標津町

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標津町(しべつちょう)は、北海道東部、根室振興局管内標津郡にある町。日本有数のの産地として知られる。町名の由来はアイヌ語の「シペッ」(大きな川)から。

上川総合振興局に同名の読みの士別市があり、テレビ・ラジオ放送では混同を防ぐために、標津町には振興局名を冠して「根室標津」、士別市を「サムライ士別」などと呼ぶことがある。

地理

根室振興局管内の中部に位置する。北は植別川で羅臼町と、北西・西は斜里岳をはじめとする知床連山により斜里町・清里町と隔てられる。南西は中標津町、南は別海町に接している。町域は西半が知床連山から続く山地台地根釧台地)で、東半は標津川忠類川などの中小河川沿いに低湿な平地が広がっている。東は根室海峡に面しており、海岸からは国後島を望むことができる。南部から海峡に突きだした砂嘴野付半島の一帯は風蓮湖とともに野付風蓮道立自然公園に指定されている。

釧路市から北東に約120km、根室市から北西に約95km、中標津町から東に約20kmに位置。衆院選小選挙区では北海道第7区に、天気予報二次細分区域では根室北部に属する。日本最東端の「特別豪雪地帯」である

ファイル:Hokkaido Nemuro Br 16cl.png
根室振興局(4.標津町)

隣接している自治体

町名の由来

2つの説がある。一つは、シ・ベツが標津になった説。シ・ベツは大川または本流の意味で、昔の生活圏のうちで一番大切な川をそう呼んだもの。

もう一つは、シベヲツが標津となった説。シベヲツは「サケのたくさんいる川」という意味。

歴史

  • 1700年(元禄13年) 松前藩元禄御国絵図江戸幕府に献上。この図に「ちべ内」と記載。標津が文献に表われた初め。
  • 1701年 厚岸場所の奥地を分離して、霧多布場所を設ける。
  • 1758年(宝暦8年) ノッシヤムの酋長シクフが部下2千~3千人を率いて宗谷えぞを襲撃、60余人を殺し、200余人を傷つけた。
  • 1759年 松前藩士の湊覚之進は7月、シクフを厚岸に招き、昨年の騒乱を罰し、手印として宝物を提出せしめて許す。
  • 1774年(安永2年) 霧多布外3場所を飛弾屋久兵衛に請負わす。クナシリ酋長ツキノエが飛弾屋の交易船に暴行。
  • 1783年(天明3年) 夏、宗谷、目梨のえぞ8百~9百人が餓死
  • 1783年 秋に飢饉。年かわれど止まず。
  • 1785年 幕府派遣のえぞ地分検隊が標津を通過。この時、ツキノエが隊長に会いたがり、松前藩士に阻止さる。
  • 1786年 9月7日夜、幕府派遣の「神通丸」が標津沖で、「五社丸」は西別沖で暴風のため沈没。
  • 1789年(寛政元年) 国後、目梨のアイヌ反乱。和人70人を殺害。飛弾屋を免じ、村上伝兵衛に場所請負を命ず。
  • 1794年 運上屋をノッカマップより根室へ移し、根室領と称す。
  • 1796年 小林宗九郎、熊野屋忠右衛門、根室場所請負人となる。
  • 1859年 道東の開拓権を与えられた会津藩陣屋を置く[1]
  • 1879年明治12年) 4月戸長役場を標津に設け(標津町の開基)、標津と伊茶仁の2ケ村を統治し、6月には標津郡戸長役場となる。
  • 1880年(明治13年) 標津・目梨両郡戸長役場となり、管轄を標津村、伊茶仁村薫別村崎無異村忠類村、植別村の6ケ村とする。
  • 1884年(明治17年) 野付郡茶志骨村を編入し、標津外6ケ村戸長役場となる。
  • 1901年(明治34年) 植別村が植別村戸長役場(現在の羅臼町)として分離する。
    • 1901年(明治34年) 標津駅逓所開設。
  • 1923年大正12年) 二級町村制が施行、標津村。標津外5ケ村戸長役場を標津村役場に改称する。
  • 1926年昭和元年) 標津 - 中標津間、殖民軌道根室線開通。翌年より運行開始。
  • 1929年(昭和4年) 中標津火力発電所運転。
    • 1929年(昭和4年) 6大字を廃し、18字を置く。太字は後に中標津村(後の中標津町)に移行した字全域。
      • 標津村 → 標津、武佐開陽俣落西竹養老牛上標津計根別当幌中標津俵橋、川北[2]
      • 伊茶仁村 → 伊茶仁[3]
      • 薫別村 → 薫別[4]
      • 崎無異村 → 崎無異[5]
      • 忠類村 → 忠類[6]、古多糠[7]
      • 茶志骨村 → 茶志骨[8]
  • 1937年(昭和12年) 国鉄標津線が根室標津駅まで延伸。殖民軌道廃止。
  • 1946年(昭和21年) 中標津村(現中標津町)が分村。
  • 1958年(昭和33年) 町制施行、標津町となる。
  • 1979年(昭和54年) 標津町百年記念式典が行われる。
  • 1989年平成元年) JR標津線廃止。

