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'''森 光子'''(もり みつこ、[[1920年]]([[大正]]9年)[[5月9日]] - [[2012年]]([[平成]]24年)[[11月10日]]<ref name="yomiuri20121114">{{Cite news |title=エンタメニュース /森光子さん死去、92歳…放浪記・時間ですよ|url=http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20121114-OYT1T01091.htm|newspaper=[[讀賣新聞|YOMIURI ONLINE]] |date=2012-11-14 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121116062203/http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20121114-OYT1T01091.htm |archivedate=2012-11-16|accessdate=2013-07-16}}</ref>)は、[[日本]]の[[俳優|女優]]、[[歌手]]、[[司会|司会者]]。[[京都府]][[京都市]]出身。
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'''森 光子'''(もり みつこ、[[1920年]]([[大正]]9年)[[5月9日]] - [[2012年]]([[平成]]24年)[[11月10日]]<ref name="yomiuri20121114">{{Cite news |title=エンタメニュース /森光子さん死去、92歳…放浪記・時間ですよ|url=http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20121114-OYT1T01091.htm|newspaper=[[讀賣新聞|YOMIURI ONLINE]] |date=2012-11-14 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121116062203/http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20121114-OYT1T01091.htm |archivedate=2012-11-16|accessdate=2013-07-16}}</ref>
  
京都府立第一高等女学校(現・[[京都府立鴨沂高等学校]])中退。[[日本俳優連合]][[名誉会長|名誉副会長]]、第6代[[日本喜劇人協会]][[会長]]、[[フジテレビジョン]]番組審議会[[名誉顧問]]<ref>{{Cite web |url=http://www.fujitv.co.jp/fujitv/shingikai/shingikai_meibo.html|title=『こちらフジテレビ』 番組審議会名簿
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昭和-平成時代の女優。
|publisher=[[フジテレビジョン|フジテレビ]]|archiveurl=http://archive.is/ee9g|archivedate=2012-01-31|accessdate=2012-11-14}}</ref>。[[国民栄誉賞]]受賞。[[栄典]]は[[従三位]]・[[勲三等]][[瑞宝章]]・[[紫綬褒章]]・[[文化功労者]]・[[文化勲章]]。[[東京都]][[名誉都民]]・京都市市民栄誉賞・[[京都観光サポーター制度#京都名誉観光大使|京都名誉観光大使]]<ref name="sanspo20121114">{{Cite news |title=京都市長「森さんのご逝去は痛惜の極み」|url=http://www.sanspo.com/geino/news/20121114/oth12111422240021-n1.html|newspaper=[[サンケイスポーツ|SANSPO.COM]] |date=2012-11-14 |archiveurl=http://archive.is/LyvSM |archivedate=2013-04-27|accessdate=2013-04-27}}</ref>。
 
  
俳優の[[嵐寛寿郎]]の[[いとこ|従妹]]である。長らく「寛寿郎の姪で[[1923年]]生まれ」としていたが、[[1984年]]の[[紫綬褒章]]受章にあたり事実を公表し、訂正している。芸名は嵐の母(伯母)から、女優の[[森静子]]と伯母の旧姓・森端にちなんで「森」、本名の美津より「光子」とつけられたことによる。
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大正9年5月9日生まれ。伯父の嵐寛寿郎の映画に子役で出演。昭和33年菊田一夫にみいだされ上京,舞台「花のれん」に出演,36年「放浪記」の林芙美子役でスターとなる。その後舞台「おもろい女」がヒット,映画「台所太平記」やテレビドラマ「時間ですよ」など幅ひろく活躍。NHK紅白歌合戦紅組司会も3回つとめた。平成10年文化功労者。17年朝日舞台芸術賞特別賞。同年文化勲章。21年「放浪記」上演回数2000回を達成。同年国民栄誉賞。平成24年11月10日死去。92歳。京都府出身。本名は村上美津。
 
 
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== 略歴・人物 ==
 
[[ファイル:森光子の手形.jpg|thumb|right|浅草公会堂の手形]]
 
=== 女優デビュー、ジャズ歌手、結核との闘病 ===
 
母・艶は祇園の芸妓。父親は紡績会社社長の御曹司で、学生時代に母を見初めるが、家族の反対に遭い結婚がかなわず、森は母の私生児として育てられる<ref name="prf"/>。幼少の頃は歌と踊りが大好きで、7歳の時には[[日本放送協会|NHK]]の[[ラジオ番組]]にも出演している。母の実家は京都・[[木屋町]][[二条]]下ルで割烹旅館『國の家』を経営、旅館にはしばしば俳優の[[阪東妻三郎]]が芸者衆を連れて訪れており、その華やかな様子も少女時代の森に大きな影響を与えた。しかし『國の家』は後に倒産、両親も森が13歳のときに[[肺結核]]で相次いで死去。このため入学した京都府立第一高等女学校(京都一女、現・[[京都府立鴨沂高等学校]])を1学期で中退している。
 
 
 
森は当初、[[松竹歌劇団|松竹少女歌劇]]のスター、[[水の江瀧子]]に憧れて歌劇の道を志すも果たせず、不本意ながらも<ref>{{Cite book |和書 |title=女優が語る私の人生 |publisher=[[NHKサービスセンター]] |page=95 |date=2012-10-18 |isbn=978-4-87108-113-9}}</ref>従兄の嵐寛寿郎のプロダクション(第二次寛プロ)に所属。[[1935年]]に映画『なりひら小僧 春霞八百八町』で[[デビュー]]したが<ref>{{Cite news |title=「女優の森光子さん死去 92歳、『放浪記』主演2000回」|url=http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1403S_U2A111C1000000/
 
|newspaper=[[日本経済新聞|Web刊日本経済新聞]] |date=2012-11-14 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121117002804/http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1403S_U2A111C1000000/? |archivedate=2012-11-17|accessdate=2013-07-16}}</ref>、[[1937年]](昭和12年)、嵐が寛プロを閉鎖。[[1938年]](昭和13年)、[[日活]]に移籍する中、森は[[新興キネマ]](後の[[大映 (映画)|大映]])に所属し、娘役として多くの映画に出演した。多くは「狸物([[阿波狸合戦]]伝説に材をとった『[[阿波狸合戦 (映画)|阿波狸合戦]]』を初めとする喜劇映画)」などの[[喜劇]]や二線級の映画であり「[[溝口健二]]の『[[祇園の姉妹]]』のような映画に出たい」と夢見ていた森は失望する。またこの頃、気鋭の映画監督だった[[森一生]]にプロポーズされ、婚約したがその後婚約破棄。これを境に撮影所内で悪評が立ち始め、居づらくなったため映画界から一時身を引く。
 
 
 
[[1939年]](昭和14年)10月、[[映画法]]が制定。映画出演が制限され始めたため、[[1941年]](昭和16年)、21歳で歌手を目指して陸軍の[[満州]]慰問団に参加した<ref>{{Cite book |和書 |author=[[馬場マコト]] |title=従軍歌謡慰問団 |publisher=[[白水社]] |page=112 |date=2012-11-07 |isbn=978-4-560-08251-5}}</ref>。戦時中は日本軍慰問団で[[東海林太郎]]らの前座歌手として[[ミスワカナ・玉松一郎]]らと中国戦線や南方戦線を巡回する。慰問団では[[赤木春恵]]と出会い、以後60年以上に渡り親交を深めることとなる<ref name = asahiTKY201211141048>{{Cite news|title=赤木春恵さん「もう少し時間が必要」 森光子さん惜しむ|url=http://www.asahi.com/culture/update/1115/TKY201211141048.html|newspaper=[[朝日新聞]]DIGITAL|date=2012-11-15 |archiveurl=http://archive.is/ZgnIR |archivedate=2013-04-24|accessdate=2013-07-16}}</ref>。後年、[[セレベス島]]滞在中の体験談を語っている。森は事前に、空襲の際には[[ホテル]]の[[防空壕]]よりも、堅固な近くの[[刑務所]]の防空壕に逃げるように説明されていたが、ある日、買物からの帰り際、空襲警報に遭遇、やむなくホテルの防空壕に避難した。しかし、空襲で直撃弾を受けたのは刑務所の防空壕だったため、難を逃れたという<ref name = tetsukonoheya>『徹子の部屋 追悼 森光子さん』(テレビ朝日、2012年11月15日放送){{出典無効|title=検証不可能。|date=2016年10月}}</ref>{{出典無効|title=検証不可能。|date=2016年10月}}。
 
 
 
この時期、映画『[[小川正子|小島の春]]』(監督:[[豊田四郎]])を観て、この映画の[[杉村春子]]の演技に大きな衝撃を受け、これ以上の衝撃を以降感じたことはないと述懐している。森は「演技の師匠を持たない私が、心から尊敬しお手本としたのは10代から憧れた杉村先生ただ一人です。時代劇の娘役の頃からいつか近づきたいとひそかに思い続けてきました」とも語り、杉村を生涯の師とした<ref>{{Cite book |和書 |author=森光子 |title=人生はロングラン |publisher=[[日本経済新聞出版社]] |page=218 |date=2009-04 |isbn=978-4-532-16692-2}}</ref>。
 
 
 
終戦後は役者活動に留まらず、[[ジャズ]]歌手として[[連合国軍最高司令官総司令部|進駐軍]]キャンプへの巡業も行っていた。[[1947年]](昭和22年)、27歳の時、そこで森を見初めた[[日系アメリカ人]]2世の米[[軍属]]リチャード・ウエムラから[[プロポーズ]]を受け婚約する。だが[[芸能界]]に未練があった森は決まっていた渡米をキャンセルし、日本に留まった。ウエムラは結局婚姻関係を結んでから1週間後に[[ハワイ]]に帰り、短い結婚生活は終わった<ref name = sankei121115>{{Cite news |title=【森光子さん死去】2度結婚し離婚…海軍大尉との悲恋も経験|url=http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/121115/ent12111510480008-n1.htm|newspaper= MSN産経ニュース|date=2012-11-15 |archiveurl=http://archive.is/lhuSS
 
|archivedate=2013-01-03|accessdate=2013-07-16}}</ref><ref>{{Cite news |title=森光子さん、死去 女優人生77年 92歳で幕|url=http://hochi.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20121115-OHT1T00022.htm|newspaper=[[スポーツ報知]]
 
|date=2012-11-15 |archiveurl=http://archive.is/QvH1b |archivedate=2013-09-16|accessdate=2013-09-16}}</ref>。
 
その後[[1949年]](昭和24年)の秋に肺結核と診断され、約3年間芸能活動を休止、京都[[山科]]で闘病生活を余儀なくされる(これ以前の[[1944年]]戦地慰問先の南京で既に肺浸潤性疾患を患っている)。この頃「森光子は死んだ」という噂がまことしやかに流れ、のちに復帰作となった[[NHK大阪]]放送局製作のラジオドラマ『エンタツちょびひげ漫遊記』で共演した赤木らもそう信じていたという<ref name="yomiuri125">読売新聞大阪本社文化部(編)『上方放送お笑い史』 [[読売新聞社]]、1999年 p.125</ref>。
 
 
 
当時すでに結核の特効薬である[[抗生物質]]、[[ストレプトマイシン]]は発見されていたが、非常に高価であり病気のため収入の途絶えた森に治療を受けることは難しいと思われた。しかし療養先が知人の縁者であったこともあり、担当医師が闇で仕入れたストレプトマイシンの効果を確認するため、「モルモット(実験台の意)」との名目で森に投与したことで一命を取り留める。
 
 
 
その後[[1951年]](昭和26年)に大阪へ戻り、仕事復帰の準備を始めるが、森を待っていたのは芸能界の厳しい現実だった。約3年のブランクに加え、一度は「死んだ」と噂された若手女優に再び手を差し伸べる相手は無く、森は御用聞きのように「仕事無いですか?」と知り合いを渡り歩く日々を送る<ref name="yomiuri125" />。
 
 
 
