「武蔵野台地」の版間の差分

提供: miniwiki
移動先:案内検索
ja>Sasara
(立川崖線(府中崖線や布田崖線とも呼ばれる): +出典)
 
(内容を「 '''武蔵野台地'''(むさしのだいち) 関東山地の東麓に広がる洪積台地。北は入間川,東は荒川,西は多摩川,南は東京湾周辺...」で置換)
(タグ: Replaced)
 
(同じ利用者による、間の1版が非表示)
1行目: 1行目:
[[Image:Musashino.JPG|250px|thumb|[[武蔵野]]の面影を残す、[[新座市]]立新堀小学校の学校教育林。]]
 
[[画像:Musashino_Terrace.jpg|250px|thumb|武蔵野台地の{{ランドサット}}。{{スペースシャトル}}]]
 
'''武蔵野台地'''(むさしのだいち)は、[[関東平野]]西部の[[荒川 (関東)|荒川]]と[[多摩川]]に挟まれた面積700[[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]<ref name=musashino>[http://homepage2.nifty.com/kubota_t/labo2/ugwater/musashinodaichi.htm 水環境と武蔵野台地] 第12回環境地質学シンポジウム・地質環境国際シンポジウム要旨集</ref>の[[台地]]である。その範囲は[[東京都区部]]の西半分、[[立川市]]、[[福生市]]、[[青梅市]]東南部などの市部の一部、そして[[所沢市]]など[[埼玉県]]の[[入間郡|入間地域]]や[[志木市]]など[[新座郡|新座地域]]を含み、[[川越市]]が武蔵野台地の北端に位置する。武蔵野台地の地形は古くから研究が進められ、日本の[[第四紀]]編年の基準とされてきた。
 
  
名称の由来は[[万葉集]]や[[日本の中世文学史|中世文学]]にたびたび登場し、[[国木田独歩]]の随筆でも知られる地域名“[[武蔵野]]”で、地図の上で大きく重なることから名づけられたもの。
+
'''武蔵野台地'''(むさしのだいち)
 
 
== 成立 ==
 
[[関東山地]]から流れ下った[[多摩川]]は、[[青梅市|青梅]]を扇頂とする広大な[[扇状地]]を形成し、これが武蔵野台地の基盤となった。扇状地形成時に、その他にあったほぼ全ての丘陵([[狭山丘陵]]を除く)を削り去り平坦な地を作った。
 
 
 
その後、隆起し台地となるとともに、その上には[[関東ローム層]]が数メートルから十数メートルの厚みで堆積した。
 
 
 
台地の北東縁は利根川(現在の荒川に近い河道を流れていた)によって大きく削り取られた。
 
 
 
== 地形 ==
 
=== 段丘と崖線 ===
 
[[Image:Hakenandaze.jpg|thumb|300px|[[武蔵野公園]]から見た国分寺崖線。奥の木立がその崖面で、「ハケ」と通称される。]]
 
[[Image:Asakadankyu.JPG|thumb|300px|[[新河岸川]]から見た北部河岸段丘([[朝霞市]]宮戸)]]
 
[[Image:Ueno2008.JPG|thumb|300px|左手が[[上野恩賜公園]](武蔵野台地)、右手が低地(東京都[[台東区]])]]
 
武蔵野台地では2種類の発達した[[河岸段丘]]が見られる。ひとつは南側を流れる多摩川によって形成されたものであって、最も低い段丘(低位面)を'''立川段丘'''あるいは'''立川面'''、それよりも一段高い段丘(高位面)を'''武蔵野段丘'''あるいは'''武蔵野面'''と呼ぶ。もうひとつは北部に見られるものであって、かつての多摩川の流路の名残りと考えられているものである。
 
 
 
立川面は立川1面、立川2面、青柳面(立川3面)、不老面(としとらずめん)に区分される<ref name="植木">{{cite book|和書|url=https://www.gsj.jp/data/50KGM/PDF/GSJ_MAP_G050_08050_2007_D.pdf |title=青梅地域の地質, 地域地質研究報告(5万分の1地質図幅)  |publisher=産業技術総合研究所 地質調査総合センター |accessdate=2018-07-15|date=2007-07|pages=84-91|author1=植木岳雪||author2=酒井彰|location=茨城県つくば市}}</ref>。
 
