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'''樋口 一葉'''(ひぐち いちよう、[[1872年]][[5月2日]]([[明治]]5年[[3月25日 (旧暦)|3月25日]])- [[1896年]](明治29年)[[11月23日]])は、[[日本]]の[[小説家]]。東京生まれ。{{要追加記述範囲|date=2018年4月|本名は夏子、戸籍名は奈津}}。
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'''樋口 一葉'''(ひぐち いちよう、[[1872年]][[5月2日]]([[明治]]5年[[3月25日 (旧暦)|3月25日]])- [[1896年]](明治29年)[[11月23日]]
 
 
[[中島歌子]]に歌、古典を学び、[[半井桃水]]に小説を学ぶ。生活に苦しみながら、「[[たけくらべ]]」「[[にごりえ]]」「[[十三夜 (小説)|十三夜]]」といった秀作を発表、文壇から絶賛される。わずか1年半でこれらの作品を送ったが、24歳6ヶ月で[[結核#肺結核|肺結核]]により死去。没後に発表された『一葉日記』も高い評価を受けている。
 
 
 
== 生涯 ==
 
=== 出生と樋口家 ===
 
[[東京府]]第二大区一小区内幸町の東京府庁構内(現在の[[東京都]][[千代田区]])の長屋で生まれる。本名は樋口奈津。父は樋口為之助(則義)、母は古屋家の娘多喜(あやめ)の第五子で、一葉は二女。姉のふじ、兄に泉太郎、虎之助がおり、一葉の後に妹くにが生まれた。
 
 
 
樋口家は[[甲斐国]][[山梨郡]]中萩原村重郎原(現:[[山梨県]][[甲州市]]塩山)の長[[百姓]]。祖父の[[樋口八左衛門|八左衛門]]は一葉が生まれる前年に死去しているが、学問を好み俳諧や狂歌、漢詩に親しんだ人物で、江戸の御家人[[真下晩菘]](専之丞)から江戸の情報を知り、横浜開港に際しては生糸輸出の事業にも着手している。一葉は後に『にごりえ』で、八左衛門の教養や反骨精神を主人公お力の祖父に重ねて描いている。
 
 
 
父の則義も農業より学問を好んだ。多喜との結婚を許されなかったため、駆け落ち同然で[[江戸]]に出たという。則義は[[蕃書調所]]勤番であった晩菘を頼って同所使用人となり、[[1867年]]([[慶応]]3年)には[[同心]]株を買い、運良く幕府直参となり、[[明治維新]]後には下級役人として[[士族]]の身分を得て[[東京府|東京府庁]]に勤めたが、[[1876年]](明治9年)に免職。[[1877年]](明治10年)には[[警視庁 (内務省)|警視庁]]の雇となり、[[1880年]](明治13年)には、勤めのかたわら[[闇金融]]、土地家屋の売買に力を入れた。職権などで入手した情報などをもとに、[[不動産]]の売買・斡旋などを副業に生計を立てていた<ref>[http://d-arch.ide.go.jp/je_archive/society/wp_unu_jpn51.html 日本資本主義の生成と不動産業]旗手勲、国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告、1981年、ジェトロ・アジア経済研究所</ref>。
 
 
 
=== 出生から少女時代 ===
 
一葉は1872年(明治5年)3月25日、則義の次女として誕生する。少女時代までは中流家庭に育ち、一葉の日記「塵之中」によれば幼少時代から読書を好み[[草双紙]]の類いを読み、7歳の時に[[曲亭馬琴]]の『[[南総里見八犬伝]]』を読破したと伝えられる。
 
 
 
[[1877年]](明治10年)、本郷小学校に入るが幼少のためにほどなく退学し、吉川富吉が始めた私立吉川学校に入学した<ref>『樋口一葉と甲州』、p.30</ref>。[[1881年]](明治14年)、次兄の虎之助が分家し、陶器絵付師に弟子入りした。同年には[[下谷区]][[御徒町]]へ移ったため、11月に上野元黒門町の私立青海学校に転校する。高等科第四級を首席で卒業するも、上級に進まずに退学した。これは母・多喜が、女性に学業は不要だと考えていたからだという<ref>『樋口一葉と甲州』、p.30</ref>。
 
 
 
=== 歌人として ===
 
一方、父・則義は娘の文才を見抜き、知人の和田重雄のもとで和歌を習わせた。[[1886年]](明治19年)、父の旧幕時代の知人である医師の遠田澄庵の紹介で、[[中島歌子]]の歌塾「萩の舎」に入門。ここでは和歌のほか千蔭流の書や古典文学を学んでおり、源氏物語などの王朝文学が一葉の初期作品のモチーフになっている。萩の舎時代に一葉は親友の伊東夏子や田辺龍子と出会い、素養を積んでからは助手として講義をおこなった。萩の舎は当時、[[公家]]や旧[[大名]]などの旧体制、[[明治政府]]の特権階級の[[政治家]]・[[軍人]]の夫人や令嬢らが通う歌塾だった。士族とはいえ元[[農民]]出身であったため、一葉、伊東夏子、田中みの子は[[平民]]組と称し、田中みの子が「ものつつみの君」と呼んだほど一葉は内向的になる。入門して初めの正月、新春恒例の発会が近づくと、令嬢たちの[[晴れ着]]の話題など、着物の話はとても下級官吏の娘が競える内容ではなかった。それでも劣等感をはねのけ、親が借りてきた古着で出席した。
 
 
 
