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{{Infobox 事件・事故
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|名称= 永山則夫連続射殺事件
 
|正式名称=[[警察庁広域重要指定事件|警察庁広域重要指定]]第108号事件
 
|画像=
 
|脚注=
 
|場所= {{JPN}}<br>[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[芝公園]]・[[東京プリンスホテル]](第1の事件)<br>[[京都府]][[京都市]][[東山区]][[祇園町 (京都市)|祇園町]][[祇園町北側|北側]]の[[八坂神社]]境内(第2の事件)<br>[[北海道]][[函館市]](第3の事件)<br>[[愛知県]][[名古屋市]](第4の事件)
 
|緯度度= |緯度分= |緯度秒=
 
|経度度= |経度分= |経度秒=
 
|日付= [[1968年]]([[昭和]]43年)
 
: 10月11日(東京都港区の事件)
 
: 10月14日(京都市の事件)
 
: 10月26日(函館市の事件)
 
: 11月5日(名古屋市の事件)
 
|時間=
 
|開始時刻=
 
|終了時刻=
 
|時間帯=
 
|概要=当時19歳の少年による、拳銃を使用した[[シリアルキラー|連続殺人]]事件
 
|原因=
 
|手段=
 
|武器= [[拳銃]]
 
|攻撃人数=
 
|標的=
 
|死亡= 男性4人(以下、年齢はいずれも当時。27歳男性、69歳男性、31歳男性、22歳男性)
 
|犯人= [[永山則夫]](犯行当時19歳の少年)
 
|容疑=
 
|動機=
 
|関与=
 
|防御=
 
|対処= [[逮捕 (日本法)|逮捕]]・[[起訴]]
 
|刑事訴訟= [[日本における死刑|死刑]]([[少年死刑囚]]、[[日本における被死刑執行者の一覧|執行済み]])
 
|管轄= [[警察庁]][[代々木警察署]]・[[東京地方検察庁]]
 
|影響= 本事件の刑事裁判で、[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]が死刑適用基準として、1983年に示した傍論「永山基準」は、後に死刑適用の是非が争われる刑事裁判にて、[[最高裁判所判例]]として用いられている。
 
}}
 
{{最高裁判例
 
|事件名=窃盗、殺人、強盗殺人、同未遂、銃砲刀剣類所持等取締法違反、火薬類取締法違反被告事件
 
|事件番号=昭和56年(あ)第1505号
 
|裁判年月日=[[1983年]](昭和58年)7月8日
 
|判例集=『最高裁判所刑事判例集』(刑集)第37巻6号609頁
 
|裁判要旨=
 
# 死刑制度を存置する現行法制の下では、犯行の罪質、動機、態様ことに殺害の手段方法の執拗性・残虐性、結果の重大性ことに殺害された被害者の数、遺族の被害感情、社会的影響、犯人の年齢、前科、犯行後の情状等各般の情状を併せ考察したとき、その罪責が誠に重大であつて、罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地からも極刑がやむをえないと認められる場合には、死刑の選択も許されるものといわなければならない。
 
# 犯行時少年であった者でも、18歳以上であり、犯行の態様も残虐であることなどから、無期懲役とした原判決を破棄した事例。
 
|法廷名=第二小法廷
 
|裁判長=[[大橋進 (法曹)|大橋進]]
 
|陪席裁判官=[[木下忠良]]・[[塩野宜慶]]・[[宮崎梧一]]・[[牧圭次]]
 
|多数意見=全員一致
 
|意見=なし
 
|反対意見=なし
 
|参照法条=[[刑法 (日本)|刑法]]9条、199条、240条
 
|url=http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=50235
 
}}
 
 
 
'''永山則夫連続射殺事件'''(ながやまのりおれんぞくしゃさつじけん)とは、[[1968年]]([[昭和]]43年)10月から11月にかけて、[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]・[[京都府]][[京都市]][[東山区]]・[[北海道]][[函館市]]・[[愛知県]][[名古屋市]]の4都道府県において、各犯行当時19歳の少年だった'''[[永山則夫]]'''が相次いで起こした、[[拳銃]]による[[連続殺人]]事件である。[[警察庁]]による名称は「'''[[警察庁広域重要指定事件|警察庁広域重要指定]]第108号事件'''」である。
 
