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{{Otheruseslist|2012年10月以降の王子製紙(4代目)|1960年 - 1993年および1996年 - 2012年9月に存在した王子製紙(2・3代目)|王子ホールディングス|1873年 - 1949年に存在した王子製紙(初代)|王子製紙 (初代)}}
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{{基礎情報 会社
 
{{基礎情報 会社
 
|社名 = 王子製紙株式会社
 
|社名 = 王子製紙株式会社
 
|英文社名 = OJI PAPER CO., LTD.
 
|英文社名 = OJI PAPER CO., LTD.
|ロゴ =[[File:Ōji-Seishi-Logo.svg|200px]]
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|業種 = パルプ・紙
 
|業種 = パルプ・紙
 
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|事業内容 = [[紙]]・[[パルプ]]・の製造販売<br />
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|資本金 = 3億50百万円
 
 
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'''王子製紙株式会社'''(おうじせいし、[[英語|英名]]:OJI PAPER CO., LTD.)は、[[日本]]の最大手[[製紙業|製紙会社]]グループである王子グループに属する企業。[[持株会社]]の[[王子ホールディングス]]の傘下にある[[子会社]]の一つで、グループの[[新聞紙|新聞用紙]]および[[紙#印刷・情報用紙|印刷・情報用紙]]部門を担当する。
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'''王子製紙株式会社'''(おうじせいし、[[英語|英名]]:OJI PAPER CO., LTD.)
 
 
「王子製紙」の名を持つ法人としては4代目である。[[2012年]](平成24年)、グループが純粋持株会社制に移行する際、3代目の王子製紙が王子ホールディングスに社名を変更し、事業を子会社へ移管した。事業を継承した子会社の一つが、この4代目の王子製紙である。
 
 
 
== 概要 ==
 
王子グループの「印刷情報メディアカンパニー」に属する企業の一つである<ref>{{Cite web|url=http://www.ojiholdings.co.jp/group/business/index.html |title=王子ホールディングスの体制について |publisher=王子ホールディングス |accessdate=2012年11月11日}}</ref>。[[2012年]](平成24年)5月に設立され、同年[[10月1日]]付で王子グループが持株会社制に移行した際、王子製紙(3代目)から改称し持株会社となった王子ホールディングスの「新聞用紙事業」および「洋紙事業」などを継承した<ref name="oji120514">{{Cite web|date=2012年5月14日 |url=http://www.ojiholdings.co.jp/content/files/news/2012/4-6/120514_bunkatsu.pdf |title=持株会社制移行に伴う会社分割および商号変更に関するお知らせ |publisher=王子製紙 |accessdate=2012年11月11日}}</ref>。あわせて設立時の「王子製紙分割準備株式会社」から王子製紙(4代目)に社名を変更している<ref name="oji120514"/>。
 
 
 
日本国内に5か所の工場を操業し、[[新聞紙|新聞用紙]]、[[紙#印刷・情報用紙|印刷用紙]]、情報用紙(フォーム用紙・コピー用紙)の3品種を扱う<ref>{{Cite web|url=http://www.oji-paper.co.jp/business-prospectus.htm |title=事業案内 |publisher=王子製紙 |accessdate=2012年11月11日}}</ref>。
 
 
 
[[中華人民共和国]][[江蘇省]]に工場を持つ[[江蘇王子製紙]]などを傘下に置く。
 
 
 
== 主要拠点 ==
 
=== 本社 ===
 
[[本社]]所在地は[[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]][[銀座]]4丁目7-5で、王子ホールディングスの本社ビルである「王子ホールディングス本館」に入居する<ref name="kyoten">{{Cite web|url=http://www.oji-paper.co.jp/corporate-guidance.htm |title=会社案内 |publisher=王子製紙 |accessdate=2012年11月11日}}</ref>。
 
 
 
=== 生産拠点 ===
 
[[ファイル:HinoGawa.jpg|thumb|写真中央[[日野川]]右岸の大きな工場が王子製紙米子工場(2007年9月19日撮影)]]
 
