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{{Infobox 人物
 
|氏名=渋沢 栄一
 
|画像=Eiichi Shibusawa.jpg
 
|画像サイズ=200px
 
|画像説明=<!--[http://www.ndl.go.jp/portrait/contents/index.html 電子展示会「近代日本人の肖像」]より--><!--外部リンク-->
 
|生年月日= [[1840年]][[3月16日]]<br>([[天保]]11年[[2月13日 (旧暦)|2月13日]])
 
|生誕地=[[武蔵国]][[榛沢郡]]血洗島村<br />(現[[埼玉県]][[深谷市]]血洗島)
 
|没年月日=[[1931年]][[11月11日]](満91歳没)
 
|職業=[[幕臣]]、[[官僚]]、[[実業家]]、[[教育者]]
 
}}
 
  
'''渋沢 栄一'''(しぶさわ えいいち、[[天保]]11年[[2月13日 (旧暦)|2月13日]]([[1840年]][[3月16日]]) - [[昭和]]6年([[1931年]])[[11月11日]])は、[[江戸時代]]末期([[幕末]])から[[大正]]初期にかけての[[日本]]の[[武士]]([[幕臣]])、[[官僚]]、[[実業家]]。[[第一国立銀行]]や[[東京証券取引所]]などといった多種多様な企業の設立・経営に関わり、「日本資本主義の父」ともいわれる。[[理化学研究所]]の創設者でもある。
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'''渋沢 栄一'''(しぶさわ えいいち、[[天保]]11年[[2月13日 (旧暦)|2月13日]]([[1840年]][[3月16日]]) - [[昭和]]6年([[1931年]])[[11月11日]]
  
[[正二位]][[勲一等]][[子爵]]。[[雅号]]に青淵(せいえん)。
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明治・大正期の実業家,財界の指導者。生家は村名主で,農業のほか藍玉の商業も営んでいた。栄一は年少の頃から家業に従事したが,のち才幹を認められて一橋慶喜 (のち将軍) に仕え,慶応3 (1867) 年将軍慶喜の弟昭武に随行して渡欧した。明治維新後明治政府に仕官し,近代的財政,金融,貨幣制度の導入に尽力した。 1873年退官し,第一国立銀行の頭取となり,以後明治期を通じて民間の銀行,産業および実業家団体の育成と指導に大きな役割を演じ,関係会社は数百に上った。 1916年第一銀行を除いて関係会社から退き,社会公共事業に余生をおくった。福沢諭吉と並んで日本の経済近代化の最大の功労者である。
 
 
== 経歴 ==
 
=== 生い立ち ===
 
[[File:Birthplace of Eiichi Shibusawa.JPG|thumb|渋沢栄一の生家]]
 
[[File:Eiichi Shibusawa transformation.jpg|thumb|左:1866年、右:1867年]]
 
 
 
[[天保]]11年([[1840年]])2月13日、[[武蔵国]][[榛沢郡]]血洗島村(現[[埼玉県]][[深谷市]]血洗島)に父・[[渋沢元助|渋沢市郎右衛門元助]]([[1810年]] - [[1871年]])<ref>[https://reichsarchiv.jp/%E5%AE%B6%E7%B3%BB%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88/%E6%B8%8B%E6%B2%A2%E6%B0%8F 世界帝王事典]</ref>、母・エイの長男として生まれた。幼名は栄二郎<ref>[[小貫修一郎]] 筆記、渋沢栄一 談、『渋沢栄一自叙伝』、渋沢翁頌徳会、1938年、生立ちのころ(1頁)。</ref>。のちに、栄一郎、篤太夫、篤太郎を名乗る。[[渋沢成一郎]]は従兄にあたる。
 
 
 
渋沢家は[[藍玉_(染料)|藍玉]]の製造販売と[[養蚕]]を兼営し米、麦、野菜の生産も手がける豪農だった。原料の買い入れと販売を担うため、一般的な農家と異なり、常に算盤をはじく商業的な才覚が求められた。市三郎も父と共に信州や上州まで藍を売り歩き、[[アイ (植物)|藍葉]]を仕入れる作業も行った。14歳の時からは単身で藍葉の仕入れに出かけるようになり、この時の経験がヨーロッパ時代の経済システムを吸収しやすい素地を作り出し、後の現実的な[[合理主義|合理主義思想]]に繋がったといわれる。
 
 
 
=== 徳川慶喜の家臣・幕臣として ===
 
一方で5歳の頃より父から読書を授けられ、7歳の時には従兄の[[尾高惇忠 (実業家)|尾高惇忠]]の許に通い、[[四書五経]]や『[[日本外史]]』を学ぶ。[[剣術]]は、[[大川平兵衛]]より[[神道無念流]]を学んだ。19歳の時([[1858年]])には惇忠の妹・尾高千代と結婚、名を栄一郎と改めるが、[[文久]]元年([[1861年]])に江戸に出て[[海保漁村]]の門下生となる。また[[北辰一刀流]]の[[千葉栄次郎]]の道場(お玉が池の千葉道場)に入門し、剣術修行の傍ら勤皇志士と交友を結ぶ。その影響から文久3年([[1863年]])に尊皇攘夷の思想に目覚め、[[高崎城]]を乗っ取って武器を奪い、横浜を焼き討ちにしたのち長州と連携して幕府を倒すという計画をたてる。しかし、惇忠の弟・[[尾高長七郎]](従兄弟)の懸命な説得により中止する。
 
 
 
親族に累が及ばぬよう父より[[勘当]]を受けた体裁を取って[[京都]]に出るが、[[八月十八日の政変]](文久3年(1863年))直後であったため、勤皇派が凋落した京都での志士活動に行き詰まり、江戸遊学の折より交際のあった一橋家家臣・[[平岡円四郎]]の推挙により[[徳川慶喜|一橋慶喜]]に仕えることになる。仕官中は一橋家領内を巡回し、農兵の募集に携わる。
 
 
 