<!--本項の事件名であるが、一般で流布されたこの名は[[犯人]]の名であり、また[[犯罪]]行為を行ったのが19歳と[[少年]]時代であり、本来なら「犯罪の[[被疑者]]名または[[被告]]名または元被告名」に該当し公開すべきものでないといえるが、一方で彼は本名の「[[永山則夫]]」で著名な作家として活躍しており「逮捕歴などを本人が積極的に公開し、自作中で使用している作家の逮捕歴」という事項に該当し、また現在は[[故人]]であるため、あえてそのままとする。
 
-->
 
 
 
== 事件の概要 ==
 
犯行当時19歳の永山則夫(1990年に死刑確定、1997年に[[少年死刑囚]]として死刑執行)が[[アメリカ海軍]]・[[横須賀海軍施設]]([[神奈川県]][[横須賀市]])に侵入し、後に凶器として使用される拳銃を盗んだ<ref group="注">永山は自殺願望があり、米軍基地に乗り込み暴れれば射殺されるだろうと思い忍び込んだところ、偶然に宿舎内に置いてあった婦人護身用の22口径の小型拳銃を入手したので、社会への復讐心から計画を変更したと供述している。</ref>。永山はこの拳銃を用い、社会への復讐のため、短期間のうちに4人を射殺した。なお、被害者の年齢はいずれも当時のものである。
 
 
 
; 第1の殺人事件
 
: [[1968年]][[10月11日]]、[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[芝公園]]の[[東京プリンスホテル]]で、[[綜合警備保障|綜合警備保障(現愛称:ALSOK)]]に勤務する27歳の[[警備員|ガードマン]]に対し2発撃って射殺した。
 
; 第2の殺人事件
 
: 1968年[[10月14日]]、[[京都府]][[京都市]][[東山区]][[祇園町 (京都市)|祇園町]][[祇園町北側|北側]]の[[八坂神社]]で、境内を巡回していた69歳の[[守衛]]に対し6発撃って射殺した。
 
; 第3の殺人事件
 
: 1968年[[10月26日]]、[[北海道]][[函館市]]で、31歳の[[タクシー]]運転手に対し2発撃って射殺した。
 
; 第4の殺人事件
 
: 1968年[[11月5日]]、[[愛知県]][[名古屋市]]で22歳のタクシー運転手に対し4発撃って射殺した。
 
 
 
== 身柄拘束 ==
 
犯行の1か月後、永山は拳銃を[[横浜市]]の寺「大聖院」の境内に埋め、[[中野区]]の[[都立家政駅]]近くにアパートを借り、[[歌舞伎町]]の大衆マンモスバー「スカイコンパ」と[[ジャズ喫茶]]「ビレッジバンガード<!--[[Wikipedia:削除依頼/ヴィレッジヴァンガード (東京都新宿区)]]-->」で働きながら潜伏していた。
 
 
 
[[1969年]](昭和44年)[[4月7日]]、永山は一連の犯行に使用した拳銃を持って[[千駄ヶ谷]]の専門学校「一橋スクール・オブ・ビズネス」に金銭目的で侵入した所を、[[機械警備]]の警報で駆けつけた[[セコム|日本警備保障(現・セコム)]]の[[警備員|警備隊員]]に発見されるが、発砲して隊員が怯んだ隙に逃走した。しかし、[[警視庁]]が[[緊急配備]]を発令し、数時間後、永山は警戒中の[[代々木警察署]]のパトカーに発見され[[逮捕]]された<ref group="注">[[日本放送協会|NHK]]の[[プロジェクトX〜挑戦者たち〜|プロジェクトX]]『勝負の警備システム 作動せよ』の中で(番組内では直接犯人の名には触れなかったが)、この様子の再現シーンが放送されている。</ref>。
 
 
 
== 刑事裁判 ==
 
永山は犯行当時19歳の[[少年]]だったが、犯行累積の抑止と逮捕のために[[指名手配]]されたこともあり、当初から[[実名報道]]がなされる<ref group="注">[[1965年]]の[[少年ライフル魔事件]]でも同様である。</ref>。
 
 
 
10年を費やした第一審・[[東京地方裁判所]]での審理の結果、[[1979年]]7月10日付で[[死刑]][[判決]]を受けた<ref name="impact2016">{{Cite book |和書 |author=年報・死刊廃止編集委員会 |title=死刑と憲法 年報・死刑廃止2016 |publisher=[[インパクト出版会]] |date=2016-10-10 |pages=217 |isbn=978-4755402692 }}</ref>。
 
