「河野敏鎌」の版間の差分

提供: miniwiki
移動先:案内検索
(1版 をインポートしました)
 
1行目: 1行目:
{{出典の明記|date=2015年9月}}
 
{{政治家
 
|人名 = 河野 敏鎌
 
|各国語表記 = こうの とがま
 
|画像 = Togama Kōno.jpg
 
|国略称 = {{JPN}}
 
|生年月日 = [[1844年]][[11月29日]]<br>([[天保]]15年[[10月20日 (旧暦)|10月20日]])
 
|出生地 = {{JPN}} [[土佐国]][[高知]]
 
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1844|11|29|1895|4|24}}
 
|所属政党 = [[立憲改進党]]
 
|称号・勲章 = [[子爵]]
 
|親族(政治家) = [[河野通好]](父)
 
                          [[河野壽男]]  (子)
 
|国旗 = JPN
 
|職名 = 第5代 [[文部大臣 (日本)|文部大臣]]
 
|内閣 = [[第2次伊藤内閣]]
 
|就任日 = [[1892年]][[8月8日]]
 
|退任日 = [[1893年]][[3月17日]]
 
|国旗2 = JPN
 
|職名2 = 第3代 [[法務大臣|司法大臣]]
 
|内閣2 = [[第1次松方内閣]]
 
|就任日2 = 1892年[[6月23日]]
 
|退任日2 = 1892年8月8日
 
|国旗3 = JPN
 
|職名3 = 第9代 [[内務大臣 (日本)|内務大臣]]
 
|内閣3 = 第1次松方内閣
 
|就任日3 = 1892年[[7月14日]]
 
|退任日3 = 1892年8月8日
 
|国旗4 = JPN
 
|職名4 = 第7代 [[農商務省 (日本)|農商務大臣]]
 
|内閣4 = 第1次松方内閣
 
|就任日4 = 1892年[[3月14日]]
 
|退任日4 = 1892年7月14日
 
|国旗5 = JPN
 
|職名5 = 初代 農商務卿
 
|就任日5 = [[1881年]][[4月7日]]
 
|退任日5 = 1881年[[10月20日]]
 
|国旗6 = JPN
 
|その他職歴1 = 第5代 文部卿
 
|就任日6 = [[1880年]][[2月28日]]
 
|退任日6 = 1881年4月7日
 
|国旗7 = 広島県
 
|その他職歴2 = 初代 [[広島県知事一覧|広島県参事]]
 
|就任日7 = [[1871年]][[11月27日]]
 
|退任日7 = 1871年[[12月26日]]
 
|国旗8 = 広島県
 
|その他職歴3 = 広島県大参事 / 大参事心得
 
|就任日8 = 1871年[[8月15日]]
 
|退任日8 = 1871年[[11月]]
 
}}
 
  
'''河野 敏鎌'''(こうの とがま、[[天保]]15年[[10月20日 (旧暦)|10月20日]]([[1844年]][[11月29日]]) - [[明治]]28年([[1895年]])[[4月24日]])は、[[明治時代]]初期の[[藩閥政府]]の[[政治家]]。[[子爵]]。幼名は'''万寿弥'''(ますや、旧字体:'''萬壽彌''')。
+
'''河野 敏鎌'''(こうの とがま、[[天保]]15年[[10月20日 (旧暦)|10月20日]]([[1844年]][[11月29日]]) - [[明治]]28年([[1895年]])[[4月24日]]
  
== 経歴 ==
+
明治前期の政治家。天保(てんぽう)15年10月19日生まれ。土佐藩出身。
[[天保]]15年(1844年)10月、[[土佐藩]][[郷士]]の[[河野通好]]の長男として高知に生まれる。[[安政]]5年(1858年)3月、[[江戸]]へ遊学して[[安井息軒]]の門下となり、[[文久]]元年(1861年)に帰国。[[土佐勤王党]]に加入して[[武市瑞山|武市半平太]]や[[坂本龍馬]]らと交友関係を持つ。文久2年(1862年)、五十人組に参加し[[京都]]と江戸の間を往来して国事に奔走した。ところが文久3年(1863年)に藩主・[[山内容堂]]が[[佐幕派]]に鞍替えしたことから藩論が転換、このため投獄され6年間の獄中生活を送る。その際、厳しい拷問にも耐えて同志を守り通したと伝えられる。永牢の宣告を受けたが、河野は逆にこれを誇りにしたという。
 
  
[[慶応]]4年(1868)に江戸幕府が崩壊して[[明治維新]]がはじまると、罪を免じられて出獄。同藩の[[後藤象二郎]]の手引きで[[大坂]]に上り、[[江藤新平]]の知遇を得る。明治2年(1869年)4月に[[侍詔局]]出仕、のちに[[広島県]][[大参事]]、司法大丞兼[[検事|大検事]]となる。
+
江戸に出て安井息軒(やすいそくけん)に学び、帰郷後、武市瑞山(たけちずいざん)らと尊王攘夷(そんのうじょうい)運動を進めたが、1863年(文久3)藩論が佐幕に転じ、投獄された。1869年(明治2)江藤新平の推挙で待詔(たいしょう)局に出仕し、1872年渡欧。佐賀の乱(1874)では裁判長として江藤ら反乱軍を厳罰に処した。元老院副議長、文部卿(もんぶきょう)、農商務卿を歴任したが、「明治十四年の政変」で辞職し、翌年立憲改進党の副総理となった。1884年、解党論がいれられず脱党。1892年以後、農商務、司法、内務、文部の各大臣を歴任。
  
