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{{Otheruses|キリスト教の[[秘跡]]、[[機密 (正教会)|機密]]、[[礼典]]|その他|洗礼 (曖昧さ回避)}}
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Baptism 英語
'''洗礼'''(せんれい、{{lang-el|Βάπτισμα}}<ref name="el">[http://www.faneromenihol.gr/index.php?option=com_content&view=article&id=210&Itemid=62 {{lang|el|Τα ιερά Μυστήρια της Εκκλησίας μας}}]</ref>, {{lang-en|Baptism}}<ref name="BD">[http://encyclopedia.jrank.org/articles/pages/3282/Baptism.html Baptism - Art, Water, Christian, and Baptisms - JRank Articles]</ref>、「'''[[バプテスマ]]'''」とも)は、[[キリスト教]]の[[入信]]に際して行われる[[サクラメント]]<ref name="daijirin">[https://kotobank.jp/word/%E6%B4%97%E7%A4%BC-89048#E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.9E.97.20.E7.AC.AC.E4.B8.89.E7.89.88](大辞林)</ref>([[機密 (正教会)|機密]]、[[秘跡]])。浸水([[浸礼]]、身体を水に浸す)または灌水(頭部に水を注ぐ)や滴礼(頭部に手で水滴をつける)によって行われる<ref name="daijirin" />。
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Baptisma ギリシア語
  
[[正教会]]、[[カトリック教会]]、[[聖公会]]、および大半の[[プロテスタント]]で「'''洗礼'''」と表記されるが、[[バプテスト教会]]では専ら「'''浸礼'''」(しんれい)または「'''[[バプテスマ]]'''」と表記される<ref>[http://park8.wakwak.com/~seinan-baptist/shoukai.html 西南学院バプテスト教会]</ref>。
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 キリスト教徒になるために教会が執行する儀礼。ギリシア語のバプテスマは、本来「浸す」という意味の名詞形であるが、水を用いて潔(きよ)めることを通して生命の再生あるいは新生を意味する特別の用語として用いられている。宗教史的にみれば、こうしたたぐいの水による潔めの儀礼はキリスト教だけに限らず、古今東西の諸宗教にも認められ、とりわけ東方の密儀宗教においては洗礼によって再生の神々との神秘的合一が成就(じょうじゅ)され、信徒は悪魔のもたらす火の災害を免れ、神の救いにあずかることができるとみなされるのである。
  
洗礼を受けることを「'''受洗'''(じゅせん)」もしくは「'''受浸'''(じゅしん)」と言う<ref>[http://homepage3.nifty.com/yagitani/kurihon/kurihon18.htm 教派いろいろ対照表] (Last Updated 25 MAR. 2013 ver.1.28)</ref>。[[日本正教会]]では「'''領洗'''(りょうせん)」とも言う<ref>[http://www.orthodoxjapan.jp/annai/n-osaka.html 大阪ハリストス正教会・生神女庇護聖堂:日本正教会 The Orthodox Church in Japan]</ref>。
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 浸水儀礼が教団入門の儀式として確立されるのは、後期ユダヤにおける改宗者へのバプテスマであろう。近年発見された死海文書にも、バプテスマが教団生活の中心的な儀礼として守られていたことが記されている。『新約聖書』の福音書(ふくいんしょ)に登場するバプテスマのヨハネの浸水式は、このようなユダヤ教的背景から理解される。それは、終末的な、迫りくる神の怒りに対して、倫理的な悔い改めを求めるバプテスマであり、その限りユダヤ教徒に限らず、すべての人々に向かって開かれていた。「マルコ伝福音書」によると、イエスはヨハネからヨルダン川で洗礼を授けられたが、聖書全体を通してイエス自身が自らバプテスマを施したという記録はどこにもない。今日キリスト教会が継承しているバプテスマは、イエスの十字架の死後、教会が独自に採用し、しだいに定式化された儀礼であり、それは聖餐(せいさん)式とともに、教会入会式として守られてきた(「マルコ伝福音書」16章15節、「マタイ伝福音書」28章19節)。もっとも、その根拠とされるイエスのことば自体、後の教会が付加したものとみなされる。バプテスマの意味を単なる入会式の意味から解放し、より深い神学的意味づけを与えたのは使徒パウロである。彼は、バプテスマの儀礼を、[[キリスト・イエス]]の死にあずかるバプテスマとしてとらえ、死にあずかるものはキリストの復活にもあずかることができるとした。それまでの「浸水」および「潔め」から、キリストによる「新生」の意味への転換は、このようにして[[パウロ]]によって打ち出されたのであるが、パウロは、バプテスマが礼典として呪術(じゅじゅつ)的形式に陥ることを厳しく戒め、バプテスマを通してキリストとともに死んだものが、いかにキリストとともに生きていくかに、信仰者の実存をみようとした。パウロ以後、バプテスマが教会礼典として確立されるにつれ、しだいにその執行権が問われるようになり、それとともに聖職制と位階制を要(かなめ)とする使徒権の継承の問題が、重要な問題として浮かび上がってくることになる。
 