; 苫小牧工場
 
{{Main|王子製紙苫小牧工場}}
 
: 所在地は[[北海道]][[苫小牧市]]王子町2丁目1-1<ref name="kyoten"/>。
 
: [[王子製紙 (初代)|初代王子製紙]]により[[1910年]](明治43年)9月に操業を開始。同社にとって北海道進出の第一号であった。[[太平洋戦争]]後の占領下における[[財閥解体]]政策によって初代王子製紙は[[1949年]](昭和24年)8月に解体、苫小牧工場は苫小牧製紙(後の3代目王子製紙、現・王子ホールディングス)が継承した。
 
; 春日井工場
 
: 所在地は[[愛知県]][[春日井市]][[王子町 (春日井市)|王子町]]1<ref name="kyoten"/>。苫小牧工場に続く王子製紙第2の拠点として[[1953年]](昭和28年)6月に操業を開始した。
 
; 米子工場
 
: 所在地は[[鳥取県]][[米子市]]吉岡373<ref name="kyoten"/>。[[日本パルプ工業]]の2番目の工場として[[1952年]](昭和27年)11月に操業を開始。[[1979年]](昭和54年)3月合併により王子製紙の工場となった。
 
; 富岡工場
 
: 所在地は[[徳島県]][[阿南市]][[豊益町]]吉田1<ref name="kyoten"/>。神崎工場([[兵庫県]][[尼崎市]]、現・[[王子イメージングメディア]]神崎工場)に続く[[神崎製紙]]の2番目の工場として[[1959年]](昭和34年)8月に操業を開始。[[1993年]](平成5年)10月合併により王子製紙の工場となった。
 
; 日南工場
 
: 所在地は[[宮崎県]][[日南市]]大字戸高1850<ref name="kyoten"/>。日本パルプ工業最初の工場として[[1938年]](昭和13年)11月に操業を開始。米子工場と同様に1979年に王子製紙の工場となった。
 
 
 
== 水力発電事業 ==
 
王子製紙は、初代王子製紙時代の[[1910年]](明治43年)に完成した[[王子製紙苫小牧工場|苫小牧工場]]に電力を供給するため、[[石狩川]]水系と[[尻別川]]水系に多数の[[水力発電|水力発電所]]を建設、工場操業の原動力とした。特に開発が進められたのが、[[支笏湖]]を水源とする[[千歳川]]であった。
 
 
 
=== 千歳発電所 ===
 
[[ファイル:Chitose1-s-r1.JPG|thumb|千歳発電所の取水施設である千歳第一堰堤。金網で厳重に囲まれており全容はなかなか見られない。]]
 
 
 
豊富な水量を有し、工場のある苫小牧に近いこともあって、当時長距離の送電技術が確立されていなかったこともあり千歳川への関心は高まった。折から、[[福澤桃介]]を始め民間による水力発電事業が盛んに全国で行われていたこともあり、明治末期より千歳川に水力発電所群を建設する計画が立てられた。
 
 
 
建設が行われたのは、千歳川が支笏湖より流れ出て、現在の[[千歳市]]中心部に出るまでの狭窄部。水明渓谷と呼ばれる一帯であった(千歳市水明郷)。当時この一帯は[[宮内省]]の御料地であったが、[[1905年]](明治38年)に使用願申請を行い、これが受理された後に着工された。この地が選ばれた理由は、不凍湖である支笏湖の豊富な水量と千歳川の急流が水力発電に適し、また工場予定地から近距離であるので当時の技術でも送電が可能であったこと、さらに[[北海道炭礦鉄道]]が敷設されていたことで物資の運搬が可能であったためである。
 
 
 
