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{{Otheruseslist|'''[[令制国]]'''|[[氏族]]の河内|河内氏|[[戦艦]]|河内 (戦艦)}}
 
{{基礎情報 令制国
 
|国名    = 河内国
 
|画像    = {{令制国地図 (令制国テンプレート用)|河内国}}
 
|別称    = 河州(かしゅう)
 
|所属    = [[畿内]]
 
|領域    = [[大阪府]]東部(当初は南西部も含む)
 
|国力    = [[大国 (令制国)|大国]]
 
|距離    = <!-- 定義なし -->
 
|郡      = 14郡79郷
 
|国府    = [[大阪府]][[藤井寺市]]
 
|国分寺  = 大阪府[[柏原市]]([[河内国分寺|河内国分寺跡]])
 
|国分尼寺 = (推定)大阪府柏原市
 
|一宮    = [[枚岡神社]](大阪府[[東大阪市]])
 
}}
 
'''河内国'''(かわちのくに/かはちのくに)は、[[日本]]の地方行政区分である[[令制国]]の一つ。[[畿内]]に属する。
 
  
 +
'''河内国'''(かわちのくに/かはちのくに)
  
__TOC__{{-}}
+
現在の大阪府南東部。[[畿内]]の一国。大国。当国には[[応神天皇陵]]ほか日本最大の前方後円墳があり,応神天皇を『宋書』の倭五王と関係づけ,大和朝廷成立史において河内王朝,中王朝と考える説も出されている。もと凡河内 (おほしかわち) 国造および志貫,紺口県主が支配。初め和泉国を含んでいたが,霊亀2 (716) 年,和泉など3郡を分割して和泉監 (いずみげん) をおいた。しかし天平 12 (740) 年,再び合併し,さらに天平宝字1 (757) 年に再度,和泉国を分けて独立。国府は藤井寺市,国分寺は柏原市。『延喜式』には交野 (かたの) ,讃良 (さらら) ,茨田 (うはらた) ,若江,河内,高安,大県 (おほあかた) ,渋川,志紀,安宿 (やすかへ) ,古市 (ふるち) ,石川,錦部 (にしこり) ,丹比 (たちひ) の 14郡が記録され,『和名抄』には郷 80,田1万 1338町余がみえる。当国は畿内で都に近かったため,権門勢家の荘園が多かった。鎌倉時代には守護として三浦氏および北条氏一門があったとみられる。[[建武中興]]においては[[楠木正成]]が領有。南北朝~室町時代には[[畠山氏]],戦国時代には畠山氏から三好氏の支配に移り,天正3 (1575) 年,織田信長の領有となる。豊臣秀吉もここを直接支配下においた。江戸時代は幕府直轄地 (天領) と北条氏の狭山藩,高木氏の丹南藩。幕末には三上藩が近江から当国に移されたりした。明治4 (1871) 年7月の廃藩置県では,丹南藩は丹南県となったが,狭山藩はそれより先,同2年 12月堺県に合併。同4年 11月には丹南県,堺県ほか3県が合併して堺県となり,さらに 1881年に大阪府となる。
== 沿革 ==
 
[[ファイル:通法寺 01.jpg|thumb|[[通法寺]]の山門]]
 
[[ファイル:三好長慶.jpg|thumb|[[三好長慶]]像]]
 
  
=== 古代 ===
+
{{テンプレート:20180815sk}}  
[[7世紀]]に成立した。『[[古事記]]』には'''川内'''の表記も見え、7世紀末・[[8世紀]]初めの[[木簡]]2例にも川内と書かれている<ref>[[舘野和己]]「『古事記』と木簡に見える国名表記の対比」、『古代学』4号、[[2012年]]、17 - 18頁。</ref>。河内の名が確定したのは、おそらく[[大宝 (日本)|大宝]]4年([[704年]])の[[国印]]鋳造時である<ref>[[鎌田元一]]「律令制国名表記の成立」、『律令公民制の研究』、[[塙書房]]、[[2001年]]。</ref>。
 
 
 
河内の名を持つ国造には[[凡河内国造]]がある。また[[古代]]の[[豪族|大豪族]]の[[物部氏]]の勢力があり、[[東大阪市]]衣摺は、その本拠地のひとつであった。
 
 
 
[[霊亀]]2年([[716年]])4月16日に、[[大鳥郡]]・[[和泉郡]]・[[日根郡]]を割いて和泉監を分立させた。[[天平]]12年([[740年]])8月20日に和泉監を併合するが、[[天平宝字]]元年([[757年]])5月8日に、今度は[[和泉国]]として再び分立させた。
 
 
 
[[孝謙天皇|称徳朝]]の[[神護景雲]]3年([[769年]])に[[由義宮]]([[八尾市]])が建設されるとこれを'''西京'''と称し、それに伴って河内国が廃止され、かわって特別行政組織'''河内職'''が設置されたが、翌年元に戻された。
 