主君の慶喜が将軍となった([[慶応]]2年([[1866年]])[[12月5日 (旧暦)|12月5日]]-慶応3年([[1867年]])[[12月9日 (旧暦)|12月9日]])のに伴い[[幕臣]]となり、[[パリ]]で行われる[[万国博覧会]]([[1867年]])に将軍の名代として出席する慶喜の異母弟・[[徳川昭武]](後の[[水戸徳川家]]11代当主)の随員として[[勘定 (江戸幕府)|御勘定]]格[[幕府陸軍|陸軍]]付調役の肩書を得て、フランスへと渡航する。[[パリ万国博覧会 (1867年)|パリ万博]]を視察したほか、ヨーロッパ各国を訪問する昭武に随行する。各地で先進的な産業・軍備を実見すると共に、社会を見て感銘を受ける。ちなみにこの時に彼に語学を教えたのは、[[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト|シーボルト]]の長男で通訳として同行していた[[アレクサンダー・フォン・シーボルト|アレクサンダー]]である。帰国後もその交友は続き、アレクサンダーは弟の[[ハインリヒ・フォン・シーボルト|ハインリヒ]]と共に後に明治政府に勤めた渋沢に対して[[日本赤十字社]]設立など度々協力をするようになる。なお
 
フランス滞在中に、御勘定格陸軍付調役から[[外国奉行]]支配調役となり、その後[[開成所]]奉行支配調役に転じている。<ref>[http://www.shibusawa.or.jp/SH/denki/01.html#DK010030k 『渋沢栄一伝記資料』第1巻] - 渋沢栄一記念財団。</ref>
 
 
 
パリ万博とヨーロッパ各国訪問を終えた後、昭武はパリに留学するものの、[[大政奉還]]に伴い、[[慶応]]4年([[1868年]])5月には新政府から帰国を命じられ、[[9月4日 (旧暦)|9月4日]](1868年[[10月19日]])に[[マルセイユ]]から帰国の途につき、同年[[11月3日 (旧暦)|11月3日]]([[12月16日]])に[[横浜港]]に帰国した。
 
 
 
=== 大蔵省出仕〜実業家時代 ===
 
[[Image:Eiichi Shibusawa young.jpg|thumb|大蔵省時代]]
 
帰国後は静岡に謹慎していた慶喜と面会し、[[静岡藩]]より出仕することを命ぜられるも、慶喜より「これからはお前の道を行きなさい」との言葉を拝受した。その後、フランスで学んだ[[株式会社]]制度を実践することや、新政府からの拝借金返済のために、[[明治]]2年([[1869年]])1月に静岡で商法会所を設立した。ところが[[大隈重信]]に説得され、10月には[[大蔵省]]に入省することとなる。大蔵[[官僚]]としては[[民部省]][[改正掛]](当時、民部省と大蔵省は事実上統合されていた)を率いて改革案の企画立案を行ったり、[[度量衡]]の制定や[[国立銀行条例]]制定に携わった。しかし、[[予算]]編成を巡って、[[大久保利通]]や大隈重信と対立し、[[明治]]6年([[1873年]])に[[井上馨]]と共に退官した。明治8年([[1875年]])、[[商法講習所]]を設立する。
 
 
 
退官後間もなく、官僚時代に設立を指導していた第一国立銀行([[第一銀行]]、[[第一勧業銀行]]を経て、現:[[みずほ銀行]])の頭取に就任し、以後は実業界に身を置く。また、第一国立銀行だけでなく、[[七十七銀行|七十七国立銀行]]など多くの[[地方銀行]]設立を指導した。
 
 
 
第一国立銀行ほか、[[東京ガス|東京瓦斯]]、[[東京海上日動火災保険|東京海上火災保険]]、[[王子製紙 (初代)|王子製紙]](現[[王子製紙]]・[[日本製紙]])、[[田園都市 (企業)|田園都市]](現[[東京急行電鉄]])、秩父セメント(現[[太平洋セメント]])、[[帝国ホテル]]、[[秩父鉄道]]、[[京阪電気鉄道]]、[[東京証券取引所]]、[[キリンビール]]、[[サッポロビール]]、[[東洋紡|東洋紡績]]、[[大日本製糖]]、[[相馬半治#明治製糖設立|明治製糖]]など、多種多様の企業の設立に関わり、その数は500以上といわれている。1887年ころには、渋沢を慕う経営者や管理職が集まる龍門社が組織され、[[昭和]]初期には数千名の会員を数えた<ref>[https://www.u-bunkyo.ac.jp/center/library/image/eiron9-24.pdf  明治後半期における経営者層の啓蒙と組織化 渋沢栄一と龍門社]島田昌和、文教大学大学紀要、2000</ref>。
 
 
 
若い頃は頑迷なナショナリストだったが、「[[カリフォルニア州外国人土地法|外人土地所有禁止法]]」([[1912年]])に見られる日本移民排斥運動などで日米関係が悪化した際には、対日理解促進のために[[アメリカ]]の報道機関へ日本のニュースを送る通信社を立案。成功はしなかったが、これが現在の[[時事通信社]]と[[共同通信社]]の起源となった。
 
 
 
渋沢が[[三井八郎右衛門#8代高福|三井高福]]・[[岩崎弥太郎]]・[[安田善次郎]]・[[住友友純]]・[[古河市兵衛]]・[[大倉喜八郎]]などといった他の明治の財閥創始者と大きく異なる点は、「[[渋沢財閥]]」を作らなかったことにある。「私利を追わず公益を図る」との考えを、生涯に亘って貫き通し、後継者の[[渋沢敬三|敬三]]にもこれを固く戒めた。渋沢は財界引退後に「渋沢同族株式会社」を創設し、これを中心とする企業群が後に「渋沢財閥」と呼ばれたこともあったが、これは死後の財産争いを防止するために便宜的に[[持株会社]]化したもので、渋沢同族株式会社の保有する株は会社の株の2割以下、ほとんどの場合は数パーセントにも満たないものだった。
 
他の財閥当主が軒並み[[男爵]]どまりなのに対し、渋沢一人は[[子爵]]を授かっているのも、そうした公共への奉仕が早くから評価されていたためである。
 
[[昭和]]6年([[1931年]]) 死去。
 
 
 
== 人物 ==
 
=== 社会活動 ===
 
[[Image:Members of the Capital Restoration Board cropped.jpg|thumb|震災復興院委員: 左から渋沢、[[伊東巳代治]]、[[加藤高明]]]]
 