名家の令嬢であった田辺龍子([[三宅花圃]])は「思い出の人々」という自伝の中で、「萩の舎」の月例会で、友人と床の間の前で寿司の配膳を待ちながら「清風徐ろに吹来つて水波起らず」という赤壁の賦の一節を読み上げていたら、給仕をしていた猫背の女が「酒を挙げて客に属し、明月の詩を誦し窈窕の章を歌ふ」と口ずさんだのに気付いて、「なんだ、生意気な女」と思っていたら、それが一葉で、先生から「特別に目をかけてあげてほしい」言われて紹介されたと、初めて一葉と会ったときのエピソードを紹介し、一葉は女中と内弟子を兼ねた働く人のようだったと書いている(このとき一葉15歳、龍子18歳。のちに2人は萩の舎の二才媛と呼ばれた)<ref>[http://www.aozora.gr.jp/cards/000311/files/2927_9212.html 「婦人と文学」宮本百合子]</ref>。
 
 
 
=== 身内の不幸 ===
 
[[File:The well of ichiyo higuchi 2009.JPG|250px|thumb|本郷菊坂町の旧居跡付近に残る「一葉の井戸」]]
 
一葉の家庭は転居が多く、生涯に12回の引っ越しをした。戸主であった長男の泉太郎は、[[1885年]](明治18年)に[[明治法律学校]]([[明治大学]])に入学したが[[1887年]](明治20年)に退学し、その後[[肺結核]]で死去したため、父を後見に相続戸主となる。[[1889年]](明治22年)、則義は荷車請負業組合設立の事業に失敗し、同年[[7月]]に死去。
 
 
 
一葉の父・則義と同郷で上京後の則義を支援した真下晩菘は明治後に[[私塾]]「融貫塾」を営むが、[[武蔵国]][[南多摩郡]][[原町田]]([[東京都]][[町田市]])の渋谷仙次郎宅にはその出張所があった。仙次郎の弟が晩菘の孫である[[阪本三郎|渋谷三郎]]で、晩菘を介した縁から1885年(明治18年)に一葉は三郎を紹介され、両者は[[許婚]]の関係にあった。三郎は[[自由民権運動]]の活動家で自由党員でもあり、その影響を受けた一葉は1889年(明治22年)の「雑記」で、[[男女同権]]について記している。
 
 
 
一葉と三郎の婚約は、1889年(明治22年)の則義の死後に解消される。則義の死後、樋口家には多額の借金があったのに渋谷三郎から高額の結納金を要求されたことが原因とされる。一葉は次男の虎之助を頼ったが、母と虎之助の折り合いが悪く<ref>[{{NDLDC|983257/28}} 『列伝偉人の結婚生活』村上計二郎著、日本書院、大正14]</ref>、17歳にして戸主として一家を担う立場となり、[[1890年]](明治23年)には萩の舎の内弟子として中島家に住み、塾の手伝い料として月2円をもらう<ref>[http://www.aozora.gr.jp/cards/000311/files/2927_9212.html 「婦人と文学」宮本百合子]</ref>。同年[[9月]]には本郷菊坂(東京都[[文京区]])に移り母と妹と3人での[[裁縫|針仕事]]や[[洗張|洗い張り]]をするなど、苦しい生活を強いられる。ただし、一葉自身は労働に対する蔑視が強く、針仕事や洗い張りはもっぱら母や妹がこなしていたといわれる。
 
 
 
=== 文学界へ ===
 
一葉は[[遠視]]や[[ロービジョン|弱視]]ではなく[[近視|近眼]]だったので、細かい仕事に向いていないわけではなかったが、針仕事を蔑視していたので自分にできる他の収入の道を探していたという。一葉は「萩の舎」同門の姉弟子である[[田辺花圃]]が小説『薮の鶯』で多額の原稿料を得たのを知り、明治22年頃より小説を書こうと決意する<ref>『樋口一葉と甲州』、p.32</ref>。
 
 
 
[[1891年]](明治24年)、[[数え年]]20歳で「かれ尾花一もと」を執筆する。同年に執筆した随想で「一葉」の筆名を初めて使用した。同年4月には小説家として生計を立てるため、[[朝日新聞|東京朝日新聞]]専属作家の[[半井桃水]](なからい とうすい)に師事し、指導を受ける<ref>『樋口一葉と甲州』、p.32</ref>。[[1892年]](明治25年)3月に半井は「武蔵野」を創刊し、一葉は図書館に通い詰めながら処女小説「闇桜」を「一葉」の筆名で同誌創刊号に発表した<ref>『樋口一葉と甲州』、p.32</ref>。
 
 
 
桃水はその後も困窮した生活を送る一葉の面倒を見続け、次第に一葉は桃水に恋慕の感情を持つようになったという。しかし2人の仲の醜聞が広まった(双方独身であったが、当時は結婚を前提としない男女の付き合いは許されない風潮であった)ため、一葉は中島歌子の支持により桃水と縁を切る。その後、これまでとはスタイルの異なる[[幸田露伴]]風の理想主義的な小説『うもれ木』を雑誌「[[都之花]]」に掲載し、一葉の出世作となる。
 
 
 
=== 文筆活動と「博文館」との関わり ===
 
[[三宅花圃]]の紹介で[[平田禿木]]と知り合った一葉は、「雪の日」など複数作品を『[[文学界 (明治)|文学界]]』で発表。このころ、検事になったかつての許婚者[[阪本三郎]](前述の渋谷三郎)が求婚してくるが拒否する。生活苦打開のため[[相場師]]になろうと占い師の久佐賀義孝に接近し、借金を申し込む。
 