そんな森に関心を示したのは当時[[NHK大阪放送局]]で芸能番組担当プロデューサーを務めていた[[富久進次郎]]だった<ref group="注釈">富久進次郎には、NHKラジオの『[[アチャコ青春手帖]]』へのオファーのために、芸能界引退後消息不明だった[[浪花千栄子]]の居所を探り当て、復帰にこぎつけた「実績」があった(読売新聞大阪本社文化部(編)『上方放送お笑い史』 [[読売新聞社]]、1999年 p.122)。</ref>。富久は[[1952年]](昭和27年)新春から立ち上げる予定だったラジオコメディー番組に森の起用を決める。これが前述の『エンタツちょびひげ漫遊記』である。[[横山エンタツ]]の相手役として、翌年の続編『エンタツの名探偵』にも出演し、その後は開局間もない民放ラジオ番組にも起用され始める。この間、ラジオドラマへの出演が決まったばかりの頃は収入が不安定で知人の[[裏千家]]千宗室(14代淡々斎)夫人・千嘉代子<ref group = "注釈">{{Cite web |url=http://kotobank.jp/word/%E5%8D%83%E5%98%89%E4%BB%A3%E5%AD%90 |title=千嘉代子とは |publisher=コトバンク |accessdate=2014-09-30 }}</ref>の秘書として雇ってもらい、生計を立てていたという。
 
 
 
[[1955年]](昭和30年)、ラジオ出演に関して[[ABCラジオ|朝日放送]]と専属契約<ref>読売新聞大阪本社文化部(編)『上方放送お笑い史』 [[読売新聞社]]、1999年 p.66</ref>。大卒初任給が1万2千円程度というこの時代<ref>{{Cite web|url=http://www.777money.com/torivia/daisotu_syoninkyu.htm|title=大卒初任給の推移|publisher=WEB金融新聞 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080912205937/http://www.777money.com/torivia/daisotu_syoninkyu.htm|archivedate=2008-09-12|accessdate=2013-11-27}}</ref>に「契約金60〜65万円、番組へのレギュラー出演を局側が保証する」との高条件の下、[[ミヤコ蝶々]]、[[南都雄二]]、[[夢路いとし]]、[[喜味こいし]]らと『[[漫才学校]]』にレギュラー出演<ref>読売新聞大阪本社文化部(編)『上方放送お笑い史』 [[読売新聞社]]、1999年 p.85</ref>。芸達者な実力者を向こうに回し、関西をホームグラウンドにラジオタレントとしての確固たる人気を獲得、『[[ロート製薬|ロート]]東西お笑い他流試合』での大阪方の司会役などバラエティー番組のみならず、ラジオドラマでも活躍する。
 
 
 
=== 放浪記との出会い、テレビ出演 - 「日本のおかあさん」へ ===
 
[[File:Mori Mitsuko02.jpg|thumb|left|舞台『放浪記』の1シーン。机にもたれ掛かる森光子演じる林芙美子]]
 
ラジオへの出演と共に黎明期のテレビ在阪局(NHK大阪、[[大阪テレビ放送]])製作のドラマにも出演するようになる。ABC専属の森は、系列の大阪テレビ放送(のち、[[朝日放送]]と合併)において[[1956年]](昭和31年)、在阪局制作の[[お笑い番組|コメディー番組]]としては初の全国ネットとなった[[中田ダイマル・ラケット]]主演のコメディ『[[ダイラケのびっくり捕物帖]]』(放送期間中の会社合併に従い大阪テレビ→[[ABCテレビ|朝日放送]])で[[藤田まこと]]演じる[[与力]]・来島仙之助の“めっぽう腕の立つ妹”・妙を演じ、関東にもその顔と名を知られるようになった<ref name="yomiuri160">読売新聞大阪本社文化部(編)『上方放送お笑い史』 [[読売新聞社]]、1999年 pp.160-165</ref>。なお、幼少から若手女優の頃は「黒みっちゃん」と呼ばれるほど色黒だったが、[[尋常性白斑]]のため年齢を重ねるにつれ白くなっていった。
 
 
 
[[1958年]](昭和33年)、[[梅田芸術劇場|梅田コマ劇場]]でダイマル・ラケットと共演した舞台『あまから人生』で、防空壕から洗濯物を持って出るシーンの台本に台詞が無く「8分間よろしく」とだけ書かれていたため、[[アドリブ]]でこの当時のヒット曲『[[三波春夫|船方さんよ]]』、『[[藤島桓夫|お月さん今晩は]]』、『[[有楽町で逢いましょう]]』、『俺は待ってるぜ』の4曲を1フレーズずつ繋げたものを歌ったところ客うけがよく、この時、偶然にも空港へのハイヤーを待っている間に劇場に入って森の演技を見ていた[[東宝]]の[[菊田一夫]]に「[[芸術座]]で芝居をやらないか<ref name="yomiuri160"/>」と上京を誘われる。大阪で絶大な人気を誇り、実力を認められた森であったが、かねてから、東京からのスターとの共演では香盤が4番手程度になることに不満を持っていた<ref name="yomiuri160"/>(脇役専門の女優として甘んじていたこの頃のエピソードとして、[[三木のり平]]と共演したある舞台の楽屋でのこと、「名前を書かずに、自分の胸の内を川柳にして詠みあおう」と仲間内で遊んでいた際、'''「あいつより 上手いはずだが なぜ売れぬ」'''と詠んだ話がつとに有名である)。そこで、東宝と専属契約を結び上京を決意<ref name = Mainichi_20121115k0000m040027000c>{{Cite news |title=<訃報>女優の森光子さん死去、92歳…放浪記、時間ですよ|url=http://www.excite.co.jp/News/society_g/20121114/Mainichi_20121115k0000m040027000c.html |newspaper=exciteニュース([[毎日新聞|毎日.jp]])  |date=2012-11-14 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121116021633/http://www.excite.co.jp/News/society_g/20121114/Mainichi_20121115k0000m040027000c.html  |archivedate=2012-11-16 |accessdate=2013-07-16 }}</ref><ref name = kinyouprestage>『金曜プレステージ さよなら森光子さん 緊急追悼特別番組』(フジテレビ、2012年11月16日放送){{出典無効|title=検証不可能。|date=2016年10月}}</ref>{{出典無効|title=検証不可能。|date=2016年10月}}し、この年の[[芸術座]]公演『[[花のれん]]』(原作:[[山崎豊子]]、脚色:菊田一夫、主演:[[三益愛子]])で東京進出を果たし<ref name="yomiuri160"/>、その後も『[[がめつい奴]]』などに出演する。当時ABCとの契約も残っていたため、『びっくり捕物帖』の出演分は、VTRで撮りだめして対応した<ref name="yomiuri160"/>。
 
 
 
[[1959年]](昭和34年)、大阪から東京に拠点を移したほぼ同時期、NHK大阪出演時の仕事仲間で、直後に[[TBSラジオ&コミュニケーションズ|ラジオ東京]]に移籍したプロデューサーで演出家の[[岡本愛彦]]と結婚。岡本が5歳下だったこともあり、森本人は3歳サバを読んで36歳ということにしていた。
 
 
 
[[1961年]](昭和36年)、前年の舞台『[[がしんたれ]]』で演じた[[林芙美子]]役が脇役ながらも高い評価を受け<ref>{{Cite web |url=http://www.shogakukan.co.jp/jinbocho-theater/program/mm.html |title=次回の特集企画 銀幕の森光子 |publisher=[[神保町シアタービル|神保町シアター]]([[小学館]]) |date= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130710082159/http://www.shogakukan.co.jp/jinbocho-theater/program/mm.html#top |archivedate=2013-07-10 |accessdate=2014-05-09 }} </ref>
 
、菊田はこれを発展させる形で『[[放浪記 (劇作品)|放浪記]]』の脚本を執筆。森は主役の芙美子役に抜擢される。この年の芸術座10月公演で初演にして8か月のロングランとなり、[[芸術祭 (文化庁)|芸術祭]]文部大臣賞、テアトロン賞(東京演劇記者会賞)<ref>{{Cite web |url=http://www.geocities.jp/chiemi_eri/chiemi_sub6-02.htm |title=「テアトロン賞」とは? |publisher=江利チエミの世界  |date= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20040527035213/http://www.geocities.jp/chiemi_eri/chiemi_sub6-02.htm |archivedate=2004-05-27 |accessdate=2014-05-09 }} </ref>
 
を受賞。以後、生涯通算で2017回を数える森の主演代表作となる<ref name="prf"/><ref name = 2017hourouki>{{Cite news |title=森光子さんが死去 舞台「放浪記」で2017回主演|url=http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/121114/ent12111419330017-n1.htm|newspaper=MSN産経ニュース |date=2012-11-14 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20121130200413/http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/121114/ent12111419330017-n1.htm |archivedate=2012-11-30|accessdate=2013-07-16}}</ref>と共に、それまで脇役だった森が主演女優への階段を上るきっかけとなった。また劇中、森扮する芙美子が自分の小説の新聞広告を見つけ、喜びのあまり'''でんぐり返り'''をする場面は、名物<ref name="prf"/><ref>{{Cite news |title=女優の森光子さん死去|url=http://www3.nhk.or.jp/news/html/20121114/t10013490011000.html|newspaper=[[日本放送協会|NHK]] NEWS web |date=2012-11-14 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121117014753/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20121114/t10013490011000.html|archivedate=2012-11-17|accessdate=2013-04-19}}</ref>と言われるまでになった。また、森は、林芙美子役について「舞台で死んでもこの役を渡したくない」と、並々ならぬ思い入れを語っていた<ref name = morisanhanihonnookaasan>{{Cite news |title=「日本のお母さん」と親しまれた国民的女優|url=http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/121114/ent12111420440020-n1.htm|newspaper=MSN産経ニュース |date=2012-11-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140112015323/http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/121114/ent12111420440020-n1.htm |archivedate=2014-01-12|accessdate=2013-07-16}}</ref>。
 
 
 
[[1963年]](昭和38年)、『放浪記』で人生初の主演を務めあげたことで、森は仕事にのめり込み仕事最優先となる。この時の心境について「'''いつでもぎりぎり決着の逃げ場のないところで、体をぶつけて、私は生きてきました。俳優という[[退職金]]も[[失業保険]]もない職業のみじめさを、私は自分自身の体に刻んでいるのです。だからお仕事を断るなんてぜいたくなことはできない'''」と、当時のインタビューで答えている。そんな妻に対して、夫・岡本は「'''君は仕事に殺される、仕事を半分に減らせ'''」、「'''夫の忠告がなぜ聞けないのか!'''」と、森を思うが故、反発するが、その亀裂はもはや修復不可能となっていた。結局、森は仕事を選び、この年2人は離婚。この結論に至った事については「'''私は、妻の座についていたかった。今でも岡本を愛しています。許してくれるなら、謝りもしましょう。現に、彼の前に手をついて、『別れないでください』と泣いて頼んだこともありました。でも、結局、破局でした。2人の間には、永久に交わることのない、平行線があったのです。一つだけはっきりしているのは、もう二度と結婚しない。これからは役者ひと筋に生きていくということ'''」と語っている<ref>{{Cite web |title=森光子さん “国民のお母さん”が抱き続けた「家庭への憧れ」【森光子さん】|url=http://jisin.jp/news/2563/5184/|publisher=[[女性自身]]|date=2012-11-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131016112740/http://jisin.jp/news/2563/5184/ |archivedate=2013-10-16|accessdate=2014-01-13}}</ref>。結局、森はこの時の決意を全うし、この離婚以後、生涯独身を貫いた。ただ、一方ではその後、作家の[[水上勉]]、[[五味康祐]]との恋愛関係<ref name = "ZAKZAK20121115">{{Cite news |title=森光子さん、知られざる私生活…恋と卵と悲しいファクス |url=http://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20121115/enn1211151542012-n1.htm |newspaper=[[夕刊フジ|ZAKZAK]] |date=2012-11-15 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121117173521/http://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20121115/enn1211151542012-n1.htm |archivedate=2012-11-17 |accessdate=2014-05-13 }}</ref>や、作曲家の[[渡辺岳夫]]との長期にわたる不倫関係を取り沙汰されたこともある<ref name = "cyzo20121116">{{Cite news |title=本多圭の「芸能界・今昔・裏・レポート」なぜ彼女は“芸能界のお母さん”と呼ばれたか? 大女優・森光子さんを偲ぶ |url=http://www.cyzo.com/2012/11/post_11916.html |newspaper=日刊サイゾー |date=2012-11-16 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121118044403/http://www.cyzo.com/2012/11/post_11916.html |archivedate=2012-11-18 |accessdate=2014-05-13 }}</ref>。
 
 
 
[[1965年]](昭和40年)、当時人気のテレビ[[時代劇]]で、偶然、家で見ていたNET(現・[[テレビ朝日]])系『[[新選組血風録 (テレビドラマ)|新選組血風録]]』(制作:[[東映京都テレビ・プロダクション|東映京都テレビプロダクション]])に興味を示し、いきなり[[東映京都撮影所]]に電話を入れ、自ら出演を打診、最終回([[1966年]][[1月2日]]放送分、第26話「燃える生命」)に、急遽設定された架空の人物、[[山南敬助]](演:早川研吉)の恋人・光枝役として[[カメオ出演#特別出演|特別出演]]している。
 
