガリー共和国功労勲章|en|Order of Merit of the Republic of Hungary}} - [[File:HUN Order of Merit of the Hungarian Rep (civil) 1class BAR.svg|55px]]([[2000年]])
 
* {{flag|Italy}} : イタリア共和国功労勲章 - [[File:Cordone di gran Croce di Gran Cordone OMRI BAR.svg|55px]]
 
* {{Flag|Malaysia}}: ラム・クラウン勲章 - [[File:MY Darjah Utama Seri Mahkota Negara (Crown of the Realm) - DMN.svg|55px]]([[2012年]])<ref>{{cite web
 
|url=http://www.istiadat.gov.my/index.php/component/semakanlantikanskp/|title=Semakan Penerima Darjah Kebesaran, Bintang dan Pingat Persekutuan.|accessdate=13 June 2012}}</ref>
 
* {{flag|Netherlands}}: クラウン勲章 - [[File:Order of the Crown (Netherlands).svg|55px]]([[1991年]])
 
* {{Flag|Norway}}: [[聖オーラヴ勲章]] - [[File:St Olavs Orden storkors stripe.svg|55px]]([[2001年]])
 
* {{flag|Philippines}}: シカツナ勲章 - [[File:PHL Order of Sikatuna - Grand Cross BAR.png|55px]]([[2002年]])<ref>{{cite web|url=http://www.gov.ph/featured/filipino-recipients-of-japanese-decorations-and-japanese-recipients-of-philippine-decorations/|title=Filipino recipients of Japanese decorations and Japanese recipients of Philippine decorations|publisher=''Official Gazette of the Republic of the Philippines''|accessdate=13 June 2012}}</ref>
 
* {{flag|Portugal}} : [[キリスト騎士団]]([[1993年]])<ref>{{Cite web|url=http://www.ordens.presidencia.pt/?idc=154|title=''Cidadãos Estrangeiros Agraciados com Ordens Portuguesas'' |publisher=presidencia.pt |language=pt |accessdate=13 June 2012 }}</ref>
 
* {{Flag|Qatar}} : 勲功勲章
 
* {{flag|Spain}} : {{仮リンク|カルロス3世勲章|es|Orden de Carlos III}} - [[File:ESP Charles III Order GC.svg|55px]]([[2008年]])<ref>[http://www.boe.es/boe/dias/2008/11/10/pdfs/A44698-44698.pdf Boletín Oficial del Estado]</ref>
 
* {{flag|Sweden}} : {{仮リンク|セラフィム勲章|en|Royal Order of the Seraphim}} - [[File:Order of the Seraphim - Ribbon bar.svg|55px]]([[2007年]])<ref>{{cite web|title=Wedding Of Swedish Crown Princess Victoria & Daniel Westling - Arrivals|url=http://www.gettyimages.co.uk/event/wedding-of-swedish-crown-princess-victoria-daniel-westling-arrivals-101880312#prince-edward-the-earl-of-wessex-and-princess-sophie-the-countess-of-picture-id102222994|website=Getty Images|accessdate=2 December 2016|date=June 19, 2010}}</ref>
 
* {{flag|Tonga}} :
 
** トンガ王冠勲章 - [[File:Order of the Crown of Tonga - ribbon bar.gif|55px]](2008年)<ref>{{cite web|title=Glittering Royal Events Message Board: Coronation in Tonga|url=http://web.archive.org/web/20150705145520/http://members3.boardhost.com/Oranjes/msg/1434330848.html|accessdate=2 December 2016|archiveurl=http://web.archive.org/web/20150705145520/http://members3.boardhost.com/Oranjes/msg/1434330848.html|archivedate=5 July 2015|date=June 15, 2015}}</ref>
 
** [[ジョージ・トゥポウ5世]]戴冠メダル(2008年)<ref>{{cite news|last1=Ito|first1=Kazuya|title=Crown Princess Masako completes first duties abroad in more than 2 years|url=http://ajw.asahi.com/article/behind_news/social_affairs/AJ201507040031|accessdate=2 December 2016|publisher=The Asahi Shimbun|date=July 4, 2015|archiveurl=http://web.archive.org/web/20150705051734/http://ajw.asahi.com/article/behind_news/social_affairs/AJ201507040031|archivedate=5 July 2015}}</ref>
 
** [[トゥポウ6世]]戴冠メダル([[2015年]])
 
* {{Flag|United Arab Emirates}}: ザーイド勲章([[1995年]]) - [[File:Order Zayed rib.png|55px]]<ref>[http://www.upi.com/Archives/1995/01/23/Japanese-crown-prince-visits-UAE/8159790837200/ Upi]</ref>
 
 
 
=== 名誉法学博士 ===
 
* [[オックスフォード大学]]
 
 
 
=== 名誉職 ===
 
* [[日本赤十字社]]名誉副総裁<ref>[https://imperialfamilyjapan.wordpress.com/2016/07/07/promotion-of-blood-donation/ Japanese Red Cross]</ref>
 
