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{{政治家
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'''正力 松太郎'''(しょうりき まつたろう、[[1885年]](明治18年)[[4月11日]] – [[1969年]]([[昭和]]44年)[[10月9日]]
|人名 = 正力 松太郎
 
|画像 = Shoriki Matsutaro.JPG
 
|画像サイズ =
 
|画像説明 = 1955年
 
|国略称 = {{JPN}}
 
|生年月日 = [[1885年]][[4月11日]]
 
|出生地 = {{JPN}} [[富山県]][[射水市]]
 
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1885|4|11|1969|10|9}}
 
|死没地 = {{JPN}} [[静岡県]][[熱海市]]
 
|出身校 = 東京帝国大学法科大学<br/>(現・[[東京大学]])
 
|前職 = 内務官僚<br/>[[警視庁]][[警務部#部長|警務部長]]<br/>[[内閣情報局]]参与<br/>[[京成電鉄|京成電気軌道]]総務部長<br/>[[読売新聞社]]代表取締役社長<br/>[[日本テレビ放送網]]代表取締役社長<br/>[[讀賣テレビ放送]]取締役会長<br/>[[読売ジャイアンツ]]創立者・初代オーナー<br/>[[日本武道館]]会長
 
|現職 =
 
|所属政党 = ([[翼賛政治会]]→)<br/>(無所属→)<br/>([[日本民主党]]→)<br/>[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]
 
|称号・勲章 = [[従二位]]<br/>[[勲一等旭日桐花大綬章]]<br/>富山県[[高岡市]]名誉市民<br/>富山県射水市名誉市民<br/>[[駒澤大学]][[名誉博士]]<br/>[[講道館]][[柔道]]十段<br/>[[野球殿堂博物館 (日本)|野球体育博物館]][[野球殿堂 (日本)#特別表彰|特別表彰]](1959年)
 
|世襲の有無 = 無
 
|親族(政治家) = 長男・[[正力亨]]<br/>二男・[[正力武]]
 
|配偶者 = 初婚・正力布久子<br/>再婚・正力波満
 
|サイン =
 
|ウェブサイト =
 
|サイトタイトル =
 
|国旗 = 日本
 
|職名 = 第4代 [[科学技術庁長官]]<br/>第8代 [[国家公安委員会委員長]]
 
|内閣 = [[第1次岸内閣 (改造)|第1次岸改造内閣]]
 
|選挙区 =
 
|当選回数 =
 
|就任日 = [[1957年]][[7月10日]]
 
|退任日 = [[1958年]][[6月12日]]
 
|元首職 =
 
|元首 =
 
|国旗2 = 日本
 
|職名2 = 初代 科学技術庁長官
 
|内閣2 = [[第3次鳩山一郎内閣]]
 
|選挙区2 =
 
|当選回数2 =
 
|就任日2 = [[1956年]][[5月19日]]
 
|退任日2 = [[1956年]][[12月23日]]
 
|元首職2 =
 
|元首2 =
 
|国旗3 = 日本
 
|職名3 = 第11代 [[北海道開発庁#歴代の北海道開発庁長官等|北海道開発庁長官]]
 
|内閣3 = 第3次鳩山一郎内閣
 
|選挙区3 =
 
|当選回数3 =
 
|就任日3 = [[1955年]][[11月22日]]
 
|退任日3 = [[1956年]][[12月23日]]
 
|元首職3 =
 
|元首3 =
 
|国旗4 = 日本
 
|職名4 = [[衆議院|衆議院議員]]
 
|内閣4 =
 
|選挙区4 = [[富山県第2区 (中選挙区)|富山県第2区]]
 
|当選回数4 = 5回
 
|就任日4 = [[1955年]][[2月28日]]
 
|退任日4 = [[1969年]][[10月9日]]
 
|退任理由4 = 在職のまま死去
 
|元首職4 =
 
|元首4 =
 
|国旗5 = 日本
 
|職名5= [[貴族院 (日本)|貴族院議員]]
 
|内閣5 =
 
|選挙区5 = 勅選議員
 
|就任日5 = [[1944年]][[5月28日]]
 
|退任日5 = [[1946年]][[4月13日]]<ref>『官報』第5781号、昭和21年4月25日。</ref>
 
|退任理由5 = [[GHQ]]により[[A級戦犯]]容疑者として[[巣鴨プリズン]]に収監により依願免職
 
|元首職5 =
 
|元首5 =}}
 
'''正力 松太郎'''(しょうりき まつたろう、[[1885年]](明治18年)[[4月11日]] – [[1969年]]([[昭和]]44年)[[10月9日]])は、日本の[[内務省 (日本)|内務]][[官僚]]、[[実業家]]、[[政治家]]。元[[読売新聞社]][[社主]]。[[位階]][[勲等]]は[[従二位]][[勲一等旭日桐花大綬章|勲一等]]。富山県[[高岡市]][[名誉市民]]。[[京成電鉄]]OB。
 
  
== 人物概要 ==
+
読売新聞社や日本テレビ放送網などの経営者,政治家。東京大学法学部卒業後,1913年警視庁に入った。 18年夏の米騒動の鎮圧に手腕を発揮し,以後普選運動,労働運動など公安事件を取締った。なかでも 23年6月の第1次共産党事件は有名。同年 12月 27日の[[虎ノ門事件]]の責任で懲戒免官になり,『[[読売新聞]]』の経営を引受け,24年社長に就任,同社の再建と拡大に努めた。 34年職業野球団である大日本東京野球倶楽部 (読売ジャイアンツの前身) を創設。第2次世界大戦後の 45年 12月,第1次読売争議の最中に戦犯に指定され,巣鴨拘置所に収容され,社長を辞任。
読売新聞社の経営者として、同新聞の部数拡大に成功し、「読売中興の祖」として'''大正力'''(だいしょうりき)と呼ばれる。日本におけるそれぞれの導入を強力に推進したことで、'''プロ野球の父'''、'''テレビ放送の父'''、'''原子力の父'''とも呼ばれる<ref>[http://www.news-postseven.com/archives/20150927_349294.html 「プロ野球の父」正力松太郎氏 「原子力の父」という一面も│NEWSポストセブン、閲覧2017年6月30日]</ref>{{要出典|date=2016年6月}}。
 