 
 
同年、乳腺腫瘍の摘出手術、[[1967年]](昭和42年)には[[急性肝炎]]のため1か月の入院<ref group="注釈">引用ページでは「通院」となっている。</ref>を余儀なくされ、この時期は健康上の不安に見舞われている<ref name = "ZAKZAK20121115" />。
 
 
 
[[1966年]](昭和41年)、東宝でマネージャーを務めていた吉田名保美が独立し「吉田名保美事務所」を設立<ref>{{Cite web |url=http://kotobank.jp/word/%E5%90%89%E7%94%B0%E5%90%8D%E4%BF%9D%E7%BE%8E |title=吉田名保美とは |publisher=コトバンク |date= |accessdate=2014-05-13 }}</ref>。森も東宝から同事務所に移籍(ただし、これ以降も提携関係を継続)。
 
 
 
『[[日曜劇場|東芝日曜劇場]]・天国の父ちゃんこんにちは』([[TBSテレビ|TBS]]、1966年 - 1974年)、『[[時間ですよ]]』(TBS、1970年 - 1973年、以後シリーズ化)、『[[土曜グランド劇場]]・[[2丁目3番地]]』([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]、1971年)、『[[銀座わが町]]』([[日本放送協会|NHK]]、1973)、『[[かくれんぼ (テレビドラマ)|かくれんぼ]]』(日本テレビ、1981年)等数多くのテレビドラマにも出演。[[山岡久乃]]、[[京塚昌子]]とともに日本を代表する「お母さん女優」としてその人気を不動のものとし、「'''日本のお母さん'''」の異名を取っている<ref name="morisanhanihonnookaasan" /><ref>{{Cite web |url=http://hon.bunshun.jp/articles/-/1273|title=菊田一夫に見出されて開花した「日本のお母さん女優」森光子|publisher=本の話WEB - 文春写真館([[文藝春秋]])|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130511180739/http://hon.bunshun.jp/articles/-/1273|archivedate=2013-05-11|accessdate=2014-01-19}}</ref>。特に、時間ですよシリーズでは下町の銭湯のおかみさん役が当たり役として話題になった<ref name="2017hourouki" />。確立したイメージはCMでも活かされ、特に[[1968年]](昭和43年)から起用された「[[竹屋 (味噌製造)|タケヤ味噌]]」のCMでは、途中に空白期間はあるものの[[2008年]](平成20年)まで約40年にわたりCMキャラクターを務めている。
 
 
 
[[1974年]](昭和49年)から[[1988年]](昭和63年)までの14年間にわたり、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]の[[ワイドショー]]番組『[[3時のあなた]]』で月曜日・火曜日のメイン司会を担当し、この間、[[石原裕次郎]]の追悼特集(1987年7月20日放送)や[[田中角栄]]との対談(1984年9月3日放送)<ref name = kinyouprestage/>{{出典無効|title=検証不可能。|date=2016年10月}}などの大役をこなし、女性司会者としての地位も確立、同番組での歴代最長司会者でもある{{refnest|group="注釈"|ただ、起用当初は視聴者から「女優が何をしているんだ」と非難を浴びる事もあったという。森自身、辞めるべきか悩んだが、この時相談にのったのがTBSで森のドラマを数々手がけた演出家の[[鴨下信一]]だった。鴨下は「森さんは、いろんな経験をしてさまざまな世界を見てきた。これからの女優は演技以外のこともするべき。絶対に続けたほうがいい」とアドバイス。これに応え、長きにわたり司会を務めた<ref>{{Cite web |url=http://www.asagei.com/9356|title=森光子、ワイドショー司会抜擢で袋叩き|publisher=[[アサヒ芸能|アサ芸+]]|date=2012-11-28|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130922064006/http://www.asagei.com/9356|archivedate=2013-09-22|accessdate=2014-01-13}}</ref>。}}。また、この番組では森を姉と慕っていた[[美空ひばり]]が第1回と最終回にゲストで出演した<ref name = kinyouprestage/>{{出典無効|title=検証不可能。|date=2016年10月}}。司会者としての実力は『[[NHK紅白歌合戦]]』の紅組司会者としても発揮されており、[[第13回NHK紅白歌合戦|第13回]]〈[[1962年]](昭和37年)〉、[[第29回NHK紅白歌合戦 |第29回]]〈[[1978年]](昭和53年)〉、[[第35回NHK紅白歌合戦|第35回]]〈[[1984年]](昭和59年)〉の3回、起用されている。また『[[輝く!日本レコード大賞]]』でも、[[1972年]](昭和47年)から[[1976年]](昭和51年)まで司会を務めている。
 
 
 
[[1975年]](昭和50年)11月から翌年5月、TBS系で放送された『[[花吹雪はしご一家]]』で母子役として共演した[[西城秀樹]]からは「東京のお母さん」と呼ばれ公私にわたり親交を深めた。プライベートで年上の有名女優と交際していた西城の恋愛についてアドバイスしたり、コンサートにも数多くゲスト出演している。
 
 
 
[[1977年]](昭和52年)、「吉田名保美事務所」から独立し、個人事務所「オフィス・モリ」を開設する<ref name = "jisin">{{Cite web |url=http://jisin.jp/news/2566/5300/|title=森光子さん「亡き母の眠る京都に…」進めていた”死に支度" 【森光子さん】|publisher=女性自身 |date=2012-12-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130622030225/http://jisin.jp/news/2566/5300/|archivedate=2013-06-22|accessdate=2013-06-22}}</ref>
 
 
 
大阪での喜劇女優としての経験を生かして[[ザ・ドリフターズ]]との『[[ドリフと女優の爆笑劇場]]』(1977年〜1989年、[[テレビ朝日]]系)や[[加藤茶]]、[[志村けん]]との『[[加トちゃんケンちゃん光子ちゃん]]』(1987年〜1994年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系)といった[[単発特別番組枠|スペシャル枠]]の[[コント]]番組にも長年出演するなど、その芸域の広さと柔軟性も見せている。また、「ドリフと女優の爆笑劇場」での、家族コントにての、森と[[いかりや長介]]との夫婦役も定評であった。
 
 
 
好奇心旺盛にして有り余るほどの行動力を発揮し、興味を持った歌手やアーティストの公演には足繁く通い、その姿勢は自らも「若さの秘訣のひとつ」と語っていた。中でも[[ジャニーズ]]事務所所属タレントらや、[[クレイジーケンバンド]]との交流は有名だった。ジャニーズ所属タレントの中では[[少年隊]]の[[東山紀之]]の歌と踊りを高く評価。公私にわたり親交を深め「森の右手を握れる男性は東山だけ」ともいわれ、実際に交際の噂を立てられる程で<ref name="MSNsankei20121115" />舞台では5作品(6公演)、テレビドラマでも共演作がある{{refnest|group="注釈"|舞台では『御いのち』([[1994年]])、『深川しぐれ』([[1997年]])、『春は爛漫』([[1995年]]、[[2003年]])、『花も嵐も』([[1999年]])、『ツキコの月 そして、タンゴ』([[2005年]])。テレビドラマでは『花迷宮2 / 上海から来た女』([[1991年]]、[[フジテレビジョン|CX]])、『誰かが誰かに恋してる』([[1996年]]、TBS)などがある<ref>{{Cite web |url=http://blog.avexnet.or.jp/abe/diary/2005/10/31_18.html|title=気紛れDIARY / 森光子、東山紀之が競演、「ツキコの月 そして、タンゴ」の椿事 ?|publisher=安倍寧 web site |date=2005-10-31|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070518042517/http://blog.avexnet.or.jp/abe/diary/2005/10/31_18.html|archivedate=2007-05-18|accessdate=2013-01-05}}</ref>。}}。また、[[2011年]][[11月5日]]、東山と前年10月に結婚した[[木村佳乃]]との間に、第1子となる女児が誕生した際には祝福のコメントを寄せている<ref>{{Cite news |title=森光子さん「華やかに育てて」 東山さん、木村さん女児誕生|url=http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/111105/ent11110519230016-n1.htm|newspaper=MSN産経ニュース |date=2011-11-05 |archiveurl=http://archive.is/2rp78 |archivedate=2013-01-04|accessdate=2013-07-16}}</ref>{{refnest|group="注釈"|誕生の報告を受け、たまたま立ち寄った喫茶店で乳児を連れた母親を見かけると「うちにも生まれたんですよ」と話しかけ、まるで初孫誕生のように大喜びだったという<ref>{{Cite web|url=http://newslounge.net/archives/8290|title=東山紀之第1子に森光子も大喜び!うちも生まれたと声をかけ|publisher=芸能ニュースラウンジ |date=2011-11-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140113055917/http://newslounge.net/archives/8290|archivedate=2014-01-13|accessdate=2014-01-13}}</ref>。}}。80歳にして「絶叫コースターに挑戦したい」と希望し、テレビ番組の企画で[[TOKIO]]の[[長瀬智也]]と実際にコースターに乗ったこともある。
 
 
 
[[ジャニーズ事務所]]の創立者である[[ジャニー喜多川]]との親交は古く、喜多川の父親が大阪の道頓堀劇場で森の舞台をよく見に行って「森光子は踊りがうまい」と褒めていたことを覚えており、のちにジャニーズ事務所開設とともに交流を深めることとなった<ref name="MSNsankei20121115">{{Cite news |title=ジャニーズ「衝撃大きすぎる。コメント出すのに少し時間ほしい」(2/2ページ)|url=http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/121115/ent12111508080003-n2.htm|newspaper=MSN産経ニュース |date=2012-11-15 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121118051612/http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/121115/ent12111508080003-n2.htm  |archivedate=2012-11-18|accessdate=2013-07-16}}</ref>。
 
 
 
[[大橋巨泉]](以下、巨泉と記述)司会の人気番組だった『[[クイズダービー]]』『[[世界まるごとHOWマッチ]]』にも、度々ゲスト解答者として出演していた。特に『クイズダービー』では、森の「ドッキリ発言」のエピソードが知られている(第684回、[[1989年]][[4月8日]]放送分)。森は出場者側(ギャンブラー席・赤チーム)として登場の際、CM明けの6問目に初代2枠[[レギュラー]]解答者・[[五月みどり]]の曲『恋する蝶ちょ』の歌詞当て問題で、正解が「男にとまれ」(解答者5人<ref group="注釈">当時「クイズダービー」のレギュラー解答者は、1枠[[北野大]]・2枠[[井森美幸]]・3枠[[はらたいら]]・4枠[[竹下景子]]、5枠ゲスト解答者は5代目2枠レギュラーの[[長山藍子]]が出演した。</ref>は全員不正解)と巨泉が発表した直後の事である。出場者の森は突然「'''私は、もしかしたらあの…『[[ホテル]]にとまれ』かと思った'''」と真顔でコメント。この森の発言に全解答者のみならず、出場者側で出演したタレント達も大爆笑、巨泉も流石に「それは過激すぎますよ!」と苦笑する始末だった。また、『世界まるごとHOWマッチ』においては、森自身が「レギュラー解答者に成りたい」という程でもあり、当番組の最終回スペシャルにも出演していた。その後、森は巨泉が番組スーパーバイザーも兼任したTBSの大型バラエティ番組『[[ギミア・ぶれいく]]』<ref group="注釈">[[1989年]][[10月10日]] - [[1992年]][[9月29日]]まで放送。</ref>のレギュラー陣の1人としても起用されている。
 
 
 
=== 栄典受章の陰で - 晩年の状況 ===
 
[[1984年]](昭和59年)11月、[[紫綬褒章]]を授与される。この時、年齢を3歳サバ読みしていることや、嵐寛寿郎の姪ではなく従妹であることが発覚するが、当時のマスコミの論調は好意的だった。
 
 
 
[[1992年]](平成4年)11月、[[勲三等]][[瑞宝章]]を授与される。この頃から体力の衰えを実感し、当時[[野茂英雄]]が通っていたジムへ行きトレーナーへ指示を仰ぎ肉体改造に着手。毎日欠かさず150回(朝75回、夜75回)のスクワット(実際には、スクワットというよりも軽めの屈伸運動に近いものである)を行いエアロバイクを漕ぐなど筋力強化に励んだ。こうして、80代に入ってもなお、若々しい容貌と機知に富んだコメントで、幅広い世代に親しまれ続けた。
 
 
 
