殉死

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殉死(じゅんし)とは、主君や夫などの死を追って臣下や妻などが死ぬ(死に殉じる)こと。殉死させた上で葬ることを、殉葬(じゅんそう)という。殉死者が任意に自殺する場合もあれば、強制的に殉死させられる場合もある。

殉死が法的に禁じられる時代もあったが、それは殉死によって優秀な人材を喪失するのを避ける目的などがあったものと考えられる。

古代エジプトメソポタミア、古代中国、古代朝鮮半島日本などにおいては殉葬が行われた。

日本

古代

考古学的に見て具体的な殉死の例は確認できず、普遍的に行われていたかは不明であるが、弥生時代墳丘墓古墳時代には墳丘周辺で副葬品の見られない埋葬施設があり、殉葬が行われていた可能性が考えられている。また、5世紀には古墳周辺に馬が葬られている例があり、渡来人習俗の影響も考えられている。

中国の歴史書『三国志』の「魏志倭人伝」に、「卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人」とあり、邪馬台国卑弥呼が死去し塚を築いた際に、100余人の奴婢が殉葬されたという。また、『日本書紀』垂仁紀には、野見宿禰日葉酢媛命の陵墓へ殉死者を埋める代わりに土で作った人馬(埴輪)を立てることを提案したという。

『書記』大化2年(646年)3月22日条によれば、大化の改新の後に大化薄葬令が規定され、前方後円墳の造営が停止され、古墳の小型化が進むが、この時に人馬の殉死殉葬も禁止されている。

武士の殉死

明良洪範では殉死を真に主君への真の忠義から出た「義腹」、誰かが殉死するために自分も殉死しなければならないとする理屈に基づく「論腹」、殉死することで子孫の栄達を図る「商腹」に分類している。しかし、殉死者の家族が加増を受けたり栄達したケースは皆無であり、「商腹」は歴史的事実ではないとされる[1]

主君が討ち死にしたり、敗戦により腹を切った場合、家来達が後を追って、討ち死にしたり切腹することや(壇ノ浦の戦いの平家一門や鎌倉幕府滅亡時の北条一族の例がある)、

しかし、主君が病死等自然死の場合に殉死する習慣は、戦国時代にはなかった[2]。ところが、江戸時代に入ると戦死する機会が少なくなったことにより主君への忠誠が示せなくなったため、自然死の場合でも家臣が殉死をするようになったという[2]1607年慶長12年)に松平忠吉が病死した際の殉死が最初であるといわれ、徳川秀忠家光の死に際しては老中・老中経験者が殉死している[2]。こうした行動の背景にはかぶき者や男色との関連があるという説もある[3]。なお、1598年(慶長3年)の豊臣秀吉の死に際して古田重定古田織部の父)が殉死した例が病死した主君への殉死としては松平忠吉の例より古い。

1663年(寛文3年)、4代将軍徳川家綱、5代綱吉の治世期に、幕政が武断政治から文治政治へと移行。寛文3年5月(1665年)の武家諸法度の公布とともに、殉死は「不義無益」であるとしてその禁止が口頭伝達された[2]。1668年には禁に反したという理由で宇都宮藩奥平昌能転封処分を受けている[2]追腹一件を参照)。殉死の禁止は、家臣と主君との情緒的人格的関係を否定し、家臣は「主君の家」に仕えるべきであるという新たな主従関係の構築を意図したものだと考えられる[4]

この後、延宝8年(1680年)に堀田正信が家綱死去の報を聞いて自害しているが、一般にはこれが江戸時代最後の殉死とされている。天和3年(1683年)には末期養子禁止の緩和とともに殉死の禁は武家諸法度に組み込まれ、本格的な禁令がなされた。

近現代

1912年(大正元年)、明治天皇崩御の後に陸軍軍人乃木希典が妻の静子とともに殉死し、社会的影響を与えた。 また1989年昭和天皇崩御の後にも確認されているだけで数名の殉死者が出ている。崩御と同日に和歌山県で87歳男性が[5]、茨城県でも元海軍少尉の76歳男性が[6]それぞれ自殺した。数日後には福岡県で38歳男性が割腹自殺を遂げ[7]、およそ2か月後にも東京都で元陸軍中尉の66歳男性が自殺している[8]

関連項目

殉死を扱った作品

関連書籍

脚注

出典

  1. 山本博文「殉死の構造」
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 横田 2009, p. 286.
  3. 横田 2009, pp. 286-287.
  4. 横田 2009, pp. 287.
  5. 1989年1月8日 読売新聞「昭和天皇崩御 『お供』と87歳男性が後追い自殺/和歌山」
  6. 1989年1月9日 毎日新聞「『一兵士としてお供』と昭和天皇の後追い自殺-茨城」
  7. 1989年1月13日 読売新聞「また昭和天皇の後追い自殺 38歳男性が割腹し/福岡・博多」
  8. 1989年3月4日 朝日新聞「昭和天皇の後追い自殺 東京・大塚で短銃使い旧軍人」

出典

  • 横田冬彦 『日本の歴史16 天下泰平』 講談社学術文庫、2009年。ISBN 978-4-06-291916-6。