  
東京[[帝国大学]]法科大学卒で内務省に入省。[[警視庁 (内務省)|警視庁]][[警務部#部長|警務部長]]のとき[[虎ノ門事件]]が発生し、警衛責任者として[[警視総監]]の[[湯浅倉平]]とともに[[免職#懲戒免職|懲戒免官]]となった{{要出典|date=2016年6月}}。
+
47年9月に釈放されてからは社長に復帰するとともに,[[日本テレビ放送網]]の設立に努力。 55年には富山県から衆議院議員に立候補して当選,鳩山・岸内閣で国務大臣をつとめた。
 
 
翌年、経営難で不振の読売新聞を買い受けて社長に就任し、新聞界に転じた。以後、政財界に影響力を拡大。[[1940年]](昭和15年)の開戦時は[[大政翼賛会]]総務であったために[[A級戦犯]]の第三次戦犯指名となり、逮捕されたが、起訴はされず、[[巣鴨拘置所|巣鴨プリズン]]収容者の1人となった。このためしばらく[[公職追放]]処分を受けた。
 
 
 
戦後は、[[メジャーリーグベースボール|MLB]]選手を日本に招聘して[[日米野球]]を興行するなど野球界で尽力したが、一方で長期にわたる[[中央情報局]](CIA)への協力(非公式の工作活動)をおこなっていたことが、アメリカで保管されている公文書により判明している<ref>[http://www.archives.gov/iwg/declassified-records/rg-263-cia-records/second-release-name-files.html CIA Records - Name Files]</ref><ref>[http://www.archives.gov/iwg/declassified-records/rg-263-cia-records/second-release-lexicon.pdf Research Aid: Cryptonyms and Terms in Declassified CIA Files  Nazi War Crimes and Japanese Imperial Government Records Disclosure Acts]</ref><ref name="Weiner">[[ティム・ワイナー]]「CIA秘録」文藝春秋</ref><ref>{{cite book |title=ドキュメント日商岩井 |publisher=徳間書店 |year=1979 |author=[[角間隆]]}}</ref><ref>{{cite book |title=自民党 その表と裹 |publisher=新日本出版社 |year=1963 |author=[[川端治]]}}</ref><ref>アメリカ国立公文書記録管理局によって公開された外交文書(メリーランド州の同局新館に保管)で正力とCIAの関係が明らかに[[週刊新潮]][[2006年]]2月16日号参照</ref>。また、[[自由民主党総裁]]の座も狙っており、[[渡邉恒雄]]を参謀の[[中曽根康弘]]との連絡役にしていた<ref>[[杉山隆男]]『メディアの興亡』(文藝春秋、1986年)349ー350頁。</ref>。
 
 
 
[[駒澤大学]]が上祖師谷グラウンド(野球部合宿所、駒澤大学球場)を購入する際に尽力したことを顕彰して、駒澤大学の開校80周年([[1962年]])の式典において、最初の[[名誉博士]]号が授与された。
 
 
 
[[File:Tsutsumi Yasuzirou4.JPG|thumb|300px|左から[[吉田茂]]首相、[[堤康次郎#.E5.AE.B6.E6.97.8F.E3.83.BB.E8.A6.AA.E6.97.8F|堤操]](歌人)、正力、[[堤康次郎]] <br/>([[1954年|昭和29年]]7月衆議院議長就任レセプション)]]
 
 
 
== 略年譜 ==
 
* [[1885年]]([[明治]]18年)
 
** 4月11日 - [[富山県]][[射水郡]]枇杷首村(後の[[大門町]]、現[[射水市]])に土建[[請負]]業を営む父・[[正力庄次郎]]、母・きよの次男として生まれる。松太郎が生まれたとき、父・庄次郎は立山連峰の雪解け水で氾濫した庄川の修復工事に忙しく、松太郎に対面したのはお七夜の晩だった<ref name="Kyokai1_p19">[[佐野眞一]]著『巨怪伝 上 正力松太郎と影武者たちの一世紀』19頁</ref>。
 
* 雄神小学校から高岡中学(現[[富山県立高岡高等学校]])に進んだ正力は、「勉強よりは体を鍛えろ」という父親の教えに従って、寄宿舎には入らず、8[[キロメートル]]の道のりを[[地下足袋]]姿で通った<ref name="Kyokai1_p23">[[佐野眞一]]著『巨怪伝 上 正力松太郎と影武者たちの一世紀』23頁</ref>。
 
* [[第四高等学校 (旧制)|第四高等学校]]入学<ref>同級生に[[河合良成]]([[小松製作所]]会長)、[[品川主計]]([[読売ジャイアンツ]]代表)など</ref>。
 
* [[1906年]](明治39年) - [[第三高等学校 (旧制)|三高]]との[[高専柔道]]の対校戦に優勝<ref>この時、団体戦で四高は三高に押されて負けムードが漂っていたが、大将である正力が[[巴投]]で二段の相手から逆転の一本勝ちをし、四高は優勝した。なお、この時正力自身は白帯だった</ref><ref>巴投げを防がれた所からの送襟絞とする説あり[http://kodokanjudoinstitute.org/doctrine/palace/matsutaro-shoriki/  嘉納治五郎師範の教え、講道館の殿堂、正力松太郎 、講道館HP、閲覧2017年11月14日]</ref>。
 
* [[1907年]](明治40年)
 
** 7月 - [[東京大学|東京帝国大学]]法科大学独法科入学<ref>河合、品川のほか、[[重光葵]](外相)、[[芦田均]](首相・外相)、[[石坂泰三]](経団連初代会長)などが同級。[[柔道]]と参禅に打ち込んだ。学業の方はまったく振るわず、試験前になると級友のノートを借りるのが東大時代の正力のならわしとなっていた。品川をはじめとする級友たちの間では、「正力があんなにノートを借りまくるのは、自分が勉強するためではなく、ノートを貸した人間の成績を下げるためなのではないか」という悪評が広がった([[佐野眞一]]著『巨怪伝 上 正力松太郎と影武者たちの一世紀』25頁)</ref>
 
