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'''独ソ戦'''(どくソせん)([[英語]]Eastern Front(World War II)) は、[[第二次世界大戦]]中の[[1941年]]から[[1945年]]にかけて[[ドイツ]]を中心とする[[枢軸国|枢軸各国]]と[[ソビエト連邦]]との間で戦われた[[戦争]]を指す。
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'''独ソ戦'''(どくソせん)([[英語]]Eastern Front(World War II))  
  
大戦の当初は[[ポーランド侵攻|ポーランドを共に占領]]していたドイツとソビエト連邦であったが、1941年6月22日に突如[[ドイツ国防軍]]がソ連に侵入し、戦争状態となった。当時のソ連は国民を鼓舞するため、[[ナポレオン・ボナパルト]]に勝利した[[1812年ロシア戦役|祖国戦争]]に擬えて'''[[大祖国戦争]]'''('''{{lang|ru|Великая Отечественная война}}''')と呼称。一方、ドイツ側では主に'''[[東部戦線]]'''('''{{lang|de|der Ostfeldzug}}''')と表現される。
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[[第2次世界大戦]]中の 1941年6月 22日~45年5月8日のドイツ,ソ連間の戦争。 A.ヒトラーはもともとボルシェビズムの打倒をナチズムの最大のスローガンに掲げ,ソ連打倒の機会をうかがっていた。 40年秋イギリスへの上陸作戦が不可能とみるとただちに対ソ作戦
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(バルバロッサ作戦) の準備にかかり,41年6月兵力 250万を投入して攻撃を開始した。ドイツは対ソ戦を半年で終了すると豪語していたが電撃戦はソ連に通用しなかった。 12月アメリカも参戦しイギリス,ソ連とともに連合国が形成され,またソ連も陣容を立直して反攻に移り,42~43年の[[スターリングラードの戦い]]での勝利以降,戦局を転換させた。 45年4月東ヨーロッパの全土を制圧したソ連軍は5月ベルリンを占領し,ドイツは降伏した。
  
[[アドルフ・ヒトラー]]は、ソ連との戦争を「イデオロギーの戦争」「絶滅戦争」と位置づけ、[[西部戦線 (第二次世界大戦)|西部戦線]]とは別の戦争であると認識していた{{sfn|イアン・カーショー|1999|pp=194、214}}。
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{{テンプレート:20180815sk}}
 
 
[[1941年]][[6月22日]]3時15分、ドイツ軍は作戦名「[[バルバロッサ作戦|バルバロッサ]]」の下にソ連を奇襲攻撃した。ヨーロッパにおけるドイツ占領地からは反共主義者の志願者や、武装親衛隊によって徴発された人々がドイツ軍に加わった。
 
 
 
開戦当初、ソ連軍が大敗を喫したこともあり歴史的に反ソ感情が強かった[[バルト三国|バルト]]地方や、過酷な共産党の政策から[[ウクライナ]]の住民は、ドイツ軍を当初「共産主義ロシアの圧制からの解放軍」と歓迎し、ドイツ軍に志願したり共産主義者を引き渡すなど自ら進んでドイツ軍の支配に協力する住民も現れた。また反共主義者は[[ロシア国民解放軍]]や[[ロシア解放軍]]として共産主義者と戦った。しかし、[[スラブ人]]を劣等民族と認識していたヒトラーは、彼らの独立を認める考えはなく、こうした動きをほとんど利用しようとしなかった。[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]や{{仮リンク|東部占領地域省|de|Reichsministerium für die besetzten Ostgebiete}}はドイツ系民族を占領地に移住させて植民地にしようと計画し、一部実行された。
 
 
 
この戦いにおいて、特にソ連側の死者は大規模である。なお、独ソ戦の犠牲者(戦死、戦病死)は、ソ連兵が1470万人、ドイツ兵が1075万人である。民間人の死者をいれるとソ連は2000〜3000万人が死亡し、ドイツは約600〜1000万人である。ソ連の軍人・民間人の死傷者の総計は第二次世界大戦における全ての交戦国の中で最も多いと言われている。両国の捕虜・民間人に対する扱いも苛酷を極め、占領地の住民や捕虜は強制労働に従事させられるなど極めて厳しい扱いを受けた。ドイツが戦争初期に捕らえたソ連兵の捕虜500万人はほとんど死亡している({{仮リンク|第二次世界大戦におけるドイツによる外国人強制労働|en|Forced labour under German rule during World War II}})。またドイツ兵捕虜300万人の多くはそのままソ連によって強制労働に従事させられ、およそ100万人が死亡した({{仮リンク|ソビエト連邦におけるドイツ人強制労働|en|Forced labor of Germans in the Soviet Union}})。
 
 
 
開戦から1943年7月の[[クルスクの戦い]]までは主にドイツ軍の攻勢とソビエト軍の防御という展開であったが、クルスクの戦いの後は攻守が逆転し、東欧からドイツ東部にいたる地域がソビエトの占領地域となり、1945年5月8日に[[国防軍最高司令部 (ドイツ)|ドイツ国防軍最高司令部]]総長[[ヴィルヘルム・カイテル]]元帥がベルリンで[[無条件降伏]]文書の批准手続きを行ったことにより、戦争は終結した。
 
 
 
== 経過 ==
 
=== 開戦までの両国の関係 ===
 
{{see also|独ソ不可侵条約}}
 
[[第一次世界大戦]]後、世界の孤児であったドイツとソ連は1922年、[[ラパッロ条約 (1922年)|ラパッロ条約]]により国交を回復させた。当時のドイツは[[ヴェルサイユ条約]]により、過大な賠償金負担に苦しみ、軍備は10万人に制限されていた。経済も世界的に不況で、ドイツには資源が乏しかった。一方、ソ連も共産主義国家として孤立し、[[シベリア出兵]]など列強各国政府から軍事干渉を受けた。ドイツには資源と場所が皆無だった。ソ連は資源と場所は恵まれていたが、技術が乏しかった。互いに世界から孤立していたが為に利害が一致し、ドイツとソ連は手を結んでしばし蜜月の時を刻む。
 
 
 
1933年にヒトラーが政権を握った。ヒトラーをはじめとするナチ党([[国家社会主義ドイツ労働者党]])は反共を唱えており、ソ連はナチスを「[[ファシズム|ファシスト]]」と呼んで批判していた。双方の独裁者はお互いを「人類の敵」、「悪魔」などと罵り合った一方、互いの利害のために利用することもあった。[[スペイン内戦]]では、代理戦争という形で両国は対決した。また、[[赤軍大粛清]]の一因に、[[SD (ナチス)|SD(親衛隊情報部)]]長官[[ラインハルト・ハイドリヒ|ハイドリヒ]]の謀略があったともされる。
 
 
 
その後、一方の[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]は、イギリスのドイツに対する[[宥和政策]]をみてイギリスとドイツが対ソ包囲網を結んでいるのではないかとの懸念から、また、他方のヒトラーは[[二正面作戦]]を避けることを目論んで、1939年8月に[[独ソ不可侵条約]]を結ぶこととなる。
 
 
 
この間にソ連は、ドイツに対して[[ヴェルサイユ条約]]が禁止する航空機・戦車部隊の技術提携、バルト海沿岸の港の使用や[[バトル・オブ・ブリテン|イギリス空爆]]のためのレーダー技術の提供などを行い、更にソ連に亡命してきたドイツの共産主義者を強制送還までさせてヒトラーに便宜を図っていた。またソ連から資源がドイツへ輸出されており、戦争開始数時間前まで鉄道による輸送が続いていた。ドイツの[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ]]外相はソ連とより強力な連携を取るべきと考え、日独伊にソ連を加えた四国同盟を構想していた。
 
 
 
しかしヒトラーは[[バトル・オブ・ブリテン]]の失敗によって戦争の前途に行き詰まりを感じており、「ソ連が粉砕されれば、英国の最後の望みも打破される」とし{{sfn|児島襄|第三巻|pp=333-336p}}、さらに東方生存圏の獲得のためソ連侵攻を考えるようになった。1940年7月中旬には「ヨーロッパ大陸最後の戦争」である独ソ戦開始の意思を国防軍首脳に告げ{{sfn|芝健介|1995|pp=68}}、侵攻計画の策定を命令した{{sfn|ヨースト・デュルファー|2010|pp=86}}。この後も表面上両国関係は穏やかであったが、ソ連からの物資が滞りなく流入していたにもかかわらず、ドイツの支払いは不自然なほどに引き延ばされたり、工作機械のソ連への引き渡しが当局によって妨害されたりもした{{sfn|ジョン・トーランド|1990年|pp=370-371}}{{sfn|ジョン・トーランド|1990年|pp=405}}。
 
 
 