[[1996年]](平成8年)、[[1月31日]]と[[2月1日]]に[[新高輪プリンスホテル]]で初の[[ディナーショー]]、『森光子 Special Dinner Show』を開催。構成・演出はジャニー喜多川。バックダンサーとして、東山紀之や[[堂本剛]]に加え[[V6 (グループ)|V6]]、[[TOKIO]]も踊りを披露しており、[[ジャニーズJr.]]にはデビュー前の[[タッキー&翼]]、[[嵐 (グループ)|嵐]]の[[大野智]]らが参加している。結局これが生涯ただ1度の[[ディナーショー]]となった。
 
 
 
[[1999年]](平成11年)、京都市特別観光大使に任命される。その後2009年(平成21年)に京都市市民栄誉賞を受賞<ref name="sanspo20121114" />。2011年(平成23年)からは京都市名誉観光大使を務めた<ref name="sanspo20121114" />。
 
 
 
[[2000年]](平成12年)、16年間悩み続けた[[白内障]]の手術に踏み切り、無事成功する<ref name = "ZAKZAK20121115" />。
 
 
 
[[2005年]](平成17年)、芸能生活70周年を迎えたこの年の3月4日 - 27日に行われた芸術座公演『放浪記』は、老朽化のため解体が決まった芸術座での最終公演。[[千秋楽]]ではカーテンコールの際に「祝・大千穐楽 あたたかいご声援をありがとうございました」と書かれたパネルが舞台上に掲げられ、48年の歴史に幕を閉じた。
 
 
 
10月5日 - 30日([[帝国劇場]])、11月5日&#x301C;30日([[中日劇場]])、[[伊集院静]]原作の舞台『ツキコの月 そして、タンゴ』に出演。東山紀之との共演が話題となった。また、この舞台の主題歌として10月5日、10年ぶりにリリースした新曲『月夜のタンゴ』(作詞:[[竹内まりや]]、作曲・編曲:[[山下達郎]]<ref group="注釈">山下夫妻は、ジャニー喜多川や夫妻の所属事務所社長で、[[ジャニーズ・エンタテイメント]][[代表取締役]]でもある[[小杉理宇造]]を通じて森と懇意になり、家族ぐるみでグループ旅行に参加するなど、以前から親交があった。また、演劇について森から様々な事を教わった、とも述べている。</ref>)が10月17日付の[[オリコンチャート]]で45位初登場となった。歌手デビュー64年で初のチャートインは史上最長期間記録。85歳5カ月での初登場トップ50入りも最年長記録で、ダブル快挙である。
 
 
 
11月、[[文化勲章]]を授与される。[[俳優|女優]]からの勲章受章者は[[山田五十鈴]]以来2人目([[杉村春子]]は辞退)。森はこれ以前の数年は、もしやの親授式に備えて文化の日には予定を入れなかったという。11月5日中日劇場、[[栗山民也]]演出『ツキコの月 そして、タンゴ』のカーテンコールで森は「見てくださる、お客様がいるからこその(文化勲章)受章。心からお礼申し上げます。」とあいさつした<ref>2018年5月1日中日劇場(中日新聞文化芸能局)発行「中日劇場全記録」</ref>。
 
 
 
[[2006年]](平成18年)9月2日 - 27日(明治座)、11月1日&#x301C;26日([[名鉄ホール]])に公演が行われた『[[女たちの忠臣蔵]]』(作:[[橋田壽賀子]]、劇化:[[田井洋子]]、演出:[[石井ふく子]])に[[語り手|ナレーター]]として参加。[[1979年]]のテレビドラマ版でナレーターを務めて以来、[[1980年]]の舞台初演からナレーターを務めているが、この公演の録音が最後となった。この年、元・[[俳優]]で[[1970年]](昭和45年)以降、35年余にわたり森を支えてきた[[芸能マネージャー|マネージャー]]関富士夫が[[大腸癌|直腸がん]]を発病、治療に専念するため退社を余儀なくされる、という出来事が起きている<ref name = "jisin" /><ref>[[2010年]]5月21日に死去。{{Cite news |title=森光子の元マネジャー関冨士夫氏が死去 |url=http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2010/05/22/kiji/K20100522Z00001420.html |newspaper=Sponichi Annex |date=2010-05-22 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140513083147/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2010/05/22/kiji/K20100522Z00001420.html |archivedate=2014-05-13 |accessdate=2014-05-13 }}</ref>。
 
 
 
[[2007年]](平成19年)10月2日 - 26日、[[新橋演舞場]]10月公演『錦秋演舞場祭り 中村勘三郎奮闘』に出演。[[中村勘三郎 (18代目)|十八代目 中村勘三郎]]との初共演が注目された。昼の部は勘三郎中心の歌舞伎公演、森は夜の部の『森光子・中村勘三郎特別公演「寝坊な豆腐屋」』(脚本:[[鈴木聡 (演出家)|鈴木聡]]、演出:[[栗山民也]])に出演、親子を演じた。先代勘三郎とは[[歌舞伎座]]公演『いくぢなし』([[1969年]])、帝劇公演『花の吉原つき馬屋』([[1984年]])など過去に4回舞台で共演しているが、十八代目との共演は前名・中村勘九郎時代から映画、テレビを含め初めてであり、これに加えて森の希望で[[中村勘九郎 (6代目)|2代目 中村勘太郎]]、[[中村七之助 (2代目)|2代目 中村七之助]]も配役され、実に親子3代との共演が実現した。しかし、結局これが最初で最後の共演となった。また、東宝系の舞台出演が多い森にとって、[[松竹]]系の演舞場への登場は[[1966年]]に森繁久弥、三木のり平らと共演した「森繁劇団特別公演」以来、実に41年ぶりのことであった<ref>{{Cite web |url=http://www.theaterguide.co.jp/theater_news/2007/09/06.php|title=『錦秋演舞場祭り 中村勘三郎奮闘』製作発表 [記者会見]|publisher=シアターガイド |date=2007-09-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140216024156/http://www.theaterguide.co.jp/theater_news/2007/09/06.php|archivedate=2014-02-16|accessdate=2014-02-16}}</ref>。
 
 
 
[[2008年]](平成20年)、1月、前年11月、芸術座の跡地にオープンした新劇場「[[シアタークリエ]]」で初の『放浪記』公演を行う。この公演からそれまで名物となっていた「でんぐり返し」をとりやめ、[[万歳三唱]]に変更。これは前年の[[博多]]公演で失敗した事や、森の体力面を考慮しての処置であり「でんぐり返しの封印」と報道された{{refnest|group="注釈"|用語的には「でんぐり返り」」だが、記事の記述に沿って「でんぐり返し」とする<ref>{{Cite news |title=森光子さん、でんぐり返し封印 「放浪記」製作発表で|url=http://www.asahi.com/culture/stage/theater/TKY200711290333.html|newspaper=[[朝日新聞|asahi.com]] |date=2007-11-29 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20071201142259/http://www.asahi.com/culture/stage/theater/TKY200711290333.html |archivedate=2007-12-01|accessdate=2013-10-17}}</ref>。}}。また、この年の4月に唯一存命の[[親族|肉親]]で、長年「オフィス・モリ」代表、マネージャーとして、公私にわたり森を支え続けた3歳下の実妹・柳田咲子が死去。そのショックは大きく、本人は喪に服し(公に発覚したのは翌2009年の放浪記公演前だった)、気丈に振舞うも、夏頃には喉の病気を患った事も重なり、あきらかに衰弱した姿が見られるようになった。またこの時期と前後して、長年森に尽くした[[付き人]]がいつともなく森の元を去っている<ref name = "jisin" />。こうした事実に、多数の[[週刊誌]]が興味本位に「森光子の老い」との記事を組むなど、翌2009年の放浪記の公演はおろか森の生命すら危ぶまれる状態にあった。森はそんな中、親交が深い[[和田アキ子]]宅を訪れ、まだ女優を続けたい思いと、思うようにならない身体との間で思い悩み、和田に相談を持ちかけたという。4時間に及んだ話し合いの中、和田は森に「森っち、もうええやん。これまでずっと頑張ったやん」と降板するように進言したという。しかし、結局森は「お客様が待ってる」「私の生きがいだから」とそれを断り、舞台に拘り続けた<ref>{{Cite news |title=「和田アキ子、森光子さんから相談4時間」|url=http://www.daily.co.jp/newsflash/gossip/2012/11/17/0005533389.shtml|newspaper=[[デイリースポーツ]]ONLINE |date=2012-11-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131018035623/http://www.daily.co.jp/newsflash/gossip/2012/11/17/0005533389.shtml |archivedate=2013-10-18|accessdate=2013-10-18}}</ref>。
 
 
 
[[2009年]](平成21年)1月、初の著書『女優森光子 大正・昭和・平成 -八十八年激動の軌跡-』を出版。懸念された健康状態も年明け頃から徐々に立ち直り、舞台公演は無事に続けられ、5月9日の誕生日には『放浪記』上演2000回を迎えた。また、[[5月11日]]には[[河村建夫]][[内閣官房長官]]より森に[[国民栄誉賞]]を授与する方針が表明され、[[5月29日]]に正式決定の上、[[7月1日]]に授与された。これは俳優では初の生前授与である<ref group="注釈">国民栄誉賞の俳優での受賞者は、[[1984年]](昭和59年)の[[長谷川一夫]]、[[1996年]](平成8年)の[[渥美清]]に次いで3人目、女優での受賞者は森が初めてとなる。長谷川、渥美はいずれも没後の受賞であった。また、女性への国民栄誉賞受賞者は[[歌手]]の[[美空ひばり]]、[[漫画家]]の[[長谷川町子]]、[[陸上選手]]の[[高橋尚子]]に次いで4人目となる。なお非スポーツ選手で他に生前授与したのは[[歌手]]の[[藤山一郎]]のみである。</ref>。
 
 
 
[[11月3日]]から27日には[[マキノノゾミ]]作・演出の[[明治座]]11月公演(国民栄誉賞受賞記念出演作品)『晩秋』に出演。マキノは森を想定して脚本を当て書きし、演出した。また森自身が共演者として[[坂東三津五郎 (10代目)|十代目 坂東三津五郎]]と[[八千草薫]]を指名、三津五郎とは初共演、八千草とは[[1961年]]の『放浪記』以来48年振りの共演となった。この作品では振袖姿で『[[:en:Sentimental Journey (song)|センチメンタル・ジャーニー]]』を英語で歌うシーンもこなしている。
 
 
 
[[2010年]](平成22年)[[1月8日]] - [[2月6日]]、引き続き帝国劇場での舞台『新春 人生革命』(作・演出・構成:[[ジャニー喜多川]])に出演<ref group="注釈">昼の部のみの公演。2009年4月に出版された森の自叙伝『人生はロングラン』を読んだ喜多川が、森の幼少期や戦中・戦後の体験や森自身から語られた言葉をヒントに創作したオリジナルストーリー。芝居仕立ての作品ではあるが、[[ミュージカル]]や[[イリュージョン (奇術)|イリュージョン]]、ステージからのフライングなど、バラエティ、エンターテイメント的要素の強い舞台である。夜の部は[[2009年]]正月にも上演された滝沢秀明主演による『新春 滝沢革命』・リニューアル版の公演が行われた。なお、主題歌『人生革命』は森自身が作詞、作曲は[[馬飼野康二]]でMARK DAVIS名義。コーラスに共演者の滝沢、錦織に加え、[[Kis-My-Ft2]]も参加している。</ref>、[[滝沢秀明]]、[[錦織一清]]との共演が話題となったが、この頃すでに立ち上がりや歩行に介添えが必要となっており、舞台上でも座った姿勢での演技や共演者が移動の際に手をとるなど「立たずに済む、動かずに済む」演出が多くなり、抑揚に欠ける台詞回しや、長台詞になると飛んでしまう(忘れてしまう)事もたびたび生じ、[[シーン|場面]]によっては[[口パク|リップシンク]]が採用されるなど、その衰えは否めなかった。しかし持ち前のユーモアと機転でアドリブを交え、そうした不安をカバーして1か月に及ぶ公演を務め上げた。だが[[2月26日]]、体力面を不安視する主治医の勧めもあり、同年5月から6月に[[シアタークリエ]]で公演予定だった『放浪記』の中止が発表された<ref>{{Cite web |date=2010-02-26 |url=http://www.tohostage.com/owabi.pdf |title=演劇/ 公演中止に関するお詫び |format=PDF |publisher=[[東宝|東宝株式会社]] |accessdate=2014-02-16}}</ref>{{refnest|group="注釈"|この決定を受け、[[ジャニー喜多川]]が[[内博貴]]や[[A.B.C-Z]]ら[[ジャニーズJr.]]による代替公演を用意して穴を埋め、森の面子を立てている<ref>{{Cite web |url=http://www.theaterguide.co.jp/theater_news/2010/03/29_03.php|title=内博貴らジャニーズJr.による、森光子『放浪記』の代替公演が決定|publisher=シアターガイド |date=2010-03-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100401202054/http://www.theaterguide.co.jp/theater_news/2010/03/29_03.php
 
|archivedate=2010-04-01|accessdate=2013-01-02}}</ref>。}}。
 
 
 