* [[1911年]](明治44年)
 
** 7月 - 東京帝国大学卒業。[[内閣統計局]]に入る(同郷の[[南弘]]の推薦による)
 
* [[1912年]](明治45年/[[大正]]元年)
 
** 11月 - [[高等文官試験]]に合格。
 
* [[1913年]](大正2年)
 
** 6月 - [[警視庁 (内務省)|警視庁]]入庁、警務部警務課勤務。
 
* [[1914年]](大正3年)
 
** 6月 - [[警視]]に任官、日本橋堀留警察署長。
 
* [[1917年]](大正6年)
 
** 2月 - 牛込神楽坂警察署長。
 
** 9月 - 警視庁第一方面監察官。[[早稲田大学]]の学園騒動を鎮圧。
 
* [[1918年]](大正7年)
 
** 10月 - [[米騒動]]鎮圧の功により[[従六位]]に叙せられる。
 
* [[1919年]](大正8年)
 
** 6月 - 警視庁警務部刑事課長。
 
* [[1921年]](大正10年)
 
** 6月 - 警視庁官房主事。
 
** 7月 - [[正六位]]に叙せられる。
 
* [[1923年]](大正12年)
 
** 9月 - [[関東大震災]]において「朝鮮人暴動の風説」が蔓延したことで、[[自警団]]による虐殺、[[亀戸事件]]、[[甘粕事件]]が発生。1944年(昭和19年)警視庁で行った講演において正力は、虚報は震災の衝撃と通信電信途絶による人心の疑心錯覚から生じたもので、それに翻弄された当時の警視庁は事態への対応に失敗したと述べている((『正力松太郎 悪戦苦闘』 “米騒動や大震災の思い出”<ref>[http://1923archives.blogspot.com/2014/09/blog-post_6.html 記憶を刻む: 正力松太郎(震災当時・警視庁官房主事、後に読売新聞社主)]</ref>)。
 
** 10月 - 警視庁警務部長 [[虎ノ門事件]]
 
* [[1924年]](大正13年)
 
** 1月 - [[虎ノ門事件]]を防げなかった責任を問われ懲戒免官。直後、摂政宮(のちの[[昭和天皇]])婚礼により[[恩赦]]。[[読売新聞]]の経営権を[[買収]]、社長に就任。
 
* [[1928年]]([[昭和]]3年)
 
** 8月 - 外部招聘により在籍していた[[京成電鉄]]での事件「[[京成電車疑獄事件|京成疑獄事件]]」に連座していたため[[逮捕]]。逮捕直後に起訴され、裁判の結果、禁固4ヶ月、執行猶予2年の判決を受ける。
 
* [[1934年]](昭和9年) - [[メジャーリーグベースボール|大リーグ]]選抜チームを招聘、大日本東京野球倶楽部創立。
 
* [[1935年]](昭和10年)
 
** 2月 - [[右翼団体]]「武神会」[[長崎勝助]]のテロに遭い瀕死の重傷。
 
* [[1940年]](昭和15年)
 
** 9月 - 大政翼賛会総務に就任。
 
* [[1943年]](昭和18年)
 
** 5月 - 翼賛政治会総務に就任。
 
** 6月 - 内閣情報局[[参与]]に就任。
 
* [[1944年]](昭和19年)
 
** 5月 - [[貴族院 (日本)|貴族院]]議員に勅選される。
 
** 10月 - [[小磯内閣]][[顧問]]に就任。
 
* [[1945年]](昭和20年)
 
** 10月 - 第1次[[読売争議]]起こる。
 
** 12月 - [[A級戦犯]]に指定され、[[巣鴨拘置所]]に収容される<ref>巣鴨の正力は、娑婆にいる時と変わらぬ傍若無人ぶりで、同房者や収監者たちを閉口させていた。同房者を迷惑がらせたのは、まず正力の大[[イビキ]]だった。そのイビキは雷鳴以上で、たまりかねた同房者が[[下駄]]で正力の枕下の床板を叩いても一向にやむことはなかった(『巨怪伝 上 正力松太郎と影武者たちの一世紀』517-518頁)</ref>
 
* [[1946年]](昭和21年)
 
** 1月 - [[公職追放]]。
 
* [[1947年]](昭和22年)
 
** 9月 - 不起訴、釈放。(追放中に[[プロ野球再編問題 (1949年)|プロ野球再編問題]]が起き、正力に球団創設を勧められた[[毎日新聞]]が現在の[[千葉ロッテマリーンズ]]の前身の毎日オリオンズ創設)
 
* [[1950年]](昭和25年)
 
** 10月 - 読売新聞、[[有限会社]]から[[株式会社]]に改組。
 
* [[1952年]](昭和27年)
 
** 10月 - 日本テレビ初代社長に就任(1955年まで務める)
 
* [[1953年]](昭和28年)
 
** 8月 - 日本テレビ放送網本放送開始。
 
* [[1955年]](昭和30年)
 
** 1月 - 米国の新たな情報キャンペーン「[[平和のための原子力]]」プログラムを読売新聞のトップ記事で大々的に紹介し、放送やイベントを含む半年に渡る一大PR活動を開始<ref name="krooth">[https://books.google.co.jp/books?id=s1SmBgAAQBAJ&pg=PA18 CIA Operative Daniel Stanley Watson and CIA Informant Hidetoshi Shibata]Richard Krooth, Morris Edelson, Hiroshi Fukurai共著"Nuclear Tsunami: The Japanese Government and America's Role in the Fukushima Disaster" Lexington Books, 2011年, p18-</ref><ref name="fukurai">[http://japan.hani.co.kr/arti/culture/9298.html 日本 原発災害はCIA冷戦戦略から始まった]ハンギョレ新聞、2011.10.01</ref>。
 