 
 
[[吉原 (東京都)|吉原]]遊郭近くの下谷龍泉寺町(現在の[[台東区]][[竜泉 (台東区)|竜泉]]一丁目)で荒物と駄菓子を売る雑貨店を開いたが[[1894年]](明治27年)[[5月]]には店を引き払い、本郷区丸山福山町(現在の[[文京区]][[西片]]一丁目)に転居する<ref>『樋口一葉と甲州』、p.63</ref>。この時の経験が後に代表作となる小説「[[たけくらべ]]」の題材となっている。
 
 
 
同年[[12月]]に「大つごもり」を『文学界』に発表する。[[1895年]](明治28年)には半井桃水から[[博文館]]の[[大橋乙羽]]を紹介される。博文館は明治20年に創業された出版社で「太陽」「文芸倶楽部」などを発刊し、[[春陽堂]]と並び出版界をリードする存在であった<ref>『樋口一葉と甲州』、p.50</ref>。大橋乙羽は作家として活動していたが、博文館の館主・[[大橋佐平]]に認められ、佐助の長女[[大橋とき]]を妻に迎える<ref>『樋口一葉と甲州』、p.50</ref>。大橋夫妻は一葉に活躍の場を与え経済的にも支援しており、大橋ときは一葉に入門し和歌を学んでいる<ref>『樋口一葉と甲州』、p.50</ref>。
 
 
 
乙羽は明治28年同年3月の一葉宛書簡で小説の寄稿を依頼している<ref>『樋口一葉と甲州』、p.50</ref>。この年は[[1月]]から「たけくらべ」を7回にわたり発表し、その合間に乙羽の依頼で「ゆく雲」を執筆したほか、大橋ときの依頼で「経つくえ」を書き改めた上で「文芸倶楽部」に再掲載させた<ref>『樋口一葉と甲州』、pp.50 - 51</ref>。ほか、「[[にごりえ]]」「[[十三夜 (小説)|十三夜]]」などを発表している。「大つごもり」から「裏紫」にかけての期間は「奇跡の14ヶ月」と呼ばれる。
 
 
 
なお、明治28年は7月12日に父・則義の七回忌法要があるため、一葉は大橋ときに[[法要]]のための[[原稿料]]前借りを申し出ている。乙羽はこれを了承し、一葉は7月下旬に未完成の「にごりえ」原稿は届け、8月2日には残りの原稿が渡された。<ref>『樋口一葉と甲州』、p.40</ref><ref>『樋口一葉と甲州』、p.50</ref>。
 
 
 
=== 晩年 ===
 
[[1896年]](明治29年)には『[[文芸倶楽部]]』に「たけくらべ」が一括掲載されると鴎外や露伴らから絶賛を受け、[[森鴎外]]は「[[めさまし草]]」で一葉を高く評価した。[[馬場孤蝶]]や[[島崎藤村]]など『文学界』同人や[[斎藤緑雨]]といった文筆家が多く訪れるようになり、文学サロンのようになった。5月には「われから」、『日用百科全書』に「通俗書簡文」を発表。しかし一葉は当時治療法がなかった[[結核#肺結核|肺結核]]が進行しており、[[8月]]に[[樫村清徳]]・[[青山胤通]]らの医師により恢復が絶望的との診断を受けた<ref>[[服部敏良]]『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)249頁</ref>。[[11月23日]]、丸山福山町の自宅において、24歳と6ヶ月で死去<ref>[{{NDLDC|1920400/264}} 樋口一葉夭逝す]新聞集成明治編年史第九卷、林泉社、1936-1940</ref>。葬儀は[[11月25日]]に身内だけで質素に築地本願寺で行われた。一葉の作家生活は14ヶ月余りで、死後の翌[[1897年]](明治30年)には『一葉全集』『校訂一葉全集』が刊行された。
 
 
 
=== 死後 ===
 
墓は樋口家の菩提寺である[[築地本願寺]]別院で、のち[[杉並区]][[永福]]の[http://www.wadabori.jp/ 築地本願寺]和田堀廟所へ移された。[[法名 (浄土真宗)|法名]]は、智相院釋妙葉信女<ref>22歳の春に自分で「法通妙心信女」という戒名(ママ)をつけていたが、[[井上ひさし]]はこの戒名に「あなたの文学を解読する鍵がある。あなたは生きながら死んでいたのですね。だからこそこの世がよく見えたのでしょう」と『the座』創刊号の一葉との架空対談で語った([[笹沢信]]『ひさし伝』[[新潮社]] [[2012年]]p.287)。</ref>。
 
 
 
樋口家では1898年(明治31年)にも一葉の母・多喜が死去する<ref>『樋口一葉と甲州』、p.60</ref>。一葉の妹・くには樋口家と懇意であった西村釧ノ助(せんのすけ)の経営する文具店・礫川堂を譲り受ける<ref>『樋口一葉と甲州』、p.60</ref>。さらに、くには店に出入りしていた吉江政次を婿として店を共同経営し、一葉の草稿・日記・反古紙の保存や整理・出版に尽力した<ref>『樋口一葉と甲州』、p.60</ref>。
 
 
 
[[1922年]](大正11年)には一葉の二十七回忌が行われた。この時、くにが樋口家の縁戚で生糸貿易商である廣瀬彌七とともに一葉の文学碑建造を計画し、廣瀬や地元有志の出資により、[[東山梨郡]][[大藤村 (山梨県)|大藤村]]中萩原(甲州市塩山)の[[慈雲寺 (甲州市)|慈雲寺]]境内に建てられた。同年10月15日に除幕式が行われている。式典には旧友も参列し、元婚約者の阪本三郎は親族として焼香した。
 