 
日本語の「洗礼」には、ここから派生した語義として「初めての経験」や[[通過儀礼]]などがあるが<ref name="daijirin" />、本項ではキリスト教における洗礼を扱う。
 
 
 
== 概要 ==
 
{{出典の明記|date=2014年10月|section=1}}
 
'''洗礼'''は、[[新約聖書]]の[[福音書]]において、[[洗礼者ヨハネ|洗礼者ヨハネ(バプテスマのヨハネ)]]が[[ヨルダン川]]にて行っていた「浄化儀式」の日本語訳として造られた言葉である。動詞としての「洗礼を施す」は、[[ギリシア語]]で「バプティゼイン {{lang|el|βαπτίζειν}} 」と言い、「[[バプテスマ]]」という言葉は、ここから来ている。
 
 
 
洗礼者ヨハネ以外にも、[[ミトラ教|西方ミトラ教]]や[[マンダ教]]、エルカサイ派などの「洗礼[[教団]]」が[[中東]]地域に存在し、洗礼の儀式を行っていた。
 
 
 
== キリスト教における洗礼 ==
 
=== 概説 ===
 
{{出典の明記|date=2014年10月|section=1}}
 
キリスト教は、洗礼の根拠を新約聖書の福音書に求める。[[イエス・キリスト]]がヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けた場面<ref>[[マタイによる福音書]]3章13-17、[[マルコによる福音書]]1章9-11</ref>や、イエスが[[復活 (キリスト教)|復活]]後に[[使徒]]たちに「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊のみ名によって洗礼(バプテスマ)を授けなさい。<ref>マタイによる福音書28章19より。 なお、本文中の聖書引用は[[新共同訳聖書]]からによる。</ref>」と使命をあたえたことなどである。ほとんどの教会で洗礼を[[サクラメント]]<ref>[[正教会]]では[[機密 (正教会)|機密]]、[[カトリック教会]]では[[秘跡]]、[[プロテスタント]]では[[礼典|聖礼典]]とも呼ばれる。</ref>({{lang-la|Sacramentum}}、{{lang-el|μυστήριον}}「ミスティリオン」)と認める。執行者は一般に[[司祭]]・[[牧師]]などの[[聖職者]]・[[教役者]]である。
 
 
 
洗礼によって、[[原罪]]およびそれまでに犯したすべての[[自罪]]がゆるされるとされている。
 
 
 
=== 洗礼執行の方式 ===
 
{{出典の明記|date=2014年10月|section=1}}
 
{{See also|浸礼}}
 
執行形態は主に浸礼(全身を水に浸す)・[[灌水礼]](頭部に水を注ぐ)・[[滴礼]](手を濡らし、頭に押し付けて水に沈める所作を真似る)の3種類である。浸礼が原初の形態であり、灌水礼も滴礼もそれを模した簡略形態であることは、それらを執行している教会でも認識されている。
 
 
 