一方でソ連は軍備増強も行っていた。開戦前夜の1941年の3月から4月にかけ、機械化歩兵師団20個師団を編成し、暗号系統を変更した。ドイツ国防軍情報部はこれを開戦準備と受け止めている。また、欧米でも比類のない大規模な航空機工場が存在しており、練度の面でも高いものがあるとドイツ空軍技術視察団は報告している。ヒトラーは後に、「この報告が最終的にソ連即時攻撃を決心させる要因になった。」と述懐している<ref>「第二次世界大戦 ヒトラーの戦い」[[児島襄]]([[文藝春秋]]社)ISBN 978-4167141387</ref>。
 
 
 
1940年12月、ヒトラーは対ソ侵攻作戦[[バルバロッサ作戦]]の作戦準備を正式に指令した{{sfn|谷喬夫|2007|pp=676}}。ソ連にはドイツの戦争準備を告げる情報が、イギリス政府や軍の情報部などから様々な形で集まった。しかし、スターリンを始めとするソ連上層部は、これらの情報を欺瞞情報であるとして退けた。ドイツ軍への挑発につながるため、独ソ国境での防衛準備も目立って行われなかった。
 
 
 
=== 1941年 ===
 
[[File:Eastern Front 1941-06 to 1941-12.png|thumb|250px|1941年6月から12月にかけての戦線]]
 
6月22日、[[バルバロッサ作戦]]の発動によりドイツ・ソ連国境で一斉にドイツ軍の侵攻が開始された。当初は5月の侵攻を予定していたが、ユーゴスラビアで発生した政変により作戦の開始が一ヶ月以上延ばされることになった。開戦直前、ヒトラーは赤軍に配属された[[政治委員]]の即時処刑を命令し([[コミッサール指令]])、「イデオロギー戦」としての性格を認識するよう軍指導部に伝えている{{sfn|イアン・カーショー|1999|pp=194}}。
 
 
 
開戦当初は奇襲により各戦線でほぼドイツ軍がソ連赤軍を圧倒し、[[北方軍集団]]では[[レニングラード包囲戦|レニングラードを包囲]]、中央軍集団は開戦1ヶ月で[[スモレンスク]]を占領する快進撃を続けた。赤軍は各地で分断され、多くの部隊が投降・捕虜となった。また、ソ連赤軍の航空部隊は独ソ戦勃発時には、はるかに時代遅れでありドイツ軍の爆撃により壊滅し、制空権はドイツ軍が掌握することに成功した。しかし南方軍集団は、投入兵力の割りに作戦地域が広大であったため、進撃が遅れ気味であった。これは、近年では開戦前ドイツに対し先制攻撃を考えていたソ連赤軍が南部に兵力を集中させていたからという説がある([[バルバロッサ作戦#奇襲成功の要因]]の項を参照)。しかしドイツ側の損害も甚大であり、1週間で1939年から1940年6月までのドイツ軍死傷者数を上回ることもあった{{sfn|児島襄|第4巻|pp=110}}。
 
 
 
その為、8月には[[スモレンスク]]を陥落させた中央軍集団の主力部隊の矛先を南部に向け、南方軍集団を支援することによりウクライナ地方に展開していた数十万のソ連赤軍部隊は壊滅し、[[キエフ]]、[[ハリコフ]]などが陥落した。この支援により中央軍集団の首都[[モスクワ]]への進撃は約1ヵ月遅延した後、9月に[[モスクワの戦い|モスクワ攻略(タイフーン作戦)]]に乗り出す。
 
 
 
ドイツ軍は[[クレムリン]]まであと十数キロのところまで迫ったが、例年より早い冬によって発生した泥濘と降雪が進撃の足を止め、赤軍も猛抵抗したことによりドイツ軍の攻勢は頓挫した。短期決戦を想定していたドイツの目論見は外れ持久戦の様相を呈することになる。電撃戦を続けてきたドイツ軍にとっては初めてのケースであった。補給路が延び切った上、冬季装備の前線部隊への配送が滞ったドイツ軍は各地で進撃の停止を余儀なくされた。
 
 
 
その頃、ソ連側は[[リヒャルト・ゾルゲ]]など日本の勢力圏で活動する諜報員からもたらされた情報によって、[[日本軍]]が参戦する可能性は無いと確信し、10月以降、満州やシベリア地区の精鋭部隊を[[モスクワ]]周辺に投入した。11月にはモンゴルの騎兵師団が戦線に投入されたが、この騎兵部隊は戦況にほとんど影響を与えることなく壊滅した。国際面から言えば、アメリカの[[フランクリン・ルーズベルト|ルーズベルト]]大統領がソ連に対する武器・物資援助([[レンドリース法]]適用)に踏み切ったのは1941年11月7日、モスクワ市が陥落の危機を脱したと確認された時点である。このことは「モスクワを後回し」にしたことの誤りの一つとされる。<ref>歴史群像シリーズ43 アドルフ・ヒトラー 戦略編 P.93</ref>
 
 
 
ドイツ軍の損害はすでに投入兵力の35%、100万人におよび、この年だけで戦死者は20万人に達していた{{sfn|芝健介|1995|pp=104}}。国防軍の指導部はモスクワ前面からの撤退を唱えるようになったが、ヒトラーの厳命によって戦線は維持された{{sfn|イアン・カーショー|1999|pp=218}}。ヒトラーは陸軍総司令官[[ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ]]ら多くの将軍を更迭し、自ら陸軍総司令官に就任することで、さらに独ソ戦の戦争指導に容喙することとなった{{sfn|イアン・カーショー|1999|pp=200}}。ソ連側は12月初旬から冬季大反攻を開始し、ドイツ軍をモスクワ近郊から後退させる事に成功した。ヒトラーの死守命令によって撤退できないドイツ軍による必死の抵抗と自軍の稚拙な作戦によりソ連赤軍は各個撃破され攻勢は失敗し、ドイツ軍は辛うじて戦線崩壊を回避した。
 
 
 
ソ連側は[[焦土作戦]]によりドイツ軍の現地調達の手段を奪い、更にドイツが占領した地域の住民に対し[[赤軍パルチザン|パルチザン]]を組織させ、後方撹乱によりドイツ軍の補給を妨害した。また、軍事的に重要な工場や労働者を貨物列車によりドイツの手の届かない内陸部にまで[[疎開]]させた。このことにより一時的に生産力は低下することとなったが、やがてこの安全な地から大量の戦車が生み出されることになる。
 
 
 
=== 1942年 ===
 
[[File:Eastern Front 1942-05 to 1942-11.png|thumb|250px|1942年5月から1942年11月にかけての戦線]]
 
[[File:Bundesarchiv Bild 101I-218-0501-27, Russland-Süd, rumänische Soldaten.jpg|thumb|250px|スターリングラードでのルーマニアの兵士]]
 
ドイツ軍の損害を過大に評価したスターリンは、1942年を「ヒトラー・ドイツの崩壊の年、赤軍の勝利の年に」と叫び、赤軍参謀本部の反対を押し切って「全戦線での総反撃」を命じた。しかし、いまだ強力な戦力を保持したドイツ軍及びその同盟軍を打ち破るには、赤軍の戦力は質的にも量的にもまだ十分でなく、春先には総反撃は頓挫して戦線は膠着した。しかし、赤軍はドイツ軍を後退させたことにより、失いかけていた自信を回復することができ、ドイツ陸軍の無敵の神話は破られたのである<ref>『ライフ 独ソの激闘』、P.188-191</ref>。このような状況の中でスターリンは前年の経験から「ドイツ軍は、決着をつけるために一気に首都モスクワ侵攻を狙うに違いない」と思い込み、モスクワ西部及び南面での防備の強化と、予想されるモスクワ進撃作戦を牽制し、事前にドイツ軍戦力を撃破するための反撃をハリコフ方面で開始するよう命令した([[第二次ハリコフ攻防戦]])。しかし、ドイツ軍の今度の主攻勢方面は全く逆のソ連南部を目指すものだった。
 
 
 
前年の作戦により、ドイツの地上戦力の限界が露見した。生産力の上限から広大な戦線での損害を埋めることも、補給することも困難な状況であることが明確になったのだ。1942年のドイツ軍夏季攻勢は限られた戦力によるものとなり、成功すれば効果的ではあるが非常に危険を伴う作戦であった。こうして純軍事的目的ではなく、ヒトラーの言う戦争経済の元に計画が建てられた。6月28日、南部戦線にて、[[ヴォルガ川]]への到達とコーカサス地方の[[石油]]資源獲得を目的とした[[ブラウ作戦]]が発動される。作戦開始当初は快進撃が続き、7月23日にはヒトラーが「(ブラウ作戦の目標は)大部分が達成された」と明言するほどであった{{sfn|芝健介|1995|pp=116}}。しかし赤軍の撤退速度は早く、前年にあったような包囲殲滅がされることもなければ、重火器の放棄もない、赤軍の兵・装備上の損害が伴わないものであった。7月28日、スターリンは「[[ソ連国防人民委員令第227号]]」を発し、全戦線における抵抗を命じた{{sfn|芝健介|1995|pp=117-118}}。<!--ドイツ軍のコーカサスへの攻勢は頓挫し、油田地帯を獲得することはできなかった。-->[[コーカサス]]の油田地帯に向かったドイツのA軍集団は油田のある[[マイコープ|マイコプ]]を占領したが、油田はすでにソ連軍により火をつけられていた。次にA軍集団は油田のある東の[[グロズヌイ]]に向かったが、進軍するにつれて補給路が伸び、燃料不足とソ連軍の抵抗により進軍は停止した<ref>『ライフ ソ連軍の大反攻』、P.117, P.192</ref>。
 
 
 
<!--また[[B軍集団]]は[[ヴォルガ川]]の要衝の地[[ヴォルゴグラード|スターリングラード]]を攻略しようとしていたが、市街戦での消耗戦に陥る。冬季が訪れた11月には、ソ連軍の反撃により枢軸軍33万人がスターリングラードに包囲されてしまった([[スターリングラード攻防戦]])。ヒトラーはあくまで空輸を通じて徹底抗戦を命じるが、空軍の威信をかけて行われた補給事業は失敗し、被包囲軍の衰弱と、空軍総司令官[[ヘルマン・ゲーリング]]の権威失墜を招いた。{{-}} -->
 
スターリングラードに向かったドイツのB軍集団は市の大部分を制圧したもののソ連軍の頑強な抵抗により冬が到来しても市街戦を続けていた([[スターリングラード攻防戦]])。このような中で、ソ連は極秘のうちに大規模な[[ウラヌス作戦|反攻作戦]]の準備を進めていた。反攻作戦は11月19日に開始され、スターリングラードのドイツ軍は補給路を切断されて包囲されることになった。空軍総司令官で[[国家元帥]]の[[ヘルマン・ゲーリング|ゲーリング]]が空軍による空からの補給を約束したこともあり、ヒトラーはスターリングラードのドイツ軍の包囲突破による退却を許可せず、防御陣地を構築して戦うよう命じた。しかし、空軍による物資補給は必要量を届けることができず、包囲されたドイツ軍は日ごとに衰耗していった。ドイツ軍は包囲網の外から陸路での[[冬の嵐作戦|救出作戦]]も行ったが、救出軍はソ連軍の包囲網を突破することができなかった<ref>『ライフ ソ連軍の大反攻』、P.181-184</ref>。
 
 
 
=== 1943年 ===
 
[[File:Eastern Front 1942-11 to 1943-03.png|thumb|250px|1942年11月から1943年3月にかけての戦線]]
 
[[File:Eastern Front 1943-02 to 1943-08.png|thumb|250px|1943年2月から8月にかけての戦線]]
 
[[File:Marasesti1918-1944.jpg|thumb|left|ルーマニア王国海軍 駆逐艦 [[マラシェシュティ (フリゲート)#第二次世界大戦 カウンターパート|マラシェシュティ]]]]
 
 
 
1943年1月後半、[[スターリングラード]]で包囲されていた約10万人の枢軸軍は、[[第6軍 (ドイツ軍)|第6軍]]司令官[[フリードリヒ・パウルス|パウルス]][[元帥 (ドイツ)|元帥]]の決断により投降し捕虜となった。一方、[[コーカサス]]で進軍が止まっていたA軍集団もこの方面でソ連軍が大規模な反攻を開始したために退路を断たれる危険が迫ったが、こちらはヒトラーに撤退を認められ、2月に包囲網が完成する前にかろうじて撤退に成功した<ref>『ライフ ソ連軍の大反攻』、P.193</ref>。この結果、ブラウ作戦の目標はどれも達成させず、ドイツは膨大な兵員と資材を失っただけであった。ブラウ作戦の失敗、とりわけスターリングラード攻防戦の敗北は対ソビエト戦における決定的な勝利の可能性を失しただけでなく、同盟国に与えた影響が大きかった。なによりも人的資源の余裕のないドイツにとってこの敗北の影響は大きく、予備兵力の殆どを投入せざるを得なくなる。
 
 
 
一方でスターリングラードの勝利は、ソ連軍にとって勝利への自信を持たせるに至った。ソ連の将軍である[[ゲオルギー・ジューコフ]]は、「やはりドイツ軍も無敵ではないのだ。我々もドイツ軍を破りうるのだ。この確信を持てたことが決定的に重要であった。スターリングラード後も、ソ連にいるドイツ軍は強大であり、これを撃退できるかどうか予測はできなかった。が、我々でもドイツ軍を撃破できるとの確信を持てたこと。その効果こそが、限りなく大きかった。」と、スターリングラードの勝利を評価している<ref>大東亜戦争ここに甦る P.88</ref>。
 
 
 
ドイツ軍ではブラウ作戦と、スターリングラードにおける血みどろの市街地戦の戦訓により、様々な戦闘車両が生み出される事となった。主力戦車の交代([[III号戦車]]→[[V号戦車パンター]])、自走砲の出現、[[ブルムベア]]のような市街地戦闘を想定した大口径の突撃砲。これらの複数の戦闘車両は一部の旧式車両の車台を流用する場合を除き、戦闘車両生産をますます混乱させることとなった。
 
 
 
1943年夏季攻勢においてドイツ軍内部では積極的に攻勢に出るか、防衛の後攻勢に出るかで意見が分かれたが、ヒトラーが主張した積極攻勢が実施され中央軍集団と南方軍集団の間にできたクルスク突出部を南北から挟撃する作戦が実行された([[クルスクの戦い]])。諜報活動に基づき十分に事前準備された針鼠のごとく巡らされたソ連赤軍の対戦車陣地に進撃をはばまれ、ドイツ軍は多大の出血を強いられた。
 
 
 
時を同じくして[[シチリア]]への[[ハスキー作戦|連合軍上陸]]の報に作戦は決戦を待たずして中止される。以後、ドイツ軍は完全に東部戦線の主導権を失い、秋以降、圧倒的な物量を武器にしたソ連赤軍の冬季攻勢の猛攻に敗走を続けることとなる。これにより戦線は、ドニエプル河を越えて、西へ移動しウクライナ地方の大部分はソ連赤軍に奪回された。{{-}}
 
 
 
=== 1944年 ===
 
[[File:Eastern Front 1943-08 to 1944-12.png|thumb|250px|1943年8月から1944年12月にかけての戦線]]
 
ドイツがソ連に侵攻を開始してからちょうど3年目の6月22日に、赤軍は一大攻勢である[[バグラチオン作戦]]を発動した。ドイツ軍は当初攻勢は南部戦線と予測しており、赤軍の欺瞞作戦の効果もあって対応が後手に回ることになった。赤軍は、かつてのドイツ軍が得意としていた陸空一体の[[電撃戦]]を展開。圧倒的な物量・戦力差とヒトラーの厳命により撤退すら出来ない部隊はもはや機動戦すら出来ず個別に撃破されるという、開戦時と立場が逆転したのではないかというような状況となり、ドイツ[[中央軍集団]]は事実上壊滅することになる。
 
 
 
この作戦の結果、ドイツ軍はロシア全域から駆逐され、開戦前の国境線まで後退することになった。この段階で東部戦線の継続はほぼ不可能となり、以後絶望的な戦いを余儀なくされる。
 
 
 
南部では[[ヤッシー=キシニョフ攻勢]]の影響によりルーマニアでクーデターが発生し枢軸を離反、逆にドイツに宣戦を布告した。9月には、[[ブルガリア]]と[[フィンランド]]も枢軸側より離脱した。一方ハンガリーは、ドイツ軍主導の[[パンツァーファウスト作戦]]の工作により枢軸側に留まった。{{-}}
 
 
 
=== 1945年 ===
 
{{see also|欧州戦線における終戦 (第二次世界大戦)}}
 
[[File:Eastern Front 1945-01 to 1945-05.png|thumb|250px|1945年1月から5月にかけての戦線]]
 
1月からはソ連軍が[[ヴィスワ=オーデル攻勢]]を行い、2月2日にはベルリンまで70kmにせまった。2月14日、ハンガリーの首都[[ブダペスト]]が陥落し、ハンガリーのほぼ全土がソ連赤軍の支配下となった。ドイツ軍はハンガリーの油田奪回を目指して最後の攻勢[[春の目覚め作戦]]を行うが、圧倒的な戦力差により惨敗を喫する。
 