 
 
[[羽曳野市]]壺井は、[[武家の棟梁]]となった[[河内源氏]]が本拠地とした地で、その祖・[[源頼信]]や子の[[源頼義|頼義]]、孫の[[源義家|義家]]の三代の墓が、河内源氏の[[菩提寺]][[通法寺]]跡の近くに残っている。[[鎌倉幕府]]を開いた[[源頼朝]]は、彼らの後裔である。
 
 
 
=== 中世 ===
 
[[鎌倉時代]]末期、南河内の豪族の[[楠木正成]]とその一族が、[[後醍醐天皇]]に呼応して幕府打倒の兵を挙げ、[[下赤坂城]]・[[上赤坂城]]・[[千早城]]に立て篭って[[幕府]]の大軍を苦しめた。正成は[[建武 (日本)|建武]]政権で[[国司]]と[[守護]]の両方に任命されたが、[[足利尊氏]]が反旗を翻して[[南北朝時代 (日本)|南北朝]]の内乱が始まると、河内は主戦場となることが多くなり、正成の[[長男]]・[[楠木正行|正行]]は[[高師直]]率いる[[室町幕府]]の軍勢と四條縄手(四條畷)で戦い戦死した。
 
 
 
[[室町時代]]、河内[[守護]]は[[管領|三管領]]の1つ[[畠山氏]]が世襲し、[[畠山基国]]・[[畠山満慶|満慶]]・[[畠山満家|満家]]・[[畠山持国|持国]]と続いた。しかし、持国の跡目を巡って甥の[[畠山政長]]と息子の[[畠山義就]]が争いを続け、これをきっかけの一つとし、[[足利将軍家]]や守護の家督相続問題も絡んで、日本の大半の地域を二分する[[応仁の乱]]が勃発した。
 
 
 
応仁の乱が終息しても、両畠山氏の戦いは継続し、河内は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に突入した。政長は[[正覚寺 (大阪市平野区)|正覚寺]]([[大阪市]][[平野区]])で管領[[細川政元]]と義就の息子[[畠山義豊|義豊]]らに討たれたが([[明応の政変]])、子の[[畠山尚順|尚順]]は[[紀伊国]]にあって捲土重来をはかり、河内・紀伊の守護として返り咲きに成功する。そして[[畠山稙長|稙長]]の時に義就系の[[畠山義英|義英]]を討滅し、河内は統一されたが、長らく続いた戦乱によって荒廃し、実権は[[守護代]][[遊佐長教]]の手にわたり、守護は傀儡化されていく。
 
 
 
細川政元が[[阿波国|阿波]]から迎えた養子・[[細川澄元|澄元]]の子[[細川晴元|晴元]]の時代、[[阿波国]]から[[上洛]]した[[三好長慶]]は遊佐長教の娘を妻に迎えて勢力を蓄えながら晴元に従い、晴元の意に従わない[[木沢長政]]を高井田(大阪府柏原市高井田)で討つなど活躍した。しかし、長慶は後には晴元と対立、晴元方の[[三好政長]]を[[江口の戦い]]で殺害して晴元政権を打破すると、将軍を傀儡化して幕府の実権を握り、本拠地を摂津の[[芥川山城]]から河内の[[飯盛山城]]([[大阪府]][[大東市]])に移し、以後[[畿内]]において[[三好氏]]は強勢を誇った。
 
 
 
三好長慶の没後、[[三好三人衆]]と[[松永久秀]]が抗争し、河内・[[大和国|大和]]が戦場になったが、[[織田信長]]が上洛すると、河内の北半国を長慶の養子・[[三好義継]]、南半国を[[畠山昭高]](信長の妹婿)に安堵する。しかし、まもなく義継・昭高は[[元亀兵乱]]に前後して没落し、河内は信長の重臣[[佐久間信盛]]の支配に入った。その信盛も後に信長に疎まれ追放される。
 
 
 
=== 近世 ===
 
[[本能寺の変]]の後、[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]が[[清洲会議]]の結果、河内を領国としておさえる。秀吉が[[天下人]]となり、[[大坂城]]を築くと、河内の重要拠点であった[[若江城]]は廃城となった。
 
 
 
秀吉の死後、[[関ヶ原の戦い]]を経て、[[徳川家康]]が[[江戸幕府]]を開くが、河内は秀吉の子・[[豊臣秀頼|秀頼]]の領国として[[幕藩体制]]には入らなかった。[[大坂の陣|大坂夏の陣]]では、大坂城は外堀を埋められ裸城となり、篭城戦はできないと判断した大坂方は、京都から大坂をめざす徳川方を野戦で迎え撃ち、京坂間にある河内の各所で戦いが行われた。主なものとして、[[道明寺の戦い]]([[後藤基次]] vs [[伊達政宗]]・[[松平忠輝]]・[[水野勝成]]、[[真田信繁]]・[[北川宣勝]]・[[薄田兼相]] vs 伊達政宗・松平忠輝・水野勝成)、[[八尾・若江の戦い]]([[木村重成]] vs [[井伊直孝]]、[[長宗我部盛親]] vs [[藤堂高虎]])などがあった。
 