発電所を含めた工場建設のための総工費は当時の額で約400万円という高額であり、王子製紙単独では拠出不可能であったことから、[[三井合名会社]]の資金援助を仰ぎ建設が始まった。まず[[1910年]](明治43年)[[4月28日]]、支笏湖からの吐き口に「千歳第一堰堤(えんてい)<ref>千歳第一・第二・第五堰堤は構造的には[[ダム]]ではあるが、高さが15.0m以下であるため、[[河川法]]の規定によりダムとは見なされず、[[堰|堰(せき)]]の扱いとなる。</ref>」を設けて、そこから水路を通じて発電を行うこととした。これが「千歳第一発電所」であり、認可出力10,000[[ワット|キロワット]]は当時としては日本最大級の水力発電所であった。第一発電所はその後増設を[[1914年]](大正3年)と[[1930年]](昭和5年)、[[1969年]](昭和44年)に実施し、現在では25,400キロワットを発電する。これ以降[[1916年]](大正5年)から[[1941年]](昭和16年)にかけて、千歳川に相次いで水力発電所が建設されるようになった。
 
 
 
* 千歳第二発電所 : 1916年3月運転開始。出力2,700キロワット(取水口・千歳第二堰堤)
 
* 千歳第三発電所 : [[1918年]](大正7年)[[5月10日]]運転開始。出力3,300キロワット(取水口・千歳第三ダム)
 
* 千歳第四発電所 : [[1919年]](大正8年)運転開始。出力3,600キロワット(取水口・千歳第四ダム)
 
* 千歳第五発電所 : [[1941年]](昭和16年)[[2月7日]]運転開始。出力1,600キロワット(取水口・千歳第五堰堤)
 
 
 
特に[[1918年]](大正7年)に完成した千歳第三発電所の取水口である千歳第三ダムは、北海道で初めて建設された[[コンクリートダム]]であり、[[日本のダムの歴史]]に特筆されるものであった。また、千歳第一堰堤は日本では唯一となる[[バットレスダム|重力式バットレスダム]]という[[ダム#型式|型式]]である。現在では上流の千歳第一・第二堰堤、下流の千歳第四ダムと共に、[[土木学会]]による[[土木学会選奨土木遺産]]に発電所と一緒に指定される貴重な土木文化財でもある。千歳第一から第五までの発電所群を総称して、一般的には「千歳発電所」と呼ぶ。この後、[[羊蹄山]]を水源とする尻別川にも「尻別第一・第二発電所」が建設された。さらに[[1928年]](昭和3年)には千歳川の支流である[[漁川]]に恵庭発電所(出力2,150キロワット)が完成し、王子製紙の主力工場である苫小牧工場の操業を支えた。
 
 
 
なお、千歳発電所から供給される電力は、[[北海道電力]]で供給される交流電源の周波数50[[ヘルツ|Hz]]ではなく、西日本の電力周波数と同じ60Hzである。これは[[1910年]](明治43年)の千歳第一発電所建設当初、王子製紙が導入した発電機が60Hzだったことに由来する。また、この電力は王子製紙苫小牧工場内だけでなく、支笏湖畔の[[支笏湖温泉]]街一帯全てに供給されている。
 
支笏湖温泉街では西日本と同じ60Hzに対応した電気機器が必要である<ref>[http://www.ipej-hokkaido.jp/ch/ch111/p036.pdf コンサルタンツ北海道第111号36・37頁 交流の周波数とは]</ref>。
 
 
 
=== 事業の変遷 ===
 
その後旧王子製紙は水力発電事業も手掛けることになり、1926年には送電事業で提携していた札幌水力電気株式会社を買収、同年末に「北海水力電気株式会社」を設立した。さらに[[1928年]](昭和3年)には[[雨竜川]]の電力開発に着手したのを機に子会社として「雨竜電力株式会社」を設立。[[北海道帝国大学]]の演習林を購入して雨竜発電所の建設に着手した。現在でも[[人造湖]]の広さ日本一である[[朱鞠内湖]]を形成する「[[雨竜第1ダム|雨竜第一ダム]]」である。こうして王子製紙は工場操業の原動力である水力発電開発に本格的に参入し、物資輸送のための[[森林鉄道]]・軌道を各所に敷設した。かつて[[深川市]]と[[名寄市]]を結んだ[[深名線]]はその一つでもある。
 
 
 