全ての方式を認める[[教会 (キリスト教)|教会]]と、[[浸礼]]のみを認める教会がある。この相違は、主に[[新約聖書]]における洗礼の記事の解釈の相違および洗礼の象徴的意義の[[神学]]的解釈に基づく、と説明される。
 
 
 
===幼児洗礼===
 
{{出典の明記|date=2014年10月|section=1}}
 
{{Main|幼児洗礼}}
 
教会または親の信仰に基づき、乳児や児童に授けられる洗礼を'''[[幼児洗礼]]'''または'''小児洗礼'''という。
 
 
 
[[プロテスタント]]の中には、幼児洗礼を認めていない教派もある。[[バプテスト派]]の全てと、[[福音派]]のうち[[ホーリネス|ホーリネス派]]などと、[[聖霊派]]の[[ペンテコステ派]]などの一部は、聖書の中に幼児洗礼の記述がないこと、本人の信仰の確認ができないことなどで、これを認めていない。また、幼児洗礼自体は認めるが、自分の意志で行動できる年齢になった後に信仰告白(堅信式)を行わなければ聖餐を受けられないとする教派も存在する。なお、成人洗礼では灌水礼が一般的な[[正教会]]でも幼児洗礼は[[浸礼]]で行うことが多く、浸礼だから幼児洗礼が不可能と言うわけではない。
 
 
 
幼児洗礼の起源は、[[キリスト教諸教派の一覧|教派]]によりその主張に相違があり、はっきり断定できないが、おそらくキリスト教の初期にさかのぼると思われる。
 
 
 
[[マルティン・ルター]]は、幼児洗礼は「神の賜物」であって、完全に受動的に受ける聖霊の働きであると理解した。洗礼によって受ける聖霊の働き (神が幼子のうちに初めて下さる御霊の働き)によって、心からの真実な信仰の告白に導かれると理解した。
 
 
 
[[フルドリッヒ・ツヴィングリ]]は、幼児洗礼は、神の民の肢として生まれた子供に対して、教会が責任を持つしるしであると理解した。
 
 
 
[[ジャン・カルヴァン]]も、キリスト者の幼子は、すでにキリストの教会の生きた肢であると考え、このキリスト者の幼子も、神の民の中に生まれたのであるから、洗礼を妨げてはならないと考える。
 
 
 
イギリスではこの幼児洗礼の際に[[スプーン]]を使って[[お食い初め]]を行う習慣があり、この際に使われるスプーンの材質が身分や貧富によって違っていた。そこから良い家柄・裕福な家の生まれである事を「銀の匙を咥えて生まれてきた」と言うようになり、現在ではヨーロッパ各地で幼児洗礼の際に銀のスプーンを贈る家庭がある。
 
 
 
=== 洗礼の相互承認 ===
 
{{出典の明記|date=2014年10月|section=1}}
 
一般に、[[キリスト教]]の各教会は、教派が異なる教会の洗礼も一定の条件で有効であると認める。<!--逆にいえばある教派の洗礼が別の教派で認められないとき、後者は前者をキリスト教会として、後者の教会は前者の構成員を完全な意味でのキリスト教徒として認めないということである。-->しかし、教派間によっては、[[正統教義]]とされる[[三位一体]]の理解が共有できない教会間の移動、三位一体の名に基づかない洗礼(例:「父と子と[[聖霊]]の名において」対「イエスの名において」)、幼児洗礼や灌水礼・滴礼を認めない教派による拒絶などがあり、その場合は再度その教派の流儀に合った洗礼が行われる。
 
 
 
[[正教会]]では、[[至聖三者]]([[三位一体]])の名で受けていれば他教派での洗礼であっても基本的に有効であるとしつつも、[[帰正]](他教派から正教に改宗すること)を経るまでは[[聖体機密]]をはじめとする[[機密 (正教会)|機密]]に与る事は許されない。他方、洗礼が無効であると捉えられる場合には、正教会で洗礼が行われる(この場合はそもそも他教派での当該「洗礼」が無効であるとの考えから、「再」洗礼とは呼ばない)。
 
 
 