 
 
[[江戸時代]]になると、河内は[[天領]]および[[旗本]]領が点在し、[[大名]]としては[[狭山藩]]の[[後北条氏]]、[[丹南藩]]の[[高木氏]]のみが存在した。また、[[淀藩]]の[[稲葉氏]]の領地も多く存在した。
 
 
 
=== 近世以降の沿革 ===
 
* 「[[旧高旧領取調帳]]」に記載されている[[明治]]初年時点での国内の支配は以下の通り(556村・293,283石余)。'''太字'''は当該郡内に[[藩庁]]が所在。国名のあるものは[[飛地]]領。
 
** [[錦部郡]](49村・18,189石余) - [[天領|幕府領]]、[[地方知行|旗本領]]、[[狭山藩]]、[[伊勢国|伊勢]][[神戸藩]]、[[近江国|近江]][[膳所藩]]
 
** [[石川郡 (大阪府)|石川郡]](48村・25,238石余) - 幕府領、旗本領、[[常陸国|常陸]][[下館藩]]、[[相模国|相模]][[小田原藩]]、近江膳所藩
 
** [[古市郡]](14村・7,280石余) - 幕府領、旗本領、狭山藩、常陸下館藩、相模小田原藩、[[和泉国|和泉]][[伯太藩]]
 
** [[安宿部郡]](4村・2,259石余) - 幕府領、旗本領、相模小田原藩
 
** [[大県郡]](11村・4,717石余) - 幕府領、旗本領、狭山藩、相模小田原藩
 
** [[高安 (八尾市)|高安郡]](14村・5,964石余) - 旗本領、相模小田原藩、[[山城国|山城]][[淀藩]]、[[備中国|備中]][[岡田藩]]
 
** [[河内郡 (大阪府)|河内郡]](30村・16,273石余) - 幕府領、旗本領、[[京都守護職]]役知、狭山藩、相模小田原藩、[[大和国|大和]][[小泉藩]]
 
** [[讃良郡]](35村・15,679石余) - 幕府領、旗本領、京都守護職役知、大和[[郡山藩]]
 
** [[茨田郡]](85村・37,956石余) - 幕府領(一部は[[高槻藩]]預地)、旗本領、[[美濃国|美濃]][[加納藩]]、[[摂津国|摂津]]高槻藩
 
** [[交野郡]](39村・24,074石余) - 幕府領、旗本領、京都守護職役知、相模小田原藩
 
** [[若江郡]](64村・40,660石余) - 幕府領、旗本領、京都守護職役知、[[上野国|上野]][[沼田藩]]、[[下野国|下野]][[高徳藩]]、相模小田原藩、山城淀藩、大和郡山藩
 
** [[渋川郡]](34村・23,034石余) - 幕府領、旗本領、下野高徳藩、山城淀藩
 
** [[志紀郡]](22村・13,527石余) - 幕府領(一部は[[宇都宮藩]]預地)、旗本領、[[丹南藩]]、上野沼田藩、相模小田原藩、和泉伯太藩
 
** [[丹北郡]](45村・24,222石余) - 幕府領(一部は宇都宮藩預地)、旗本領、丹南藩、狭山藩、上野[[館林藩]]、下野高徳藩、相模小田原藩、和泉伯太藩
 
** [[丹南郡]](51村・22,078石余) - 幕府領、旗本領、'''丹南藩'''、'''狭山藩'''、上野館林藩、相模小田原藩
 
** [[八上郡 (大阪府)|八上郡]](11村・12,505石余) - 旗本領、上野館林藩
 
* [[慶応]]4年
 
** 2月 - 幕府領・旗本領が大坂裁判所司農局の管轄となる。
 
** [[5月2日 (旧暦)|5月2日]]([[1868年]][[6月21日]]) - 大坂裁判所司農局の管轄地域が大阪府司農局の管轄となる。
 
** [[6月8日 (旧暦)|6月8日]](1868年[[7月27日]]) - 大阪府司農局の管轄地域が大阪府南司農局の管轄となる。
 
** 6月 - [[戊辰戦争]]後の処分により小田原藩が[[減封]]となり、国内の領地が消滅。
 
* [[明治]]2年
 
** [[1月20日 (旧暦)|1月20日]]([[1869年]][[3月2日]]) - 大阪府南司農局の管轄地域が'''[[河内県 (日本)|河内県]]'''の管轄となる。
 
** [[8月2日 (旧暦)|8月2日]](1869年[[9月7日]]) - 河内県の管轄地域が'''[[堺県]]'''の管轄となる。
 
** [[12月26日 (旧暦)|12月26日]](1869年[[11月24日]]) - 狭山藩が廃藩。管轄地域が堺県の管轄となる。
 
* 明治3年
 
