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'''浄瑠璃'''(じょうるり)は、[[三味線]]を[[伴奏]]楽器として[[太夫]]が{{読み仮名|詞章|ししょう}}を語る音曲・劇場音楽である。
 
  
詞章が単なる[[歌]]ではなく、劇中人物の[[台詞|セリフ]]やその仕草、演技の描写をも含み、語り口が[[叙事詩|叙事]]的な力強さを持つ。このため浄瑠璃を口演することは「歌う」ではなく「語る」と言い、浄瑠璃系統の[[音曲]]をまとめて{{読み仮名|'''[[語りもの|語り物]]'''|かたりもの}}と呼ぶ。
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'''浄瑠璃'''(じょうるり)
  
江戸時代初期以降、個々の太夫の口演が「――節」<!-- 単語の省略にはリーダーは通常は使わない(「……節」としない)が、こういったケースは2017-03-05時点の表記ガイドでは想定していないようで、規定が見当たらない。ここでは和文倍角ダッシュを意図してホリゾンタルバー2つとした。 -->と呼ばれるようになり、その後流派として成立して、現在は[[義太夫節]]<ref group="注">義太夫節は浄瑠璃の一流派であるが、上方では義太夫節以外の[[一中節]]・[[豊後節]]・[[宮薗節]]などが早くに廃れたため、「浄瑠璃」がもっぱら義太夫節を意味する場合がある。</ref>・[[河東節]]・[[一中節]]・[[常磐津節]]・[[富本節]]・[[清元節]]・[[新内節]]・[[宮薗節]](薗八節)の8流派が存在する<!-- これら以外の再興の動きもあるかもしれないが、2017年の時点で一般に現存すると考えられているのはこの8流派。 -->。
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三味線を伴奏とする語り物音楽の一種。平曲,幸若,説経などの語り物の影響を受け,『浄瑠璃十二段草子』 (『浄瑠璃姫物語』ともいう) が 15世紀後半までに成立し,好評を博した。これにより浄瑠璃という新しい語り物が生れ,琉球から渡来した三絃,および傀儡師(かいらいし) の人形と結びついて,16世紀末~17世紀初めに舞台芸術としての人形浄瑠璃が成立した。以後[[古浄瑠璃]]時代を経て,17世紀末,竹本義太夫と近松門左衛門により浄瑠璃の主流としての[[義太夫節]]が生れ,『曾根崎心中』『心中天の網島』など,近世庶民の生活を描く世話浄瑠璃に傑作が続出した。義太夫,近松の死後もその後継者により,『菅原伝授手習鑑』『義経千本桜』『仮名手本忠臣蔵』などの時代物傑作が作られ,人形浄瑠璃は歌舞伎をしのぐほどの隆盛をきわめたが,18世紀中期以後は発展が止り,古典化した。このほか,豊後節の系統をひく常磐津,富本,清元,新内などは,歌舞伎の劇場音楽として,あるいは座敷浄瑠璃として近世後期,江戸で発達した。また,江戸の古浄瑠璃の系統をひく河東節や,京都における豊後節以前の浄瑠璃である一中節,あるいは豊後系の宮薗節などは,いずれも江戸においておもに座敷浄瑠璃として行われ,現在では古典として扱われている。
  
単独で'''素浄瑠璃'''として演じられるほか、流派によっては[[人形劇]]である[[人形浄瑠璃]]として([[文楽]]など<!-- 2017-03-05時点では[[人形浄瑠璃]]は[[文楽]]へのリダイレクトだが、文楽は人形浄瑠璃の一流派であり、本来は別立項するべき -->)、[[歌舞伎]]音楽として、[[日本舞踊]]の伴奏として演じられる(流派ごとの上演形態については[[#各流派の上演形態|後述]])。<!-- https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=浄瑠璃&diff=43519054&oldid=41026379 で、同じ義太夫節の作品でも人形浄瑠璃と歌舞伎での上演の際には相違があることが加筆されているが(出典 <http://www6.ocn.ne.jp/~aoidayu/sekai/cyobokou.htm> はリンク切れ)、義太夫節に特有の事項なので、当記事ではなく、記事「義太夫節#演出面から見た人形浄瑠璃と丸本歌舞伎」 <https://ja.wikipedia.org/wiki/義太夫節#.E6.BC.94.E5.87.BA.E9.9D.A2.E3.81.8B.E3.82.89.E8.A6.8B.E3.81.9F.E4.BA.BA.E5.BD.A2.E6.B5.84.E7.91.A0.E7.92.83.E3.81.A8.E4.B8.B8.E6.9C.AC.E6.AD.8C.E8.88.9E.E4.BC.8E> での言及が妥当であろう -->
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{{テンプレート:20180815sk}}
 
 
== 歴史 ==
 
=== 起源 ===
 
[[Image:Bunraku_kugutsu.png|thumb|傀儡子]]
 
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]ごろの[[御伽草子]]の一種『[[浄瑠璃十二段草子]]』。作者は「百家系譜」によれば[[小野阿通]]という[[織田信長]]に仕える侍女で、大病のため静養していた信長のために[[三味線]]を用いて語ったという説が[[江戸時代]]までは有力であったが、現在までに様々な学者により議論が進められ、享禄4年(1531年)の「宗長日記」には、少なくともそれ以前から'''浄瑠璃'''(十二段草紙)が存在していた、との記述があり、それを[[当道座]]に所属していた[[琵琶法師]]によって、[[平曲]](平家物語を琵琶により伴奏して語ったもの)に次ぐ新たなものとして扱われ、滝野検校によって節づけがなされ、はじめ[[琵琶]]で演奏されていたものが、虎沢検校に師事した沢住検校によって[[三味線]]を用いて語るようになり、それを[[小野阿通]]が信長に聞かせたという説が一般的である。
 
 
 
; 浄瑠璃物語(浄瑠璃姫十二段草紙)
 
: 浄瑠璃御前(浄瑠璃姫、もしくは三河国矢矧宿の遊女)と[[源義経|牛若丸]]の情話に[[薬師如来]]など霊験譚をまじえたものを語って[[神]][[仏]]の功徳を説いた芸能者にあるとするのが通説であり、「'''浄瑠璃'''」の名もここから生まれたものである。その内容はだいたいにおいて[[享禄]]年間(1528–32年)には完成していたと考えられる。最初期は[[平曲]]、[[謡曲]]、[[説経節]]などの節付けに学んで扇拍子を伴奏にしたようだが、[[永禄]]年間(1558–1570年)に[[琉球]]から[[三線]]が渡来し、これが[[三味線]]へと発達するにしたがって飛躍的な成熟を遂げることになる。三味線をいち早く音曲に取入れたのは[[上方]]の[[盲人]]であったが([[地歌|上方地歌]])、沢住検校が浄瑠璃と合体させ、さらに[[文禄]]年間(1593–1596年)にいたってこれが[[傀儡子]](くぐつし)の伴奏として用いられるようになり、現在にまでいたる浄瑠璃音曲が完成してゆく。浄瑠璃姫十二段草紙の構成は下記のとおり。
 
:* 一段 「申し子の段」 - 姫父母の素性。申し子すなわち神仏に子を願うこと。浄瑠璃の由来。
 
:* 二段 「花そろえの段」 - 姫の庭に咲く美しい花の描写。
 
:* 三段 「美人そろえの段」 - 姫の侍女たちの美を形容。
 
:* 四段 「そとの管弦の段」 - 姫と侍女たちの管弦に、牛若丸が門外で笛を合わせる。
 
:* 五段 「笛の段」 - 牛若の服装と容姿の美に侍女たちが騒ぐ。
 
:* 六段 「使ひの段」 - 姫が使いを出し歌によって牛若の心を引き、謎かけをする。
 
:* 七段 「忍びの段」 - 牛若が忍び入ろうと、故事を引き、姫の心をうかがう。
 
:* 八段 「枕問答」 - 仏法になぞらえて姫に問い詰め、姫が負けて無言になる。
 
:* 九段 「やまとことばの段」 - さらにやまとことばで問い続け、姫に口を開かせる。
 
:* 十段 「御ざうつりの段」 - 一夜の契りの後、朝の別れ。
 
:* 十一段 「吹上の段」 - 吹上の浦で牛若が奇病にかかり、姫が八幡山の知らせで駆けつける。
 
:* 十二段 「御曹司東くだりの段」 - 両人は記念の品を交わし、牛若は奥州に下る。
 
 
 
[[Image:Chikanobu Foxfires.jpg|250px|thumb|浄瑠璃『本朝廿四孝』の八重垣姫。[[上杉謙信]]の娘、[[武田勝頼]]の[[許婚]]として登場する。画/橋本周延([[1838年]] - [[1912年]])]]
 
 
 
=== 古浄瑠璃 ===
 
浄瑠璃が本格的な芸術性を備えるようになるのは江戸時代に入ってからである。浄瑠璃に節づけをした滝野検校の門人である[[杉山丹後掾]]と、浄瑠璃に三味線をはじめて用いた沢住検校の門人の[[薩摩浄雲]]によって京から江戸へともたらされた浄瑠璃という三味線音楽は、彼らの門下によって多くの流派にわかれ、世人に大いに受入れられるようになっていった。
 
 
 
杉山丹後掾の門下からは、江戸肥前掾([[肥前節]])、近江大掾語斎([[語斎節]])、江戸半太夫([[半太夫節]])。薩摩浄雲の門下からは、桜井丹波少掾([[金平節]]・[[金平浄瑠璃]])、薩摩外記([[外記節]])、内匠土佐少掾([[土佐節 (浄瑠璃)|土佐節]]<!-- もしくは[[土佐節 (古浄瑠璃)]]-->)、井上播磨掾([[播磨節]])、虎屋永閑([[永閑節]])、宇治加賀掾([[嘉太夫節]])、別系統で伊藤出羽掾([[出羽節]])、二代目岡本文弥([[文弥節]])など多くの古浄瑠璃太夫が現れ、[[掾]]号を[[受領]]した[[太夫]]も多かった。日本邦楽史では、[[近松門左衛門]]が[[竹本義太夫]]のために書いた『[[出世景清]]』(貞享3年/1686)が従前にはない物語性を持った革命的な浄瑠璃作品であることから、それ以前に出た浄瑠璃を「[[古浄瑠璃]]」、以後を「新浄瑠璃」あるいは「当流」といって区別している。古浄瑠璃からは[[説教節]]の影響も受けて[[説教浄瑠璃]]なども生まれた。古浄瑠璃時代の詞章(歌詞)や戯曲には未発達なものが多く、かならずしも文学的には高い評価を得るものではないが、これが現存する完成度の高い8つの浄瑠璃への橋渡しとなった。
 
 
 
=== 新浄瑠璃(当流) ===
 
[[貞享]]元年(1684年)ごろ、[[竹本義太夫]](後に筑後掾)が[[道頓堀]]に[[竹本座]]を開設して義太夫節を樹ててよりのちは、浄瑠璃に新たな時代が訪れる。名作者[[近松門左衛門]]と結ぶことによって、戯曲の文学的な成熟と詞章の洗練が行われ、[[義太夫節]]と[[人形浄瑠璃]]は充分に芸術性がたいへん優れていた。この新しい様式は上方の人士から熱狂的な支持を受け、義太夫節はそれ以前の[[古浄瑠璃]]を圧倒することになる。たとえば古浄瑠璃時代にはその人の名を付して何某節と呼ばれていたように、それがひとつの様式として後代に受け継がれる性格のものではなかった(一節一太夫)が、義太夫節にいたってはそのあまりに完璧な内容のために、「義太夫節」という流儀名が竹本義太夫死後もひとつの様式の名前として用いられ続け、家元制をひいていないにもかかわらず、今日まで残っているのは、その象徴的な事例であろう。義太夫節の特徴は「歌う」要素を極端に排して、「語り」における叙事性と重厚さを極限まで追求したところにある。太夫と三味線によって作りあげられる間の緊迫、言葉や音づかいに対する意識、一曲のドラマを「語り」によって立体的に描きあげる構成力、そのいずれをとっても義太夫は浄瑠璃界にのこした功績は大きい。
 
 
 
一方、このころ[[竹本義太夫]]と同期の[[都太夫一中]]は京で[[一中節]]を創始し、その弟子[[宮古路豊後掾]]がさらに[[豊後節]]へと改めて、[[享保]]19年(1734年)これを江戸へもたらした。豊後節の特徴は義太夫節の豪壮な性格とは対照的に、一中節の上品な性格を生かしたやわらかで艶っぽい語り口にあり、江戸において[[歌舞伎]]の劇付随音楽として用いられたため、またたく間に大流行を見た。その人気は、[[心中]]ものの芝居にさかんに用いられたために江戸で心中が横行し、風俗紊乱を理由に豊後節の禁止が布告され、豊後掾が江戸を去らねばならなくなったほどであった(ただし、この豊後節禁止は[[河東節]]をはじめとする江戸浄瑠璃側の嫌がらせという説もある)。
 
 
 