経済

産業

農業は畜産がほとんどで、近隣の中標津町、別海町とともに酪農地帯を形成している。他にテンサイの栽培も行われる。豊富な森林資源を背景に林業も行われる。

漁業は古くから盛んで、特にが多く獲れ、秋サケは日本有数の水揚げ量を誇る。サケ・マスの年漁獲量は、約17,000t(約530万尾)。ホタテガイの漁獲も多い。また年に1度、標津町民に無料で鮭が提供される。隣接する羅臼町とは違い、昆布などの採藻は行われない。

農協・漁協

  • 標津町農業協同組合(JAしべつ)
  • 標津漁業協同組合

金融機関

郵便局

  • 標津郵便局(集配局)
  • 薫別郵便局(集配局)
  • 川北郵便局
  • 士別忠類簡易郵便局
  • 古多糠簡易郵便局

公共機関

ファイル:National Health Insurance Shibetsu Hospital.JPG
標津町国民健康保険標津病院

国の機関

警察

姉妹都市・提携都市

地域

人口

標津町(に相当する地域)の人口の推移
総務省統計局 国勢調査より

標津町の人口は、平成28年10月1日時点で男性 2,632人、女性 2,697人、合計 5,329人である。

消滅集落

2015年国勢調査によれば、以下の集落は調査時点で人口0人の消滅集落となっている[9]

  • 標津町 - 共立

教育

  • 高等学校(道立)
  • 中学校
    • 標津町立標津中学校
    • 標津町立川北中学校
  • 小学校
    • 標津町立標津小学校
    • 標津町立川北小学校
  • 幼稚園
    • 標津町立標津幼稚園
    • 標津町立川北幼稚園
  • 閉校
    • 1996年平成8年)3月 - 標津町立上古多糠小学校(古多糠小と統合)
    • 2005年(平成17年)3月 - 標津町立北標津小中学校(川北小・中と統合)
    • 2006年(平成18年)3月 - 標津町立忠類小学校(標津小と統合)
    • 2012年(平成24年)3月 - 標津町立古多糠小中学校(川北小・中と統合)
    • 2012年(平成24年)3月 - 標津町立薫別小中学校(標津小・中と統合)

交通

ファイル:Akan bus Shibetsu01.JPG
阿寒バス標津営業所

空港

鉄道

かつては標茶駅まで鉄道(標津線)が通っていたが(町内の駅は川北駅根室標津駅)、1989年に廃線となった。現在は阿寒バスによる代替輸送が行われている。以前は根北線の計画もあった。

バス

道路

名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事

文化財

史跡

天然記念物

標津町指定文化財

観光

レジャー

  • 北海道をはじめ日本の河川で鮭を釣る事は水産資源保護法北海道内水面漁業調整規則により、原則として禁じられているが、忠類川ではサケ・マス有効利用調査の対象河川として、調査目的での釣行が許可されており、秋のシーズンには多くの釣り師が集まる。釣行には事前申込みが必要で、手法などにもいくつかの制限がある。

移住促進施策

標津町では、「北のふるさと移住計画」と称する移住促進施策を実施している。これは、定住して3年以内に住宅を建設すれば1区画当たり120坪から140坪の区画が無償で分譲されるというものである。町では美郷団地等一定の区画を定住促進団地として指定している。

出身有名人

脚注

関連項目

外部リンク

テンプレート:根室支庁の自治体