 
 
しかし、永山はこれを不服として[[東京高等裁判所]]に[[控訴]]した。東京高裁(船田三雄裁判長)は1981年8月21日の控訴審判決公判で、心境の変化(下記参照)[[家庭]]環境・生育状況が劣悪であったこと、配偶者を得たこと、犯行時未成年であったことなどから、永山の更生を期して酌量減軽をし、第一審・死刑判決を破棄して無期懲役判決を言い渡した<ref name="impact2016"/>。
 
 
 
しかし、これを不服とした[[検察]]側が[[上告]]した。[[口頭弁論]]公判を経て、[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]第二小法廷([[大橋進 (法曹)|大橋進]]裁判長)は[[1983年]]7月8日の上告審判決公判で、控訴審の無期懲役判決を破棄し、審理を東京高裁に差し戻す判決を言い渡した<ref name="impact2016"/>。またこの際、最高裁第二小法廷が傍論として示した死刑適用基準は後に「[[#永山基準|永山基準]]」(後述)と呼ばれ、後の刑事裁判でも死刑選択基準として採用されている。
 
 
 
差し戻し控訴審の審理の結果、[[1987年]]3月18日、東京高裁([[石田穣一]]裁判長)は、差し戻し前の控訴審・無期懲役判決を破棄し、永山に改めて死刑判決を言い渡した<ref name="impact2016"/>。
 
 
 
永山は上告したが、[[1990年]]4月17日の第二次上告審判決公判で、最高裁第三小法廷([[安岡満彦]]裁判長)は「永山が極貧の家庭で出生・成育し、両親から育児を放棄され、両親の愛情を受けられず、自尊感情を形成できず、人生の希望を持てず、学校教育を受けず、識字能力を獲得できていなかったなどの、家庭環境の劣悪性は確かに同情・考慮に値するが、同じ条件下で育った他の兄たちは概ね普通の市民生活を送っており、また上京から3年以上社会生活を送った後に保護観察措置を自ら拒否して逃避した末に連続殺人の犯行を犯していることから、生育環境の劣悪性は4人連続殺人を犯した決定的な原因とは認定できない」と判断して、永山の上告を棄却する判決を言い渡した<ref name="impact2016"/>。これにより永山の死刑判決が確定した。
 
 
 
[[第二次世界大戦後]]に発生した少年犯罪で死刑が確定するのは、昭和に発生した事件では最後となった。その後、1988年に発生した[[名古屋アベック殺人事件]]でも主犯格の少年に死刑判決が言い渡されたが、これは控訴審で破棄され、無期懲役判決が確定した。[[平成]]に発生した少年事件では[[2016年]]現在、[[市川一家4人殺人事件]]([[1992年]]発生、[[2001年]]に死刑確定、[[2017年]]に死刑執行)、[[大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件]]([[1994年]]発生、[[2011年]]に3名の死刑確定)、[[光市母子殺害事件]]([[1999年]]発生、[[2012年]]に死刑確定)、[[石巻3人殺傷事件]]([[2010年]]発生、[[2016年]]死刑確定。[[裁判員制度|裁判員裁判]]での死刑判決は初であると同時に初の平成生まれの死刑囚となった)の計4件の事件で、計6人の死刑が確定している。
 
 
 
== 獄中での心境の変化 ==
 
=== 第一審頃まで ===
 
永山は生育時に両親から育児を放棄され([[ネグレクト]])、両親の愛情を受けられなかった。裁判が始まった当初は、逮捕時は自尊感情や人生に対する希望や他者を思いやる気持ちも持てず、犯行の動機を国家権力に対する挑戦と発言するなど、精神的に荒廃していた。
 
 
 
=== 控訴審頃まで ===
 
その後、[[獄中結婚]]した妻や作家・[[井出孫六]]らの多くの人の働きかけと、裁判での審理の経験を通じて、自己が犯した罪と与えた被害の修復不可能性に関して、自己に対しても他者に対しても社会に対しても客観的に認識・考察する考え方を示した。その結果、反省・謝罪・贖罪の考えから最終的には真摯な反省・[[謝罪]]・[[贖罪]]を主張するに至った。また5人分の命(被害者と自分)を背負って贖罪に生きることが償いになるのではないかといったやり取りが残されている。二審のやり取りの中でもし社会復帰をしたらの問いに対し「テストで1番の子がビリの子を助けるような塾をやりたい」といった趣旨の発言をしている。
 
しかし、差し戻しから死刑確定頃には上記の考えをすべて否定した発言をしていることから減刑を狙った演技であると考えられている。
 
 
 
=== 差し戻しから死刑確定頃 ===
 
差し戻し審で無期懲役が難しくなると控訴審頃までの主張を翻し一転して1審のような国家権力に対する発言に変わった。また拘置所で面会に訪れた人に対して社会に出た時の話をしなくなった。弁護士に対して「生きる希望の無かった人に生きる希望を与えておきながら結局殺す。こういうやり方をするんですね」といった趣旨の発言をしたとされている。
 
 
 
== 死刑執行 ==
 
永山則夫は死刑囚として[[東京拘置所]]に収監されていたが、[[法務省]]([[法務大臣]]:[[松浦功]])の死刑執行命令により、[[1997年]][[8月1日]](没年48歳)に同所で死刑が執行された<ref name="impact2016"/>。親族は[[無縁仏|遺骨の引取りを拒否]]し、[[国選弁護人]]の[[遠藤誠 (弁護士)|遠藤誠]]が引き取った。遺骨は本人の遺志で[[オホーツク海]]に[[散骨]]された<ref group="注">遠藤誠の談によると、遠藤を通じて[[花柳幻舟]]に身元引受人を要請したが、断られている。また、自分が死刑になれば「著作を通して自分を支持してくれている人達が一斉蜂起し、[[内乱]]になるぞ!」とも語ったという。</ref>。
 
 
 
== 精神鑑定 ==
 
当時、精神犯罪医学者として嘱望されていた精神科医・[[石川義博]]による緻密なカウンセリングを長期にわたり八王子医療刑務所で受けており、[[PTSD]]に着目した日本初の鑑定書として一審から提出され続けたが、東京地裁は黙殺したものの控訴審の東京高裁では重視され無期刑への減軽判決となった。しかし上告審では再度採用されなかった。
 
石川は、死刑確定後、いっさいの鑑定依頼を断り、町医者として現在も医療に従事している。
 
 
 
== 獄中での文筆活動 ==
 
=== 書籍 ===
 
永山は父親から育児を放棄され、貧しい中荒れた生活を送り学校教育を受けず、逮捕時は読み書きも困難な状態だった。しかし獄中での独学によって[[識字]]能力を獲得し、執筆活動を開始した。[[1971年]]に手記「無知の涙」をはじめ多くの文学作品を発表している。後にこれらは「日本」という書籍にまとめられる。
 
 
 
[[1983年]]には小説「木橋」で第19回新日本文学賞を受賞するなど創作活動を通して自己の行動を振り返るという、死刑囚としては稀有な存在であった。また、それらの印税を4人の被害者遺族へ支援者を通して渡している(受け取りを拒否した遺族もいる)。
 
 
 
=== 手紙 ===
 
永山は獄中からたくさんの手紙を書いている。内容は獄中結婚した妻や支援者とのやり取りから本の読者からの悩み相談まで多岐に渡る。また永山は返信する文面を写していたため遺品の中には受け取った手紙と返信した手紙が対になって保管されている。
 
 
 
== 永山基準 ==
 
この事件以降殺人事件において死刑判決を宣告する際は、永山判決の傍論である死刑適用基準を判例と同等に参考にしている場合が多く、'''永山基準'''(Nagayama Criteria)と呼ばれその影響力も大きい。1983年7月8日の第1次上告審判決で、最高裁第二小法廷は基準として以下の9項目を提示、そのそれぞれを総合的に考察したとき、刑事責任が極めて重大で、罪と罰の均衡や犯罪予防の観点からもやむを得ない場合に許されるとした:
 
 
 
# 犯罪の性質
 
# 犯行の動機
 
# 犯行態様、特に殺害方法の執拗性、残虐性
 
# 結果の重大性、特に殺害された被害者の数
 
# 遺族の被害感情
 
# 社会的影響
 
# 犯人の年齢
 
# [[前科]]
 
# 犯行後の情状
 
 
 
このように具体的に基準が示され、傍論の効果や是非について議論される時には、永山基準が参考にされることが多い。しかし[[光市母子殺害事件]](犯行当時18歳の少年が強姦目的で母子を殺害)の2006年の最高裁の判断(無期懲役の一・二審判決を破棄差し戻し。その後差し戻し控訴審・上告審で死刑判決、確定)では「特に酌量すべき事情がない限り死刑の選択をするほかない」とし、[[少年犯罪|事件発生時に被告が少年であった]]としても、特別な情状酌量の余地がない場合『原則・死刑適用、例外・死刑回避』という新たな判断の枠組みが示され、永山基準は変化を遂げつつある<ref group="注">永山基準以降、光市事件以前の少年犯罪の裁判では、光市事件と同じく2人が殺害された[[名古屋アベック殺人事件]]では第一審の死刑判決が控訴審で破棄され、無期懲役判決が確定していた。一方で永山事件と同じく4人が殺害された[[市川一家4人殺人事件]]では第一審から上告審に至るまで一度たりとも減軽されることなく一貫して死刑判決が言い渡され確定した([[少年死刑囚]])。同じく死者4人の[[大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件]]では、第一審で被害者4人のうち1人を傷害致死と認定し、死刑を求刑された3人のうち1人死刑、2人無期懲役判決となったが、控訴審・上告審では全員に対し殺人・強盗殺人を認定して3人に死刑判決が言い渡され、確定した。光市事件最高裁判決以降に発生した死者2人の[[石巻3人殺傷事件]]では市川一家4人殺人事件以来、犯行当時少年に対し第一審から上告審まで一貫して死刑判決が言い渡され確定した。</ref>。
 
 
 
=== 殺害された被害者の数 ===
 
この判例以降、'''4人'''以上殺害した殺人犯に対しては、裁判所が被告人の犯行時の[[心神耗弱]]・[[自首]]・[[従犯]]・[[未必の故意]]・[[無理心中]]に対する[[情状酌量]]などを認定して[[無期刑|無期]][[懲役]]に減軽して判決を言い渡した事例([[1980年]]の[[新宿西口バス放火事件]]〈6人殺害、心神耗弱〉や[[1981年]]の[[深川通り魔殺人事件]]〈4人殺害、心神耗弱〉、[[1982年]]の[[西成区麻薬中毒者殺人事件]]〈4人殺害、心神耗弱〉、[[2000年]]の[[テレクラ放火殺人事件|テレホンクラブ放火殺人事件]]〈4人殺害、未必の故意〉、[[2002年]]の[[北九州監禁殺人事件]]〈6人殺害、1人傷害致死。犯人2人のうち1人。従犯〉、[[2005年]]の[[中津川一家6人殺傷事件]]〈5人殺害、無理心中に対する情状酌量〉等の例)を除けば、裁判所は原則としては死刑判決を適用している。なお、[[1989年]]の[[熊谷養鶏場宿舎放火殺人事件]]は、殺人の前科があったものの、共犯者が無期懲役が確定していたため、刑の均衡を失するとして、第一審の死刑判決を破棄・無期懲役判決が言い渡されたが、上告中に被告人が病死し、最高裁で公訴棄却となった。また、[[1995年]]の[[地下鉄サリン事件]]([[オウム真理教事件]])の[[林郁夫 (オウム真理教)|林郁夫]](散布した車両では2人死亡)は、本来ならば死刑が求刑されてもおかしくないケースだったが<ref group="注">実際、林郁夫以外の実行犯4人([[広瀬健一]]、[[横山真人]]、[[豊田亨]]、[[林泰男]])はいずれも求刑通り死刑判決を受け、確定した。同事件ではこのほか、オウム事件全般の首謀者・[[麻原彰晃]]、送迎役のうち過去に多数の殺人事件に関与していた[[新実智光]]、「総合調整役」と認定された[[井上嘉浩]]が死刑判決を受け、確定した。</ref>、自首を有利な情状と認定した検察側が死刑求刑を見送り、求刑通り無期懲役判決が確定した<ref group="注">自首は絶対的減軽事由ではなく任意的(裁量的)減軽事由であるため、同じくオウム真理教事件の[[岡崎一明]]のように、自首の成立自体は認定されても酌量理由とは認められずに死刑判決が確定した例もある。</ref>。
 
 
 