** 2月 - [[第27回衆議院議員総選挙]]に[[富山県第2区 (中選挙区)|富山2区]]から出馬、当選。
 
** 11月 - [[第3次鳩山内閣]]で[[北海道開発庁長官]]
 
* [[1956年]](昭和31年)
 
** 1月 - [[原子力委員会]]の初代委員長に就任。1月4日、[[日本の原子力発電所|日本に原子力発電所]]を5年後に建設する構想を発表。これに対して、原子力委員の[[湯川秀樹]]は、「動力協定や動力炉導入に関して何等かの決断をするということは、わが国の原子力開発の将来に対して長期に亘って重大な影響を及ぼすに違いないのであるから、慎重な上にも慎重でなければならない」と強く訴え、抗議のために辞任した。(『原子力委員会月報』1957年1月号)[[日本原子力産業協会|原子力産業会議]]の設立を提唱。
 
** 5月 - 初代[[科学技術庁長官]]に就任。
 
* [[1957年]](昭和32年)
 
** 7月 - [[第1次岸内閣改造内閣]]で国務大臣([[国家公安委員会委員長]]、[[科学技術庁長官]]、[[原子力委員会]]委員長)に就任。
 
* [[1958年]](昭和33年)
 
** 6月 - 読売新聞の社主に復帰。
 
** 8月 - 讀賣テレビ放送会長に就任。
 
* [[1961年]](昭和36年)
 
** 6月 - 国会議員柔道連盟会長。
 
* [[1962年]](昭和37年) - 財団法人日本武道館初代会長 [[駒澤大学]]より名誉博士号を授与される。
 
* [[1964年]](昭和39年)
 
** 11月 - [[勲一等旭日大綬章]]を受章(没後、[[勲一等旭日桐花大綬章]]追贈)。
 
* [[1965年]](昭和40年)
 
** 6月18日 - [[高岡市]]名誉市民、26日 - 大門町名誉町民。
 
* [[1967年]](昭和42年)
 
** 5月 - [[報知新聞社]]社主に就任。
 
* [[1969年]](昭和44年)
 
** 10月9日 - 国立熱海病院で死去。奇しくもこの日は、読売ジャイアンツが[[セントラル・リーグ]]を制覇(5連覇)した日だった。叙・従二位。 14日に日本武道館にて葬儀。[[柔道]]八段から十段に。[[1968年]]の[[サッカー日本代表]]の[[メキシコシティオリンピック|メキシコ五輪]]銅メダルの後<!-- 出典にない記述を書き込まないで下さい! 読売クラブの創設に釜本は関係ありません。-->、将来のプロ化導入を目指した[[日本サッカー協会]]会長[[野津謙]]の要請で<ref name="始祖鳥">{{Cite book|和書|author=|editor=読売サッカークラブ~東京ヴェルディ40周年記念誌発行委員会|year=2010|title=クラブサッカーの始祖鳥 読売クラブ~ヴェルディの40年|publisher=[[東京ヴェルディ1969|東京ヴェルディ1969フットボールクラブ]]|isbn=|pages=3、8-12、15、31、54、55頁}}</ref><ref name="成田">{{Cite book|和書|author=[[成田十次郎]]|year=2010|title=サッカーと郷愁と 戦後少年のスポーツと学問の軌跡|publisher=不昧堂出版|isbn=978-4-8293-0481-5|pages=105-107}}</ref><ref name="salon2002">[http://salon2002.net/src/pdf/monthly_report/2008/2008-1.pdf 高校サッカーと民放テレビ - サロン2002オフィシャルサイト]-7頁、[http://web.archive.org/web/20090912024453/http://www.salon2002.net/monthly/2008/03.html 3月例会報告 -「サロン2002in岡山」 - サロン2002オフィシャルサイト](archive)</ref><ref name="sportsnavi">[http://web.archive.org/web/20041207044308/http://sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/toyotacup/2004/column/200412/at00003198.html スポーツナビ|サッカー|トヨタカップを呼んだ男たち 第2回 坂田信久](archive)</ref>、サッカークラブチーム・[[読売サッカークラブ|読売クラブ]](後の[[東京ヴェルディ1969]])をこの年立ち上げ<ref name="始祖鳥"/><ref name="成田"/><ref name="salon2002"/><ref name="sportsnavi"/>、これが事実上正力の最後の仕事となった。現在の読売Gはサッカークラブの経営から完全に手を引き、釜本が監督として率いて[[1992年のJリーグカップ]]や[[1993年Jリーグ開幕節]]に参戦しヴェルディと対戦した[[ガンバ大阪]]のスポンサーの1社である。
 
 
 
== 内務官僚時代 ==
 
警視庁官房主事として[[1923年]](大正12年)6月の[[日本共産党]]に対する大規模な一斉取締り(第1次)や、[[特別高等警察]]などにも関わり、同年9月に発生した[[関東大震災]]の際、[[社会主義者]]の扇動による暴動に備えるための警戒・取締りを指揮した。直後、警務部長となるが、摂政宮狙撃事件([[虎ノ門事件]])の責任を問われ、懲戒免官となる。恩赦により懲戒処分を取り消されたものの、官界への復帰は志さなかった。刑事畑においては、のちに[[甲賀三郎 (作家)|甲賀三郎]]が『支倉事件』の題名で小説化した事件の捜査にあたり<ref>『支倉事件』は、甲賀が正力の新社長就任に際して[[1927年]]に『読売新聞』に連載したもの。なお、登場人物名は仮名となっており、正力は「庄司利喜太郎」、また、被告人の弁護にあたった[[布施辰治]]は「能勢弁護士」となっている。</ref>、東大同窓生が犯した[[鈴弁殺し事件]]においては自首を仲介した。
 
 
 