[[Image:Eiichi Shibusawa and dolls.jpg|thumb|渋沢と青い目の人形]]
 
 
 
渋沢は実業界の中でも最も社会活動に熱心で、東京市からの要請で養育院の院長を務めたほか、[[東京慈恵会]]、[[日本赤十字社]]、[[癩]]予防協会の設立などに携わり<!--、った。
 
また、渋沢自身が[[クリスチャン]]であった記録は今のところ見つかっていないが、[[キリスト教]]関係の社会活動を熱心に支援して、それら団体の要職を多数つとめた。--><!--特に意図的にキリスト教関係の社会活動を支援していたのではないので-->財団法人[[聖路加国際病院]]初代[[理事長]]、財団法人[[滝乃川学園]]初代理事長、[[YMCA]]環太平洋連絡会議の日本側議長など<!--多数にわたる。その他、設立間もない日本[[救世軍]]への支援--><!--救世軍はそもそも不特定多数の支援によって成り立ったいるので-->もした。
 
 
 
[[日露戦争]]開戦の前年にあたる明治36年([[1903年]])、対印貿易の重要性を認識していた渋沢は、[[大隈重信]]らとともに[[日印協会]]の設立に携わり<ref name="sankei0909">{{cite news|title=【ボースの遺骨を守ってもう一つの日印交流】(3)「日印協会」の変遷|newspaper=産経新聞|publisher=産経新聞社|date=2008-09-28}}</ref>、第3代会長をつとめた。
 
 
 
[[関東大震災]]後の復興のためには、大震災善後会副会長となり寄付金集めなどに奔走した。
 
 
 
当時は実学教育に関する意識が薄く、実業教育が行われていなかったが、渋沢は教育にも力を入れ[[森有礼]]と共に[[商法講習所]](現[[一橋大学]])、[[大倉喜八郎]]と大倉商業学校(現[[東京経済大学]])の設立に協力したほか、二松學舍(現[[二松學舍大学]])の第3代舎長に就任した。[[学校法人国士舘]](創立者・[[柴田徳次郎]])の設立・経営に携わり、井上馨に乞われ[[同志社大学]](創立者・[[新島襄]])への寄付金の取り纏めに関わった。また、男尊女卑の影響が残っていた女子の教育の必要性を考え、[[伊藤博文]]、[[勝海舟]]らと共に[[女子教育奨励会]]を設立、[[日本女子大学|日本女子大学校]]・[[学校法人東京女学館|東京女学館]]の設立に携わった。
 
 
 
また日本国際児童親善会を設立し、アメリカの人形([[青い目の人形]])と日本人形([[市松人形]])を交換するなどして、交流を深めることに尽力している。[[1931年]]には中国で起こった水害のために、中華民国水災同情会会長を務め[[義援金]]を募るなどし、民間外交の先駆者としての側面もある。なお渋沢は[[1926年]]と[[1927年]]の[[ノーベル平和賞]]の候補にもなっている。
 
[[File:The first Imperial Japan House of Lords plenary session munites No.4, 1890, page 1.jpg|thumb|帝国議会議事録<ref group="注釈">1890年12月15日、第1回帝国議会の貴族院予算委員会に出席すると同時に休暇を願い出て認められている。</ref>]]
 
 
 
=== 政治活動 ===
 
明治22年([[1889年]])から同37年([[1904年]])の15年間に渡り、[[深川区]]会議員を務め、区会議長にも選出され、深川の発展の為に尽くした。
 
 
 
また、この間に[[第1回衆議院議員総選挙]]に出馬の意思表明をしなかったものの東京5区([[本所区]]、深川区)にて94票を獲得、有効票とされ次点となった<ref>[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1350244/10 衆議院編『衆議院議員総選挙一覧』衆議院事務局、1912年、p.2]</ref>。1890年9月29日には[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員に勅選され、同年12月15日の第1回[[帝国議会]]貴族院[[本会議]]に出席したが、以降は出席せずに翌年1891年10月29日に辞任した。
 
 
 
1901年5月16日には[[井上馨]]内閣に大蔵大臣としての入閣を求められたが、これも辞退している<ref>[http://www.shibusawa.or.jp/SH/denki/27.html#DK270144k 『渋沢栄一伝記資料』第27巻] - 渋沢栄一記念財団。]</ref>。
 
 
 
=== 道徳経済合一説 ===
 
[[大正]]5年([[1916年]])に『論語と算盤』を著し、「道徳経済合一説」という理念を打ち出した。幼少期に学んだ『[[論語]]』を拠り所に倫理と利益の両立を掲げ、経済を発展させ、利益を独占するのではなく、国全体を豊かにする為に、富は全体で共有するものとして社会に還元することを説くと同時に自身にも心がけた。
 
『論語と算盤』にはその理念が端的に次のように述べられている。
 
{{quotation|富をなす根源は何かと言えば、仁義道徳。正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ。<ref>渋沢栄一『論語と算盤』([[角川ソフィア文庫]])([[角川学芸出版]] ISBN 978-4044090012 2008年10月25日)、22頁。</ref>}}
 
そして、道徳と離れた欺瞞、不道徳、[[権謀術数]]的な商才は、真の商才ではないと言っている。また、同書の次の言葉には、栄一の経営哲学のエッセンスが込められている。
 
{{quotation|事柄に対し如何にせば道理にかなうかをまず考え、しかしてその道理にかなったやり方をすれば国家社会の利益となるかを考え、さらにかくすれば自己のためにもなるかと考える。そう考えてみたとき、もしそれが自己のためにはならぬが、道理にもかない、国家社会をも利益するということなら、余は断然自己を捨てて、道理のあるところに従うつもりである。<ref>渋沢栄一『論語と算盤』([[角川ソフィア文庫]])([[角川学芸出版]] ISBN 978-4044090012 2008年10月25日)、49頁(一部の漢字を現代語風にひらがなに改めて引用)。</ref>}}
 