 
 
4月16日、[[ゲオルギー・ジューコフ|ジューコフ]]元帥の[[ベルリンの戦い|ベルリン総攻撃]]が開始される。4月30日、[[アドルフ・ヒトラーの死|ヒトラーが自殺]]。5月2日、ベルリンは陥落した。後継大統領に指名された[[カール・デーニッツ]]元帥の[[フレンスブルク政府]]は降伏を決断し、5月7日にフランスの[[ランス (マルヌ県)|ランス]]で降伏文書の調印が行われ、5月8日午後11時1分に休戦が発効する事になった。
 
 
 
5月8日午後11時からはベルリン市内のカールスホルストで降伏文書の批准式が行われ、連合軍代表[[ゲオルギー・ジューコフ]]元帥と[[アーサー・テッダー]]元帥、ドイツ国防軍代表[[ヴィルヘルム・カイテル]]陸軍元帥が降伏文書に批准した(調印時間はベルリン時間で5月9日0時15分、ロンドン時間で5月8日23時15分、モスクワ時間で5月9日2時15分)<ref>井上(2006:242)</ref>。しかし、独ソ戦すべての戦闘が終結したのは[[プラハの戦い (第二次世界大戦)|プラハの戦い]]が終結する5月11日のことだった。{{-}}
 
 
 
== 戦場としてのソビエト・東部戦線 ==
 
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 146-1975-099-15A, Russland, Kosaken in der Wehrmacht.jpg|thumb|250px|ソビエトと戦うためドイツ陣営に加わる[[コサック]](1942年)]]
 
ナチス・ドイツ軍がそれまでに行った戦いは鉄道網、道路網が整備された限定的な地域であり、目的地までの距離は比較的短かった。このことは、ドイツ軍が編み出した[[電撃戦]]という戦術を行うことにおいて有利に働いた。進軍・補給ともに計画もしくはそれ以上の結果を残したため電撃戦の効果を十二分に発揮できたのだ。電撃戦によって自軍の損害を小規模にとどめ、短期間に他国を蹂躙・占領し戦闘で消耗した兵器・兵士は修理・補充・休養を取り、資源を搾取する。このことは資源を持たないドイツにとって重要なことであった。戦争前からの経過を見ればわかることであるが、ドイツは他の方面の防衛は最小限とし攻勢の前面にほぼ全力を投入する戦闘を続けており(この命題は戦争をする者にとって最大かつ最重要なことであり正しいことである)、電撃戦の失敗による長期持久戦化はドイツにとって危険となる[[二正面作戦]]を生み出すことになるはずである。
 
 
 
独ソ戦の開戦時、機甲師団の能力・電撃戦の限界については未知数だったといってよい。なぜならば対ソビエトの戦闘においての進撃すべき距離は、これまでの戦闘とは比較にならない距離だったからである。
 
これまでの戦いとは異なり、本国とはるか離れた広大な領土を持つソビエトにおける戦いは電撃戦による短期決戦が可能かどうかという点については意見が分かれるところであった。電撃戦に必要なものは一にも二にも速度であり、これには補給と飛行場の確保が不可欠である。だが、ロシアの大地は電撃戦をしかけるにはあまりに広大であった。インフラストラクチャーは未整備、冬季は厳寒。攻撃する側は必要以上に十分な装備を持ち得ていなければならない非常に危険な大地だった。
 
 
 
広大な土地に対しての情報は不足し、道路の情報はほぼ間違いであるといって過言ではなかった。ほとんどの道路は未舗装であり、そのことが後に進軍を阻む泥濘と化すことを知らなかったのではないかといえるほど、ドイツ軍の準備はなされていなかったといえる。輸送に関し、いまだに無数の荷馬車に依存していたドイツ軍はロシアのぬかるんだ地面では嫌になるくらい進軍がはかどらなかった<ref>「Engineers of Victory」Paul Kennedy</ref>。
 
 
 
これまでにも機甲師団の進軍においての故障率は対オーストリアへの進駐の段階ですら看過できない状態であり、戦闘期間が長引けばそれは機甲師団を軸に戦争の計画を立てている者にとっては恐るべき結果が待っていたといっても過言ではない。部隊の数を増やすことなどままならず、維持することすら多くの努力をもってなされていた状態であった。
 
 
 
ドイツの戦車は、ドイツ気質を体現するように最善を求めて作り上げた精密機械であった。電撃戦による短期決戦には対応できるが、長期持久戦を維持するには膨大な人的資源を必要とした。ロシアの冬は精密機械であるドイツ戦車を使用不能にするほど過酷な大地であった。驚くべきことに、ドイツはその気質を体現するかのように整備・回収の能力を保持していたといえるだろう。だがロシアの大地は苛酷であり、あらゆるものが故障し、放棄される運命にあった。そして補給の混乱がそれに輪をかけたのである。必要な部品は届けられず、他の兵器を活用するために部品を抜かれる兵器も多かった。
 
 
 
ドイツ軍のそれまでの対戦国はドイツと[[イギリス|同等]]もしくは[[フランス|劣勢]]であると考えられる国々であったのに対し、ソビエトは資源・生産力・人口においてドイツを圧倒していた。戦争が長引けば、国力の差がドイツを日々圧倒してくることは間違いなく、それはドイツ軍の敗北を意味していた。すでに同等以上の国力を誇っている英米連合国との戦争をしている状況において、西部戦線・北アフリカ戦線に加えて東部戦線という三つの戦線を維持し続けることはドイツにとって過大な負担となることは明白であった。
 
 
 
このような状況・段階にもかかわらずヒトラーのソビエトに対する認識はあくまでも過小評価であり、バルバロッサ開始時だけでなくブラウ開始後においても、ソビエト赤軍の戦力の低下を認識し、それを参謀本部にも確認する状況であった。確かにソビエト赤軍の[[冬戦争|対フィンランド戦]]での戦力比に対しての戦闘の状況、その元となる赤軍の総合的な戦力の低下はまぬがれなかった。まして独ソ戦初期における損害は膨大であり戦力の低下は間違いなかった。だが、赤軍の予備兵力はドイツ軍が想定するよりもはるかに膨大であった。もし勝利を得られることがあるとすれば、圧倒的な電撃戦による勝利か、開戦1年目のような捕虜・軍事物資の放棄が常に続くような状況でない限り勝利は遠かったのだ。
 
 
 
このようなドイツに対して、ソビエトは全力をあげて赤軍の組織を再編しドイツ軍に対抗した。
 
 
 
[[File:Bundesarchiv Bild 101III-Zschaeckel-206-35, Schlacht um Kursk, Panzer VI (Tiger I).jpg|thumb|250px|史上最大の戦車戦となった[[クルスクの戦い]]]]
 
陸・海・空という総合的な戦力が問われるわけではない独ソ戦において、ソ連赤軍には革新的ともいえる[[T-34]]という戦車の存在があったことは特筆すべきであろう。敵の砲弾を弾く効果的な形状を持ち、その形状にそった小さな砲塔には敵戦車に対しては必要十分な砲を持つという、対戦車戦において絶対的に優位な、今日における主力戦車の概念を与えうる戦車の歴史を変えるほどの戦車であった。確かに、その実態は様々な部分において洗練されておらず、無骨で運用面での様々な特性・利便を無視した設計でありドイツからみた戦車戦術からするとまだまだ問題の多い戦車であったといえその性能はさまざまな部分において欠陥が指摘されているであろう。だが、戦術という面ではなく戦車単独でみる限りにおいてその性能はずばぬけていた。ロシアの大地に最適な戦車であり大量生産しうる体制を確立し、それらを加味したうえで必要十分な性能を持った時代が必要としていた戦車そのものだったのである。独ソ戦という状況、かつロシアの平原においては既存のドイツ戦車を駆逐する性能と生産性と整備性を維持している驚異的な戦闘車両であった。ドイツから指摘しうる欠陥は砲塔、砲など着実に変更・修正され、やがて三人乗りの大型砲塔に85mmの砲を積むことによって中戦車としてはその量産性をもってしてドイツ軍を圧倒することになるのである。それに及ばず、トラックを利用した簡易なロケット砲([[カチューシャ (兵器)|カチューシャ]])、ソ連空軍は襲撃機といった対地攻撃に特化した航空機([[シュトゥルモヴィーク]])を量産し対抗した。
 
 
 
赤軍はその膨大な予備兵力によって、圧倒的な敗北から敗北を理解し、攻勢の失敗から攻勢のなんたるかを理解した。そして、予備兵力にかげりが見られるかと思われる段階において、もはや予備兵力のないナチス・ドイツに対して最大の大攻勢を行うのである。
 
 
 