== 新聞経営 ==
 
[[1924年]](大正13年)、番町会グループである[[郷誠之助]]、[[藤原銀次郎]]ら財界人の斡旋と、[[帝都復興院]]総裁だった[[後藤新平]]の資金援助により、経営不振であった読売新聞社(現・[[読売新聞東京本社]])の経営権を買収し、社長に就任した。正力は、自社主催のイベントや、ラジオ面、地域版の創設や、日曜日の夕刊発行などにより部数を伸ばした。戦前は[[報知新聞社]]の販売局長だった[[務臺光雄]]を正力が誘って読売へ移籍させ、[[大阪]]資本の[[東京朝日新聞]]・[[東京日日新聞]]などと販売競争で競い合った。そして、[[読売新聞]]の全国進出を狙って[[九州日報]]など日本各地の[[地方紙]]を買収して経営参加に成功するも、[[新聞統制]]によって計画は頓挫した。戦後、読売新聞の[[全国紙]]計画が本格化し、[[1952年]](昭和27年)に[[読売新聞大阪本社|大阪讀賣新聞社(現・読売新聞大阪本社)]]を設立、念願の[[西日本]]進出を果たした。以後、[[札幌市|札幌]]と正力のお膝元である[[高岡市]]にも東京直轄による発行支社を設置し、[[1964年]](昭和39年)、正力の長年の懸案だった[[九州]]に[[読売新聞西部本社]]を設立、1[[ブロック紙]]に過ぎなかった読売新聞を正力・務臺との二人三脚で[[朝日新聞|朝日]]・[[毎日新聞|毎日]]と肩を並べる全国紙に発展させた。
 
 
 
== 大リーグ招聘・球団結成 ==
 
[[1934年]](昭和9年)、[[ベーブ・ルース]]、[[ルー・ゲーリッグ]]らが参加した[[大リーグ]]選抜チームを招聘した。[[アマチュア野球]]しか存在しなかった日本側でも全日本チームが結成された。後に同チームを基礎として大日本東京野球倶楽部(現読売ジャイアンツ)が創設され、[[1936年]](昭和11年)の第1回職業野球日本リーグに参加した。正力は、慶應義塾大学への進学が決まっていた[[沢村栄治]]を「一生面倒見る」と説き伏せて入団させたが、実際には二度の応召(徴兵も沢村が中学卒でしかなかったことが要因)で肩を壊した沢村を解雇している。
 
 
 
正力は最初期と戦後の一時期を除いて読売ジャイアンツのオーナーを務め、また、巣鴨プリズンから釈放後の一時期、職業野球連盟の総裁(今で言う[[コミッショナー]])に就任した。このような正力の業績を称え1959年[[野球殿堂 (日本)|野球殿堂]]入り。また日本プロ野球界に貢献した関係者を対象に、毎年[[正力松太郎賞]]が贈られている。
 
 
 
戦後、読売新聞を離れていた時期には[[毎日新聞]]と接触して、毎日のプロ野球参加と将来の2リーグ制移行を画策した。このとき読売新聞側は毎日の加入に反対し、最終的に[[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]と[[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]に分かれることになる。正力自身は当面1リーグ10球団で運営し、その後2球団を追加してから読売・毎日がそれぞれ所属するリーグを立ち上げる構想であった。
 
 
 
== 襲撃事件 ==
 
[[1935年]](昭和10年)、本社玄関前で暴漢に左頸部を斬りつけられ重傷を負った。直接の実行犯の[[長崎勝助]]は[[武神会]]の構成員(元、警視庁巡査)。取調べに対して、犯行に及んだ理由として、読売新聞が[[天皇機関説]]を支持したこと、正力が大リーグを招聘し、[[明治神宮野球場|神宮球場]]を使用し「神域を穢した」ことなどを挙げた。だが、捜査・公判の進行により、競合他社[[毎日新聞|東京日日新聞]]の幹部による指示があったとされた。
 
 
 
== テレビ放送事業 ==
 
{{seealso|正力マイクロ波事件}}
 
[[1952年]](昭和27年)[[7月31日]]、正力が[[電波監理委員会設置法|電波監理委員会]]へ免許出願していた日本テレビ放送網(以下、日テレ)に日本の[[テレビ|テレビジョン]]放送局としては初となる[[予備免許]]が交付された。
 
 
 
日テレは当初、東京を本部として[[札幌市]]から[[鹿児島市]]まで日本各地に支局を置き、日本全国をカバーする構想だった。しかし、「単一資本による複数県にまたがる放送は、メディアの寡占となり好ましくない」という[[郵政省]](当時)の見解により、やむなく[[関東地方]]のローカル局として開局せざるを得なくなることとなった。当時の日テレの放送機材は[[アメリカ合衆国]]からの輸入に頼っており、機材の搬入が予定より大幅に遅れたことから、日テレより後に予備免許が下りたもののほとんどの機材を国産品とした[[日本放送協会]](NHK)が、[[1953年]](昭和28年)[[2月1日]]に東京で日本初のテレビジョン放送を開始することになった。
 
 
 
同年[[5月15日]]、ワシントンのショーラム・ホテルへ日本の政府・議会・軍・航空の関係者を集め、正力を事業主とする「テレビを含む国際通信のための[[:en:Allstream Inc.|ユニテル]]・リレー網計画」の説明会が行われた。テレビに留まらない[[マルチメディア]]事業であり、正力の懐刀[[柴田秀利]]も日テレ代表として列席した。説明会を企画した人物の出身は大別して、元[[Office of Strategic Services|OSS]]員か、[[中央情報局]]スタッフか、[[アメリカ対日協議会|ジャパン・ロビー]]かであった<ref>OSS出身で説明会と最も深く関わったのは、X-2部長の[https://www.cia.gov/library/center-for-the-study-of-intelligence/csi-publications/books-and-monographs/oss/art07.htm ジェイムズ・マーフィ]である。1000万ドル借款をアメリカ政府から取り付けるための交渉など全般を担当する弁護士として日テレに雇われていた。説明会にも主催者として直接関わり、出席もしていた。
 
:[[有馬哲夫]] 『日本テレビとCIA-発掘された「正力ファイル」』 新潮社 2006年10月 pp.14-31.</ref>。
 
 
 