なお、他の教派での洗礼が有効と認められる場合でも、そのときに付けられた[[洗礼名]]は必ずしも改宗後も用いられるわけではない。教会によって対応は異なるものの、以前の洗礼名が改宗先の教会では[[聖人#キリスト教|聖人]]とみなされていない者から採られた場合に改名が必須となる場合があったり、プロテスタントではそもそも洗礼名を付けない教派も多い。
 
 
 
== 各教派の洗礼に関する見解 ==
 
=== 西方教会 ===
 
==== カトリック教会 ====
 
[[ファイル:Child baptism with water.jpg|thumb|right|カトリックの幼児洗礼]]
 
カトリック教会では、「幼児は[[原罪]]によって神の恵みを失って生まれてくるため、洗礼によって新たに生まれる必要がある<ref>[[カトリック教会のカテキズム]] #1250(日本語版388頁) [[カトリック中央協議会]] ISBN 978-4877501013</ref>」としており、また幼児洗礼を「起源を特定できないほど古い教会の伝統<ref>カトリック教会のカテキズム #1252(日本語版388頁) カトリック中央協議会</ref>」として、幼児に洗礼を授ける習慣は正しい信仰に基づくことを主張してきた<ref>日本カトリック司教協議会 監修「カトリック教会の教え」187頁 カトリック中央協議会 ISBN 978-4877501068</ref>。そのため、日本のカトリック教会でも幼児の洗礼について両親が十分な準備をするように勧めている<ref>[http://www.tokyo.catholic.jp/text/welcome/shinkouseikatsu.htm#子どもの洗礼 信仰生活の助け(子どもの洗礼)] カトリック東京大司教区</ref>。
 
 
 
また、成人洗礼の場合は、求道期と洗礼志願期をそれぞれ第一段階、第二段階として、要理教育と受洗の決意を表し、第三段階として復活徹夜祭([[聖土曜日]]の晩)に「入信の秘跡」すなわち洗礼と[[堅信]]、[[聖体]]の秘跡を受けて信者となる<ref>日本カトリック司教協議会 監修「カトリック教会の教え」186-187頁 カトリック中央協議会</ref><ref>ただし、入信の秘跡の祭儀(洗礼)を他の時期に行うことは禁じられてはいない。(参照)[http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/tenrei/sugikoshi3.htm 典礼解説 過越の聖なる三日間](カトリック中央協議会)</ref>。
 
 
 
ラテン教会(ローマ・カトリック教会)では、[[司教]]、[[司祭]]に加えて[[助祭]]も洗礼を授けることができるとされている。また、緊急の場合には、だれでも、未受洗者であっても、必要な意向(教会が洗礼を授けるときに行おうとしていることを行いたいという意向)を持って聖三位の神を呼ぶ洗礼の定句を唱えることによって、授けることができる<ref>カトリック教会のカテキズム #1256(日本語版389頁) カトリック中央協議会</ref>。この場合、その後に司祭に報告するよう求められている<ref>[http://www.tokyo.catholic.jp/text/welcome/shinkouseikatsu.htm#臨終の洗礼 信仰生活の助け(臨終の洗礼)] カトリック東京大司教区</ref>。
 
 
 
なお、カトリック教会では、福音が伝えられてこの秘跡を願うことのできる人々の救いのためには、洗礼は必要である<ref>カトリック教会のカテキズム #1257(日本語版389頁) カトリック中央協議会</ref>としているが、洗礼を受けていなくても、信仰のために死ぬ人々は「血の洗礼」といって救われることができると教えている。同様に、求道者や、キリストと教会を知らずに真剣に神を求めて神のみ心を果たそうとするすべての人々も、「望みの洗礼」といって救われることができると教えている<ref>「カトリック教会のカテキズム 要約(コンペンディウム)」153頁 カトリック中央協議会 ISBN 978-4877501532</ref>。
 
 
 
カトリック教会では、洗礼のとき、教会で[[洗礼名]]として自分の名前を授かる。できれば、ある[[聖人#キリスト教|聖人]]の名前を付けることにより、その聖人(保護聖人)が受洗者に聖性の模範を示し、神に執り成しをしてくれるとされている<ref>「カトリック教会のカテキズム 要約(コンペンディウム)」153-154頁 カトリック中央協議会</ref>。
 