だが建設に着手したばかりの[[1939年]](昭和14年)、戦時体制強化の一環として電力国家統制策が取られ、[[電力管理法]]が施行されたことにより雨竜電力は北海水力電気とともに半官半民のトラスト(事実上国営)である[[日本発送電]]に強制的に吸収され、解散を余儀無くされた。雨竜発電所と雨竜第一・第二ダムは[[1944年]](昭和19年)に完成したものの、何れも日本発送電に接収されている。これにより王子製紙は雨竜川の電源開発から手を引き、終戦後も携わることは無かった(事業は[[1951年]](昭和26年)の日本発送電分割により[[北海道電力]]が継承している)。ただし千歳川の水力発電所群に関しては王子製紙が日本発送電に対し必死の折衝を行ったことで、例外的に接収を免れている。日本発送電の強制接収を免れたのは[[日本軽金属]]の水力発電所と王子製紙の千歳発電所のみであったと『王子製紙社史』には記されている。
 
 
 
戦後、王子製紙が分割され苫小牧製紙として再発足した後も、千歳発電所は基幹施設である苫小牧工場に電力を供給した。千歳発電所群は老朽化の進行に対処するため改築や修繕が行われ現在に至るが、尻別川系統の尻別第一・第二発電所は[[2006年]](平成18年)に廃止され、自社所有の発電所施設をはじめ送電線(王子尻別線)・鉄柱・鉄塔類が撤去された。
 
 
 
現在では千歳川系統と呼ばれる千歳発電所群(千歳川に5か所、漁川に1か所)が苫小牧工場を支えている。民間企業がダムを含む水力発電施設を有している例は[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)や日本軽金属などごく少数に限られているが、王子製紙はその中でも古くから水力発電を自前で行う企業であり、[[電力会社|特定規模電気事業者]]の指定を受けている数少ない民間企業でもある。千歳第一発電所の見学は可能であるが、重要な発電施設であり貴重な土木遺産でもあるその他のダム・発電所群は金網で厳重に管理されており、立入ることはできない。
 
<!--
 
グループのどこかへ移管されたはず
 
== 社有林 ==
 
原料の確保を図ることを目的として、国内各地に約19万[[ヘクタール|ha]]の社有林を有する。[[2007年]](平成19年)には社有林において、[[森林認証制度]]の認証取得を完了したほか、[[2008年]](平成20年)には希少野生動物が生息する森林において[[生物多様性]]保全林を設定する方針を打ち出すなど、環境に配慮する方針を打ち出している。
 
-->
 
<!--
 
== 工場の専用線 ==
 
[[モータリゼーション]]が発達する以前の大規模[[工場]]には、製品や原料などを輸送するために、周囲の[[鉄道駅]]から[[鉄道|鉄道路線]]([[専用鉄道|専用線あるいは専用鉄道]])を引き込むことが多かった。[[貨物自動車|トラック]]輸送への転換などによる輸送方式の変更に伴い、1970年代後半から1990年代前半にかけて多くが廃止・撤去されたが、現在でも3工場で、[[コンテナ]]による製品発送などで使用されている。以下は現存する工場の一覧で、括弧内は路線が接続する路線名および駅名である。
 
 
 
* 苫小牧工場 ([[室蘭本線]]・[[苫小牧駅]]
 
* 春日井工場 ([[中央本線]]・[[春日井駅 (JR東海)|春日井駅]])
 
* 米子工場 ([[山陰本線]]・[[伯耆大山駅]])
 
 
 
また、かつて専用線・専用鉄道が使用されていた工場は以下の通り。
 
 
 
* 釧路工場 ([[根室本線]]・[[大楽毛駅]])
 
* 江別工場 ([[函館本線]]・[[江別駅]])
 
* 富士工場 ([[東海道本線]]・[[富士駅]])
 
* 岩渕工場 (東海道本線・[[富士川駅]])
 
* 中津工場 (中央本線・[[中津川駅]])
 
* 神崎工場 (東海道本線・[[尼崎駅 (JR西日本)|尼崎駅]])
 
* 呉工場 ([[呉線]]・[[広駅]])
 