そして、NHKより半年遅れの[[8月28日]]に日テレは日本初の[[民間放送]]によるテレビジョン放送を開始、正力は日テレの初代社長に就任した<ref>日テレで初の地方完全系列局で、[[務臺光雄]]が設立に関わった讀賣テレビ放送(読売テレビ。[[大阪市]])の初代会長も務めた。</ref>。日テレは民間放送であることから、[[コマーシャルメッセージ|コマーシャル]]を収入源としている。テレビジョン放送開始当時のテレビ受像機は庶民にとって“高嶺の花”だったことから、正力はテレビ受像機の普及促進と各企業からの[[スポンサー]]獲得のため、東京都内を中心とした[[繁華街]]、主要[[鉄道駅]]、[[百貨店]]、[[公園]]など人の集まる場所に[[街頭テレビ]]を常設し、一般家庭へのテレビの普及に全力を注いだ。その結果、[[力道山]]などが活躍した[[プロレス]]を始めとしたスポーツ中継では街頭テレビの観衆が殺到し、スポンサーの説得も功を奏して日テレは開局から半年たって黒字化を達成した。
 
 
 
[[1958年]](昭和33年)10月、東京のテレビ[[電波塔]]「[[東京タワー]]」が完成し、NHKや在京キー局各局は東京タワーに基幹送信所を置いたが、正力は日テレのみ東京タワーへの送信所移転を拒否し、[[日本テレビ放送網麹町分室|麹町本社]]鉄塔からの送信を続けた。そして、東京・[[新宿]]に高さ550mの電波塔「正力タワー」の建設を構想、[[1968年]](昭和43年)に起工式が行われるも、正力の死で実現しなかった。「正力タワー」の建設予定地だった場所には日テレの子会社である[[日本テレビサービス]]が[[日本テレビ放送網#開局から1980年代まで|日本テレビゴルフガーデン]]を建設したが、1997年12月、社有地が売却され、2012年4月に[[新宿イーストサイドスクエア]]が建築されている。そして、正力の死後の[[1970年]](昭和45年)[[11月10日]]に日テレも基幹送信所を東京タワーに移転した<ref>[[2013年]][[5月31日]]に地上デジタル放送の完全移行に伴い、NHKと他の在京キー局の基幹送信所は[[東京スカイツリー]]に再移転した。なお東京タワーは予備送信所としての機能に移行している。</ref>。
 
 
 
== CIAの協力者としての活動 ==
 
[[早稲田大学]]教授の[[有馬哲夫]]が、[[週刊新潮]]2006年2月16日号で、正力が戦犯不起訴で巣鴨プリズン出獄後に[[中央情報局]](CIA)の非公然の工作に協力していたことを[[アメリカ国立公文書記録管理局]]によって公開された外交文書(メリーランド州の同局新館に保管されている)を基に明らかにし、反響を呼んだ。有馬は日テレとCIAの関連年表も作成しており<ref>http://www.f.waseda.jp/tarima/NTV%20and%20CIA.htm</ref>、その中で[[アメリカ対日協議会]]の面々を登場させ、日テレとの密接な関係を抉り出している。
 
 
 
米国中央情報局は、旧ソ連との冷戦体制のなか、日本に原子力を輸出するために‘KMCASHIR’という作戦名の心理戦を繰り広げ、日本国民の原子力に対する恐怖心を取り除くよう、読売新聞率いる正力のメディア力を利用した<ref name="fukurai"/>。アメリカ政府はCIA諜報部員ダニエル・スタンレー・ワトソン(Daniel Stanley Watson, のちに[[服部智恵子]]の娘・繁子と結婚し、東南アジア、メキシコでスパイ任務にあたった)を日本へ派遣し、米国のプロパガンダ「[[平和のための原子力]]」を大衆に浸透させるため、正力と親しい柴田秀利と接触した<ref name="krooth"/>。
 
 
 
日本への[[テレビ放送]]の導入と[[原子力発電]]の導入について、正力はCIAと利害が一致していたので協力し合うことになった、その結果、正力の個人[[コードネーム]]として「podam」(英:我、通報す)及び「pojacpot-1」が与えられ、組織としての読売新聞社、そして日本テレビ放送網を示すコードネームは「podalton」と付けられ、この二者を通じて日本政界に介入する計画が「Operation Podalton」と呼ばれた。これらの件に関する大量のファイルがアメリカ国立第二公文書館に残ることになった[[:en:Psychological_Strategy_Board]](アメリカ国立公文書 Records Relating to the Psychological Strategy Board Working Files 1951-53)<ref>[https://www.trumanlibrary.org/hstpaper/physc.htm Truman Library - Truman Papers: Psychological Strategy Board Files]</ref><ref>[http://history.state.gov/historicaldocuments/frus1964-68v29p2 Foreign Relations of the United States, 1964–1968, Volume XXIX, Part 2, Japan - Historical Documents - Office of the Historian]</ref>。正力と共に日本のテレビ放送導入に関わった柴田秀利は「pohalt」というコードネームを与えられた。
 
 
 
CIAに正力を推薦したのは、[[アメリカ合衆国上院|上院]]議員[[カール・ムント]]であると[[ベンジャミン・フルフォード]]は主張している<ref>カール・ムント米上院議員は、「[[VOA]](ヴォイス・オブ・アメリカ)」構想を打ちたて、世界中で広まりつつあった[[共産主義]]の撲滅に乗り出した「[[プロパガンダ]]の雄」である。[[1951年]](昭和26年)8月13日、ムントは「日本全土に総合通信網を民間資本で建設する」と発表した。その翌年、正力はテレビ放送免許を取得、[[1953年]](昭和28年)8月28日、日本テレビが開局した。([[ベンジャミン・フルフォード]]『ステルス・ウォー』 [[講談社]] [[2010年]]3月 ISBN 9784062161244, Page238)</ref>。
 
 
 
== 遺訓 ==
 
正力は読売ジャイアンツに対して、巨人軍憲章とも呼ばれる遺訓を残している。遺訓は以下の3つ。
 
* 巨人軍は常に紳士たれ
 
* 巨人軍は常に強くあれ
 
* 巨人軍はアメリカ野球に追いつき、そして追い越せ
 
 
 
== 家族・親族 ==
 
=== 正力家 ===
 
元々一介の庶民の出だった正力家が[[富山県]][[射水市]]屈指の名家として名を成したのは、松太郎の[[祖父]]の庄助がこの地に度々災厄をもたらした[[庄川]]の氾濫を防いだ功による<ref name="Kyokai1_p19"/>。江戸[[嘉永]]年間(1848年 - 1854年)に庄助の発案になる鉄の金輪(かなわ)は、河川の氾濫で流れた古橋の抗を抜くための道具として卓効を発した<ref name="Kyokai1_p19"/>。この功により庄助は[[奉行]]から[[苗字帯刀]]を許された<ref name="Kyokai1_p19"/>。正力という姓は、この金輪(かなわ)に命名された正力輪から始まっている<ref name="Kyokai1_p19"/>。正力家が土建[[請負]]業として大をなしたのはそれからだった<ref name="Kyokai1_p19"/>。
 
* 祖父・'''[[正力庄助|庄助]]'''<ref name="Kyokai1_p19"/>
 
* 父・'''[[正力庄次郎|庄次郎]]'''<ref name="Kyokai1_p19"/>(土建[[請負]]業<ref name="Kyokai1_p19"/>)
 
* 母・'''きよ'''<ref name="Kyokai1_p21">佐野眞一著『巨怪伝 上 正力松太郎と影武者たちの一世紀』21頁</ref>
 
: 松太郎の両親はもともと[[本願寺]]の熱心な門徒だった<ref name="Kyokai1_p21"/>。父・庄次郎は毎朝毎晩の[[勤行]]をかかさなかった<ref name="Kyokai1_p21"/>。松太郎の両親への報恩の情はきわめて篤かった<ref name="Kyokai1_p21"/>。
 
* 前妻・'''布久子'''<ref name="Kyokai1_p27"/>
 
:[[警視庁 (内務省)|警視庁]]の上層部が正力の将来にいかに属目していたかは、当時の[[警視総監]]の[[安楽兼道]]が妻の兄弟の娘、つまり安楽にとっては義理の姪にあたる前田布久子([[鹿児島県]]出身)と[[見合い]]させ、結婚させたことでもわかる<ref name="Kyokai1_p27">[[佐野眞一]]著『巨怪伝 上 正力松太郎と影武者たちの一世紀』27頁</ref>。だが、布久子は一女をなしてまもなく亡くなった<ref name="Kyokai1_p27"/>。その長女も8歳で早世した<ref name="Kyokai1_p27"/>。
 
* 後妻・'''波満'''
 
: [[1895年]](明治28年)4月生 -
 
: 正力は最初の妻を失って間もなく、[[千葉県]]上総湊(現[[富津市]])出身で精華女学校の[[和裁]][[教諭]]の吉原波満と再婚した<ref name="Kyokai1_p175">佐野眞一著『巨怪伝 上 正力松太郎と影武者たちの一世紀』175頁</ref>。波満が教鞭をとったのは、同校創始者の[[勝田孫弥]]が、波満の実家と縁つづきという関係からだった<ref name="Kyokai1_p175"/>。勝田はその一方で、元警視総監の安楽兼道とも縁戚にあり、最初の妻を早くに亡くした正力を不憫に思った安楽が、遠い縁つづきの波満を世話したものだった<ref name="Kyokai1_p175"/>。
 
* 長男・'''[[正力亨|亨]]'''(第2代讀賣社主、第2代球団オーナー) … 後妻との間の子
 
:[[1918年]](大正7年)10月生 - [[2011年]](平成23年)8月没
 
:* 同妻・'''[[正力峰子|峰子]]'''<ref name="Kyokai1_p447">佐野眞一著『巨怪伝 上 正力松太郎と影武者たちの一世紀』447頁</ref>(旧[[子爵]]の元貴族院議員[[梅渓通虎]]の次女<ref name="Kyokai1_p447"/>)
 
::妻峰子の妹は[[池坊専永]]夫人の[[池坊保子|保子]]である<ref name="Kyokai1_p447"/>。
 
* 二男・'''[[正力武|武]]''' … 柳橋の元[[芸者]]中村すゞとの間の子
 
:日本テレビの副社長に就任した[[正力亨|亨]]が最初に断行したことは、同社の[[役員]]だった弟の武を、傍系の[[よみうりランド (企業)|よみうりランド]]に追放したことだった<ref name="Kyokai2_p394">佐野眞一著『巨怪伝 下 正力松太郎と影武者たちの一世紀』394頁</ref>。正力から[[認知]]され、日本テレビ入りしたものの、武の在社期間はわずか2年にすぎなかった<ref name="Kyokai2_p394"/>。武はその後、二度と日本テレビに復帰することなく、[[1985年]](昭和60年)5月、51歳で死去した<ref name="Kyokai2_p394"/>。熱望していた[[結婚]]は結局叶わず、[[独身]]のままの淋しい死だった<ref name="Kyokai2_p394"/>。武は晩年、自分の人生を呪うように、浴びるほどの[[酒]]をのみつづけた<ref name="Kyokai2_p394"/>。
 
* [[愛人]]・'''中村すゞ'''<ref name="Kyokai2_p378"/>
 
:すゞは美人でもなく、しかも前夫との間の子供もいるいわゆるコブつきで、友人たちの間では、正力ほどの人物がなぜあんな女を、という悪評判ばかり立っていたという<ref name="Kyokai2_p378">佐野眞一著『巨怪伝 下 正力松太郎と影武者たちの一世紀』378頁</ref>。
 