一方、'''1人'''だけを殺害した殺人犯に対しては[[身代金]]目的誘拐や強盗・強姦などの目的ではなく、殺人の前科がない場合は死刑判決を回避する傾向が長らく続いてきたが、近年は[[厳罰化]]の世論の影響で、身代金目的誘拐目的ではなく、かつ殺人前科がなく被害者が1人の場合であっても、強盗・強姦などの目的を伴い、殺害方法もとりわけ残虐とされる場合には死刑判決が確定するケースが見られるようになった。[[三島女子短大生焼殺事件]]、[[渋谷駅駅員銃撃事件|横浜中華街料理店主射殺事件]]では、いずれも第一審の無期懲役判決を破棄した控訴審の死刑判決が最高裁で確定した。同様のパターンでは被告人が第一審で死刑判決を受け控訴したものの、自ら取り下げて死刑が確定したケースとして[[奈良小1女児殺害事件]]、[[闇サイト殺人事件]]の犯人のうちの1人、岡山元同僚女性バラバラ殺人事件の3例が挙げられる。殺人前科がある場合では[[無期刑|無期]][[懲役]]刑受刑者が仮釈放中に起こした殺人事件で死刑判決が確定した事例が多数あるが、それ以外にも、[[JT女性社員逆恨み殺人事件]]や[[名古屋市中区栄スナックバー経営者殺害事件]]では、過去に別の殺人により有期懲役刑で服役し、その刑期満了による出所後、強盗殺人や逆恨みによる[[お礼参り]]殺人を犯し、死刑判決が確定した。
 
 
 
また、[[地下鉄サリン事件]](オウム真理教事件)の[[横山真人]]は自身が散布した車両では1人の死者も出さなかったが、サリン散布計画の内容全体を熟知し関与したことが重視され、地下鉄サリン事件全体の関与者の一人として殺人罪が適用されて死刑が確定している。
 
 
 
=== 評価 ===
 
[[闇サイト殺人事件]]を取材し著書「いつかの夏」を2016年に刊行した[[大崎善生]]は、被害者1人の場合死刑を回避する傾向が強いこの永山基準を「司法が囚われ、多くの被害者遺族を苦しめてきたモンスター」「永山基準による法曹界の既得権益があり、裁判所はそれを守ることに固執する。闇サイト事件の弁護人とは見事にその利害が一致した」と形容した上で「永山の犯行当時と[[21世紀]]現在では、価値観・経済・道徳観も何もかも違う」「現在の一般人の価値観と、箱庭に閉じ込められたかのような法曹界とのそれを少しでも均衡化するため[[裁判員制度]]が始まった。しかし裁判は判例至上主義のように、まるでモンスターにわしづかみにされているように永山基準に戻っていく」と指摘した上で「(裁判所は)'''被害者の数だけを1人、2人、3人と気にするが、殺された側にとっては人数の問題ではない。命は命だ'''」「'''ただ殺された人数によって刑を決める'''」と強く批判している<ref>『いつかの夏 名古屋闇サイト殺人事件』([[角川書店]]、[[大崎善生]]著、2016年11月30日発売、ISBN 4041025222 / ISBN 978-4041025222)p.341-342,350-351</ref>。また、[[土本武司]]は[[三島女子短大生焼殺事件]]関連の『[[読売新聞]]』記事内で「被害者が複数でないと死刑を適用できないという読み方を下級審が一度取り、『2人以上でないと死刑はいけない』という感覚が流れた。'''被害者の命2つ以上でないと犯人の命1つに匹敵しない。これはおかしい'''」(第一審判決前)<ref>『読売新聞』2004年1月15日東京朝刊静岡県面32面「三島の短大生焼殺きょう判決 残虐さ、社会に衝撃 犠牲1人、求刑は死刑=静岡」</ref>、「今回は死刑を適用できる事例だと考えていた。日本の裁判官はよく言えば謙抑主義で、量刑には極めて慎重。検察側は断固、控訴して最後まで争う姿勢を取るべきだ」(第一審・無期懲役判決を受けて)<ref>『読売新聞』2004年1月16日東京朝刊静岡県面26面「三島の短大生焼殺に無期 天仰ぎ、遺族ため息 判決、反省など考慮=静岡」</ref>、「注目すべき判決。'''複数の命でないと犯人1人の命に匹敵しないというのは不自然。'''この判決は重要な先例となるだろう」(控訴審・逆転死刑判決を受けて)と<ref>『読売新聞』2005年3月30日東京朝刊静岡県面32面「遺族ら『思い通じた』 三島の女子短大生殺人、被告に死刑判決=静岡」</ref>、殺害被害者数1人の場合に死刑を回避する傾向を強く批判するコメントをしており、[[渥美東洋]]も同事件に対する識者意見で「拷問に等しいような犯行で、死刑は当然だ。''犯罪が多様化し、被害者の数だけで量刑を決められるような時代ではない。''判決は死刑適用の具体的事例として、新たな1つの基準が加わったとみることができる」と述べた<ref>『読売新聞』2008年3月1日東京朝刊静岡県面33面「短大生殺害上告審 残虐性重視の判決 死刑でも『娘は帰らぬ』=静岡」</ref>。
 