* 佐賀工場 ([[長崎本線]]・[[久保田駅 (佐賀県)|久保田駅]])
 
* 日南工場 ([[日南線]]・[[日南駅]])
 
 
 
これらの他にも、苫小牧工場から[[支笏湖]]方面へ抜け、[[旅客]]やダム建設資材などを輸送した[[王子軽便鉄道|軽便鉄道]](通称「山線」)が存在した。
 
 
 
== 環境問題 ==
 
{{出典の明記|section=1|date=2011年7月}}<!-こういう問題には特に必須->
 
製紙会社の環境対策は不十分な時代があった。[[1970年]](昭和45年)に社会問題化した[[田子の浦港ヘドロ公害]]などは製紙工場等からの排水によるものといわれており、以降、製紙会社は環境改善対策に業界を挙げて取り組んだ。しかし、近年、王子製紙を含む一部の製紙会社において環境コンプライアンスに係る不祥事が発生し、製紙会社の環境への取組み姿勢が問われている。近年、王子製紙(グループ会社含む)で発生した環境問題は以下のとおりである。
 
 
 
# グループ会社(王子コーンスターチ)による虚偽報告
 
#* 王子コーンスターチ千葉工場(市原市)は、[[2002年]](平成14年)〜[[2004年]](平成16年)にかけて、化学的酸素要求量(COD)、浮遊物質量(SS)、ノルマルヘキサン抽出物質含有量、窒素含有量、燐含有量、排水量の全ての項目において、分析記録データ(測定回数・分析結果)を、約6,300回改ざんし、千葉県・市原市へ報告していた。この内、COD、SS、排水量については、公害防止協定の基準値を超過していたにも係わらず、これを隠蔽していた。
 
# NOxのデータ改ざんなどの問題
 
#* グループ会社(王子板紙)を含む9つの工場で、2004年7月から[[2007年]](平成19年)6月にかけて、大気汚染防止法や地元との協定で定める窒素酸化物(NOx)の基準値を超えたばい煙を排出していた、またデータ改ざんが行なわれたと発表した。
 
# 古紙偽装問題
 
#* [[2008年]](平成20年)、王子製紙を含む複数の製紙会社が紙製品の古紙配合率に関し、契約等で求められた基準を下回る製品を提供していたと報道され、高い環境意識を持った消費者等の期待を裏切ったとして批判を浴びた。王子製紙は、2006年4月頃から2007年9月頃までの間、古紙パルプを原材料に用いたコピー用紙を販売するに当たり、実際の古紙配合率が、当該商品の包装紙、包装紙に貼付したラベル、当該商品を詰めた箱又はウェブサイトに記載された古紙配合率を下回るものであったことから、景品表示法違反として、2008年4月公正取引委員会より排除命令を受けた。
 
-->
 
== 企業スポーツ ==
 
[[王子製紙苫小牧工場|苫小牧工場]]に[[アジアリーグアイスホッケー]]所属の[[王子イーグルス]]があり、春日井工場には[[社会人野球]]の[[王子硬式野球部]]がある。[[2004年]](平成16年)に硬式野球部は[[都市対抗野球大会|都市対抗野球]]で初優勝した。なお、かつては[[王子製紙苫小牧硬式野球部|苫小牧硬式野球部]]と[[王子製紙米子硬式野球部|米子硬式野球部]]も存在したが、春日井に統合されている。苫小牧工場にはかつて[[スピードスケート]]部があり、下記の17人の[[冬季オリンピック]]代表選手を輩出した。[[1935年]](昭和10年)に創部され[[2002年]](平成14年)4月に廃部となった<ref>[http://www.tomamin.co.jp/kikaku/10/oji/oji0908.html 〜王子製紙苫小牧工場100周年〜世紀をつなぐ 第2部 地域とともに:苫小牧民報社]</ref>。
 
*[[青木正則]](1952年代表)
 
*[[佐藤恒夫]](1952年代表)
 
*[[菅原和彦]](1952年代表)
 