 
 
旧友たちはこれに憤慨し、さらに阪本が、日記の中で一葉から蛇蝎のごとく書かれたことに対する弁解を講演会でしたことにも腹を立てた<ref>[{{NDLDC|981695/64}} 「大藤村講演會の一幕」]『随筆』[[戸川秋骨]]著 (奎運社, 1924) </ref>。阪本は一葉と婚約解消後、大官の令嬢と結婚し<ref>[{{NDLDC|983257/32}} 『列伝偉人の結婚生活』村上計二郎著、日本書院、大正14]</ref>、行政裁判所評定官から秋田県知事、山梨県知事を務め、式典当時はすでに免官していた<ref>[http://homepage1.nifty.com/kitabatake/rekishi49.html#%E7%A7%8B%E7%94%B0%E7%9C%8C 戦前都道府県知事総覧]</ref>。
 
 
 
[[1926年]](大正15年)にはくにが死去し、政次は[[1937年]](昭和12年)まで存命する<ref>『樋口一葉と甲州』、p.60</ref>。政次・くにの長男である樋口悦も一葉関係資料の整理・研究を行った<ref>『樋口一葉と甲州』、p.60</ref>。肉筆原稿や関係資料などの文学資料は[[日本近代文学館]]や[[山梨県立文学館]]に所蔵されている。
 
 
 
== 作家評 ==
 
近代以降では最初の職業女流作家である。24年の生涯の中で、特に亡くなるまでの1年2ヶ月の期間に日本の近代文学史に残る作品を残した。
 
 
 
家が没落していく中で、自らが[[士族]]の出であるという誇りを終生持ち続けたが、生計を立てにくかったのはそれゆえであるという見解もある。生活は非常に苦しかったために、筆を折ることも決意したが、雑貨店を開いた[[吉原_(東京都)|吉原]]近郊での生活はその作風に影響を与えた。[[井原西鶴]]風の雅俗折衷の文体で、明治期の女性の立ち振る舞いや、それによる悲哀を描写している。『[[たけくらべ]]』では吉原近くの大音寺前を舞台にして、思春期頃の少年少女の様子を情緒ある文章で描いた。ほかに日記も文学的価値が高い。
 
 
 
== 筆名 ==
 
「一葉」は雅号で、戸籍名は奈津。なつ、夏子とも呼ばれる。「樋口一葉」として知られるが、歌人としては'''夏子'''、小説家としては無姓志向の'''一葉'''、新聞小説の戯号は'''浅香のぬま子'''、'''春日野しか子'''として筆名を使い分けている。発表作品においては「樋口夏子」に類する本名系と「一葉」の雅号系に分類される。「樋口一葉」と混合した署名を用いている例はわずか一つであり、「たけくらべ」未定稿などにおいて「一葉」と記された署名に別人の手により姓が書き加えられているケースがある。明治前半期の女性作家においては家への抵抗や姓の変遷などから同様に姓の忌避や創作世界においては雅号を用いるといった署名傾向があり、一葉にも女戸主としての意識が強くあったとも考えられている。一葉という筆名は、当時困窮していた事(お足が無い)と一枚の葦の葉の舟に乗って中国へ渡り後に手足を失った[[達磨]]の逸話に引っ掛けたものである[http://www7a.biglobe.ne.jp/~katatumuri/higuti/waka10.htm]。
 
 
 
== 一葉の手帳 ==
 
一葉の残した手記として日記の他に作品の下書き・調査メモなどを記した[[手帳]]2冊がある。この手帳はともに個人蔵で、1冊は「別れ霜」の下書きなどが記されたもの、もう1冊が「うもれ木」の調査メモが記されたもの。
 
 
 
前者は洋綴じ・横罫のノートで、寸法は縦19.2センチメートル、横12.7センチメートル。9頁目までは鉛筆書きの「[[土佐日記]]」の写しで、[[承平 (日本)|承平]]4年([[934年]])2月26条から翌承平5年1月4日までの部分が写されている。10頁目からは墨筆で「吹くる風」と題された小説の断片が記されている。これは内容から1892年(明治25年)3月31日から同年4月17日にかけて、一葉が「浅香のぬま子」の筆名で改進新聞に発表した「別れ霜」の未定稿にあたると考えられている。筑摩書房『一葉全集』では一部が[[翻刻]]されている。
 
 
 
後者は「うもれ木」の調査メモが記された手帳で、近年原本が発見された。表紙が和紙の小型手帳で、寸法は縦9センチメートル、横6センチメートル。一葉は1892年11月に「都之花」第95号から3回連載で「うもれ木」を発表しているが、手帳の内容は、鉛筆で作中に登場する薩摩窯陶器の歴史や製法が記された調査メモが主体となっている。なお「うもれ木」には、この手帳のほか未定稿が現存している。ほか、半井桃水から借りた朝鮮文学『[[九雲夢]]』の主人公を主題とした一葉自作の[[漢詩]]や、上野東京図書館で読んだ『[[新著聞集]]』の読書メモも記されている。
 
 
 
== 五千円紙幣 ==
 
[[ファイル:Series E 5K Yen Bank of japan note - front.jpg|right|234px]]
 
[[ファイル:Series E 5K Yen Bank of japan note - back.jpg|right|234px]]
 
一葉の肖像は[[2004年]](平成16年)[[11月1日]]から[[新渡戸稲造]]に代わり、[[日本銀行券]]の[[五千円紙幣]]に新デザインとして採用された。女性としては、[[1881年]](明治14年)発行の紙幣に採用された[[神功皇后]]以来、123年ぶりで2人目の採用である<ref name="読売020802">[[読売新聞]][[2002年]][[8月2日]]</ref>。[[2000年]](平成12年)に発行開始された[[二千円紙幣]]の裏面に[[紫式部]]が描かれているが、これは肖像画の扱いではない<ref name="読売020802"/>。偽造防止に利用される髭や顔の皺が少ないため版を起こすのに手間取り、製造開始は[[野口英世]]の[[千円紙幣]]、[[福澤諭吉]]の[[一万円紙幣]]より遅れた。
 
  
==その他==
+
小説家,歌人。本名,奈津。夏子とも書いた。小学校中退。 1886年歌人中島歌子の門に入ったが,小説家を志し 91年半井 (なからい) 桃水に師事,幸田露伴らの影響下に『うもれ木』 (1892) を書いた。その後,『ゆく雲』 (95) を経て『[[にごりえ]]』や『十三夜』 (95) により作家として開眼,『[[たけくらべ]]』の成功によって女流文壇の第一人者と目されたが,夭折した。ほかに『大つごもり』 (94) ,『われから』 (96) ,『うらむらさき』 (96) ,『一葉日記』 (1912) がある。
[[夏目漱石]]の妻・[[夏目鏡子|鏡子]]の著書『漱石の思ひ出』によると、一葉の父・則義が[[東京府]]の官吏を務めていた時の上司が漱石の父・小兵衛直克であった。その縁で一葉と漱石の長兄・大助(大一)を結婚させる話が持ち上がったが、則義が度々直克に借金を申し込むことがあり、これをよく思わなかった直克が「上司と部下というだけで、これだけ何度も借金を申し込んでくるのに、親戚になったら何を要求されるかわかったものじゃない」と言って、破談にしたという。
 
 
 
== 作品解題 ==
 
=== 小説 ===
 
* 闇桜(1892年3月『武蔵野』)
 
*: 幼馴染の園田良之助と中村千代の淡い初恋を描いたもの。千代は良之助への忍ぶ恋情に悩み、ついに病床に臥すようになり儚くなってしまうのであった。結末の「風もなき軒端の桜ほろほろとこぼれて、夕やみの空鐘の音かなし」が題名の由来である。
 
* 別れ霜(1892年4月『改進新聞』)
 
*: 松沢芳之助と新田高は父親同士が義理の兄弟の呉服商であった。ところが高の父運平の姦計で松沢家は没落、生活に窮乏して芳之助は車夫に身を落とした。一方、高には医学士某との縁談が持ち上がり、父運平も乗り気になった。ある日、音曲会の帰りに高は偶然芳之助の車に乗ることとなり、後の逢引の日取りも決めたが、その日に芳之助が現れなかったので高は芳之助親子の住む陋屋を訪ねるが、芳之助の父にすげなく追い払われてしまった。行く末を儚んだ芳之助と高は新田家の墓所で心中を図るが高だけが生き残ってしまった。お高は自宅に軟禁され自殺しないように監視されるが、ある夜芳之助のあとを追うため失踪してしまうのであった。
 
* たま欅(1892年4月『武さし野』)
 
*: 大身の旗本の子孫であるが両親を失い孤独な青柳いと子に忠節を尽くしていたのは家来筋の松野雪三であった。或る夏の夕暮れ、いと子は隣家の植木屋に避暑に来ていた子爵の息子竹村緑と垣根越しに偶然顔をあわせ二人とも恋に落ちてしまった。一方、雪三のいと子への忠誠心はやがて激しい恋情にかわり、雪三は竹村家から申し込みのあったいと子の縁談を独断で断ってしまった。いと子は雪三と緑両方の恋情の板挟みに苦しみ自害して果てるのであった。
 
* 五月雨(1892年7月『武さし野』)
 
*: 仕える令嬢の恋の使者を務めた腰元、その相手は以前故郷で将来を誓いあった幼なじみだった。返事のないまま男は行方知れずになったが、あるとき寺の前にたたずむ若い雲水の顔を見て、二人の女はあっと声を上げた。
 
* 経づくえ(1892年10月『甲陽新報』)
 
*: 自分の病院で亡くなった女の娘を援助する医学士、松島忠雄、娘のお園はどうしてもこの男を好きになれぬまま、医師は札幌に転勤して行ってしまい、そこで病死する。お園はその後縁もあったが、医学士に操を立て経机に向かい菩提を弔っている。
 
* うもれ木(1892年11月『都之花』)
 
*: 志は高いが赤貧に苦しむ陶芸家、入江藾三と妹お蝶。10年前恩師の金を持ち逃げした同門の篠原辰雄は今や慈善家となっていて、前非を悔いており2人は師の墓前で仲直りする。しかし篠原は実直な藾三を騙し、自分を慕うお蝶を利用して自らの目的を遂げようとする。
 
* 暁月夜(1893年2月『都之花』)
 
*: 男嫌いの令嬢に興味を持った学生の敏は庭男となって子爵家に入り込み、弟甚之助を手なずけ、その仲介で彼女に恋文を渡すが、令嬢は封をも切らず、東京を離れ鎌倉の別荘に移ると言い出す。最後の別れのため夜忍び込んできた敏に、令嬢は自分は実は道ならぬ恋ゆえに生まれてきたと出生の秘密を語り、同じ過ちをせず勉学に励めと説く。
 