幕末に栄一と同じ観点から[[備中松山藩]]の[[藩政改革]]にあたった[[陽明学者]]・[[山田方谷]]の門人で、「義利合一論」(義=倫理・利=利益)を論じた[[三島中洲]]と知り合うと、両者は意気投合して栄一は三島と深く交わるようになる。栄一は、三島の死後に彼が創立した二松学舎の経営に深く関わることになる。
 
 
 
=== 天譴論 ===
 
関東大震災後に日本の言論界に、世の中の風潮が利己的、放漫になった時、自然が天譴として大災害を起こし改革を促す、と解釈した「天譴論」が流行したが、その口火を切ったのは渋沢だった<ref>[[筒井清忠]]『帝都復興の時代:関東大震災以後』中央公論新社 <中公新書>、2011年、ISBN 9784121100030 pp.114-120.</ref>。「天譴」は腐敗した[[ブルジョア]]や近代産業文明を批判し、平等や自然回帰を賛美する[[流行語]]となったが、不自然さや偽善性を感じた人も少なくなかった。主唱者だった渋沢も「天譴だと言う人は、本当にこれを天譴と思って居るのではないかも知れませぬから」と苦言を呈するようになった。
 
 
 
=== エピソード ===
 
[[File:Eiichi Shibusawa-1.jpg|thumb|「渋沢栄一像」(東京都千代田区大手町 2018年2月6日撮影)]]
 
* 日本史上を代表する経済人として、また初代紙幣頭(後の印刷局長)として[[日本銀行券]]([[紙幣]])の肖像の候補者として過去に何回か挙げられたものの実現には至っていない。特に[[千円紙幣|日本銀行券C千円券]](1963年11月1日発行開始)の肖像候補として最終選考に残ったが、結局[[伊藤博文]]が採用された。当時は偽造防止に、主に肖像にヒゲがある人物が用いられていたためである([[五百円紙幣]]は[[岩倉具視]]でヒゲがなかった)。採用を見送られた千円紙幣のデザインは[[お札と切手の博物館]]の展示物で確認することが可能である。
 
* 日本では渋沢の肖像を入れた紙幣は発行されなかったが、1902年から1904年にかけて[[大韓帝国]]で発行された初期の第一銀行券の1円、5円、10円券には当時の経営者だった渋沢の肖像が描かれていた。ちなみに、この第一銀行券を「一国の紙幣が日本の民間銀行の銀行券を使用しているのはいかがなものか」と韓国独自の[[中央銀行]](後の[[朝鮮銀行]])へと切り替えたのは[[韓国統監]]時代の伊藤博文である<ref>[[多田井喜生]]「朝鮮銀行」PHP新書</ref>。
 
* 出身の[[深谷市]]では、栄一の命月の11月が「渋沢栄一記念月間」に指定され、毎年イベントが催されている。埼玉県子ども会育成連絡協議会が発行した『さいたま郷土かるた』の「に」の項目は「日本の産業育てた渋沢翁」となっており、[[畠山重忠]]、[[塙保己一]]と並ぶ埼玉を代表する偉人として、3人札(役札:3枚そろえると10点)に選出されている。また『彩の国21世紀郷土かるた』の「え」の項目は「栄一も食べたネギ入り煮ぼうとう」となっている。これは深谷[[ネギ|ねぎ]]が栄一の故郷の深谷の特産品であることと、[[煮ぼうとう]]が埼玉県北部の郷土料理であることにちなんでいる。
 
* 現在埼玉県では渋沢の功績にちなみ、健全な企業活動と社会貢献を行っている全国の企業経営者に「[[渋沢栄一賞]]」を授与している。
 
 
 
== 栄典 ==
 
;位階
 
* 明治3年
 
** [[3月 (旧暦)|3月]] - [[正七位]]<ref name="sibusawa">{{アジア歴史資料センター|A10112538500|正四位勲四等男爵渋沢栄一以下十七名勲位進級及初叙ノ件}}</ref>
 
** [[8月24日 (旧暦)|8月24日]] - [[従六位]]<ref name="sibusawa"/>
 
* 明治4年
 
** [[5月9日 (旧暦)|5月9日]] - [[正六位]]<ref name="sibusawa"/>
 
** [[12月12日 (旧暦)|12月12日]] - [[従五位]]<ref name="sibusawa"/>
 
* 明治5年[[10月8日 (旧暦)|10月8日]] - [[正五位]]<ref name="sibusawa"/>
 
* [[1888年]](明治21年)[[5月15日]] - [[従四位]]<ref name="sibusawa"/><ref>『官報』第1475号「叙任及辞令」1888年6月1日。</ref>
 
* [[1900年]](明治33年)[[6月20日]] - [[正四位]]<ref name="sibusawa"/>
 
 
 
;勲章等
 
* [[1888年]](明治21年)[[5月31日]] - [[黄綬褒章|金製黄綬褒章]]<ref name="sibusawa"/>
 
* [[1892年]](明治25年)[[7月19日]] - [[瑞宝章|勲四等瑞宝章]](民間人初の叙勲)<ref>『官報』第2719号「叙任及辞令」1892年7月21日。</ref>
 
* [[1900年]](明治33年)[[5月9日]] - [[男爵]]<ref name="sibusawa"/><ref>『官報』号外「授爵叙任及辞令」1900年5月9日。</ref>
 
* [[1902年]](明治35年)[[2月22日]] - [[瑞宝章|勲三等瑞宝章]]<ref>『官報』第5589号「叙任及辞令」1902年2月24日。</ref>
 
* [[1911年]](明治44年)[[8月24日]] - [[瑞宝章|勲一等瑞宝章]]<ref>『官報』第8454号「叙任及辞令」1911年8月25日。</ref>
 
* [[1915年]](大正4年)[[11月10日]] - [[記念章|大礼記念章]]<ref>『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。</ref>、[[旭日章|旭日大綬章]]<ref>『官報』号外「叙任及辞令」1915年11月10日。</ref>
 
* [[1928年]](昭和3年)11月10日 - [[勲一等旭日桐花大綬章|旭日桐花大綬章]]<ref>『官報』号外「授爵・叙任及辞令」1928年11月10日。</ref>
 
* [[1930年]](昭和5年)
 
**[[5月21日]] - [[紺綬褒章]]飾版<ref>『官報』第1016号「彙報 - 褒章」1930年5月22日。</ref>
 
**[[12月5日]] - [[記念章#賞勲局所管の記念章|帝都復興記念章]]<ref>『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。</ref>
 
 
 
;外国勲章佩用允許
 
* [[1889年]](明治22年)[[6月8日]] - [[ドイツ帝国]]:王冠第三等勲章<ref>『官報』第1782号「叙任及辞令」1889年6月10日。</ref>
 
* 1915年(大正4年)[[5月3日]] - [[中華民国の歴史|支那共和国]]:一等嘉禾章<ref>『官報』第825号「叙任及辞令」1915年5月5日。</ref>
 
 
 
;賞杯等
 
* [[1877年]](明治10年)[[4月27日]] - [[賞杯|銀盃一個]]<ref name="sibusawa"/>
 
* [[1878年]](明治11年)
 
** [[4月30日]] - 銀盃一個<ref name="sibusawa"/>
 
** [[8月]] - 銀盃一個<ref name="sibusawa"/>
 
* [[1879年]](明治12年)[[12月]] - 銀盃一個<ref name="sibusawa"/>
 
* [[1880年]](明治13年)
 
** [[4月]] - 銀盃一個<ref name="sibusawa"/>
 
** [[12月]] - [[賞杯|木杯一組]]・銀盃一個<ref name="sibusawa"/>
 
* [[1881年]](明治14年)
 
** [[3月]] - 銀盃一個<ref name="sibusawa"/>
 
** [[9月]] - 銀盃一個<ref name="sibusawa"/>
 
* [[1885年]](明治18年)[[10月13日]] - [[賞杯|木杯一個]]<ref name="sibusawa"/>
 
* [[1886年]](明治19年)
 
** [[12月7日]] - 木杯一組<ref name="sibusawa"/>
 
** [[12月24日]] - 木杯一組・木杯一個<ref name="sibusawa"/>
 
* [[1887年]](明治20年)[[12月20日]] - 木杯一個<ref name="sibusawa"/>
 
* [[1888年]](明治21年)[[5月31日]] - 木杯一組・木杯一個<ref name="sibusawa"/>
 
* [[1890年]](明治23年)
 
** [[3月27日]] - 木杯一個<ref name="sibusawa"/>
 
** [[4月3日]] - 銀盃一組<ref name="sibusawa"/>
 
** [[12月15日]] - 木杯一個<ref name="sibusawa"/>
 
* [[1891年]](明治24年)
 
** [[7月8日]] - 木杯一組<ref name="sibusawa"/>
 
** [[11月30日]] - 木杯一組<ref name="sibusawa"/>
 
* [[1892年]](明治25年)
 
** [[3月11日]] - 木杯一組<ref name="sibusawa"/>
 
** [[6月15日]] - 木杯一個<ref name="sibusawa"/>
 
* [[1893年]](明治26年)[[6月6日]] - 木杯一組<ref name="sibusawa"/>
 
* [[1894年]](明治27年)
 
** [[4月13日]] - 木杯一組<ref name="sibusawa"/>
 
** [[4月17日]] - 木杯一組<ref name="sibusawa"/>
 
* [[1895年]](明治28年)[[3月1日]] - 木杯一個<ref name="sibusawa"/>
 
* [[1896年]](明治29年)[[3月2日]] - [[賞杯|銀牌]]<ref name="sibusawa"/>
 
* [[1897年]](明治30年)[[6月1日]] - 銀盃一個<ref name="sibusawa"/>
 
* [[1899年]](明治32年)
 
** [[10月24日]] - [[賞杯|銀盃一組]]<ref name="sibusawa"/>
 
** [[12月6日]] - 銀盃一組<ref name="sibusawa"/>
 
** [[12月19日]] - 木杯一組<ref name="sibusawa"/>
 
* [[1910年]](明治43年)[[1月21日]] - [[賞杯|金杯一組]]<ref>『官報』第7977号「叙任及辞令」1910年1月28日。</ref>
 
 
 
== 系譜 ==
 
* 江戸末期、血洗島村には渋沢姓を名乗る家が17軒あった。このため、家の位置によって「東ノ家」「西ノ家」「中ノ家」「前ノ家」「新屋敷」などと呼んで区別した。栄一の父・市郎右衛門は「東ノ家」の当主二代目[[渋沢宗助|渋沢宗助宗休]]([[渋沢儀刑]]の子である初代[[渋沢宗助 (江戸時代中期)|渋沢宗助宗安]]の子)の三男としてうまれたが、「中ノ家」に養子にはいったのである。[[明暦]]年間の「中ノ家」は小農にすぎなかったが、栄一がうまれるころになると村の中で二番目の財産家となっていた。栄一が故郷を出てからは妹の貞子が「中ノ家」を守り、須永家より[[渋沢市郎]]をむかえ4代目とした。貞子・市郎夫妻の長男[[渋沢元治|元治]]は初代[[名古屋大学]]総長となった。
 
* 栄一は渋沢家の分家「中ノ家」の出だが、本家「東ノ家」からは[[フランス文学者]]の[[澁澤龍彦]]が出ている。
 
* 栄一は[[尾高惇忠 (実業家)|尾高惇忠]]の妹・千代と結婚したが、千代は[[1882年]](明治15年)に死去し、翌年に伊藤兼子と再婚した。兼子の父は[[武蔵国]][[川越市|川越]]出身の大富豪・[[伊藤八兵衛]]で、画家の[[淡島椿岳]]は八兵衛の実弟、作家の[[淡島寒月]]は甥にあたる。
 
<br>
 
<hr>
 
* '''渋沢氏(中ノ家)'''
 
<pre>
 
 ∴
 
渋沢市郎右衛門
 
 ┃
 
 ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━┓
 
 ┃                                 ┃        ┃
 
渋沢栄一                              渋沢市郎(婿養子)  貞子
 
 ┃                                 ┃
 
 ┣━━━━┳━━━━━━━━━┳━━━━┳━━━┳━━┳━━┓   ┃
 
 ┃    ┃         ┃    ┃   ┃  ┃  ┃   ┃
 
渋沢篤二 渋沢武之助     渋沢正雄 渋沢秀雄 歌子 琴子 愛子 渋沢元治
 
 ┃              ┃    ┃
 
 ┣━━━━┳━━━━━┓   ┃    ┣━━━━━┓ 
 
 ┃    ┃     ┃   ┃    ┃     ┃
 
渋沢敬三 渋沢信雄  渋沢智雄 純子   華子   渋沢和男
 
 ┃
 
 ┣━━━━┳━━━━━┓
 
 ┃    ┃     ┃
 
渋沢雅英  紀子    黎子
 
 ┃
 
 ┣━━━━┓
 
 ┃    ┃
 
 男    女
 
</pre>
 
 
 
=== 家族・親族 ===
 
[[File:Eiichi Shibusawa in his final days.jpg|thumb|最晩年の渋沢を囲む家族。左から3人目は長男の[[渋沢篤二|篤二]]。(1931年9月6日)]]
 
; 妻
 
* 千代(1841年 - 1882年) - 歌子、琴子、[[渋沢篤二|篤二]]の母。[[コレラ]]で死亡。[[尾高惇忠 (実業家)|尾高惇忠]]の妹であり、栄一とは従兄妹同士。
 
* 兼子 - [[渋沢武之助|武之助]]、[[渋沢正雄|正雄]]、愛子、[[渋沢秀雄|秀雄]]の母。兼子は[[水戸藩]]の金子御用達であった[[深川]]油堀の伊勢八([[伊藤八兵衛]])の娘で婿を取って家を継いだが、実家が没落し、夫と離縁した。[[芸者]]になるために[[両国]]の口入れ屋に頼んだところ、渋沢の妾口の話が持ち上がり、後添えとなった。奇しくも当時の渋沢の家は兼子の実家が没落時に手放したものだったという<ref>[http://www.aozora.gr.jp/cards/000726/files/4329_28181.html 『明治美人伝』][[長谷川時雨]]、1921</ref>。
 
*妾・大内くに(1853年 - ?<ref>[http://www.seikyusha.co.jp/wp/rennsai/yohakuni/blank94.html 日記に見る雪中行軍の時代]青弓社、2010-08-26 </ref>) - ふみ、照子の実母。のちに漢学者の後妻となる。
 
 
 
; 子<ref group="注釈">[[庶子]]を合わせると20人くらいになるという。澁澤は女性関係が派手だったようで、大蔵省時代には自宅に妾と同居していたこともある。</ref>
 
庶子を含め多数の子があった(親族談によると約50人)が、相続権のある7人の子によって渋沢同族会が結成された<ref name=grips>[http://www3.grips.ac.jp/~oralreport/view?item=100039 澁澤雅英オーラルヒストリー 澁澤栄一記念財団理事長 ]政策研究大学院大学</ref>。
 
* 長男:[[渋沢篤二|篤二]] (1872年 - 1942年) - 伯爵・[[橋本実梁]]の娘である妻・敦子と子供たちを置いて家を出、新橋の芸者・玉蝶と白金三光町で暮らし始めたため、遊蕩を理由に廃嫡される<ref>[[佐野眞一]]著『渋沢家三代』文集新書</ref>。
 
* 二男:[[渋沢武之助|武之助]] - [[石川島飛行機製作所]]2代目社長<ref name=yanaka/>
 
* 三男:[[渋沢正雄|正雄]](1888年 - 1942年) - 長男の廃嫡により家督を継ぐ。[[立川飛行機|日本製鐵]]副社長。石川島飛行機製作所初代社長<ref name=yanaka>[http://ya-na-ka.sakura.ne.jp/shibusawaMasao.htm 渋沢正雄]谷中・桜木・上野公園路地裏徹底ツアー</ref>。
 
* 四男:[[渋沢秀雄|秀雄]](1893年 - 1984年) - [[東京宝塚劇場]]会長、[[東宝]]取締役会長。
 
* 長女:歌子(1863年 - 1932年) - 法学者の[[穂積陳重]][[男爵]]に嫁ぐ。著書に『穂積歌子日記』。
 
* 二女:琴子(1870年 - 1925年) - 大蔵大臣となった[[阪谷芳郎]][[子爵]]に嫁ぐ。
 
* 三女:愛子(1890年 - ?) - 第一銀行社長となった[[明石照男]]に嫁ぐ。
 
* 庶子:ふみ - 東洋生命社長となった[[尾高次郎]]に嫁ぐ。次郎は千代の兄の子。
 
* 庶子:照子(? - 1927年) - 富士製紙社長となった[[大川平三郎]]に嫁ぐ。平三郎は千代の姉の子。
 
* 庶子:[[星野辰雄]](1893年 - ?) - 東京印刷社長・[[星野錫]]の養子になり、のち[[立教大学]]教授。歌子の夫・[[穂積陳重]]の弟・[[穂積八束]]の次女と結婚。
 
* 庶子:[[長谷川重三郎]](1908年 - 1985年) - 第一銀行頭取。
 
 
 
; 養子
 
* [[渋沢平九郎|平九郎]](? - 1868年) - 千代の弟。[[能仁寺 (飯能市)|飯能戦争]]で新政府軍に敗れて自決。
 
 
 
; 孫
 
* [[渋沢敬三]] - [[子爵]]、民俗学者、日銀総裁、大蔵大臣。父・[[渋沢篤二|篤二]]の廃嫡後に祖父・栄一より後継者に指名される。
 
* [[渋沢信雄]] - 貿易商。妻は音楽教育家[[齋藤秀雄]]の妹。
 
* [[渋沢智雄]] - 渋沢倉庫常務。
 
* [[渋沢和男]] - [[アコーディオン]]演奏者、音楽家。[[渋沢秀雄|秀雄]]の長男。
 
* [[渋沢華子]] - 小説家。[[渋沢秀雄|秀雄]]の娘で和男の姉妹。
 
* 鮫島純子 - 正雄の娘。鮫島員重([[岩倉具視]]の曽孫、[[鮫島具重]]の子)の妻。『祖父・渋沢栄一に学んだこと』『なにがあっても、ありがとう』など著書あり。
 
* [[阪谷希一]] ‐ [[満州国]][[総務庁 (満州国)|総務庁次長]]。[[中国聯合準備銀行]]顧問。
 
* [[穂積重遠]] - 法学者、最高裁判事。
 
* [[穂積真六郎]] - [[朝鮮総督府]]殖産局長から朝鮮商工会議所会頭。のち参議院議員。
 
* [[尾高豊作]] - 実業家、教育者。
 
* [[尾高朝雄]] - 法哲学者。
 
* [[尾高邦雄]] - 社会学者。妻は哲学者[[和辻哲郎]]の娘。
 
* [[尾高尚忠]] - 指揮者、作曲家。
 
* [[明石正三]] - 足利銀行監査役。
 
* [[明石武和]] - 味の素常務。
 
 
 
; 曾孫
 
* [[澁澤寿一|渋沢寿一]] - NPO法人樹木環境ネットワーク協会専務理事。
 
* [[渋沢雅英]] - 渋沢栄一記念財団理事長、[[東京女学館]]理事長、[[イニシアティブス・オブ・チェンジ]]顧問。
 
* [[阪谷芳直]] - 銀行家、エコノミスト、思想家、翻訳家。
 
* [[穂積重行]] - 西洋史学者。
 
* [[岩佐美代子]] - 国文学者。
 
* [[石黒孝次郎]] - 古美術商、レストラン経営者。
 
* 久留都茂子 - 東京女学館短期大学学長。
 
* [[尾高煌之助]] - 経済学者。
 
* [[尾高惇忠 (作曲家)|尾高惇忠]] - 作曲家。
 
* [[尾高忠明]] - 指揮者。
 
* 河野典子 - [[河野雅治]]駐ロシア特命全権大使の妻。
 
* [[大川慶次郎]] - 競馬評論家。
 
* [[諸井勝之助]] - 会計学者。[[諸井貫一]](渋沢家・尾高家の遠戚)の婿養子。<!--
 
 
 
; 玄孫
 
* [[渋沢健]] - シブサワ・アンド・カンパニー代表取締役、コモンズ投信会長。
 
* [[長谷川三千子]] - 哲学者、評論家。
 
 
 
; 来孫
 
* [[橋本岳]] - 衆議院議員。--><!-- 本人存命中に存在しません -->
 
 
 
{{See also|尾高惇忠 (実業家)#系図|穂積家 (伊予国)#系図|諸井恒平#系図}}
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
 
 
=== 注釈 ===
 
{{Reflist|group=注釈}}
 
 
 
=== 出典 ===
 
{{reflist|2}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
=== 史料 ===
 
*『渋沢栄一伝記資料集』〈第1 - 58巻〉(渋沢栄一伝記史料刊行会、1955年 - 1965年)
 
*『渋沢栄一伝記資料集』〈別巻第1 - 10巻〉(渋沢青淵記念財団竜門社、1966年 - 1971年)
 
*『渋沢栄一滞仏日記』〈日本史籍協会叢書〉(日本史籍協会、1928年)
 
 
 
=== 主な著書 ===
 
* 『渋沢栄一全集』(全6巻) [[平凡社]]、[[1930年]]
 
* 『青淵百話』 同文舘、[[1931年]]
 
* 『雨夜譚 渋沢栄一自伝』([[長幸男]]校注、[[岩波文庫]]、[[1984年]])
 
* 『論語と算盤』 [[国書刊行会]]、[[1985年]]/[[角川ソフィア文庫]]、2008年
 
* 『論語講義』(全7巻:[[講談社学術文庫]]、[[1977年]]) 
 
* 『渋沢百訓 論語・人生・経営』 角川ソフィア文庫、[[2010年]]
 
* 『現代語訳 渋沢栄一自伝』 [[守屋淳]]編訳、[[平凡社新書]]、[[2012年]] 
 
 
 
=== 伝記・評伝研究 ===
 
* [[白石喜太郎]] {{Google books|LBR07q_QAAQC|『渋沢栄一翁』(刀江書院, 1933年)|page=|plainurl=}}
 
* [[幸田露伴]] 『渋沢栄一伝』 [[岩波書店]]、[[1939年]]、復刊[[1986年]]ほか
 
* [[渋沢秀雄]] 『渋沢栄一』 渋沢青淵記念財団竜門社、[[1951年]]
 
**『父 渋沢栄一』(実業之日本社(上下)、1959年)、『渋沢栄一』(時事通信社、1965年)、
 
** 『明治を耕した話 父・渋沢栄一』(青蛙房、1977年)ほか、改訂再刊を含め多くの著作がある。
 
* [[渋沢雅英]] 『太平洋にかける橋―渋沢栄一の生涯』 [[読売新聞社]]、[[1970年]]/不二出版、2017年
 
* [[渋沢華子]] 『渋沢栄一、パリ万博へ』 [[国書刊行会]]、[[1995年]]
 
* 鮫島純子 『祖父・渋沢栄一に学んだこと』 文藝春秋、2010年
 
* [[土屋喬雄]] 『渋沢栄一』 [[吉川弘文館]]〈[[人物叢書]]〉、新装版[[1989年]]
 
* [[木村昌人]] 『渋沢栄一』 [[中公新書]]、[[1991年]]
 
* [[山本七平]] 『渋沢栄一 近代の創造』 新版・[[祥伝社]]、2009年
 
* [[鹿島茂]] 『渋沢栄一 (I 算盤篇、II 論語篇)』、[[文藝春秋]]、[[2011年]]/[[文春文庫]](上下)、2013年
 
*: 「サン=シモン主義者 渋沢栄一」の題名で、『[[諸君!]]』[[1999年]]8月号から長期連載したが長らく未刊であった。
 
* [[坂本慎一]] 『渋沢栄一の経世済民思想』 [[日本経済評論社]]、[[2002年]]
 
* [[見城悌治]] 『渋沢栄一 「道徳」と経済のあいだ』 [[日本経済評論社]]〈評伝・日本の経済思想〉、[[2008年]] ISBN 9784818820241
 