武蔵野面は成増面(武蔵野1面)、赤羽面(武蔵野2面)、中台面(武蔵野3面)、小平面、黒目川面、久米川面、空堀川面に区分される<ref name="植木" /><ref>{{cite journal|和書|title=空堀川・柳瀬川流域の地盤 |journal=平28.都土木技術支援・人材育成センター年報|url=http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/content/000026785.pdf |publisher=東京都土木技術支援・人材育成センター |date=2016 |issn=1884-040X |accessdate=2018-07-15}}</ref>。近年の研究では石神井面・仙川面・十条面と言った語句が登場している<ref>{{cite web|url=https://confit.atlas.jp/guide/event-img/jpgu2018/HQR04-12/public/pdf |title=東京台地部の東京層と,関連する地形:ボーリング資料に基づく再検討 |publisher=日本地球惑星科学連合2018大会 |author=遠藤邦彦ほか |date=2018-05-20 |accessdate=2018-07-15|format=PDF}}<br />{{cite web|url=https://confit.atlas.jp/guide/event-img/jpgu2018/HQR04-P05/public/pdf |title=赤羽台から本郷台における地形・地質層序の新しい見方:MIS4期の化石谷を中心に |publisher=日本地球惑星科学連合2018大会 |author=杉中佑輔ほか |date=2018-05-20 |accessdate=2018-07-15|format=PDF}}</ref>。
 
 
 
各段丘の縁端は段差数メートル程度のちょっとした崖になっており、武蔵野の方言ではこれを「'''[[はけ|ハケ]]'''」とか「'''[[まま|ママ]]'''」などと呼ぶ<ref>調布・狛江市内にある「'''羽毛下'''通り」、市川市の「'''[[真間]]'''」など、地名にも見ることができる。<!--国分寺崖線ではおもに「ハケ」、立川崖線では「ハケ」とも「ママ」とも呼ばれることがある。--></ref>。また、段丘の縁端に沿って延々と続くこうした崖の様子を、学術的には'''崖線'''(がいせん)と呼んでいる。武蔵野台地周辺ではいくつかの崖線がよく知られている<ref>後述の立川崖線(府中崖線、布田崖線)、国分寺崖線の他、青柳崖線や仙川崖線などが挙げられる。</ref>。
 
 
 
==== 立川崖線(府中崖線や布田崖線とも呼ばれる) ====
 
[[立川市]]や[[府中市 (東京都)|府中市]]、[[調布市]]の中心市街地が載っている立川面は'''立川崖線'''(たちかわがいせん)<ref name="guideline">{{cite web|url=http://www.toshiseibi.metro.tokyo.jp/seisaku/midori_kakuho/pdf/guide_line04_01.pdf |format=PDF|title=崖線の緑の保全に向けてのガイドライン |publisher=多摩川由来の崖線の緑を保全する協議会 |page=2 |date=2012-03 |accessdate=2018-07-24}}</ref>によって多摩川の沖積低地と分けられていて、[[国立市]]谷保(やほ)から青柳(あおやぎ)にかけて、および[[昭島市]]付近や[[青梅市]]付近にさらに低位の面を抱えている。それらを青柳面、拝島面、川崎面、千ヶ瀬面、天ヶ瀬面として区別する研究者もいる<ref>1.外部リンク「東京の湧水」参照。{{cite web|url=http://www.city.fussa.tokyo.jp/life/city/spectacle/88vtda00000072on-att/88vtda00000072ru.pdf |title=2.福生市の景観特性と課題>3つの景観ゾーン>【街の手ゾーン】(拝島段丘)・【丘の手ゾーン】(立川段丘)|format=PDF|archiveurl=https://web.archive.org/web/20071127231850/http://www.city.fussa.tokyo.jp/life/city/spectacle/88vtda00000072on-att/88vtda00000072ru.pdf|archivedate=2007-11-27|deadlink=2018-07-14|publisher=福生市}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.lib.fussa.tokyo.jp/digital/digital_data/nature/pdf/0501/0001/0006.pdf |format=PDF |title=福生市の地形と地質 |publisher=福生市 |accessdate=2018-07-14}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.lib.fussa.tokyo.jp/digital/digital_data/connoisseur-history/pdf/07/02/0028.pdf |format=PDF |title=福生の地質と地形 |publisher=福生市 |accessdate=2018-07-14}}</ref>。立川崖線は、青梅付近から多摩川に沿う形で立川市内まで続き、[[JR中央線]]の多摩川鉄橋の付近から東に向かい、立川市役所の南を通って、[[南武線]]と[[甲州街道]]の間をさらに東に向かう。谷保の西で甲州街道の南に入る。ここに[[谷保天満宮]]が崖線を利用した形で置かれている。そこからは甲州街道のおよそ500mほど南を東に進み、[[狛江市]]元和泉付近まで続いている。立川崖線は'''府中崖線'''(ふちゅうがいせん)<ref name="guideline" /><ref>{{cite web|url=http://www.tokyo-geo.or.jp/tech-note-pdf/No38.pdf |format=PDF |title=技術ノート No.38 |page=8 |publisher=東京都地質調査業協会 |date=2005-11 |accessdate=2018-07-14|quote=府中崖線は、立川市西南部の奥多摩街道沿いから府中を通り、小田急線の狛江付近まで続く崖線}}</ref>や'''布田崖線'''(ふだがいせん)<ref name="guideline" /><ref>{{cite web|url=http://www.city.chofu.tokyo.jp/www/contents/1454913107872/files/fudagaisennkannrikeikaku.pdf |format=PDF |title=調布市崖線樹林地の保全管理計画(布田崖線) |publisher=調布市環境部緑と公園課 |date=2016-04 |accessdate=2018-07-24}}</ref>とも呼ばれる。
 
