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<!--{{otheruses|歌舞伎狂言作者|「元の黙阿弥(木阿弥)」の由来とも伝わる僧|筒井順昭}}--><!--「元の木阿弥」を「元の黙阿弥」とはいわないのでは? どの辞書でも「木阿弥」となっています-->
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'''河竹 黙阿弥'''(かわたけ もくあみ、旧字体:'''默阿彌'''、[[文化 (元号)|文化]]13年[[2月3日 (旧暦)|2月3日]]([[1816年]][[3月1日]]) - [[明治]]26年([[1893年]])[[1月22日]]
'''河竹 黙阿弥'''(かわたけ もくあみ、旧字体:'''默阿彌'''、[[文化 (元号)|文化]]13年[[2月3日 (旧暦)|2月3日]]([[1816年]][[3月1日]]) - [[明治]]26年([[1893年]])[[1月22日]])は、[[江戸時代]][[幕末]]から[[明治]]にかけて活躍した[[歌舞伎]]狂言作者。本名は'''吉村 芳三郎'''(よしむら よしさぶろう)。[[俳名]]に'''其水'''(そすい)。別名に'''古河 黙阿弥'''(ふるかわ-)。[[江戸]][[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]生まれ。
 
  
== 来歴 ==
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歌舞伎狂言作者。本姓吉村,幼名芳三郎。5世鶴屋南北に入門。2世河竹新七を襲名し,幕末にはおもに4世市川小団次に世話物を,明治には9世市川団十郎,5世尾上菊五郎,1世市川左団次らに世話物,時代物のほか活歴物,散切物,松羽目物などの新傾向の作品を書いた。 1881年黙阿弥と改名後も執筆を続け,その作品は『[[三人吉三廓初買]] (さんにんきちさくるわのはつがい) 』 (1860) ,『[[青砥稿花紅彩画]] (あおとぞうしはなのにしきえ) 』 (通称『白浪五人男』)  (62) ,『[[勧善懲悪覗機関]] (かんぜんちょうあくのぞきからくり) 』 (通称『村井長庵』)  (62) ,『[[梅雨小袖昔八丈]]』 (通称『髪結新三』)  (73) ,『天衣紛上野初花 (くもにまごううえののはつはな) 』 (81) ,『島鵆 (しまちどり) 月白浪』 (81) ,『高時』 (84) など約 360編に及ぶ。本領は幕末市井を描写した生世話,特に白浪物で,江戸演劇の集大成者とされる。
江戸・日本橋の裕福な[[商家]]吉村勘兵衛の二男に生まれたが、若い頃から[[読本]][[芝居]][[台本]]、[[川柳]]や[[狂歌]]の創作にふけるようになり、14歳で道楽が過ぎて親から[[勘当]]されてしまう。[[貸本屋]]の[[手代]]となって生計をたてるようになるが、仕事はそっちのけで朝から晩まで読書三昧の日々を送る。これが将来の糧となる。
 
  
やがて「芳芳」の雅号で[[狂歌]]<!--、茶番、-->や[[俳句]]、舞踊などで頭角をあらわすようになると、[[天保]]6年(1835年)にはとうとう仕事を辞めて、[[芝宇田川町]]の[[舞踊|踊り]]の師匠お紋(歌舞伎役者[[澤村四郎五郎|二代目澤村四郎五郎]]の娘)の紹介で、[[鶴屋南北 (5代目)|五代目鶴屋南北]]の門下となり、'''勝 諺蔵'''(かつ げんぞう)と名を改める。そもそも抜群の記憶力があり、『[[勧進帳]]』などは若い頃から読み尽くしているので、その全[[科白]]を暗記して難役・[[武蔵坊弁慶|弁慶]]をつとめる[[市川團十郎 (7代目)|七代目市川團十郎]]を[[後見]]、これで認められるようになる。天保12年 ([[1841年]]) '''芝 <!--(斯波)-->晋輔'''(しば しんすけ)、天保14年(1843年)には'''二代目 河竹 新七'''(にだいめ かわたけ しんしち)を襲名し立作者となる。[[嘉永]]4年(1851年)11月江戸[[河原崎座]]の[[顔見世]]狂言『升鯉滝白籏』(えんま小兵衛)が好評で注目される。
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{{テンプレート:20180815sk}}
[[File:Mokuami residence.JPG|thumb|180px|河竹黙阿弥住居跡<br/>(<!--[[浅草寺]]近く・-->浅草1-36-3)<!-- <br/> {{ウィキ座標2段度分秒|35|42|44.75|N|139|47|48.3|E|}}--><!--???-->]]
 
