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{{Infobox 用水路
 
|名称 = 玉川上水
 
|画像 = [[ファイル:玉川上水.JPG|300px]]<br />[[立川市]]内を流れる玉川上水|file:玉川上水.JPG|幸町団地付近|file:玉川上水.JPG|幸町団地付近(立川市/小平市)
 
|延長 = 43
 
|灌漑面積 =
 
|取水元 = [[多摩川]]([[羽村取水堰]])<br /><small>([[東京都]][[羽村市]])</small>
 
|合流先 = -
 
|流域 = [[東京都]]
 
|備考 = 国の[[史跡]]
 
}}
 
'''玉川上水'''(たまがわじょうすい)は、かつて[[江戸]]市中へ飲料水を供給していた上水([[上水道]]として利用される[[溝渠]])であり、[[江戸の六上水]]の一つである。多摩の羽村から[[四谷]]までの全長43kmが[[1653年]]に築かれた。また、一部区間は、現在でも[[東京都水道局]]の現役の水道施設として活用されている。
 
  
[[羽村取水堰]]で[[多摩川]]から取水し、[[武蔵野台地]]を東流し、[[四谷大木戸]](現在の四谷四丁目交差点付近)に付設された「水番所」(水番屋)を経て市中へと分配されていた。水番所以下は木樋や石樋を用いた地下水道であったが、羽村から大木戸までの約43キロメートルはすべて露天掘りであった。羽村から四谷大木戸までの本線は武蔵野台地の尾根筋を選んで引かれているほか、大規模な分水路もおおむね武蔵野台地内の河川の[[分水嶺]]を選んで引かれている<ref>渡部一二『図解武蔵野の水路:玉川上水とその分水路の造形を明かす』東海大学出版会、2004年、14ページ</ref>。
+
'''玉川上水'''(たまがわじょうすい)
  
[[1722年]]([[享保]]7年)以降の[[新田|新田開発]]によって多くの[[分水]](用水路)が開削されて[[武蔵野台地|武蔵野]]の農地へも水を供給し、農業生産にも大いに貢献した(代表例、[[野火止用水]]、[[千川上水]])。
+
江戸時代,飲料水として多摩川の水を引いた上水路。[[神田上水]]と並ぶ二大上水の一つ。4代将軍徳川家綱のとき,庄右衛門,清右衛門が承応2 (1653) 年多摩川中流羽村 (はむら) と四谷 (よつや) 大木戸間の水路を着工。2度の失敗を経て,総奉行松平信綱のもとに同3年に竣工し,2人は玉川姓を与えられた。羽村-拝島-立川-武蔵境-下高井戸-四谷大木戸 (現在の新宿) を経て (延長約 43km) ,ここから石樋,木管で江戸城内や各町に給水された。「江戸っ子は水道の水で産湯を」と自慢したという。また,灌漑用水として小金井をはじめ沿岸に多くの新田が開発された。近代水道整備後も 1965年まで淀橋浄水場への導水路として利用された。浄水場の東村山移転に伴い小平地点より下流部分は流水がとだえたが,東京都の施策により 1986年に清流が復活した。 ([[千川上水]] , [[野火止用水]] )  
 
+
==開削の経緯==
 
[[ファイル:江戸水道の石枡.jpg|thumb|200px|玉川上水からの水を市中に配水した、江戸時代の石枡([[清水谷公園]])]]
 
[[File:玉川兄弟P1000036.JPG|thumb|200px|羽村堰近くに建つ玉川兄弟像]]
 
『玉川上水起元』([[1803年]])によれば、[[承応]]元年([[1652年]])[[11月 (旧暦)|11月]]、[[江戸幕府|幕府]]により[[江戸]]の飲料水不足を解消するため多摩川からの上水開削が計画された。工事の総奉行に[[老中]]で[[川越藩]]主の[[松平信綱]]、水道奉行に[[伊奈忠治]](没後は[[伊奈忠克|忠克]])が就き、庄右衛門・清右衛門兄弟([[玉川兄弟]])が工事を請負った。資金として公儀6000両<ref>7500両とする資料もある。渡部前掲書、2-3ページ</ref>が拠出された。
 
 
 
幕府から玉川兄弟に工事実施の命が下ったのは1653年の正月で、着工が同年4月、四谷大木戸までの本線開通が11月15日とされるが、1653年2月10日着工、翌年8月2日本線開通とする史料もある<ref>渡部前掲書、3-5ページ</ref>。
 
 
 
羽村から四谷までの標高差が約100メートルしかなかったこともあり、引水工事は困難を極めた。当初は[[日野市|日野]]から取水しようとしたが、開削途中に試験通水を行ったところ“水喰土”(みずくらいど; 浸透性の高い[[関東ローム層]])に水が吸い込まれてしまい、流路を変更(「[[かなしい坂]]」参照)。2度目は[[福生市|福生]]を取水口としたが岩盤に当たり失敗した。こうした事情を受けて、総奉行・松平信綱は家臣の川越藩士[[安松金右衛門]]を設計技師に起用。安松は第1案として「羽村地内尾作より五ノ神村懸り川崎村へ堀込み―」、第2案として「羽村地内阿蘇官より渡込み―」、第3案として「羽村前丸山裾より水を反させ、今水神の社を祀れる処に堰入、川縁通り堤築立―」を立案した。
 
 
 
この第3案に従って工事を再開し、約半年で羽村・四谷大木戸間を開通し、承応2年([[1653年]])11月に玉川上水はついに完成。翌承応3年([[1654年]])[[6月 (旧暦)|6月]]から江戸市中への通水が開始された<ref>この功績により、信綱は幕府より[[野火止用水]]建設の許可を得たとされる。</ref>。しかし、工費が嵩んだ結果、[[高井戸]]まで掘ったところでついに幕府から渡された資金が底をつき、兄弟は家を売って費用に充てたという<ref>渡部前掲書、3ページ</ref>。
 
 
 
庄右衛門・清右衛門は、この功績により玉川姓を許され、玉川上水役のお役目を命じられた。
 
 
 
なお、玉川上水の建設については記録が少なく、よく分かっていないことも多い<ref>玉川上水を舞台にした歴史小説『玉川兄弟―江戸上水ものがたり』のあとがきで[[杉本苑子]]は、資料が乏しいために執筆に苦労した旨を述べている。</ref>。安松金右衛門については[[三田村鳶魚]]の『安松金右衛門』に詳しく記されている。
 
 
 
==給水地域==
 
玉川上水の給水地域は『[[御府内備考]]』に簡略で分かり易く説明されている。
 
 
 
{{quotation|
 
玉川上水
 
(中略)今、此上水、流末広大にして[[四谷]]・[[麹町]]より[[江戸城|御本城]]へ入、西南は[[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]・西の[[北青山|久保]]・[[愛宕 (東京都港区)|愛宕]]下・[[増上寺]]の辺、これ[[島津氏|松平豊後守]]屋敷の辺、金杉左右海手すべて北手、南東方は[[桜田門|外桜田]]・西丸下・大名小路一円、[[虎御門]]外、[[数寄屋橋]]外・[[土橋]]・[[京橋川]]南手、[[八丁堀]]・[[霊岸島]]方、[[新堀川]]より[[永代]]迄南手、[[築地]][[浜離宮恩賜庭園|浜御殿]]より西手一円、此水用いざるところ寸地もなし。
 
 
 
『御府内備考』}}
 
 
 
==上水の運営==
 
{{節スタブ}}
 
===営繕===
 
*水上修復料銀
 
 
 
===水番屋、水衛所===
 
江戸の飲料水の貴重な水源であり、水質を守るため、洗い物、[[漁撈]]、水浴び、塵埃の投棄などはご法度とされ、厳重に取り締まられていた。また水路の両側幅3間は保護地帯とし、樹木の伐採のみならず下草刈りの類も厳禁であった<ref>[[元文]]4年に建てられた[[高札]]には、「此上水道において魚を取、水をあび、ちり芥捨べからず 何にても物あらひ申間敷 並両側三間通に在来候 並木・下草其外草刈取申間敷候事」と記されていた[http://www.tamariver.net/04siraberu/tama_tosyo/tamagawashi/parts/text/042223.htm]。この文面は、大木戸水番所跡に設置された新宿区教育委員会による銘板にも参考として記載されている。</ref>。
 
 
 
羽村、代田村(現在の京王線[[代田橋駅]]付近)、および四谷大木戸には水番所(水番屋)がおかれ、水番人が詰めて塵芥の除去などを行っていた。
 
このほか大木戸の水番所は、市中への配水量を調節しつつ、余った水を[[渋谷川]]([[穏田川]])<ref>新宿御苑内に源頭をもち渋谷へと流れる。水番所からは数百メートルばかり離れているが、水路で結ばれていた。</ref>へと放流する役割も行っていた。
 
 
 
近代になるとより多数の「水衛所」が置かれ<ref>[http://www.geocities.jp/annaka29jp/jyosuijiten/suieijyo/suieijyo.html 水衛所] ([http://www.geocities.jp/annaka29jp/ 玉川上水上水事典])</ref>、同様の管理を行ったが、淀橋浄水場の閉鎖とともに多くの水衛所は役割を終えた。
 
現在は[[小平監視所]]が水質監視・管理の業務を行っている。
 
 
 
===上水の桜===
 
上水沿いには桜([[ヤマザクラ]])の木が多く植えられた。花見客に堤を踏み固めてもらうのと、桜の花びらが水質を浄化すると信じられていたことによる。
 
なかでも「小金井の桜」は評判を得、江戸期から戦前にかけて多くの花見客で賑わった<ref>『江戸名所花暦』には「開花のとき小金井橋のうへより是を望めば、岸を挟む櫻繽紛として前後つくる所をしらず」また「小金井橋より西は眼もおよばず、両岸花咲つづきて白雲の中に遊ぶがごとし。貫井橋、留橋、車田新田両岸果てしなくみな櫻なり」とある</ref>。[[大正]]13年に国の[[名勝]]に指定された。
 
 
 
== 流域の自治体 ==
 
; 東京都
 
: [[羽村市]]、[[福生市]]、[[昭島市]]、[[立川市]]、[[小平市]]、[[小金井市]]、[[武蔵野市]]、[[西東京市]]、[[三鷹市]]、[[杉並区]]、[[世田谷区]]、[[渋谷区]]、[[新宿区]]
 
 
 
== 流路 ==
 
{{座標一覧}}
 
''この節では、玉川上水の流路について、現在の状況に基づいて概観する。''
 
 
 
現在の玉川上水は、保存状態・利用状況の違いによって、おおまかに3つの区間に分けて考えることができる。
 
すなわち、上流から順に、「多摩川からの導水路として今も供用されている区間」、「清流復活事業によって少量の水を流している区間」、「大部分が暗渠化され、水路としても水辺としても利用されていない区間」である。
 
以下では便宜的に、これらの区間をそれぞれ「上流部」、「中流部」、「下流部」と呼ぶこととする。
 
 
 
===上流部(羽村取水堰から小平監視所まで)===
 
江戸時代同様、多摩川から取水した水がそのまま流れ、水量も豊富な区間である。
 
 
 
東京都羽村市の[[羽村取水堰]]で[[多摩川]]の水を取水し、東流する。
 
多摩川水系は現在でも[[東京]]の上水源の1/3ほどを占めており、毎秒17.2立方メートルの水が[[水道]]用水の原水として利用されている。
 
 
 
取水された水の大部分は、取水堰の下流約500メートルに位置する第3水門({{ウィキ座標度分秒|35|45|11.60|N|139|18|45.94|E|alt=地図|name=第3水門}})から埋設鉄管によって[[山口貯水池]](狭山湖)・[[村山貯水池]](多摩湖)へ送水され、最終的には[[東村山市]]にある[[東村山浄水場]]で利用される。
 
 
 
残りの水はさらに下流、[[西武拝島線]]・[[多摩都市モノレール]]の[[玉川上水駅]]付近の清願院橋から300メートルほど下流にある[[小平監視所]](旧称:小平水衛所)で取水され、東村山浄水場、および現役の農業用水路である[[新堀用水]]の双方に送水されている。なお、小平監視所は、かつては玉川上水と[[野火止用水]]の分水地点であった。
 
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|lines=5
 
|ファイル:羽村取水堰RIMG0136.JPG|羽村取水堰と多摩川<br />(羽村市 {{ウィキ座標度分秒|35|45|20.95|N|139|18|32.06|E|alt=地図|name=羽村取水堰}})
 
|ファイル:TamagawaJosui belowHamuraWeir.JPG|取水堰直下の様子。大量の水が音をたてて流れ、「人喰い川」などと呼ばれた往時を偲ばせる。<br />(羽村市 {{ウィキ座標度分秒|35|45|20.59|N|139|18|33.06|E|alt=地図|name=取水堰直下の様子}})
 
|ファイル:TamagawaJosui3810.jpg|第3水門を過ぎると水量は減り、流れも穏やかになる。<br />(羽村市 {{ウィキ座標度分秒|35|44|57.84|N|139|18|59.49|E|alt=地図|name=第3水門の下流部}})
 
|ファイル:Tamajoh.JPG|[[奥多摩街道]]沿い<br />(福生市大字福生 {{ウィキ座標度分秒|35|44|26.02|N|139|19|19.13|E|alt=地図|name=福生市内の奥多摩街道沿い}})
 
|ファイル:TamagawaJosui byGolfCource.JPG|ゴルフ場の脇を流れる<br />(昭島市美堀町 {{ウィキ座標度分秒|35|43|19.16|N|139|21|38.57|E|alt=地図|name=ゴルフ場の脇を流れる}})
 
|ファイル:TamagawaJosui fromMikageBridge.JPG|見影橋から上流方面。左側に小さな分水の取水口が見える。<br />(立川市砂川町3丁目 {{ウィキ座標度分秒|35|43|41.57|N|139|23|41.87|E|alt=地図|name=見影橋から上流方面}})
 
|ファイル:TamagawaJosui KodairaStation 3.JPG|小平監視所。多摩川からの水が見られるのはここまで。<br />(立川市幸町6丁目・小平市中島町 {{ウィキ座標度分秒|35|43|49.63|N|139|25|22.98|E|alt=地図|name=小平監視所}})
 
}}
 
 
 
===中流部 (小平監視所から浅間橋まで)===
 
東京都の[[清流復活事業]]に従って処理水を流している区間である。
 
古くからの樹木がよく茂り、豊かな木立に覆われている箇所が多い。
 
 
 
小平監視所より下流は、かつては多量の水が[[新宿区]]の[[淀橋浄水場]]まで送られていたものの、[[1965年]](昭和40年)の同浄水場廃止とともに送水を停止し、以降は水道施設としての利用はない。
 
その後長いあいだ“空堀”状態であったが、[[1986年]](昭和61年)、都の策定した「清流復活事業」により水流が復活した。[[昭島市]]宮沢町にある[[多摩川上流水再生センター]]にて高度二次処理を施した[[下水]]が、このために送水されてきている。
 
途中、JR[[武蔵境駅]]北方・境橋(旧[[武蔵国]][[多摩郡]][[上保谷村]]地先)付近で分水して[[千川上水]]へも高度二次処理下水の20%を分流させている。
 
 
 
流路は一貫して東流、ないしは南東流をつづける。[[一橋大学]]小平キャンパスの傍らにある商大橋地点から前述の境橋までは[[五日市街道]]と併走。その後[[境浄水場]]の脇を流れ、[[三鷹駅]]の直下をくぐりぬけ、[[井の頭公園]]を横断し、[[神田川 (東京都)|神田川]]の500メートルばかり南方を並ぶようにして流れる。
 
[[京王井の頭線]]・[[富士見ヶ丘駅]]の南方、往時には橋が架かり浅間橋(せんげんばし)と呼ばれていた地点の付近で[[中央自動車道]]にぶつかる。
 
開渠区間は浅間橋の200メートルほど上手でひとまず終わっており、清流復活事業の区間も当地点までとなっている。
 
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| lines = 5
 
|File:TamagawaJosui fakeSource.JPG|“清流復活“の源頭。小平監視所のすぐ下手にあり、「上水小橋」が架かる。<br />(立川市幸町6丁目・小平市中島町 {{ウィキ座標度分秒|35|43|48.88|N|139|25|24.20|E|alt=地図|name=「清流復活」の放流地点}})
 
|File:玉川上水.JPG|西中島橋からの玉川上水<br />(立川市幸町4丁目・小平市中島町 {{ウィキ座標度分秒|35|43|41.74|N|139|25|48.59|E|alt=地図|name=西中島橋からの玉川上水}})
 
|File:TamagawaJosui_nearKoganeiPark2.JPG|[[小金井公園]]正門付近。無類の名所であった“小金井桜”の後裔にあたる桜木(画面左)がひっそりと遺る<br />(小金井市 {{ウィキ座標度分秒|35|42|45.46|N|139|31|05.36|E|alt=地図|name=小金井公園正門付近}})
 
|File:TamagawaJosui KajinoBridge.JPG|五日市街道と梶野橋<br />(小金井市関野町・緑町 {{ウィキ座標度分秒|35|42|45.05|N|139|31|34.11|E|alt=地図|name=五日市街道と梶野橋}})
 
|File:TamagawaJosui_fromMitakaStn.JPG|三鷹駅南口。中央奥やや右の欄干は三鷹橋。そこから右奥へ、ふたたび玉川上水の緑が続く。<br />(三鷹市下連雀・武蔵野市御殿山)<!--
 
|File:TamagawaJosui@InokashiraPark.JPG|井の頭公園を横断。付近に「松本虎雄訓導受難碑」が立つ。<br />(武蔵野市)-->
 
|File:TamagawaJosui@Mure4.JPG|住宅街中の渓谷といった風情を見せる<br />(三鷹市牟礼4丁目 <!--{{ウィキ座標度分秒|35|69|33.67|N|139|57|42.09|E|alt=地図|name=住宅街中の渓谷といった風情を見せる}}★★★実際には260mばかり南方、上水が東へ折れるあたりです。修正を試みたのですがリンク先がエラーになってしまいました…。とりあえずコメントアウト。-->)
 
|File:TamagawaJosui Sengenbashi.JPG|開渠の終了地点<br />(杉並区久我山 {{ウィキ座標度分秒|35|40|51.16|N|139|36|14.37|E|alt=地図|name=開渠の終了地点}})
 
}}
 
 
 
=== 下流部(浅間橋から水道局新宿営業所付近まで) ===
 
この区間では、一部の例外を除いて、水路のほとんどが暗渠化されている。
 
しかしながら、道路の下になってしまった一部の区間を除き、大半の区間では流路の痕跡を辿ることができる。現在では、その多くは[[緑道]]や公園として整備されている。
 
 
 
浅間橋からしばらくの区間は、中央自動車道の下に隠れる形になり、同道建設時に[[溝渠#暗渠|暗渠]]化されている。
 
流水は1キロメートルほど地下を流れた後、[[東京都道311号環状八号線|環状八号線]]と交差するかつての中の橋地点にて同線に埋設された鉄管へと導かれ、[[高井戸駅]]前付近で[[神田川 (東京都)|神田川]]に放流されている。
 
 
 