 
 
これらは、[[多摩川]](玉川)や[[東京湾]](内海)の海による浸食で出来たものである<ref>{{cite web|url=http://www.toshiseibi.metro.tokyo.jp/seisaku/midori_kakuho/pdf/guide_line01.pdf |title=崖線の緑を保全するためのガイドライン |format=PDF |publisher=東京都都市整備局 |accessdate=2013-02-26}}</ref>。
 
 
 
==== 国分寺崖線 ====
 
立川面と武蔵野面とは'''国分寺崖線'''(こくぶんじがいせん)<ref>{{cite web|url=http://www.tokyo-geo.or.jp/tech-note-pdf/No38.pdf |format=PDF |title=技術ノート No.38 |page=7 |publisher=東京都地質調査業協会 |date=2005-11 |accessdate=2018-07-14|quote=国分寺崖線は、立川市砂川付近より国立駅東側を横切り、国分寺、東京天文台、深大寺から小田急線の喜多見付近へ続く崖線}}</ref>によって分けられている。国分寺崖線は[[緑が丘 (武蔵村山市)|武蔵村山市緑が丘]]付近に始まり、[[西武拝島線]]と[[多摩都市モノレール]]の[[玉川上水駅]]付近を通り、JR中央線を[[国立駅]]の東側で横切り、[[国分寺市]]・[[小金井市]]と国立市・府中市の市境に沿って東に進む。さらに[[野川 (東京都)|野川]]の北に沿いながら[[調布市]]に入って[[深大寺]]付近を通り、[[つつじヶ丘]]などの舌状台地を作りながら世田谷区の[[砧地域]]、[[玉川地域]]南部を通り、大田区の[[田園調布]]を経て同区の[[嶺町]]付近に至る。世田谷区の[[谷沢川#等々力渓谷|等々力渓谷]]は国分寺崖線の一部である。高低差は20メートル近くになる。なおこの国分寺崖線は、古多摩川(関東ローム層下に存在)の浸食による自然河川堤防と考えられている<ref>{{cite journal|和書|title=国分寺崖線上縁東下がり緩斜面の等高線表現と成因|publisher=日本地図学会|author=籠瀬良明|doi=10.11212/jjca1963.34.4_1 |journal=地図 |volume=34 |issue=4 |pages=1-8|date=1996-12|issn=0009-4897|accessdate=2014-04-01}}</ref>。国分寺崖線は'''国分寺-玉川崖線'''とも呼ばれる<ref>{{cite book|和書|url=https://www.gsj.jp/data/50KGM/PDF/GSJ_MAP_G050_08050_2007_D.pdf |title=青梅地域の地質, 地域地質研究報告(5万分の1地質図幅) | |publisher=産業技術総合研究所 地質調査総合センター |accessdate=2018-07-15|date=2007-07|page=98|author1=植木岳雪||author2=酒井彰|location=茨城県つくば市}}</ref>。
 
