「正統カリフ」の版間の差分

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'''正統カリフ'''(せいとうカリフ、{{lang|ar|الخلفاء الراشدون}} - {{lang|en|al-Khulafā’u r-Rāshidūn}}、[[アラビア語]]で「正しく導かれた代理人たち」の意)は、[[イスラム教]]・[[イスラム帝国]]の初期({{lang-ar|الخلافة الراشدية}} - {{lang|en|al-khilāfat ar-Rāshidīyah}} - [[:en:Rashidun Caliphate|en]])の時代において[[イスラム共同体]]([[ウンマ (イスラム)|ウンマ]])を率いた[[カリフ]]のことを指す[[スンナ派]]の用語。正統カリフ4代のうち[[アブー・バクル]]を除く3代の正統カリフが暗殺されてこの世を去っている。
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'''正統カリフ'''(せいとうカリフ、{{lang|ar|الخلفاء الراشدون}} - {{lang|en|al-Khulafā’u r-Rāshidūn}}、[[アラビア語]]で「正しく導かれた代理人たち」の意)
  
== 歴史 ==
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イスラムにおいて,ムハンマドの直後の後継者であるメジナの4人のカリフをいう。正統と一般に訳されている言葉は異端に対比する意味はなく,神の正しい導きのもとにあるという意味で,後世の歴史家の用語である。初代[[アブー・バクル]] (在位 632~634) は預言者ムハンマドの没後ただちに衆に推されて原始イスラム国家の最高指導者となり,カリフと称した。2代目[[ウマル1世]] (在位 634~644) はアブー・バクルの指名によってその跡を継ぎ,3代目[[ウスマーン]] (在位 644~656) はクライシ族の有力者から成る選挙人の互選によって選出されたが,最後はアラブ戦士中の不満分子の手で殺された。4代目[[アリー]] (在位 656~661) はその不満分子に推されてカリフ位についたが,彼のカリフ位を認めない反対派との闘争に明け暮れ,ついには刺客の手にかかって暗殺された。正統カリフ時代は,アラビア半島内の反イスラム勢力の打倒と,ササン朝ペルシア帝国領および東ローマ帝国領征服の時代であった。カリフの指導するアラブ戦士(すなわちイスラム教徒) 集団は征服地に建設されたいくつかの軍事都市に移住し,征服戦争に従事した。カリフの下の行政機関は,アラブ戦士に年金と食糧とを支給する[[ディーワーン]],軍指令官[[アミール]],被征服者から租税を徴収する[[アーミル]]とがあっただけのごく簡単なものであった。第3代カリフ,ウスマーンの治世の後半から征服事業が停滞し,内紛が始った。アラブ戦士集団の分裂は,アリーの暗殺とウマイヤ朝の成立をもっていったんは収まったが,いくつかの重要なイスラムの分派をつくる契機となった。
{{main|en:Muhammad in Medina|en:Rashidun Caliphate}}
 
 
 
=== アブー=バクル ===
 
{{main|アブー・バクル}}
 
[[632年]]に[[アッラーフ|神]]の[[使徒]][[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]が死去した後、[[アブー・バクル]]がイスラム共同体の長に選出された。
 
{{仮リンク|リッダ戦争|en|Ridda wars}}(632年 - 633年)。{{仮リンク|ドゥーマト・アッ=ジャンダルの戦い|en|Battle of Dawmat al-Jandal}}を指導し、634年に病没する。以降は、同様にイスラム共同体の合議によって選出され継承を行った。
 
 
 
=== ウマル ===
 
{{main|ウマル・イブン・ハッターブ}}
 
634年にカリフに選ばれ、[[636年]][[ヤルムークの戦い]]・[[カーディシーヤの戦い]][[642年]][[ニハーヴァンドの戦い]]を指導する。644年に刺されて、息を引き取る前に後継者候補と選挙方法を残した。
 
 
 