* 雪の日(1893年3月『[[文学界 (明治)|文學界]]』)
 
* 琴の音(1893年12月『文學界』)
 
* 花ごもり(1894年2月『文學界』)
 
*: 瀬川与之助は、母お近、幼い頃両親を亡くした従妹お新の、他に身寄りのない3人暮らし。若い2人はこのまま一生を仲よく過ごせたらと思っているが、息子の出世を願う母親は田原家令嬢との結婚話に心を動かされる。令嬢を紹介した月琴の師匠お辰の計らいで優柔不断の与之助をすかしてこれに同意させ、邪魔なお新は田舎に住む絵師のもとへ下働きとして送り出すことにする。お新が田舎行きを拒まなかったのは、絵の好きな与之助のため自分も習えると思ったから。素直なお新は企みがあるとはつゆ知らず、上野駅を発って行く。
 
* 暗(やみ)夜(1894年7月『文學界』)
 
*: 主人公、お蘭は婚約者に裏切られ、涙と怨念の中で暮らしている。お蘭の屋敷近くで、その婚約者の車に轢かれた直次郎が屋敷に運び込まれ、直次郎はお蘭に恋をする。お蘭から婚約者の裏切りを聞いた直次郎は婚約者の暗殺を決心する。
 
* [[大つごもり (小説)|大つごもり]](1894年12月『文學界』)
 
* [[たけくらべ]](1895年1月 - 1896年1月『文學界』)
 
* 軒もる月(1895年4月『[[横浜毎日新聞|毎日新聞]]』<ref>現在の[[毎日新聞]]とは別の新聞。</ref>)
 
*: 月の夜、人妻が寝る子を眺めながら、以前仕えていた桜町の殿からもらった12通の恋文を前にして思い悩んでいる。女は決心して初めて手紙の封を切り、読み終わると切り刻んで火の中にくべてゆく。
 
* [[ゆく雲]](1895年5月『[[太陽 (博文館)|太陽]]』)
 
* [[うつせみ]](1895年8月『[[読売新聞]]』)
 
*: 閑静な土地の空き家に若い病人の雪子が移り住んできた。精神の病いで、一月ごとに駄々をこねて転宅を繰り返しているのである。原因は雪子が振った植村が自殺したことに罪悪感を感じているらしい。良家の一粒種で両親も気が気でないが、雪子の狂気は募ってゆく。
 
* [[にごりえ]](1895年9月『[[文芸倶楽部]]』)
 
* [[十三夜 (小説)|十三夜]](1895年12月『文芸倶楽部』)
 
*: 官吏に嫁ぎ、1子を儲けたものの、夫の虐待に耐えかねて実家に逃げ帰ったお関。しかし、父はそんなお関を諭し、婚家に帰らせる。その帰り道、上野の森で拾った人力車の車夫は、かつてのお関の幼馴染で、煙草屋の1人息子録之助だった。互いに淡い恋心を抱いていた2人だったが、お関の結婚後、録之助は自暴自棄になって家産を食いつぶし、車夫にまで堕ちていたのであった。
 
*:2014年5月2日のグーグルロゴは樋口一葉の生誕142年にちなむものだったが、月に照らされた森で車夫と若い女性が見つめ合っているというイラストで、本作品のラストシーンに基づくとみられている。
 
* この子(1896年1月『日本乃家庭』)
 
*: 強情でわがままに育った主人公が、新婚の裁判官の夫とそりが合わなくなり、縁組みをした親を恨んだり、子供が元気に生まれてきたことまで神に呪ったりする。しかし赤ん坊の笑顔を見ているうちに心が和みだし、自分のいけなかったところまでがはっきり見えてくるようになる。まさに我が子は人生で最大の師である。
 
*:(全編が主人公の述懐として「です・ます」調で書かれているため、一葉の小説では唯一の[[言文一致]]の作品である。)
 
* わかれ道(1896年1月『[[国民之友]]』)
 
*: お針仕事が稼業のお京の長屋に傘屋の油引きの吉三が通ってくる。天涯孤独の吉三は仲間から一寸法師とあざけられ、つまらない人生を送っているが、行けば餅をごちそうしてくれる姉のようなお京だけが生きてゆく支えのようなもの。ある日お京から人の妾になることを告げられた吉三は、自ら望まぬところへ行くのはおよしとすねるように訴える。
 
* うらむらさき(裏紫)(1896年2月『新文壇』)
 
*: 届いた手紙を、姉からの相談事と、人のいい夫に嘘をつき、愛人のもとへ急ぐ主人公お律。発表されているのは、お律が家を出たあとの心持ちを吐露する場面までで未完。
 
* われから(1896年5月『文芸倶楽部』)
 
*: 大蔵省の下級役人金村与四郎の幼なじみの妻美尾は人からうらやまれるほどの美人だが、夫の給料の少ないのが恥ずかしく着飾った人を見るたび不満が募る。勉強して出世してくれと訴えるが夫は逆に腹を立てるだけ。女の子が出来た直後、子供を残して突然家出をしてしまう。それから25年の間に、与四郎は一念発起して金を貯め50歳を待たずに亡くなるが、そのおかげで娘の町子は恭助という婿をもらい、気ままな暮らしをしている。ただ子供ができず、夫の女遊びも止まないまま、捨てられるのではという不安な毎日だったが、ある大掃除の日、召使いたちのうわさ話を壁ごしに聞いて旦那様には妾と10歳になる子供があることを知る。癇癪を起こし出した町子の介抱に書生の千葉が日夜励んだことがかえって悪い噂を近所にまくことになり、町子は突然夫から別居を言い渡される。
 