 
 
立作者になってからもしばらくは鳴かず飛ばずだったが、[[市川小團次 (4代目)|四代目市川小團次]]と出逢ったことが大きな転機となる。[[嘉永]]7年(1853年)に小團次のために書いた『[[都鳥廓白波]]』(忍の惣太)は大当たりとなり、これが出世作となった。[[幕末]]には小團次との提携により『[[三人吉三廓初買]]』(三人吉三)や『[[小袖曾我薊色縫]]』(=『花街模様薊色縫』、十六夜清心)などの名作を次々に発表する。また、[[澤村田之助 (3代目)|三代目澤村田之助]]には『[[処女翫浮名横櫛]]』(切られお富)、[[尾上菊五郎 (5代目)|十三代目市村羽左衛門(五代目尾上菊五郎)]]には『[[青砥稿花紅彩画]]』(白浪五人男)<!--『[[粋菩提悟道野晒]]』(野晒悟助)-->などを書き、引っ張りだことなった。
 
 
 
[[慶応]]2年(1866年)に小團次は死ぬが、[[明治維新]]後もその筆は衰えなかった。この時代には[[歌舞伎#明治以降の歌舞伎|明治歌舞伎]]を牽引した[[團菊左]]と不可分の作者として活躍する。この時期の代表作としては五代目尾上菊五郎に書いた『[[天衣紛上野初花]]』(河内山)、『[[茨木]]』、『[[新皿屋敷月雨暈]]』(魚屋宗五郎)、初代市川左團次に書いた『[[樟紀流花見幕張]]』(慶安太平記)、<!--、劇聖と呼ばれ活躍した-->九代目市川團十郎に書いた『[[北条九代名家功]]』(高時)、『[[紅葉狩]]』、『[[極付幡随長兵衛]]』(湯殿の長兵衛)など、枚挙に暇がない。
 
 
 
生涯に書いた演目は300余。歌舞伎に西洋劇の合理性を取り入れようと試行錯誤した[[坪内逍遙]]でさえ、新七のことになると「江戸演劇の大問屋」「明治の[[近松門左衛門|近松]]」「我国の[[シェークスピア|沙翁]]」と手放しで絶賛した。一方新七の方はというと、はじめのうちは九代目<!--「九代目」といえば「九代目市川團十郎」をさします-->に乞われて[[活歴物]]をいくつか書いてはみたものの、その九代目<!--旧幕臣で--><!--関連性?-->が新聞記者出身の[[福地桜痴]]などと本格的に[[演劇改良運動]]に取り組み始めると、これに嫌気がさしてそろそろ作者家業もおっくうになってきた。明治14年(1881年)、團菊左のために[[散切物]]の『[[島鵆月白浪]]』(島ちどり)を書き上げると、これを一世一代の大作として引退を宣言し、さらにその名を'''黙阿弥'''(もくあみ)と改めた。
 
 
 
しかし黙阿弥に匹敵するような作者は当時他にはいなかった。結局黙阿弥は引退後も「スケ」(助筆)の名で事実上の立作者であり続けたのである。黙阿弥の存在はそれほど偉大だった。演劇改良運動の推進者ひとりだった[[依田学海]]は、自ら文化人を自負する漢学者だったこともあり黙阿弥を「馬鹿」と酷評したこともあったが、『新皿屋敷月雨暈』(魚屋宗五郎)で主人公の宗五郎が最愛の妹を殺されて禁酒を破り酔態に陥ってゆくくだりを目の当たりにすると、「あのように書けるものではない。天才だ!」と絶賛している。やがて演劇改良運動が[[演劇改良運動|活歴の失敗]]という形で幕を下ろすと、黙阿弥<small>改メ</small>'''古河黙阿弥'''(ふるかわ もくあみ)の意欲的な創作活動は以前にも増して活発になった。そしてそれは最晩年まで変わることはなかった。
 
 
 
明治26年(1893年)1月東京[[歌舞伎座]]『奴凧廓春風』を絶筆として同月22日、[[本所]]二葉町の自宅で[[脳溢血]]のため<ref>[[服部敏良]]『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)9頁</ref>死去した。享年76(満年齢)。
 
 
 