* 長女・'''梅子'''(読売新聞社名誉会長[[小林與三次]]の妻)… 後妻との間の子
 
:[[1920年]](大正9年)生 -
 
:[[小林與三次]]と梅子のなれそめについて小林によると「ジイさん(松太郎)の姉さんが、テロによるケガの具合を心配して、僕に様子を見に行ってくれ、と頼んできた<ref name="Kyokai1_p445">佐野眞一著『巨怪伝 上 正力松太郎と影武者たちの一世紀』445頁</ref>。それがきっかけとなって、僕が田舎に帰るたび、ジイさんの近況を実家に報告するようになった<ref name="Kyokai1_p445"/>。そんなことからだんだんと正力家と親しくなった<ref name="Kyokai1_p445"/>。学費を正力家から出してもらったという話もあるようだが、僕は育英金で学費をまかなったので、正力家からは一銭も出してもらっていない<ref name="Kyokai1_p445"/>。結婚についてはジイさんから直接話があった<ref name="Kyokai1_p445"/>」という。
 
: 小林與三次の実家について[[佐野眞一]]によると「[[要塞]]のような正力家の屋敷に比べ、[[庄川]]の水べりのすぐそばに建つ小林の生家は見るからに貧相だった<ref name="Kyokai1_p19"/>。その対照的な光景は、当主を“おやっさん”(親方)と呼ぶ、印半纏(しるしばんてん)の人足が何十人となく出入りしていた正力家の羽ぶりのよさと、その正力家の土建資材を運ぶ[[いかだ|イカダ舟]]の[[船頭]]に過ぎなかった小林の父との境遇の違いを、残酷なまでに見せつけている」という<ref name="Kyokai1_p19"/>。
 
* 二女・'''利子'''(よみうりランド社長[[関根長三郎]](元[[三菱銀行]]副頭取[[関根善作]]の三男、元衆議院議員、信濃毎日新聞社長[[小坂善之助]]の[[孫]])の妻)… 後妻との間の子
 
:[[1923年]](大正12年)生 - [[2007年]](平成19年)9月21日没<ref>[http://www.47news.jp/CN/200709/CN2007092501000397.html 関根利子さん死去 よみうりランド社長関根達雄氏の母] 共同通信47News 2007年9月25日閲覧</ref>
 
 
 
== 正力を演じた俳優 ==
 
* [[津川雅彦]] 「日本プロ野球を作った男たち」(2002年、[[テレビ東京]])
 
 
 
== 参考文献 ==
 
*自伝 『正力松太郎 悪戦苦闘』 〈人間の記録〉[[日本図書センター]]、1999年に復刻
 
* [[佐野眞一]] 『巨怪伝  <small>正力松太郎と影武者たちの一世紀</small>』 [[文藝春秋]] 1994年、[[文春文庫]] 上・下巻、2000年
 
* 柴田秀利 『戦後マスコミ回遊記』 [[中央公論社]] 1985年、[[中公文庫]] 上・下巻 1995年
 
* [[春名幹男]] 『秘密のファイル [[中央情報局|CIA]]の対日工作』(上下) [[共同通信社]]、2000年、[[新潮文庫]]、2003年
 
* [[神松一三]] 『「日本テレビ放送網構想」と正力松太郎』 [[三重大学]]出版会、2005年
 
* [[有馬哲夫]] 『日本テレビとCIA 発掘された「正力ファイル」』 [[新潮社]]、2006年
 
* 有馬哲夫 『原発・正力・CIA 機密文書で読む昭和裏面史』 [[新潮新書]]、2008年
 
* 有馬哲夫 『昭和史を動かしたアメリカ情報機関』 [[平凡社新書]]、2008年
 
* 有馬哲夫 『CIAと戦後日本』[[平凡社新書]]、2010年
 
* Richard Krooth, Morris Edelson, 福来寛(カリフォルニア大学サンタクルーズ校教授)共著"Nuclear Tsunami: The Japanese Government and America's Role in the Fukushima Disaster" Lexington Books, 2011年
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[読売新聞グループ本社]]
 
* [[よみうり]](かつて読売ジャイアンツを運営していた企業)
 
* [[スポーツ報知]]
 
* [[ウォルト・ディズニー・カンパニー]]
 
* [[クラブ33]]
 
* [[日本の原子力発電所]]
 
* [[田邊宗英]]
 
* [[真鍋八千代]]
 
* [[藤本定義]]
 
* [[中島治康]]
 
* [[藤本英雄]]
 
* [[三原脩]]
 
* [[水原茂]]
 
* [[川上哲治]]
 
* [[松本滝蔵]]
 
* [[キャピー原田]]
 
* [[萩山教嚴]] - 正力の議員秘書だった。
 
* [[務臺光雄]] - 正力の大番頭と呼ばれた。
 
 
 
== 外部リンク ==
 
{{Commonscat|Matsutarō Shōriki}}
 
* [http://www.jabira.net/retsuden/sa/syouriki.htm 正力松太郎 略歴]
 
* [http://web.archive.org/web/20090828081808/http://www.city.takaoka.toyama.jp/kikaku/0202/secretary_section/Honorary%20Citizens.html 高岡市秘書課 名誉市民 正力松太郎 肖像]
 
* [https://klc.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=132&item_no=1&page_id=13&block_id=17 新聞経営の革新と大衆文化の演出 : 正力松太郎の企業家活動をめぐって]濱田信夫、九州ルーテル学院大学紀要、 2005-07-31
 
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2019/4/29/ (月) 00:54時点における最新版

正力 松太郎(しょうりき まつたろう、1885年(明治18年)4月11日1969年昭和44年)10月9日

読売新聞社や日本テレビ放送網などの経営者,政治家。東京大学法学部卒業後,1913年警視庁に入った。 18年夏の米騒動の鎮圧に手腕を発揮し,以後普選運動,労働運動など公安事件を取締った。なかでも 23年6月の第1次共産党事件は有名。同年 12月 27日の虎ノ門事件の責任で懲戒免官になり,『読売新聞』の経営を引受け,24年社長に就任,同社の再建と拡大に努めた。 34年職業野球団である大日本東京野球倶楽部 (読売ジャイアンツの前身) を創設。第2次世界大戦後の 45年 12月,第1次読売争議の最中に戦犯に指定され,巣鴨拘置所に収容され,社長を辞任。

47年9月に釈放されてからは社長に復帰するとともに,日本テレビ放送網の設立に努力。 55年には富山県から衆議院議員に立候補して当選,鳩山・岸内閣で国務大臣をつとめた。



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