明治7年(1874年)の[[佐賀の乱]]では[[大久保利通]]に従い、鎮定のため九州に赴いた。乱後の裁判ではかつての上司であった江藤新平を取り調べ、釈明の機会も十分に与えないまま[[死刑]]を宣告した。訊問に際し敏鎌は江藤を恫喝したが、江藤から逆に「敏鎌、それが恩人に対する言葉か!」と一喝され恐れおののき、それ以後自らは審理に加わらなかった。巷では大久保が金千円で敏鎌を買収して江藤を葬ったという風評が立ったが、敏鎌自身は晩年になって[[立憲改進党]]掌事の[[牟田口元学]]に自身の行動に関する弁明を試みている。
+
明治28年4月24日死去。
  
明治8年(1875年)に[[元老院議官]]、明治11年(1878年)には元老院副議長となる。明治13年(1880年)、[[文部省|文部卿]]として教育令改正の推進した。明治14年(1881年)、[[農商務省 (日本)|農商務省]]設立に伴って初代農商務卿に就任するが、[[明治十四年の政変]]で[[大隈重信]]らに同調して下野した。明治15年(1882年)4月、大隈らとともに立憲改進党を結党して副総理(副党首)になる。明治21年(1888年)に[[枢密院 (日本)|枢密顧問官]]として憲法の審議にあたる。その後[[第1次松方内閣]]で[[内務大臣 (日本)|内務大臣]]、[[司法大臣]]、[[農商務大臣]]を歴任、[[第2次伊藤内閣]]では[[文部大臣 (日本)|文部大臣]]に就任して文部行政の基礎を確立した。
+
{{テンプレート:20180815sk}}
 
 
明治26年(1893年)子爵を叙爵して[[華族]]に列すが、明治28年(1895年)4月24日に死去、享年52。墓所は[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]の[[青山墓地]]にある。
 
 
 
== 栄典 ==
 
* [[1889年]](明治22年)[[11月25日]] - [[記念章|大日本帝国憲法発布記念章]]<ref>『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。</ref>
 
* [[1892年]](明治25年)[[12月29日]] - [[瑞宝章|勲一等瑞宝章]]<ref>『官報』第2853号「叙任及辞令」1893年1月4日。</ref>。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 関連文献 ==
 
* 「[http://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/Detail_M0000000000000788068 河野敏鎌]」([[国立公文書館]]所蔵 「枢密院文書・枢密院高等官転免履歴書 明治ノ一」) - [[アジア歴史資料センター]] Ref. A06051167300
 
** 『枢密院高等官履歴 第1巻』 [[東京大学出版会]]、1996年10月、ISBN 4130987119
 
 
 
== 登場する作品 ==
 
* ドラマ
 
** NHK[[大河ドラマ]]『[[獅子の時代]]』
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Commonscat|Kōno Togama}}
 
* [[元老院 (日本)|元老院]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/ 古典籍総合データベース] - [[早稲田大学図書館]]。大隈関係文書の河野敏鎌書翰などが閲覧できる。
 
{{-}}
 
{{start box}}
 
{{S-reg|jp}}
 
{{Succession box
 
| title  = 子爵
 
| years  = 河野(敏鎌)家初代<br />1893年 - 1895年
 
| before = 叙爵
 
| after  = [[河野寿男]]
 
}}
 
{{end box}}
 
{{広島県知事|大参事→大参事心得:1871 / 参事:1871}}
 
{{文部科学大臣|1880年-1881年,1892年-1893年|[[文部大臣 (日本)|文部卿・文部大臣]]}}
 
{{内務大臣|1892年}}
 
{{司法大臣|1892年}}
 
{{農商務大臣|1881年,1892年|農商務卿・農商務大臣}}
 
 
{{DEFAULTSORT:こうの とかま}}
 
{{DEFAULTSORT:こうの とかま}}
 
[[Category:土佐勤王党の人物]]
 
[[Category:土佐勤王党の人物]]

2019/5/1/ (水) 21:28時点における最新版

河野 敏鎌(こうの とがま、天保15年10月20日1844年11月29日) - 明治28年(1895年4月24日

明治前期の政治家。天保(てんぽう)15年10月19日生まれ。土佐藩出身。

江戸に出て安井息軒(やすいそくけん)に学び、帰郷後、武市瑞山(たけちずいざん)らと尊王攘夷(そんのうじょうい)運動を進めたが、1863年(文久3)藩論が佐幕に転じ、投獄された。1869年(明治2)江藤新平の推挙で待詔(たいしょう)局に出仕し、1872年渡欧。佐賀の乱(1874)では裁判長として江藤ら反乱軍を厳罰に処した。元老院副議長、文部卿(もんぶきょう)、農商務卿を歴任したが、「明治十四年の政変」で辞職し、翌年立憲改進党の副総理となった。1884年、解党論がいれられず脱党。1892年以後、農商務、司法、内務、文部の各大臣を歴任。

明治28年4月24日死去。



楽天市場検索: