潁川郡

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潁川郡(えいせん-ぐん)は、中国にかつて存在した秦代から唐代にかけて、現在の河南省中部に設置された。

概要

秦がを滅ぼすと、潁川郡が置かれ、郡治は陽翟に置かれた。

紀元前202年前漢高帝5年)、韓王信がこの地に封じられ、韓国が立てられた。紀元前201年(高帝6年)、韓王信が太原郡に移封されたため、潁川郡にもどされた[1]。潁川郡は豫州に属し、陽翟・昆陽潁陽定陵長社新汲襄城舞陽潁陰崈高鄢陵臨潁父城成安周承休陽城綸氏の20県を管轄した。『漢書』によれば、前漢末に43万2491戸、221万973人があった[2]

王莽のとき、左隊郡(さすいぐん)と改められた[3]

後漢が建国されると、潁川郡の称にもどされた。潁川郡は陽翟・郟・襄城・昆陽・定陵・舞陽・郾・臨潁・潁陽・潁陰・許・新汲・鄢陵・長社・陽城・父城・輪氏の17県を管轄した[4]

196年建安元年)、曹操が献帝を連れて許県に移り、都を置いた[5]221年黄初2年)、許県を許昌県と改めた[6]

のとき、潁川郡は許昌・長社・潁陰・臨潁・郾・邵陵・鄢陵・新汲・長平の9県を管轄した[7]

北魏のとき、潁川郡は長社・臨潁・潁陰の3県を管轄した[8]

東魏のときに鄭州が置かれ、北周のときに許州と改められた。

583年開皇3年)、が郡制を廃すると、潁川郡は廃止されて、許州に編入された。607年大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、許州は潁川郡と改称された。潁川・襄城・汝墳・葉・北舞・郾城・繁昌・臨潁・尉氏長葛・許昌・㶏強扶溝・鄢陵の14県を管轄した[9]

621年武徳4年)、唐が王世充を平定すると、潁川郡は許州と改められた。742年天宝元年)、許州は潁川郡と改称された。758年乾元元年)、潁川郡は許州と改称され、潁川郡の呼称は姿を消した[10]

脚注

  1. 漢書』魏豹田儋韓王信伝
  2. 班固漢書』地理志第八上。小竹武夫訳『漢書』3(ちくま学芸文庫、筑摩書房、1998年)、296-298頁。
  3. 班固『漢書』地理志第八上。小竹武夫訳『漢書』3(ちくま学芸文庫、筑摩書房、1998年)、296頁。
  4. 後漢書』郡国志二
  5. 三国志』魏書武帝紀
  6. 『三国志』魏書文帝紀
  7. 『晋書』地理志上
  8. 魏書』地形志二中
  9. 隋書』地理志中
  10. 旧唐書』地理志一

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