[[京王線]][[上北沢駅]]北方地点から、流路は中央自動車道を離れ、公園として整備された形態がしばらく続く。
 
[[京王井の頭線]]との交差地点では玉川上水が線路をまたぐ形になっており、地上に露出した巨大な鋼管を見ることができる。
 
そのすぐ東には、流路の真上に立地する形で東京都水道局の[[和泉水圧調整所]]が設置されている。ここはかつて旧上水と玉川上水新水路との分岐点であった。
 
 
 
京王線[[代田橋駅]]付近から[[笹塚駅]]付近にかけては、一部区間(3ヶ所)が暗渠化を免れて遺っており、流れはほとんどないものの水を湛えていて、鯉や亀などの姿が見られる。
 
これは付近の地層から湧出した[[地下水]]が流下しているもので、上流の高度処理水よりも水質がよい。
 
 
 
京王線[[幡ヶ谷駅]]・[[初台駅]]間にある本町一丁目交差点地点から[[文化学園大学]]東方・西新宿二丁目交差点地点までは、[[1936年]](昭和11年)以来、京王線の敷地として利用されている。
 
当初は玉川上水に並行して電車が走っていたが、その後上水は暗渠化されて路線用地に転用された。現在は路線も地下化され、地上部は遊歩道などに再転用されている。
 
 
 
新宿駅近辺より東では、玉川上水の面影は再び途絶えるように見えるが、流路は地下に保全されている<ref>[http://www.ktr.mlit.go.jp/toukoku/09about/saisei/shinjuku.htm 新宿交通結節点整備]([http://www.ktr.mlit.go.jp/toukoku/ 東京国道事務所]) - JR線路下の地中を通る玉川上水を保全しつつ進める工事の様子が図示されている。2011年8月26日閲覧。</ref>。1986年(昭和61年)の清流復活事業に際し行われた東京都の通水試験では終点の[[四谷大木戸]]まで通水可能であった。
 
終点に近い[[新宿御苑]]付近では、旧上水は御苑北縁の道路下に埋設されていて、大雨時などの[[下水]]越流時には千駄ヶ谷幹線([[穏田川]])へ連なる排水路として利用されている。
 
地上には新宿区により「玉川上水を偲ぶ流れ」(玉川上水・内藤新宿分水散歩道)の整備が進められ<ref>[http://www.city.shinjuku.lg.jp/whatsnew/pub/2008/0910-01.html 玉川上水を偲ぶ流れの基本協定の締結について]</ref><ref name="oicho" />、2012年3月に完成した<ref>[http://www.city.shinjuku.lg.jp/seikatsu/file14_02_00001.html 新宿区:玉川上水・内藤新宿分水散歩道]</ref>。この流れの水源には[[新宿御苑トンネル]]共同溝内に湧出した水を使用している<ref>[http://www.city.shinjuku.lg.jp/content/000108777.pdf 玉川上水・内藤新宿分水散歩道]</ref>。
 
 
 
玉川上水の終点である旧四谷大木戸地点には東京都水道局新宿営業所及び新宿区立四谷区民センターがあり、傍らに「水道碑記」(すいどうのいしぶみのき)が建てられている。
 
往時、ここに水番所があり、ここから先は埋設された石樋・木樋を通して[[江戸]]市中各地へと配水していた。
 
 
 
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| lines = 8
 
|File:TamagawaJosui nearSakurajosui.JPG|京王線[[桜上水駅]]北方地点。<br />下流部の多くはこのような遊歩道・公園になっている。<br />(杉並区下高井戸2丁目 {{ウィキ座標度分秒|35|40|09.64|N|139|38|10.49|E|alt=地図|name=下流部の遊歩道・公園}})
 
|File:TamagawaJosui overInokashiraLine.JPG|[[京王井の頭線|井の頭線]]を跨ぐ地点では巨大な鋼管が姿を見せる。<br />(杉並区永福1丁目・和泉2丁目 {{ウィキ座標度分秒|35|40|16.28|N|139|38|59.96|E|alt=地図|name=井の頭線を跨ぐ鋼管}})
 
|file:Tamagawa waterworks-2.jpg|京王線[[代田橋駅]]の上り線ホームから見る(北側)、水路の両側には桜の木が確認できる(2018年2月24日撮影)
 
|File:TamagawaJosui@Daitabashi.JPG|代田橋駅至近の開渠部。水の匂いから、たいへん清冽な湧き水であることが感じられる<br />(世田谷区大原2丁目 {{ウィキ座標度分秒|35|40|15.96|N|139|39|36.21|E|alt=地図|name=代田橋駅至近の開渠部}})
 
|File:TamagawaJosui SanjiBridge.JPG|「三字橋」(みあざばし)の欄干(2009年9月)<br />(渋谷区代々木4丁目 {{ウィキ座標度分秒|35|40|56.38|N|139|41|19.99|E|alt=地図|name=三字橋}})
 
