滝田洋二郎

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滝田 洋二郎(たきた ようじろう、1955年昭和30年)12月4日 - )は、日本映画監督富山県高岡市(旧福岡町)出身。

来歴・人物

富山県立高岡商業高等学校卒業。俳優山田辰夫は高校時代の同級生。1974年(昭和49年)、獅子プロに助監督として入社。1981年(昭和56年)、『痴漢女教師』で監督デビュー脚本家高木功とのコンビで成人映画の監督として話題作を連発し、注目された。ミステリ喜劇「痴漢電車・下着検札」からハードサスペンス「連続暴姦」まで、非常に幅広い作風を示す。「下着検札」では売り出し時期の竹中直人(当時は竹中ナオト)に全て松本清張と松田優作の物真似だけで準主演させ、満州事変秘話から密室トリック殺人、人形アニメで締めくくるラストなどの凝りようで話題を呼び、「痴漢電車・極秘本番」では、現代と大阪城夏の陣をタイムスリップで往還する、メジャー大作でも手を出さないようなSFスラップスティックコメディにまで挑んでいる。密室トリック好きは「痴漢電車・聖子のお尻」ラスト近くでも全面展開され、5分間セリフなしでラヴェルの「ボレロ」だけを流し、仕掛けを視覚のみで解明する映像で気を吐いた。これらのほとんどで探偵役などで主演した螢雪次朗とは、今も盟友関係が続いている。ピンク映画の末期には何本かのにっかつ配給作品も手掛けたが、そのほとんどが獅子プロ製作の買取作品で当然撮影所も使わせてもらえず、のちに「木村家の人々」で組んだにっかつ出身の山田耕大プロデューサーは滝田に当時のにっかつへの強い敵意を感じたという。滝田は一般映画進出に至るまで、予算も撮影日数もにっかつロマンポルノの数分の一にすぎないピンク映画業界で手腕を発揮し続けた。

1985年(昭和60年)、主演と脚本を務めた内田裕也に指名され、初の一般映画『コミック雑誌なんかいらない!』を監督し、高い評価を得る。同作はアメリカニューヨークロサンゼルスの一部映画館でも公開され、話題となった。以降、コンスタントに話題作を発表し続けている。当初はコメディが多かったが、次第にシリアスな大作を多く手がけるようになり、現在では不羈奔放な演出で沸かせたピンク時代とは大きく異なった端正な作風となっている。

2001年(平成13年)の『陰陽師』は、実写日本映画ではトップクラスのヒットとなった[1]2004年(平成16年)には『壬生義士伝』で日本アカデミー賞最優秀作品賞。

2008年(平成20年)に公開の『おくりびと』は大作ではなかった[2]もののこれがロングランとなると、翌2009年(平成21年)の日本アカデミー賞で最優秀作品賞・最優秀監督賞を受賞。その後第81回アカデミー賞では日本映画初の外国語映画賞を受賞した[3]

2009年(平成21年)3月18日高岡市のホテルニューオータニ高岡にて富山県初となる県民栄誉賞と、こちらも初となる高岡市民栄誉賞が贈られた[4]

2011年(平成23年)、映画芸術科学アカデミー会員に選出される。

2014年(平成26年)、紫綬褒章受章。

監督作品

一般作品

成人作品

  • 痴漢女教師 (1981年)
  • 痴漢電車シリーズ
    • 痴漢電車 もっと続けて (1982年)
    • 痴漢電車 満員豆さがし (1982年)
    • 痴漢電車 ルミ子のお尻(1983年)
    • 痴漢電車 けい子のヒップ(1983年)
    • 痴漢電車 百恵のお尻(1983年)
    • 痴漢電車 下着検札(1984年)
    • 痴漢電車 ちんちん発車(1984年)
    • 痴漢電車 極秘本番(1984年)
    • 痴漢電車 聖子のお尻(1985年)
    • 痴漢電車 車内で一発(1985年)
    • 痴漢電車 あと奥まで1cm(1985年)
  • 官能団地 上つき下つき刺激つき (1982年)
  • 連続暴姦(1983年)
  • グッバイボーイ(1984年)
  • OL24時 媚娼女(1984年)
  • 真昼の切り裂き魔(1984年)
  • 痴漢保健室(1984年)
  • ザ・緊縛(1984年)
  • 桃色身体検査(1985年)
  • 痴漢通勤バス(1985年)
  • 絶倫ギャル やる気ムンムン(1985年)
  • ザ・マニア 快感生体実験(1986年)
  • 痴漢宅配便(1986年)
  • はみ出しスクール水着(1986年)
  • タイム・アバンチュール 絶頂5秒前(1986年)

助監督作品

受賞歴

脚注

外部リンク

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