=== 交通事情 ===
 
[[File:Bundesarchiv Bild 101III-Roth-173-01, Russland, Raum Charkow, Jagdpanzer.jpg|thumb|250px|left|1943年、ハリコフでの[[第1SS装甲師団]]。戦闘車両は[[マルダーII]]]]
 
ロシアの鉄道はドイツとは[[軌間]](レールの幅)が異なり(ドイツが[[標準軌]]なのに対し、ソ連側は1524mm(現在の公式発表では1520mm)のロシアゲージ([[広軌]]の一種))、そのままではドイツから直接列車を乗り入れることができなかった。ドイツ側は列車の[[鹵獲]]を当てにしていたが、ソ連側は[[ウラル連邦管区|ウラル]]への工場疎開と同時に列車を避難させておりドイツ軍の鹵獲は思うように行かず、結局、[[工兵]]によって線路を標準軌に変更する工事を行った。これらの線路はソ連側の逆襲時にアメリカの援助を受けて元のロシアゲージに戻されている。冬季のロシアの厳寒はドイツが持ち込んだ蒸気機関車を容易に故障させた。劣悪な路盤整備においては大型の機関車の導入も拒んだ。
 
 
 
道路網は舗装もされていない整備がなされていない悪路が多く情報が不足していた。また、南北方向の道路網は比較的整備されていたが、東西に移動するドイツ軍の進撃には役に立たなかった。そのため、軍備増強を急いだために、自動車化が完全ではなく移動・補給の多くに鉄道と軍馬を必要としているドイツ軍にとっては困難な戦場であった。自国の生産だけでは間に合わず、占領国からもかき集めたトラックなどを含めて荒れ果てた道路での利用による故障は甚だしく、輸送の効率は非常に低いものになった。
 
 
 
また、同時期に戦場となっていた[[北アフリカ戦線|北アフリカ]]は、広大な戦域(地図上でみても、西端から東端までの距離は、ベルリンからモスクワよりも遠い)にも関わらず港湾付近以外では自動車以外の補給手段がない為にその作戦規模に比較して膨大な輸送用自動車が割かれていたことも大きな問題となっていた。確かに北アフリカ戦線は自動車以外の補給の方法は無かった。だが、要求する数量はあきらかに作戦が生み出すものからすれば桁はずれな数量であった。最前線に対しては1割の部隊への燃料補給に対して9割の補給部隊の燃料消費が必要なほど、補給部隊の消耗が激しかった。
 
 
 
それに対して、赤軍にはレンドリースによってアメリカから送りこまれた大量の軍用車両が配備されていた。[[カチューシャ (兵器)|カチューシャ]]の台として用いられた物を含めたこれらの車両がなければバグラチオンのような電撃戦は無理であろうといわれている。
 
 
 
ドイツにおける冬期装備は考えられないほど遅れていた。例にもらずドイツの装備は理想的なものを想定し、ロシアにおける冬期装備の準備を策定していたにもかかわらず、その配備は遅々として進まなかった。その装備はこの戦闘の冬季戦闘のどこに配当されたかと思うほどである。
 
 
 
=== 土壌と気候・焦土作戦 ===
 
ロシアの大地は内陸気候と土壌により、春と初冬には泥濘と化し、夏は乾燥、冬は厳寒の土地であった。春・初冬の泥濘の時期には移動はもとより、最低限の補給にも大きな影響を与えた。また、冬季の厳寒における戦線の維持も重大な問題であった。だがこれは攻められる側のロシアにとっては有利なことであった。大地そのものが[[要塞]]であり、毎年早くに訪れる[[冬将軍]]も侵略者を苦境に陥らせるのである。そしてさらに攻略する軍を苦しめるために行われるのが焦土戦術である。
 
 
 
以上のことから、夏季にドイツ軍の攻勢・反撃を行うが冬には装備の不備から防戦に回り、赤軍は夏・冬に攻勢・反撃を行った。ナチス・ドイツ軍は電撃戦の成功を信じたのか、1942年(バルバロッサ)、1942年(ブラウ)でも冬季装備を全くと言っていいほど装備していなかった。
 
 
 
[[冬戦争]]における[[フィンランド国防軍]]との戦闘では醜態を晒した赤軍であるが、ドイツとの戦いでは日本との戦争に備えてシベリア方面にいた精鋭軍を投入できたことも大きかった。
 
 
 
かつて[[焦土作戦]]を展開し[[大北方戦争]]で[[スウェーデン]]を、[[1812年ロシア戦役|祖国戦争]]で[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]率いる[[大陸軍 (フランス)|大陸軍]]を撃退したロシアは、三度同じ戦略を決行することは明白であった。もっともこの作戦は、ロシア側にとっても多大な犠牲を強いることになった。
 
 
 
のちに、ソ連赤軍が攻勢に転じドイツ軍が防戦に回ると、ナチス・ドイツ軍は同じようにソ連領土内を焦土としていった。このことにより多くの都市は廃墟となった。戦争末期になるとヒトラーはドイツ国内の生産設備を破壊するよう命じている([[ネロ指令]])。
 
 
 
=== パルチザン ===
 
{{see also|赤軍パルチザン}}
 
{{節スタブ}}
 
 
 
=== 同盟国 ===
 
戦況の変化により各国は同盟する陣営を変えた。枢軸国側は一枚岩ではなく、長年問題を抱える隣国同士(ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア)が枢軸側として同盟していたこともあり敵側にまわることにより戦争状態に入ることに対して問題を感じることなく対応することもあった。
 
 
 
== 連合国における東部戦線の位置 ==
 
[[File:British Tanks 1939-45 H14786.jpg|thumb|250px|ソ連に輸送されるイギリスの[[マチルダII歩兵戦車]]。1941年10月17日]]
 
{{see also|レンドリース}}
 
ソビエトは第二次世界大戦開始当時の状況を見る限りにおいて侵略国であると考えられる。ポーランド、フィンランド、ルーマニア、バルト三国などの隣国に対しての行動は明らかに侵略そのものとみられた。これらの状況をふまえてイギリス・アメリカは困惑を含めて眺めていた。ナチス・ドイツが目論んでいるロシアの植民地化は地政学でいう[[ランドパワー]]としての地位を確立することになる。連合軍の目的は全体主義国家でありランドパワーとしての地位を復活しようとするナチス・ドイツの殲滅である。連合国にとってソビエトはその対象であるのか。共産主義を嫌っていることで知られるイギリスの首相[[ウィンストン・チャーチル|チャーチル]]は、ナチス・ドイツとの戦争に勝利するという何事にも変えることの出来ない目的を遂行するために、「敵の敵は味方」として自身の信念を曲げてでも共産主義国家であるソ連と手を握るという判断を下すのである。
 
 
 
独ソ戦が始まると、それまでたびたびソ連を非難していた英国はただちに大量の物資の援助を提案し、中立であったアメリカは5月に制定した[[レンドリース法]](武器貸与法)をソ連にも適用することにした。ソ連と米英の協定は1941年10月に結ばれ、この時から1945年までに武器と物資がソ連に供与された。援助の効果は1942年に目立ちはじめ、1943年にはソ連軍の兵站物資・機材の相当部分を占めるようになった。大半の援助物資は[[ペルシア回廊]]を経由して供給された。大ざっぱに言えば、スターリングラード戦までのソ連軍はほぼ自国製品で戦い、クルスク戦以降は援助物資とともに戦ったと言える。
 
 
 
[[航空機]]、[[戦車]]などの[[正面装備]]、[[貨物自動車|トラック]]、[[ジープ]]、[[機関車]]、[[無線機]]、[[野戦電話]]、[[電話線]]などの[[後方支援]]のための物資、さらに[[缶詰]]、[[靴]]、[[ブーツ]]のような一般工業製品から[[銅]]、[[アルミニウム]]といった原材料まで、さまざまな援助物資が届けられた。供与兵器は、正面装備に関するかぎりソ連戦力で大きな比率を占めなかった。戦車はソ連製の方が要目上は優れていたため、前線で歓迎されない型もあったが、機械的信頼性の高さからアメリカ・イギリス製戦車が好まれる場合もしばしばあった。しかし、援助物資が[[兵站]]と経済、生活に与えた寄与は大きかった。主要工業地帯がドイツ軍に占領され、残る生産能力も兵器生産に向けられたことで、ソ連では[[後方支援]]と生活のための物資が著しく不足していたためである。また、兵站などはソ連が立ち遅れていた分野で、米英からの援助が重要であった。
 
 
 
スターリン以下のソ連の指導者は、援助がソ連の戦争遂行能力を支えていることを自覚していたが、同時に、ドイツ軍の戦力のほとんどをソ連が引き受けている以上、援助は当然だとも考えていた。アメリカのルーズベルト大統領は第二次世界大戦の最中の1942年5月、ソ連軍の活動とそ の影響を評価してこう記した。「ロシア軍が連合国25ヶ国の軍隊よりも、対戦国の厖大な兵士と兵器に打撃を与えているという明白な事実を無視することはでき ない」と。ソ連は米英軍が西ヨーロッパのいずれか(フランス、あるいはイタリア)に上陸して第二戦線を開くことを要求したが、この要請は1944年に[[ノルマンディー上陸作戦]]が実施されるまでほぼ、満たされなかったといってよい。このためスターリンは、米英が自らは戦わず、独ソをともに消耗させようとしているのではないかという疑念を抱いていた。そこでソ連が米英に用いたのが、対独単独講和というカードであり、援助を止めさせないために単独講和をほのめかし続けた。
 
 
 
そしてソ連は獲得したポーランド東部領土の承認を英米に求め、[[ポーランド亡命政府]]とソ連の関係が悪化すると、ポーランド亡命政府との関係を絶つよう英米に要求を行った。結果としてポーランド国境についてはソ連の要求が通り、戦後ポーランドは大きく西に移動する形となった。
 
 
 
連合国の勝利がほぼ確定的となった1944年になると、イギリスはソ連の東欧支配、さらには地中海への進出に警戒心を見せるようになった。{{仮リンク|モスクワ会談 (1944年)|en|Moscow Conference (1944)|label=モスクワ会談}}ではチャーチルとスターリンは「[[パーセンテージ協定]]」を締結し、東欧に対するソ連の優越権を認める一方で、地中海へのソ連の進出を食い止めようとした。しかし後の[[ポツダム会談]]でソ連はさらに進出の意向を示す。共通の敵を失った連合国の列強は再びイデオロギーの対立に立ち戻り、[[冷戦]]という対立軸へと向かうことになる。
 
 
 
== 戦争犯罪 ==
 
ナチズムにおいてスラブ人は[[劣等民族]]として扱われており、またイギリスの海上封鎖によって食糧難に陥っていたドイツでは、ソ連の土地から食糧を収奪することが喫緊の課題であった。占領地域に民族ドイツ人を植民し、ドイツ領土化するという「[[東部総合計画]]」はこの時期に建てられたものである。[[四カ年計画]]庁と食糧次官[[ヘルベルト・バッケ]]は、ドイツが戦争を遂行するためには、3年間現地において国防軍が食糧を調達することが必要であると試算している{{sfn|谷喬夫|2007|pp=677}}。バッケらはこの食糧収奪によって数百万人のロシア人・スラブ人を結果的に餓死させるという計画を立案していた({{仮リンク|飢餓計画|en|Hunger Plan}})。彼らは最終的に3千万人のロシア人が餓死すると見込んでいた{{sfn|谷喬夫|2007|pp=677}}。ゲーリングの大都市の占領は「望ましくなく、包囲して餓死させるべきである」という発言もこれにつながっている{{sfn|谷喬夫|2007|pp=678}}。
 
 
 
また、親衛隊によって組織された[[アインザッツグルッペン]]は、占領地域の治安維持のためとして[[ユダヤ人]]・共産主義者・パルチザンの検挙・殺害を組織的に行った。ドイツ占領地では[[ホロコースト]]実行のために親衛隊が活発な活動を行い、国防軍もこれに協力した([[清廉潔白な国防軍]])。
 
 
 
一方で、ソ連軍は敵の捕虜に対して苛酷な労働を課した(ソ連は捕虜の待遇を定めた[[ジュネーブ条約]]を批准していなかった)。ソ連軍が東欧に侵攻すると報復の対象は民間人にも及び、激しい略奪と暴行が繰り返された。
 
 
 
== 対敵協力者 ==
 
ドイツの捕虜になったソ連軍将兵や民間人のなかには、[[アンドレイ・ウラソフ]]将軍が組織した[[ロシア解放軍]]や[[ヒヴィ]]など、対独協力者となった者も少なくなかった。大戦後半、人的資源の枯渇に苦しむドイツ軍で多くのソ連出身者が弾薬、燃料輸送など後方活動に従事し、中には最前線でかつての「同志」に銃口を向ける者もいた。
 
 
 
戦後、ソ連政府は「裏切り者」に対して容赦をせず、対独協力者としての過去が判明すれば、銃殺や絞首刑に処されたり、[[コルィマ鉱山]]等のシベリア各地への追放を受けた。
 
 
 
また、ドイツ軍人の中にも、パウルス元帥や[[ヴァルター・フォン・ザイトリッツ=クルツバッハ|フォン・ザイトリッツ=クルツバッハ]]将軍など、捕虜になった後に[[反ナチ運動]]に参加した者も存在した。
 
 
 
== 影響 ==
 
ドイツは戦争によって敗北し、ナチス政体は崩壊、アメリカ・ソ連・イギリス・フランスによる分割占領を受けることとなった([[連合軍軍政期 (ドイツ)]])。その後東西両陣営の対立により、[[西ドイツ|ドイツ連邦共和国 (西ドイツ)]]および[[ドイツ民主共和国]](東ドイツ)の2国に分断されることとなった。この分断状態は1990年の[[ドイツ再統一]]まで続くことになる。さらに東プロイセン等を含む[[オーデル・ナイセ線]]以東の領土を喪失し([[旧ドイツ東部領土]])、これらの土地や東欧に住んでいたドイツ人はドイツ本国へと追放された([[ドイツ人追放]])。また戦争賠償として、ドイツ国内の原料や生産設備が現物徴収され、ソ連軍の捕虜は労務による賠償を負わされた([[第二次世界大戦後におけるドイツの戦後補償]])。
 
 
 
独ソ戦は連合国の対ナチス・ドイツ戦争の中で最大の戦域であり、それに膨大な損害を出しながら勝利したソ連の威信は極めて大きなものとなり、戦後秩序における[[超大国]]としての位置を確立した。また新領土としては東プロイセンの[[カリーニングラード州|ケーニヒスベルクとその周辺地域]]、[[カーゾン線]]以東の旧ポーランド領土を獲得している。またソ連は占領した東欧地域の政権を社会主義化し、自由な選挙によって政体を決定するという連合国間の合意は反故となった。アメリカ合衆国・イギリスとの摩擦は大きくなり、[[冷戦]]への道に至ることになる。
 
 
 
ドイツが降伏した日は[[ヨーロッパ戦勝記念日]]として現在でも各地で式典が行われている。2004年には[[国際連合総会]]において、5月8日と9日が[[第二次大戦中に命を失った全ての人に追悼を捧げる日]]と定められている。
 
 
 
== 評価 ==
 
ドイツの敗戦40周年にあたる1985年5月8日、[[リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー]]大統領がドイツ連邦議会で記念の演説を行った際に次のように述べている。
 
「五月八日は、ドイツの歴史のみならず、ヨーロッパの歴史に深く刻み込まれている。ヨーロッパの内戦は終わり、古いヨーロッパの世界は崩れ去っていった。歴史学者[[ミヒャエル・シュテュルマー]]教授の言を借りれば『ヨーロッパは戦い尽くした』のである。停戦の直前、東西から進撃してきた米ソ両軍兵士の[[エルベの誓い|エルベ河畔での邂逅]]は、さし当って、ヨーロッパの一つの時代が終わったことのシンボルである」<ref>荒れ野の40年</ref>。
 
 
 
[[エマニュエル・トッド]]はその著書『[[帝国以後]]』の中で「第二次世界大戦の戦略的真相は、ヨーロッパ戦線での真の勝利者はロシアであったということである。スターリングラードの以前、最中、以後のロシアの人的犠牲が、ナチスの軍事機構を粉砕することを可能にしたのだ。1944年6月のノルマンディ上陸作戦は、時期的にはかなり遅い時点で実行されたもので、その頃にはロシア軍部隊はすでにドイツを目指して戦前の西部国境に到達していた。当時多くの人士が、ドイツ・ナチズムを打ち破り、ヨーロッパの解放に最も貢献したのはロシア共産主義だと考えたということを忘れたら、戦後のイデオロギー的混乱を理解することはできない。イギリスの歴史家で軍事問題の専門家である[[ベイジル・リデル=ハート]]が見事に見抜いたように、あらゆる段階でアメリカ軍部隊の行動様式は官僚的で緩慢で、投入された経済的・人的資源の圧倒的な優位を考えれば、効率性に劣るものだった。ある程度の犠牲的精神が要求される作戦は、それが可能である時には必ず同盟国の徴募兵部隊に任された」と述べている<ref>帝国以後 P.121-122</ref>。
 
 
 