* [[国際連合事務局]]「水と衛生に関する諮問委員会」名誉総裁
 
* [[ボーイスカウト日本連盟]]きじ章 - [[File:Golden Pheasant Award ribbon.svg|55px]]([[1989年]])<ref>reinanzaka-sc.o.oo7.jp/kiroku/documents/20140523-3-kiji-list.pdf</ref>
 
 
 
== 著作・論文・講演集など ==
 
特記のないものは「徳仁親王」名義。
 
 
 
*「[[兵庫北関入船納帳]]の一考察-[[問丸]]を中心にして」、『交通史研究』第8号、交通史学会、1982年
 
* H.I.H PRINCE NARUHITO ''THE THAMES AS HIGHWAY'' (交通路としてのテムズ川)、[[オックスフォード大学出版局|Oxford University Press]]、1989年
 
*「室町前中期の兵庫関の二、三の問題」、[[安田元久]]先生退任記念論集刊行委員会編『中世日本の諸相・下巻』、[[吉川弘文館]]、1989年、ISBN 4642026290
 
* 「[https://www.jstage.jst.go.jp/article/jgeography1889/100/1/100_3/_article/-char/ja/ 18世紀テムズ川における輸送船舶及び輸送業者について]」、『地学雜誌』第100巻第1号、公益社団法人東京地学学会、1991年
 
* 『[[テムズとともに]] -英国の二年間-』[[学校法人学習院|学習院]]総務部広報課〈学習院教養新書〉1993年
 
* 「皇太子さまが綴られた野の花,山の花への思い 山の花随想」、『[[岳人]]』1997年6月号(通号600)
 
* 「西園寺家所蔵「河瀬清貞山城国美豆牧代官職請文」について」、『学習院大学史料館紀要』第10号、[[学習院大学史料館]]、1999年
 
*(木村真美子共著)「史料紹介 西園寺家所蔵『公衡公記』」「『西園寺家車図』諸本の研究--附、宮内庁書陵部所蔵九条本『西園寺家車図』翻刻」、『学習院大学史料館紀要』第11号、学習院大学史料館、2001年3月
 
* 「関銭-兵庫関 兵庫北関代官職請文」、『東大寺文書を読む』堀池春峰監修・綾村宏:編、[[思文閣出版]]、2001年5月、ISBN 4-7842-1074-1
 
*(木村真美子共著)「忘れられた車図--陽明文庫所蔵『納言大将車絵様』および『車絵』について」、『学習院大学史料館紀要』第12号、学習院大学史料館、2003年
 
* (木村真美子共著)「『九条家車図』の成立をめぐって : 附、学習院大学史料館所蔵飛鳥井本『九条家車図』解題および翻刻」、『学習院大学史料館紀要』第14号、学習院大学史料館、2007年
 
* (木村真美子共著)「東山御文庫所蔵「立倚子政記」」、『学習院大学史料館紀要』第15号、学習院大学史料館、2009年
 
* 「史料館講座講演録 目白キャンパスの思い出」、『学習院大学史料館紀要』第16号、学習院大学史料館、2010年
 
* 「水災害とその歴史」、『東日本大震災復興を期して-知の交響(ハーモニー)』、[[学習院女子大学]]編、[[東京書籍]]、2012年、ISBN 978-4-487-80729-1
 
* 「[https://www.jstage.jst.go.jp/article/jgeography/123/4/123_123.389/_article/-char/ja/ 江戸と水]」、『地学雑誌』Vol.123(2014) No.4 - 2009年日本アジア協会総会で行なった講演の日本語訳。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
=== 注釈 ===
 
{{Reflist|group=注}}
 
=== 出典 ===
 
{{Reflist|2}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Commonscat}}
 
* [[水の危機]] - 国連水と衛生に関する国連諮問委員会の主題。
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://www.kunaicho.go.jp 宮内庁ホームページ]
 
* [http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_housei.nsf/html/houritsu/12619930430032.htm#r=s&r=s 皇太子徳仁親王の結婚の儀の行われる日を休日とする法律]({{ws|[[:s:皇太子徳仁親王の結婚の儀の行われる日を休日とする法律|ウィキソース]]}})
 
* [http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H05/H05HO033.html 皇太子徳仁親王の婚姻を記念するための五万円の貨幣の発行に関する法律]
 
* [http://www.britishpathe.com/video/prince-hiro-of-japan 誕生時のニュース映像] - British Pathe
 
* [http://cgi2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009030253_00000 NHKアーカイブス 皇太子さま・雅子さまご結婚(1993年)] - 日本放送協会(NHK)
 
 
 
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[[Category:日本の皇太子]]
 
[[Category:日本の皇太子]]

2019/5/1/ (水) 17:44時点における最新版

皇太子徳仁親王(こうたいし なるひとしんのう、1960年2月23日 - )

天皇明仁(あきひと)の第1皇子。

昭和35年2月23日生まれ。昭和58年から2年間,イギリスのオックスフォード大に留学する。父の即位で皇太子となり平成3年立太子の礼がおこなわれた。5年外務次官小和田恒(ひさし)の長女雅子と結婚。日本赤十字社名誉副総裁。学習院大卒。幼称は浩宮(ひろのみや)。著作に「テムズとともに」。



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