** [[2月27日 (旧暦)|2月27日]]([[1870年]][[3月28日]]) - 錦部郡・石川郡の旧狭山藩領を除く堺県の管轄地域が'''[[五條県]]'''の管轄となる。
 
** [[3月19日 (旧暦)|3月19日]](1870年[[4月19日]]) - 高徳藩が[[下総国|下総]][[曽我野藩]]に[[転封]]。国内の領地が堺県の管轄となる。
 
** 宇都宮藩預地・高槻藩預地が堺県の管轄となる。
 
* 明治4年
 
** [[7月14日 (旧暦)|7月14日]]([[1871年]][[8月29日]]) - [[廃藩置県]]により藩領が'''[[丹南県]]'''および[[沼田県]]、[[館林県]]、[[下館県]]、[[加納県]]、[[神戸県]]、[[膳所県]]、[[淀県]]、[[伯太県]]、[[小泉県]]、[[郡山県]]、[[高槻県]]、[[岡田県]]の[[飛地]]となる。
 
** [[10月28日 (旧暦)|10月28日]](1871年[[12月10日]]) - 第1次府県統合により、沼田県の管轄地域が'''[[群馬県]]'''の管轄となる。
 
** [[11月14日 (旧暦)|11月14日]](1871年[[12月25日]]) - 第1次府県統合により、館林県の管轄地域が'''[[栃木県]]'''、下館県の管轄地域が'''[[茨城県]]'''の管轄となる。
 
** [[11月15日 (旧暦)|11月15日]](1871年[[12月26日]]) - 第1次府県統合により、岡田県の管轄地域が'''[[深津県]]'''の管轄となる。
 
** [[11月22日 (旧暦)|11月22日]]([[1872年]][[1月2日]]) - 第1次府県統合により、全域が'''堺県'''の管轄となる。
 
* 明治7年([[1874年]])[[8月4日]] - [[摂津国]][[島上郡]]磯島村の所属郡が河内国交野郡に変更。
 
* 明治14年([[1881年]])[[2月7日]] - '''[[大阪府]]'''の管轄となる。
 
 
 
== 国内の施設 ==
 
{{座標一覧}}
 
 
 
=== 宮 ===
 
河内国内に設けられた[[天皇]]の宮殿(宮・京)は、次の通り。
 
* [[樟葉宮]] - 第26代[[継体天皇]]
 
* [[由義宮]] - 第48代[[孝謙天皇|称徳天皇]]
 
 
 
=== 国府 ===
 
[[Image:Kawachi provincial government ruins.jpg|180px|thumb|[[志貴県主神社]]境内に建つ<br />国府跡碑(藤井寺市惣社)]]
 
国府所在地を記した文献は次の通り。
 
* 『[[和名類聚抄|和名抄]]』([[平安時代]]中期成立)では、「志紀郡」<ref>[{{NDLDC|2544218/12}} 『和名類聚抄 20巻』](国立国会図書館デジタルコレクション)12コマ参照。</ref>
 
* 『[[拾芥抄]]』([[鎌倉時代]]中期から[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]成立)では、「大縣郡(大県郡)」<ref>[{{NDLDC|2543900/52}} 『拾芥抄 3巻』](国立国会図書館デジタルコレクション)52コマ参照。</ref>
 
* 『[[節用集]]』([[室町時代]]中期成立)では、「丹北郡」<ref>[{{NDLDC|1112421/136}} 『節用集 易林本』](国立国会図書館デジタルコレクション)136コマ。</ref>
 
 
 
国府は、現在の[[大阪府]][[藤井寺市]]国府・惣社にある国府遺跡({{ウィキ座標|34|34|32.92|N|135|37|15.35|E|region:JP-27_type:landmark|位置|name=河内国府跡(推定):国府遺跡}})と推定されている。ただし、[[奈良時代]]の間に一度移動しているとされる(どちらも現在の藤井寺市内)。
 
 
 
=== 国分寺・国分尼寺 ===
 
* [[河内国分寺|河内国分寺跡]] ([[大阪府]][[柏原市]]国分東条町、{{ウィキ座標|34|34|1.34|N|135|39|28.96|E|region:JP-27_type:landmark|位置|name=河内国分寺跡}})
 
*: 僧寺は天平期に創建、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の頃に廃れたとされる。
 
 
 
[[尼寺]]は同じく[[柏原市]]国分東条尼寺にあったと推定されているが、[[平安時代]]には荒廃していたと考えられている。
 
 
 