==作風==
 
黙阿弥の作品の特徴としてまず第一にあげられるのが、俗に「黙阿弥調」とも呼ばれる華美な[[科白]]にある。たとえば『[[三人吉三]]』の序幕「大川端庚申塚の場」の[[三人吉三廓初買#あらすじと見どころ|「厄払い」]]と呼ばれるお嬢吉三の独白は、「月も朧に白魚の、篝も霞む春の空……」と朗々と唄い上げる極めて洗練されたもので、しかも[[類義語|類語]]や[[掛詞]]を駆使した七五調の句が観客を魅了する。〆句の「こいつぁ春から縁起がいいわえ」とは、実は通りすがりの[[私娼|夜鷹]]を大川に突き落として金を奪ってみたところなんと百両もあったという、とんでもない幸運を素直に喜ぶ盗賊の浮かれ具合が言い表されているのだが、ここで強盗傷害犯の悪逆さを観客に微塵も感じさせないのが黙阿弥の真骨頂である。<!--歌舞伎界では「厄払い」と呼ばれ、リズミカルな七五調に掛詞・縁語を駆使し、一人で或いは複数で語ることでオペラのアリアや二重唱のような効果を上げている。--><!-- ?? -->
 
 
 
黙阿弥が特にその本領を発揮したのは[[世話物]]で、特に盗賊を主人公に添えた一連の演目は「[[白浪物]]」として一つの分野を確立するまでに至った。黙阿弥の白浪物に登場する悪人は、いずれも小心者だったり因果に翻弄される弱者であり、そこがふてぶてしい極悪人が最後に高笑いするような[[鶴屋南北 (4代目)|大南北]]の作品と大きく異なる点である。
 
 
 
黙阿弥はまた、現実的な内容をあくまでも写実的に、それでいてどこまでも叙情的に描くことに秀でていた。黙阿弥の演目の多くは市井の人、それも社会の底辺で喘ぎながら、毎日を綱渡りのようにして暮らしをしている者を主人公としている。それでいて[[歌舞伎#歌舞伎音楽|下座音楽]]に[[浄瑠璃]]が多用されているため、全体の雰囲気が陰鬱さに包まれることがなく、情緒豊かで印象的な叙事詩に仕上げられている。
 
 
 
明治以後は『[[船弁慶]]』や『[[紅葉狩]]』などの<!--能楽風の新しい舞踊である-->[[松羽目物]]の作詞も行った。晩年には自作の演目を全集としてまとめた『狂言百種』を発行している。
 
 
 
===主な作品===
 
旧暦の年月は漢数字で表した。
 
{| class="wikitable"
 
!本外題
 
!別外題
 
!通称
 
!初演
 
!劇場
 
!分類
 
|-
 
|{{smaller|&nbsp; みやこどり ながれの しらなみ}}<br />『'''[[都鳥廓白浪]]'''』
 
|
 
|{{smaller|&nbsp; しのぶの そうた}}<br />「忍の惣太」
 
|{{smaller|1854年4月}}<br />安政元年三月
 
|{{smaller|江戸}}<br />[[河原崎座]]
 
|{{smaller|[[世話物]]}}<br />[[白浪物]]
 
|-
 
|{{smaller|&nbsp; つたもみじ うつのや とうげ}}<br />『'''[[蔦紅葉宇都谷峠]]'''』
 
|
 
|{{smaller|&nbsp; ぶんや ごろし  うつのや とうげ}}<br />「文弥殺し」 「宇都谷峠」
 
|{{smaller|1856年9月}}<br />安政三年九月
 
|{{smaller|江戸}}<br />[[市村座]]
 
|{{smaller|世話物}}<br /> <!---->
 
|-
 
|{{smaller|&nbsp; ねずみこもん はるの しんがた}}<br />『'''[[鼠小紋東君新形]]'''』
 
|
 
|{{smaller|&nbsp; ねずみこぞう}}<br />「鼠小僧」
 
|{{smaller|1857年2月}}<br />安政四年正月
 
|{{smaller|江戸}}<br />市村座
 
|{{smaller|世話物}}<br />白浪物
 
|-
 
|{{smaller|&nbsp; あみもよう とうろの きくきり}}<br />『'''[[網模様燈籠菊桐]]'''』
 
|
 
|{{smaller|&nbsp; こざる しちのすけ}}<br />「小猿七之助」
 
|{{smaller|1857年8月}}<br />安政四年七月
 
|{{smaller|江戸}}<br />市村座
 
|{{smaller|世話物}}<br />白浪物
 
|-
 
|{{smaller|&nbsp; こそで そが あざみの いろぬい}}<br />『'''[[小袖曾我薊色縫]]'''』
 
|{{smaller|&nbsp; さともよう あざみの いろぬい}}<br />『花街模様薊色縫』
 
|{{smaller|&nbsp; いざよい せいしん}}<br />「十六夜清心」
 
|{{smaller|1858年3月}}<br />安政五年二月
 
|{{smaller|江戸}}<br />市村座
 
|{{smaller|世話物}}<br />白浪物
 
|-
 
|{{smaller|&nbsp; くろてぐみ くるわの たてひき}}<br />『'''[[黒手組曲輪達引]]'''』
 
|
 
|{{smaller|&nbsp; くろてぐみの すけろく}}<br />「黒手組の助六」
 
|{{smaller|1858年4月}}<br />安政五年三月
 
|{{smaller|江戸}}<br />市村座
 
|{{smaller|世話物}}<br />
 
|-
 
|{{smaller|&nbsp; さんにんきちさ くるわの はつがい}}<br />『'''[[三人吉三廓初買]]'''』
 
|{{smaller|&nbsp; さんにんきちさ ともえの しらなみ}}<br />『三人吉三巴白浪』
 
|{{smaller|&nbsp; さんにんきちさ}}<br />「三人吉三」
 
|{{smaller|1860年2月}}<br />安政七年正月
 
|{{smaller|江戸}}<br />市村座
 
|{{smaller|世話物}}<br />白浪物
 
|-
 
|{{smaller|&nbsp; かがみやま ごにちの いわふじ}}<br />『'''[[加賀見山再岩藤]]'''』
 
|
 
|{{smaller|&nbsp; こつよせの いわふじ}}<br />「骨寄せの岩藤」
 
|{{smaller|1860年4月}}<br />万延元年三月
 
|{{smaller|江戸}}<br />市村座
 
|{{smaller|[[時代物]]}}<br />[[お家騒動|御家物]]
 
|-
 
|{{smaller|&nbsp; はちまん まつり よみやの にぎわい}}<br />『'''[[八幡祭小望月賑]]'''』
 
|
 
|{{smaller|&nbsp; ちぢみや しんすけ}}<br />「縮屋新助」
 
|{{smaller|1860年8月}}<br />万延元年七月
 
|{{smaller|江戸}}<br />市村座
 
|{{smaller|世話物}}<br /> <!---->
 
|-
 
|{{smaller|&nbsp; あおとぞうし はなの にしきえ}}<br />『'''[[青砥稿花紅彩画]]'''』
 
|{{smaller|&nbsp; べんてんむすめ めおの しらなみ}}<br />『弁天娘女男白浪』<br />{{smaller|&nbsp; おとにきく べんてんこぞう}}<br />『音菊弁天小僧』
 
|{{smaller|&nbsp; しらなみ ごにんおとこ  べんてんこぞう}}<br />「白浪五人男」    「弁天小僧」
 
|{{smaller|1862年3月}}<br />文久二年三月
 
|{{smaller|江戸}}<br />市村座
 
|{{smaller|世話物}}<br />白浪物
 
|-
 
|{{smaller|&nbsp; かんぜんちょうあく のぞき からくり}}<br />『'''[[勧善懲悪覗機関]]'''』
 
|
 
|{{smaller|&nbsp; むらい ちょうあん}}<br />「村井長庵」
 
|{{smaller|1862年8月}}<br />文久二年八月
 
|{{smaller|江戸}}<br />[[守田座]]
 
|{{smaller|世話物}}<br />[[大岡政談]]
 
|-
 
|{{smaller|&nbsp; むすめ ごのみ うきなの よこぐし}}<br />『'''[[処女翫浮名横櫛]]'''』
 
|
 
|{{smaller|&nbsp; きられ おとみ}}<br />「切られお富」
 
|{{smaller|1864年5月}}<br />元治元年四月
 
|{{smaller|江戸}}<br />守田座
 
|{{smaller|世話物}}<br />白浪物
 
|-
 
|{{smaller|&nbsp; つきの かけざら こいじの よいやみ}}<br />『'''[[月缺皿恋路宵闇]]'''』
 
|
 
|{{smaller|&nbsp; べにざら かけざら}}<br />「紅皿欠皿」
 
|{{smaller|1865年3月}}<br />慶応元年三月
 
|{{smaller|江戸}}<br />守田座
 
|{{smaller|世話物}}<br />白浪物
 
|-
 
|{{smaller|&nbsp; ふねへ うちこむ はしまの しらなみ}}<br />『'''[[船打込橋間白浪]]'''』
 
|
 
|{{smaller|&nbsp; いかけまつ}}<br />「鋳掛松」
 
|{{smaller|1866年3月}}<br />慶応二年二月
 
|{{smaller|江戸}}<br />守田座
 
|{{smaller|世話物}}<br />白浪物
 
|-
 
|{{smaller|&nbsp; ぞうほ ももやま ものがたり}}<br />『'''[[増補桃山譚]]'''』
 
|
 
|{{smaller|&nbsp; じしん かとう}}<br />「地震加藤」
 
|{{smaller|1869年9月}}<br />明治二年八月
 
|{{smaller|東京}}<br />[[市村座|村山座]]
 