* [[東京商工会議所]]編 『渋沢栄一 日本を創った実業人』 [[講談社]]+α文庫、2008年、ISBN 9784062812351
 
* [[島田昌和]] 『渋沢栄一 社会企業家の先駆者』 [[岩波新書]]、[[2011年]]
 
* [[佐野眞一]] 『渋沢家三代』 [[文春新書]]、[[1998年]]
 
* [[宮本又郎]]編著『渋沢栄一 日本近代の扉を開いた財界リーダー』PHP研究所、2016年
 
 
 
==== 歴史小説 ====
 
*[[大佛次郎]] 『激流 渋沢栄一の若き日』 未知谷(新版)、[[2009年]]
 
*[[城山三郎]] 『[[雄気堂々]]』 [[新潮文庫]](上下)、改版[[2003年]]
 
*[[童門冬二]] 『渋沢栄一 人間の礎』 [[学陽書房]]〈人物文庫〉、[[1998年]]
 
*[[津本陽]] 『小説 渋沢栄一』 新版・[[幻冬舎文庫]](全2巻)、[[2007年]]
 
 
 
== 渋沢栄一が登場する作品 ==
 
* 主人公
 
** [[雲を翔びこせ]](テレビドラマ、[[TBSテレビ|TBS]]、1978年、演:[[西田敏行]])
 
** [[雄気堂々]](テレビドラマ、[[城山三郎]]原作、[[日本放送協会|NHK]]、1982年、演:[[滝田栄]])
 
* その他
 
** [[風雪 (テレビドラマ)|風雪]] 第13話「富の足音」(テレビドラマ、NHK、1964年、演:[[増田順司]])
 
** [[天皇の世紀]](テレビドラマ、大佛次郎原作、[[朝日放送]]、1971年、演:[[山本亘]])
 
** [[獅子の時代]]([[大河ドラマ]]、NHK、1980年、演:[[角野卓造]])
 
** [[帝都物語]]([[荒俣宏]]の小説、1988年に映画化、演:[[勝新太郎]])
 
** [[筆子・その愛 -天使のピアノ-]](映画、2007年、演:[[平泉成]])
 
** [[さくら、さくら 〜サムライ化学者・高峰譲吉の生涯〜]](映画、2010年、演:[[松方弘樹]])
 
** [[猛き黄金の国 -士魂商才!岩崎彌太郎の青春-]]([[宝塚歌劇団]]のミュージカル、[[本宮ひろし]]の漫画『猛き黄金の国』が原作、演:[[飛鳥裕]])
 
** [[あさが来た]]([[連続テレビ小説]]、NHK、2015年、演:[[三宅裕司]])
 
 
 
== 関連項目 ==
 
[[ファイル:151101 Komaki Onsen Shibusawa Park Misawa Aomori pref Japan07s3.jpg|thumb|旧三田綱町邸(渋沢公園内)]]
 
* [[古牧温泉]] - 渋沢公園内に旧三田綱町邸が移築保存されている。
 
* [[渋沢財閥]]
 
* [[渋沢栄一記念館]]
 
* [[渋沢史料館]] - 渋沢栄一の生涯と事績に関する博物館。現存する旧本邸の建物(晩香廬、青淵文庫)を公開。
 
* [[誠之堂]]
 
* [[南湖神社]] - [[松平定信]]公が祭神。建てられる際に渋沢も支援している。
 
* [[本山白雲]] - 戦前建てられていた渋沢栄一の銅像の作者。
 
* [[吉田清成]]
 
* [[蜂須賀茂韶]] - 渋沢の旧三田綱町邸の近くに本邸があった[[華族]]([[侯爵]])。実業家でもある。[[徳島藩]]最後の藩主。
 
 
 
== 外部リンク ==
 
{{commonscat|Shibusawa Eiichi}}
 
{{Wikiquote|渋沢栄一}}
 
*[http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/104.html?cat=40 渋沢栄一 | 近代日本人の肖像]
 
*{{青空文庫著作者|1565|渋沢 栄一}}
 
*{{Kotobank|渋沢栄一|2=朝日日本歴史人物事典}}
 
*[http://www.shibusawa.or.jp/ 渋沢栄一記念財団]
 
*[http://www.city.fukaya.saitama.jp/shibusawa_eiichi/index.html 渋沢栄一ミュージアム(深谷市サイト内)]
 
<!--* [http://kotoukai.jimdo.com 北辰一刀流兵法 虎韜館] 渋沢は北辰一刀流を学んでいますが、この道場との関連性が見えないためコメントアウト 2015年1月-->
 
{{-}}
 
{{Start box}}
 
{{S-reg|jp}}
 
{{Succession box
 
| title  = 子爵
 
| years  = 渋沢家初代<br />1920年 - 1931年
 
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| years  = 渋沢家初代<br />1900年 - 1920年
 
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| after  = (陞爵)
 
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{{s-other}}
 
{{Succession box
 
| title  = [[修養団#後援会|修養団後援会]]会長
 
| years  = 初代<br />1925年 - 1931年
 
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| after  = [[小倉正恆]]
 
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{{Succession box
 
| title  = [[滝乃川学園]]理事長
 
| years  = 第3代<br />1921年 - 1931年
 
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| after  = [[沢田廉三]]
 
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 +
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[[Category:渋沢栄一|*]]
 
[[Category:渋沢栄一|*]]

2019/5/7/ (火) 09:25時点における最新版

渋沢 栄一(しぶさわ えいいち、天保11年2月13日1840年3月16日) - 昭和6年(1931年11月11日

明治・大正期の実業家,財界の指導者。生家は村名主で,農業のほか藍玉の商業も営んでいた。栄一は年少の頃から家業に従事したが,のち才幹を認められて一橋慶喜 (のち将軍) に仕え,慶応3 (1867) 年将軍慶喜の弟昭武に随行して渡欧した。明治維新後明治政府に仕官し,近代的財政,金融,貨幣制度の導入に尽力した。 1873年退官し,第一国立銀行の頭取となり,以後明治期を通じて民間の銀行,産業および実業家団体の育成と指導に大きな役割を演じ,関係会社は数百に上った。 1916年第一銀行を除いて関係会社から退き,社会公共事業に余生をおくった。福沢諭吉と並んで日本の経済近代化の最大の功労者である。



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