=== 神社 ===
 
'''[[延喜式内社]]'''
 
: 『[[延喜式神名帳]]』には、大社23座13社・小社90座80社の計113座93社が記載されている([[河内国の式内社一覧]]参照)。大社13社のうち、[[名神大社]]は以下に示す9座4社である。
 
* [[安宿部郡|安宿郡]] 杜本神社二座
 
** 論社:[[杜本神社#羽曳野市の杜本神社|杜本神社]]([[大阪府]][[羽曳野市]]駒ケ谷、{{ウィキ座標|34|32|44.31|N|135|37|32.55|E|region:JP-27_type:landmark|位置|name=名神大社論社:杜本神社}})
 
** 論社:杜本神社(大阪府[[柏原市]]国分東条町、{{ウィキ座標|34|34|9.78|N|135|38|45.98|E|region:JP-27_type:landmark|位置|name=名神大社論社:杜本神社}})
 
* 安宿郡 飛鳥戸神社
 
** 比定社:[[飛鳥戸神社]](大阪府[[羽曳野市]]飛鳥、{{ウィキ座標|34|32|7.17|N|135|38|19.41|E|region:JP-27_type:landmark|位置|name=名神大社:飛鳥戸神社}})
 
* [[高安郡]] 恩智神社二座
 
** 比定社:[[恩智神社]](大阪府[[八尾市]]恩智中町、{{ウィキ座標|34|36|23.45|N|135|38|19.07|E|region:JP-27_type:landmark|位置|name=河内国二宮(参考)、名神大社:恩智神社}})
 
* [[河内郡 (大阪府)|河内郡]] 枚岡神社四座
 
** 比定社:[[枚岡神社]](大阪府[[東大阪市]]出雲井町、{{ウィキ座標|34|40|11.83|N|135|39|2.47|E|region:JP-27_type:landmark|位置|name=河内国一宮、名神大社:枚岡神社}})
 
 
 
'''[[総社]]・[[一宮]]以下'''
 
* 総社:[[志貴県主神社]] (大阪府[[藤井寺市]]惣社、{{ウィキ座標|34|34|35.08|N|135|37|6.11|E|region:JP-27_type:landmark|位置|name=河内国総社:志貴県主神社}})
 
*: 惣社のある土地にこの神社が移ってきたという説と国府の近くにあったので惣社になったという説がある。
 
* 一宮:[[枚岡神社]] (大阪府[[東大阪市]][[出雲井町]])<ref>『日本中世国家と諸国一宮制』([[2009年]])索引p. 3。</ref>
 
*: ただし、実際に「一宮」と呼ばれるようになるのは[[近世]]以後である。
 
 
 
また、二宮には[[恩智神社]](大阪府八尾市恩智中町)が挙げられることがある。ただし、これは河内国第2位の勢力を持っただけで、神社制度としての二宮となった訳ではなく、二宮と呼ばれるようになるのも近世以後である。<!-- [[恩智神社]]は、あくまで参考としての二宮 -->そのほか、[[片埜神社]](大阪府[[枚方市]])も「河州一ノ宮」を名乗っているが、実際には交野郷一宮であったものが河内一宮と混同されたものとされる。三宮以下はない。
 
 
 
=== 守護所 ===
 
[[承久の乱]]以前の[[守護]]の設置は見られない。最初の[[守護所]]は不明であるが、その後、丹南、古市、若江、高屋と移った。
 
 
 
=== 安国寺利生塔 ===
 
* 安国寺 - 大阪府[[八尾市]]龍華にあった
 
* 利生塔 - [[教興寺]] (大阪府[[八尾市]]教興寺)
 
 
 
=== 城郭 ===
 
* [[交野城]] (大阪府[[交野市]])
 
* [[飯盛山城]] (大阪府[[大東市]]・[[四條畷市]])
 
* [[若江城]] (大阪府[[東大阪市]])
 
* [[八尾城]] (大阪府[[八尾市]])
 
* [[高屋城]] (大阪府[[羽曳野市]])
 
* [[千早城]] (大阪府[[南河内郡]][[千早赤阪村]])
 
* [[上赤坂城]] (大阪府南河内郡千早赤阪村)
 
* [[下赤坂城]] (大阪府南河内郡千早赤阪村)
 
* [[烏帽子形城]] (大阪府[[河内長野市]])
 
 
 
== 地域 ==
 
河内国の範囲は[[生駒山地]]・[[金剛山地]]の西側に沿った南北に細長い地域で、現在の[[大阪府]]東部に該当するが、[[奈良時代]]の初めまでは海側の[[和泉国]]の領域も含んでいた。
 
 
 