=== ウスマーン ===
 
{{main|ウスマーン・イブン・アッファーン}}
 
644年にカリフに選ばれ、[[サーサーン朝]]を滅亡させるなど、遠征を終結した。海軍を整え、[[655年]]、{{仮リンク|マストの戦い|en|Battle of the Masts}}で、東地中海の制海権を確保した。クルアーンの制式版を編纂し、版ごとの異同をなくした。656年政策に不平を持つムスリム兵の謀叛により殺害される
 
 
 
=== アリー ===
 
{{main|アリー・イブン・アビー・ターリブ}}
 
656年ウスマーンの跡を継ぎカリフになる。ムハンマドの妻アーイシャとの確執とムアーウィヤとの対立により内乱に直面する。
 
* {{仮リンク|第一次フィトナ|en|First Fitna|label=第一次内乱}}(656年 - 661年)。
 
** [[656年]]、[[ラクダの戦い]]({{lang-ar|موقعة الجمل}} {{lang|ar|mwaqah al-jamal}})。
 
** [[657年]]、[[スィッフィーンの戦い]]。
 
ムアーウィヤとの講和によりハワーリジュ派が起こる。対立カリフをなのったムアーウィヤとの戦いに追われる中、661年にハワーリジュ派の刺客によって殺害される。
 
 
 
== ウマイヤ朝の成立 ==
 
[[661年]]にアリーが[[ハワーリジュ派]]に暗殺された後、[[ウマイヤ家]]の[[ムアーウィヤ]]が実力でカリフ位に就いて[[ウマイヤ朝]]を興した。ムアーウィヤはカリフ位世襲の道を開いたため、正統カリフの時代は終焉した。
 
 
 
== 歴代カリフ ==
 
#[[アブー・バクル]](632年 - 634年)
 
#[[ウマル・イブン・ハッターブ|ウマル]](634年 - 644年)
 
#[[ウスマーン・イブン・アッファーン|ウスマーン]](644年 - 656年)
 
#[[アリー・イブン・アビー・ターリブ|アリー]](656年 - 661年)
 
== 関連項目 ==
 
*[[カリフ]]
 
*[[クライシュ族]]
 
  
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[[Category:正統カリフ|*]]
 
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[[Category:イスラム世界史]]
 
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正統カリフ(せいとうカリフ、الخلفاء الراشدون - al-Khulafā’u r-Rāshidūnアラビア語で「正しく導かれた代理人たち」の意)

イスラムにおいて,ムハンマドの直後の後継者であるメジナの4人のカリフをいう。正統と一般に訳されている言葉は異端に対比する意味はなく,神の正しい導きのもとにあるという意味で,後世の歴史家の用語である。初代アブー・バクル (在位 632~634) は預言者ムハンマドの没後ただちに衆に推されて原始イスラム国家の最高指導者となり,カリフと称した。2代目ウマル1世 (在位 634~644) はアブー・バクルの指名によってその跡を継ぎ,3代目ウスマーン (在位 644~656) はクライシ族の有力者から成る選挙人の互選によって選出されたが,最後はアラブ戦士中の不満分子の手で殺された。4代目アリー (在位 656~661) はその不満分子に推されてカリフ位についたが,彼のカリフ位を認めない反対派との闘争に明け暮れ,ついには刺客の手にかかって暗殺された。正統カリフ時代は,アラビア半島内の反イスラム勢力の打倒と,ササン朝ペルシア帝国領および東ローマ帝国領征服の時代であった。カリフの指導するアラブ戦士(すなわちイスラム教徒) 集団は征服地に建設されたいくつかの軍事都市に移住し,征服戦争に従事した。カリフの下の行政機関は,アラブ戦士に年金と食糧とを支給するディーワーン,軍指令官アミール,被征服者から租税を徴収するアーミルとがあっただけのごく簡単なものであった。第3代カリフ,ウスマーンの治世の後半から征服事業が停滞し,内紛が始った。アラブ戦士集団の分裂は,アリーの暗殺とウマイヤ朝の成立をもっていったんは収まったが,いくつかの重要なイスラムの分派をつくる契機となった。



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