 
 
==== プロテスタント ====
 
{{出典の明記|date=2014年10月|section=1}}
 
執行の方式は教会による。[[ルーテル教会]]、[[改革長老教会|改革派]]、[[聖公会]]など[[宗教改革]]期に成立し国教を経験した教派は、[[幼児洗礼]]も行う。[[日本基督教団]]においては幼児洗礼を執行する教会と、しない教会のいずれも存在する。
 
 
 
===== バプテスト教会 =====
 
{{出典の明記|date=2014年10月|section=1}}
 
[[ファイル:Bridges-baptism-062.jpg|right|thumb|プロテスタントの教風は多様である。写真はカジュアルなスタイルを謳うブリッジコミュニティ教会の[[浸礼]]。]]
 
{{seealso|新生 (キリスト教)}}
 
プロテスタントのうち[[バプテスト教会]]では、「[[イエス・キリスト]]が[[洗礼者ヨハネ|バプテスマのヨハネ]]に受けた方式であり、イエス・キリストの死と葬り、復活においてキリストと一つになることを象徴する一番ふさわしい形式」であるとする[[浸礼]](全身をバプテストリー/洗礼水槽に沈める)で執り行う。<!--事実[[バプテスマ]]を受けた人に言わせると、後に倒れるように沈むので本当に死ぬ思いになるらしい。-->原語の意味は「洗う」ではなく「浸(ひた)す」あるいは「沈める」であるため、「洗礼」と言わず「浸礼」、あるいは[[ギリシア語]]の音訳である「'''[[バプテスマ]]'''」の語を用いる。バプテスマは本人の自覚に基づいたキリストへの帰依とされ、カトリックや正教会などのように、キリストより権能を授与された祭司を介した神の行為であるがゆえに無自覚な幼児に対するバプテスマも意義があるとは考えない。したがって幼児のバプテスマを認めず、本人の信仰に基づく成人のバプテスマのみを執行する。ただし、本人が信仰を自覚することができれば小学生の年齢でもバプテスマを施すことがある。他のキリスト教会からバプテスト教会に転入する際には、浸礼でないバプテスマを受けている場合、再度バプテスマを施すことがある。
 
 
 
===== 洗礼を行わない教派 =====
 
{{出典の明記|date=2014年10月|section=1}}
 
[[クエーカー]]や[[救世軍]]、[[無教会]]など洗礼を行わない団体も存在する。クエーカーの入会式や救世軍の入隊式は洗礼に準ずるものとして扱われ、希望すれば他のプロテスタント教派の教会で聖餐式を受けられることが多いが、無教会集会のメンバーは受洗者とみなされず、聖餐式を受けられないことも多い。
 
 
 
=== 東方教会 ===
 
==== 正教会 ====
 
{{出典の明記|date=2014年10月|section=1}}
 
[[File:GreekOrthodoxBaptism1.jpg|thumb|right|250px|正教会における[[幼児洗礼]]]]
 
{{Main|洗礼機密|傅膏機密}}
 
[[正教会]]では、洗礼を'''聖洗'''(せいせん)とも言い、受洗は'''領洗'''(りょうせん)ともいう。産後40日を経てからの幼児洗礼が通例。洗礼を施す日は原則として[[主日]](日曜日)の朝、[[聖体礼儀]]に先立って行う。洗礼の意義を浸水に大きく見出し、浸礼を基本とするが、潅水もしばしば行われる。浸礼は川や海などで行われることもある。洗礼は「父と子と聖神(聖霊)」の名において施され、受洗者は3度水に浸される。原則として、受洗者は信仰の純潔を象徴する白い受洗衣をつける。
 
 
 
かつての正教会では、洗礼に先立って、啓蒙者(洗礼志願者)として公に認められることが必要とされた。このための儀式を啓蒙礼儀といい、洗礼の8日前に啓蒙礼儀を行った。現在はこの慣習は廃れ、啓蒙礼儀は洗礼式の一部となっている。
 