西の平野部は、[[縄文海進]]によってできた河内湾に[[淀川]]・[[大和川]]から流入する土砂が堆積して広がっていったものである。湾は、古代に[[上町台地]]から北方へ伸びる砂州によって塞がれて[[潟湖]]([[河内湖]])となり、やがて新開池(しんがいけ、[[大阪市]][[鶴見区 (大阪市)|鶴見区]]・[[東大阪市]]・[[大東市]])・[[深野池]](ふこのいけ、[[寝屋川市]]・[[門真市]]・大東市・東大阪市・[[四條畷市]])の2つの広大な水域が残った。深野池の中の島(三箇)の領主[[三箇頼照]](サンチョ)はキリスト教を信仰し、領内に大勢の宣教師と信者を保護したため、三箇は畿内のキリシタンの一大拠点となった。
 
 
 
[[江戸時代]]、大坂から船で淀川・新開池・深野池と進んで[[飯盛山 (生駒山地)|飯盛山]]のふもとの[[野崎観音]]の近くまで遡航し、「野崎参り」をすることが盛んになった。[[宝永]]元年([[1704年]])に[[堺]]に向けて西流する現在の流路に大和川を付け替える工事が行われると、両大池の水量が減少し、[[鴻池新田]]などの[[新田開発]]が進められた。新開池は姿を消し、深野池もわずかに一部が調整池として残るのみだが、この地域にはかつての水郷の面影が今も見られる。
 
 
 
[[山城国]]八幡([[京都府]][[八幡市]])を基点とする[[東高野街道]]は、[[洞ヶ峠]]から入って河内国を南北に縦貫し、長野([[河内長野市]])で[[西高野街道]]と合流してからは[[高野街道]]となり、[[紀見峠]]・橋本([[和歌山県]][[橋本市]])を経て[[高野山]]へ至る。高野山参りが盛んになると京都から高野山への参詣道として賑わうようになった。
 
 
 
=== 郡 ===
 
* [[茨田郡]]
 
* [[交野郡]]([[飛鳥時代]]後期に茨田郡より割置)
 
* [[讃良郡]]
 
* [[河内郡 (大阪府)|河内郡]]
 
* [[高安郡]]
 
* [[大県郡]](養老4年([[720年]])11月、[[堅下郡]]と[[堅上郡]]を統合して設置)
 
* [[若江郡]]
 
* [[渋川郡]]
 
* [[志紀郡]]
 
* [[安宿部郡]](安宿郡とも表記)
 
* [[古市郡]]
 
* [[石川郡 (大阪府)|石川郡]]
 
* [[錦部郡]]
 
* [[丹比郡]]([[平安時代]]後期に分割)
 
** [[丹南郡]]
 
** [[丹北郡]]
 
** [[八上郡 (大阪府)|八上郡]](平安時代後期に丹北郡より割置)
 
 
 
'''明治期の改廃'''
 
* [[北河内郡]] … [[1896年]]([[明治]]29年)4月1日に茨田郡、交野郡、讃良郡を統合して設けられた[[郡]]
 
* [[中河内郡]] … 1896年(明治29年)4月1日に河内郡、高安郡、大県郡、若江郡、渋川郡、志紀郡の一部(三木本村)、丹北郡を統合して設けられた郡
 
* [[南河内郡]] … 1896年(明治29年)4月1日に志紀郡の一部(三木本村以外)、安宿部郡、古市郡、石川郡、錦部郡、丹南郡、八上郡を統合して設けられた郡
 
 
 
=== 現在の行政区分 ===
 
以下は大阪府による地域区分であり、郡の区分とは差異がある。
 
* [[北河内 (大阪府)|北河内]] - [[枚方市]]、[[交野市]]、[[寝屋川市]]、[[守口市]]、[[門真市]]、[[四條畷市]]、[[大東市]]
 
* [[中河内 (大阪府)|中河内]] - [[東大阪市]]、[[八尾市]]、[[柏原市]]
 
* [[南河内 (大阪府)|南河内]] - [[松原市]]、[[藤井寺市]]、[[羽曳野市]]、[[富田林市]]、[[河内長野市]]、[[大阪狭山市]]、[[南河内郡]][[太子町 (大阪府)|太子町]]・[[河南町]]・[[千早赤阪村]]
 
 
 
上記の[[地方公共団体|自治体]]に含まれない地域は以下の通り。
 
* [[大阪市]][[鶴見区 (大阪市)|鶴見区]]のうち、旧・北河内郡[[茨田町]]
 
* 大阪市[[生野区]]のうち、旧・中河内郡[[巽町]]
 
* 大阪市[[東住吉区]]のうち、旧・中河内郡[[矢田村 (大阪府)|矢田村]]
 
* 大阪市[[平野区]]のうち、旧・中河内郡[[加美 (大阪市)|加美村]]・[[瓜破村]]・[[長吉村]]
 
* [[堺市]][[東区 (堺市)|東区]]全域
 
* 堺市[[美原区]]全域
 
* 堺市[[北区 (堺市)|北区]]のうち、旧・南河内郡[[金岡村 (大阪府)|金岡村]]・[[北八下村]]([[大字]]河合を除く。河合は現・[[松原市]]のうち)
 
 
 
この他に、[[1902年]](明治35年)4月1日、旧・北河内郡[[今津村 (大阪府)|今津村]]が[[摂津国]](旧・[[東成郡]][[榎本村]])に編入され、現・大阪市鶴見区のうちとなっている。
 
 
 
== 人物 ==
 
=== 国司 ===
 
* '''[[河内国司]]'''参照
 
 
 
=== 守護 ===
 
'''[[鎌倉幕府]]'''
 
* [[1221年]] ~ ? - [[三浦義村]]
 
* ? ~ [[1247年]] - [[三浦泰村]]
 
* [[1280年]] ~ ? - [[北条久時]]
 
* ? ~ [[1333年]] - 北条氏一門
 
 
 
'''[[室町幕府]]'''
 
* [[1336年]] ~ [[1347年]] - [[細川顕氏]]
 
* [[1347年]] ~ [[1349年]] - [[高師泰]]
 
* [[1349年]] ~ [[1351年]] - [[畠山国清]]
 
* [[1352年]] ~ [[1353年]] - [[高師秀]]
 
* [[1359年]] ~ [[1360年]] - 畠山国清
 
* [[1369年]] ~ [[1382年]] - [[楠木正儀]]
 
* [[1382年]] ~ [[1406年]] - [[畠山基国]]
 
* [[1406年]] ~ [[1408年]] - [[畠山満慶]]
 
* [[1408年]] ~ [[1433年]] - [[畠山満家]]
 
* [[1433年]] ~ [[1441年]] - [[畠山持国]]
 
* [[1441年]] ~ [[畠山持永]]
 
* 1441年 ~ [[1455年]] - 畠山持国
 
* 1455年 ~ [[1460年]] - [[畠山義就]]
 
* 1460年 ~ [[1467年]] - [[畠山政長]]
 
* 1467年 ~ ? - 畠山義就
 
* [[1467年]] ~ [[1493年]] - 畠山政長
 
* [[1493年]] ~ [[1499年]] - [[畠山義豊]]
 
* [[1499年]] ~ [[1504年]] - [[畠山義英]]
 
* [[1504年]] ~ [[1507年]] - [[細川政元]]
 
* [[1507年]] ~ [[1517年]] - [[畠山尚順]]
 
* [[1517年]] ~ [[1534年]] - [[畠山稙長]]
 
* [[1534年]] ~ [[1538年]] - [[畠山長経]]
 
* [[1538年]] ~ [[1542年]] - [[畠山在氏]]・[[畠山政国]]
 
* [[1542年]] ~ [[1545年]] - 畠山稙長
 
* [[1545年]] ~ [[畠山晴熙]]
 
* [[1545年]] ~ [[1550年]] - 畠山政国
 
* [[1550年]] ~ [[1560年]] - [[畠山高政]]
 
* [[1568年]] ~ [[1569年]] - 畠山高政
 
* [[1568年]] ~ [[1573年]] - [[三好義継]]
 
* [[1569年]] ~ 1573年 - [[畠山昭高]]
 
 
 
=== 大名 ===
 
'''[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]'''
 
* [[畠山氏#紀伊・河内畠山家 (金吾家)|河内畠山氏]]
 
** [[遊佐氏]](河内守護代、[[若江城]])
 
** [[木沢長政]](河内、山城南部守護代、[[飯盛山城]])
 
* [[三好長慶]]([[飯盛山城]])
 
 
 
'''[[安土桃山時代|織豊期]]'''
 
* [[畠山高政]]([[高屋城]]):1568年に上洛した[[足利義昭]]・[[織田信長]]に従い河内半国を与えられるが、翌年重臣の[[遊佐信教]]によって追放された
 
* [[三好義継]]([[若江城]]):1568年に上洛した足利義昭・織田信長に従い河内半国を与えられる。1573年義昭に従って信長と戦い、若江城で自刃
 
* [[三好康長]](若江城):河内半国。1575年、[[高屋城の戦い]]で信長に降服、河内半国を与えられる一方、四国攻略の担当となり、河内と四国を行き来した。一時[[豊臣秀次]]を養子とした
 
* [[羽柴秀吉]]:1582年の[[清洲会議]]後に河内国に領地を得、[[大坂城]]築城後は河内全土を直轄領とした
 
 
 
'''[[江戸時代]]の[[藩]]'''
 
* [[豊臣氏|豊臣家]]([[豊臣秀頼]])直轄領(摂津・河内・和泉65万7千石、1600年~1615年)
 
* [[丹南藩]]([[丹南陣屋]]):高木家(1万石、1623年~1871年)
 
* [[狭山藩]]([[狭山陣屋]]):[[後北条氏|北条家]](1万1千石 → 1万石、1600年~1871年)。[[後北条氏|小田原北条氏]]の末裔
 
* [[神戸藩#西代藩|西代藩]](西代陣屋):本多家(1万石、1679年~1732年) → 廃藩・伊勢[[神戸藩]]に転封
 
 
 
== 合戦 ==
 
* [[1331年]] - [[赤坂城の戦い]]、[[鎌倉幕府]]軍 x [[楠木正成]]
 
* [[1333年]] - [[千早城の戦い]]、楠木正成 x 鎌倉幕府軍
 
* [[1348年]] - [[四條畷の戦い]]、[[北朝 (日本)|北朝軍]]([[高師直]]) x [[南朝 (日本)|南朝軍]]([[楠木正行]])
 
* [[1532年]] - [[飯盛山城#飯盛城の戦い|飯盛城の戦い]]、[[木沢長政]] x [[三好元長]]
 
* [[1542年]] - [[太平寺の戦い]]、[[三好政長]]・[[三好長慶]]・[[遊佐長教]] x 木沢長政
 
* [[1562年]] - [[教興寺の戦い]]、三好長慶 x [[畠山高政]]
 
* [[1573年]] - [[若江城の戦い]]、[[織田信長]]軍([[佐久間信盛]]) x [[三好義継]]
 
* [[1575年]] - [[高屋城の戦い]]、織田信長軍 x [[三好康長]]・[[石山本願寺]]軍
 
* [[1615年]] - [[大坂の陣|大坂夏の陣]]、江戸幕府軍([[徳川家康]]、[[徳川秀忠]]) x 豊臣軍([[豊臣秀頼]])
 
** [[道明寺の戦い]] - [[伊達政宗]]・[[松平忠輝]]・[[水野勝成]] x [[後藤基次]]、伊達政宗・松平忠輝・水野勝成 x [[真田信繁]]・[[北川宣勝]]・[[薄田兼相]]
 
** [[八尾・若江の戦い]] - [[井伊直孝]] x [[木村重成]]、[[藤堂高虎]] x [[長宗我部盛親]]
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* [[角川日本地名大辞典]] 27 ([[大阪府]])
 
* [http://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳データベース] {{ja icon}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Commonscat|Kawachi Province}}
 
* [[令制国一覧]]
 
* [[河内丸]] - [[大日本帝国海軍]]の[[軍艦]]
 
* [[河内 (戦艦)]] - 大日本帝国海軍の[[河内型戦艦]]1番艦
 
 
 
 
 
{{令制国一覧}}
 
{{畿内五国の郡}}
 
{{大阪府の自治体}}
 
  
 
{{DEFAULTSORT:かわちのくに}}
 
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2019/5/7/ (火) 18:02時点における最新版

河内国(かわちのくに/かはちのくに)

現在の大阪府南東部。畿内の一国。大国。当国には応神天皇陵ほか日本最大の前方後円墳があり,応神天皇を『宋書』の倭五王と関係づけ,大和朝廷成立史において河内王朝,中王朝と考える説も出されている。もと凡河内 (おほしかわち) 国造および志貫,紺口県主が支配。初め和泉国を含んでいたが,霊亀2 (716) 年,和泉など3郡を分割して和泉監 (いずみげん) をおいた。しかし天平 12 (740) 年,再び合併し,さらに天平宝字1 (757) 年に再度,和泉国を分けて独立。国府は藤井寺市,国分寺は柏原市。『延喜式』には交野 (かたの) ,讃良 (さらら) ,茨田 (うはらた) ,若江,河内,高安,大県 (おほあかた) ,渋川,志紀,安宿 (やすかへ) ,古市 (ふるち) ,石川,錦部 (にしこり) ,丹比 (たちひ) の 14郡が記録され,『和名抄』には郷 80,田1万 1338町余がみえる。当国は畿内で都に近かったため,権門勢家の荘園が多かった。鎌倉時代には守護として三浦氏および北条氏一門があったとみられる。建武中興においては楠木正成が領有。南北朝~室町時代には畠山氏,戦国時代には畠山氏から三好氏の支配に移り,天正3 (1575) 年,織田信長の領有となる。豊臣秀吉もここを直接支配下においた。江戸時代は幕府直轄地 (天領) と北条氏の狭山藩,高木氏の丹南藩。幕末には三上藩が近江から当国に移されたりした。明治4 (1871) 年7月の廃藩置県では,丹南藩は丹南県となったが,狭山藩はそれより先,同2年 12月堺県に合併。同4年 11月には丹南県,堺県ほか3県が合併して堺県となり,さらに 1881年に大阪府となる。



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