 
 
===随筆===
 
*雨の夜―そゞろごと(1895年9月『読売新聞』)
 
*月の夜―そゞろごと(1895年9月『読売新聞』)
 
*雁がね―そゞろごと(1895年10月『読売新聞』)
 
*虫の声―そゞろごと(1895年10月『読売新聞』)
 
*ほとゝぎす―すゞろごと(1896年7月『文芸倶楽部』)
 
 
 
==文庫本(近年)==
 
*『樋口一葉 1872-1896』 [[ちくま文庫]] 2008年
 
*『樋口一葉和歌集』 ちくま文庫 2005年 今井恵子編
 
*『樋口一葉日記・書簡集』 ちくま文庫 2005年 [[関礼子]]編 
 
*『樋口一葉小説集』 ちくま文庫 2005年 [[菅聡子]]
 
*『にごりえ・たけくらべ』 [[新潮文庫]] 改版2003年<br> 他に[[岩波文庫]]・[[角川文庫]]
 
*『大つごもり・十三夜 他五篇』 [[岩波文庫]]、のちワイド版
 
*『一葉恋愛日記』 [[角川文庫]] 1997年 [[和田芳恵]]編注
 
*『一葉青春日記』 角川文庫 1997年 和田芳恵編注
 
 
 
===主な作品集===
 
*『樋口一葉全集』(全6巻)、[[筑摩書房]]、1994年完結
 
*『[[明治文学全集]]30 樋口一葉集』 和田芳恵編、筑摩書房、1977年
 
*『[[新日本古典文学大系]] 明治編24 樋口一葉集』 菅聡子・関礼子校注、[[岩波書店]]、2001年 
 
*『明治の文学17 樋口一葉』 [[中野翠]]編、筑摩書房、2000年
 
*『全集樋口一葉』 [[前田愛 (文芸評論家)|前田愛]]ほか校注、小学館、新装版1996年<br> 1・2巻 小説編、3巻 日記編、別巻 一葉伝説(同時代の評伝)
 
 
 
== 関連作品 ==
 
;回想
 
*{{Cite book|和書
 
|author=[[田辺夏子]]
 
|others=
 
|edition=
 
|year=1950
 
|title=一葉の憶ひ出
 
|publisher=[[潮鳴会]]
 
|series=
 
|isbn=
 
|volume=
 
|ref=
 
}}
 
*{{Cite book|和書
 
|author=[[田辺夏子]]、[[三宅花圃]]
 
|others=[[松坂俊夫]]解說
 
|edition=
 
|year=1984
 
|title=一葉の憶ひ出
 
|publisher=[[日本図書センター]]
 
|series=近代作家研究叢書
 
|isbn=4820503529
 
|volume=
 
|ref=
 
}}
 
*{{Cite book|和書
 
|author=[[薄田泣菫]]、[[戸川秋骨]]、[[岡野知十]]、[[疋田達子]]、[[平田禿木]]、[[星野天知]]、[[馬場孤蝶]]、[[三宅花圃]]、[[半井桃水]]、[[島崎藤村]]、[[幸田露伴]]、[[田辺夏子]]、[[樋口くに]]
 
|others=[[小池昌代]]解説
 
|edition=
 
|year=2012
 
|title=一葉のポルトレ
 
|publisher=[[みすず書房]]
 
|series=大人の本棚
 
|isbn=978-4-622-08099-2
 
|volume=
 
|ref=
 
}}
 
;映画
 
*『樋口一葉』(1939年[[東宝]] 監督 : [[並木鏡太郎]])
 
*『[[にごりえ (映画)|にごりえ]]』(1953年[[松竹]] 監督 : [[今井正]])
 
*『[[たけくらべ (1955年の映画)|たけくらべ]]』(1955年[[新東宝]] 監督 : [[五所平之助]])
 
;TVドラマ
 
*ドラマ青年第三部『樋口一葉』(1962年[[NHKテレビ]] 脚本 : 池田忠雄 主演 : [[小林千登勢]])
 
*『樋口一葉 われは女成りけるものを…』(1985年[[NHKテレビ]] 脚本 : [[大野靖子]] 主演 : [[大原麗子]]、[[石坂浩二]])
 
*新札発行記念ドラマ『樋口一葉物語』(2004年[[TBSテレビ]] 脚本 : [[渡辺千穂]] 主演 : [[内山理名]]、[[永井大]])
 
;演劇
 
*『[[頭痛肩こり樋口一葉]]』(1984年初演 [[こまつ座]] 作 : [[井上ひさし]] 演出 : [[木村光一]])
 
*『書く女』(2006年[[二兎社]] 作・演出 : [[永井愛]] 出演 : [[寺島しのぶ]]、[[筒井道隆]])
 
*『偽伝、樋口一葉』(2006年[[アロッタファジャイナ]] 監修 : [[金子修介]] 作・演出 : [[松枝佳紀]] 主演 : [[満島ひかり]]、[[俊藤光利]])
 
*『十三夜と一葉日記』(2014年[[いちまるよん]] 出演 : [[奥山眞佐子]] 尺八 : [[本間豊堂]])<ref>[http://www.hogaku.com/ 邦楽ジャーナル11月号]</ref>
 
*『大つごもりと一葉日記』(2015年[[いちまるよん]] 出演 : [[奥山眞佐子]] お囃子 : [[高橋香衣]])
 