|File:TamagawaJosui@Yoyogi3.JPG|[[文化学園大学]]前付近。ここもかつての流路である。新宿駅地下にあった明治期の暗渠がモニュメントとして再現されている。<br />(渋谷区代々木3丁目 {{ウィキ座標度分秒|35|41|12.46|N|139|41|42.69|E|alt=地図|name=明治期の暗渠のモニュメント}})
 
|File:TamagawaJosuiMemorial.JPG|[[新宿|御苑]]北縁の“散歩道”<ref name="oicho" />。<br />[[新宿御苑トンネル|直下にあるトンネル]]に湧く水を汲み上げて利用。トンネルに並行して玉川上水の遺構が埋まっている。<br />(新宿区内藤町・新宿1丁目 {{ウィキ座標度分秒|35|41|15.97|N|139|42|42.52|E|alt=地図|name=新宿御苑北縁の散歩道}})
 
|File:Tamagawa waterworks-1.jpg|同左(2010年4月25日撮影)
 
}}
 
 
 
===玉川上水新水路===
 
[[1898年]]([[明治]]31年)、[[淀橋浄水場]]の新設に伴い、現在の和泉給水所地点から浄水場まで定規で引いたような一直線の水路が開削され、これを新水路と呼んだ。
 
[[関東大震災]]の発生時には、盛土が崩壊して水路が決壊したため、旧水路が利用された。
 
1937年(昭和12年に)には、代わりとなる導水管が甲州街道の下に埋設され、新水路は廃止された。
 
跡地のほとんどは、[[東京都道431号角筈和泉町線|水道道路]]と都営住宅に転用されている。
 
 
 
== 上水の分水 ==
 
『上水記』によれば、玉川上水からは飲料および[[灌漑]]目的で33の分水が作られ、武蔵[[新田]]の開発などが行われる。明治3年([[1870年]])には、複数の分水口をまとめる分水口改正が行われ、取水箇所の整理が行われた。一方、明治期に新たに開設された分水も存在する。
 
 
 
; 主な分水口
 
{{col-begin}}
 
{{col-3}}
 
* 福生分水口⇒[[福生分水]]
 
* 熊川分水口⇒[[熊川分水]]
 
* 拝島分水口⇒[[拝島分水]](現在は暗渠)
 
* 殿ヶ谷分水口⇒[[殿ヶ谷分水]](廃止)
 
* 立川分水口⇒[[柴崎分水]]・[[砂川用水|砂川分水]]
 
{{col-3}}
 
* [[小平監視所]]⇒[[野火止用水]]・[[新堀用水]]・[[小川用水]]…
 
* 千川分水口⇒[[千川上水]]
 
* 品川分水口⇒[[品川用水|品川分水]](廃止)
 
* 牟礼分水口⇒[[牟礼分水]](廃止)
 
{{col-3}}
 
* 烏山分水口⇒[[烏山川]](廃止)
 
* 北沢分水口⇒[[北沢川 (東京都)|北沢川]](廃止)
 
* 幡ヶ谷分水口⇒[[神田川笹塚支流]](廃止)
 
* 三田分水口⇒[[三田用水]](廃止)
 
* 助水堀分水口⇒[[神田上水助水堀]](廃止)
 
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ほかに[[恋ヶ窪用水]]など。
 
 
 
== 沿革 ==
 
[[ファイル:100 views edo 042.jpg|250px|thumb|広重「[[名所江戸百景]]」に描かれた玉川上水(玉川堤の花)。この場所は現在の[[新宿御苑]]の北縁にあたる。]]
 
[[ファイル:Naito-shinjyuku relief.jpg|thumb|250px|往時の[[甲州街道]]と玉川上水([[新宿歴史博物館]])。 手前のT字路が新宿追分(現在の[[新宿三丁目交差点]])、最奥部に[[四谷大木戸|大木戸]]の水番所が見える。]]
 
===江戸期===
 
*[[1653年]]([[承応]]2年)4月4日 - 開削工事開始。
 
*同年11月15日 - 羽村 - 四谷大木戸間開通。
 
*[[1654年]](承応3年)11月 - 四谷大木戸 - 虎ノ門間が開通。江戸市中への通水が開始される。
 
*[[1659年]](万治2年) - 維持管理費用として水上修復料銀(みなかみしゅうりりょうぎん)の徴収が始まる。
 
 
 
=== 近代 ===
 
* 江戸幕府の滅亡とともに一時期厳重管理が途絶える。
 
* [[1870年]]([[明治]]3年)4月15日 - 通船が許可され、農産物等の水運が可能になる。
 
* [[1872年]](明治5年)4月15日 - 船員による汚染(とりわけ上水への放尿)事例多発のため、通船が再度禁止される。これ以降水源地としての[[多摩地域]](三多摩地区)の管理の重要性が認識され、後の[[東京府]]編入の理由となったという。
 
* [[1886年]]夏 - [[コレラ]]流行。多摩川上流でコレラ患者の汚物を流したとの流言が東京市内に広まる。
 
* [[1890年]](明治23年)3月 - [[内務省]]の衛生局雇間技師[[ウィリアム・K・バートン|バルトン]]が[[東京府]]下の水道建設のための調査設計報告書を提出。計画では、玉川上水路により多摩川の水を千駄ヶ谷村の浄水工場に導き、沈殿・ろ過した後、麻布及び小石川の給水工場へ送水し、浄水工場に併設された給水工場を含めて3箇所の給水工場からポンプ圧送あるいは自然流下で市内に配水しようとするものだった。
 
* [[1891年]]11月 - 前年のバルトン案を内務省技師補だった[[中島鋭治]]が再検討、浄水工場設置場所を千駄ヶ谷村から淀橋町に、給水工場設置場所を麻布・小石川から本郷・芝へ変更、さらに和田堀、淀橋間に新水路の築造する計画案に変更された。
 
* [[1893年]][[4月]] - 東京市街の飲料水汚染防止のため、三多摩地区が[[神奈川県]]から[[東京府]]に移管される。
 
* [[1898年]][[12月1日]] - [[淀橋浄水場]]完成(現在の[[新宿副都心]]エリア)。原水は玉川上水を利用し、杉並区[[和泉 (杉並区)|和泉]]から淀橋浄水場まで新水路を敷設<ref>給水地は[[神田 (千代田区)|神田]]・[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]地区であった。</ref>。
 
* [[1899年]][[1月]] - [[東京市]]全域に給水開始。
 
* [[1901年]]6月 - 東京市が上水としての[[神田上水]]及び玉川上水(代田橋から四谷までの旧水路)を廃止。
 
* [[1919年]][[11月]] - [[北多摩郡]]三鷹村(現・三鷹市)の[[萬助橋|万助橋]]付近で児童が玉川上水に落ち、救出のために[[訓導]]・松本虎雄が[[殉職]]した<ref>[[井の頭恩賜公園]]の園内に碑がある。</ref>。
 
* [[1923年]][[9月1日]] - [[関東大震災]]。[[豊多摩郡]][[幡ヶ谷]]村付近で新水路の一部が破損し、復旧まで旧水路を使用した(江戸時代に作られた旧水路は無事であった)。
 
* [[1937年]] - 現在の和泉給水所付近から淀橋浄水場まで[[甲州街道]]直下に導水管を新設。新水路は廃止。
 
* [[1948年]][[6月13日]] - 北多摩郡三鷹町(現・三鷹市)にて、[[太宰治]]が[[愛人]][[山崎富栄]]と共に[[入水]][[自殺]]。
 
 
 
===現代===
 
* [[1965年]][[3月31日]] - 浄水場機能の[[東村山浄水場]]への移転により、淀橋浄水場廃止。杉並区高井戸以東の水路は一部を残し暗渠化。千川上水取水分を除き、原水は[[小平監視所]](東京都小平市、[[1963年]]完成)から東村山浄水場へ送水。
 
* [[1967年]] - 杉並区高井戸以東の水路の一部が中央自動車道建設用地に転用される。
 
* [[1971年]] - [[大蔵省印刷局]]王子工場が千川上水からの取水を停止。以降、小平監視所以東ほぼ空堀化。ただし、三田用水への配水のため、[[境浄水場]]からは放水。
 
* [[1974年]][[8月]] - [[サッポロビール]]恵比寿工場の水道水への切り替えにより、三田用水も廃用となり、境浄水場からの放水も停止。
 
* [[1986年]][[8月27日]] - 東京都の「[[清流復活事業]]」により、小平監視所以東に下水処理水を使用して水流が復活<ref>比留間博『玉川上水 -親と子の歴史散歩-』財団法人たましん地域文化財団、1991年、195ページ</ref>。
 
* [[2002年]][[12月19日]] - 東京地方裁判所で国と東京都間の調停が成立し、玉川上水の所有権が東京都に帰属することが確定。<REF>読売新聞(都内版)2003年5月7日付け夕刊1面「玉川上水 40年論争決着」</REF>
 
* [[2003年]]8月 - 開削350年。[[文化財保護法]]に基づく国の[[史跡]]に指定。
 
* [[2005年]][[7月]] - 「玉川上水保存管理計画策定に関する委員会」を東京都水道局内に設置。
 
<!--* [[2008年]][[1月]] - 新宿区「玉川上水・内藤新宿分水の基本計画」を作成<ref>[http://www.city.shinjuku.lg.jp/content/000021171.pdf 新宿区ニュースリリース平成20年1月17日]</ref>。-->
 