しかし、この宮古路豊後掾に師事した宮古路文字太夫(のちの[[常磐津文字太夫]])、宮古路加賀太夫(のちの富士松薩摩)、宮古路薗八らが、数年後にそれぞれ[[常磐津節]]、[[富士松節]]、薗八節を創始するにいたって、豊後節の伝統は江戸に根付き、大阪の義太夫節と共に、それ以前の[[古浄瑠璃]]の人気を奪いさってゆく。常磐津節は[[歌舞伎]]の伴奏用浄瑠璃として盛んに用いられ、豊後節のやわらかさと江戸古浄瑠璃の豪壮さを取混ぜた独特の風情を持っており、江戸らしい気風のよさを感じることができる。一方、富士松節からは鶴賀若狭掾、[[鶴賀新内]]という名人が輩出し、特に鶴賀新内は[[新内節]]を創始することにより、豊後節系浄瑠璃の新たな局面を開くことになる。新内節は一時期、歌舞伎にも用いられたことがあるが、江戸時代後期からは主として[[門付け]]を中心として行われ、豊後節の艶麗な部分を引継いで情緒纏綿たる世界をつくりあげてゆく。薗八節からは二代目宮古路薗八が出て、宮薗鸞鳳軒と称し[[宮薗節]]を創始した。
 
 
 
このような豊後節系浄瑠璃の展開は江戸中期以降にいたって新たな局面を見せる。[[常磐津文字太夫]]の門弟、[[富本豊前掾]]が一派を立てて[[富本節]]を称し、さらに二代目富本豊前太夫の門下から[[清元延寿太夫]]による[[清元節]]が生れる([[文化 (元号)|文化]]11年、1814年)。これらはいずれも常磐津節の艶麗な芸風をさらにつよめた流儀で、むろん[[歌舞伎]]の劇付随音楽としても用いられたが、それだけにとどまらず、素人の習事、座敷音曲としての性格をも備えるようになってゆく。通常豊後節から見て、子、孫、曾孫になる常磐津節、富本節、清元節を「[[豊後三流]]」と称し、それぞれに微妙な性格の違いがある。常磐津節は艶麗さの反面、古い江戸浄瑠璃の名残を引いて豪壮な部分があり、歯切れのいい語り口をも兼ね備えている。それに対して、富本節と長唄の混交から生れた清元節には豪壮さがまったくなく、高音を多用した繊細で情緒的な浄瑠璃になっており、「語り」よりも「歌」の要素がきわめてつよい。常磐津節には素朴で豪放な部分があり、清元節にはそれを洗練させすぎたゆえの美しさともろさがある。そして富本節は艶麗さと古雅な味いを共存させ、寂びた風情には捨てがたいものがあるが、惜しむらくは常磐津節と清元節のあいだにあって独自性が発揮できなかったために、明治以降は衰微するに至った。
 
 
 
{{Anchors|各流派の上演形態}}<!-- 導入部からここにリンクを張っています。構成を変更する場合は導入部も適宜修正してください。 -->現在、義太夫節は[[人形浄瑠璃]]([[文楽]]<!-- 2017-03-05時点では[[人形浄瑠璃]]は[[文楽]]へのリダイレクトだが、文楽は人形浄瑠璃の一流派であり、本来は別立項するべき -->・[[結城座]]・[[淡路人形座]])・[[歌舞伎]]音楽(文楽とは別流派となっている[[竹本]]連中)・素浄瑠璃、河東節は歌舞伎音楽(『[[助六]]』上演時)・素浄瑠璃、一中節は[[日本舞踊]]伴奏・素浄瑠璃、常磐津節は歌舞伎音楽・日本舞踊伴奏・素浄瑠璃、富本節は素浄瑠璃、清元節は歌舞伎音楽・日本舞踊伴奏・素浄瑠璃、新内節は素浄瑠璃として、それぞれ活動を続けている。
 
 
 
== 芸脈 ==
 
; [[義太夫節]]
 
: 薩摩浄雲→虎屋源太夫→井上播磨掾(播磨節)→清水理兵衛→竹本義太夫(義太夫節創始)
 
; [[河東節]]
 
: 杉山丹後掾→江戸肥前掾(肥前節)→江戸半太夫(半太夫節)→十寸見河東(河東節創始)
 
; [[一中節]]
 
: 伊藤出羽掾(出羽節)→二代目岡本文弥(文弥節)→都万太夫(都越後掾)→都太夫一中(一中節創始)
 
; [[常磐津節]]
 
: 都太夫一中(一中節)→宮古路豊後掾(豊後節)→常磐津文字太夫(常磐津節創始)
 
; [[富本節]]
 
: 常磐津文字太夫(常磐津節)→富本豊前掾(富本節創始)
 
; [[清元節]]
 
: 富本豊前掾(富本節)→初代富本斎宮太夫→清元延寿太夫(清元節創始)
 
; [[新内節]]
 
: 宮古路豊後掾(豊後節)→富士松薩摩(富士松節)→鶴賀若狭掾→鶴賀新内(新内節創始)
 
; [[宮薗節]]
 
: 宮古路豊後掾(豊後節)→宮古路薗八(薗八節)→宮薗鸞鳳軒(宮薗節創始)
 
 
 
また、桜井丹波少掾(和泉太夫)の創始した[[金平浄瑠璃]]は、後に[[歌舞伎]]の[[荒事]]に影響を与えた。半太夫節は河東節、[[長唄]]、[[地唄]]に、外記節は河東節に面影が残り、大薩摩節は長唄に吸収されて残っている。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
=== 注釈 ===
 
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=== 出典 ===
 
{{Reflist}}
 
=== 参考文献 ===
 
{{No footnotes|date=2017年12月|section=1}}
 
* [[根岸鎮衛]] 『[[耳嚢]]』  [[長谷川強]]校注、[[岩波書店]]〈[[岩波文庫]]〉、全3巻、1991年 - 江戸時代の随筆。浄瑠璃についての逸話を収録。
 
* [[内山美樹子]] 『文楽 二十世紀後期の輝き —劇評と文楽考—』 [[早稲田大学出版部]]、2010年
 
* 伊藤りさ 『人形浄瑠璃のドラマツルギー — 近松以降の浄瑠璃作者と平家物語』 [[早稲田大学出版部]]〈[[早稲田大学学術叢書]]〉、2011年
 
* 吉川英史 『日本音楽の歴史』 1965年
 
* 若月保治 『古浄瑠璃の研究』 1943年
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[古曲]] - [[河東節]]・[[一中節]]・[[宮薗節]]、および[[歌いもの|歌い物]]である[[荻江節]]の総称。
 
* [[近世邦楽]]
 
* [[邦楽のジャンル一覧]]
 
* [[芦屋道満大内鑑]]
 
 
 
==外部リンク==
 
<!-- 以下の著作は、日本の伝承に触発された「創作」であり、浄瑠璃とは無関係です。よってコメントアウトしておきます。
 
* {{Gutenberg book|no=46863|name=Old-World Japan|author=Frank Rinder}} -->
 
 
 
{{日本の伝統芸能}}
 
  
 
{{DEFAULTSORT:しようるり}}
 
{{DEFAULTSORT:しようるり}}

2018/12/24/ (月) 09:31時点における最新版

浄瑠璃(じょうるり)

三味線を伴奏とする語り物音楽の一種。平曲,幸若,説経などの語り物の影響を受け,『浄瑠璃十二段草子』 (『浄瑠璃姫物語』ともいう) が 15世紀後半までに成立し,好評を博した。これにより浄瑠璃という新しい語り物が生れ,琉球から渡来した三絃,および傀儡師(かいらいし) の人形と結びついて,16世紀末~17世紀初めに舞台芸術としての人形浄瑠璃が成立した。以後古浄瑠璃時代を経て,17世紀末,竹本義太夫と近松門左衛門により浄瑠璃の主流としての義太夫節が生れ,『曾根崎心中』『心中天の網島』など,近世庶民の生活を描く世話浄瑠璃に傑作が続出した。義太夫,近松の死後もその後継者により,『菅原伝授手習鑑』『義経千本桜』『仮名手本忠臣蔵』などの時代物傑作が作られ,人形浄瑠璃は歌舞伎をしのぐほどの隆盛をきわめたが,18世紀中期以後は発展が止り,古典化した。このほか,豊後節の系統をひく常磐津,富本,清元,新内などは,歌舞伎の劇場音楽として,あるいは座敷浄瑠璃として近世後期,江戸で発達した。また,江戸の古浄瑠璃の系統をひく河東節や,京都における豊後節以前の浄瑠璃である一中節,あるいは豊後系の宮薗節などは,いずれも江戸においておもに座敷浄瑠璃として行われ,現在では古典として扱われている。



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