 
 
なお洗礼と[[傅膏機密|傅膏]](カトリック教会でいう[[堅信]]に相当)は異なる機密であるが、現在の正教会については、洗礼後ただちに傅膏機密を行うため、その儀式は一体化している。
 
 
 
洗礼を授けることができるのは原則として司祭以上であるが、瀕死者の場合などは、一般信者も洗礼を授けることができる。これを「摂行洗礼」(せっこうせんれい)という。摂行洗礼を除けば、洗礼は[[聖体礼儀]]の前に行われ、新たに信者となったものは領聖を行うことになる。このため、[[領聖]]([[聖体|聖体尊血]]を領食すること)をもって初めて洗礼が完了したとみなす論者もある。
 
 
 
==== 東方諸教会 ====
 
{{節スタブ}}
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[洗礼者ヨハネ]]
 
* [[浸礼]]
 
* [[洗礼名]]
 
* [[潅頂]]
 
  
  
118行目: 18行目:
 
[[Category:礼典]]
 
[[Category:礼典]]
 
[[Category:バプテスマ]]
 
[[Category:バプテスマ]]
[[Category:水の文化]]
 
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2018/8/19/ (日) 18:06時点における最新版

Baptism 英語 Baptisma ギリシア語

 キリスト教徒になるために教会が執行する儀礼。ギリシア語のバプテスマは、本来「浸す」という意味の名詞形であるが、水を用いて潔(きよ)めることを通して生命の再生あるいは新生を意味する特別の用語として用いられている。宗教史的にみれば、こうしたたぐいの水による潔めの儀礼はキリスト教だけに限らず、古今東西の諸宗教にも認められ、とりわけ東方の密儀宗教においては洗礼によって再生の神々との神秘的合一が成就(じょうじゅ)され、信徒は悪魔のもたらす火の災害を免れ、神の救いにあずかることができるとみなされるのである。

 浸水儀礼が教団入門の儀式として確立されるのは、後期ユダヤにおける改宗者へのバプテスマであろう。近年発見された死海文書にも、バプテスマが教団生活の中心的な儀礼として守られていたことが記されている。『新約聖書』の福音書(ふくいんしょ)に登場するバプテスマのヨハネの浸水式は、このようなユダヤ教的背景から理解される。それは、終末的な、迫りくる神の怒りに対して、倫理的な悔い改めを求めるバプテスマであり、その限りユダヤ教徒に限らず、すべての人々に向かって開かれていた。「マルコ伝福音書」によると、イエスはヨハネからヨルダン川で洗礼を授けられたが、聖書全体を通してイエス自身が自らバプテスマを施したという記録はどこにもない。今日キリスト教会が継承しているバプテスマは、イエスの十字架の死後、教会が独自に採用し、しだいに定式化された儀礼であり、それは聖餐(せいさん)式とともに、教会入会式として守られてきた(「マルコ伝福音書」16章15節、「マタイ伝福音書」28章19節)。もっとも、その根拠とされるイエスのことば自体、後の教会が付加したものとみなされる。バプテスマの意味を単なる入会式の意味から解放し、より深い神学的意味づけを与えたのは使徒パウロである。彼は、バプテスマの儀礼を、キリスト・イエスの死にあずかるバプテスマとしてとらえ、死にあずかるものはキリストの復活にもあずかることができるとした。それまでの「浸水」および「潔め」から、キリストによる「新生」の意味への転換は、このようにしてパウロによって打ち出されたのであるが、パウロは、バプテスマが礼典として呪術(じゅじゅつ)的形式に陥ることを厳しく戒め、バプテスマを通してキリストとともに死んだものが、いかにキリストとともに生きていくかに、信仰者の実存をみようとした。パウロ以後、バプテスマが教会礼典として確立されるにつれ、しだいにその執行権が問われるようになり、それとともに聖職制と位階制を要(かなめ)とする使徒権の継承の問題が、重要な問題として浮かび上がってくることになる。