|{{smaller|時代物}}<br />[[活歴物]]
 
|-
 
|{{smaller|&nbsp; くすのきりゅう はなみの まくばり}}<br />『'''[[樟紀流花見幕張]]'''』
 
|
 
|{{smaller|&nbsp; けいあん たいへいき まるばし ちゅうや}}<br />「慶安太平記」   「丸橋忠弥」
 
|{{smaller|1870年4月}}<br />明治三年三月
 
|{{smaller|東京}}<br />守田座
 
|{{smaller|時代物}}<br />活歴物
 
|-
 
|{{smaller|つゆこそで むかし はちじょう}}<br />『'''[[梅雨小袖昔八丈]]'''』
 
|
 
|{{smaller|&nbsp; かみゆい しんざ}}<br />「髪結新三」
 
|{{smaller|1874年}}<br />明治6年5月
 
|{{smaller|東京}}<br />[[中村座]]
 
|{{smaller|世話物}}<br />大岡政談
 
|-
 
|{{smaller|&nbsp; くもの うえの さんえの さくまえ}}<br />『'''[[天衣紛上野初花|雲上野三衣策前]]'''』
 
|{{smaller|&nbsp; くもにまごう うえのの はつはな}}<br />『[[天衣紛上野初花]]』
 
----
 
{{smaller|&nbsp; ゆきの ゆうべ いりやの あぜみち}}<br />『[[雪暮夜入谷畦道]]』
 
|{{smaller|&nbsp; こうちやまと なおざむらい(こうちやま)}}<br />「河内山と直侍(河内山)」
 
----
 
{{smaller|&nbsp; みちとせと なおざむらい}}<br />「三千歳と直侍」
 
|{{smaller|1875年}}<br />明治7年10月
 
|{{smaller|東京}}<br />河原崎座
 
|{{smaller|世話物}}<br />白浪物
 
|-
 
|{{smaller|&nbsp; なとりぐさ へいけ ものがたり}}<br />『'''[[牡丹平家譚]]'''』
 
|
 
|{{smaller|&nbsp; しげもり かんげん}}<br />「重盛諌言」
 
|{{smaller|1876年}}<br />明治9年5月
 
|{{smaller|東京}}<br />中村座
 
|{{smaller|時代物}}<br />活歴物
 
|-
 
|{{smaller|&nbsp; ふじびたい つくばの しげやま}}<br />『'''[[富士額男女繁山]]'''』
 
|
 
|{{smaller|&nbsp; おんなしょせい しげる}}<br />「女書生繁」
 
|{{smaller|1877年}}<br />明治10年3月
 
|{{smaller|東京}}<br />[[新富座]]
 
|{{smaller|世話物}}<br />[[散切物]]
 
|-
 
|{{smaller|&nbsp; じつげつせい きょうわ せいだん}}<br />『'''[[日月星享和政談]]'''』
 
|
 
|{{smaller|&nbsp; えんめいいん にっとう}}<br />「延命院日当」
 
|{{smaller|1878年}}<br />明治11年10月
 
|{{smaller|東京}}<br />新富座
 
|{{smaller|世話物}}<br /> <!---->
 
|-
 
|{{smaller|&nbsp; にんげん ばんじ かねの よのなか}}<br />『'''[[人間万事金世中]]'''』
 
|
 
|{{smaller|&nbsp; かねの よのなか}}<br />「金の世の中」
 
|{{smaller|1879年}}<br />明治12年2月
 
|{{smaller|東京}}<br />新富座
 
|{{smaller|世話物}}<br />散切物
 
|-
 
|{{smaller|&nbsp; とじあわせ おでんの かなぶみ}}<br />『'''[[綴合於伝仮名書]]'''』
 
|
 
|{{smaller|&nbsp; たかはし おでん}}<br />「高橋お伝」 「かなぶみ」
 
|{{smaller|1879年}}<br />明治12年5月
 
|{{smaller|東京}}<br />新富座
 
|{{smaller|世話物}}<br />散切物
 
|-
 
|{{smaller|&nbsp; しもよの かね じゅうじの つじうら}}<br />『'''[[霜夜鐘十字辻筮]]'''』
 
|
 
|{{smaller|&nbsp; しもよの かね}}<br />「霜夜の鐘」
 
|{{smaller|1880年}}<br />明治13年6月
 
|{{smaller|東京}}<br />新富座
 
|{{smaller|世話物}}<br />白浪物・散切物
 
|-
 
|{{smaller|&nbsp; きわめつき ばんずい ちょうべえ}}<br />『'''[[極付幡随長兵衛]]'''』
 
|
 
|{{smaller|&nbsp; ゆどのの ちょうべえ}}<br />「湯殿の長兵衛」
 
|{{smaller|1881年}}<br />明治14年10月
 
|{{smaller|東京}}<br />[[本郷座|春木座]]
 
|{{smaller|世話物}}<br />[[世話物|生世話物]]
 
|-
 
|{{smaller|&nbsp; しまちどり つきの しらなみ}}<br />『'''[[島鵆月白浪]]'''』
 
|
 
|{{smaller|&nbsp; しまちどり}}<br />「島ちどり」
 
|{{smaller|1881年}}<br />明治14年11月
 
|{{smaller|東京}}<br />新富座
 
|{{smaller|世話物}}<br />白浪物・散切物
 
|-
 
|{{smaller|&nbsp; しん さらやしき つきの あまがさ}}<br />『'''[[新皿屋舗月雨暈]]'''』
 
|
 
|{{smaller|&nbsp; さかなや そうごろう}}<br />「魚屋宗五郎」
 
|{{smaller|1883年}}<br />明治16年5月
 
|{{smaller|東京}}<br />市村座
 
|{{smaller|世話物}}<br />御家物
 
|-
 
|{{smaller|&nbsp; ほうじょう くだい めいかの いさおし}}<br />『'''[[北条九代名家功]]'''』
 
|
 
|{{smaller|&nbsp; たかとき  よしさだ}}<br />「高時」 「義貞」
 
|{{smaller|1883年}}<br />明治17年11月
 
|{{smaller|東京}}<br />[[中村座|猿若座]]
 
|{{smaller|時代物}}<br />活歴物
 
|-
 
|{{smaller|&nbsp; すいてんぐう めぐみの ふかがわ}}<br />『'''[[水天宮利生深川]]'''』
 
|
 
|{{smaller|&nbsp; ふでや こうべえ(ふでこう)}}<br />「筆屋幸兵衛(筆幸)」
 
|{{smaller|1885年}}<br />明治18年2月
 
|{{smaller|東京}}<br />[[明治座|千歳座]]
 
|{{smaller|世話物}}<br />散切物
 
|-
 
|{{smaller|&nbsp; しせんりょう こばんの うめのは}}<br />『'''[[四千両小判梅葉]]'''』
 
|
 
|{{smaller|&nbsp; しせんりょう}}<br />「四千両」
 
|{{smaller|1885年}}<br />明治18年11月
 
|{{smaller|東京}}<br />千歳座
 
|{{smaller|世話物}}<br />白浪物・生世話物
 
|-
 
|{{smaller|&nbsp; めくら ながや うめが かがとび}}<br />『'''[[盲長屋梅加賀鳶]]'''』
 
|
 
|{{smaller|&nbsp; かがとび}}<br />「加賀鳶」
 
|{{smaller|1886年}}<br />明治19年3月
 
|{{smaller|東京}}<br />千歳座
 
|{{smaller|世話物}}<br />白浪物・生世話物
 
|}
 
 
 
===黙阿弥調の例===
 
*『三人吉三廓初買』(三人吉三)大川端庚申塚の場、お嬢吉三の科白
 
*:月も朧{{smaller|(おぼろ)}}に白魚の<br />篝{{smaller|(かがり)}}も霞む春の空<br />つめてぇ風もほろ酔に<br />心持好く浮か浮かと<br />浮かれ烏の只一羽<br />塒{{smaller|(ねぐら)}}へ帰る川端で<br />棹{{smaller|(さお)}}の雫か濡れ手で粟<br />思いがけなく手に入る百両<br />ほんに今夜は節分か<br />西の海より川の中<br />落ちた夜鷹は厄落とし<br />豆だくさんに一文の<br />銭と違って金包み<br />こいつぁ春からぁ縁起がいいわぇ
 
 
 
*『青砥稿花紅彩画』(白浪五人男)雪ノ下浜松屋の場、弁天小僧菊之助の科白
 
*:知らざあ言ってぇ聞かせやしょう<br />浜の真砂{{smaller|(まさご)}}と五右衛門が<br />歌に残せし盗人の<br />種は尽きねぇ七里ヶ浜<br />その白浪の夜働き<br />以前を言やぁ江ノ島で<br />年季勤めの児ヶ淵{{smaller|(ちごがふち)}}<br />江戸の百味講{{smaller|(ひゃくみ)}}の蒔銭{{smaller|(まきせん)}}を<br />当てに小皿の一文字<br />百が二百と賽銭の<br />くすね銭せぇだんだんに<br />悪事はのぼる上の宮<br />岩本院で講中の<br />枕捜しも度重なり<br />お手長講と札付きに<br />とうとう島を追い出され<br />それから若衆の美人局{{smaller|(つつもたせ)}}<br />ここやかしこの寺島で<br />小耳に聞いた祖父さんの<br />似ぬ声色{{smaller|(こわいろ)}}で小ゆすりかたり<br />名せえ由縁の弁天小僧<br />菊之助たぁ俺がことだぁ
 
 
 
==人物==
 
 
 
 
 
===家族と門弟===
 
一人娘に絲女(いとじょ、また単に「絲」とも、新字体:糸)がいる。[[坪内逍遙]]の斡旋でその絲女の養子に迎えたのが、後に[[早稲田大学]]名誉教授・演劇研究家として知られた[[河竹繁俊]]。そして繁俊の次男が<!--黙阿弥の義理の曾孫に当たるのが、--><!-- ?? -->やはり早大名誉教授で演劇学者の[[河竹登志夫]]である。
 
 
 
また門下には[[河竹新七 (3代目)|三代目河竹新七]]、[[竹柴其水]]、[[勝能進]]らがいる。
 
 
 
=== 安政江戸地震 ===
 
[[安政江戸地震]](1855年)では「人は一代のうちに必ず災害に遭う」と考え、土蔵の縁の下に500円分の金貨を残し、関東大震災で無事であった<ref>{{Cite news |title=なゐの備え |author=松井今朝子 |newspaper=[[日本経済新聞]] |date=2015年9月4日夕刊 }}</ref>。 
 
 
 
===「河竹黙阿弥」という名前に関して===
 
 
 
====「黙」の字の意味 ====
 
 
 
二代目河竹新七が「黙阿弥」に名を改めたのは彼の引退時であった為、
 
「黙阿弥」という名前は(改良演劇論者の批判に対して)「黙して語らず」の意味でつけられたものとして解釈される事が多い<ref name="gakugei-moku">河竹登志夫『黙阿弥』、講談社学芸文庫、p190からの「「黙」の字の真意」の節</ref>。
 
 
 
しかし黙阿弥の義理のひ孫にして演劇学者の[[河竹登志夫]]によれば、実際の意味は「むしろ、これまでの推測とは正反対」<ref name="gakugei-moku" />のものであるという。黙阿弥は『著作大概』の中に「以来何事にも口を出さずにだまって居る心にて黙の字を用い''たれど、又出勤する事もあらば元のもくあみとならんとの心なり''」と書いており、河竹登志夫によれば「これはあきらかに、いまは黙るけれども「元のもくあみ」すなわち現役作者に戻ってまた「出勤」する事もあり得るという意味にしか、解しようがない」のである<ref name="gakugei-moku" />。
 
 
 
====「河竹」という名字====
 
 
 
今日黙阿弥は「河竹黙阿弥」という名で呼ばれるが、黙阿弥の筆名は正式には「古川黙阿弥」であった<ref name="gakugei" />。ただし「河竹黙阿弥」という名も黙阿弥自身も生前よく用いており<ref name="gakugei" />、没後は弟子の竹柴其水の進言で「河竹黙阿弥」に統一された<ref name="gakugei">河竹登志夫『黙阿弥』、講談社学芸文庫、p271</ref>。
 
 
 
なお戦前の辞典には「河竹という名字は生前は使われなかった」とするものがあるが、これは昭和7年に新潮社から『日本文学大事典』が出た際に事実を知らない校正者が無断で訂正した事に起因する間違い<ref name="gakugei" />であり、実際には前述のように生前にも使われている<ref>この間違えは他にも平凡社の『日本人名大事典』でも秋葉芳美により踏襲された。(河竹登志夫『黙阿弥』、p271)</ref>。
 