*[[2010年]]3月 - [[桜]]の名所であった玉川上水堤の桜並木を復活させるため、「玉川上水・小金井桜整備活用計画」が立案され、[[新小金井橋]]から[[関野橋]]までの640mがモデル区域に指定され、95本の[[ヤマザクラ]]の苗木が補植された<ref>[http://www.city.koganei.lg.jp/kakuka/shogaigakushubu/syougaigakusyuuka/siryou/bunnkazaikakari/meishoukoganeihukkat.html 名勝小金井(サクラ)復活プロジェクト]小金井市、2013年12月21日</ref>。
 
* [[2010年]]4月 - 新宿御苑北縁に、新宿区による「玉川上水・内藤新宿分水散歩道」(大銀杏区間)が完成<ref name="oicho">[http://www.city.shinjuku.lg.jp/whatsnew/pub/2010/0422-03.html 玉川上水・内藤新宿分水散歩道「大銀杏区間」が完成 よみがえる玉川上水の記憶 新宿区 区政情報 2010年4月22日]</ref>。
 
* [[2017年]]9月 - 東京都水道局が東京水道名所の一つに選定<ref>[http://www.waterworks.metro.tokyo.jp/kouhou/meisho/tamagawa.html 玉川上水](東京都水道局・東京水道名所)</ref><ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXLASFB21H7E_R20C17A9L83000/ 東京の「水道名所」に7カ所/歴史や技術をPR]『[[日本経済新聞]]』朝刊2017年9月22日(東京面)</ref>。
 
 
 
== 史跡指定 ==
 
玉川上水は、[[近世]]初期における優れた測量技術に基づいた長大な土木構造物であり、当時の水利技術を理解していく上で重要であり、さらに、大都市江戸の用水供給施設として、また武蔵野台地における近世[[灌漑]]用水としても貴重な土木遺産であることから、2003年(平成15年)8月に国の[[史跡]]に指定された。指定範囲は、羽村取水口から四谷大木戸までの水路敷のうち開渠部分の約30.4キロメートルである。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{reflist}}
 
{{Normdaten}}
 
{{江戸の六上水}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* [[三田村鳶魚]]『安松金右衛門―玉川上水建設者』(1942年、電通出版部)
 
* [[児玉幸多]]『日本の歴史 (16) 元禄時代』(1974年、[[中央公論社]])ISBN 412200103X
 
* 多摩川誌編集委員会『多摩川誌』(1986年、[[河川環境管理財団]])→ [[#外部リンク]]あり
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[羽村取水堰]] - [[小平監視所]]
 
* [[野火止用水]] - [[千川上水]] - [[三田用水]] - [[青山上水]]
 
* [[多摩川]] - [[北沢川 (東京都)|北沢川]] - [[渋谷川]]
 
* [[かなしい坂]]
 
* [[桜上水駅]] - [[桜上水]]
 
* [[玉川上水駅]]
 
* [[むらさき橋]]
 
* [[関東の史跡一覧]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
{{commonscat|Tamagawa waterworks}}
 
* [http://www.waterworks.metro.tokyo.jp/kouhou/pr/tamagawa/ 玉川上水 (東京都水道局)]
 
* [http://www.education.ne.jp/kyoiku-center-mi/tamagawa/index.htm 郷土学習資料 玉川上水]
 
* [http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/index_pc.asp 国指定文化財等データベース]
 
* [http://kousuke.in.coocan.jp/tamagawajousui/ 玉川上水散策地図]
 
* [http://www.geocities.jp/annaka29jp/ 玉川上水事典 (小平玉川上水を守る会)]
 
* [http://www.keihin.ktr.mlit.go.jp/tama/04siraberu/tama_tosyo/tamagawashi/parts/mokuji/tindex04.htm#042 多摩川誌 (建設省関東地方建設局京浜工事事務所 / (財)河川環境管理財団)] - 第4編第2章が「玉川上水」にあてられている
 
* [http://www.ngo-npo.org/tamagawaj/ 玉川上水を世界遺産に]
 
  
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[[Category:東京都の河川]]
 
[[Category:東京都の河川]]

2018/12/22/ (土) 21:33時点における最新版

玉川上水(たまがわじょうすい)

江戸時代,飲料水として多摩川の水を引いた上水路。神田上水と並ぶ二大上水の一つ。4代将軍徳川家綱のとき,庄右衛門,清右衛門が承応2 (1653) 年多摩川中流羽村 (はむら) と四谷 (よつや) 大木戸間の水路を着工。2度の失敗を経て,総奉行松平信綱のもとに同3年に竣工し,2人は玉川姓を与えられた。羽村-拝島-立川-武蔵境-下高井戸-四谷大木戸 (現在の新宿) を経て (延長約 43km) ,ここから石樋,木管で江戸城内や各町に給水された。「江戸っ子は水道の水で産湯を」と自慢したという。また,灌漑用水として小金井をはじめ沿岸に多くの新田が開発された。近代水道整備後も 1965年まで淀橋浄水場への導水路として利用された。浄水場の東村山移転に伴い小平地点より下流部分は流水がとだえたが,東京都の施策により 1986年に清流が復活した。 (千川上水 , 野火止用水 )




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