*『書く女』(2016年[[二兎社]] 作・演出 : [[永井愛]] 出演 : [[黒木華]]、[[平岳大]])
 
*『樋口一葉没後120年記念公演・にごりえ』(2016年[[いちまるよん]] 出演 : [[奥山眞佐子]] 尺八:[[本間豊堂]])
 
*『樋口一葉没後120年記念公演・一葉の母 そして 十三夜』(2016年[[いちまるよん]] 出演 : [[奥山眞佐子]] 浄瑠璃:[[常磐津和英太夫]] 三味線:[[常磐津菊与志郎]])
 
*『樋口一葉没後120年記念公演・一葉日記 そして 大つごもり』(2016年[[いちまるよん]] 出演 : [[奥山眞佐子]] お囃子:[[高橋香衣]])
 
*『樋口一葉の世界 奥山眞佐子ひとり芝居20周年記念公演・一葉日記 そして たけくらべ』(2017年[[いちまるよん]] 出演:[[奥山眞佐子]] 浄瑠璃:[[常磐津和英太夫]] 三味線:[[常磐津菊与志郎]] お囃子:[[高橋香衣]])<ref>日本女性新聞2017年8月15日 第2246号 山梨日日新聞2017年8月20日
 
</ref>
 
;小説
 
*[[山田風太郎]]『からゆき草紙』(『明治波濤歌』収録) - 一葉および『たけくらべ』の登場人物たちが登場。
 
*[[小谷野敦]]『美人作家は二度死ぬ』 - 一葉が長生きして「忘れられた作家」となったパラレルワールドを描く。
 
;漫画
 
*[[上村一夫]]『一葉裏日誌』
 
*[[杉本亜未]]『闇の瞬き〜樋口一葉、奇跡の14ヵ月間〜』講談社週刊モーニング2014年9号に掲載。
 
;CD
 
*『一葉恋歌』(2004年に[[石川さゆり]]が[[テイチクレコード]]よりリリース)
 
;CM
 
* [[ACジャパン]]2015年度の[[結核予防会]]支援キャンペーン「[[JOY (ファッションモデル)|JOY]]と偉人」(肖像で出演)
 
 
 
== 人物伝 ==
 
;学習漫画
 
*『ちびまる子ちゃんの樋口一葉』(2004年[[集英社]] キャラクター原作:[[さくらももこ]] 監修:森まゆみ 漫画:高橋由佳利 シナリオ:伊藤智義) 
 
;その他
 
*『[[栄光なき天才たち]]』(1987年集英社 作:伊藤智義 画:[[森田信吾]]) ※単行本第2巻に収録
 
  
 
== 脚注 ==
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist}}
 
{{Reflist}}
 
+
{{テンプレート:20180815sk}}
== 参考文献 ==
 
*[http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/metadb/up/kiyo/AN00065309/kbs_37_1.pdf 樋口一葉「暗夜」論]塚本章子 
 
 
 
==関連項目==
 
<!--{{wikiquote|樋口一葉}}-->
 
[[File:Monument of Ichiyo Higuchi.JPG|200px|thumb|両親の故郷[[甲州市]][[慈雲寺 (甲州市)|慈雲寺]]にある、一葉女史碑]]
 
*[[一葉記念館]] - 「たけくらべ」の舞台となった[[台東区]][[竜泉 (台東区)|竜泉]]にある。
 
*[[慈雲寺 (甲州市)]] - 両親の故郷[[甲州市]]にある寺院。境内に幸田露伴らにより建立された「一葉女史碑」がある。
 
*[[鏑木清方]] - 画家。一葉の作品を愛読し、一葉の肖像画なども作品として描いている。
 
*[[旧伊勢屋質店]] - 本郷時代に一葉が通ったことで知られる質店の旧跡。
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://www.taitocity.net/taito/ichiyo/ 台東区立一葉記念館(樋口一葉)] - [[東京都]][[台東区]][[竜泉 (台東区)|竜泉]]3丁目18番4号にある。
 
* {{青空文庫著作者|64}}
 
* [http://www.nihon-kankou.or.jp/yamanashi/192139/detail/19203aj2200025926 樋口一葉の文学碑] - 全国観るなび 甲州市 (日本観光振興協会)
 
* [http://www.horagai.com/www/who/52higut1.htm 樋口一葉:作家事典:ほら貝]
 
* [http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/SAKKA/hi/higuchiichiyo.html 樋口一葉:文学者掃苔録]
 
 
 
{{Normdaten}}
 
 
{{DEFAULTSORT:ひくち いちよう}}
 
{{DEFAULTSORT:ひくち いちよう}}
 
[[Category:日本の小説家]]
 
[[Category:日本の小説家]]

2018/9/29/ (土) 22:17時点における版


樋口 一葉(ひぐち いちよう、1872年5月2日明治5年3月25日)- 1896年(明治29年)11月23日

小説家,歌人。本名,奈津。夏子とも書いた。小学校中退。 1886年歌人中島歌子の門に入ったが,小説家を志し 91年半井 (なからい) 桃水に師事,幸田露伴らの影響下に『うもれ木』 (1892) を書いた。その後,『ゆく雲』 (95) を経て『にごりえ』や『十三夜』 (95) により作家として開眼,『たけくらべ』の成功によって女流文壇の第一人者と目されたが,夭折した。ほかに『大つごもり』 (94) ,『われから』 (96) ,『うらむらさき』 (96) ,『一葉日記』 (1912) がある。

脚注



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