 
 
『日本文学大事典』の黙阿弥の項を執筆したのは黙阿弥の義理の孫の[[河竹繁俊]]であり、繁俊は前述の校正者の訂正を自身の随筆できびしく修正している<ref name="gakugei" />。<!--
 
 
 
もともとは以下の記述が書いてあったが、上述のように秋葉芳美の記述は間違えなので、コメントアウト。
 
 
 
なお、秋葉芳美によれば、人名としては「河竹黙阿弥」が多く用いられているが、狂言作者名としては正しくないという。明治14年には(二代目)河竹新七を黙阿弥と改めて以降、番付類にはただ黙阿弥とのみ記し、河竹とは名乗らず、明治17年に竹柴金作に河竹新七をつがせ、勝能進に河竹姓を与え河竹能進となのらせてから死去するまで、狂言作者名としては番付、正本、台帳に至るまで(ただし私的関係、劇場以外はのぞく)、河竹黙阿弥と署したことは無い。ただし番付には本姓と俳名の吉村其水と署名したことがあり、新富座、中村座などで古河黙阿を署したが、たとえば明治20年7月中村座『比翼紋愛井の字』の正本には、古河黙阿弥と署名した。歌舞伎座ではすべて古河黙阿弥と署名した。古河を河竹と改めたのは、河竹新七の死後、明治36年に河竹姓を吉村家に返上したからと、後人がおこなったことで、本人の知るところではない。もし黙阿弥が河竹でよいのであれば、古河と称するべきはずがなく、そう名乗ったことには理由があった。すなわち、もし河竹と書くならば二代河竹新七または河竹其水と、黙阿弥と書くならば古河黙阿弥と書くべきであるという。-->
 
 
 
==参考文献==
 
*[[河竹繁俊]] 『河竹黙阿弥』 [[吉川弘文館]]〈[[人物叢書]]〉、1987年(新装版)、ISBN 4642050655
 
*[[河竹登志夫]] 『黙阿弥』 [[文藝春秋]]、1993年(文春文庫、1996年。講談社文芸文庫、2011年)
 
*河竹登志夫 『作者の家 &nbsp;黙阿弥以後の人びと』 [[岩波現代文庫]](全2巻、新版)、2001年 
 
*[[渡辺保]] 『黙阿弥の明治維新』 [[新潮社]]、1997年(岩波現代文庫、2011年)
 
*[[今尾哲也]] 『河竹黙阿弥 &nbsp;元のもくあみとならん』 [[ミネルヴァ書房]]〈[[ミネルヴァ日本評伝選|日本評伝選]]〉、2009年 ISBN 4623054918
 
<!--
 
===関連作品===
 
*『黙阿弥オペラ』 [[井上ひさし]]作、1995年初演--><!--関連性?-->
 
 
 
==注釈==
 
{{Reflist}}
 
 
 
==関連項目==
 
*[[鶴屋南北 (4代目)|四代目鶴屋南北]]
 
 
 
==外部リンク==
 
*[http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc17/index.html 歌舞伎編 黙阿弥(文化デジタルライブラリー)] - 日本芸術文化振興会のページ
 
 
 
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河竹黙阿弥.jpg

河竹 黙阿弥(かわたけ もくあみ、旧字体:默阿彌文化13年2月3日1816年3月1日) - 明治26年(1893年1月22日

歌舞伎狂言作者。本姓吉村,幼名芳三郎。5世鶴屋南北に入門。2世河竹新七を襲名し,幕末にはおもに4世市川小団次に世話物を,明治には9世市川団十郎,5世尾上菊五郎,1世市川左団次らに世話物,時代物のほか活歴物,散切物,松羽目物などの新傾向の作品を書いた。 1881年黙阿弥と改名後も執筆を続け,その作品は『三人吉三廓初買 (さんにんきちさくるわのはつがい) 』 (1860) ,『青砥稿花紅彩画 (あおとぞうしはなのにしきえ) 』 (通称『白浪五人男』) (62) ,『勧善懲悪覗機関 (かんぜんちょうあくのぞきからくり) 』 (通称『村井長庵』) (62) ,『梅雨小袖昔八丈』 (通称『髪結新三』) (73) ,『天衣紛上野初花 (くもにまごううえののはつはな) 』 (81) ,『島鵆 (しまちどり) 月白浪』 (81) ,『高時』 (84) など約 360編に及ぶ。本領は幕末市井を描写した生世話,特に白浪物で,江戸演劇の集大成者とされる。



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