 
 
==== 北部河岸段丘 ====
 
武蔵野台地の北部で見られる河岸段丘は、刃物を当ててさらったような形状を示している。それらは現在流れている[[黒目川]]や[[落合川 (東京都)|落合川]]、[[柳瀬川]]といった小河川によって侵食されたのではなく、多摩川のかつての流路であろうと考えられている<ref>貝塚爽平ほか編([[2000年]])『日本の地形4 関東・伊豆小笠原』東京大学出版会、235p.</ref>。段丘の高低差は大きいところで数メートル程度なので段丘崖の存在に気づかないこともある。
 
 
 
=== 東部の舌状台地群と、その上にひろがる都心市街 ===
 
武蔵野台地は、その成因から、水を通さない海成の粘土質層の上に水を通しやすい礫層が互層しており、この層面から地下水が湧き出し、台地上の中小河川の源流となっていることが多い。台地上に見られる池の多くがこのような成因である。また地名として「清水」を冠していることが多く、さらに、大きな神社や寺社が境内として取り込んだり、名家や武家の庭園になっていた例もある。これらの河川によって武蔵野台地の東部は[[開析]]が進んでいて谷が鹿の角のように入り組み、多数の舌状台地が武蔵野台地から削りだされている。
 
 
 
これらの台地にはそれぞれ名前がつけられており、'''[[久が原]]台'''、'''[[田園調布]]台'''、'''[[目黒 (東京都)|目黒]]台'''、'''[[淀橋]]台'''、'''[[豊島 (東京都北区)|豊島]]台'''、'''[[本郷 (文京区)|本郷]]台'''、'''[[成増]]台'''、'''[[荏原_(品川区)|荏原]]台'''、'''[[赤羽]]台'''といった呼称が行われる<ref>{{cite journal|和書|author=寿円晋吾 |title=多摩川流域における武蔵野台地の段丘地形の研究-段丘傾動量算定の一例-(その一) |date=1965 |journal=地理学評論 |volume=38 |issue=9|pages=557-571|publisher=日本地理学会|accessdate=2018-07-14|naid=130003567146|issn=00167444|doi=10.4157/grj.38.557}}</ref>ほか、より細かい区分を行うこともある。たとえば[[陣内秀信]]は都心部について、[[上野]]台地、[[本郷 (文京区)|本郷]]台地、[[小石川]]・[[目白]]台地、[[牛込]]台地、[[四谷]]・[[麹町]]台地、[[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]・[[麻布]]台地、[[芝 (東京都港区)|芝]]・[[白金台]]地の7台地を数えている<ref>{{Cite book|和書|author=[[陣内秀信]]|title=東京の空間人類学|publisher=[[筑摩書房]]|isbn=4-480-08025-2|year=1992}}</ref>。田園調布台・淀橋台・荏原台には[[下末吉海進]]で形成された古い地層が残っている(下末吉面)<ref>{{cite web|url=http://www.tokyo-geo.or.jp/tech-note-pdf/No26.pdf |format=PDF |title=技術ノート No.26 |publisher=東京都地質調査業協会 |date=1998-10 |accessdate=2018-07-14}}</ref>。
 
 
 
武蔵野台地は湧水によって水利が得やすく、また沖積低地のような洪水も避けることができるため、古来から人口は多かったと思われ、多摩川の崖線には古墳時代の古墳や遺跡が多数残されている。武蔵野台地の東端にあたる淀橋台に地の利を見出したのが[[太田道灌]]であった。道灌が築城した[[江戸城]]([[皇居]])は、平川と[[目黒川]]の間を広くカバーする淀橋台の最東端に置かれ、道灌につづいて江戸に入った[[徳川家康]]もまた台地を囲む[[圏谷]]を掘割に利用するなど、地形を巧みに利用している。これらの台地先端は、東側の沖積低地や東京湾岸から見ると、独立した山のように形容された。江戸期までに「'''[[飛鳥山]]'''」「'''[[道灌山]]'''」「忍ケ岡('''[[上野恩賜公園|上野山]]'''の古名)」「'''[[愛宕山 (東京都港区)|愛宕山]]'''」「'''[[紅葉山 (東京都)|紅葉山]]'''(現・皇居吹上御所付近)」「'''[[城南五山]]'''」などと呼ばれ、実際に武蔵野台地は[[上野駅]]の西側で15m以上の標高差を見せる崖となって終わる。「'''[[待乳山聖天|待乳山]]'''」は[[縄文海進]]時の[[波食台]]が海退後の氾濫原に残った本郷台地の一部である<ref>{{Cite book|和書|author=[[鈴木理生]]|title=東京の地理がわかる事典|publisher=[[日本実業出版社]]|year=1999|isbn=4-534-02982-9|ref=suzuki}}</ref>。
 