以後は各種のイベントや芸能関係者の訃報・慶事に対し本人名義のコメントを寄せているが、2008年TBS放送の『渡る世間は鬼ばかり』第9シリーズ秋のスペシャルがドラマ作品の遺作となり、女優としての活動は舞台『人生革命』が最後となった。[[2010年]][[8月11日]]放送(収録は7月)のドキュメンタリー番組『戦場の漫才師たち &#x301C;わらわし隊”の戦争&#x301C;』([[NHK総合テレビジョン|NHK総合]])に証言者として出演、同年11月には[[帝国ホテル]]で帝国劇場100年記念[[ムック (出版)|ムック本]]『帝劇ワンダーランド 〜帝国劇場開場100周年記念読本<ref group="注釈">2011年1月刊、東宝/[[ぴあ]]、ISBN 978-4-8356-1782-4</ref>』への収録のため[[インタビュー]][[報道|取材]]と写真撮影を受けているが、これが表舞台での最後の仕事となった。[[2012年]](平成24年)[[1月2日]]&#x301C;28日、明治座創業140周年記念公演として、5年4か月ぶりにキャストを一新して上演された『女たちの忠臣蔵』では久々にナレーターとして名を連ねているが、実際には前回、[[2006年]]の明治座9月公演の際に録音されたものが使用された。最後の近影となったのは、[[2012年]][[2月7日]]から[[4月30日]]にかけ上演された[[堂本光一]]主演の舞台『[[SHOCK#Endless Shock|Endless Shock 2012]]』の初日に公表された、公演ポスターを掲げる姿(実際には[[1月22日]]の撮影)で<ref name = "nikkansports">{{Cite news |title=森光子さん死去 お休みなさいお母さん|url=http://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp0-20121115-1047034.html|newspaper=[[日刊スポーツ|nikkansports.com]] |date=2012-11-15 |archiveurl=http://archive.is/rvL7a |archivedate=2013-04-27|accessdate=2013-07-16}}</ref>、公式の場に寄せた最後のコメントとなったのは、[[2012年]][[7月9日]]に[[山田五十鈴]]が死去した際のものである<ref>{{Cite news |title=山田五十鈴さん死去 森光子「大きな背中が頼もしかった」|url=http://www.oricon.co.jp/news/entertainment/2014149/full/|newspaper=[[オリコン|ORICON STYLE]] |date=2012-07-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130206015213/http://www.oricon.co.jp/news/entertainment/2014149/full/ |archivedate=2013-02-06|accessdate=2013-02-06}}</ref>。
 
 
 
=== 闘病生活と死 ===
 
[[2012年]](平成24年)[[11月10日]]18時37分、[[肺炎]]による[[心不全]]のため、入院先である[[本郷 (文京区)|文京区本郷]]の[[順天堂大学医学部附属順天堂医院]]<ref name="zakzak20121119">{{Cite news |title=森光子さんのプライバシー守った順天堂病院の実力…VIPも厚い信頼 |url=http://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20121119/enn1211191534008-n1.htm |newspaper=[[夕刊フジ|zakzak]] |date=2012-11-19 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121127181804/http://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20121119/enn1211191534008-n1.htm |archivedate=2012-11-27 |accessdate=2014-07-21 }}</ref>(以下、順天堂大学病院と記述)で死去<ref name="yomiuri20121114" />。満92歳没([[享年]]93)。生前からの本人の希望で親族だけの密葬を済ませた後、死去から3日後の[[11月14日]]の夜に、親族からの連絡で東宝から正式に発表された<ref>{{Cite news |title=森光子さん肺炎による心不全で死去 92歳|url=http://www.oricon.co.jp/news/entertainment/2018749/full/|newspaper=ORICON STYLE |date=2012-11-14 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121116164954/http://www.oricon.co.jp/news/entertainment/2018749/full/ |archivedate=2012-11-16|accessdate=2012-11-16}}</ref>。なお、発表の数日前には、実際には既に死去していたにも関わらず、“復帰間近”という報道が流れた他、事実の公表寸前まで復帰を願う声が数多くあった<ref>{{Cite news |title=「復帰情報」流れる御年92 森光子の美学|url=http://gendai.net/articles/view/geino/139563|newspaper=[[日刊ゲンダイ|Gendai.Net]] |date=2012-11-09 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121112034836/http://gendai.net/articles/view/geino/139563 |archivedate=2012-11-12|accessdate=}}</ref><ref>{{Cite news |title=メディアが掴めなかった森光子さんの病状 死亡する直前にも「間もなく女優復帰」報道 |url=http://www.j-cast.com/2012/11/15154136.html?p=all |newspaper=[[ジェイ・キャスト#J-CASTニュース|J-CASTニュース]] |date=2012-11-15 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140722123448/http://www.j-cast.com/2012/11/15154136.html?p=all |archivedate=2014-07-22 |accessdate=2014-07-22 }}</ref>。奇しくも3年前の同日には[[森繁久彌]]が96歳で、2年後の同日には[[高倉健]]が83歳で亡くなっている<ref group="注釈">「[[森繁対談・日曜日のお客様|森繁対談]]」では第1回のゲストが高倉健で、第11回のゲストが森光子である。</ref>。なお、森の本葬時には高倉が弔電でお悔やみを寄せた。
 
 
 
:; 〜 死後明かされた晩年の闘病生活 〜
 
: 2010年(平成22年)2月に『放浪記』の上演中止を発表し、事実上の活動停止に入ってからは、自宅で静養しながらマスコミ取材に応じたり、ジャニーズ関連の公演にも足を運ぶなどしていたが、秋以降は体調を崩し、順天堂大学病院<ref name="zakzak20121119" />へたびたび入退院を繰り返すようになった。また[[嚥下]]機能の低下から食べ物が喉を通らなくなり、2011年(平成23年)からは同院に入院。点滴による栄養補給を続けてきた。2012年(平成24年)2月には[[誤嚥]]性[[肺炎]]を発症し発熱。同年4月には[[胃瘻|胃ろう]][[胃瘻造設術|造設手術]]に踏み切り、経腸栄養剤の投与が続けられたが、衰弱は著しく進んでいた。一時退院ののち、9月に大事をとって再入院、この入院が最後となった。この入院中も体調が良いとスクワットを行い、関係者が見舞うと必ず寝巻からカーディガンとブラウスに着替えるなどの気丈さを見せたというが、結局最期は眠るように息を引き取った<ref name = "nikkansports" />。森自身、復帰への意欲を持ち続けており、枕元には常に『放浪記』の台本が置かれていたという。最期に遺した言葉は、いかにも仕事に生きた森らしく'''「みなさん、一生懸命される仕事を生きてね」'''というものだった<ref>{{Cite web |url=http://jisin.jp/news/2563/5181/|title=森光子さん「一生懸命生きて…」特別病室で残していた遺言|publisher=女性自身 |date=2012-11-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130622044455/http://jisin.jp/news/2563/5181/|archivedate=2013-06-22|accessdate=2013-06-22}}</ref>。なお、活動停止以降のこうした事実については、死後明らかにされた。
 
 
 
森の死去の報を受け、親交の深かった[[王貞治]]、[[米倉斉加年]]、[[浜木綿子]]、[[篠山紀信]]が哀悼コメントを発表した<ref>{{Cite news |title=王さん「歴史に残る名女優」浜木綿子「先日、夢でお会いした」|url=http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2012/11/14/kiji/K20121114004555240.html|newspaper=Sponichi Annex |date=2012-11-14 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121118175444/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2012/11/14/kiji/K20121114004555240.html
 
|archivedate=2012-11-18|accessdate=2013-07-16}}</ref><ref>{{Cite news |title=森光子さん訃報で各界著名人から哀悼コメント|url=http://www.sanspo.com/geino/news/20121114/oth12111420490018-n1.html|newspaper=[[サンケイスポーツ|SANSPO.COM]] |date=2012-11-14 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121117114553/http://www.sanspo.com/geino/news/20121114/oth12111420490018-n1.html
 
|archivedate=2012-11-17|accessdate=2013-07-16}}</ref>。インタビューで篠山は「その生き方は全女優がそうありたいと思う鏡だったのではないか」と発言している<ref>{{Cite news |title=ニュース詳細 / 篠山紀信さん“全女優のかがみ”|url=http://www3.nhk.or.jp/news/html/20121114/k10013491291000.html|newspaper=NHK NEWS web |date=2012-11-14 |archiveurl=http://archive.is/IlVkI |archivedate=2012-11-19|accessdate=2013-04-19}}</ref>。
 
 
 
また、死去が発表された2012年11月14日以降、追悼番組が各局で編成された<ref group="注釈">2012年11月15日『[[徹子の部屋]] 追悼 森光子さん』(テレビ朝日)</ref><ref group="注釈">2012年11月16日『[[金曜プレステージ]] さよなら森光子さん 緊急追悼特別番組』(フジテレビ)</ref><ref group="注釈">2012年11月18日『[[NHKアーカイブス]] 森光子さん追悼〜放浪記と歩んだ女優人生〜』(NHK)</ref><ref group="注釈">2012年11月18日『追悼特別番組 ありがとう……森光子さん』(TBS)</ref>。[[ザ・ドリフターズ]]のメンバーも葬式に駆け付け、「いずれ僕らもそっちに行くかもしれないのでよろしく」とその死を惜しんだ。
 
 
 
2012年11月30日、日本政府は[[閣議]]に於いて森光子の日本演劇界発展への貢献を多として、命日である11月10日付で[[従三位]]を[[贈位|遺贈]]することを決定した<ref>{{Cite news |title=森光子さんに従三位…政府が閣議決定|url=http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2012/12/01/kiji/K20121201004676360.html|newspaper=Sponichi Annex |date=2012-12-01 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121211064243/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2012/12/01/kiji/K20121201004676360.html |archivedate=2012-12-11|accessdate=2013-09-16}}</ref><ref>2012年(平成24年)12月11日付『官報』。</ref>。
 
 
 
=== 没後 ===
 
12月7日に青山葬儀場で開かれた本葬では、2300人が参列した<ref>{{Cite news |title=森光子さん本葬に2300人参列 ジャニーズ勢も多数|url=http://www.oricon.co.jp/news/entertainment/2019456/full/
 
|newspaper=ORICON STYLE |date=2012-12-08 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130101084544/http://www.oricon.co.jp/news/entertainment/2019456/full/ |archivedate=2013-01-01|accessdate=2013-01-06}}</ref>。
 
 
 
戒名は「'''惠光院放譽花雪逗留大姉'''(けいこういん ほうよ かせつ とうりゅう だいし)」。花雪(かせつ)の時節を通して培われた燈火(森自身の事)から放たれる恵みの光が、これからも多くの人の心に留まり続けるものであるという意味が込められている<ref>{{Cite news |title=森光子さん本葬しめやかに 黒柳徹子、近藤真彦ら弔辞|url=http://www.oricon.co.jp/news/entertainment/2019341/full/|newspaper=ORICON STYLE |date=2012-12-07 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130206015204/http://www.oricon.co.jp/news/entertainment/2019341/full/ |archivedate=2013-02-06|accessdate=2013-02-06}}</ref>。
 
 
 
なお、生前の森は無宗教だったが、13歳の時に亡くした母の[[菩提寺]]が京都にあり、上記の院号もこの寺院から受けたものである。[[1989年]]に親友・[[美空ひばり]]を亡くしたショックから翌年、[[茨城県]]に生前墓を購入しているが、故人・遺族の意向で、茨城の墓ではなく、京都の母の菩提寺に納骨された。その後茨城の墓は撤去されている<ref name = "jisin" /><ref>{{Cite news |title=森光子さん 生前に購入した茨城県のお墓が更地になっていた |url=http://www.news-postseven.com/archives/20131114_226857.html |newspaper=NEWS[[週刊ポスト|ポスト]][[女性セブン|セブン]] |date=2013-11-14 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131114005633/http://www.news-postseven.com/archives/20131114_226857.html |archivedate=2013-11-14 |accessdate=2014-05-09 }}</ref>。
 
 
 
[[2014年]][[2月27日]]、フジテレビが開局55周年記念として、森の半生を描いたドラマの製作を発表。森光子役に[[仲間由紀恵]]、菊田一夫役に[[石坂浩二]]、岡本愛彦役には[[藤木直人]]がそれぞれキャスティングされた<ref>{{Cite news |title=仲間由紀恵、森光子の半生をドラマ化「身の引き締まる思い」|url=http://www.oricon.co.jp/news/2034539/full/|newspaper=ORICON STYLE|date=2014-02-27|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140427113849/http://www.oricon.co.jp/news/2034539/full/|archivedate=2014-04-27|accessdate=2014-04-27}}</ref>。作品は大阪の喜劇役者時代(26歳)から、『放浪記』で芸術祭賞を受賞(42歳)するまでを中心に構成されている。後日、正式タイトルは『[[森光子を生きた女〜日本一愛されたお母さんは、日本一寂しい女だった〜]]』となること、森の誕生日である[[5月9日]]に放送される事と、併せて[[5月3日]]には「3時のあなた」などの所蔵映像を中心に構成した特別番組『3時のあなた&#x301C;森光子が蘇る&#x301C;』の放送も発表された<ref>{{Cite web |url=http://www.fujitv.co.jp/fujitv/news/pub_2014/i/140415-i070.html|title=『とれたてフジテレビ』 / 放送は、森光子さんの誕生日5月9日(金)に決定!!『森光子を生きた女 &#x301C;日本一愛されたお母さんは、日本一寂しい女だった&#x301C;』|publisher=フジテレビジョン |date=2014-04-15|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140427113401/http://www.fujitv.co.jp/fujitv/news/pub_2014/i/140415-i070.html|archivedate=2014-04-27|accessdate=2014-04-27}}</ref><ref>{{Cite web |url=http://www.fujitv.co.jp/morimitsuko/index.html |title=森光子を生きた女 &#x301C;日本一愛されたお母さんは、日本一寂しい女だった&#x301C; |publisher=フジテレビジョン |date= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140510115400/http://www.fujitv.co.jp/morimitsuko/index.html |archivedate=2014-05-10 |accessdate=2014-05-10 }}</ref>。
 
 
 
[[5月9日]]、11月に森の三回忌が明けることから、[[2015年]]6月、シアタークリエで『放浪記』に次ぐ森の代表作である『おもろい女』が9年ぶりに[[藤山直美]]主演で復活、1か月間上演されることが発表された。森自身、生前に「肉体的にもっともきつい作品」と話し、[[2006年]]の公演が最後となったが、一方で「いい脚本だから、残してほしい」とかねてから希望していた事もあり、東宝が再演を決めたものである。『おもろい女』は元々NHKで[[1965年]][[9月18日]]に単発ドラマとして放送されたテレビ版<ref>{{Cite web |url=http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-8980 |title=おもろい女 - ドラマ詳細データ |publisher=[[テレビドラマデータベース]] |date= |accessdate=2014-05-10 }}</ref>がオリジナルで、この時の森の相手役([[ミスワカナ・玉松一郎|玉松一郎]]役)こそ藤山直美の父である[[藤山寛美]]であり、この時、直美も中国人孤児役で出演していたなど、浅からぬ因縁がある<ref>{{Cite news |title=森光子さん代表作「おもろい女」、藤山直美で9年ぶり復活 |url=http://www.hochi.co.jp/entertainment/20140508-OHT1T50320.html |newspaper=スポーツ報知 |date=2014-05-09 |archiveurl=http://archive.is/en9Yt |archivedate=2014-05-10 |accessdate=2014-05-10 }}</ref><ref>{{Cite news |title=藤山直美版「おもろい女」森さん遺志継承 |url=http://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp0-20140509-1297969.html |newspaper=nikkansports.com |date=2014-05-09 |archiveurl=http://archive.is/HSIgx |archivedate=2014-05-10 |accessdate=2014-05-10 }}</ref>。
 
 
 
2015年10月には、『放浪記』が仲間由紀恵主演で復活。
 
 
 
2015年、[[一般財団法人]] 森光子芸能文化振興財団が設立され<ref>{{cite web|url=http://www.hochi.co.jp/entertainment/20150415-OHT1T50000.html|title=「森光子の奨励賞」創設!5・7受賞者発表|publisher=[[スポーツ報知]]|date=2015-04-15|accessdate=2015-05-08 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150418081916/http://www.hochi.co.jp/entertainment/20150415-OHT1T50000.html |archivedate=2015-04-18}}</ref>、「森光子の奨励賞」が創設。第1回は、[[中村勘九郎 (6代目)|中村勘九郎]]と[[中村七之助 (2代目)|中村七之助]]が受賞した<ref>{{cite web|url=http://www.oricon.co.jp/news/2052522/full/|title=中村勘九郎・七之助、『森光子の奨励賞』受賞「父と祖父に感謝」|publisher=[[オリコン|ORICON]]|date=2015-05-07|accessdate=2015-05-08}}</ref>。第2回は、[[市村正親]]と[[北島康介]]が受賞した<ref>[http://mainichi.jp/articles/20161111/spn/00m/200/003000c 森光子の奨励賞.市村正親&北島康介氏が受賞 90歳まで現役!?]</ref>。
 
 
 
2016年9月には、『雪まろげ』が[[高畑淳子]]主演で復活<ref>[http://www.nikkansports.com/entertainment/news/1557583.html 高畑淳子が森光子さん代表舞台「雪まろげ」を継承]</ref>。
 
 
 
== 出演 ==
 
=== 舞台 ===
 
* [[がしんたれ]]
 
*:1960年(昭和35年)10月、芸術座
 
*: この舞台で演じた林芙美子役が脇役ながらも高い評価を受け、『放浪記』の主役の芙美子役に抜擢される。
 
 
 
* [[放浪記 (劇作品)|放浪記]]
 
*: 出演回数は2008年12月の中日劇場で1995回、主役を演じた年数45年は日本記録。
 
*: 2009年5月9日の自身の誕生日、東京・帝劇で前人未到の上演2000回を達成。千秋楽時点で2017回。
 
*: 1986年6月[[中日劇場]]公演を控えた森は[[中日新聞]]に「直接、林先生を存じ上げていないんですが周囲の方から、いろいろ伺っています。でも私は私なりの林芙美子像を白紙の状態でつくり上げようとおもっているんです。」1961年[[芸術座]]初演時5時間だったのを現代人の生活リズムに合わせ[[三木のり平]]潤色・演出では3時間30分に短縮。公演中に777回になり森は[[井上孝雄]]や[[奈良岡朋子]]らと大当たりの「スリーセブン」にあやかりパチンコ店に繰り出す。森は「7・7・7」を達成<ref>2018年5月1日中日劇場(中日新聞文化芸能局)発行「中日劇場全記録」</ref>。
 
*: 2004年3月3日1700回カーテンコールで森は「この日をずっと待っておりました。菊田一夫先生のご本があったからこそ、こんなに長く続けられたと思います。我々は、お客様がいらっしゃらなければ、はかない稼業。皆様に1700回を積み重ねていただきました。」とあいさつした。日夏京子役の奈良岡朋子は「1日1日全身全霊を込めて演じる姿に、ただただ頭が下がります。お芙美、1700回おめでとう。」と祝福した<ref>2018年5月1日中日劇場(中日新聞文化芸能局)発行「中日劇場全記録」</ref>。
 
*: 2008年中日劇場プログラムで「かつてプロ野球選手が『記録に残る選手よりも記憶に残る選手になりたい』と言ったそうです。でも記録は、いつか塗り替えられるもの、記憶も、やがて薄れていきます。私は記録と記憶、どちらにも執着しません。一期一会「放浪記」の開幕から閉幕までご観劇の皆様の心の中に林芙美子として存在したいと願うだけです。」<ref>2018年5月1日中日劇場(中日新聞文化芸能局)発行「中日劇場全記録」</ref>。
 
 
 
* [[おもろい女]]
 
*: 1978年初演。[[芦屋雁之助]]とのコンビで、戦前活躍した漫才コンビである[[ミスワカナ・玉松一郎]]を演じる。[[1979年]]には[[芸術祭 (文化庁)|文化庁芸術祭]]大賞を受賞し、『放浪記』と並ぶ森の舞台での代表作となった。なお、2004年4月に雁之助が死去したことから、この年の公演からは[[段田安則]]が新パートナーとなる。
 
*: 上記のとおり、実際の初代ワカナ<ref group="注釈">初代の没後に襲名した二代目ワカナは、森とも親交のあった同い年の[[ミヤコ蝶々]]だった。なお、ミスワカナは4代目までおり、いずれも玉松一郎の相方を務めた。</ref>は戦前に共に慰問に行ったなどのことから森が師と仰いだ女芸人であり、本作でも「若き日の森光子」役の女優が登場し、ワカナ役の森と絡むなどのくすぐりがある。最後となった2006年までの上演回数は通算463回。
 
*: 1979年11月当時東京の[[フジテレビ]]で週2回の生放送[[3時のあなた]]の司会だったのを、名古屋中日劇場は週休二日制の採算度外視で名古屋公演招致を行った。[[ヒロポン]]中毒で亡くなるヒロインを演じたが、森は「私は根っからの注射嫌いだったから、それで(ヒロポン中毒にならずに)助かったんです。」<ref>2018年5月1日中日劇場(中日新聞文化芸能局)発行「中日劇場全記録」</ref>
 
* 雪まろげ
 
*: 森が旧知の作家[[小野田勇]]に「嘘つき女がやってみたい」と話し、書かれたもの。初演は1980年。「北海道編」「山陰編」といった続編も含めた2009年までの通算上演回数は471回にのぼり、「放浪記」「おもろい女」に続く第三の代表作。
 
*: 森がメディア出演の際に時折披露していた、「津軽弁で歌う『[[津軽海峡・冬景色]]』はこの舞台のワンシーンである。
 
 
 
=== 映画 ===
 
* [[台所太平記]](1963年、[[豊田四郎]]監督)
 
* 冷飯とおさんとちゃん(1965年、[[田坂具隆]]監督)
 
* [[大根と人参]] (1965年、[[渋谷実]]監督)
 
* [[氷点#映画版|氷点]](1966年、[[山本薩夫]]監督)
 
* [[悪名|悪名一代]](1967年、[[安田公義]]監督)
 
* [[乱れ雲]]<ref name="prf"/>(1967年、[[成瀬巳喜男]]監督)
 
* [[若者よ挑戦せよ]](1968年、[[千葉泰樹]]監督)
 
* [[コント55号 世紀の大弱点]](1968年、[[和田嘉訓]]監督)
 
* [[喜劇 “夫”売ります!!]](1968年、[[瀬川昌治]]監督)
 
* [[映画女優 (1987年の映画)|映画女優]](1987年、[[市川崑]]監督)
 
* [[川の流れのように (映画)|川の流れのように]](2000年、[[秋元康]]監督)
 
* [[千年の恋 ひかる源氏物語]](2001年、[[堀川とんこう]]監督)
 
 
 
=== テレビドラマ ===
 
* 人間誕生(1955年、[[日本放送協会|NHK]])
 
* かんざし(1955年、NHK)
 
* 街の歌(1956年、NHK)
 
* こわい顔(1956年、NHK)
 
* 晩秋の幸福(1956年、NHK)
 
* コント千一夜(1956年 - 1961年、[[大阪テレビ放送|大阪テレビ]])
 
* 絵本(1956年、NHK)
 
* 父親志願(1957年、NHK)
 
* [[ダイラケのびっくり捕物帖|ダイマル・ラケット、森光子のびっくり捕物帖]](1957年 - 1960年、大阪テレビ)
 
* 小判は寝姿の夢(1957年、大阪テレビ)
 
* 芽(1957年、大阪テレビ)
 
* [[サンヨーテレビ劇場]]([[TBSテレビ|ラジオ東京テレビ]])※民放初出演 
 
** [[しぶちん#山崎豊子短編集|山崎豊子短編集]](1959年)
 
*** 遺留品
 
*** しぶちん
 
*** 持参金
 
*** 船場狂い
 
** 羅生門(1959年)
 
** 雁(1959年)
 
** 夢十夜より(1959年)
 
** 鱧の皮(1959年)
 
** 山を見るな(1959年)
 
** 東京の風(1959年)
 
** 地と虹(1960年)
 
** 女(1960年)
 
** 赤坂ふらんす亭(1960年)
 
* ミステリー 影「疑惑」(1959年、[[MBSテレビ|毎日放送]])
 
