毛利広政

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毛利 広政(もうり ひろまさ、貞享4年(1687年) - 享保18年3月27日1733年5月10日))は、長州藩一門家老である右田毛利家の5代。

父は吉敷毛利家毛利就直。養父は毛利就信。正室は厚狭毛利家毛利就久の娘。子は毛利広信毛利広定室。通称は八十郎、長之助、久之丞、山城。

生涯

貞享4年(1687年)、一門吉敷毛利就直の四男として生まれる。元禄17年(1704年)、4代藩主毛利吉広の命で、伯父の右田毛利就信の遺跡を相続、のち吉広より偏諱を受けて広政と名乗る。宝永7年(1710年)、国許加判役(家老)となる。

正徳2年(1712年)、悪化した藩財政再建を任されていた、当職(国家老・執政)志道就晴(しじ なりはる、志道元保の子孫)、当役志道就保(- なりやす、椙杜就保とも、就晴と同じく志道氏出身、宍戸広周の義父)が不正により、藩財政を更に悪化させていることを、5代藩主毛利吉元に直諫して罷免させる。正徳3年(1713年)からの藩倹約令では率先して倹約に努め、藩の財政再建にあたった。正徳4年(1714年)、江戸加判役となる。享保4年(1719年)に藩校明倫館の開設にあたる。

正徳5年(1715年)、万役山事件が発生し、長州藩と支藩徳山藩が対立すると、清末藩毛利元平とともに徳山藩主毛利元次を説得するも、不調に終わった。享保5年(1720年)、国許加判役。享保9年(1724年)、当職(国家老・執政)。享保15年(1730年)、当職辞職。享保16年(1731年)、当職に再任され、凶作による被害の救済に当たる。

享保18年(1733年)3月27日死去。47歳。家督は嫡男の広信が相続した。

参考文献

  • 石川卓美著「防長歴史用語辞典」