*[[鈴木正樹]](1968年、1972年、1976年代表)
 
*[[大山三喜雄]](1976年代表)
 
*[[山本雅彦]](1976年、1980年代表)
 
*[[八重樫裕子]](1980年代表)
 
*[[篠原雅人]](1984年代表)
 
*[[宮部保範]](1992年、1994年代表、銅メダル獲得)
 
*[[帰山由美]](1992年代表)
 
*[[山本宏美]](1994年代表、銅メダル獲得)
 
*[[山本真弓]](1994年代表)
 
*[[小笠原みき]](1994年代表)
 
*[[山影博明]](1998年代表)
 
*[[堀井学]](1998年代表)
 
*[[野崎貴裕]](1998年代表)
 
*[[妹尾栄利子]](2002年代表)
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* 王子製紙(編)『王子製紙社史』本編・合併各社編・資料編、王子製紙、[[2001年]](平成13年)
 
* 財団法人日本ダム協会 『ダム年鑑 1991』、[[1991年]](平成3年)
 
* 紙業タイムス社 『紙パルプ 企業・工場データブック』2010、テックタイムス、[[2009年]](平成21年)
 
* 『会社年鑑』2006上巻、[[日本経済新聞社]]、[[2005年]](平成17年)
 
* 民衆史ブックレットNo.1 『朱鞠内と強制連行・強制労働』、空知民衆史講座、[[1996年]](平成8年)
 
  
== 関連項目 ==
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国内最大の売り上げをもつ,総合製紙事業などの事業会社を傘下にもつ[[持株会社]]。王子製紙が 2012年純粋持株会社制に移行し,商号変更して発足。三井グループ系の二木会メンバー。明治5(1872)年[[渋沢栄一]]の建議で創立された抄紙会社が前身で,1893年(旧)王子製紙となる。その後[[中上川彦次郎]]の指示で[[藤山雷太]]がこれを三井系に組み入れた。1933年富士製紙,樺太工業と合併して全国紙生産の 80%を占めるにいたったが,1949年の過度経済力集中排除法で旧王子製紙は苫小牧製紙,十條製紙,本州製紙に 3分割され第二会社として発足。1952年苫小牧製紙を王子製紙工業と改称,1960年王子製紙に社名変更。1970年北日本製紙,1979年日本パルプ工業,1989年東洋パルプを合併。また宅地造成,観光業など多角化を推進した。1993年神崎製紙と合併し,社名を新王子製紙としたが,1996年板紙の本州製紙と合併,社名を王子製紙に復し,国内最大の総合製紙会社となった。2012年純粋持株会社制に移行し,現名称となった。
* [[日本の企業一覧 (パルプ・紙)]]
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== 外部リンク ==
 
== 外部リンク ==
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[[Category:王子グループ|せいし]]
 
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2018/8/30/ (木) 22:26時点における最新版


王子製紙株式会社(おうじせいし、英名:OJI PAPER CO., LTD.)

国内最大の売り上げをもつ,総合製紙事業などの事業会社を傘下にもつ持株会社。王子製紙が 2012年純粋持株会社制に移行し,商号変更して発足。三井グループ系の二木会メンバー。明治5(1872)年渋沢栄一の建議で創立された抄紙会社が前身で,1893年(旧)王子製紙となる。その後中上川彦次郎の指示で藤山雷太がこれを三井系に組み入れた。1933年富士製紙,樺太工業と合併して全国紙生産の 80%を占めるにいたったが,1949年の過度経済力集中排除法で旧王子製紙は苫小牧製紙,十條製紙,本州製紙に 3分割され第二会社として発足。1952年苫小牧製紙を王子製紙工業と改称,1960年王子製紙に社名変更。1970年北日本製紙,1979年日本パルプ工業,1989年東洋パルプを合併。また宅地造成,観光業など多角化を推進した。1993年神崎製紙と合併し,社名を新王子製紙としたが,1996年板紙の本州製紙と合併,社名を王子製紙に復し,国内最大の総合製紙会社となった。2012年純粋持株会社制に移行し,現名称となった。


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