* 街のどんぐり(1959年 - 1962年、毎日放送)
 
* [[日曜劇場|東芝日曜劇場]](ラジオ東京テレビ→TBS)
 
** 侍 新撰組物語より(1959年)
 
** 一枚看板(1959年)
 
** 渡り鳥(1961年)
 
** [[或る夜の殿様#テレビドラマ化|ある夜の殿様]](1961年)
 
** 湯葉(1961年)
 
** かげ(1963年)
 
** 足は暖かかった(1963年)
 
** みだれ(1964年)
 
** 三代目(1964年)
 
** いくじなし(1964年)
 
** 結婚という就職(1965年)
 
** 天国の父ちゃんこんにちは(1966年 - 1978年)<ref>{{放送ライブラリー|159749|000527}}</ref>
 
** おたふく物語(1967年)
 
** 私のダイヤモンド(1968年)
 
** 心の足音(1969年)
 
** [[熱い空気#1979年版|松本清張おんなシリーズ・熱い空気]](1979年2月4日) - 河野信子 役
 
** [[女たちの忠臣蔵]](1979年12月9日)ナレーション
 
** 二人だけの結婚式
 
* 女の橋(1960年、[[テレビ朝日|NET]])
 
* 日立劇場「五条木屋町」(1960年、ラジオ東京テレビ)
 
* しゃっくり寛太(1960年、[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]])
 
* そんなとき私は(1960年 - 1961年、ラジオ東京テレビ→TBS)
 
* [[夜の十時劇場]]「東京タワーは笑ってる」(1960年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]])
 
* おかあさんシリーズ(TBS)
 
** がらくた(1961年)
 
** あれち野菊(1961年)
 
** 山のてっぺんの港(1961年)
 
** 青い家(1962年)
 
** 誕生まで(1963年)
 
** ダルマとアゴヒゲ(1964年)
 
* 恋獄(1961年、TBS)
 
* [[若い季節 (テレビドラマ)|若い季節]](1961年 - 1964年、NHK)
 
* 飛田ホテル(1961年、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]])
 
* [[山本周五郎]]アワー「しづやしづ」(1961年、TBS)
 
* 人生の四季(日本テレビ)
 
** 夜の波音(1961年)
 
** 道づれ(1962年)
 
* NECサンデー劇場「嬶天下」(1961年、[[テレビ朝日|NET]])
 
* テレビ指定席(NHK)
 
** 王将(1961年)
 
** たった二人の工場から(1961年)
 
* [[近鉄金曜劇場]]([[ABCテレビ]])
 
** あらくれ(1961年、TBS)
 
** 花の慕情(1962年)
 
** 毒薬(1963年、TBS)
 
** 螢(1963年、TBS)
 
** あっちゃこっちゃ(1964年、TBS)
 
** あやふやを愛す 36才の純情(1964年、TBS)
 
** おばさまと娘たち(1965年)
 
** 月夜の傘(1965年)
 
* [[新選組始末記]](1961年、TBS)
 
* [[半七捕物帳]](1961年 - 1962年、日本テレビ)
 
* 文芸劇場「下町」(1962年、NHK)
 
* [[女シリーズ]]「虚飾の森」(1962年、毎日放送)
 
* [[夫婦百景 (テレビドラマ)|夫婦百景]](日本テレビ)
 
** 教養あるおかあちゃん(1962年)
 
** 置き手紙(1963年)
 
** 番頭夫婦(1964年)
 
** 酔いどれ女房(1966年)
 
* 大番(1962年 - 1963年、フジテレビ)
 
* [[おはなはん#ドラマ『おはなはん一代記』|おはなはん一代記]](1962年、NHK)
 
* 花は桜子(1963年、TBS)
 
* テレビ劇場(NHK)
 
** 砂の上(1963年)
 
** 五年目の春(1964年)
 
* 30分劇場「五月を待つ女」(1964年、日本テレビ)
 
* NHK劇場(NHK)
 
** モルガンお雪(1964年)
 
** ふるさとの甘い風<ref>[http://cgi2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009040082_00000 NHK劇場 ふるさとの甘い風 - NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス]</ref>(1964年)
 
** ソクラテスの妻(1966年)
 
* [[日産スター劇場]](日本テレビ)
 
** あなたはタバコがやめられる(1964年)
 
** 幸せが来た(1964年、読売テレビ)
 
** おせっかいさんの婿選び(1965年)
 
** 花嫁候補がやってきた(1966年)
 
** 教養あるおかあちゃん(1966年)
 
** お妾さんのいる社宅(1967年)
 
** かあちゃんは本日休業(1967年)
 
** 私は妻です(1967年)
 
** 姉妹の春(1968年)
 
** 十年目の再会(1968年)
 
** 危うし妻の座(1968年)
 
** たこたこあがれ(1969年)
 
* [[ポーラ名作劇場]](NET)
 
** 女のいくさ(1964年)
 
** いのちある日を(1965年 - 1966年)
 
* 徳川家康(1964年 - 1965年、NET)
 
* 新たなり(1965年、NHK)
 
* [[木下恵介アワー|木下恵介劇場]]「お好み焼きてんまつ記」(1965年、TBS)
 
* [[のれん太平記]](1965年 - 1966年、フジテレビ)
 
* 沙羅の門(1965年、[[関西テレビ放送|関西テレビ]])
 
* おもろい女(1965年、NHK)
 
* ああ! 夫婦 第2話「情けないやらくやしいやら」(1965年、TBS)
 
* 草暦(1965年、NHK)
 
* [[シオノギテレビ劇場]](フジテレビ)
 
** 人情話文七元結(1965年)
 
** 巷談本牧亭(1966年)
 
** しぐれ人形(1966年)
 
* うちらの青春(1966年、読売テレビ)
 
* にっぽん道中記「おでん・かん酒物語」(1966年、関西テレビ)
 
* [[おてんとさまどんと来い!]](1966年、フジテレビ)
 
* [[ナショナル劇場]]「青春怪談」(1966年、TBS)
 
* [[のれん繁昌記]](1966年、フジテレビ)
 
* [[新選組血風録 (テレビドラマ)|新選組血風録]] 第26話「燃える生命」(1966年、NET)
 
* [[大河ドラマ]](NHK)
 
** [[竜馬がゆく (NHK大河ドラマ)|竜馬がゆく]](1968年) - [[お登勢]] 役
 
** [[琉球の風 (NHK大河ドラマ)|琉球の風]](1993年) イソバ 役
 
* [[フジテレビ月曜8時枠の連続ドラマ#第2期|スター推理劇場]](フジテレビ)
 
** 不運な旅館(1968年)
 
** [[一年半待て#1968年版|一年半待て]](1968年) - 須村さと子 役
 
* [[道頓堀 (テレビドラマ)|道頓堀]](1968年、読売テレビ)
 
* [[大奥 (1968年のテレビドラマ)|大奥]](1968年、関西テレビ) - 浦路 役
 
* [[夜のグランド劇場]]「恋しかるらん」(1968年、日本テレビ)
 
* 娘すし屋繁盛記(1969年、TBS)
 
* もうれつ大家族(1969年、フジテレビ)
 
* [[おんなの劇場]]「[[出雲の女]]」(1969年、フジテレビ) - 明石はる 役
 
* [[関西テレビ制作・火曜夜10時枠の連続ドラマ|火曜劇場]]「[[ごちそうさん (1969年のテレビドラマ)|ごちそうさん]]」(1969年、関西テレビ) - 立花令子 役
 
* [[時間ですよ|時間ですよシリーズ]](TBS)
 
** 時間ですよ(1970年 - 1973年)
 
** 時間ですよ昭和元年(1974年10月 - 1975年4月)
 
** 時間ですよふたたび(1987年6月 - 8月)
 
** 時間ですよたびたび(1988年7月 - 10月)
 
** 時間ですよ平成元年(1989年10月 - 12月)
 
* [[おさな妻]](1970年、[[テレビ東京|東京12チャンネル]])
 
* [[男は度胸]](1970年、NHK)
 
* 2丁目3番地(1971年、日本テレビ)
 
* [[徳川おんな絵巻 (テレビドラマ)|徳川おんな絵巻]](1971年、関西テレビ)
 
* [[銀座わが町]](1973年4月 - 1974年3月、NHK)
 
* [[さよなら・今日は]](1973年10月 - 1974年3月、日本テレビ)
 
* [[花吹雪はしご一家]](1975年 - 1976年、TBS)
 
* [[せい子宙太郎‐忍宿借夫婦巷談]](1978年、TBS)
 
* [[敵か?味方か?3対3]](1978年、テレビ朝日)
 
* [[お昼のテレビ小説]]「浪花おこし」(1978年、フジテレビ) - ナレーター
 
* [[熱愛一家・LOVE]](1979年2月14日 - 1979年8月8日 TBS) 石本千代 役
 
* [[なぜか初恋・南風]](1980年2月13日 - 1980年7月16日 TBS)
 
* [[和宮様御留#テレビドラマ1981年版|和宮様御留]](1981年、フジテレビ) [[橋本経子|観行院]] 役
 
* [[春よ来い (テレビドラマ)|春よ、来い]](1982年、日本テレビ)
 
* [[田中丸家御一同様]](1982年、日本テレビ) 田中丸せつ 役
 
* [[おんなは一生懸命]](1987年 - 1988年、TBS)
 
* [[火曜サスペンス劇場]]「[[スキャンダル]]」(1988年1月5日、日本テレビ)
 
* [[水曜グランドロマン]]「[[女たちの百万石]]」(1988年10月12日・19日、日本テレビ)
 
* 黄昏の赫いきらめき(1989年、NHK)<ref>{{放送ライブラリー|123921|004063}}</ref>
 
* [[源義経 (1990年のテレビドラマ)|源義経]](1990年、TBS)
 
* [[渡る世間は鬼ばかり]](1990年 - 2008年、TBS) 森山珠子 役※ドラマ作品の遺作(第9シリーズ)
 
* [[なんだらまんだら]](1991年、フジテレビ)
 
* [[源氏物語 上の巻・下の巻]](1991年、TBS)
 
* [[D坂の殺人事件#テレビドラマ|D坂殺人事件 名探偵明智小五郎誕生 名探偵明智が挑む猟奇殺人の謎!!闇に浮かぶ白い肌…]](1992年、フジテレビ)
 
* [[月曜ドラマスペシャル]]「かあさんはドンシリーズ」(1992年-1993年、TBS)
 
* [[華岡青洲の妻]](1992年、フジテレビ)
 
* [[お玉・幸造夫婦です]](1994年、読売テレビ)
 
* [[スペシャルドラマ]]「[[誰かが誰かに恋してる]]」(1996年3月29日、TBS) 鈴木芳江 役
 
* 必要のない人(1998年、NHK)
 
* [[水戸黄門 (パナソニック ドラマシアター)|水戸黄門]](TBS)
 
** [[水戸黄門 第31部|第31部]] 第21話「黄門様と七化けのお京 -広島-」(2003年3月17日) お京 役([[特別出演]])
 
** 1000回記念スペシャル(2003年12月15日) 狩野山月 役(特別出演)
 
* [[ハルとナツ 届かなかった手紙]](2005年、NHK)
 
* [[拝啓、父上様]] 第3話(2007年1月25日、フジテレビ)(特別出演)
 
* [[寧々〜おんな太閤記]](2009年1月2日、テレビ東京) 語り
 
 
 
=== 劇場アニメ ===
 
* [[もののけ姫]](1997年、[[宮崎駿]]監督) - ひい様 役<ref>{{Cite web | url = http://www.ntv.co.jp/kinro/lineup/20110701/index.html| title = もののけ姫| publisher = 金曜ロードSHOW!| accessdate = 2016-06-18}}</ref>
 
 
 
=== 吹き替え ===
 
* [[ジェシカおばさんの事件簿]](1988年、NHK) - ジェシカ・フレッチャー:[[アンジェラ・ランズベリー]]
 
* [[ブラザー・ベア]](2004年、[[ブエナ・ビスタ・ピクチャーズ]]) - タナナ
 
 
 
=== ラジオ ===
 
* ラジオドラマ『エンタツの迷探偵』(1952年、NHKラジオ大阪) 
 
* ラジオドラマ『ダム』(1961年、ニッポン放送) - 第16回[[芸術祭 (文化庁)|芸術祭]]奨励賞<ref>{{放送ライブラリー|132869|R00058}}</ref>
 
* ラジオドラマ『綱大夫四季』(1975年、NHK) - 第30回芸術祭ドラマ部門優秀賞<ref>{{放送ライブラリー|133516|R00713}}</ref>
 