また、1985年、当時は東ドイツの同地にかつての米ソ兵が集まって往時をしのび合った。
 
 
 
== 文献 ==
 
; ソ連側から
 
* 『第二次世界大戦史―ソ独戦と対日戦』、国民文庫社、1954年
 
* [[ヨシフ・スターリン|スターリン]]『ソ同盟の偉大な祖国防衛戦争』、清水邦生訳、国民文庫社、1953年
 
* N.チーホノフ 『レーニングラード』、創元社、1952年 - レーニングラード戦を題材にソ連側から描かれた小説
 
* Harrison E. Solisbury 『独ソ戦:この知られざる戦い』、早川書房、1980年 - 米人記者がソ連側から見た独ソ戦
 
* Theodor Plievier 『モスクワ』 金森誠也訳、フジ出版社、1986年、ISBN 4-89226-069-X - ソ連側から描かれた独ソ戦の小説
 
* David M.Glantz / Jonathan M.House 『独ソ戦全史;「史上最大の地上戦」の実像』 守屋純訳、学習研究社、2005年、ISBN 4-05-901173-8 - ソ連側から見た独ソ戦
 
* [[スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチ]] 『ボタン穴から見た戦争』 三浦みどり訳、群像社、[[2000年]]。 - 原題は『最後の生き証人』。当時子供だった人々へのインタビュー集
 
* アントニー・ビーヴァー 著、川上洸 訳、『赤軍記者グロースマン 独ソ戦取材ノート 1941-1945』、白水社、2007年
 
; ドイツ側から
 
* [[井上鍾]]編 『モスクワへ、独逸宣伝戦闘隊写真報告第一報』、番町書房、1942年 - 、昭和17年に出版された写真集
 
* [[パウル・カレル]] 『バルバロッサ作戦』 [[松谷健二]]訳、フジ出版社、1971年
 
* パウル・カレル 『焦土作戦:ソ連の大反攻とヒトラーの敗走』 松谷健二訳、フジ出版社、1972年
 
* Jürgen Thorwald 『幻影、ヒトラーの側で戦った赤軍兵士たちの物語』 松谷健二訳、フジ出版社、1979年 - ソ連人対独協力者の運命
 
* パウル・カレル ''Unternehmen Barbarossa im Bild: Der Rußlandkrieg fotografiert von Soldaten'', Ullstein, 1985, ISBN 3-550-08509-5 - ドイツ兵士の撮った写真に見る独ソ戦
 
* Richard Muller 『東部戦線の独空軍』 手島尚訳、朝日ソノラマ、1995年、ISBN 4-257-17295-9
 
* Werner Maser 『独ソ開戦、盟約から破約へ、ヒトラーVSスターリン』 守屋純訳、学習研究社、2000年、ISBN 4-05-400983-2 - スターリンの戦争準備
 
* [[クルト・マイヤー]] 『擲弾兵:パンツァー・マイヤー戦記』 松谷健二訳、学習研究社、2000年、ISBN 4-05-400984-0 - 武装親衛隊指揮官の回顧録 - フジ出版社版の復刻
 
 
 
== ボードゲーム ==
 
;独ソ戦全体
 
*『Sturm Nach Osten』(WWW、[[シックス・アングルズ]]別冊第8号)1982年
 
*『Russian Front』([[アバロンヒル|Avalon Hill]]、[[ホビージャパン]])1985年
 
*『The Russian Campaign 2/独ソ戦2』(Jedko Games、国際通信社「[[コマンドマガジン日本版]]第33号」)1986年
 
*『失われた勝利』([[エポック社]]、[[サンセットゲームズ]])1986年
 
*『War for the Motherland』(Rampart Games、シックス・アングルズ第9号)1994年 - [[山崎雅弘]]デザイン
 
*『Russia Beseiged』(L2 Design Group、国際通信社「コマンドベスト第10弾」)2004年
 
*『East Front II』(Columbia Games)2006年
 
*『NO RETREAT!』(Victory Point Games、国際通信社「ワールド・ウォー・シリーズ第1号」)2008年
 
*『The Barbarossa Campaign/独ソ戦ソリティア』(Victory Point Games、国際通信社「ワールド・ウォー・シリーズ第3号」)2010年 - 1人用ゲーム
 
 
 
;バルバロッサ作戦
 
*『1941』([[ゲームデザイナーズ・ワークショップ|GDW]]、国際通信社「コマンドマガジン日本版第45号」)1981年
 
*『独ソ電撃戦』(エポック社、国際通信社「コマンドマガジン日本版第57号)1981年
 
*『Fire in the East』(GDW、ホビージャパン)1984年
 
*『モスクワ電撃戦』([[翔企画]]SSシリーズ、国際通信社「コマンドマガジン日本版第75号」)1988年 - [[中黒靖]]デザイン
 
*『Blitzkrieg '41』(XTR、国際通信社「コマンドマガジン日本版第7号」)1989年
 
*『Army Group Center』(シックス・アングルズ第12号)1992年
 
*『真・バルバロッサ作戦』([[ゲームジャーナル]]1号)2001年 - [[鈴木銀一郎]]デザイン
 
*『Barbarossa: The Russo-German War, 1941-45』(Decision Games、国際通信社「コマンドマガジン日本版第87号」)2008年
 
*『激闘レニングラード電撃戦』(ゲームジャーナル49号)2013年
 
*『バルバロッサ作戦』(国際通信社「ウォーゲームハンドブック2014」)2014年
 
 
 
;スモレンスク
 
*『スモレンスク攻防戦』(国際通信社「コマンドマガジン日本版第74号」、「コマンドベスト第13弾」)2007年
 
*『A Victory Denied/激闘!グデーリアン装甲軍』([[マルチマン・パブリッシング|Multi-Man Publishing]]、ゲームジャーナル35号)2009年
 
 
 
;モスクワ
 
*『Operation Typhoon』([[シミュレーションズ・パブリケイションズ|SPI]]、ホビージャパン)1978年
 
*『東部戦線:冬季戦41-42』([[アドテクノス]]、ゲームジャーナル22号)1984年
 
*『Battle for Moscow』(GDW、国際通信社「コマンドマガジン日本版第39号」)1986年
 
*『The Last Stand at Moscow/モスクワ攻防戦』(シックス・アングルズ第11号)2008年 - 山崎雅弘デザイン
 
*『モスクワ '41』(国際通信社「コマンドマガジン日本版第84号」)2009年 - 中黒靖デザイン
 
*『Roads to Moscow』(GMT Games)2013年
 
 
 
;青作戦・スターリングラード
 
*『Drive on Stalingrad』(SPI、サンセットゲームズ)1977年
 
*『Battle for Stalingrad/スターリングラード攻略』(SPI、ホビージャパン、シックス・アングルズ別冊第1号)1980年
 
*『スターリングラード』(エポック社、国際通信社「ワールド・ウォー・シリーズ第4号」)1983年
 
*『Stalingrad Pocket』(The Gamers、国際通信社「コマンドマガジン別冊第5号」)1992年
 
*『Paulus' 6th Army』(シックス・アングルズ第10号)2005年 - 山崎雅弘デザイン
 
*『スターリングラード強襲』(ゲームジャーナル19号)2006年
 
*『激闘スターリングラード電撃戦』(ゲームジャーナル47号)2013年
 
 
 
;ヴェルキエ・ルキ
 
*『White Death』(GDW、国際通信社「コマンドマガジン日本版第96号」)1979年
 
*『Velikye Luki/ヴェリキエ・ルキ攻防戦』(Moments in History、国際通信社「コマンドマガジン日本版第76号」)2000年
 
 
 
;クルスク
 
*『Kursk: History's Greatest Tank Battle, July 1943/クルスク大戦車戦』(SPI、シックス・アングルズ別冊第3号)1980年
 
*『Zitadelle: Duel for Kursk/ツィテダレ作戦:クルスクの決戦』(WWW、国際通信社「コマンドマガジン別冊第4号」、シックス・アングルズ第13号)1992年 - 山崎雅弘デザイン
 
*『Drive on Kursk』(Decision Games「S&T#253」、国際通信社「コマンドマガジン日本版第93号」)2008年
 
 
 
;ハリコフ
 
*『ハリコフ1941-1943』(翔企画SSシリーズ、シックス・アングルズ第8号)1991年 - 山崎雅弘デザイン
 
*『Ring of Fire』(Moments in History、国際通信社「コマンドマガジン別冊第18号」)1994年
 
*『激闘!マンシュタイン軍集団』(ゲームジャーナル4号)2002年
 
 
 
;その他
 
*『Army Group South/ドイツ南方軍集団』(SPI、サンセットゲームズ)1979年 - クワドリ(キエフ、ロストフ、星作戦、コルスン)
 