 
 
=== 分水界 ===
 
[[黒目川]]や柳瀬川は武蔵野台地を北東方向へ流れ、下流で[[荒川 (関東)|荒川]]に合流している。すなわち荒川水系に属している。一方、[[残堀川]]や野川のように多摩川水系に属する川も武蔵野台地には流れているので、武蔵野台地のどこかに両水系の境界線、すなわち[[分水界]]が存在する。
 
 
 
== 湧水と利水 ==
 
[[Image:Mamashita.jpg|300px|thumb|ママ下湧水群のひとつ「上(かみ)のママ下」([[国立市]]矢川)]]
 
[[Image:Mamashitayosui.jpg|300px|thumb|ママ下湧水群にほど近い農業用水の景観(国立市谷保)]]
 
=== 「ハケ」「ママ」の湧水 ===
 
「ハケ」「ママ」の斜面地の多くは雑木林で覆われ、「ハケ下」、「ママ下」には湧水がみられる。特に有名なのは[[名水百選]]にも選ばれている[[国分寺市]]の「お鷹の道・真姿の池湧水群」である。これは国分寺崖線下の湧水であって、多摩川の支流である[[野川 (東京都)|野川]]の源流のひとつとなっている。もうひとつ著名なのは、国立市の「ママ下湧水群」である。これは青柳崖線下の湧水であって、湧水量の多さとそれが今も稲作に用いられ、大都市近郊にありながら昔ながらの景観を生み出しているとともに多様な水辺の生物を涵養している点に価値がある。
 
 
 
=== まいまいず井戸 ===
 
武蔵野台地でかつて多く見られた形式の井戸が「まいまいず井戸」である。詳細は「[[まいまいず井戸]]」を参照のこと。
 
 
 
=== 用水路と農業 ===
 
[[Image:Santome9.JPG|300px|thumb|[[三富新田]]風景([[所沢市]][[中富_(所沢市)|中富]])]]
 
かつて武蔵野台地の中央、立川面には[[武蔵国]]の[[国府]]や[[国衙]]、[[武蔵国分寺跡|国分寺]]が置かれ、武蔵国の中心となっていた。これは、武蔵国でもこの一帯が水に恵まれていたためであると考えられている。
 
 
 
一方、高位面である武蔵野面の開発は水の便が悪かったため江戸時代まで[[入会地]]として利用される程度の状態だった。このような状況を変えたのが、[[川越藩]]主の[[松平信綱]]による[[玉川上水]]や[[野火止用水]]の開削である。玉川上水は江戸市中の水道のために設けられたものであるが、野火止用水をはじめ多くの分水路は[[農業用水|田用水]]としても作られ武蔵野面の水利の状況を一変させたという点からも重要である。また、川越藩主の[[柳沢吉保]]によって現在の[[所沢市]]・[[三芳町]]にまたがって[[三富新田]]が開発され、将軍[[徳川吉宗|吉宗]]期の[[享保の改革]]では役人集団を率いて地方御用を兼任した[[町奉行]]の[[大岡忠相]]により[[武蔵野新田]]の開発が行われた。
 
 
 