* ラジオドラマ『松鶴恋歌』(1987年、MBS) - 第35回[[日本民間放送連盟賞]]娯楽番組部門最優秀賞、[[放送文化基金賞#第14回(1987年度)|第14回放送文化基金賞]]本賞<ref>{{放送ライブラリー|133217|R00408}}</ref>
 
* 第14回[[ラジオチャリティミュージックソン]](1988年12月、ニッポン放送) - パーソナリティー(生放送)
 
* [[オールナイトニッポン]](2009年1月2日、ニッポン放送) - パーソナリティー
 
*: 2008年12月28日収録、ゲストは[[笑福亭鶴瓶]]。オールナイトニッポンパーソナリティー最年長記録(88歳)
 
 
 
=== 歌番組 ===
 
* [[NHK紅白歌合戦]](NHK)
 
* 1962年・1978年・1984年:紅組司会
 
* 1969年・1976年・1989年:応援ゲスト
 
* 1961年・1981年・1986年・1992年・1994年・2004年・2005年・2009年:審査員
 
* [[日本レコード大賞|輝く!日本レコード大賞]](1972年 - 1976年、TBS) - 司会<ref group="注釈">司会5回は女性の最多記録である。</ref>
 
* [[思い出のメロディー]](1976年 - 1978年・1983年、NHK)司会<ref group="注釈">司会4回は[[松坂慶子]]に抜かれるまで女性の最多司会だった。また、3年連続司会を経験した女性は森のみ。</ref>兼歌手、(2008年) - 歌手
 
 
 
=== バラエティ ===
 
* [[3時のあなた]](1974年4月 - 1988年4月、フジテレビ) - 司会
 
* [[ドリフと女優の爆笑劇場]](テレビ朝日)
 
* [[加トちゃんケンちゃん光子ちゃん]] (フジテレビ)
 
* [[ギミア・ぶれいく]](TBS)
 
* [[勘三郎が泣いた!勘太郎挙式&感動秘話〜さよなら歌舞伎座SP]](フジテレビ) - 語り
 
* [[ドリフ大爆笑]](フジテレビ) - 一時期準レギュラー
 
* [[ためしてガッテン]](NHK) - 一時期準レギュラー、第1回放送のゲストでもあり、2001年12月までは数か月に1回ペースで出演
 
* [[徹子の部屋]](テレビ朝日) - 司会の黒柳徹子とはテレビ創世記からの大親友であり、顕著に出演
 
* [[さんまのまんま]](関西テレビ) - レギュラーではないが、生前最後のバラエティ番組ゲスト出演となった(2009年10月)
 
 
 
=== CM ===
 
* [[竹屋 (味噌製造)|タケヤ味噌]] ※[[1968年]]以来、一時中断を経て40年間CMキャラクターを務めて「'''ひと味ちがいます'''」のコピーを生んだ
 
* [[リクルート]]『[[とらばーゆ]]』
 
* [[日本道路公団]]
 
* [[アース製薬]]
 
* 京都呉服
 
* [http://www.shugetsu.co.jp/ 人形の秀月]
 
* [[日本赤十字社]]
 
* [[全日本空輸|全日空]]
 
* [[キリンビバレッジ]]『[[午後の紅茶]]』
 
* 『いきいき』(シニア層向け生活雑誌)
 
 
 
== 役職 ==
 
* [[日本喜劇人協会]]第6代会長
 
* [[日本俳優連合]]名誉副会長
 
 
 
== 著書 ==
 
* 『女優 森光子 大正・昭和・平成 -八十八年 激動の軌跡-』([[集英社]]、2009年1月26日)ISBN 9784087813883
 
*: 森本人の語り下ろしによりその半生を振り返る自伝。[[ビートたけし]]、[[王貞治]]ら親交の深い著名人31人からのメッセージ、対談。『放浪記』舞台とその裏側の写真([[篠山紀信]]撮影)、事務所秘蔵の戦前・戦中の森の写真により構成。
 
 
 
* 『人生はロングラン - 私の履歴書』([[日本経済新聞出版社]]、2009年4月)ISBN 9784532166922
 
*: [[2007年]]12月、[[日本経済新聞]]紙上に連載された『私の履歴書 - 森光子』に大幅加筆の上、1冊にまとめられたもの。
 
 
 
* 『女優・半世紀の挑戦 あきらめなかった いつだって』([[PHP研究所]]、2011年5月21日)ISBN 9784569781471
 
*: [[2008年]][[9月18日]]、[[NHKデジタル衛星ハイビジョン|NHK-BShi]]で放送された『100年インタビュー 森光子』を単行本化したもの。
 
 
 
== 作品 ==
 
=== シングル ===
 
* 東京下町あたり(1973年4月21日、AMON-1028)
 
*: 作詞:[[阿久悠]]/作曲:[[山下毅雄]]
 
*: [[TBSテレビ|TBS]]系「[[時間ですよ]]」主題歌
 
* 湯の町放浪記(1979年4月5日、SV-6566)
 
*: 作詞:阿久悠/作曲:[[市川昭介]]
 
*: TBS系「[[熱愛一家・LOVE]]」挿入歌
 
* 花のいのちは短くて(8cm)(1992年6月3日、VIDL-10243)
 
*: 作詞:山添花秋/作曲:市川昭介
 
* カーテンコール(8cm)(1995年11月1日、PCDA-00800)
 
*: 作詞:[[秋元康]]/作曲:[[筒美京平]]
 
*: [[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系「[[いつみても波瀾万丈]]」エンディングテーマ
 
*: [[フジテレビジョン|フジテレビ]]開局55周年スペシャルドラマ「[[森光子を生きた女〜日本一愛されたお母さんは、日本一寂しい女だった〜]]」主題歌
 
* 月夜のタンゴ(2005年10月5日、JECN-0075)
 
*: 作詞:[[竹内まりや]]/作曲:[[山下達郎]]
 
*: 舞台「ツキコの月 そして、タンゴ」主題歌
 
*: [[オリコンチャート|オリコンシングルチャート]]45位、[[COUNT DOWN TV|CDTVシングルランキング]]44位。
 
* 人生革命(2010年1月6日、PCCA-90004)
 
*: 作詞:森光子/作曲:[[馬飼野康二|MARK DAVIS]]
 
*: オリコンシングルチャート70位、CDTVシングルランキング51位、有線演歌チャート1位(1月27日付に1位獲得史上最高齢記録となった)
 
*: c/w 人生半ばです([[ジャニーズ事務所|ジャニーズ]]とのコラボレーション作品、作詞:[[錦織一清]]([[少年隊]])、コーラス:[[滝沢秀明]]、[[Kis-My-Ft2]])
 
 
 
=== アルバム ===
 
* Mitsuko Mori
 
** PCCA-00792(1995年9月1日、4枚組) - 3枚目と4枚目は、1枚目と2枚目のカラオケ盤
 
** PCCA-00793(1995年10月4日、2枚組) - カラオケ盤がない
 
** PCCA-03031(2010年1月6日、2枚組) - 再発売
 
* 森光子のふるさとの歌をたずねて (民謡12曲の歌とナレーション)
 
** TECE-3144 (2012年12月28日)- 1972年発売LP(CF-12)からCD復刻発売
 
* 歌と想い出  (懐メロ14曲の歌とナレーション)                               
 
** TECE-3145 (2012年12月28日)- 1972年発売LP(CF-18)からCD復刻発売
 
 
 
== 「森光子」を演じた女優 ==
 
* [[仲間由紀恵]] - 『森光子を生きた女 &#x301C;日本一愛されたお母さんは、日本一寂しい女だった&#x301C;』、2014年5月9日放送、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]
 
 
 
== 森光子一座記念館 ==
 
[[2013年]][[4月27日]]、[[石川県]][[加賀市]][[山中温泉]]の旧・[[金沢信用金庫|金沢信金]]山中支店跡に『森光子一座記念館』が開館(開業期間は2年間)。森は以前から山中温泉との縁があり、1972年にはドラマ『時間ですよ』のロケで当地を訪れており、商工会との親交があった。また、2000年頃「山中節は民謡の中で一番好き」とラジオ番組で語ったのを旧[[山中町]][[町長]]・田中實が偶然耳にして感動し、森に熱心に要請したことがきっかけで『[https://web.archive.org/web/20101023011135/http://www.kagashi-ss.co.jp/yamanakaza/ 山中節と温泉の館 山中座]』<ref>{{Cite web |url=http://yamanakaza.exblog.jp/ |title=平成二十六年新春山中座舞台開き 舞初め鑑賞会開催  |publisher=山中座 山中節と温泉の館 |date=2013-12-06 |accessdate=2014-05-10 }}</ref>の[[名誉座長]]に就任している。[[2009年]]5月、既に記念館の構想が提案され、2015年に創業800年の老舗旅館「[http://yoshinoyairokuen.jp/ よしのや依緑園]」の日本家屋に建設する話がまとまっていたが、森の死去により前倒しで開館となったものである<ref>{{Cite news |title=お宝展示品多数!「森光子一座」記念館オープンへ|url=http://www.sanspo.com/geino/news/20130421/oth13042105050007-n1.html|newspaper=SANSPO.COM |date=2013-04-21 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130502062609/http://www.sanspo.com/geino/news/20130421/oth13042105050007-n1.html |archivedate=2013-05-02|accessdate=2013-09-16}} および 読売新聞2013年4月28日13S版2面</ref>。[[2013年]][[6月5日]]には来場者数が1万1111人を達成。またこの日、記念館の「名誉監修」として石井ふく子が就任する事が発表された<ref>{{Cite news |title=森光子さん記念館の来場者、1万1111人突破|url=http://www.sanspo.com/geino/news/20130606/oth13060605050012-n1.html|newspaper=SANSPO.COM |date=2013-06-06 |archiveurl=http://archive.is/uZegn |archivedate=2013-07-07|accessdate=2013-07-16}}</ref>。
 
 
 
しかし、遺品について展示に協力してきた東宝との借用期間が過ぎ、県道の拡幅工事により入居建物についても移転が必要なため、2015年の年内をもって休館することとなった<ref name="H20151111101">{{Cite news|url=http://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20151111101.htm|title=森光子記念館休館へ 山中温泉、遺品借用期間が満了|newspaper =[[北国新聞]]|date=2015-11-11|accessdate=2015-11-12 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20151114003601/http://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20151111101.htm |archivedate=2015-11-14}}</ref>。山中温泉で再開する計画があるが具体的な移転先は決まっていない<ref name="H20151111101" />。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
 
 
=== 注釈 ===
 
{{Reflist|group="注釈"|2}}
 
 
 
=== 出典 ===
 
{{Reflist|2}}
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* {{JMDb name|0197800}}
 
* {{allcinema name|253110}}
 
* {{kinejun name|94293}}
 
* {{imdb name|id=0605281|name=Mitsuko Mori}}
 
* [http://movie.walkerplus.com/person/88964/ 森光子 - Movie Walker]
 
* {{URL |www.tvdrama-db.com/name/p/key-%E6%A3%AE%E3%80%80%E3%80%80%E5%85%89%E5%AD%90 |森光子 - テレビドラマ人名録 - ◇テレビドラマデータベース◇ }}
 
* {{Cite web |url=http://www.morimitukoichiza.com/|title=加賀山中温泉 / 森光子一座記念館 / Home|publisher=森光子一座記念館|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130622030746/http://www.morimitukoichiza.com/|archivedate=2013-06-22|accessdate=2014-02-18}}
 
* {{cite web|url=http://www.jiji.com/jc/d4?p=act001&d=d4_ent|accessdate=2016-10-24|title=森光子 1920年生まれ。主人公の林芙美子を演じた…:日本の大女優 写真特集|publisher=[[時事ドットコム]]}}
 
 
 
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森 光子(もり みつこ、1920年大正9年)5月9日 - 2012年平成24年)11月10日[1]

昭和-平成時代の女優。

大正9年5月9日生まれ。伯父の嵐寛寿郎の映画に子役で出演。昭和33年菊田一夫にみいだされ上京,舞台「花のれん」に出演,36年「放浪記」の林芙美子役でスターとなる。その後舞台「おもろい女」がヒット,映画「台所太平記」やテレビドラマ「時間ですよ」など幅ひろく活躍。NHK紅白歌合戦紅組司会も3回つとめた。平成10年文化功労者。17年朝日舞台芸術賞特別賞。同年文化勲章。21年「放浪記」上演回数2000回を達成。同年国民栄誉賞。平成24年11月10日死去。92歳。京都府出身。本名は村上美津。



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