栗栖赳夫

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ファイル:Kurusu Takeo.JPG
1948年、昭電疑獄を受けて検察庁へ引致される栗栖(眼鏡の人物)

栗栖 赳夫(くるす たけお、1895年7月21日[1]1966年5月10日)は、昭和期の政治家・銀行家。大蔵大臣経済安定本部総務長官。

来歴・人物

現在の山口県岩国市に生まれる。六高を経て、1921年東京帝国大学法学部を卒業後、日本興業銀行に入行する。学究肌で、1934年に著書『担保付社債信託法の研究』で法学博士号を授与されている。証券部長、総務部長などを経て、戦後の1945年に理事に昇格、1947年には総裁まで昇りつめた。一方1946年には貴族院議員に勅選されている。

1947年4月、第1回参議院議員通常選挙に立候補し当選、緑風会に所属する。同年日本社会党民主党国民協同党の三党連立片山内閣が発足するも、蔵相の矢野庄太郎が就任後半月で病気辞任し、民主党総裁の芦田均の要請により後任として蔵相に就任した。その後民主党に入党し、翌1948年芦田内閣が発足すると、栗栖は経済安定本部総務長官として続けて入閣した。

同年に昭和電工疑獄が発覚し、蔵相時代に復興金融公庫融資委員長として昭和電工から現金を受け取った疑いで9月30日に現役閣僚ながら逮捕される[2]。現役閣僚の訴追には日本国憲法第75条で首相の同意が必要であるが、東京地裁は「訴追は、逮捕・勾留とは関係ない」との判断を下して、栗栖に逮捕令状を交付している。10月2日、辞任した。

1953年参院選に落選、1962年11月、最高裁で栗栖に懲役8ヶ月、執行猶予1年の刑が確定された。晩年は破産状態だったと伝えられている。1966年5月10日死去した。享年71。

事務官として大蔵省に入省した三島由紀夫は文章力を期待された、国民貯蓄振興大会での栗栖の演説原稿を書く仕事を任された。

脚注

  1. 栗栖赳夫コトバンク
  2. 毎日新聞1948年09月30日


公職
先代:
和田博雄
日本の旗 経済安定本部総務長官
第5代:1948年
次代:
泉山三六
先代:
矢野庄太郎
日本の旗 大蔵大臣
第52代:1947年 - 1948年
次代:
北村徳太郎


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