*『48th Panzer Korps』(Pacific Rim、国際通信社「コマンドマガジン日本版第17号」)1991年
 
*『Berlin '45 The Nightmare Ends』(XTR、国際通信社「コマンドマガジン日本版第3号」)1992年
 
*『Budapest 1945』(XTR、国際通信社「コマンドマガジン日本版第13号」)1994年
 
*『Forgotten Axis: Murmansk 1941』(GMT Games、国際通信社「コマンドマガジン日本版第63号」)1999年
 
*『Ukraine '43』(GMT Games、国際通信社「コマンドマガジン日本版第60号」)2000年
 
*『Drive to the Baltic!/死闘! 北方軍集団』(Moments in History、国際通信社「コマンドマガジン日本版第34号」)2000年
 
*『ウクライナ'44』(国際通信社「コマンドマガジン日本版第70号」)2006年 - 中黒靖デザイン
 
*『Hongrie 1944-1945/ハンガリー戦役1944-45』(Vae Victis#78、国際通信社「コマンドマガジン日本版第100号」)2008年
 
*『レッドタイフーン』(国際通信社「コマンドマガジン日本版第85号」)2009年
 
*『Battle for Korsun』(Chris Harding Simulations、国際通信社「コマンドマガジン日本版第97号」)2010年
 
*『1940: What If』(Decision Games、国際通信社「コマンドマガジン日本版第103号」)2010年 - 仮想戦
 
*『Army Group Narwa/激闘、ナルヴァ軍集団』(Three Crowns Game Productions、国際通信社「コマンドマガジン日本版第112号」)2012年
 
*『ルントシュテットの戦い』(国際通信社「コマンドマガジン日本版第109号」)2013年
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
<!-- 実際に参考にした文献一覧 -->
 
*{{Cite book|和書|author= イアン・カーショー|translator= 石田勇治|year= 1999|origyear    = 1991|title    =ヒトラー権力の本質|publisher = 白水社|isbn= : 978-4560028162}}
 
* {{Cite journal|和書|author=[[井上茂子]]|title=ドイツ降伏の日はいつか? : 第二次世界大戦終結をめぐる神話と伝説(月例会発表要旨新入生歓迎記念講演)|url=http://ci.nii.ac.jp/naid/110006426456|format=PDF|journal=上智史學|publisher=上智大学|issue=51|naid=110006426456|year=2006|pages=pp. 241-242}}
 
* {{Cite book|和書|author = [[児島襄]]|year = 1992|title = 第二次世界大戦 ヒトラーの戦い |volume = 第3巻 |publisher = 文藝春秋社 |isbn =  978-4167141387}}
 
* {{Cite book|和書|author = 児島襄|year = 1992|title = 第二次世界大戦 ヒトラーの戦い |volume = 第4巻 |publisher = 文藝春秋社 |isbn =  978-4167141394}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[児島襄]]|title=第二次世界大戦 ヒトラーの戦い 10巻|series=[[文春文庫]]|date=|year= 1993|publisher=[[文藝春秋社]]|isbn=978-4167141455}}
 
* ニコラス・ベサル著、加登川幸太郎 監修、横田恒 翻訳、『ライフ 第二次世界大戦史 「独ソの激闘」』、タイム ライフ ブックス
 
* ジョン・ショウ著、加登川幸太郎 監修、島村力/小山田義文 翻訳、『ライフ 第二次世界大戦史 「ソ連軍の大反攻」』、タイム ライフ ブックス
 
* {{Cite journal|和書|author=谷喬夫|title= 東方支配と絶滅政策|url=http://dspace.lib.niigata-u.ac.jp:8080/dspace/bitstream/10191/6066/1/18|format=PDF|journal=法政理論|publisher=新潟大学法学会|issue= 39 ( 4 ) |year=2007|pages=pp.650 - 686|ncid=AN00226270|ref=harv}}
 
*{{Cite journal|author=ヨースト・デュルファー|date=2010|journal =平成22年度戦争史研究国際フォーラム報告書|url=http://www.nids.go.jp/event/forum/pdf/2010/06.pdf|title=ドイツと三国軍事同盟}}
 
*{{Cite book|和書|author= 芝健介|year= 1995|title    = 武装SS <small>もう一つの暴力装置</small>|publisher = 講談社|isbn      = 4-06-258039-X}}
 
*{{Cite book|洋書|author= Christian Hartmann|year= 2011|title    = ''Unternehmen Barbarossa.''<small> ''Der deutsche Krieg im Osten 1941–1945'' </small>|publisher = C.H. Beck (München)|isbn      = 978-3-406-61226-8
 
}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
<!-- 関連するウィキリンク、ウィキ間リンク -->
 
{{Commonscat|Great Patriotic War|大祖国戦争}}
 
{{Commonscat|Eastern Front (World War II)|第二次世界大戦における東部戦線}}
 
* [[独ソ不可侵条約]]
 
* [[焦土作戦]]
 
* [[ゾルゲ事件]]
 
* [[祖国戦争]](ナポレオン軍のロシア侵攻)
 
* [[冬将軍]]
 
* [[ドイツ人追放]]
 
* [[人海戦術]]
 
* [[赤軍パルチザン]]
 
* [[ライヒスタークの赤旗]]
 
*{{仮リンク|ソビエト連邦における外国人強制労働|en|Foreign_forced_labor_in_the_Soviet_Union}}
 
**{{仮リンク|ソビエト連邦におけるドイツ人強制労働|en|Forced labor of Germans in the Soviet Union}}
 
**{{仮リンク|ソビエト連邦におけるハンガリー人強制労働|en|Forced labor of Hungarians in the Soviet Union}}
 
**{{仮リンク|ソビエト連邦におけるイタリア人強制労働|en|Italian prisoners of war in the Soviet Union}}
 
* [[ソビエト連邦戦争捕虜に対するナチスの犯罪行為]]
 
* [[ソビエト連邦による戦争犯罪]]
 
 
 
{{Campaignbox-bottom|第二次大戦ヨーロッパ戦線}}
 
{{ナチス・ドイツ}}
 
  
 
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2018/9/23/ (日) 12:22時点における版

独ソ戦
戦争: 第二次世界大戦/大祖国戦争
年月日: 1941年6月22日から1945年5月8日
場所: ウクライナロシア西部、ポーランド、ドイツ東部他
結果: ソ連軍の勝利
交戦勢力

ルーマニア王国の旗 ルーマニア王国 (〜1944)
イタリア王国の旗 イタリア王国 (〜1943)
 フィンランド (〜1944)
テンプレート:HUN1920[1]
スロバキア共和国の旗 スロバキア共和国
Flag of Independent State of Croatia.svg クロアチア独立国
テンプレート:BGR1908[2] (〜1944)
スペインの旗 スペイン(義勇軍を派遣)
25px フランス義勇兵
25px ロシア解放軍


ポーランドの旗 ポーランド
25px ポーランド秘密国家
テンプレート:YUG1918
テンプレート:YUG45 (1943~)
ルーマニア王国の旗 ルーマニア王国 (1944~)
テンプレート:BGR1908 (1944~)
テンプレート:CSK
25px 自由フランス(遠征軍[3] を派遣)
イギリスの旗 イギリス(遠征軍[4] を派遣)

戦力
1941年
400万
1942年
269万7000

1943年
348万3000
1944年
252万2000人
1945年
196万

1941年
268万
1942年
531万3000

1943年
670万
1944年
640万
1945年
640万

損害
犠牲者 1075万8000人
(諸説あり)
犠牲者 1470万人
(諸説あり)

独ソ戦(どくソせん)(英語Eastern Front(World War II))

第2次世界大戦中の 1941年6月 22日~45年5月8日のドイツ,ソ連間の戦争。 A.ヒトラーはもともとボルシェビズムの打倒をナチズムの最大のスローガンに掲げ,ソ連打倒の機会をうかがっていた。 40年秋イギリスへの上陸作戦が不可能とみるとただちに対ソ作戦

(バルバロッサ作戦) の準備にかかり,41年6月兵力 250万を投入して攻撃を開始した。ドイツは対ソ戦を半年で終了すると豪語していたが電撃戦はソ連に通用しなかった。 12月アメリカも参戦しイギリス,ソ連とともに連合国が形成され,またソ連も陣容を立直して反攻に移り,42~43年のスターリングラードの戦いでの勝利以降,戦局を転換させた。 45年4月東ヨーロッパの全土を制圧したソ連軍は5月ベルリンを占領し,ドイツは降伏した。


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  1. 1944年10月18日以降は矢十字党政権のハンガリー国民統一政府
  2. 正式な対ソ宣戦布告は行わなかった
  3. ノルマンディ・ニーメン
  4. en:No. 151 Wing RAF