 
 
また、[[産経新聞]]は2015年に[[裁判員制度|裁判員裁判]]での死刑判決が破棄され、無期懲役とされた判決が確定したケースが確定した<ref group="注">[[松戸女子大生殺害放火事件]]、[[長野市一家3人殺害事件]]の共犯の一人、[[南青山]]妻子殺人服役後男性殺害事件(殺人前科あり)。なお、これらの判決は全て[[東京高等裁判所]]([[村瀬均]]裁判長)によるものである。</ref>際に「裁判員制度は、国民の司法参加により、その日常感覚や常識を判決に反映させることを目的に導入された。過去の公式に当てはめて量刑を決めるなら、制度の趣旨は生かされない」「死刑は究極の刑罰であり、慎重な判断が求められるのは当然である。一方でこの判断は先例を重視しすぎていないか。先例が現状に即しているかについても、議論を尽くしてほしい」「『国民感覚や常識』と『先例の傾向』の間に距離があるなら、その理由、背景についての分析、議論を深めることも必要ではないか」と、ゆくゆくは「永山基準の見直し」の必要性についても言及している<ref name="sankei20150207">{{Cite news|title=【主張】 死刑判決破棄 永山基準見直しも議論を(1/2ページ) |newspaper=『[[産経新聞]]』 |publisher=[[産業経済新聞社]] |date=2015年2月7日5時4分 |url=http://www.sankei.com/column/news/150207/clm1502070002-n1.html |accessdate=2017-06-02 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20170602091436/http://www.sankei.com/column/news/150207/clm1502070002-n1.html |archivedate=2017-06-02 }}<br>{{Cite news|title=【主張】 死刑判決破棄 永山基準見直しも議論を(2/2ページ) |newspaper=『産経新聞』 |publisher=産業経済新聞社 |date=2015年2月7日5時4分 |url=http://www.sankei.com/column/news/150207/clm1502070002-n2.html |accessdate=2017-06-02 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20170602091501/http://www.sankei.com/column/news/150207/clm1502070002-n2.html |archivedate=2017-06-02 }}</ref>。また、その際の[[最高裁判所 (日本)|最高裁]]の決定でも[[千葉勝美]]裁判長は補足意見で「判例の集積からうかがわれる検討結果を量刑を決める共通認識とし、それを出発点として評議を進めるべきだ」とする一方で「従前の判例を墨守するべきであるとはしていない」とも述べている<ref name="sankei20150207"/>。
 
 
 
== 事件をもとにした作品 ==
 
*映画『略称・連続射殺魔』(1969年) - 製作:[[足立正生]]、松田政男、佐々木守他。永山と関わりのある場所の風景映像だけを繋ぎ合わせて永山の出生から逮捕までを追ったドキュメンタリー。足立らは、永山が逮捕前に働いていたジャズ喫茶の客で、永山を見知っていた<ref>[http://www.tokyo-kurenaidan.com/takeshi-shinjyuku1.htm びーとたけしの新宿を歩く]東京紅團、2004年2月28日</ref>。
 
*漫画『[[アンラッキーヤングメン]]』([[大塚英志]]原作、[[藤原カムイ]]作画)では、特定している訳ではないが、Nというキャラクターとして登場する。
 
*映画では1969年に『[[広域重要指定犯108号 嬲りもの]]』(監督[[木俣堯喬]])という[[ピンク映画]]が公開された。永山逮捕前に製作されたため<ref>[http://kobe-eiga.net/program/2012/09/%E6%98%AD%E5%92%8C%E6%A1%83%E8%89%B2%E6%98%A0%E7%94%BB%E9%A4%A8-50%E5%B9%B4%E7%9B%AE%E3%81%AE%E5%B9%BB%E3%81%AE%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%81%A8%E6%B4%BB%E5%8B%95%E5%B1%8B%E3%81%9F-2/ 昭和桃色映画館 50年目の幻のフィルムと活動屋たち 後編]。</ref>、ストーリーはオリジナルである。
 
*[[1970年]]には『[[裸の十九才]]』(監督[[新藤兼人]])が公開、[[原田大二郎]]が永山(映画では山田道夫)を演じた。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
=== 注釈 ===
 
{{Reflist|group="注"}}
 
=== 出典 ===
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
{{参照方法|date=2012年10月|section=1}}
 
=== 刑事裁判の判決文 ===
 
* '''{{Cite 判例検索システム |法廷名=[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]第二小法廷 |裁判種別=判決 |事件番号=昭和56年(あ)1505号 |事件名=窃盗、殺人、強盗殺人、同未遂、銃砲刀剣類所持等取締法違反、火薬類取締法違反事件被告 |裁判年月日=1983年(昭和58年)7月8日 |判例集=『最高裁判所刑事判例集』([[刑集]])第37巻6号609頁 |判示事項=一・死刑選択の許される基準 二・無期懲役を言い渡した控訴審判決が検察官の上告により量刑不当として破棄された事例 |裁判要旨=一・死刑制度を存置する現行法制の下では、犯行の罪質、動機、態様ことに殺害の手段方法の執拗性・残虐性、結果の重大性ことに殺害された被害者の数、遺族の被害感情、社会的影響、犯人の年齢、前科、犯行後の情状等各般の情状を併せ考察したとき、その罪責が誠に重大であつて、罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地からも極刑がやむをえないと認められる場合には、死刑の選択も許される。二・先の犯行の発覚をおそれ、あるいは金品の強取するため、残虐、執拗あるいは冷酷な方法で、次々に四人を射殺し、遺族の被害感情も深刻である等の不利な情状(判文参照)のある本件においては、犯行時の年齢(一九歳余)、不遇な生育歴、犯行後の獄中結婚、被害の一部弁償等の有利な情状を考慮しても、第一審の死刑判決を破棄して被告人を無期懲役に処した原判決は、甚だしく刑の量定を誤つたものとして破棄を免れない。 |url=http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=50235 }}'''
 
** 後に「永山基準」と呼ばれる死刑適用基準が明示された。
 
** 判決内容:検察側上告を認め、控訴審の無期懲役判決を破棄差戻
 
** [[裁判官]]:[[大橋進 (法曹)|大橋進]]([[裁判長]])・[[木下忠良]]・[[塩野宜慶]]・[[宮崎梧一]]・[[牧圭次]]
 
* '''{{Cite 判例検索システム |法廷名=最高裁判所第三小法廷 |裁判種別=判決 |事件番号=昭和62年(あ)498号 |事件名=窃盗、殺人、強盗殺人、同未遂、銃砲刀剣類所持等取締法違反、火薬類取締法違反事件被告 |裁判年月日=1990年(平成2年)4月17日 |判例集=『最高裁判所裁判集刑事編』(集刑)第254号357頁 |判示事項=死刑事件(いわゆる永山事件) |裁判要旨= |url=http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=058465 }}'''
 
** 判決内容:差し戻し控訴審の死刑判決を支持、弁護側上告棄却(死刑判決確定)
 
** 裁判官:[[安岡満彦]](裁判長)・[[坂上壽夫]]・[[貞家克己]]・[[園部逸夫]]
 
 
 
=== 参考書籍 ===
 
* [[永山則夫]]『捨て子ごっこ』[[河出書房新社]]
 
* 永山則夫『人民をわすれたカナリアたち』河出書房新社
 
* 永山則夫『無知の涙』河出書房新社
 
* 永山則夫『なぜか、海』河出書房新社
 
* 永山則夫『異水』河出書房新社
 
* 永山則夫『華』I~IV、河出書房新社
 
* 永山則夫『木橋』[[立風書房]]
 
* 永山則夫『文章学ノート』[[朝日新聞社]]
 
* 永山則夫『死刑確定直前獄中日記』河出書房新社
 
* 永山則夫『永山則夫の獄中読書日記 死刑確定前後』朝日新聞社
 
* [[池上正樹]]『連続殺人事件』[[同朋舎出版]]
 
* [[佐木隆三]]『死刑囚 永山則夫』[[講談社]]
 
* [[見田宗介]]『まなざしの地獄――尽きなく生きることの社会学』河出書房新社
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[最高裁判所判例]]
 
* [[少年犯罪]]
 
* [[少年死刑囚]]
 
* [[長期裁判]]
 
* [[拡大自殺]]
 
 
 
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