橘樹郡

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橘樹郡(たちばなぐん)

武蔵国の南部に位置し、東は海で、北は荏原えばら郡・多摩たま郡、西は都筑つづき郡、南は久良くらき郡に接する。現在の川崎市と横浜市の一部にわたる。「和名抄」東急本は「太知波奈」と訓を付す。高田たかた・橘樹・御宅みやけ県守あかたもり駅家うまやの五郷があり、郡衙はおそらく橘樹郷にあったであろう。郡名の由来として、日本武尊の東征に従った弟橘媛の墓が当郡にあるとされるところから「風土記稿」以来、媛の名によるとの説が広く称えられる。「日本書紀」によれば、武蔵国造の職を笠原直使主と同族小杵が争い、大和朝廷の助けによって勝った使主は、安閑天皇元年閏一二月朝廷に「横渟・橘花・多氷・倉樔」の四屯倉を献上した。この「橘花」の屯倉が中心となって郡となったとみられる。なおこの笠原氏は「和名抄」にみえる<img src="/static/common/font/rekishi/18/4298.gif" alt="〓" border="0">玉さいたま笠原かさはら郷に関係ある氏族であろうか。武蔵国分寺跡(現東京都国分寺市)出土の瓦に「<img src="/static/common/font/rekishi/18/49B6.gif" alt="〓" border="0">」の字の篦書が多数みられるが、当郡名をさしているものもあろう。「万葉集」巻二〇には天平勝宝七年(七五五)の「橘樹郡上丁物部真根」の防人歌一首が含まれ、郡名としての初見である。奈良東大寺正倉院御物の翌年一一月の調庸布墨書に「武蔵国橘樹郡橘□郷刑部直国当」と記されている。神護景雲二年(七六八)六月二一日、橘樹郡の飛鳥部吉志五百国が白雉を献じた(続日本紀)。貞観一四年(八七二)一一月二三日「橘樹郡人巨勢朝臣屎子」が節婦として表彰され、位二階を叙せられ、戸内の租を免除された(三代実録)。郡内の住民として現れる物部・刑部・飛鳥部・巨勢らの名は中央豪族に由来するとみられ、屯倉の設置などにみるように中央とのかかわりが早くからあったことを示している。南北朝期の成立とみられる「拾芥抄」には「橘樹」とみえるが、室町時代の史料には「立花郡長尾山威光寺」(応永一二年八月日「武蔵国威光寺鐘勧進状写」県史三)、「橘花郡稲毛庄坂戸郷」(延徳二年六月二四日「山崎重久証文」同書)などとみえる。当郡内には稲毛いなげ庄をはじめ賀勢かせ庄・丸子まりこ庄・河崎かわさき庄・たちばな御厨が存在した。



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