典型的な[[関東地方]]の[[畑]]作地帯であり、[[昭和]]も後半の[[高度成長#日本の高度経済成長期|高度成長期]]頃までは、[[米]]が2割から3割、それも[[陸稲|陸稲米]]で冷えるとぽろぽろになる[[麦飯]]や[[かて飯]]を[[常食]]とし<ref> 渡辺善次郎ほか編 『聞き書 東京の食事』 農山漁村文化協会、1988年、ISBN 4-540-87098-X、189p</ref>、[[水田]]地帯の人たちから「麦は軽いから、風呂に入ると浮いてしまう」と軽蔑されていた土地柄であったが<ref>新谷尚紀ほか編 『民俗小事典 食』 吉川弘文館、2013年、ISBN 978-4-642-08087-3、28p</ref>、今日では武蔵野台地は大消費地を至近に持っている地の利を生かして傷みやすい[[ホウレンソウ]]や[[小松菜]]などの葉物野菜の供給地として、また[[キウイフルーツ]]や[[花卉]]などの園芸作物の生産地となっている。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
*[[武蔵野]]
 
*[[山の手#東京における山の手]]
 
*[[狭山丘陵]]:武蔵野台地西部にある[[残丘]]状の丘陵
 
*[[日本の台地一覧]]
 
*[[府中市郷土の森博物館]]:敷地内には、ハケを再現した場所があり、これを利用した[[田畑]]や[[小川]]、[[製粉]]を行う[[水車]]小屋がある。
 
*[[入間市博物館]]:敷地内の段丘を見下ろす位置に、狭山丘陵と周辺の地形(すなわち武蔵野台地の北西部あたり)を示した模型がある。
 
*[[東北本線]]:明治時代の第1期開業区間(現在の[[高崎線]]相当)の内、東京都内([[上野駅]]構内−[[田端駅]]−[[赤羽駅]]先、現在の[[京浜東北線]])の区間は、武蔵野台地東端に沿って線路が引かれている。[[日暮里駅]]付近など、[[複々線]]化の際に元々急勾配だった台地の端を削り取り、崖状となっている場所もある。
 
 
 
== 外部リンク ==
 
*[http://www.asahi-net.or.jp/~kr6t-ngs/musashino/musashino2.html 武蔵野台地の河岸段丘]{{リンク切れ|date=2018年2月}}
 
*[http://www2.kankyo.metro.tokyo.jp/sizen/yuusui/index.htm 東京の湧水]
 
*[http://www.tokyosaka.sakura.ne.jp/index.htm 東京23区の坂道]
 
  
 +
関東山地の東麓に広がる洪積台地。北は入間川,東は荒川,西は多摩川,南は東京湾周辺の山手地区までの範囲を占める。東西約 40km,南北約 20kmの長方形で,西部青梅市の標高 190mを頂点に,扇状に東へ低く傾斜している。中部は平均標高 50~60mで,この付近に井の頭池,石神井池,善福寺池などの浸食谷頭の湧き水地帯があり,河川は開析谷をつくって東流する。台地末端は,標高約 20mの崖で沖積地と接する。表面は火山灰の堆積した[[関東ローム層]]が平均 5mほどの厚さでおおっている。このため地下水が深く,近世にいたるまで荒野であった。江戸時代に[[玉川上水]]が通じてから,畑地や新田開発が行われた。明治期には都心へ野菜を供給する近郊型農業地域となり,第2次世界大戦後は都心への通勤者がふえて住宅地域となった。
 +
 +
{{テンプレート:20180815sk}}
 
{{デフォルトソート:むさしのたいち}}
 
{{デフォルトソート:むさしのたいち}}
 
[[Category:日本の台地]]
 
[[Category:日本の台地]]

2018/12/22/ (土) 21:32時点における最新版

武蔵野台地(むさしのだいち)

関東山地の東麓に広がる洪積台地。北は入間川,東は荒川,西は多摩川,南は東京湾周辺の山手地区までの範囲を占める。東西約 40km,南北約 20kmの長方形で,西部青梅市の標高 190mを頂点に,扇状に東へ低く傾斜している。中部は平均標高 50~60mで,この付近に井の頭池,石神井池,善福寺池などの浸食谷頭の湧き水地帯があり,河川は開析谷をつくって東流する。台地末端は,標高約 20mの崖で沖積地と接する。表面は火山灰の堆積した関東ローム層が平均 5mほどの厚さでおおっている。このため地下水が深く,近世にいたるまで荒野であった。江戸時代に玉川上水が通じてから,畑地や新田開発が行われた。明治期には都心へ野菜を供給する近郊型農業地域となり,第2次世界大戦後は都心への通勤者がふえて住宅地域となった。



楽天市場検索: